最終更新日 2025-07-14

松平忠昌

越前宰相 松平忠昌公 総合調査報告

序章:鬼気迫る猛将、越前宰相・松平忠昌

日本の戦国時代の終焉と江戸幕府の泰平の世の始まりを告げる大坂の陣。その戦場において、片鎌槍を手に目覚ましい武功を挙げ、時代の寵児として躍り出た若き武将がいた。徳川家康の孫、結城秀康の次男、松平忠昌である 1 。彼の名は、多くの場合、この鮮烈な武勇伝と共に語られる。しかし、彼の生涯は単なる一人の猛将の物語に留まるものではない。

忠昌の人生は、徳川幕府創成期の複雑な政治力学そのものを映し出す鏡であった。不行状を理由に改易された兄・松平忠直の跡を継ぎ、大大名の家督を相続するという劇的な運命の転換 1 。幕府の全国支配戦略の一環として繰り返される加増と転封 3 。そして、50万石を超える大藩の藩主として、荒廃した領国の再興と統治という重責。これら全てが、彼の生涯に刻まれた、単なる武勇伝では語り尽くせぬ重みである。

本報告書は、松平忠昌という一人の人物の生涯を徹底的に追跡・分析することを通じて、彼が果たした歴史的役割の多面性を解き明かすことを目的とする。大坂の陣における武功はもちろんのこと、兄の改易という一大政変の真相、目まぐるしい転封の裏にある幕府の意図、そして越前福井藩主としての具体的な治績と、その中で見せた為政者としての器量にまで深く踏み込む。さらに、豪放な酒豪としての一面や、家臣の諫言に耳を傾ける理知的な姿、当代一流の文化人との交流など、逸話から浮かび上がる彼の人間的魅力にも光を当てる。

松平忠昌の生涯は、一個人の物語を超え、徳川幕府という巨大な政治体制がその支配を盤石なものへと変えていく、まさにその時代の縮図である。戦国の遺風が色濃く残る中で、いかにして近世的な統治体制が築かれていったのか。忠昌という類稀なる人物の軌跡を辿ることは、この歴史的な大転換を理解するための、またとない鍵となるであろう。

表1:松平忠昌 略年表

年号(西暦)

忠昌の動向(年齢)

幕府・関連人物の動向

慶長2年(1597)

大坂にて誕生(1歳)

父・結城秀康、豊臣政権下の大名として在京。

慶長5年(1600)

(4歳)

関ヶ原の戦い。父・秀康は関東で上杉景勝を牽制。

慶長8年(1603)

(7歳)

祖父・徳川家康が征夷大将軍に就任、江戸幕府開府。

慶長12年(1607)

父・秀康死去。上総姉崎1万石を拝領(11歳)

叔父・徳川秀忠が将軍職を継承(慶長10年)。

慶長19年(1614)

大坂冬の陣に将軍秀忠の旗本として参陣(18歳)

大坂冬の陣勃発。

元和元年(1615)

元服し「忠昌」と名乗る。大坂夏の陣で武功を挙げる。常陸下妻3万石へ加増移封(19歳)

大坂夏の陣、豊臣家滅亡。武家諸法度(元和令)発布。

元和2年(1616)

信濃松代12万石へ加増移封(20歳)

祖父・家康死去。松平忠輝改易。

元和5年(1619)

越後高田25万石へ加増移封(23歳)

福島正則改易。

元和9年(1623)

(27歳)

兄・松平忠直が不行状により改易。従弟・徳川家光が三代将軍に就任。

寛永元年(1624)

兄の跡を継ぎ越前北ノ庄50万石余を相続。城下を「福居」と改名(28歳)

忠直の子・光長は忠昌の旧領・高田へ移封。

寛永3年(1626)

参議に叙任され「越前宰相」と称される(30歳)

家光の上洛に供奉。

寛永11年(1634)

領地朱印状を拝領(50万5280石)(38歳)

家光、大軍を率いて上洛。

寛永12年(1635)

(39歳)

武家諸法度(寛永令)発布。参勤交代が制度化。

寛永14年(1637)

(41歳)

島原の乱勃発。

正保2年(1645)

江戸霊岸島屋敷にて死去(49歳)。遺領は息子3人に分割相続される。

嫡男・光通が福井藩45万石を継承。


第一章:将軍家の血脈と激動の幼少期

松平忠昌の生涯を理解する上で、その出自と幼少期の環境は決定的に重要である。彼は、天下人・徳川家康を祖父に、二代将軍・徳川秀忠を叔父に持つ、紛れもない将軍家の血脈に連なる貴公子であった。しかし、その一方で、父・結城秀康の複雑で不遇とも言える経歴は、忠昌の初期人格形成に深い影を落とし、彼のその後の生き方を方向づける強烈な原動力となった。

1.1 徳川家康の孫、結城秀康の次男としての誕生

松平忠昌は、慶長2年(1597年)12月14日、摂津国大坂の屋敷にて生を受けた 1 。幼名は虎松、あるいは虎之助と称された 4 。父は、徳川家康の次男であり、当時越前北ノ庄藩の初代藩主であった結城秀康。母は、秀康の家臣・中川一茂の娘で、後に清涼院と号した岡山である 5 。忠昌には、同じ母から生まれた兄・松平忠直がいた 4

