松平家乗は徳川家康に仕え、関ヶ原で吉田城を守備。戦後岩村2万石を与えられ、大給松平家宗家の礎を築き、子孫は老中を輩出した。
本報告書は、戦国時代の終焉から江戸幕府による泰平の世が確立される、日本の歴史における一大転換期を生きた武将、松平家乗(まつだいら いえのり)の生涯を徹底的に解明するものである。天正3年(1575年)に生を受け、慶長19年(1614年)に没した家乗は 1 、徳川家康の天下統一事業と、それに続く幕藩体制の構築期に、譜代大名として重要な役割を果たした。彼の生涯は、一個人の立身出世物語に留まらない。主君・徳川家康という傑出した人物の下で、譜代大名家がいかに形成され、その後の数百年にわたる繁栄の礎がどのように築かれていったかを示す、極めて重要な典型例である。
利用者様が既に把握されている「徳川家臣、大給松平氏。元服の際に家康より一字を賜った。関ヶ原合戦では三河吉田城を守備し、戦後美濃岩村二万石を与えられた」という情報は、家乗の功績の核心を的確に捉えている。本報告書では、この情報を出発点とし、彼の出自である大給松平家の成り立ち、彼を取り巻く一族の複雑な状況、主君家康との個人的かつ政治的な関係、そして初代藩主としての具体的な治績に至るまで、現存する史料の断片からその全体像を再構成し、深く掘り下げていく。単なる事実の列挙に終始せず、それらの事実が持つ歴史的文脈と意味を解き明かし、松平家乗という人物の実像に迫ることを目的とする。
松平家乗の生涯を理解するためには、まず彼が属した大給松平家そのものの歴史と、戦国時代における三河国での立ち位置を把握することが不可欠である。
大給松平家は、松平宗家四代当主とされる松平親忠の次男・乗元(のりもと)を始祖とする 2 。その本拠地が三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市大給町)であったことから、この名で呼ばれるようになった 4 。彼らは徳川家康の祖先である安祥松平家から分かれた庶流の中でも特に有力な家々を指す「十八松平」の一つに数えられ、松平一門において重要な地位を占めていた 4 。
しかし、その出自には複数の説が存在し、単純な分家とは言い切れない複雑な背景がうかがえる。一説には、乗元が地元の土豪であった荻生(おぎゅう)氏に婿養子として入ったとも言われ 3 、さらには元来松平一族ではなかった可能性も指摘されている 6 。また、松平宗家とは別に、室町幕府の有力者であった伊勢氏の被官としての地位を確保していた形跡もあり 7 、これは後世に徳川家の系譜が編纂される過程で、その出自が整理された側面を示唆している。これらの異説は、大給松平家が単なる分家ではなく、徳川宗家が台頭する以前から三河において相当な独立性と実力を持った勢力であったことを物語っている。
事実、大給松平家は大きな兵力を有しており、徳川家康からも特に重視されていた 6 。この確固たる実力こそが、家乗の代における抜擢、そして一族全体の繁栄に繋がる根源的な力となったのである。徳川(松平)氏が三河を統一していく過程は、単なる血縁集団の拡大ではなく、在地有力国人を巧みに一門へと組み込んでいく政治的・軍事的な連合形成のプロセスであった。その中で、大給松平家は極めて重要なパートナーと見なされていたのである。
家乗が家督を継ぐ以前、大給松平家は戦国乱世の荒波の中を巧みに航行していた。その舵取りを担ったのが、祖父・親乗(ちかのり)と父・真乗(さねのり)である。
祖父にあたる大給松平家四代当主・松平親乗は、永正12年(1515年)に生まれ、戦国武将として激動の時代を生きた 8 。彼は松平宗家の当主・清康に従って宇利城攻めで軍功を挙げる一方 8 、東条松平家や滝脇松平家といった同族とも干戈を交えるなど 8 、当時の三河国衆の典型的な動向を示している。また、今川義元の命を受けて織田氏の蟹江城を攻めるなど 8 、今川氏の支配下で活動していた時期もあった。
