最終更新日 2025-05-10

松平清康

松平清康:三河統一の礎を築いた若き虎、その生涯と「守山崩れ」の真相

I. 序論:三河における新たな勢力の胎動

A. 松平清康:その血筋と歴史的背景

松平清康(まつだいらきよやす、永正8年(1511年) – 天文4年12月5日(1535年12月29日))は、日本の戦国時代に三河国で活躍した武将である。三河松平家の第7代当主であり、後に天下統一を成し遂げる徳川家康の祖父としても知られている 1 。清康は、安祥松平家の第6代当主であった松平信忠(のぶただ)の子として生まれ、母は大河内氏の出身であった 1 。通称は次郎三郎、初名は清孝と伝わる 1

清康が登場する以前の松平氏は、宗家であった岩津松平家が衰退し、清康の属する安祥松平家が事実上の松平氏惣領家と目されるようになっていた 3 。このような松平一族内部の権力構造の変化は、実力主義が横行した戦国時代特有の流動的な状況を反映している。すなわち、単に伝統的な家格だけでなく、個々の武将の力量や勢力が重視される時代であり、岩津松平家の弱体化は、清康のような野心と能力を兼ね備えた指導者にとって、一族の主導権を握る好機となった。彼の成功は、個人の才覚のみならず、こうした内部の権力移行期を巧みに捉えた結果とも言えるだろう。

徳川家康の祖父という事実は、清康の歴史的重要性を一層高めている。彼の業績や悲劇的な最期は、家康の生涯や松平・徳川家の発展に直接的、間接的に大きな影響を与えた。清康による三河統一の試みがなければ、松平家は小規模な地方勢力に留まり、家康が天下を目指す上での出発点は大きく異なっていた可能性が高い。したがって、清康の生涯を詳らかにすることは、家康の物語の序章を理解する上で不可欠である。

B. 若年での家督相続とその初期の動向

松平清康は永正8年(1511年)に生を受けた 1 。その出生地については諸説あり、安祥城とする記録 4 と岡崎城とする記録 2 が存在するが、安祥松平家の本拠地であった安祥城で生まれ、後に岡崎城へ進出したとする流れが一般的である 5 。幼名は竹千代(たけちよ)といい 2 、奇しくも孫の家康と同じ幼名であったことは興味深い。これが単なる偶然か、あるいは清康の資質を慕った家康の両親による命名かは定かではないが、清康が夭折したとはいえ、松平家中でその功績が記憶されていた可能性を示唆している。

父・信忠が隠居した後、大永3年(1523年)、清康はわずか13歳で家督を相続した 1 。若くして当主となった清康は、当初は宿老たちの補佐に頼らざるを得なかったが 7 、やがてその若さ故に軽んじられることを避けるため、父の側近を配置転換するなど、断固たる措置を講じて自らの権威を確立しようと努めた 7 。13歳での家督相続は戦国時代においては珍しいことではなかったが、直ちにその指導力が試される状況に置かれたことは間違いない。彼が早期に権力基盤の確立に動いたことは、年齢にそぐわない鋭敏な政治感覚を持っていたことを示しており、後の積極的な領土拡大策を予感させるものであった。出生地に関する記録の不一致は、この時代の史料が抱える一般的な課題を反映しており、後の岡崎城の重要性から、清康との結びつきが強調された可能性も考えられる。

II. 三河統一:若き指導者の躍進

A. 戦略的拠点移動:安祥から岡崎へ

松平清康の三河統一事業における最初の重要な一歩は、本拠地の戦略的移転であった。大永4年(1524年)、清康は岡崎松平家の松平信貞(叔父の桜井松平信貞とは別人)が領する山中城を攻略した 9 。これに続き、岡崎松平家の勢力が弱体化した機を捉え、安祥城から岡崎城へと本拠を移した 1 。この際、敗れた岡崎城主の娘・春姫(波留姫とも)を正室に迎えたと伝えられている 5

