本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生きた一人の大名、松平忠良(まつだいら ただよし、1582-1624)の生涯を、徹底的な調査に基づいて詳述するものである。彼は徳川家康の甥という、極めて近しい血縁にありながら、歴史の表舞台で華々しい活躍を見せることは少なかった 1 。しかし、その存在は、徳川幕府という巨大な権力機構が、いかにして「血」の繋がりを基盤に築かれ、安定化していったかを物語る上で、欠くことのできない重要な事例である。
この時代には、同名の著名な人物が複数存在する。特に、徳川家康の四男で武勇に優れた松平忠吉(1580-1607) 3 や、徳川譜代の名門である桜井松平家の当主・松平忠吉(1559-1582) 4 などが知られている。本報告書が対象とするのは、これらの人物とは異なり、家康の母・於大の方(おだいのかた)を祖母に持ち、家康の異父弟である松平康元(やすもと)を父に持つ、久松松平家の松平忠良である 1 。
彼の生涯、そして彼が遺した一族がたどった波乱に満ちた運命を丹念に追うことは、徳川初期の権力構造、特に将軍家との「血の近さ」が持つ絶対的な価値と、それに伴う栄光と試練を解き明かすための、またとない歴史的探究となるであろう。
松平忠良は、天正10年(1582年)、三河国に生まれた 6 。父は久松俊勝の次男で、後に徳川家康の異父弟として松平姓を名乗ることを許された松平康元である 5 。父・康元の母は、家康の生母でもある於大の方であった。この血縁により、忠良は家康の直接の甥(母方の祖母が同じ)という、他の譜代大名とは一線を画す極めて特別な立場に生まれた 1 。
この血の繋がりこそが、忠良とその一族の運命を決定づけた。父・康元が、異父兄である家康から「松平」という貴姓と大名の地位を与えられた瞬間から、この一族は単なる家臣ではなく、将軍家の親族、すなわち親藩(しんぱん)に準ずる別格の存在となったのである。後に詳述するが、忠良の孫の代で二度にわたって改易(かいえき、領地没収)という大名の家としては致命的な危機に瀕しながらも、その家名が存続を許されたのは、この「血の特権性」なくしては説明がつかない 9 。忠良の生涯は、生まれながらにしてこの血の宿命によって方向づけられていたと言える。
忠良には複数の兄弟姉妹がいたが、中でも特筆すべきは姉の満天姫(まてひめ)の存在である 7 。彼女の生涯は、徳川家による天下支配の戦略を色濃く反映している。満天姫は伯父である家康の養女となり、まず豊臣恩顧の勇将・福島正則の養嗣子である福島正之に嫁いだ 12 。しかし正之の死後、家康の政治的配慮により、今度は北の外様大名である津軽信枚(つがる のぶひら、弘前藩主)に再嫁したのである 14 。
この婚姻は、徳川家が全国の大名、特に潜在的な脅威となりうる外様大名を巧みにコントロールするために駆使した、政略結婚の典型例であった。忠良の一族は、単に徳川家から恩恵を受けるだけの存在ではなく、姻戚関係を通じて全国の大名を徳川の支配網に組み込むための、重要な「駒」としての役割をも担っていた。姉・満天姫が徳川の天下泰平策の最前線に立たされたことは、弟である忠良自身の幕府内における政治的立場を、間接的ながらもより強固なものにしたと考えられる。
忠良は、伯父の家康、従兄弟の秀忠、そして家光と、徳川三代の将軍に仕えた 7 。彼と将軍家との特別な関係を象徴する出来事がある。それは、彼が二代将軍・徳川秀忠から名前の一字を賜り、「忠良」と名乗ったことである 16 。
主君の名前の一字を家臣が拝領する「偏諱(へんき)」は、武家社会における最大級の名誉であり、両者の強固な主従関係を内外に誇示する極めて象徴的な行為であった。血縁者であることに加え、将軍から直々に名前の一部を与えられることで、忠良の幕府内における特別な地位は、公式に、そして誰の目にも明らかな形で確立されたのである。これは単なる改名ではなく、将軍家との絶対的な絆を示す政治的儀式であり、他の大名に対する優越性を明確にするものであった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した時、忠良は数え19歳であった。彼は家康が率いる本隊に「供奉(ぐぶ)」、すなわちお供として従軍している 11 。一方で、父である松平康元は、家康から江戸城の留守居役という、東国の本拠地を守る極めて重要な任務を託されていた 5 。
