松平康長(まつだいら やすなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり、大名である。彼は単に徳川家康に仕えた数多の家臣の一人ではない。家康の異父妹を正室に迎え、譜代家臣として初めて「松平」の姓を賜るという、前例のない栄誉に浴した人物である 1 。この事実は、康長が徳川一門に準ずる特別な信頼を得ていたことを何よりも雄弁に物語っている。
彼の生涯は、武将としての赫々たる武功と、為政者としての卓越した行政手腕が見事に融合している。関ヶ原の戦いや大坂の陣といった天下の帰趨を決する戦役で重要な役割を果たし、藩主としては度重なる転封(国替え)を経験しながらも、最終的に信濃松本藩7万石の領主として近世的な領国経営の礎を築いた。
本報告書は、松平康長の出自からその死に至るまでの全生涯を、現存する史料に基づき徹底的に調査・分析するものである。彼の足跡を追うことは、徳川幕藩体制がいかにして構築され、譜代大名という存在がその中でいかなる役割を期待され、また、いかなる現実を生きたのかを解き明かす上で、極めて重要な示唆を与える。康長の生涯を通じて、江戸初期における譜代大名の理想と現実を深く探求する。
松平康長は、永禄5年(1562年)、三河国渥美郡の二連木城(にれんぎじょう、現在の愛知県豊橋市仁連木町)において、戸田忠重(ただしげ)の子として生を受けた 1 。幼名は虎千代(とらちよ)と伝わる 5 。
彼の出自である戸田氏は、三河湾から渥美半島一帯に勢力を張った有力な国人領主の嫡流であった 4 。その系譜は、藤原北家の流れを汲む公家の名門・正親町三条家(おおぎまちさんじょうけ)の支流とされ、武家の中でも高い家格を誇っていた 1 。この由緒ある家柄は、後に徳川家康が彼を重用し、特別な関係を築く上での一つの背景となったと考えられる。康長の父は戸田忠重、母は同族の戸田吉光の娘である 4 。さらに、徳川家康の外祖父(母・於大の方の父)にあたる戸田康光は康長の曽祖父であり、両者は遠縁ながら血縁関係にあった 7 。
一部の資料では康長を「長男」 4 、他では「次男」 3 と記述するものがあるが、これは生物学的な出生順と、家督を継ぐべき「世嗣(せいし)」としての立場を示す呼称が混同された結果と推察される。叔父の跡を継いで家督を相続した事実から、彼が戸田宗家の後継者として位置づけられていたことは明らかである。
康長の運命を大きく動かしたのは、戸田宗家の家督相続であった。宗家15代当主であった叔父の戸田重貞が戦死した際、主君である徳川家康が直接介入し、その命令によって康長が跡目を継ぐこととなった 4 。
この家康の裁定は、単なる跡目相続の承認にとどまらない。それは、家康が有力家臣団である戸田家の内部事情に深く関与し、自らの意に沿う信頼できる人物を当主に据えることで、家臣団に対する統制力を強化しようとする明確な意図の表れであった。康長が後年生涯にわたって示した徳川家への揺るぎない忠誠は、この時に受けた家康からの大恩に深く根差していると言えよう。この出来事は、家康が三河の国人領主たちを、自らの手足となる強力な家臣団へと再編していく過程の一端を示す象徴的な事例である。
康長の地位を決定的なものにしたのは、徳川家との間に結ばれた二重の絆であった。天正2年(1574年)、元服した彼は家康から自身の諱(いみな)の一字である「康」の字を与えられ、「康長」と名乗った 3 。主君から偏諱を賜ることは、主従関係を名前に刻む、当時としては極めて重い意味を持つ儀式であった。
そして、彼のキャリアにおける最大の転機が訪れる。家康の異父妹、すなわち母・於大の方と久松俊勝との間に生まれた松姫を、正室として迎えたのである 1 。この婚姻により、康長は単なる譜代家臣という立場から、徳川家の姻戚、すなわち「準一門」とも言うべき特別な地位へと一躍昇格した。
この婚姻関係と、それまでの戦功を背景として、康長は徳川家康から「松平」の姓を名乗ることを許された 1 。これは、徳川一門以外の他家に対して松平姓が下賜された史上初の事例であり 1 、徳川家臣団の中における康長の序列を絶対的なものにした。これにより、三河以来の名門である戸田宗家は、特別な家格を持つ「戸田松平家」として、他の譜代大名とは一線を画す存在となったのである 4 。
この一連の措置は、単なる恩賞の積み重ねではない。家康が、武功、恩義、血縁、そして名誉という複数の楔(くさび)を打ち込むことで、絶対に裏切ることのない中核的家臣を創出しようとした、高度な政治戦略の現れであった。松平康長は、その戦略が最初に適用された、いわば「プロトタイプ」であり、後の譜代大名の処遇における重要な先例となったのである。