この岡崎への進出は、清康が戦国大名へと飛躍する上で決定的な意味を持った 1 。岡崎城は、安祥城に比べて防御性に優れ、三河国の中央に位置していたため、領国経営とさらなる勢力拡大のためのより強固な拠点となり得た 10 。清康が岡崎に目を付けたのは、単に新たな領地を獲得するという以上に、三河統一という大目標を見据えた戦略的判断であったと言える。安祥城が旧来の拠点であったのに対し、岡崎城は彼の新たな野望を象徴する場所となったのである。

一方で、後の尾張進出に際しては、再び安祥城を戦略拠点として重視した可能性も指摘されている 7 。これは、岡崎を国元の中心としつつ、西方への前線基地として安祥城を活用するという、柔軟な戦術的思考を示している。松平一族内の他の分家、例えば岡崎松平家を屈服させることは、内部の結束を固める上で不可欠であったが、同時に反感を招く危険性もはらんでいた。春姫との婚姻は、岡崎掌握を正当化し、旧勢力を懐柔するための政略的な一手であったと考えられる。

B. 軍事行動と競合勢力の平定(西三河・東三河)

岡崎城を確保した後、清康は三河統一に向けて本格的な軍事行動を開始した 1 。西三河は既に安祥松平家の影響下にあり、その支配は一層強固なものとなった。清康の真価が問われたのは、今川氏の影響力も及んでいた東三河の平定であった。

享禄2年(1529年)、清康は東三河の有力国人であった牧野氏の吉田城、戸田氏の田原城を相次いで攻略し、この地域の平定を大きく前進させた 1 。さらに、宇殿氏、菅沼氏、奥平氏ら奥三河の山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)なども服属させた 1 。具体的な戦歴としては、足助城(鈴木氏、大永4年または5年) 9 、小島城(鷹部屋氏、享禄2年) 9 、宇利城(熊谷氏、大永4年攻略開始、享禄3年までに支配下) 9 、伊保城(三宅氏、享禄4年) 9 などが挙げられる。

これらの戦果により、享禄2年から3年(1529年~1530年)頃には、清康は三河国をほぼ統一することに成功した 3 。その勢威から、正式な官職ではなかったものの、事実上の三河支配者として「三河守」と称されることもあったという 7 。天文2年(1533年)には、今川氏に与する信濃の軍勢が三河に侵攻してきたが、清康はこれを井田野の戦いで破り、その武威を示した 1

清康による三河の急速な統一は、彼の卓越した軍事的指導力と組織力を物語っている。三河国は当時、多くの小規模な国人領主が割拠する分裂状態にあった。これらをわずか10年足らず(1523年頃~1533年頃)で自らの支配下に置いたことは、周到な戦略計画、効果的な兵力動員、そして決断力に富んだ行動の結果であったと言える。特に東三河は、駿河・遠江を支配する強大な今川氏の勢力圏に近接しており、この地域での成功は、清康の自信と、より大きな勢力へも挑戦する意志の表れであった。井田野の戦いでの勝利は、その象徴的な出来事と言えよう。

C. 尾張への進出と外交戦略

三河国をほぼ手中に収めた松平清康は、次なる目標として隣国の尾張国に目を向けた。尾張は当時、織田氏の勢力基盤であった 1 。享禄2年(1529年)、清康は尾張に侵攻し、岩崎城(荒川氏)や品野城(桜井氏)を攻略した 1 。これは単なる襲撃ではなく、尾張国内に足掛かりを築こうとする領土獲得の意図を持ったものであり、清康の野心が三河一国に留まらないことを示していた。

さらに清康は、美濃国の斎藤道三と同盟を結び、織田氏を挟撃する策を講じたとされている 1 。一方で、東方の強国である今川氏とは、時には従属的な姿勢を見せるなど、複雑な関係を維持していた 1 。これは、西方の織田氏に集中するために東方の安全を確保する、あるいは今川氏の権威を利用して自らの立場を強化するといった戦略的な判断であった可能性が考えられる。