忠良が関ヶ原で具体的な部隊を率いて華々しい武功を挙げたという記録は、現在のところ見当たらない。「供奉」という言葉が示すように、彼の役割は前線で兵を指揮する戦闘司令官ではなく、家康の側近くに仕える旗本衆の一員として、徳川の次代を担う親族が、主君への忠誠を戦場という最高の舞台で示すことにあったと考えられる。彼の初陣は、武功を立てること以上に、家康による天下統一の偉業をその目に焼き付け、後継者世代として徳川の治世を支える自覚を促すための、一種の「帝王学」としての意味合いが強かった。この戦いにおける久松松平家の真の貢献は、父・康元による江戸城の死守という、後方の、しかし決定的に重要な任務にあったのである。
慶長8年(1603年)、父・康元が死去すると、忠良は22歳で家督を相続し、父の遺領である下総国関宿(せきやど)四万石の藩主となった 2 。
関宿は、江戸防衛の観点から極めて重要な拠点であった。利根川と江戸川の分岐点に位置し、関東の水運を扼する交通の要衝であると同時に、江戸へ向かう北からの敵に対する第一の防衛線でもあった。このような戦略的要地を、若き忠良に任せたこと自体が、徳川政権の彼に対する期待の大きさを物語っている。藩主としての具体的な治績としては、後に移封される大垣城の天守を改修したという記録が残っているが、これは関宿城主時代にも城郭の維持・管理に意を払っていたことを示唆している 18 。
慶長20年(1615年)、豊臣家との最後の決戦となった大坂夏の陣において、忠良は徳川方として参陣した 8 。特に、雌雄を決した天王寺・岡山の戦いでは、徳川軍の主力部隊の一翼を担った。彼の部隊は、天王寺口に布陣した徳川方先鋒軍のうち、第三陣に組み込まれていた 20 。そして、この第三陣を率いる総大将は、徳川四天王・酒井忠次の子であり、忠良の舅(しゅうと)にあたる酒井家次であった 20 。
舅である酒井家次という、徳川譜代の重鎮中の重鎮の指揮下に入ったことは、忠良がもはや若年の供奉役ではなく、徳川軍の中核をなす戦闘集団の一員として、完全に信頼されていたことを示している。彼は独立した遊軍としてではなく、譜代大名同士が緊密に連携して戦う、徳川軍の正規の戦闘序列の中に位置づけられていたのである。
多くの史料は、忠良が「大坂の陣で功を上げた」と簡潔に記している 2 。しかし、戦闘の実態は、この一言では語り尽くせないほど壮絶なものであった。
戦闘が始まると、豊臣方の猛将・毛利勝永が率いる部隊が、徳川方の先鋒に凄まじい勢いで突撃した。その猛攻の前に、本多忠朝率いる第一陣は壊滅し、榊原康勝らの第二陣も打ち破られた 22 。毛利隊の勢いは止まらず、ついに忠良が属する酒井家次の第三陣にも襲いかかった。当時の記録は、この第三陣を「小大名の集まりで統制も取れていなかったため、毛利隊の相手ではなく次々と敗走していった」と、その混乱ぶりを生々しく伝えている 22 。
ここに、忠良の「武功」を再評価する上で最も重要な視点が存在する。彼が立てた「功」とは、敵を打ち破る華々しい一番槍のようなものではなかった可能性が高い。むしろ、彼の真の功績は、味方が総崩れとなり、自らの部隊も敗走するという絶望的な状況下で、完全に崩壊することなく踏みとどまり、部隊の秩序を維持し、その後の徳川軍の反攻に貢献した、その強靭な精神力と不屈の忠誠心にあったのではないか。家康や秀忠は、順風満帆な勝利よりも、自らの親族が土壇場で見せたこの粘り強さと忠義をこそ高く評価し、それが後の加増移封に繋がったと考えられる。彼の武功とは、敗走の中にあってなお徳川への忠誠を貫き、戦線を立て直す礎となった点にある。これは、単なる英雄譚ではなく、絶体絶命の危機を乗り越えた、より人間的で深みのある武将像を我々に提示する。
大坂の陣における戦功を認められ、忠良は元和2年(1616年)、一万石を加増の上、下総関宿から美濃国大垣五万石へと移封された 6 。この人事は、単なる恩賞以上の、極めて深い戦略的意味を持っていた。
