日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、徳川家康による天下統一と徳川幕府の体制確立という激動の時代を生きた武将、松平康重(まつだいら やすしげ)。彼の名は、徳川四天王のように武勇伝をもって華々しく語られることは少ない。しかし、その生涯を丹念に追うと、徳川政権の安定化戦略を映し出す鏡のような、極めて重要な存在であったことが浮かび上がる。康重の人生は、国家の重要拠点を黙々と守り続けた「鎮護の武将」としての軌跡であり、主君からの絶大な「信頼」を体現したものであった 1 。
本報告では、松平康重の生涯を徹底的に掘り下げる。その分析の軸となるのは、二つの重要なキーワードである。一つは、彼の経歴を貫く「戦略的要衝の守護者」としての役割。そしてもう一つは、その背景に常に影を落とす「徳川家康の落胤説」という特異な出自の謎である。これらの要素が、彼のキャリアと歴史的評価をいかに形成していったのかを解き明かすことで、徳川政権成立期における譜代大名の役割と、家康という人物の統治戦略の一端を明らかにしていく。
松平康重の人物像を理解する上で、彼が属した「松井松平家」の成り立ちを詳述することは不可欠である。この家の歴史は、康重が徳川家から受けた特別な信頼の淵源を物語っている。
松井松平家の本姓は松井氏であり、三河国幡豆郡を本拠としていた 3 。康重の父である松井忠次(まつい ただつぐ)、後の松平康親(やすちか)は、当初は今川氏や、三河の有力国人であった東条吉良氏に仕えていた 4 。しかし、桶狭間の戦いを経て徳川家康が三河統一に乗り出すと、忠次は早い段階から家康に帰属し、その麾下で頭角を現していく 5 。
松井家は、徳川家(松平家)の古くからの譜代家臣ではなく、家康が三河を平定していく過程でその実力と忠誠心を見出され、重用されるようになった「新興の譜代」であった。この事実は、徳川家臣団が血縁だけでなく、実力と功績によっても形成されていたことを示している。
松井忠次は、家康の主要な戦いの多くで最前線に立ち、数々の武功を挙げた。浅井・朝倉連合軍と戦った姉川の戦い、武田信玄に大敗を喫した三方ヶ原の戦い、そして武田騎馬隊を打ち破った長篠の戦いなど、徳川家の命運を左右する合戦に常にその姿はあった 6 。特に、武田氏との長年にわたる抗争においては、諏訪原城攻めなどで常に最前線の城を任され、徳川領の防衛に大きく貢献した 5 。
これらの目覚ましい忠功に対し、家康は最大限の評価をもって応えた。忠次は松平の姓を名乗ることを許され、「松平周防守康親」と名乗るに至る 3 。これに加え、家康自身の偏諱である「康」の字、徳川一門の象徴でもある蔦紋、そして卍槍までもが下賜された 4 。
松平姓の下賜は、単なる恩賞以上の意味を持っていた。それは、松井家を血縁によらないながらも徳川一門に準ずる特別な家臣として遇するという、家康の明確な意思表示であった。忠功を絶対的な基準として評価し、家臣団の中核に組み込むという家康の人材登用術がここに見て取れる。康重は、この「忠功によって一代で築かれた家」の嫡男として、父が勝ち取った家康からの絶大な「信頼」という無形の財産を、生まれながらにして継承することになったのである。
松平康重の人物像を語る上で、避けて通れないのが彼の出自にまつわる特異な説、すなわち「徳川家康の落胤(らくいん)説」である。この説は、彼の生涯にわたる厚遇の背景を読み解く鍵の一つとされている。
康重は永禄11年(1568年)、松平康親の長男として生まれた 1 。天正11年(1583年)3月16日、16歳で元服を迎えた際には、主君である徳川家康から直々に偏諱「康」の字を授かり、初名を「康次(やすつぐ)」、後に「康重」と改めた 1 。主君から一字を拝領することは、譜代大名の嫡男として極めて順当かつ名誉なことであり、彼のキャリアは徳川家臣団のエリートとして順調な滑り出しを見せた。
公式の記録では康重は松平康親の子とされているが、その一方で、実は家康の落胤、すなわち隠し子であったとする説が古くから伝えられている 13 。この説によれば、康重の生母は家康に仕える侍女であり、彼女が家康の子を身ごもったままの状態で、重臣である松平康親に嫁いだとされる 1 。