清康の尾張侵攻は、彼が単なる地方領主ではなく、広域的な視野を持った戦国大名へと成長しつつあったことを示している。斎藤道三との同盟や今川氏との関係操作は、戦国時代の複雑な勢力図の中で、自家の利益を最大化しようとする外交手腕の現れであった。これらの動きは、清康が単に武勇に優れただけでなく、戦略的な思考と外交的な駆け引きにも長けていたことを示唆している。

表1:松平清康の主要な軍事行動と政治的画期

年代(和暦/西暦)

清康の年齢

主要な出来事

意義・結果

典拠

大永3年 (1523年)

13歳

家督相続

松平家第7代当主となる

1

大永4年 (1524年)

14歳

山中城攻略、岡崎城へ本拠を移転

三河統一の拠点確保、戦国大名への第一歩

1

大永4年~ (1524年~)

14歳~

足助城(鈴木氏)、宇利城(熊谷氏)など西三河・東三河各地を攻略

三河国内の勢力基盤を拡大

9

享禄2年 (1529年)

19歳

吉田城(牧野氏)、田原城(戸田氏)攻略。尾張の岩崎城(荒川氏)、品野城(桜井氏)攻略

東三河をほぼ平定、尾張へ進出

1

享禄2年~3年 (1529~30年)

19~20歳

小島城(鷹部屋氏)、宇利城(熊谷氏)、吉田城(牧野氏)などを支配下に置く

三河国のほぼ統一を達成

3

享禄4年 (1531年)

21歳

伊保城(三宅氏)攻略。「世良田」姓を称し始める

勢力拡大、権威の主張

1

天文2年 (1533年)

23歳

井田野の戦いで今川方信濃勢を破る

三河における松平氏の優位を確立

1

天文4年 (1535年)

25歳

尾張守山へ出陣、守山崩れにより横死

清康の急死、松平氏の勢力後退

1

III. 若き戦国大名の統治と構想

A. 城郭整備と防衛戦略(安祥城・岡崎城)

松平清康は、領国支配の安定と軍事力投射のために、城郭の整備と防衛網の構築に力を注いだ。本拠地とした岡崎城では、その防備を強化し、信頼できる家臣を要所に配置した 7 。また、旧来の拠点であった安祥城も戦略的に重視し、堀を巡らせ、高櫓を築き、城下町を整備するなど、一大拠点として開発した 7

清康の城郭戦略は、個々の城の強化に留まらなかった。尾張との国境地帯には小規模な砦を複数配置し、東三河方面では同盟関係にある国人領主の城を自らの防衛体制に組み込むことで、領国全体の防衛力を高めた 7 。さらに、城と城を結ぶ連絡路の整備にも注力し、敵の動向を迅速に察知し、兵力を素早く移動させるための基盤を築いた 7

これらの施策は、清康が単なる勢力拡大だけでなく、獲得した領土を確実に維持し、効率的に統治するための体系的なアプローチを持っていたことを示している。城郭の整備と連絡網の充実は、戦国時代の不安定な状況下において、領国の安定と軍事作戦の遂行に不可欠な要素であった。特に、岡崎を国内統治の中心とし、安祥を対尾張戦略の最前線基地とするような機能分担の構想 7 は、彼の戦略家としての成熟度を物語っている。これは、資源と機能を効果的に配分する、洗練された領国経営の一端と言えるだろう。

B. 三河における経済政策と民政

松平清康は軍事面での活躍が目立つが、領国経営、特に経済政策にも意を用いていた。その代表的な例が、城下町の育成である。安祥城下では、諸国から商人を積極的に招き入れ、経済活動の活性化を図った 7

特に注目されるのは、大永4年(1524年)の岡崎城獲得後に行われた市場政策である。清康(史料によっては「松平清安」と誤記されている場合もある 12 )は、山中城攻略で功績のあった家臣・大久保忠茂の献策を容れ、岡崎城下の市場における市銭(市場税)を免除する権利を忠茂に与えた 5 。これは実質的な楽市(自由市場)の設置であり、この政策によって多くの商人が岡崎に集まり、後の連尺町(れんじゃくちょう)となる商業地区が形成された。この出来事は「岡崎の開市」として記憶されている 5