父・秀康の生涯は、徳川一門の中でも特異なものであった。家康の次男として生まれながら、双子であったことや母・お万の方の身分が低かったことなどを理由に、家康から疎まれたという説が広く知られている 6 。彼は幼くして、天下統一を進める豊臣秀吉のもとへ、人質としての意味合いが強い養子に出される 7 。さらに、秀吉に実子・鶴松が誕生すると、今度は関東の名門・結城晴朝のもとへ再び養子に出され、結城家を継ぐことになった 9 。徳川宗家を継ぐ道を絶たれ、政治の駒として翻弄された秀康の胸中には、複雑な思いが渦巻いていたことであろう。彼が自らの存在価値を証明する術は、戦場における「武」の働きをおいて他になかった。関ヶ原の戦いにおいて関東の抑えとして上杉景勝の南下を防いだ功績により、越前68万石という大領を与えられたことは、まさに彼の武勇が勝ち取ったものであった 12

このような父の経歴は、その息子である忠昌と忠直の価値観に決定的な影響を与えたと考えられる。父が武功によって自らの地位を確立した姿を間近に見て育った兄弟にとって、「徳川一門として認められるためには、何よりも戦場での働きが重要である」という認識は、深く心に刻まれたはずである。後年、忠昌が見せる戦への異常なまでの執着は、この父から受け継いだ、武功によって自らの存在を証明せんとする強烈な渇望の表れに他ならなかった。

1.2 父との死別と将軍家での養育

慶長12年(1607年)、父・秀康は34歳という若さで病没する 1 。忠昌、いまだ11歳の少年であった。父という大きな支柱を失った忠昌であったが、彼の運命はここから大きく動き出す。父の死後、彼は駿府城に赴いて祖父である大御所・家康に、そして江戸城で叔父にあたる二代将軍・秀忠に初めて謁見した 1 。そして、そのまま秀忠の側近くで養育されることとなったのである 4

これは単なる温情措置ではなかった。秀忠にとって、兄・信康の切腹、そして武勇に優れた次兄・秀康の養子入りという経緯を経て自らが後継者となった経験から、一門の結束と統制の重要性は骨身に染みていた。有力親藩である越前松平家の、父を失った後継者候補を江戸城に引き取り、将軍の権威を日々肌で感じさせることは、幕府への絶対的な忠誠心を植え付けるための最も効果的な帝王学教育であった。

同年、秀忠は忠昌に上総国姉崎(現在の千葉県市原市)に1万石の領地を与え、独立した大名としての第一歩を踏み出させた 1 。これもまた、若いうちから領主としての自覚と責任感を涵養させるための、周到な教育的配慮であったと言えよう。さらに、家康の側室であった英勝院(於梶の方)の猶子となるが、これは水戸徳川家の祖・徳川頼房と同様の措置であり、忠昌が将軍家にとって特別な存在として、将来を嘱望されていたことを物語っている 4 。祖父・家康と叔父・秀忠という、当代最高の権力者の下で過ごしたこの時期は、忠昌の政治的感覚を磨き、後の大藩統治の礎を築く上で、計り知れないほど重要な期間となったのである。

表2:松平忠昌 家系図

コード スニペット

graph TD
subgraph 徳川将軍家
A[徳川家康]
A -- 次男 --> B[結城秀康]
A -- 三男 --> C[徳川秀忠<br>(二代将軍)]
C -- 長男 --> D[徳川家光<br>(三代将軍)]
end

subgraph 越前松平家
B -- 母:中川氏 --> E[松平忠直<br>(福井藩二代)]
B -- 母:中川氏 --> F(松平忠昌<br>(福井藩三代))
B -- 異母弟 --> G[松平直政ら]

F -- 継室:広橋氏 --> H[松平光通<br>(福井藩四代)]
F -- 側室:白石氏 --> I[松平昌勝<br>(松岡藩祖)]
F -- 側室:浦上氏 --> J[松平昌親<br>(吉江藩祖、福井藩五・七代)]
F -- 娘 --> K[千姫<br>(毛利綱広正室)]
end

A -- 従兄弟 --> F
C -- 甥 --> F
D -- 従兄弟 --> F


第二章:初陣への渇望と大坂の陣での武勇伝

松平忠昌の名を歴史に刻んだ最初の、そして最も鮮烈な出来事は、大坂の陣における武功であった。この戦いは、彼の武人としての原点であり、その後のキャリアと彼が率いることとなる福井藩の性格を決定づけた。彼の行動は、単なる若武者の血気にはやる功名心に留まらず、父・秀康から受け継いだ「武」への執着と、徳川一門としての自らの存在価値を証明しようとする強い意志の表れであった。

2.1 若き武者の焦燥:元服の逸話と出陣への執念

慶長19年(1614年)に豊臣方との緊張が高まり、大坂冬の陣が勃発すると、18歳になっていた忠昌は旗本として将軍秀忠の本陣に随行する 1 。この時、幕府の老臣である本多正信が何かと気遣うほどの若さであったという 1 。しかし、冬の陣が和議によって終結し、翌慶長20年(元和元年、1615年)に再び戦雲が垂れ込め始めると、忠昌の焦燥は頂点に達する。彼は、自らがまだ元服前の若者であることが、来るべき決戦への出陣を妨げる最大の障害になると考えた。「若年」を理由に参戦が許されない事態を何よりも恐れたのである 1

