松平定行(まつだいら さだゆき、1587-1668)は、江戸時代前期の大名であり、伊予松山藩十五万石の初代藩主である。彼の名は、現代においては愛媛銘菓「タルト」を松山に伝えた文化人として、あるいは道後温泉を整備した領主として記憶されることが多い 1 。しかし、その歴史的本質は、単なる一地方大名に留まるものではない。定行の生涯を深く考察すると、三代将軍・徳川家光が推し進めた幕藩体制の確立期において、西国の有力外様大名を監視・牽制する「鎮台」という、極めて重要な国家的役割を担った人物像が浮かび上がってくる 3 。
彼の伊予松山への転封は、個人の功績に対する褒賞という側面以上に、徳川幕府の全国支配網を盤石にするための地政学的戦略の一環であった 6 。本報告書は、松平定行の出自から、藩主としてのキャリア、そして伊予松山藩で成し遂げた藩政の数々を詳細に追跡する。さらに、彼の行動の背景にある幕府の政策や当時の社会情勢を分析し、彼が果たした軍事的・政治的・文化的な役割を多角的に解明する。これにより、「タルトを伝えた殿様」という一面的なイメージを超え、徳川の天下泰平を地方から支えた有能な政治家・経営者としての松平定行の実像に迫ることを目的とする。
松平定行の生涯を理解する上で、その出自である久松松平家(ひさまつまつだいらけ)の特殊性を抜きにして語ることはできない。この家系は、徳川家康の生母・於大の方(おだいのかた)が、夫・松平広忠との離縁後、尾張の武将・久松俊勝(ひさまつとしかつ)に再嫁したことに端を発する 8 。この婚姻により、俊勝と於大の方の間に生まれた男子たちは、家康にとって異父弟という極めて近しい血縁関係となった。
家康は天下統一を進める過程で、この異父弟たちを重用した。桶狭間の戦いの後、三河で母と再会した家康は、異父弟である康元、勝俊、そして定行の父となる定勝の三人に、松平の姓と徳川家の象徴である葵の紋を与え、徳川一門に準ずる「御家門(ごかもん)」という特別な家格を認めたのである 2 。
この事実は、久松松平家が徳川の直系男系ではないものの、家康の母という最も強い情愛と信頼で結ばれた血縁を共有する存在であったことを示している。家康が血縁と婚姻を巧みに利用して権力基盤を固めた政治手腕の一例であり、この「御家門」という出自こそが、定行の生涯にわたる幕府からの信頼と厚遇の源泉となった。この特別な地位が、後に彼が四国で最初の親藩大名として抜擢される直接的な要因となるのである。
定行の父、松平定勝(さだかつ)は、家康の異父弟という立場を背景に、武将として目覚ましい活躍を見せた人物であった。長篠の戦いや天目山の戦いに従軍し、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは蟹江城合戦で二番乗りの武功を挙げるなど、家康の覇業を支えた 8 。その武勇と家康との近しい関係から、戦後には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が定勝を養子に迎えたいと家康に要求したほどであった。しかし、母・於大の方が末子である定勝を手元から離すことを強く拒んだため、この話は立ち消えとなり、代わりに家康の次男・於義丸(後の結城秀康)が秀吉の養子となった 8 。
定勝はその後も順調にキャリアを重ね、下総国小南3000石から伊勢長島、遠江掛川へと所領を増やし、最終的には伊勢桑名11万石の大名にまで累進した 8 。慶長12年(1607年)には伏見城代に就任し、家康の死後は甥である二代将軍・秀忠から篤く敬われ、左近衛権少将に任ぜられて「桑名少将殿」と称されるに至った 8 。
松平定行は、このような輝かしい経歴を持つ父・定勝の次男として、天正15年(1587年)に三河国宝飯郡西郡で生を受けた 1 。徳川家との特別な繋がりと、武功によって信頼を勝ち得ていく父の背中を見て育ったことは、定行の人格形成と後の藩主としての行動規範に大きな影響を与えたと考えられる。