松平康長の生涯は、徳川家康の天下統一事業と分かちがたく結びついている。彼は数々の重要な合戦に参加し、武将として着実に功績を積み重ねていった。
康長の初陣は、天正9年(1581年)、武田氏支配下の遠江国における最重要拠点・高天神城(たかてんじんじょう)の攻略戦であった 4 。この戦いは、徳川・織田連合軍が兵糧攻めの末に勝利し、武田家滅亡の序曲となったことで知られる 13 。若き康長が、このような重要な戦役で武人としての第一歩を踏み出したことは、家康の期待の大きさを物語っている。
天正12年(1584年)には、豊臣秀吉と家康が直接対決した小牧・長久手の戦いに参陣。徳川四天王の一人である酒井忠次の指揮下に属し、徳川軍の中核部隊の一員として奮戦した 4 。
そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げである小田原征伐においては、別働隊として上野国の白井城を攻略するという具体的な武功を挙げた 4 。この功績は高く評価され、戦後、家康が関東へ移封された際に、武蔵国に1万石の所領を与えられる直接的な要因となった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、康長は徳川本隊には加わらず、西軍の石田三成らが本拠地としていた美濃国・大垣城の抑えという、極めて重要な任務を託された 15 。これは、家康が関ヶ原での本戦に全力を集中させるため、背後の脅威を確実に封じ込めるという戦略上、不可欠な役割であった。
9月14日深夜、石田三成ら西軍主力が関ヶ原へ向けて出陣したとの情報を得ると、康長は水野勝成、西尾光教らと共にこの好機を逃さず、手薄になった大垣城への総攻撃を敢行した 17 。この迅速な判断と行動は、家康の後顧の憂いを断ち、本戦での勝利を盤石にする上で決定的な意味を持った。激しい攻防の末、康長らは城を守る福原長堯(ふくはら ながたか)らを説得し、降伏・開城に至らしめた 17 。康長が降伏交渉の主要な相手方となっている点からも、彼がこの攻城軍において主将格の立場にあったことが窺える。この大垣城攻略の功績は、戦後の康長のキャリアを大きく飛躍させることになる。
徳川の世が盤石になりつつあった中で、豊臣家との最後の戦いとなった大坂の陣においても、康長は重要な役割を果たした。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、徳川四天王・榊原康政の子である榊原康勝らと共に、大坂城の東方を守る玉造口に布陣した 3 。
翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、最終決戦となった天王寺・岡山の戦いに参陣。徳川方本隊の天王寺口における第三陣に組み込まれ、豊臣方の猛攻に立ち向かった 3 。この戦いは凄惨を極め、康長自身も負傷するほどの激戦であったと伝わるが、最後まで持ち場を固守し、徳川方の勝利に大きく貢献した 3 。この最後の武功により、康長はさらなる加増を受け、その武人としてのキャリアを輝かしく締めくくった 4 。
康長の軍歴を俯瞰すると、一番槍を競うような派手な猛将タイプというよりは、大局を見据え、与えられた戦略的任務を的確に、そして確実に遂行する「良将」としての側面が際立つ。特に大垣城攻めでは、敵主力の不在という戦機を逃さない迅速な判断力、力攻めだけでなく交渉によって無用な損害を避けて開城させた政治的交渉力など、近世的な司令官に求められる総合的な能力の高さが示されている。彼の武功は、個人の武勇伝ではなく、徳川の天下統一という大きな戦略目標を深く理解し、それを実現するために貢献した点にこそ、その本質があると言えるだろう。
松平康長の生涯は、加増を伴う栄転の連続であったが、それは同時に頻繁な領地替え、すなわち「転封(てんぽう)」の連続でもあった。この事実は、江戸幕府初期における譜代大名の役割と、幕府による巧みな大名統制策の実態を浮き彫りにしている。
江戸幕府、特に家康・秀忠・家光の初期三代の将軍の時代において、転封は改易(領地没収)と並ぶ、極めて強力な大名統制策であった 19 。その目的は複合的であり、単なる配置換えにとどまらない高度な政治的意図が含まれていた。
