松平家清は徳川家康の義弟で、家康から一字を賜る。関ヶ原で清洲城を守備し、三河吉田3万石を得る。家は一時断絶も旗本として再興。
日本の歴史において、戦国時代から江戸時代初期への移行は、数多の武将たちの栄光と没落が交錯した激動の時代であった。その中心にいた徳川家康の天下統一事業は、彼一人の力によって成し遂げられたものではなく、彼を支えた多くの有能な家臣たちの存在なくしては語れない。その中でも、松平家清(まつだいら いえきよ)という武将は、単なる功臣の一人として片付けることのできない、特別な地位を占めていた。
一般的に、松平家清は「徳川家康の家臣であり、元服の際に家康から『家』の一字を賜った。関東入国時には武蔵国八幡山に一万石を与えられ、関ヶ原の戦いでは清洲城を守備し、戦後に三河国吉田三万石の藩主となった」人物として知られている 1 。この概要は彼の経歴の骨子を的確に捉えているが、その生涯の全貌、そして彼が徳川政権の黎明期において果たした真の役割を理解するには、より深く、多角的な視点からの考察が不可欠である。
本報告書は、松平家清という一人の武将の生涯を、その出自である竹谷松平家の歴史的背景から、彼の軍事的・政治的キャリア、徳川家康との緊密な関係、そして彼の死後の一族の運命に至るまで、徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。家清の人生を追うことは、徳川家康の人間関係や戦略、そして江戸幕府初期の体制がいかにして構築されていったかを解き明かす鍵となる。彼の栄光と、その裏にあった苦悩、そして彼が遺したものが後世に与えた意外な影響までを詳述することで、松平家清という人物の歴史的重要性を明らかにしていく。
松平家清の生涯を理解する上で、彼が背負っていた「竹谷松平家」という血筋の重みを抜きにして語ることはできない。彼の行動や家康からの厚遇の根源には、常にこの名門としての家格が存在した。
松平氏は、三河国の小豪族から身を起こし、やがて天下を統一する徳川家康を輩出した一族であるが、その発展の過程で多くの分家が生まれた。これらは俗に「十八松平」と総称される。その中でも、竹谷松平家は別格の家格を誇っていた。その理由は、松平氏三代当主・信光の長男である松平守家(もりいえ)を始祖とするからである 1 。松平宗家(後の徳川本家)が信光の三男・親忠の系統であることから、竹谷松平家は宗家に次ぐ、あるいは血統的には宗家以上に嫡流に近い極めて高貴な家柄と見なされていた。
この一族は、三河国宝飯郡竹谷(現在の愛知県蒲郡市竹谷町)を本拠地としたことから「竹谷松平」と称された 1 。この地は三河湾に面し、海上交通の要衝でもあり、一族の経済的、軍事的な基盤となっていた。家清の生涯を貫く徳川家からの特別な扱いは、彼の個人的な資質に加え、この「十八松平の筆頭格」という血筋の正統性が大きく影響していたのである。
戦国時代の三河国は、西の織田氏、東の今川氏という二大勢力に挟まれ、常に緊張状態にあった。竹谷松平家もその例外ではなく、当初は駿河国の戦国大名・今川氏の支配下にあった 1 。家清の祖父にあたる松平清善(きよよし)は、今川氏に人質を差し出すことで所領を安堵されていた 4 。
しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、三河の情勢は一変する。今川軍の先鋒として大高城にいた松平元康(後の徳川家康)は、今川氏を見限り、故地である岡崎城へ帰還して独立を果たす。この家康の決断に、清善をはじめとする三河の松平一族はこぞって呼応し、臣従を誓った 4 。
この離反に対し、今川氏真は報復として、三河諸氏から預かっていた人質を吉田城外で次々と処刑するという凶行に出た。この時、竹谷松平家が差し出していた人質(清善の娘、あるいは妻とも伝わる)も犠牲となった 4 。この悲劇は、竹谷松平家にとって今川氏との完全な決別を意味すると同時に、多大な犠牲を払ってでも家康に従うという、揺るぎない忠誠心の礎となった。永禄5年(1562年)、清善は家康による上之郷城(こうのごうじょう)攻めで先鋒を務め、城主の鵜殿長照を滅ぼす戦功を挙げている 1 。
清善の子であり、家清の父にあたる松平清宗(きよむね)もまた、勇猛な武将として家康に仕えた。父の代に確立された徳川家への忠誠を受け継ぎ、三河一向一揆の鎮圧や、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、徳川家が経験した主要な合戦の多くに参加し、各地を転戦して武功を重ねた 1 。