定行が歴史の表舞台に登場するのは、慶長12年(1607年)のことである。この年、彼は父・定勝から遠江掛川3万石の領地を譲られ、21歳の若さで大名となった 5 。父が存命中に家督とは別に領地を与えられ、嫡子の身分のまま大名となるのは異例の待遇であり、久松松平家に対する幕府の期待の高さが窺える。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、父・定勝と共に伏見城の警備という要務を果たし、徳川方としての忠誠を示した 5 。元和3年(1617年)、父・定勝が伊勢桑名11万石へ加増転封となると、定行は掛川の領地を幕府に返上し、父の世子として桑名へ移った 5 。
そして寛永元年(1624年)、父・定勝が没すると、定行は家督を相続し、桑名藩11万石の藩主となった 11 。藩主就任後、彼は早速采配を振るい、弟の定房に7000石を分与している 12 。さらに、寛永11年(1634年)には三代将軍・徳川家光の上洛に際して桑名から供奉し、その道中で侍従に叙任される栄誉を得た 5 。これらの経歴は、定行が単なる親族としてではなく、幕府の信頼篤い大名として着実にその地位を固めていった過程を示している。
松平定行が伊予松山藩主となった寛永12年(1635年)は、徳川幕府の支配体制が確立される上で極めて重要な時期であった。三代将軍・徳川家光の治世は、祖父・家康、父・秀忠が築いた「武断政治」の総仕上げと位置づけられる。家光は、将軍の権威を絶対的なものとするため、矢継ぎ早に諸大名への統制策を打ち出した 7 。
その代表的なものが、武家諸法度の改訂による参勤交代の制度化である 14 。これにより、大名は一年おきに江戸と自領を往復することが義務付けられ、莫大な経済的負担を強いられると共に、正室と世子は人質として江戸に常住させられた。これは大名の力を削ぎ、謀反の芽を摘むための強力な手段であった 7 。
同時に、幕府は些細な理由を元に有力大名の改易(領地没収)や転封(国替え)を頻繁に断行した 16 。転封は、大名が特定の土地に長く根を張り、在地勢力と結びつくことを防ぐための統制策であり、幕府の意のままに大名を配置転換できることを天下に示す効果があった。特に、江戸や京都、大坂といった政治・経済の中心地や、交通の要衝、そして外様大名の多い西国などの戦略的に重要な地域には、徳川家の親族である親藩や、関ヶ原以前からの家臣である譜代大名を配置する「藩屏(はんぺい)政策」が徹底された 7 。定行の伊予松山への転封も、まさにこの文脈の中で理解されなければならない。
寛永12年(1635年)7月、松平定行は幕府から伊勢桑名11万石から伊予松山15万石への加増転封を命じられた 13 。これは、四国における史上初の親藩大名の配置であり、幕府の西国経営における画期的な出来事であった 3 。この人事は、単なる一個人の栄転ではなく、家光政権による対外様大名戦略の要となる「楔」を打ち込むための、極めて意図的なものであった。
当時の伊予国は、地政学的に非常に重要な位置にあった。南には土佐の山内氏、海を隔てた西には九州の島津氏、北には中国地方の毛利氏という、いずれも関ヶ原の戦いでは徳川と敵対する可能性のあった、西軍系の有力外様大名に囲まれていた 21 。幕府が最も警戒したのは、これらの外様大名が連携して反旗を翻すことであった。
この戦略的要衝に、将軍家と強い血縁関係にある「御家門」の定行を配置することにより、幕府は複数の目的を果たそうとした。第一に、松山を軍事的な監視拠点とし、有事の際には西国大名の動きを封じ込める役割を期待した。第二に、将軍の代理人ともいえる親藩大名を置くことで、周辺の外様大名に常に幕府の権威を意識させ、心理的な圧力をかける狙いがあった 4 。定行の存在そのものが、西国における幕府の威光を体現するものであり、彼のその後の藩政は、常にこの「西国の鎮台」としての役割を意識したものとならざるを得なかったのである。
定行が入封する以前の伊予松山藩は、二つの外様大名家によって治められていた。初代藩主は、豊臣秀吉配下の猛将として知られ、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられた加藤嘉明(かとう よしあきら)である 24 。嘉明は関ヶ原の戦いの功績で伊予20万石を与えられ、慶長7年(1602年)から松山城の築城と城下町の建設に着手し、今日の松山市の原型を築いた 2 。しかし、城の完成を見ることなく、寛永4年(1627年)に会津40万石へと加増転封された 26 。