清康はまた、領国内の交通路の整備や市場の設置を推進し、領国全体の経済発展に貢献したとされている 7 。「大名とは、戦に勝つだけではない。民の暮らしを守り、国を豊かにするのが務めである」という言葉が伝えられているように 7 、清康は単なる軍事指導者ではなく、民政にも配慮した領国経営を目指していたことがうかがえる。ただし、彼自身が実施した検地や詳細な税制に関する具体的な記録は乏しい 7

岡崎での楽市政策は、後に織田信長が大々的に展開することで知られるが、清康が1524年という早い段階で同様の政策を支持したことは、その先進性を示すものである。これは単に功臣に報いるというだけでなく、新たな本拠地である岡崎を経済的に活性化させ、ひいては自身の軍事力を支える経済基盤を強化するという明確な意図があったと考えられる。大久保忠茂への市場管理権の委任は、清康の有能な家臣への信頼と、効率的な統治のための権限委譲という側面も見て取れる。

C. 権威の主張と系譜:世良田氏の称名

松平清康は、軍事力による支配だけでなく、自らの権威を象徴的な形で高めることにも意を用いた。享禄4年(1531年)以降、清康は公式な文書において、源氏の名門である新田氏の一族、世良田氏の姓を名乗るようになった 1 。これは、松平氏の出自をより高貴なものとして示すための政治的な演出であったと考えられている。特に、足利氏一門という高い家格を誇る今川氏に対抗する上で、自らも由緒ある源氏の血筋を引くことを強調する狙いがあったと推測される 1

天文4年(1535年)に清康が菩提寺である大樹寺に建立した多宝塔の銘文にも、「世良田次郎三郎清康」と刻まれており 5 、この称名が単なる一時的なものではなく、彼のアイデンティティの一部として意識されていたことを示している。

世良田氏の称名は、清康の巧みな政治感覚を物語る。松平氏は元来、三河の地方豪族であり、その家格は必ずしも高いものではなかった。世良田氏(ひいては新田源氏)の系譜に連なることを主張することで、清康は松平氏の地位を全国的なレベルで向上させようとしたのである。これは、今川氏のような伝統的権威を持つ大名と渡り合う上で、自らの正統性を補強する意味合いを持っていた。軍事的な成功に加え、このような権威の構築は、清康が単なる武勇の将ではなく、自らを正統かつ強力な統治者として位置づけようとしていたことを示している。彼の「三河守」という非公式な称号 7 や、大樹寺の多宝塔建立といった事業 5 も、同様の意図のもとに行われたものと考えられる。

IV. 「守山崩れ」:志半ばでの悲劇

A. 運命の尾張出兵

天文4年(1535年)12月、松平清康は尾張国の織田信秀(織田信長の父)を攻撃するため、軍勢を率いて尾張へ出陣した 1 。これは、三河統一をほぼ成し遂げ、次なる目標として尾張への本格的な勢力拡大を目指した、清康の野心を示すものであった。彼は尾張国守山(現在の名古屋市守山区)に陣を敷いた 1 。一部の史料によれば、清康は戦わずして守山城に入ったとされ、これは織田方内部の調略や、あるいは清康方と織田方の一部勢力との間に何らかの密約があった可能性を示唆している 22

この時の松平軍の兵力については諸説あり、『三河物語』は1万余騎とする一方、『松平記』は1千騎と記している 22 。仮に少数であったとすれば、背後の武田氏や北条氏、そして叔父である松平信定の動向を警戒し、迅速な奇襲を意図した可能性も考えられる 22