特に長篠の戦いでは、酒井忠次が率いた鳶ノ巣山砦への奇襲部隊に加わり、武田軍の背後を突くという重要な作戦の一翼を担っている 5 。清宗が常に徳川軍の中核として活躍していた事実は、その息子である家清が、幼い頃から徳川家の中枢で、父の武勇と忠節を目の当たりにしながら育ったことを物語っている。この環境が、家清の人格形成と、彼が後に示すことになる家康への絶対的な忠誠心に多大な影響を与えたことは想像に難くない。
松平家清の青年期は、徳川家康がその天下取りへの布石を打ち始めた重要な時期と重なる。家康は家清の中に、単なる武将以上の価値を見出し、一門の中核を担うべき存在として特別な期待をかけた。
松平家清は、永禄9年(1566年)、竹谷松平家の本拠地である三河国竹谷にて、松平清宗の長男として生を受けた 1 。彼が元服を迎えた際、主君である徳川家康は、自身の名前から「家」の一字を与えるという、破格の待遇を示した。これにより彼は、竹谷松平家代々の通字である「清」と合わせて「家清」と名乗ることになる 5 。
主君の名前の一部を家臣に与える「偏諱(へんき)」は、功績ある家臣や将来を期待する若者に対して行われる最高の栄誉の一つであった。家康が、まだ若き家清に対してこの栄誉を与えたことは、彼の家格の高さと、その将来性に対する家康の並々ならぬ期待の表れであった。これは単なる厚遇ではなく、家康が家清を自らの権威の一部として認め、一門における特別な存在として位置づけようとする明確な意思表示であった。
天正10年(1582年)、家清は父・清宗から家督を譲り受け、竹谷松平家の当主となった 1 。この年、織田・徳川連合軍による武田領侵攻、いわゆる甲斐攻めに従軍し、初陣を飾ると共に戦功を挙げている 1 。当主となって早々の出陣は、彼が武将としてのキャリアを順調に滑り出したことを示している。
さらに、天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いでは、父・清宗と共に駿河国の興国寺城の守備を命じられた 1 。この戦いは、家康が豊臣秀吉と直接対決した重要な局面であり、興国寺城は徳川領の東方の守りの要であった。最前線での戦闘だけでなく、このような戦略的拠点の防衛という重要な任務を任されたことは、家清が単なる一兵卒ではなく、信頼できる指揮官として家康から認識されていたことの証左である。
家清の徳川一門における地位を決定的にしたのは、彼の婚姻であった。家清は、徳川家康の母・於大の方(おだいのかた)が久松俊勝(ひさまつとしかつ)との間に儲けた娘、すなわち家康の異父妹にあたる女性を正室として迎えた 1 。彼女は後に落飾して天桂院(てんけいいん)と号したことで知られる 9 。
この婚姻により、家清は家康の「義理の弟」という、他の家臣とは一線を画す極めて近しい姻戚関係を結ぶことになった。これは、竹谷松平家の高い家格に、家康との直接的な血縁という二重の権威を与えるものであった。家康にとって、信頼できる譜代家臣団の結束は天下取りの生命線であり、その中でも特に家格の高い竹谷松平家を、婚姻によって「家臣」から「家族」へと取り込むことは、自らの権力基盤を盤石にするための極めて高度な政治的判断であった。この強固な信頼関係こそが、家清が後に数々の重要な役目を担う上での最大の背景となったのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると、日本の勢力図は大きく塗り替えられた。家康は、東海地方の旧領に代わり、広大な関東への移封を命じられる。これは家康にとって大きな試練であったが、同時に新たな国造りの機会でもあった。家清もまた、この歴史的な転換点において、新たな役割を担うこととなる。
家康の関東移封に伴い、家清も主君に従って三河を離れた。家康は、広大な関東の要所に信頼できる譜代の家臣を配置し、支配体制を固めていった。その中で家清は、これまでの功績と一門としての家格を評価され、武蔵国児玉郡八幡山(現在の埼玉県本庄市児玉町)に一万石の所領を与えられた 1 。これにより、彼は一城の主である「大名」の列に加わることになった。