嘉明の後を継いだのは、会津の名門・蒲生氏郷(がもう うじさと)の孫にあたる蒲生忠知(がもう ただとも)であった 27 。忠知は、兄・忠郷の急死により、会津60万石から伊予松山24万石へと大幅に減封されての入封であった 27 。彼は加藤嘉明が残した事業を引き継ぎ、松山城の二之丸を完成させるなどの治績を残した 27 。しかし、その治世はわずか7年で終わりを告げる。寛永11年(1634年)、忠知は参勤交代の途上で嗣子なく急死し、名門蒲生家は断絶した 20 。
この蒲生家の突然の断絶は、幕府にとって西国支配の構図を再編する絶好の機会となった。外様大名による統治が途絶えたことで、幕府は伊予松山藩の処遇に介入する正当性を得た。そして、かねてからの懸案であった親藩大名の戦略的配置を、この機を逃さず実行に移したのである。松平定行の伊予入封は、このような前任者たちの歴史と、幕府の迅速な政治判断が交差する点に成立した、必然的な出来事であったと言えよう。
伊予松山十五万石の藩主となった松平定行は、幕府から与えられた「西国の鎮台」という重責を果たすべく、藩の基盤固めに精力的に取り組んだ。その藩政は、インフラ整備、殖産興業、そして幕府への忠実な奉公という三つの柱によって特徴づけられる。
定行の藩政においてまず目立つのは、領内の主要なインフラを体系的に整備したことである。
松山城の改築
初代藩主・加藤嘉明が築いた松山城の天守は、壮麗な五層構造であった。しかし定行は、寛永16年(1639年)からこの天守を三層に改築する大工事に着手した 13。公式な理由としては、創建から年月が経ち、谷を埋め立てた本壇の地盤が五層の重量に耐えられない危険性が指摘されていた 31。しかし、この改築には、幕府への恭順の意を示すという高度な政治的配慮があったと推察される 30。当時、幕府は武家諸法度で城郭の無断修築を厳しく禁じており、華美な城郭は幕府への潜在的な反意と見なされかねなかった。あえて天守を簡素化することで、幕府への忠誠を形として示した定行の行動は、彼の優れた政治感覚を物語る逸話である。
道後温泉の大改修
定行は、古代より知られる道後温泉の大規模な改修にも着手した。寛永15年(1638年)、浴場の周囲に垣根を設け、石畳を整備すると共に、浴槽を身分に応じて厳格に分離した 31。武士や僧侶のための「一之湯」、女性専用の「二之湯」、庶民男性のための「三之湯」を設け、さらに旅行者向けの湯や、果ては馬を洗うための「馬湯」まで設置した記録が残っている 31。これは単なる公共事業に留まらず、江戸時代の厳格な身分制度を温泉施設という具体的な形で具現化するものであった。領民に安らぎの場を提供しつつ、社会秩序を維持するという、統治者としての巧みな意図が読み取れる。
城下町の視察と整備
入封直後、定行は自ら馬に乗り城下を巡見し、武家屋敷の多くが杉皮葺きや藁葺きであることや、領民の質素な服装などを詳細に記録している 31。領内の実情を正確に把握しようとする姿勢は、その後の的確な藩政運営の基礎となった。また、港町である三津と城下を結ぶ重要な交通路「三津縄手」に松や杉を植樹し、往来する人々に利便性を与えるなど、領民の生活向上にも細やかな配慮を示している 31。
定行は、松山の地理的特性と気候を活かし、藩の経済基盤を強化するための多角的な殖産興業政策を展開した。その手法は、単なる年貢増収策に留まらず、長期的な視点に立った持続可能な産業の育成を目指すものであった。
彼は、山間部である浮穴郡久万山地域が茶の栽培に適していることに着目し、先進地であった宇治から茶種を取り寄せて栽培を奨励した。これは後に久万茶として地域の名産品へと成長する 1 。また、同じく久万地域に和紙の原料となる楮(こうぞ)を植えさせ、製紙業を興した 19 。
水産業においても、広島から牡蠣70俵を取り寄せて沿岸に放流したり、旧領地である桑名から白魚を移入し、干潟であった松前浜に放ったところ、これが繁殖して松前の名産となったりするなど、積極的な試みを行っている 31 。さらに、和気郡などに鶉(うずら)を放鳥するというユニークな政策も記録されており、これは鳥の糞に含まれる木の実による自然な植生回復を期待した、先駆的な環境再生の試みであったとも考えられる 31 。