この説を補強する根拠として、いくつかの点が挙げられる。一つは、康重の子孫が代々、家康から与えられた通字「康」を世襲していることである 13 。また、後述する丹波篠山城という、対豊臣戦略の最重要拠点であり、天下普請で築かれた城の初代城主に康重が抜擢されたことなど、彼のキャリアにおける破格の厚遇も、この説の信憑性を高める一因となっている 14 。
この説の真偽を現代において証明することは極めて困難である。しかし、歴史を考察する上で重要なのは、「なぜこのような説が生まれ、語り継がれてきたのか」という点にある。康重が受けた数々の厚遇は、単なる「功臣の子」というだけでは説明しきれないと、当時の人々が感じていたことの証左と言える。この説は、家康の康重に対する並々ならぬ信頼と期待を、最も分かりやすい「血縁」という形で説明しようとする物語的な解釈なのである。真偽はともかく、この説の存在自体が、康重が徳川政権にとって「特別な存在」であったことを雄弁に物語っており、同時に、松井松平家の権威をより一層高めるという政治的な機能も果たしていた可能性が考えられる。
青年期の松平康重が、徳川領の最前線で果たした役割は、彼の後のキャリアを決定づける上で極めて重要な意味を持っていた。
天正11年(1583年)、父・康親が死去すると、康重はわずか16歳で家督を相続し、駿河国三枚橋城(通称・沼津城)の城主となった 2 。この時期、徳川家にとって最大の脅威は、関東に覇を唱える後北条氏であった。沼津城は、その北条領と直接境を接する、文字通りの最前線基地であった。
康重は、家康が関東に移封される天正18年(1590年)までの約8年間、この地で北条氏と対峙し続けるという重責を担った 1 。特に、天正壬午の乱(1582年)以降、徳川と北条の関係は緊張と和睦を繰り返しており、いつ軍事衝突が再燃してもおかしくない状況にあった 16 。このような気の抜けない環境で、若き康重は防衛の最前線を守り抜いたのである。そして、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、徳川軍の一翼を担い、長年対峙してきた北条氏との最終決戦に臨んだ 2 。
沼津城主としての8年間は、康重にとって最初の、そして極めて過酷な試練であった。この重圧のかかる任務を大きな失敗なく完遂したという事実は、家康の彼に対する評価を決定的なものにしたと考えられる。派手な武功を立てること以上に、長期にわたって重要拠点を堅実に守り抜くという忍耐と責任感こそが、彼の真価を証明した。この経験を通じて、康重は家康から「信頼でき、安心して任せられる男」として、確固たる評価を勝ち取ったのである。
家康の関東入国は、松平康重のキャリアにおいて大きな転機となった。彼は譜代大名として着実にその地位を向上させ、徳川政権の中枢へと歩みを進めていく。康重の生涯がいかに徳川家の戦略と連動していたかは、その経歴と石高の変遷を見れば一目瞭然である。
表1:松平康重の経歴と石高の変遷
年代 (西暦) |
役職・城主 |
領地 |
石高 |
主な出来事 |
天正11年 (1583) |
沼津城主 |
駿河国 |
- |
家督相続、対北条氏防衛 13 |
天正18年 (1590) |
騎西藩主 |
武蔵国騎西 |
2万石 |
家康の関東入国に伴い大名となる 1 |
慶長6年 (1601) |
笠間藩主 |
常陸国笠間 |
3万石 |
関ヶ原の戦功により加増移封 1 |
慶長13年 (1608) |
篠山藩主 |
丹波国篠山 |
5万石 |
篠山城築城、対大坂の抑え 1 |
元和5年 (1619) |
岸和田藩主 |
和泉国岸和田 |
5万石→6万石 |
大坂の陣の戦功により移封、後に加増 1 |