彼の居城は雉岡城(きじがおかじょう)といい、この時代には地名から八幡山城とも呼ばれた 11 。しかし、この栄光の国替えは、彼にとって個人的な悲劇の始まりでもあった。関東へ向かう途上、正室の天桂院が産気づき、一人の女児を出産したものの、その赤子は間もなく亡くなってしまったのである 6 。さらに、天桂院自身もこの国替えと同じ天正18年(1590年)に、22歳という若さでこの世を去ったと記録されている 5 。公的なキャリアの飛躍とは裏腹に、私生活では愛する家族を相次いで失うという深い悲しみを経験したのであった。
悲しみに暮れる間もなく、家清には領主としての重責が待っていた。彼は父・清宗の補佐を受けながら、八幡山城の改修整備や、城下町の町割り(都市計画)に精力的に取り組んだ 11 。彼らによって築かれた町の骨格は、現在の本庄市児玉町の基礎となったとされ、家清が単なる武人ではなく、領国経営にも優れた手腕を持っていたことを示している。
また、故郷である三河から、一族の菩提寺であった龍台院を児玉の地に移し、精神的な支柱とした 11 。この寺は、後に亡き妻の法号にちなんで天桂院と改称されることになる。天正19年(1591年)には、領内の宮戸村などで検地を実施しており、これは近世的な支配体制を確立し、領地の石高を正確に把握しようとする先進的な取り組みであった 16 。これらの事績は、家清が戦場での働きだけでなく、民政にも通じた、新時代の到来を予感させるバランスの取れた武将であったことを物語っている。
関東での統治を進める一方、武将としての務めも続いた。天正19年(1591年)、豊臣政権による天下統一の総仕上げともいえる、奥州での九戸政実の乱が発生する。家康は豊臣軍の主力の一翼を担って鎮圧に向かうが、家清もこの軍勢に加わり、遠く陸奥国岩手沢(現在の岩手県)まで従軍した 1 。
この従軍は、家清が徳川軍の主要な構成員として、家康が豊臣政権下で担う公的な軍事行動に忠実に貢献していたことを示すものである。関東という新たな土地で領国経営に奮闘しつつも、天下の情勢から目を離さず、主君の命に応じていつでも出陣できる体制を維持していた彼の姿は、戦国末期から近世へと移行する時代の武将の典型的なあり方を示している。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した対立は、ついに徳川家康率いる東軍と、石田三成らを中心とする西軍との全国規模の合戦、すなわち関ヶ原の戦いへと発展した。この天下分け目の決戦において、松平家清は戦場の最前線ではなく、後方における極めて重要な役割を担うことになった。
尾張国の清洲城(現在の愛知県清須市)は、東海道と中山道が合流する交通の要衝に位置していた。家康が関東から西上して美濃・関ヶ原方面へ進軍するにあたり、この清洲城は兵力、兵糧、武器弾薬を集積・補給する兵站拠点として、また最新の情報を集約し、後続部隊を統制する司令部として、まさに東軍の「心臓部」ともいえる死活的に重要な城であった。もし西軍にこの城を奪われるようなことがあれば、東軍は補給路を断たれ、全軍が崩壊しかねない。家康にとって、清洲城の絶対的な確保は、合戦の勝敗を左右する最重要課題だったのである。
この最重要拠点である清洲城の守備(定番)という大役を、家康は松平家清と、同じく譜代の重臣である石川康通に命じた 1 。家康が関ヶ原へ向けて岐阜城へと本陣を移した後も、家清らは清洲城に留まり、鉄壁の守りを固めた。
この人選には、家康の深い意図が込められていた。家清をこの地に配置した最大の理由は、彼が家康の義弟であり、竹谷松平家という名門の当主として、絶対に裏切ることのない、絶対的な信頼を置ける人物であったからに他ならない。華々しい戦功を挙げることよりも、後方の生命線を確実に守り抜くという、地味ではあるが極めて重大な任務。それを託されたという事実こそが、家康から家清への最高の評価であった。家清はこの重責を完璧に果たし、東軍の勝利に不可欠な貢献を成し遂げたのである。
関ヶ原での東軍の勝利後、家康は戦功のあった諸将への論功行賞を行った。その中で、家清の功績は極めて高く評価された。家康は、清洲城守備の大功を賞し、家清に二万石という大幅な加増を行い、故郷である三河国の吉田(現在の愛知県豊橋市)に、合計三万石の所領を与えた 1 。