これらの政策は、藩主の転封が新たな知識や技術、産物の伝播を促すという、江戸時代のダイナミックな経済交流の一側面を如実に示している。定行の殖産興業は、松山藩の経済的自立を促し、ひいては「西国の鎮台」としての役割を安定的に果たすための、不可欠な基盤作りであった。
定行の藩政は、領国経営と同時に、幕府への忠実な奉公という側面を常に併せ持っていた。彼は親藩大名として、全国規模の政治・軍事・外交の舞台で重要な役割を果たした。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱では、幕府軍の一翼として速やかに軍勢を派遣し、幕府の根幹を揺るがすこの大事件において、親藩としての揺るぎない忠誠を示した 13 。
外交面では、寛永20年(1643年)、朝鮮通信使が来日した際、幕命により譜代大名の重鎮・井伊直孝と共に江戸での接待役という大役を務め上げた 31 。これは幕府の威光を海外に示す重要な外交儀礼であり、将軍の信頼が特に厚い大名にしか任されない名誉ある任務であった。
そして、定行のキャリアにおける最大の功績の一つが、正保元年(1644年)以降に命じられた長崎警備の任である 19 。鎖国体制下で唯一の国際窓口であった長崎の防衛は、国家安全保障上の最重要課題であった。特に正保4年(1647年)、幕府との国交が断絶していたポルトガル船2隻が、通商再開を求めて突如長崎に来航した際には、緊迫した事態となった 4 。この7年前の寛永17年(1640年)に、幕府は交渉のために来日したポルトガルの使節団61名を処刑するという苛烈な対応を取っており、報復攻撃の可能性も否定できない一触即発の状況であった 34 。
この危機に際し、定行は自ら軍船を率いて松山から長崎へ急行。九州の諸大名と共に厳重な警戒態勢を敷く一方で、冷静に交渉を進めた 4 。結果として、武力衝突を回避し、ポルトガル船を平和裏に退去させることに成功した 4 。この難局を、毅然とした態度と柔軟な外交手腕で乗り切ったことは、定行の卓越した能力と胆力、そして幕府からの絶大な信頼を何よりも雄弁に物語っている。
松平定行は、有能な政治家・軍事指揮官であったと同時に、文化の振興にも深く心を寄せた人物であった。彼の遺した文化的遺産は、今日の松山にも色濃く受け継がれている。
定行の名を最も広く知らしめているのが、愛媛銘菓「タルト」伝来の物語である。この逸話は、彼の生涯を特徴づける政治、文化、そして家族という要素が結実した、象徴的な出来事であった。
そのきっかけは、正保4年(1647年)の長崎警備という政治的任務であった 35 。ポルトガル船来航という緊迫した状況下で、彼はポルトガル人から伝わった南蛮菓子に接する機会を得た 2 。それは、カステラ生地でジャムを巻いたロールケーキ状の菓子であったと伝えられる 35 。
定行はこの菓子の味に深く感銘を受け、その製法を松山に持ち帰った 37 。しかし、彼の功績は単なる模倣に終わらなかった。彼は、日本人の味覚に合わせるため、中身のジャムを「柚子風味の小豆餡」に替えるという、独創的な改良を施したのである 2 。この和風へのアレンジこそ、松山タルトを唯一無二の郷土菓子たらしめた、定行の創造性の発露であった。
さらに、この創造を可能にした背景には、彼の政略結婚による経済的基盤があったと考えられる。タルトに不可欠な餡の主原料である砂糖は、当時、極めて高価な輸入品であった。定行の正室は、薩摩藩主・島津家久の養女であり、薩摩藩は琉球を介した砂糖貿易を掌握する国内有数の砂糖産地であった 11 。この島津家との強固な姻戚関係が、貴重な砂糖の安定供給を可能にし、タルトという新しい菓子の創作を経済的に支えたと推測される。
このように、松山タルトの誕生は、①長崎警備という 政治的任務 、②和風に改良した 文化的創造性 、③薩摩島津家との姻戚関係という 経済的・家族的背景 、という三つの要素が奇跡的に融合した産物なのである。以下の表は、その変容の過程を明確に示している。
項目 |
南蛮菓子(原型) |
松山タルト(定行の創意) |
根拠資料 |
生地 |
カステラ生地 |
カステラ生地 |
36 |
中身 |
ジャム(柑橘類など) |
柚子風味の餡(小豆餡) |
2 |
形状 |
ロール状 |
「の」の字を描くロール状 |
36 |