この危機感から、忠昌は異例の行動に出る。決戦直前の元和元年正月に、彼は急いで元服を済ませてしまったのである。一説には、家臣に命じて自らの前髪を切り落とさせ、成人としての体裁を整えたとさえ伝わっている 5 。この強い意志が通じ、忠昌は叔父である将軍秀忠から偏諱(「忠」の一字)を賜り、「松平伊予守忠昌」と名乗ることを許された。同時に従四位下侍従に叙任され、晴れて一人の武将として戦場に立つ資格を得たのである 3 。この一連の逸話は、忠昌の戦への渇望がいかに強烈なものであったかを雄弁に物語っている。

2.2 片鎌槍、戦場に閃く:一番乗りの功名と武功

出陣の許可を得た忠昌は、大坂夏の陣において、兄である越前藩主・松平忠直の軍に属し、三十人余りの将兵を率いる一隊の将として参戦した 1 。そして、天王寺・岡山の戦いにおいて、父譲りの勇猛さを遺憾なく発揮する。

彼は越前軍の一員として、豊臣方の最終防衛線を突破し、大坂城への一番乗りの功名を挙げるという快挙を成し遂げた 4 。その戦いぶりは凄まじく、忠昌自身が敵兵の首を二つ挙げ、彼が率いた部隊全体では五十七もの首級を挙げるという輝かしい戦果を記録している 4 。この時、彼が愛用したとされるのが、穂先の一方が鎌状に分かれた特異な形状の「片鎌槍」であった。この槍は、忠昌の武勇を象徴する武具として後世に語り継がれ、彼が福井藩主となって以降は、藩の権威を示すシンボルとして大名行列の先頭に掲げられるのが慣例となった 4

この「片鎌槍」は、単なる武器ではなかった。それは、徳川の天下を最終的に確定させた歴史的な戦いにおいて、忠昌が徳川一門としての忠誠と能力を自らの血をもって証明した、動かぬ証拠であった。兄・忠直が後に失態を演じて藩の権威が揺らぐ中で、この槍は忠昌自身の正統性と武威を内外に示す、極めて重要な政治的シンボルとして機能したのである。後年、福井藩が処罰を受けた際にこの槍の使用が禁じられたことは、まさにこの槍が藩の「家格」そのものと一体化していたことを逆説的に物語っている 5

2.3 死線を超えて:大坂方の剣豪との死闘

忠昌の武功は、華々しい側面ばかりではなかった。彼は、落城寸前の大坂城内で、死の淵をさまよう壮絶な体験をしている。彼が挙げた首級の一つは、剣術の一派「念流」の達人のものであったと伝えられているが 1 、より詳細な逸話によれば、その達人との遭遇はまさに死闘であった。

伝承によれば、忠昌が馬上で城内に突入した際、「左太夫」と名乗る大坂方の凄腕の侍が襲いかかってきた。左太夫の太刀筋は鋭く、忠昌は咄嗟に身をかわしたものの、鎧の脛当を斬られ、乗馬の馬丁は一瞬で斬り捨てられた。馬から飛び降りた忠昌に、左太夫が再び襲いかかる。これを防ごうとした安藤治太夫ら忠昌の家臣三人が次々と斬り伏せられ、忠昌自身もついに追い詰められ、地に組み伏せられてしまった。まさに絶体絶命の危機であったが、その瞬間、駆けつけた他の家臣五、六名が左太夫に斬りかかり、数人がかりでようやくこれを討ち取って、主君の命を救ったという 4

この体験は、忠昌に戦場の非情さと、家臣の忠誠の尊さを骨身に染みて教えたに違いない。彼が単なる幸運だけでなく、家臣たちの命を懸けた奮闘によって生還したという事実は、彼のその後の藩主としての姿勢に大きな影響を与えた。彼が後年、槍術師、剣術師、柔術師、さらには軍学者の片山良庵といった多岐にわたる武芸の専門家を積極的に召し抱えたのは 4 、個人的な趣味というよりも、実戦の場で藩の生死を分けるのは個々の兵の武芸と組織的な戦術であると、この時の体験から痛感していたからであろう。大坂の陣での死闘は、忠昌の「武を尊ぶ藩政」の揺るぎない礎となったのである。


第三章:福井藩主への道程:兄・忠直の改易と越前入封

大坂の陣での華々しい武功により、松平忠昌の将来は洋々たるものに見えた。しかし、彼の運命を決定的に、そして劇的に変えたのは、自らの手柄ではなく、兄・松平忠直の転落であった。忠直の改易という一大政変は、単なる兄弟間の問題や一藩の不祥事に留まらず、確立期にあった徳川幕府がその権威を天下に示すための、極めて政治的な事件であった。この事件により、忠昌は図らずも、巨大親藩・越前松平家の家督を継承するという重責を担うことになる。