この尾張出兵は、清康の勢力拡大政策の頂点とも言える大規模な軍事行動であった。当時、織田信秀も尾張統一を進める気鋭の戦国大名であり、彼に正面から挑むことは、清康の自信と、東海地方における覇権を確立しようとする強い意志の表れであった。しかし、この遠征が彼の運命を大きく狂わせることになる。守山城に「戦わずして入った」という伝承 22 は特に興味深く、これが事実であれば、事件の背景には単純な誤解による殺害以上の、複雑な政治的陰謀が潜んでいた可能性を否定できない。

B. 暗殺:阿部弥七郎の凶行とその直後

天文4年12月5日(西暦1535年12月29日とも)、守山の陣中において、松平清康は突如として家臣の一人である阿部弥七郎正豊(あべやしちろうまさとよ)によって斬殺された 1 。清康、時に25歳の若さであった 1 。この衝撃的な事件は「守山崩れ」として知られ、松平氏の歴史における大きな悲劇として語り継がれている 1

凶行に及んだ阿部正豊は、その場で他の松平家臣によって討ち取られた 24 。指導者を失った松平軍は統制を失い、混乱の中で尾張守山からの撤退を余儀なくされた 23

譜代の重臣である阿部氏の一員による主君殺害という前代未聞の事態は、戦国時代の軍陣における極度の緊張感と、些細な誤解や疑心暗鬼が致命的な結果を招きかねない危険性を浮き彫りにしている。阿部正豊が即座に殺害されたことで、彼自身の口から事件の真相が語られる機会は永遠に失われ、これが後の様々な憶測を呼ぶ一因となった。また、総大将の突然の死により、あれほど統制の取れていた松平軍が瞬く間に崩壊したことは 23 、清康の個人的な指導力に松平氏の結束がいかに依存していたかを示している。彼の死は、松平氏がまだ組織として盤石な体制を築き上げる途上にあったことを露呈したと言えるだろう。

C. 動機の錯綜:誤解、流言、そして阿部一族

阿部正豊が主君である清康に刃を向けた直接的な動機は、一般に誤解に基づくものとされている。すなわち、正豊は、父である阿部定吉(さだよし、一部史料では信忠とも 1 )が清康によって殺害された、あるいはまさに殺害されようとしていると誤信したために凶行に及んだというものである 1

事件の背景には、阿部定吉が織田方に内通している、あるいは寝返りを企てているという流言が松平家中に広まっていたことがある 3 。定吉自身もこの噂を耳にしており、万が一の事態に備え、自らの潔白を証明するための誓紙(せいし)を息子正豊に託し、もし自分が濡れ衣で殺されるようなことがあれば、これを清康に渡すよう指示していた 3

事件当日、陣中で馬が暴れるなどの騒ぎが起こり、これを父が処刑された合図だと早合点した正豊が、逆上して清康を襲撃したとされている 3

阿部定吉に関する内通の「噂」 3 こそが、この悲劇の核心的な引き金であった。この噂が自然発生的なものであったのか、あるいは清康の敵対勢力(例えば後述する松平信定など)によって意図的に流されたものだったのかは、事件の全貌を理解する上で極めて重要な点である。定吉が噂を深刻に受け止め、誓紙を準備していたこと 3 は、彼が実際に身の危険を感じていたことを示している。このような疑心暗鬼が渦巻く状況が、正豊による致命的な誤解と早まった行動を誘発したと言える。この事件は、戦国時代の武家社会における主従関係の厳しさと、一度忠誠を疑われれば破滅的な結果を招きかねない過酷な現実を物語っている。

D. 陰謀の影:松平信定の黒幕説

守山崩れの背後には、清康の叔父にあたる桜井松平家の松平信定(まつだいらのぶさだ)が糸を引いていたとする説が有力に語られている 3 。信定は、かつて松平宗家の家督相続において有力候補と目され、祖父である松平長親からも寵愛を受けていたが、甥である清康の急速な台頭と成功を快く思っていなかったと伝えられている 3

さらに、信定は織田氏とも繋がりがあった。守山城主であった織田信光は、信定の娘婿であったという 22 。そして、清康の死の直後、信定はこの機を逃さず岡崎城を占拠し、清康の嫡男でまだ幼かった広忠(徳川家康の父)を追放して実権を握った 3