伝来背景 |
ポルトガル・オランダとの交易 |
長崎警備の任と藩主の創意 |
5 |
風味 |
洋風の甘酸っぱさ |
和風の甘さと柚子の香り |
36 |
経済背景 |
長崎貿易による限定的流入 |
薩摩藩との姻戚関係による砂糖供給の可能性 |
39 |
定行の公私にわたる活動は、彼を取り巻く多くの人々によって支えられていた。
家族
慶長10年(1605年)、定行は徳川家康の命により、薩摩藩主・島津家久(忠恒)の養女(家臣・島津朝久の娘)を正室に迎えた 5。これは、西国の有力外様大名である島津家との関係を融和させ、監視下に置こうとする幕府の高度な政略的意図を反映したものであった。この正室は非常に嫉妬深い性格であったという逸話も伝わっている 39。一方で、定行の私生活には心労も絶えなかった。実弟である三河刈谷藩主・松平定政が、将軍家光の死を追って無断で出家遁世するという事件を起こし、乱心を理由に改易された際には、その身柄を松山藩で預かることとなった 20。親藩としての面目を失いかねないこの事件は、定行にとって大きな精神的負担であったろう。
家臣
定行は、優れた人材を見出し、登用する才にも長けていた。京都で画法を学んだ絵師・松本山雪(まつもと さんせつ)の才能を見出し、自藩の御用絵師として招聘した 2。山雪は定行の転封に従って桑名から松山へ移り住み、馬の名手であったことから多くの馬の絵を残している。また、定行と共に桑名から松山へ移住した商家「長門屋」は、松山で素麺の製造を始め、後の代に五色の糸から着想を得て「五色そうめん」を開発したと伝えられる 4。藩主の移動が、家臣や商人、文化人の移動を促し、松山の文化的多様性を豊かにした好例である。
万治元年(1658年)、定行は72歳という高齢で隠居を決意し、家督を嫡男の定頼に譲った 5 。藩主としての重責から解放された彼は、松山城下の東野(ひがしの)の地に「東野御殿」と呼ばれる広大な別荘を造営した 19 。この屋敷は千宗庵に設計させた数寄屋造りの茶室や庭園を備え、定行は「勝山(しょうざん)」と号して、俳諧や茶道を嗜む悠々自適の生活を送った 3 。
約35年間にわたる藩主生活と、11年間の隠居生活の後、寛文8年(1668年)10月19日、定行は東野の別邸で82歳の生涯を閉じた 19 。その遺骸は、城下の祝谷村にある常信寺に手厚く葬られた。後にその地には壮麗な霊廟が建立され、この建物は一部に禅宗様式を取り入れた江戸時代初期の霊廟建築の代表作として、現在も愛媛県の史跡に指定されている 19 。幕府への奉公と領国経営という大役を果たし遂げた後の穏やかな晩年は、泰平の世における理想的な大名の終焉の形を示していると言えよう。
松平定行は、徳川幕府の忠実な代理人として西国の安定に大きく貢献する一方で、卓越した行政手腕をもって伊予松山藩の政治、経済、文化の礎を一代で築き上げた。彼が手がけた城郭の改築や道後温泉の整備は、今日の松山の都市景観の核をなし、彼が伝えたタルトや、その移住に端を発する五色そうめんといった食文化は、現代に至るまで松山のアイデンティティの一部として市民に深く愛されている 3 。
歴史的評価において、定行は同時代の名君として名高い会津藩主・保科正之や岡山藩主・池田光政ほど、全国的な知名度を持つ存在ではない 42 。保科正之が将軍補佐役として幕政を主導し、池田光政が儒学に基づく仁政で知られたのに対し、定行の功績は、幕府の意向を的確に汲み取り、それを地方統治において着実に実行するという、より実務的な側面に重きが置かれる。しかし、幕府への絶対的な忠誠と、領民の生活向上を目指す領国経営という、時に相反しかねない二つの責務を高いレベルで両立させた手腕は、特筆に値する。彼の治世は、徳川幕藩体制が如何にして安定し、全国規模で機能したかを理解するための、優れた事例研究となりうる。
結論として、松平定行は単に「タルトを伝えた殿様」という文化的な側面に留まる人物ではない。彼は、徳川家との特別な血縁を背景に、幕府の地政学的戦略の要として西国に配置され、外交交渉からインフラ整備、産業振興に至るまで、多彩な分野でその能力を発揮した。彼の生涯は、徳川の平和を地方から支えた、戦略眼と実行力を兼ね備えた江戸時代初期を代表する有能な政治家・経営者として、再評価されるべきである。