3.1 兄・松平忠直の「不行状」と改易

忠昌の同母兄である松平忠直は、父・秀康の嫡男として越前68万石を継いだ、徳川一門の中でも屈指の実力者であった。大坂夏の陣では総大将として軍を率い、真田信繁(幸村)隊を壊滅させ、大坂城に一番乗りを果たすなど、弟・忠昌を上回る最大の戦功を挙げた 18 。しかし、この功績が彼の運命の歯車を狂わせる。

戦後、忠直は幕府からの論功行賞として、領地の加増ではなく、天下の名物として知られる茶入「初花肩衝」を与えられたことに強い不満を抱いた 12 。彼は「領地の加増がなければ家臣達に報いることができない。官位などにごまかされない」と公言し、幕府への不信感を露わにしたという 18 。この一件を境に、忠直の行動は常軌を逸し始める。酒食に溺れ、些細なことで家臣を手討ちにするなどの乱行が相次ぎ、ついには将軍秀忠の娘である正室・勝姫の殺害までも企てたとされる 11 。同時代の細川家の書状にも「越前殿之事、気違ニて候由(越前殿のことは、乱心とのことである)」と記されるほど、その奇行は諸大名の知るところとなっていた 19

幕府、特に将軍秀忠にとって、これは到底看過できる事態ではなかった。将軍家の娘婿でありながら反抗的な態度を取り、乱行を繰り返す忠直の存在は、幕府の権威そのものへの挑戦と受け取られた。元和9年(1623年)、ついに秀忠は忠直に対し、隠居と豊後国(現在の大分県)への配流を命じる。これは事実上の改易処分であり、一大名家の当主がその地位と領地を剥奪されるという、極めて重い処罰であった 12

忠直の改易は、表向きは「不行状」が理由とされたが、その背景にはより深い政治的意図があったと考えられる。同時期に改易された福島正則や加藤忠広といった豊臣恩顧の大名と同様に、忠直の持つ強大な軍事力と、幕府に従順ならざる態度が、潜在的な脅威と見なされたのである。大坂の陣での最大の功労者であるという事実が、逆に彼を危険視させる要因となった。忠直の改易は、徳川幕府が支配体制を磐石にするため、少しでも脅威となりうる要素を、たとえそれが親藩大名であっても容赦なく排除していくという、断固たる意志の現れであった。

3.2 幕府の裁定と忠昌の福井藩継承

兄・忠直の改易により、徳川一門の筆頭格であった越前松平家の存続は、風前の灯火となった。この危機的状況を収拾するため、幕府が白羽の矢を立てたのが、弟の忠昌であった。寛永元年(1624年)、幕命により、忠昌が兄の旧領のうち、越前北ノ庄50万石余を継承することが正式に決定された 2

この裁定は、幕府の巧みな統治術を示すものであった。まず、問題を起こした忠直の血筋である嫡子・仙千代(後の松平光長)を、中枢である越前から切り離した。そして、大坂の陣での武功により幕府への忠誠心と実力が証明されていた忠昌を後継に据えることで、藩の安定化を図った。さらに、越前松平家という徳川一門の最有力家門を断絶させることなく存続させることで、他の親藩大名への配慮も示した。

この時、忠昌は甥である仙千代の将来を思いやり、一度は家督の継承を固辞したと伝えられている 4 。これに対し幕府は、仙千代には忠昌の旧領であった越後高田25万石を与えるという解決策を提示した。結果として、忠昌と甥の光長は領地を交換する形となり、この一大政変は収束した 4 。忠昌にとって、この藩主就任は単なる栄転ではなかった。それは、兄の不祥事によって地に堕ちた越前松平家の名誉を回復し、家名を再興するという、極めて重い使命を帯びたものであった。彼が入封後すぐに城下町の名を「北ノ庄」から「福居」へと改めたのは、兄の時代の汚名をそそぎ、自らの治世で新たな福を招来するという、内外に対する強い決意表明に他ならなかったのである 5

3.3 新たな家臣団の形成

新たな福井藩主となった忠昌の下には、新しい家臣団が形成された。その構成は、幕府の周到な配慮を色濃く反映していた。まず、兄・忠直の旧家臣団の中から、幕府自身が「武辺者の家臣105騎」を選抜し、忠昌に引き継がせた 4 。これには、初代・秀康の代からの筆頭家老であり、越前騒動の際には幕府から国政の補佐を命じられた重鎮・本多富正も含まれていた 4 。将軍秀忠は富正に対し、直々に「忠昌を支えてこれまで通り藩政を補佐するように」と命じており、幕府が藩政の安定に万全を期していたことがうかがえる 4

この幕府選抜の家臣団に、忠昌が信濃松代、越後高田と渡り歩く中で自ら召し抱え、率いてきた譜代の家臣300騎が合流した 1 。これにより、旧来の越前譜代の重臣層と、忠昌子飼いの新進気鋭の家臣層が融合した、新たな家臣団の骨格が完成した。

しかし、この家臣団再編は、全てが順調に進んだわけではない。忠昌が越後高田藩主であった時代の附家老、稲葉正成(三代将軍家光の乳母・春日局の夫として知られる)は、忠昌の越前への転封に随行せず、突如出奔するという事件を起こしている。これにより正成は幕府から蟄居を命じられており、この一件は、大大名の転封に伴う家臣団再編の過程で生じた軋轢や、複雑な人間関係を物語る興味深い事例として記録されている 4 。忠昌は、こうした困難を乗り越えながら、新たな家臣団を掌握し、新生福井藩の統治へと乗り出していくのである。