特筆すべきは、徳川家康が今川氏の人質であった時代、親乗が駿府に随行していた点である 8 。この時期に、後の主君となる家康との初期の関係が築かれた。さらに、駿府滞在中の公家・山科言継と酒宴を催すなど親交を深めた記録が『言継卿記』に残されており 8 、親乗が武辺一辺倒ではなく、都の文化人とも通じる一定の教養と人脈を持っていたことが窺える。しかし、彼の治世は平穏ではなかった。天正3年(1575年)、一族の松平乗高による夜襲を受けて居城の大給城を追われ、尾張国へ逃れるという屈辱も経験している 8 。これは、大給松平家内部にも熾烈な権力闘争が存在したことを生々しく伝えている。
親乗の子であり、家乗の父にあたるのが五代当主・松平真乗である 3 。真乗の母は松平(桜井)信定の娘、妻は戸田弾正の娘であった 3 。真乗は天正10年(1582年)に37歳で死去する 3 。この父の早世により、松平家乗は天正3年(1575年)の生まれであるため、わずか8歳(数え年)という幼さで家督を相続することになった 3 。
戦国時代において、幼少の当主の家督相続は、家臣の離反や他勢力からの侵攻を招きかねない最大の危機であった。しかし、大給松平家がこの危機を乗り越え、家乗が無事に成長し得たという事実は、逆説的にこの時期の同家が極めて安定した家臣団組織を擁していたことを証明している。祖父・親乗の代の内紛を教訓とし、父・真乗の代には家中の結束が固まっていたと考えられる。この強力な家臣団の存在こそが、若き家乗の治世を支え、後の活躍を準備する不可欠な基盤となったのである。
幼くして家督を継いだ松平家乗の生涯は、主君・徳川家康の天下取りの歩みと完全に軌を一にしていた。彼の青年期は、家康との主従関係を確立し、譜代大名としての地位を固めていく過程そのものであった。
表1:松平家乗 略年譜
年代(西暦) |
家乗の年齢(数え年) |
出来事 |
典拠 |
天正3年(1575) |
1歳 |
三河国大給城にて、松平真乗の長男として誕生。 |
1 |
天正10年(1582) |
8歳 |
父・真乗の死去に伴い、家督を相続。 |
3 |
天正12年(1584) |
10歳 |
小牧・長久手の戦い。家老の松平近正が代わりに出陣。 |
13 |
天正15年(1587) |
13歳 |
徳川家康の御前で元服。家康から「家」の字を賜り「家乗」と名乗る。 |
11 |
天正18年(1590) |
16歳 |
家康の関東入封に従い、上野国那波郡に1万石を与えられ大名となる。 |
16 |
慶長元年(1596) |
22歳 |
従五位下・和泉守に叙任される。 |
11 |
慶長5年(1600) |
26歳 |
関ヶ原の戦いにおいて、三河国吉田城の守備を務める。 |
11 |
慶長6年(1601) |
27歳 |
関ヶ原の戦功により1万石を加増され、美濃国岩村藩2万石に移封。 |
16 |
慶長19年(1614) |
40歳 |
2月、岩村城にて死去。 |
1 |
天正15年(1587年)、家乗は13歳にして、主君・徳川家康の御前で元服の儀式に臨んだ 11 。これは単なる成人の儀礼ではなかった。この時、家康は自らの名前の一字である「元」を改める前の「家」の字を家乗に与えた。これにより彼は「家乗」と名乗ることになる 11 。
当時の武家社会において、主君が家臣に自らの名の一字(偏諱)を与えることは、特別な信頼関係と、一門に準ずるほどの高い待遇を示す、極めて重い意味を持つ行為であった 19 。家康が自ら烏帽子親(元服の際に烏帽子を被せる後見役)を務め、偏諱を与えた背景には、明確な政治的意図があった。それは、幼くして当主となった家乗の権威を、松平宗家の当主である家康自らが保証するという意思表示であった。これにより、家康は有力な庶流である大給松平家を徳川の支配体制に強固に結びつけようとしたのである。この儀式を通じて、家乗個人と家康の間には、擬似的ではあるが父子関係にも似た強固な主従の絆が結ばれ、大給松平家の家臣団全体の忠誠心を高める効果をもたらした。
家乗の元服に先立つ天正12年(1584年)、徳川家康と羽柴秀吉が雌雄を決した小牧・長久手の戦いが勃発した。この時、家乗はまだ10歳であったため、自ら戦陣に立つことはなかった。しかし、大給松平家は徳川・織田連合軍の一翼を担い、家老の松平近正が幼い家乗に代わって軍勢を率いて出陣し、最前線に位置する砦の一つを守備している 13 。この事実は、幼い当主の下でも軍事行動が可能な、統率の取れた家臣団を大給松平家が維持していたことを示している。
そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が終わり、家康が関東へ移封されると、家乗もこれに従った。この時、家康は16歳の家乗に上野国那波郡(現在の群馬県伊勢崎市周辺)内に一万石の所領を与え、家乗はここに大名として列することとなった 11 。これが那波藩の成立である。
この関東入封の際、一つの重要な出来事が起きている。長年にわたり大給松平家を支えてきた有能な家老・松平近正が、家康の直臣(旗本)として取り立てられたのである 11 。これは、徳川家康の巧みな人材戦略の一環であったと考えられる。譜代大名の家臣団から有能な人材を「引き抜き」、宗家の直轄戦力とすることで、幕府の基盤を強化すると同時に、大名家の力を相対的に抑制し、家臣の忠誠を藩主だけでなく将軍にも向けさせるという、三重の効果を狙ったものであった。家乗にとって信頼する家老を失うことは痛手であったに違いないが、主君の命に従うことで、徳川家への絶対的な忠誠を示す機会ともなった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、松平家乗には極めて重要な任務が与えられた。それは、三河国吉田城(現在の愛知県豊橋市)の守備であった 11 。
吉田城は、東海道の陸路と豊川の水運が交差する交通の要衝であり、軍事・経済の両面で計り知れない戦略的価値を持っていた 21 。西へ向かう家康本隊にとって、吉田城は背後を固め、江戸との兵站線を確保するための生命線であった。この最重要拠点の守備を任されたという事実は、家乗と彼が率いる大給松平家に対し、家康が絶大な信頼を寄せていたことの何よりの証左である。家康の留守を預かるという役目は、万が一にも裏切りの心配がなく、かつ任務を確実に遂行できる実力を持つ、最も信頼の置ける譜代大名にしか与えられないものであった。
家乗の関ヶ原における「戦功」は、前線での華々しい武功とは性質を異にする。それは、後方を完璧に固めるという、地味ではあるが戦略的に極めて重要な任務を完遂した点にある。この功績は戦後高く評価され、家乗は一万石の加増を受け、合計二万石で美濃国岩村への転封という破格の恩賞を受けることとなる 16 。この人事は、家康が家乗を単なる勇猛な武将としてではなく、信頼できる統治者・管理者として評価していたことを示している。徳川の天下が目前に迫る中、武士に求められる能力が「武」から「治」へと移行していく時代の変化を象徴する出来事であった。
関ヶ原の戦いの功績により、松平家乗は新たな領地である美濃国岩村を与えられた。ここから、彼の藩主としての本格的な治世が始まる。それは、戦乱の傷跡が残る土地に、近世的な統治の礎を築く事業であった。
慶長6年(1601年)、家乗は上野那波から、美濃国恵那郡および土岐郡内に二万石を与えられ、岩村城主として入封した 18 。これが岩村藩の立藩である。
家乗が入城した岩村城は、古くから東美濃における戦略上の要衝であった。鎌倉時代に遠山氏によって築かれて以来 24 、戦国時代には武田信玄の部将・秋山虎繁 23 、織田信長の五男・御坊丸や重臣・森蘭丸ら 23 、そして関ヶ原の戦い直前には田丸直昌 27 と、城主がめまぐるしく変わる争奪の地であった。家乗が入ったのは、西軍に与した田丸氏が開城した直後であり、城や城下は戦乱による荒廃も予想される状況であった 27 。
徳川家康が譜代の重臣である家乗をこの岩村に配置したのには、明確な戦略的意図が存在した。岩村は、徳川御三家の一つである尾張藩と、依然として豊臣恩顧の大名が残る西国方面とを結ぶ結節点に位置する。この重要拠点に、最も信頼の置ける家乗を置くことで、徳川の支配体制を盤石にする狙いがあった。譜代大名の配置は、常に江戸幕府の全国支配戦略と密接に連動しており、家乗の岩村入封もその一環であった。
初代藩主となった家乗は、早速、藩政の基盤構築に着手した。その中心となったのが、岩村城の改修と城下町の整備である。