大垣城は、中山道の要衝に位置し、かつて関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将・石田三成が入城し、事実上の本拠地となった場所である。豊臣家が滅亡し、天下が完全に徳川のものとなった直後、この「天下分け目の地」とも言える因縁の場所を、家康自身の甥に任せるという采配は、忠良に対する絶対的な信頼の証であった。これは、西国大名への強力な睨みを効かせ、徳川による盤石な支配体制を完成させるための、象徴的かつ実利的な一手であった。関ヶ原の戦いで敵方の拠点であった場所に、最も信頼できる親族を配置することほど、徳川の勝利を天下に示すものはない。
『新修大垣市史』などの記録によれば、忠良の所領は美濃国の安八郡68ヶ村、池田郡27ヶ村、多芸郡7ヶ村にまたがり、その合計は5万23石余りに及んだことが確認されている 23 。
しかしながら、彼が寛永元年(1624年)に没するまでの約8年間にわたる大垣統治において、特筆すべき治水事業や大規模な検地といった、内政面での具体的な「治績」に関する記録は乏しい 23 。この「記録の不在」は、彼の統治者としての無能さを示すものではない。むしろ、彼に期待された第一の役割が、革新的な領国経営者として領地を発展させることではなく、戦略的要衝である大垣を確実に保持し、西国に対する「軍事・政治的な鎮守」として機能することであったことを物語っている。彼の歴史的役割を考える上で、この記録の空白は、彼の本質が行政官僚ではなく、徳川の安泰を支える軍事貴族であったことを示唆している。
忠良は、正室として、大坂の陣での上官でもあった酒井家次の娘を迎えた 1 。これにより、徳川譜代の筆頭格である酒井左衛門尉家との関係を一層強固なものとした。また、側室には名門・吉良義弥の娘がいたことも記録されている 7 。これらの婚姻は、彼が徳川家臣団の中枢に深く根を張っていたことを示している。
彼の複雑な家族構成と、それが後の後継者問題にどう影響したかを理解するため、以下にその系譜をまとめる。
続柄 |
氏名 |
母親 |
生没年 |
主要情報 |
父 |
松平 康元 |
- |
1552-1603 |
徳川家康の異父弟。下総関宿藩初代藩主 7 。 |
母 |
不詳 |
- |
- |
- |
姉 |
満天姫 |
不詳 |
1589?-1638 |
家康の養女。福島正之室、のち津軽信枚室 7 。 |
本人 |
松平 忠良 |
不詳 |
1582-1624 |
下総関宿藩主、のち美濃大垣藩主 1 。 |
正室 |
酒井家次の娘 |
- |
- |
忠良の舅・酒井家次は徳川譜代の重臣 1 。 |
側室 |
吉良義弥の娘 |
- |
- |
- 7 。 |
長男 |
松平 忠利 |
側室 |
1605-1688 |
庶子。家督は継がず、後に分知を受ける 7 。 |
次男 |
松平 憲良 |
正室 |
1620-1647 |
嫡男。5歳で家督を相続 7 。 |
三男 |
松平 康尚 |
生母不詳 |
1623-1696 |
兄・憲良の死後、名跡を継ぎ大名として再興 7 。 |
次女 |
梅渓院 (久姫) |
正室 |
1606-1628 |
徳川秀忠の養女となり、黒田忠之(福岡藩主)に嫁ぐ 7 。 |
娘 |
久姫 |
正室 |
- |
松平直政(出雲松江藩主)に嫁ぐ 7 。 |
娘 |
- |
正室 |
- |
金田房能の室 7 。 |
娘 |
- |
正室 |
- |
佐久間勝友の室 7 。 |
娘 |
- |
生母不詳 |
- |
土屋某の室 7 。 |
寛永元年(1624年)、忠良が43歳で死去すると、その家督相続において、近世武家社会の厳格な掟が示されることとなった。年長者であった長男の松平忠利(当時20歳)ではなく、わずか5歳の次男・松平憲良(のりよし)が家督を継いだのである 7 。