第一に、大名とその家臣団を、先祖代々の土地が持つ地縁や血縁から物理的に切り離すことで、在地勢力と結びついて独立した勢力となることを防ぐ狙いがあった 19 。第二に、加賀の前田家や薩摩の島津家といった強大な外様大名を監視・牽制するため、信頼のおける譜代大名をその周辺や交通の要衝に配置するという、全国規模での戦略的配置の一環であった 23 。そして第三に、転封には莫大な費用がかかるため、その経済的負担を大名に強いることで財政を疲弊させ、謀反などを企てる余力を削ぐという側面も持っていた 26 。
康長の一連の転封は、石高の増加を伴う栄転であり、懲罰的な意味合いは全くない。むしろ、彼の幕府への忠勤と功績がいかに高く評価されていたかを示す証左である。しかし、その華々しい経歴の裏で、彼もまた、この幕府の統制システムの中に組み込まれていたのである。
康長の経歴をたどることは、徳川幕府による全国支配体制が確立していく過程を追体験することに等しい。彼の転封と石高の変遷は、その時々の功績と幕府の戦略的意図を明確に反映している。
表1:松平康長の転封と石高の変遷
年号 (西暦) |
旧領 -> 新領 |
石高 |
主な功績・背景 |
典拠 |
天正18年 (1590) |
三河二連木 -> 武蔵東方 |
10,000石 |
小田原征伐の功。家康の関東移封に伴う。 |
4 |
慶長6年 (1601) |
武蔵東方 -> 上野白井 |
20,000石 |
関ヶ原の戦い(大垣城攻略)の功。 |
3 |
慶長7年 (1602) |
上野白井 -> 下総古河 |
20,000石 |
白井城火災による移転。江戸防衛の要衝へ。 |
3 |
慶長17年 (1612) |
下総古河 -> 常陸笠間 |
30,000石 |
伏見城守衛などの勤功。対佐竹・伊達の抑え。 |
3 |
元和2年 (1616) |
常陸笠間 -> 上野高崎 |
50,000石 |
大坂の陣での戦功による加増。中山道の要衝。 |
3 |
元和3年 (1617) |
上野高崎 -> 信濃松本 |
70,000石 |
更なる加増。対加賀前田家の重要拠点へ。 |
3 |
この表が示すように、康長の石高は関ヶ原、大坂の陣という決定的な戦役での功績に応じて飛躍的に増加している。同時に、その配置先は江戸近郊の要地(武蔵、古河)、街道の結節点(高崎)、そして有力外様大名の抑え(笠間、松本)と、常に幕府の軍事・政治戦略と密接に連動していた。
「引っ越し大名」という言葉が示す通り、転封は藩にとって一大事業であり、その影響は甚大であった。最大の課題は、莫大な財政負担である 27 。家臣とその家族全員の移動費用、新しい領地での藩邸や家臣屋敷の建設費など、その支出は参勤交代の比ではなかった。
同時に、家臣団の構成にも恒常的な変化をもたらした。旧領の家臣を全て連れて行くことは困難であり、石高の増減に応じて家臣を召し抱えたり、あるいは解雇(リストラ)する必要が生じた。また、新領地で新たに地元の武士を家臣として登用することもあった 20 。実際に、後に戸田松平家が治めた松本藩の記録である『諸士出身記』には、康長がかつて藩主であった古河や、その子孫が治めた加納などで召し抱えられた家臣の名が記されており、家臣団が転封のたびに新たな血を入れ替えながら再編成されていった様子が窺える 33 。
このように、松平康長の転封歴は、幕府による「飴と鞭」の巧みな大名統制策を体現している。彼は「加増栄転」という飴を与えられ続ける一方で、転封に伴う財政負担と家臣団の流動化という鞭によって、自立した勢力となることを防がれ、常に幕府への依存度が高い状態に置かれていた。彼の華々しい出世街道は、裏を返せば、彼が幕府の統制システムに完全に従属し、その中で最適化された存在であったことの証明に他ならないのである。
元和3年(1617年)、松平康長は7万石の領主として信濃松本に入封した。ここでの彼の治績は、単なる一地方の統治にとどまらず、徳川幕府が目指した近世的な支配体制を地方レベルで実現する、重要な意味を持っていた。
信濃国(現在の長野県)は、江戸と西国を結ぶ中山道や甲州街道が貫通する、交通・軍事上の極めて重要な地域であった 35 。幕府にとって、この地を確実に掌握することは、全国支配の安定に不可欠であった。
特に、松本藩の北に位置する越中国・加賀国(富山県・石川県)には、外様大名筆頭である前田家が百万石の広大な領地を構えていた 36 。前田家は幕府にとって最大の潜在的脅威であり、その動向を常に監視し、有事の際にはその南下を阻止する必要があった。松本に、家康の姻戚であり、絶対的な信頼を置ける譜代大名である康長を配置したことは、この対前田家戦略における最重要の布石であった 23 。