信定が清康の死後に見せた迅速な行動、すなわち岡崎城の掌握と広忠の追放 3 は、彼が事件に何らかの形で関与していた、あるいは少なくとも事件を最大限に利用する準備ができていたことを強く示唆する状況証拠と言える。信定の野心 3 、清康への反感 3 、そして織田氏との縁戚関係 22 は、動機と手段の双方を提供し得る。彼が阿部定吉に関する内通の噂を流布させ、松平家中を混乱に陥れることで、自らが漁夫の利を得ようとした可能性は十分に考えられる。もし守山崩れが信定によって画策されたものであったとすれば、それはまさに下剋上であり、松平氏が尾張への勢力拡大という重要な局面で、内部の権力闘争によって麻痺させられた典型例と言えるだろう。清康の死によって松平氏の勢いが削がれたことは、まさに信定(あるいは織田氏)の望むところであったかもしれない。実行犯である阿部正豊がその場で殺害されたこと 24 も、真相を闇に葬り、陰謀を隠蔽するには都合の良い展開であった。

表2:「守山崩れ」事件の主要人物とその役割・動機

人物名

事件における役割

報告されている/推定される動機

主要な行動

典拠

松平清康

被害者

尾張進出、織田信秀討伐

守山に出陣

1

阿部弥七郎正豊

暗殺実行犯

父・定吉が清康に殺害されたとの誤解、逆上

清康を斬殺

1

阿部定吉

正豊の父、内通の噂の対象者

潔白の主張

正豊に誓紙を託す

3

松平信定

清康の叔父、桜井松平家当主、黒幕説の対象者

清康への嫉妬、松平宗家の家督奪取の野心

清康死後、岡崎城を占拠し広忠を追放

3

織田信秀

尾張の戦国大名、清康の攻撃対象

尾張の防衛、松平氏の勢力拡大阻止

清康軍と対峙

1

織田信光

守山城主、松平信定の娘婿

(黒幕説の場合)信定と共謀して清康を誘殺

(黒幕説の場合)守山城への清康入城を画策

22

V. 遺産と影響

A. 松平氏の混乱:清康死後の余波

松平清康の突然の死は、松平氏の権力と三河支配に急速な衰退と弱体化をもたらした 1 。清康の嫡男であり家督を継ぐべき広忠(後の徳川家康の父)は、当時まだ10歳という幼さであった 3 。この権力の空白を突き、前述の通り叔父の松平信定が岡崎城を掌握し、広忠を追放した 3

その結果、清康が心血を注いで統一した三河国は、再び織田氏と今川氏という二大勢力の角逐の場となり、不安定な情勢に逆戻りした 1 。広忠は後に今川氏の支援を得て岡崎城に帰還するものの 9 、松平氏は長きにわたり今川氏に従属する立場を余儀なくされ、これが家康自身の今川氏への人質生活へと繋がっていく。

松平氏の権威がこれほどまでに急速に失墜したことは 1 、清康による三河統一が軍事的には成功していたものの、その統治体制はまだ盤石ではなく、創設者である清康個人のカリスマ性と指導力に大きく依存していたことを示している。真に統一され安定した領国であれば、当主の死後も後継者擁立や内部の反乱分子抑圧の仕組みが機能したはずである。信定がいとも容易く岡崎城を乗っ取れた事実は 3 、清康の直系に対する忠誠心が松平一族全体に完全には浸透していなかったか、あるいは信定派の勢力がこの混乱に乗じるに十分な力を持っていたことを物語っている。清康の死は、結果的に息子の広忠と孫の家康に苦難の道を強いることになったが、この逆境こそが、家康の忍耐力と政治的洞察力を鍛え上げたとも言えるかもしれない。

B. 歴史的評価:「三河物語」の視点と現代の評価

松平清康の評価は、江戸時代初期に成立した松平・徳川氏の記録である『三河物語』において特に高く、「もし清康があと10年生きて30歳になっていれば、天下を統一したかもしれない」とまで記されている 3 。また、「松平氏屈指の名君」とも称されている 3