天正18年(1590年)、小田原征伐が終結し、家康が豊臣秀吉の命により関東へ移封されると、康重はこれに従った。長年の対北条氏防衛の功績を評価され、武蔵国騎西(きさい)に2万石を与えられ、ここに大名としての第一歩を踏み出した 1 。騎西城は、新たな本拠地である江戸の防衛網を形成する上で重要な拠点の一つであった。この時期、文禄4年(1595年)には、徳川家中の有力大名として豊臣姓を授与されており 1 、これは彼が豊臣政権からも公的にその存在を認められたことを意味する。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この時、康重は徳川秀忠率いる本隊には加わらず、西軍の重要拠点であった美濃国・大垣城の守備、すなわち城に籠る西軍諸将を監視し、封じ込めるという役割を担った 2 。これは本戦での戦闘に比べれば地味な任務であったが、敵の動きを牽制し、東軍の背後を安定させるという極めて重要なものであった。
この戦功により、戦後の慶長6年(1601年)、康重は1万石を加増され、常陸国笠間3万石へと移封された 2 。笠間は、関ヶ原の戦いの結果、秋田へ転封となった大大名・佐竹義宣の旧領の一部であり、領内の動揺が懸念される地であった。案の定、佐竹氏の旧臣たちが水戸城の奪還を企てる一揆を計画すると、康重はその鎮圧と事後処理、そして水戸城の守備を命じられ、これを完遂した 20 。
関ヶ原での大垣城の抑えや、笠間での佐竹旧臣の鎮圧といった任務は、派手な戦闘ではないが、戦後の新秩序を形成する上で不可欠な「後始末」と「安定化」の作業である。家康がこうした忍耐力と確実性、そして政治的な手腕が求められる仕事を康重に一貫して任せていることは、彼が単なる武人ではなく、信頼できる統治者として高く評価されていたことを示している。康重は、徳川政権の安定期への移行を担う、重要な役割を果たしたのであった。
松平康重のキャリアにおいて、彼への信頼が最も象徴的な形で示されたのが、丹波篠山城主への抜擢であった。これは、彼が徳川政権の対豊臣戦略において、いかに中心的な役割を担ったかを物語っている。
慶長13年(1608年)、康重は2万石の加増を受け、丹波八上城5万石へ移封される 1 。そしてその翌年の慶長14年(1609年)、家康は康重に直接命令を下した。大坂城に健在であった豊臣家、および豊臣恩顧の西国大名への抑えとして、山陰道の要衝である篠山の地に、全く新たな城を築けというものであった 21 。
この篠山城の築城は、池田輝政を普請総奉行とし、西国15か国20の大名が動員されるという、まさに国家的な大事業「天下普請」であった 23 。縄張り(設計)は、当代随一の築城の名手と謳われた藤堂高虎が担当した 22 。家康は、幕府の威信をかけたこの城の初代城主に、他ならぬ松平康重を指名したのである 21 。城が完成すると、康重は慶長15年(1610年)から城下町の建設にも着手し、篠山藩の統治基盤を固めていった 21 。
篠山城への配置は、康重に対する家康の信頼が絶対的なものであったことを示す何よりの証拠である。天下普請で築かれた対豊臣包囲網の最重要拠点の一つを、家康は(落胤説が囁かれるほど)特別な信頼を置く康重に委ねた。これは、徳川の国家戦略において、康重が単なる一武将ではなく、地政学的な要を担う存在として位置づけられていたことを意味する。彼の価値は、戦場で敵を討つこと以上に、戦略的拠点を確実に保持し、敵を「抑える」ことにあったのである。
篠山城主としての康重の役割は、慶長19年(1614年)に始まった大坂の陣で現実のものとなった。冬の陣では、康重は丹波篠山藩主として軍勢を率いて出陣。摂津国の吹田に陣を構え、大坂城を包囲する徳川方の一翼を担った 2 。
翌元和元年(1615年)の夏の陣においては、直接的な戦闘部隊としてではなく、山陰道の守備を担当した 2 。これは、西国から豊臣方に味方する勢力が現れることを警戒し、京へ至るルートを遮断するという、後方の安全を確保するための重要な任務であった。篠山城が築かれた戦略的な目的が、この大坂の陣において遺憾なく発揮されたのである。
大坂の陣が終結し、世に泰平が訪れると、松平康重の役割もまた、戦う武将から治める大名へとその重心を移していく。彼の最後の任地である和泉国岸和田での治世は、その象徴であった。