これにより、三河吉田藩が成立し、家清はその初代藩主となった 18 。武蔵八幡山の一万石から三万石へと、石高が三倍になるという破格の恩賞は、清洲城守備という任務がいかに戦略的に重要であったかを雄弁に物語っている。この人事は、徳川家臣団全体に対して、直接的な戦闘での武功のみならず、後方支援や兵站維持といった、組織の根幹を支える任務も正当に評価されるという明確なメッセージとなった。家清への評価は、徳川家康の近代的ともいえる組織論と、信頼に基づく人事戦略を象徴する事例であった。
関ヶ原の戦いを経て、松平家清は故郷・三河国における大藩の主という、武将として栄光の頂点に立った。しかし、彼の藩主としての時間は、決して長いものではなかった。
慶長6年(1601年)、家清は武蔵八幡山から三河吉田城へと入り、三万石の初代藩主として藩政を開始した 3 。吉田は東海道の要衝であり、家清が藩主であった時代は、江戸幕府によって東海道の宿駅制度や一里塚、街道の松並木などが全国的に整備された時期と重なる 17 。交通の動脈上に位置する吉田藩の重要性はますます高まり、家康自身も上洛の途中で吉田城に宿泊した記録が残っている 17 。
藩主として、家清は自身の領地を安定させることにも心を配った。彼は弟の清定(きよさだ)に対し、藩内の新しく開墾された土地から三千二百石を分与している 1 。これは、自身の栄達を独り占めするのではなく、一族の繁栄を願う彼の姿勢の表れであり、兄弟間の結束を重んじていたことが窺える。
家清には、正室・天桂院との間に嫡男・忠清(ただきよ)、そして後に家名を再興する次男・清昌(きよまさ)がいたほか、数人の娘がいた 5 。これらの子供たちの縁組は、徳川政権内における家清の政治的ネットワークを広げる上で重要な役割を果たした。
特筆すべきは、娘の一人が家康の養女という形をとった上で、有力な外様大名である浅野家の当主・浅野長重(ながしげ)に嫁いだことである 1 。浅野家は豊臣秀吉子飼いの大名であり、関ヶ原の戦いを経た徳川家にとっては、懐柔と監視が必要な存在であった。家康が、最も信頼する義弟・家清の娘を、一度自らの「養女」という形にしてから嫁がせることで、この縁組は単なる大名間の政略結婚を超え、「徳川家康の娘」と浅野家の婚姻という、極めて高い政治的重みを持つことになった。これにより、浅野家は徳川家との姻戚関係を通じて幕府内での立場を安定させ、家康は浅野家への影響力を確保するという、双方にとって利益のある関係が築かれたのである。
そして、この縁組は、後の歴史に意外な伏線を残すことになる。この家清の娘と浅野長重の間に生まれた血筋は、数世代を経て、元禄赤穂事件で世に知られる赤穂藩主・浅野長矩(ながのり)、すなわち浅野内匠頭へと繋がっていくのである 1 。一人の武将の家族の出来事が、意図せずして約100年後の日本史を揺るがす大事件の遠因となるという事実は、歴史のダイナミズムと皮肉を感じさせる。
吉田藩主として順調な治世を歩み始めた家清であったが、その時間は長くは続かなかった。慶長15年12月21日(西暦1611年2月3日)、松平家清は死去した 1 。享年45。武将としては働き盛りの年齢での早すぎる死であった。
彼の法号は、清宝院殿(せいほういんでん)、あるいは葉雲全霜清宝院(よううんぜんそうせいほういん)と伝わる 2 。墓所は、一族の菩提寺であり、かつて彼が亡き妻のために名を改めた愛知県蒲郡市の龍台山天桂院に築かれ、今も静かに眠っている 2 。
松平家清の死は、彼一代の栄光の物語の終焉であると同時に、竹谷松平家にとって新たな試練の始まりであった。彼の死後、一族の運命は江戸幕府初期の厳格な武家社会の掟に翻弄されることになる。
家清の死後、家督と三万石の吉田藩は、嫡男の松平忠清が継承した 1 。忠清は父の遺志を継ぎ、藩主としての道を歩み始めたが、その運命はあまりにも過酷であった。慶長17年(1612年)、父の死からわずか1年半後、忠清は嗣子(跡継ぎとなる男子)のないまま、28歳という若さで急逝してしまう 1 。
江戸幕府が成立して間もないこの時期、武家諸法度にも見られるように、大名家に対する統制は極めて厳格であった。特に、当主の死に際して跡継ぎが定められていない場合、その家は「無嗣断絶」として改易、すなわち所領を没収されるのが原則であった(末期養子の禁) 21 。この厳格なルールにより、松平家清が築き上げた三万石の吉田藩主としての竹谷松平家は、忠清の代で、わずか二代にして断絶という悲劇的な結末を迎えた 19 。