表3:松平忠昌 領地変遷表

時期

藩名

領地(現在の地名)

石高

備考

慶長12年(1607)

上総姉崎藩

千葉県市原市

10,000石

父・秀康の死後、独立。

元和元年(1615)

常陸下妻藩

茨城県下妻市

30,000石

大坂の陣の功により加増移封。

元和2年(1616)

信濃松代藩

長野県長野市松代

120,000石

松平忠輝改易に伴う加増移封。

元和5年(1619)

越後高田藩

新潟県上越市

250,000石

さらなる加増移封。

寛永元年(1624)

越前福井藩

福井県福井市

505,280石

兄・忠直改易により家督相続。

(出典: 3


第四章:越前宰相の藩政:領国経営の手腕

寛永元年(1624年)、兄・忠直の改易という波乱の末に越前50万石余の大藩主となった松平忠昌は、その後の約20年間にわたり、領国経営にその手腕を発揮した。彼の藩政は、大坂の陣で見せた武人としての勇猛さとは異なる、為政者としての冷静かつ堅実な側面を強く示している。戦国の気風を色濃く残しながらも、泰平の世における統治者として、藩政の基盤固め、民政の安定、そして武威の維持という課題に多角的に取り組んだ。その治世は、まさに「武断政治」と「安定志向の民政」のハイブリッドであったと言える。

4.1 藩政基盤の確立:「福居」の誕生と統制強化

忠昌が越前入封後にまず着手したのが、藩の体制を一新し、統制を強化することであった。その象徴的な行動が、城下町の改名である。彼は、父・秀康以来の居城であった「北ノ庄」の「北」が「敗北」に通じ、縁起が悪いとしてこれを嫌い、福井城内にあった「福の井」という名の井戸にちなんで、城下町の名を「福居」と改めた 2 。これは単なる迷信ではなく、兄・忠直の失政と改易という過去の汚点を拭い去り、自らの治世で新たな福井藩を築き上げるという、内外に対する強い決意表明であった。

統治体制の面では、入封直後から次々と法令を公布し、家臣団と領民に対する規律を明確にした 4 。特に重視されたのが、宗教統制である。当時の幕府は、島原の乱(寛永14年)へと至る過程でキリスト教への警戒を強めており、寛永12年(1635年)の武家諸法度(寛永令)でも、その統制が厳格化されていた 23 。忠昌は、この幕府の方針に忠実に従い、領内で厳格な宗門改めを実施してキリスト教徒の摘発を徹底した 4 。これは、幕府への恭順の意を示すと同時に、藩内の思想統制を図り、支配体制を盤石にするための重要な政策であった。

また、忠昌は江戸における福井藩の拠点整備にも力を注いだ。幕府から浅草や霊岸島に広大な屋敷地を拝領し、藩の政治・経済活動の基盤を築いた 5 。特に、江戸湊に近い霊岸島の中屋敷は、三方を堀で囲んだ壮大なもので、この堀は「越前堀」と通称された。その名は現在も東京都中央区の地名や公園の名として残り、往時の福井藩の威勢を今に伝えている 25

4.2 民政への注力:産業振興と災害対策

忠昌の治世は、武威の誇示だけに留まらなかった。彼は、藩の経済的基盤を強化し、領民の生活を安定させることが、藩の総合的な力に繋がることを深く理解していた。そのため、新田開発や交通網の整備といった民政にも力を注いだと記録されている 4

具体的な政策の詳細は史料に乏しいものの、彼が福井藩主となる以前の藩主時代に見せた手腕から、その一端をうかがい知ることができる。例えば、信濃松代藩主であった頃、彼は北国街道の円滑な物流を確保するため、舟運を担う舟頭たちに対し、諸役を免除する特権を与えている 3 。九頭竜川水系や日本海航路を持つ越前においても、同様の交通インフラ整備や物流振興策が講じられた可能性は高い。

忠昌の治世は、決して平穏無事ではなかった。寛永7年(1630年)の越前における大風雨・洪水をはじめ 26 、洪水、疫病、地震といった自然災害が繰り返し領内を襲った 4 。しかし、諸記録は、忠昌と彼の家臣団がこれらの災厄に対し「見事な手腕」をもって対処し、藩政を安定させ、乗り切ったと評価している 4 。具体的な災害対策の記録は残されていないが、同時代の名君として知られる岡山藩主・池田光政や会津藩主・保科正之が、藩の備蓄米放出、治水事業、被災民への低利貸付といった体系的な救済策を講じていたことから類推すれば 27 、忠昌もまた、場当たり的ではない計画的な対策を講じていたと考えられる。藩の備蓄制度の整備や、三国湊の豪商などと連携した資金・物資の調達網の構築などが行われていた可能性が指摘できる。

さらに、領内の資源開発にも関心を示しており、大安寺温泉(福井市)で新たな温泉場の開発を試みた形跡も残っている 4 。これは、領民の厚生や藩の新たな収入源を模索する、為政者としての先進的な視点を示すものと言えよう。