その理由は、当時の武家社会で確立されつつあった、厳格な「嫡庶の別(ちゃくしょのべつ)」にあった。長男・忠利は側室の子(庶子)であったのに対し、次男・憲良は正室の子(嫡出子)であった。この母親の身分の違いが、相続順を決定づけたのである 8 。この相続劇は、個人の能力や年齢よりも「家」の秩序と安定を最優先する、江戸時代的な社会規範の確立を象徴する出来事であった。血縁や実力で後継者が流動的に決まった戦国時代の慣行を排し、相続を巡る争いの芽を未然に摘むための、徳川幕府による社会制度設計の一環として、この決定を理解することができる。
寛永元年(1624年)5月18日、松平忠良は居城である美濃大垣城にて、43歳の若さで病没した 2 。戒名は「嘯月院殿江安宗吸大居士(しょうげついんでんこうあんそうきゅうだいこじ)」という 7 。
その墓所については、資料によって「浅草の大松寺」 6 と「東京都北区西が丘の大松寺」 7 という二つの記述が見られる。これは、寺院が後年になって浅草から現在の西が丘へ移転したことによるものであり、矛盾するものではない。
忠良の死後、一門には最初の試練が訪れる。家督を継いだ憲良がわずか5歳という幼少であったため、幕府は戦略的要衝である大垣の統治は不適と判断。同年9月、憲良は信濃国小諸藩へと移封された 9 。これは事実上の左遷であった。この時、石高は庶兄である忠利に5千石を分与したため、4万5千石へと減少した 9 。
そして悲劇は続く。正保4年(1647年)、藩主・憲良は世継ぎのないまま28歳の若さで死去。これにより、小諸藩松平家は無嗣を理由に「改易」となり、領地は没収され、忠良の嫡流は一度、完全に断絶してしまったのである 9 。
通常の大名家であれば、一度の改易でその歴史は幕を閉じる。しかし、久松松平家の物語はここからが本質である。
第一の奇跡(再興): 憲良が没した翌年の慶安元年(1648年)、幕府は異例の措置を取る。忠良の三男であった松平康尚(やすひさ)に兄・憲良の名跡を継がせ、新たに下野国那須に一万石を与えて大名として復活させたのである 11 。これは、彼らが将軍家の近親でなければ到底ありえない、特別な配慮であった。
第二の悲劇(再度の改易): ところが、この再興された家も安泰ではなかった。康尚の子・忠充(ただみつ)が、元禄15年(1702年)に「乱心」を理由に重臣とその子らを殺害するという衝撃的な事件を起こす。遺族からの訴えを受けた幕府は調査の結果、忠充の罪を断じ、その領地を没収。一族は、大名の家として二度目となる改易という、前代未聞の不祥事を引き起こした 11 。
第二の奇跡(存続): 二度目の、しかも当主の罪による改易という、いかなる弁解も通用しない状況にもかかわらず、一門は完全には取り潰されなかった。幕府は、康尚の他の子孫に、格式の高い交代寄合旗本として下総に6千石の知行を与え、幕臣として家名を存続させることを許したのである 10 。
この「改易→再興→再改易→存続」という劇的な展開こそ、松平忠良の一族の物語の核心である。二度の致命的な危機を乗り越えてなお家名が存続したのは、彼らが単なる大名ではなく、「於大の方の血を引く、将軍家の親族」であったからに他ならない。幕府は、この血筋が歴史から完全に消え去ることを許さなかった。この一事をもって、江戸幕府の支配体制の根幹に「血」という不変の価値がいかに深く根ざしていたかを、これ以上なく明確に理解することができる。
松平忠良の生涯を振り返ると、彼は特権的な血筋に生まれ、天下分け目の戦いを経験し、その忠誠心を試され、絶大な信頼の証として国家の要衝を任された人物であった。そして、彼が遺した一族は、その「血の力」によって幾多の危機を乗り越え、幕末までその名を繋いだ。
忠良は、戦国時代を駆け抜けた英雄たちのような傑出した武将でもなければ、領国経営に辣腕を振るった名君として歴史に名を刻んだわけでもない。しかし、彼は徳川初期における理想的な親藩大名の姿を体現した人物であったと言える。彼の存在そのものが、徳川の天下泰平を支えるための重要な「人柱」だったのである。
彼の真の歴史的遺産は、個人の功績以上に、彼の一族がたどった波乱万丈の物語そのものにある。それは、徳川幕府という巨大な権力機構が、いかにして「血」という、論理や功績を超えた絶対的な価値を基盤に築かれ、そして維持されたかを、後世の我々に雄弁に物語っている。松平忠良の生涯は、徳川の治世の本質を理解するための、貴重な一つの鍵なのである。