大名家としては断絶した竹谷松平家であったが、幕府は特別な計らいを見せた。これは、初代・家清が家康の義弟であり、その生涯を通じて徳川家に多大な貢献をした功績、そして竹谷松平家が持つ高い家格が考慮された結果であった 21 。
幕府は、家清の次男であった松平清昌に対し、旧領に近い三河国宝飯郡西郡(現在の蒲郡市一帯)に五千石の領地を与えることを決定した 1 。これにより、竹谷松平家の家名は存続を許されたのである。石高は大幅に減少したものの、一族は「大名」から、大名に準ずる家格を持つ「旗本(交代寄合)」として再興を果たした 22 。交代寄合は、旗本でありながら参勤交代の義務を負うなど、大名並みの待遇を受ける特別な家柄であった。こうして竹谷松平家は、その家名を明治維新まで永らえることとなったのである。
松平家清の生涯は、戦国の動乱期を生き抜き、徳川幕府の創成期を支えた武将の典型でありながら、その中に際立った個性を放っている。彼は、単に武勇に優れた武人であっただけでなく、徳川家康という稀代のリーダーから絶対的な信頼を勝ち得た人物であった。
彼のキャリアは、個人の能力以上に、彼が生まれ持った「竹谷松平家嫡流」という血筋と、家康の義弟という姻戚関係がいかに大きな意味を持っていたかを物語っている。家康は彼を、天下を安定させるための「信頼の礎」として、関東の要衝、そして関ヶ原における兵站の心臓部に据えた。家清はその期待に完璧に応え、徳川の天下を盤石なものとするために不可欠な役割を果たした。
一方で、彼の子の代における家の断絶と、それに続く旗本としての再興というドラマは、江戸幕府初期の武家社会が持つ、法に基づく厳格さと、血縁や功績を重んじる情理という二つの側面を象徴している。松平家清は、戦国から江戸へと移行する時代の架け橋となり、徳川三百年の平和の礎を築いた功労者の一人として、歴史にその名を深く刻んでいると言えよう。
人物名 |
関係性 |
備考 |
松平信光 |
7代前の先祖 |
松平氏三代当主 |
松平守家 |
6代前の先祖 |
竹谷松平家初代。信光の長男 2 |
... |
... |
... |
松平清宗 |
父 |
徳川家康の家臣。長篠の戦い等で活躍 1 |
深溝松平好景の娘 |
母 |
1 |
松平家清 |
本人 |
竹谷松平家六代当主、三河吉田藩初代藩主 2 |
天桂院(おきん) |
正室 |
徳川家康の異父妹。久松俊勝の娘 1 |
松平忠清 |
嫡男 |
三河吉田藩二代藩主。嗣子なく死去し改易 1 |
松平清昌 |
次男 |
旗本として竹谷松平家を再興 1 |
娘 |
子 |
家康の養女となり浅野長重に嫁ぐ 1 |
娘 |
子 |
本多康紀の妻 5 |
娘 |
子 |
松平泰高の妻 5 |
松平清定 |
弟 |
家清から3200石を分与される 1 |
徳川家康 |
主君・義兄 |
江戸幕府初代将軍 |
於大の方 |
義母 |
家康と天桂院の母 |
久松俊勝 |
義父 |
天桂院の父 |
浅野長重 |
娘婿 |
備後三次藩主。家清の娘(家康養女)を娶る |
浅野長矩 |
曾孫(娘の血筋) |
赤穂藩主。通称、内匠頭 1 |
西暦 |
和暦 |
年齢 |
石高・役職 |
出来事 |
1566年 |
永禄9年 |
1歳 |
- |
三河国宝飯郡竹谷にて誕生 1 。 |
1581年頃 |
天正9年頃 |
16歳 |
- |
元服し、家康から「家」の字を賜り家清と名乗る。家康の異父妹・天桂院と婚姻 5 。 |
1582年 |
天正10年 |
17歳 |
竹谷松平家当主 |
甲斐攻めに従軍し戦功を挙げる。父・清宗から家督を相続 1 。 |
1584年 |
天正12年 |
19歳 |
- |
小牧・長久手の戦いで、父と共に駿河興国寺城を守備 1 。 |
1590年 |
天正18年 |
25歳 |
武蔵八幡山藩主 10,000石 |
家康の関東移封に従い、武蔵国児玉郡八幡山に一万石を与えられる 1 。正室・天桂院が死去 15 。 |
1591年 |
天正19年 |
26歳 |
10,000石 |
九戸政実の乱鎮圧のため、奥州へ従軍 1 。 |
1600年 |
慶長5年 |
35歳 |
10,000石 |
関ヶ原の戦いにおいて、尾張国清洲城の守備を務める 1 。 |
1601年 |
慶長6年 |
36歳 |
三河吉田藩主 30,000石 |
戦功により二万石を加増され、三河国吉田に移封。初代吉田藩主となる 17 。 |
1611年 |
慶長15年 |
45歳 |
30,000石 |
12月21日、死去。享年45 1 。 |