4.3 武を尊ぶ治世と家臣団の掌握

民政に力を注ぐ一方で、忠昌は父・秀康から受け継いだ尚武の気風を決して忘れることはなかった。彼は、藩の軍事力を維持・強化することこそが、泰平の世における大名の務めであると考えていた。

家臣団の掌握においては、幕府から付けられた附家老の本多富正を重用し、その豊富な経験と幕府とのパイプを活用する一方で、自らが若い頃から仕えてきた永見吉次や狛孝澄といった側近たちも家老職に取り立てた 4 。これにより、旧来の家臣団と自らの子飼いの家臣団との融和を図り、藩内に安定した権力基盤を築いた。

そして、その治世において最も特徴的なのが、武芸の奨励である。彼は自らも武勇を好んだが、それを藩の政策として体系化した。槍術、剣術、柔術、弓術、砲術、そして軍学に至るまで、多岐にわたる分野の専門家を全国から多数招聘した 4 。これにより、福井藩の武芸レベルは飛躍的に向上し、後に「福井藩武芸十二法」と呼ばれる武芸の体系が築かれる基礎となった 31

また、武士の魂とも言える刀剣の製作にも並々ならぬ情熱を注いだ。高田藩主時代には刀鍛冶の助宗を保護し 4 、福井入封後は、山城守国清という名工を召し抱えた 1 。幕府お抱えの刀工・康継が「葵紋」を刀身に彫ることを許されていたのに対し、国清は朝廷から「菊紋」を彫ることを許されたほどの高名な刀工であった 4 。忠昌は国清に数々の名刀を造らせ、それは藩主の権威を高めると同時に、福井藩の武威を象徴するものとなった。忠昌の藩政は、まさに「文武両道」ならぬ「農武両道」とも言うべき、富国と強兵を両輪とする、堅実かつ力強いものであった。


第五章:松平忠昌の人物像:逸話から探る多面性

松平忠昌という人物は、しばしば「酒豪」「猛将」といった豪快な言葉で語られる。しかし、残された数々の逸話は、彼がそうした一面的なイメージに収まらない、複雑で深みのある人間性を持った君主であったことを示している。将軍相手に物怖じしない豪放さ、家臣の命懸けの諫言に耳を傾ける理知、そして当代一流の文化人を許容する懐の深さ。これらの側面が組み合わさって、忠昌という魅力的な人物像を形作っている。

5.1 豪放磊落な酒豪伝説:将軍家光との狂歌問答

忠昌が大変な酒豪であったことは、多くの記録が伝えるところである 4 。その酒好きは、時の将軍の耳にまで達していた。正保2年(1645年)4月、忠昌の江戸屋敷の向かいに住んでいた加賀藩世子の前田光高が、茶会の席で急死するという事件が起きた。光高はまだ31歳で、普段から品行方正で知られた人物であった。

この報せを聞いた三代将軍・徳川家光は、従兄弟である忠昌の身を案じた。大酒飲みで知られる忠昌の健康を気遣い、わざわざ使者を遣わして「酒を慎むように」と忠告したのである 4 。将軍直々の忠告とあっては、普通の大名であれば恐縮して謹むところであろう。しかし、忠昌の返答は常人の想像を絶するものであった。彼は短冊を取り寄せると、さらさらと一首の狂歌を書きつけ、家光への返書とした。

「向い(の屋敷)なる加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれば 三十一で昨日死にけり」 4

(意訳:向かいの屋敷の前田光高は、酒を飲まない下戸であったのに、31歳の若さで昨日死んでしまったではないか)

この大胆不敵な返歌を受け取った家光は、さぞ驚いたことであろう。しかし、彼は「忠昌だからしょうがない」と、苦笑してそのまま不問に付したという 4 。この逸話は、忠昌の豪放磊落な性格と、将軍家光との間にあったであろう親密で気安い関係を如実に示している。徳川一門としての高い自負と、戦場を駆け抜けた武人としての自信が、彼にこのような振る舞いをさせたのかもしれない。皮肉なことに、この狂歌を詠んだわずか4ヶ月後の同年8月、家光の危惧は現実のものとなり、忠昌は49歳で急逝することになる 4

5.2 諫言を受け入れる器量:家老・杉田壱岐との逸話

豪放な酒豪伝説とは対照的に、忠昌が家臣の厳しい諫言に真摯に耳を傾ける、優れた君主であったことを示す逸話も残されている。その代表が、家老の杉田三正(すぎた みつまさ、通称は壱岐)との一件である 4

ある時、忠昌は国元で鷹狩を行い、その成果に大いに満足していた。帰城後、上機嫌で「これならば、万一出兵するようなことがあっても十分な働きが期待できるだろう」と語った。他の家老たちが主君の機嫌に合わせて追従の言葉を述べる中、末席にいた杉田三正だけが、苦々しい表情を浮かべていた。意を決した三正は、主君の前に進み出て、命を懸けた諫言を口にする。

「今のお言葉は嘆かわしい限りです。家臣たちは殿の手討ちを恐れ、妻子に今生の別れを告げてまで鷹狩に参加しております。このように家臣から恐れ疎まれていては、万一の際に本当に頼りになるとお思いでしょうか」 4