彼は、戦国時代の山城であった岩村城を、傷んでいた箇所を修復するとともに、石垣や三重櫓を新たに築くなど、近世的な城郭へと大規模に改修した 23 。さらに、従来は山上にあった藩主の居館(御殿)を、政務の利便性を考慮して麓に移し、藩庁としての機能を確立した 27 。この麓の藩庁を核として、武士や商人の居住区を計画的に整備し、近世的な城下町を形成していったのである 28 。
こうした一連の政策は、日本の社会が「戦乱の時代(中世)」から「統治の時代(近世)」へと移行する大きな歴史の流れを、一藩のレベルで体現したものであった。城は純粋な軍事拠点から、政治・経済の中心地へとその性格を変え、藩主は民衆から隔絶された山上の要塞から、領民に近い麓へとその生活の場を移した。家乗は、この時代の転換を的確に理解し、実行した為政者であったと言える。
彼の藩政を支えたのは、その人柄であったと伝えられる。「人となり剛正で勤検」「事をなすには法度あり、華麗を好まず、細行を忽にせず」と評され、その実直で質実剛健な性格が、安定した藩政の基盤構築に繋がった 11 。また、主君には忠義を尽くし、母には孝行を尽くし、家臣や領民には仁愛と恵みをもって接したため、城下はよく治まったという 11 。
家乗は岩村において、藩主としての権威と一族の永続を願い、二つの重要な寺院を建立・移転した。
一つは、彼が上州那波の藩主であった天正18年(1590年)に、祖父・親乗と父・真乗の菩提を弔うために建立した曹洞宗の「久昌山盛巌寺(せいがんじ)」を、岩村の地に移転したことである 18 。もう一つは、家乗自身の菩提寺として、新たに「久翁山龍巌寺(りゅうがんじ)」を建立したことであった 18 。
慶長19年(1614年)、家乗が40歳で死去すると、その亡骸は自らが建立した龍巌寺に葬られた 23 。戒名は「大聖院殿乗誉道見大居士」という 12 。しかし、この二つの寺院は、その後の大給松平家の転封によって対照的な運命を辿ることになる。
子の乗寿が寛永15年(1638年)に遠江浜松藩へ移封される際、家乗個人の菩提寺であった龍巌寺は廃寺とされた 18 。その跡地は、次に入封した丹羽氏の菩提寺・妙仙寺の敷地となった 18 。一方で、父祖のための寺、すなわち「家」の寺であった盛巌寺は、岩村の町人であった松田自休の手によって復興され、岩村の地に存続した 18 。この事実は、家乗の治世が領民に好意的に受け止められていた可能性を示す、貴重な傍証と言える。
この対照的な結末は、近世大名家における「個人」と「家」の意識を象徴している。藩主個人の記憶は、転封によって土地との繋がりが断たれると薄れやすい。しかし、「家」の記憶は、領民によっても支えられ、また新たな領地へと引き継がれていく。事実、大給松平家宗家は転封のたびに盛巌寺を伴い、最終的な領地である三河西尾にも同名の菩提寺が存在する 18 。
松平家乗の生涯は40年と決して長くはなかったが、彼が築いた礎は、その後の大給松平家の繁栄を確固たるものにした。彼の死と、それが後世に与えた影響は計り知れない。
家乗は慶長19年(1614年)2月、岩村城にて死去した 1 。豊臣家との最終決戦である大坂の陣が勃発する、まさにその直前のことであった。死因に関する明確な記録はないが、病死であったと推測される。
父の死を受け、家督は嫡男の松平乗寿(のりなが)が15歳で継いだ 3 。大戦を目前にした当主交代は、家にとって大きな試練であった。しかし、乗寿は父の死の直後に勃発した大坂冬の陣・夏の陣に間髪入れず参陣し、初陣ながら河内国枚方方面で敵兵の首を多数挙げるなどの戦功を立てた 36 。
この迅速な行動と目覚ましい活躍は、単なる個人の武勇伝ではない。それは、当主が交代しても大給松平家の徳川家への忠誠は微塵も揺らぐことがないという事実を、幕府内外に強く示すための、極めて重要な政治的行動であった。このスムーズな家督継承と戦場での働きは、譜代大名としての家の存続と、その後の更なる栄達のために不可欠なものであり、家乗が築いた安定した家臣団と、彼が息子に施した教育の賜物であったと言える。
家乗が築いた基盤の上で、大給松平家宗家は徳川幕府の中枢で目覚ましい栄達を遂げる。