元和5年(1619年)、大坂の陣での戦功が認められ、康重は大坂平野の南方に位置する要衝、和泉国岸和田5万石に移封された 1 。岸和田は、大坂の守りを固めると同時に、南に隣接する紀州徳川家を牽制するという意味合いも持つ、戦略的に重要な地であった。
岸和田藩主となった康重は、城下町の整備や領地の経営に力を注いだ 2 。また、岸和田城の修築も行い、藩の拠点としての機能を強化した 26 。彼の統治能力を示す顕著な例が、寛永8年(1631年)の石高改訂である。康重は、検地によって明らかになった領内の実情に基づき幕府に願い出て、藩の公式な石高を5万石から6万石へと引き上げることに成功した 2 。これは、軍事力ではなく、優れた藩政手腕と幕府との良好な関係によって藩の価値を高めたことを示すものであり、近世大名としての彼の姿を明確に映し出している。
寛永11年(1634年)には従四位下に叙任されるという栄誉を受け 1 、名実ともに徳川政権の重鎮としての地位を確立した。そして、寛永17年(1640年)6月27日、康重は73年の生涯に幕を閉じた 1 。その墓所は、最後の任地である岸和田の心蓮寺跡や、京都の黒谷・金戒光明寺などに残されている 12 。
岸和田での治績は、康重が戦乱の時代を生き抜いた武将であると同時に、泰平の世を治める有能な行政官でもあったことを証明している。彼の生涯は、戦国時代から江戸時代へと社会が大きく転換していく中で、一人の武将がその変化に見事に適応し、新たな時代の統治者へと自己を変革させていった軌跡として捉えることができる。
松平康重の死後、彼が築いた松井松平家は、次世代へと引き継がれていった。
家督は、長男の松平康政ではなく、次男の松平康映(やすてる)が相続した 1 。『寛政重修諸家譜』などの史料によれば康政の存在は確認できるものの、彼がなぜ家督を継がなかったのか、その明確な理由は記されておらず、詳細は不明である 13 。また、三男の康命(やすのぶ)は父の遺領から分知を受けて分家し、旗本となっている 28 。
家督を継いだ康映以降、松井松平家は幕府の信頼厚い譜代大名として、その役割を果たし続けた。岸和田から播磨山崎、そして石見浜田へ移り、その後も下総古河、三河岡崎、陸奥棚倉、そして幕末には武蔵川越へと、幕府の全国的な配置転換戦略の中で各地へ転封を重ねていった 9 。
時代が下り、幕末の川越藩主時代には、家臣の中から「蛍の光」の日本語歌詞を作詞したことで知られる稲垣千穎(いながき ちかい)を輩出している。また、現代の著名な俳優である市村正親氏が、この松井松平家の家臣の末裔であることも伝えられている 9 。康重が築いた家は、形を変えながらも、日本の歴史と文化の中にその足跡を残しているのである。
松平康重の生涯は、徳川四天王のような華々しい武勲や、劇的な逸話に彩られたものではない。しかし、彼の歴史的評価は、その堅実さと信頼性の中にこそ見出されるべきである。彼の人生は、徳川政権という巨大な建造物を盤石にするために据えられた、目立たずとも決して欠かすことのできない「礎石」そのものであった。
対北条氏の最前線であった沼津、関東の新領地を安定させるための騎西と笠間、そして対豊臣戦略の心臓部であった丹波篠山、最後に大坂と紀州を睨む岸和田。彼のキャリアを俯瞰すれば、徳川政権が直面した最重要課題の全ての局面において、常に最も信頼を要する戦略的要衝に配置され続けたことがわかる。これは、家康、秀忠、家光という徳川三代の将軍から寄せられた、揺るぎない信頼の証左に他ならない。
彼の出自にまつわる「落胤説」は、その真偽を超えて、彼が徳川家にとって「特別な存在」であったことを象徴している。そして、その特別な期待に、彼は長期にわたる堅実な任務遂行能力をもって応え続けた。派手な功名よりも、任された場所を確実に守り、安定させる。その地道な働きこそが、彼の最大の功績であった。
松平康重の生涯は、譜代大名のあるべき姿を体現したものであり、戦乱の終焉と新たな泰平の世の到来を、その身をもって示した「信頼の軌跡」であったと言える。彼の存在なくして、徳川幕府の盤石な基礎はなかったかもしれない。まさに彼は、徳川の安寧を築いた、偉大なる礎石だったのである。