この言葉に、忠昌は激怒した。座は静まり返り、三正の身を案じた同僚たちは彼に離席を促した。しかし三正は、「殿のご機嫌を窺うのが奉公ではない」とこれを拒み、自らの脇差を抜き放つと、忠昌の前に進み出て平伏し、「どうぞ御手討ちにしてください。この先、殿の運が衰えていくのを見るよりは、今ここで手討ちにされる方が忠義というものです」と首を差し出した。忠昌は何も言わず、怒りの形相で奥へと引っ込んでしまった 4

自邸に戻った三正は、死を覚悟し、切腹の準備を始めた。しかしその日の夜更け、城から急の登城を命じる使者が訪れる。覚悟を決めて登城した三正を、忠昌は寝所に呼び入れた。そして、静かにこう語りかけたという。

「昼間にそなたが言ったことが心に残り、一睡もできなかった。急に呼び出したのはそのためだ。すべては私の不明であった」 4

忠昌は自らの非を率直に認め、三正の忠誠を賞して自身の脇差を下げ渡した。三正は感涙にむせびながら、その脇差を拝領したという。この逸話は、忠昌が単なる気性の激しい武人ではなく、家臣の真の忠義を見抜き、自らの過ちを省みることのできる、非凡な器量を持った君主であったことを何よりも雄弁に物語っている。兄・忠直が諫言に耳を貸さず乱行の末に身を滅ぼしたのを間近で見ていた忠昌は、君主にとって耳の痛い言葉こそが、藩の礎を支えるのだと深く理解していたのであろう。

5.3 文化人としての一面:絵師・岩佐又兵衛との関わり

忠昌の人物像を語る上で、文化的な側面も無視できない。特に、後に「浮世絵の祖」とも称される当代一流の絵師・岩佐又兵衛との関わりは興味深い。又兵衛は、織田信長に反逆した荒木村重の遺児という数奇な運命をたどった人物で、その画風は力強く、時に異様とも言える独特の魅力を持っていた 33

この又兵衛は、忠昌の兄・忠直の時代から福井に居を構え、忠昌の治世になっても、引き続き福井の地で精力的に制作活動を続けていた 4 。忠昌が又兵衛を直接召し抱えたという記録はないが、又兵衛が福井藩関連の請願書に署名している史料が現存することから 4 、藩と何らかの公的な関係を持っていたと推測される。

又兵衛は、この福井時代に「三十六歌仙図額」や「旧金谷屏風」といった数多くの傑作を生み出している 33 。忠昌が又兵衛の直接的なパトロンであったかは定かではないが、少なくとも彼の治世が、又兵衛のような独創的な芸術家が腰を据えて創作に集中できるだけの、安定的で比較的自由な文化的土壌を提供していたことは間違いない。兄の改易という混乱の後、忠昌が速やかに藩政を安定させたからこそ、又兵衛は福井に留まり続けることができたのであろう。後に又兵衛の息子・岩佐勝重が福井藩の正式な御用絵師となっていることからも 35 、忠昌と岩佐派の間に良好な関係が築かれていたことがうかがえる。

さらに、江戸時代を代表する人形浄瑠璃・歌舞伎作者である近松門左衛門の父・杉森信義が、忠昌の五男・松平昌親に仕えていた家臣筋であったという説もあり 34 、忠昌時代の福井藩が、近世初期の日本文化が花開くための一つの重要な舞台となっていた可能性を示唆している。


第六章:晩年と遺産:その死と越前松平家のその後

約21年間にわたり福井藩を統治し、兄の改易という危機から藩を再興させた松平忠昌であったが、その最期はあまりにも突然であった。彼の死は、福井藩に新たな動揺をもたらし、彼が一代で築き上げた権威と家格の脆さを露呈させる結果となった。忠昌の遺産は、その後の越前松平家の運命を大きく左右していくことになる。

6.1 壮年期の急逝と殉死者たち

正保2年(1645年)8月1日、忠昌は江戸の霊岸島中屋敷にて、49歳の若さで急逝した 4 。将軍家光が彼の健康を案じて酒を控えるよう忠告してから、わずか4ヶ月後のことであった。その死に際し、父・秀康の時と同様に、彼の死を悼む7名の家臣が後を追い、殉死(追腹)した 1 。江戸初期にはまだ武士の忠誠の形として存在したこの慣習に対し、幕府は特に追罰を下すことはなく、むしろ殉死者の家は藩から厚遇されたという 21 。これは、忠昌がいかに家臣から篤く慕われていたかを示す証左であろう。

忠昌の遺体は、江戸から木曽路を経て福井へと運ばれ、彼が篤く帰依していた曹洞宗の大本山・永平寺に手厚く葬られた 1 。現在も永平寺の境内には、忠昌の五輪塔と、彼に殉じた家臣たちの墓石が静かに佇んでいる 36 。また、後に息子である四代藩主・光通が開基となった大安禅寺にも、父・秀康らと共に廟所が設けられている 4