その端緒を開いたのが、息子・乗寿であった。彼は大坂の陣での戦功を皮切りに、奏者番を経て、三代将軍・家光の世子(後の家綱)付きとなり、西の丸老中、さらには本丸老中へと出世の階段を駆け上がった 3 。それに伴い、石高も加増を重ね、遠江浜松藩3万6千石、上野館林藩6万石へと転封されていった 18 。
乗寿以降も、大給松平家宗家からは乗久、乗邑(のりさと)、乗完(のりさだ)、乗寛(のりひろ)、乗全(のりやす)といった当主が次々と幕府の老中などの要職を歴任した 3 。特に乗完、乗寛、乗全は三代続けて老中となるなど、譜代大名の中でも屈指の名門としての地位を確立した。
この間、一族は幕府の全国支配戦略の一環として、肥前唐津、志摩鳥羽、伊勢亀山、山城淀、下総佐倉、出羽山形など、頻繁な転封を経験した 41 。そして明和元年(1764年)、乗佑(のりすけ)の代に三河国西尾藩六万石に入封し、以降は廃藩置県まで同地を治めることとなった 16 。
表2:大給松平家(宗家)の転封履歴
代 |
当主 |
主な藩 |
石高 |
期間(西暦) |
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6代 |
家乗 |
上野 那波藩 |
1万石 |
1590年 - 1601年 |
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美濃 岩村藩 |
2万石 |
1601年 - 1614年 |
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7代 |
乗寿 |
美濃 岩村藩 |
2万石 |
1614年 - 1638年 |
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遠江 浜松藩 |
3万6千石 |
1638年 - 1644年 |
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上野 館林藩 |
6万石 |
1644年 - 1654年 |
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8代 |
乗久 |
上野 館林藩 |
6万石 |
1654年 - 1661年 |
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下総 佐倉藩 |
6万石 |
1661年 - 1678年 |
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肥前 唐津藩 |
7万石 |
1678年 - 1686年 |
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9代 |
乗春 |
肥前 唐津藩 |
7万石 |
1686年 - 1690年 |
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10代 |
乗邑 |
肥前 唐津藩 |
6万石 |
1690年 - 1691年 |
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志摩 鳥羽藩 |
6万石 |
1691年 - 1710年 |
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伊勢 亀山藩 |
6万石 |
1710年 - 1717年 |
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山城 淀藩 |
6万石 |
1717年 - 1723年 |
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下総 佐倉藩 |
6万石 |
1723年 - 1745年 |
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11代 |
乗佑 |
下総 佐倉藩 |