康長は、歴戦の武将であると同時に、優れた行政手腕を持つ為政者でもあった。彼は松本藩主として、中世的な支配構造が色濃く残っていた信濃において、近世的な藩政の基礎を確立するための抜本的な改革を次々と断行した 29 。
これらの改革は、徳川幕府が全国で推し進めようとしていた「近世的支配体制」の縮図であった。康長は、幕府の政策意図を深く理解し、それを地方レベルで忠実に、かつ強力に実行する、極めて有能な「エージェント」としての役割を果たしたのである。特に、在地勢力の抵抗が予想される信濃において蔵米制への移行を断行できたのは、彼が「松平」の名と将軍家の姻戚という絶大な権威を背景に持っていたからこそ可能であった。康長の松本統治は、徳川の天下が単なる軍事力によってではなく、高度な統治システムによって支えられていたことを示す好例と言える。
松平康長は、その武功や治績だけでなく、人間性においても特筆すべき人物であった。彼の人柄や逸話は、彼がなぜ三代の将軍にわたって厚い信任を得られたのかを解き明かす鍵となる。
康長の人柄は、多くの史料で「実直で穏やか」であったと評されており、その誠実な性格が、徳川家康、秀忠、家光という三代の将軍から絶大な信頼を寄せられる最大の要因であった 4 。
康長は正室の松姫との間に長男・永兼(ながかね)を、側室との間に次男・忠光(ただみつ)を儲けたが、両名ともに早世してしまった 4 。そのため、家督は三男の庸直(やすなお、康直とも記される)が継ぐこととなった 41 。
康長の死後、庸直は播磨明石藩へ移封されたが、その翌年に18歳の若さで急逝してしまう 42 。その後、戸田松平家は甥の光重が跡を継ぎ、幾度かの転封を重ねた後、享保10年(1725年)に再び信濃松本藩主として復帰し、そのまま幕末を迎えることとなる 11 。明治維新後、家名は旧姓の「戸田」に復した 11 。なお、一部の資料では康長の子孫が現在の皇室に繋がるとされているが 4 、これは公式な系図で詳細な検証が必要な情報であり、本報告書では参考情報として留めておく。
寛永9年(1632年)12月12日、松平康長は治世の地であった信濃松本にて、71年の生涯を閉じた 3 。病に倒れた際には、三代将軍・家光が直々に侍医の野間玄沢を松本へ派遣しており、最期まで幕府から格別の厚遇を受けていたことがわかる 4 。
その亡骸は、松本城下にある丹波塚に葬られた 3 。康長の優れた治績と徳の高い人柄は領民から深く慕われ、後年、松本市の松本神社において祭神の一柱として祀られることとなった 4 。さらに、明治時代には彼の子孫である戸田康泰子爵らが開拓した北海道雨竜町の雨竜神社にも祭神として祀られており、その遺徳が時代と場所を越えて長く語り継がれている 4 。
松平康長の生涯は、徳川家康による天下統一から幕藩体制の確立に至る、激動の時代そのものを映し出している。彼は、三河の有力国人領主の家に生まれながら、家康との間に結ばれた恩義、婚姻、そして史上初となる松平姓下賜という絶大な信頼を背景に、譜代大名の筆頭格としての地位を築き上げた。
武人としては、高天神城攻めでの初陣から始まり、関ヶ原の戦いにおける大垣城攻略、そして大坂の陣での奮戦に至るまで、徳川の覇業を決定づける数々の戦役で重要な役割を果たした。為政者としては、度重なる転封を経験しながらも、最終的に腰を据えた信濃松本において、惣検地の断行や蔵米制への移行といった近世的な藩政改革を成し遂げ、領国経営の礎を固めた。そしてその人柄は、功を誇らず、主君への忠誠を尽くす「実直で穏やか」なものであり、三代の将軍に愛された。その姿は、まさに「譜代の鑑」と呼ぶにふさわしい。
しかしその一方で、彼の生涯は、幕府の強力な統制下に置かれた譜代大名の現実をも色濃く反映している。頻繁な転封は、加増を伴う栄光の道であったと同時に、藩財政を圧迫し、家臣団の構成を常に流動化させる、幕府による巧妙な統制策でもあった。彼は、輝かしい栄誉と引き換えに、常に幕府の意向に忠実に従い、その戦略の駒として動くという宿命を背負っていたのである。
結論として、松平康長は、徳川の天下という巨大で精緻なシステムを支える、忠実かつ有能な「歯車」として、その役割を完璧に果たした人物であったと評価できる。個人の武勇や野心が歴史を動かした戦国時代が終焉を迎え、組織への忠誠と行政能力が武士の価値を決定する新しい時代、すなわち江戸時代の到来を、彼の生涯は力強く告げているのである。