6.2 遺領の分割:福井藩の縮小と分家の創設

忠昌の死後、彼が治めた52万石余の広大な領地は、彼の遺言に基づき、幕府の裁定によって3人の息子に分割して相続されることとなった 4

  • 福井本藩: 嫡出の次男であった松平光通が、本藩である福井藩45万石を相続した 2
  • 松岡藩: 庶長子(長男)であった松平昌勝には5万石が分与され、新たに越前松岡藩が立藩された 5
  • 吉江藩: 五男の松平昌親には2万5千石が分与され、同じく越前吉江藩が立藩した 5

この遺領分割は、表向きは忠昌の息子たちへの愛情に基づく措置とされたが、その背景には幕府の政治的意図も透けて見える。50万石を超える巨大親藩が強力な指導者を失ったこの機に、その勢力を分割して弱体化させることは、幕府の長期的な安定にとって望ましいことであった。結果として、福井藩の石高は実質的に減少し、越前松平家の力は分散されることになった。

6.3 忠昌の血脈と福井藩の変遷

忠昌という強力なカリスマを失った福井藩は、その後、苦難の道を歩むことになる。四代藩主となった光通は、後継者問題を巡る心労から自害するという悲劇に見舞われた 2 。その後を継いだのは、吉江藩主であった弟の昌親であったが、藩内の混乱は収まらなかった 15

そして、決定的な打撃となったのが、六代藩主・松平綱昌(忠昌の孫、昌勝の子)の治世である。綱昌は乱心を理由に幕府から改易を命じられ、福井藩は一時取り潰しの危機に瀕した 2 。由緒ある家柄であることが考慮され、前藩主の昌親が再登板(名を吉品と改める)することで家名は存続を許されたものの、その代償は大きかった。石高は25万石に半減され、藩の威光の象徴であった「片鎌槍」の大名行列での使用は禁じられ、江戸城における詰間(控えの間)も、将軍家親族が詰める「大廊下」から外様の国持大名と同じ「大広間」へと格下げされるという屈辱を味わった 5

この福井藩の家格の急落は、藩の権威がいかに忠昌個人の武功とカリスマに依存していたかを逆説的に示している。忠昌が一代で築き上げた「越前宰相」としての高い威光は、彼の死と後継者たちの混乱によって、わずか数十年で大きく損なわれてしまったのである。

その後、福井藩は徐々に石高と家格を回復させていくが、忠昌の男系の血筋は、悲運にも長くは続かなかった。忠昌の孫にあたる九代藩主・松平宗昌が男子に恵まれずに死去したことで、結城秀康、そして松平忠昌へと続く男系の血脈は、ここで断絶することとなった 41


終章:松平忠昌の歴史的評価

松平忠昌の生涯を多角的に検証した結果、彼は歴史上、いかに位置づけられるべきか。その評価は、単一の側面に集約されるものではなく、武人として、藩主として、そして徳川幕府草創期における一人の大名としての、複合的な視点からなされるべきである。

武人としての評価

大坂の陣における忠昌の武功は、疑いなく第一級のものである。「片鎌槍」を手に一番乗りの功名を挙げ、自らも敵将を討ち取ったその姿は、戦国時代の終焉を飾るにふさわしい武勇伝として、後世に長く語り継がれた。それは、父・結城秀康から受け継いだ尚武の気風を体現するものであり、彼の武人としての資質は、その後の福井藩の藩風を決定づける源流となった。

藩主としての評価

忠昌の真価は、戦場での働きに留まらない。兄・忠直の改易という、家門存亡の危機的状況を見事に収拾し、50万石を超える大藩を20年以上にわたって安定的に統治したその手腕は、為政者として高く評価されなければならない。彼は、武芸を奨励し藩の軍事力を維持するという武断的な側面と、新田開発や災害対策など民政を重視する理知的な側面を巧みに両立させた。家臣の命懸けの諫言に耳を傾け、自らの非を認める器量も持ち合わせていた。その姿は、戦国の荒々しさと近世の理性を兼ね備えた、まさに時代の過渡期における理想的な君主像の一つと言えるであろう。

徳川幕府における役割

彼の生涯は、徳川幕府の支配体制がいかにして確立されていったかを理解するための、絶好のケーススタディを提供する。大坂の陣での武功、兄の改易、度重なる転封、そして大藩の統治。これら彼の人生の節目は、ことごとく幕府の基本政策と連動している。彼は、将軍家にとって最も信頼できる「身内」の一人として、幕府の権威を地方に行き渡らせ、支配体制を固めるための重要な役割を担った。彼の存在は、江戸初期における幕府の親藩政策と大名統制の実態を、生々しく映し出している。

最終的な結論

松平忠昌は、巷間に流布する「片鎌槍の勇士」という勇ましいイメージに収まる人物ではない。彼は、徳川家康の孫という出自、父・秀康の不遇、兄・忠直の転落という複雑な背景を背負い、自らの武功と才覚で運命を切り拓いた。そして、為政者としては、武威と仁政のバランスを取りながら、激動の時代に巨大な藩領を安定させた。

彼は、徳川の天下が定まる時代を、その中心で駆け抜けた、複雑で、魅力的で、そして極めて有能な大名であった。彼の存在なくして、その後の福-井藩の歴史、ひいては徳川三百年の泰平の礎が築かれていく過程の一側面を、正しく語ることはできない。松平忠昌は、江戸時代初期という時代そのものを体現した、記憶されるべき重要な人物である。

引用文献

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