6万石 |
1745年 - 1746年 |
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出羽 山形藩 |
6万石 |
1746年 - 1764年 |
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三河 西尾藩 |
6万石 |
1764年 - 1769年 |
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12代 |
乗完 |
三河 西尾藩 |
6万石 |
1769年 - 1793年 |
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13代 |
乗寛 |
三河 西尾藩 |
6万石 |
1793年 - 1839年 |
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14代 |
乗全 |
三河 西尾藩 |
6万石 |
1839年 - 1862年 |
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15代 |
乗秩 |
三河 西尾藩 |
6万石 |
1862年 - 1871年 |
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典拠: 3 |
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家乗が築いた安定基盤は、宗家だけでなく、一族全体の繁栄にも繋がった。
家乗の次男・知乗の系統は旗本として幕府に仕え、その子孫も作事奉行や大目付といった役職に就いている 47 。また、家乗の孫にあたる乗政(乗寿の次男)の系統は、後に美濃岩村藩主となり 3 、同じく孫の真次(家乗の次男・真乗の養子とも)の系統は三河奥殿藩主となるなど 3 、大給松平家は多くの大名・旗本家を輩出した。この一族の広がりは、幕府内における大給松平家の影響力を多層的に強化する役割を果たした。
幕末の動乱期において、長年老中を輩出してきた宗家(西尾藩)は、佐幕か尊王かで大きく揺れたが、最終的には親藩である尾張藩の動向も踏まえ、新政府軍に参加する道を選んだ 16 。他の分家も多くは新政府に恭順し 48 、時代の変化に巧みに対応した。
その結果、宗家をはじめとする4つの大名家は、明治維新後、いずれも華族(西尾松平家は子爵、他の3家は子爵または伯爵)に列せられ、近代日本においてもその家名を存続させることに成功したのである 4 。この一族としての生存戦略の成功は、家乗が徳川家への絶対的な忠誠と安定した藩政の基盤を固め、一族全体が「信頼できる譜代」という確固たるブランドを確立したことにその源流を求めることができる。
松平家乗の生涯は、戦国武将の子として生まれ、徳川家康という稀代の主君に見出され、近世大名として大成し、後世の一族繁栄の礎を築くという、まさに「譜代大名の鑑」と呼ぶにふさわしいものであった。
史料に残る「剛正で勤検」という人物評 11 は、単なる美辞麗句ではない。彼の生涯における具体的な行動、すなわち関ヶ原の戦いにおける後方支援任務の完遂、そして岩村における着実な藩政基盤の構築といった実績によって、その評価は力強く裏付けられている。彼は、戦国武人としての忠誠心と、新しい時代の為政者として求められる実務能力を兼ね備えた、極めてバランスの取れた人物であったと評価できる。
松平家乗の最大の歴史的功績は、個人的な武功や栄達に留まるものではない。彼がその生涯を通じて確立した、徳川家への揺るぎない忠誠の姿勢と、安定した藩経営の基盤こそが、大給松平家という一つの「家」が、江戸時代の270年を通じて幕府を支える名門として繁栄するための、最も重要かつ永続的な遺産となった。その意味において、松平家乗は単なる岩村藩初代藩主ではなく、大給松平家宗家の「中興の祖」と位置づけることができる。その後の老中輩出に象徴される一族の栄光の全ては、彼が築いた盤石な礎の上に成り立っていると言っても過言ではないだろう。