現代の歴史研究においても、清康の卓越した軍事的才能、三河統一の功績、そして先見性のある統治構想は認められているが、その早すぎる死によって彼の潜在能力が完全に開花することはなかったと評価されている 1 。一方で、清康自身が発給した一次史料が少ないことから、その名声にもかかわらず「謎の多い人物」とも評されることがある 5

『三河物語』における高い評価 3 は、徳川中心史観による誇張が含まれている可能性を考慮しても、清康の非凡な能力と、彼が生きていればという期待感を強く反映している。25歳で夭折した人物に対して「天下統一も可能だった」という評価がなされるからには、彼がその短い生涯で残した実績がいかに強烈な印象を与えるものであったかがうかがえる。これは単なる身内贔屓ではなく、彼の業績が後世の徳川史観を形成する上で重要な要素となったことの証左であろう。また、一次史料の乏しさ 5 は、清康の人物像や政策の詳細を彼自身の言葉から直接知ることを困難にしており、後世の記録や彼の行動の結果からその姿を再構築する必要性を生んでいる。

C. 徳川家康台頭の礎

松平清康の死後、松平氏は一時的に衰退したものの、彼が成し遂げた三河統一の業績は完全に失われたわけではなかった。それは、後に孫である徳川家康が三河を再統一し、さらなる飛躍を遂げる上での領土的、そして概念的な基盤となった 1 。清康による戦略的な城郭配置、家臣団統制の手法、インフラ整備、経済政策などは、家康が後の国家建設を進める上での手本、あるいは基礎となったと評価されている 7

家康という名の「康」の字が、祖父である清康の「清康」から取られたものであること 5 は、家康自身、あるいはその周囲が清康に対して抱いていた敬意と、その遺志を継ごうとする意識の表れと言えるだろう。

清康の治世は短かったが、彼が示した三河統一という実績は、松平氏による三河支配の「記憶」と前例を創り出した。家康が自身の統一事業を開始した際、この記憶と前例は、三河武士たちの支持を得る上で精神的な支柱となった可能性がある。たとえ松平氏が清康の死後に弱体化したとしても、彼が一度は三河を統一したという事実は 3 、それが不可能ではないことを証明していた。また、清康の統治手法が家康の「手本」となったという指摘 7 は、清康の行政手腕や戦略的思考が、徳川幕府の統治術にも間接的に影響を与えた可能性を示唆している。これにより、清康は単なる武将としてだけでなく、その構想が後世に影響を与えた初期の国家建設者としても評価され得る。

D. 「妖刀村正」伝説の源流

松平清康の悲劇的な死は、日本の文化史においても興味深い伝説を生み出した。阿部正豊が清康暗殺に用いた刀は、伊勢国の刀工・村正の作であったと伝えられている 3 。この事件が、後に徳川家に不幸をもたらすとされる「妖刀村正」の伝説の始まりであると考えられている。村正の刀は、家康の嫡男・松平信康の自刃や、家康自身が村正の槍で負傷したとされる逸話など、徳川家にとって不吉な出来事と結びつけて語られるようになった 3

この村正伝説 3 は、清康の死という悲劇を、後の徳川家の不幸と結びつける強力な物語的装置として機能した。呪いが実在したかどうかは別として、その「信仰」は重要であった。村正の刀が徳川家にとって不吉なものとされた背景には、単なる偶然の連鎖だけでなく、悲劇的な出来事を説明し、あるいは劇的に演出するための物語化の欲求があったのかもしれない。刀は、支配者一族を襲った危険と悲劇の象徴となったのである。

VI. 追悼と史的記録

A. 主要な墓所と関連寺院

松平清康の遺骸は岡崎に運ばれ、菅生丸山(すごうまるやま)で荼毘に付された 3 。彼の墓所や菩提を弔う寺院は複数存在し、これらは松平・徳川家にとっての彼の重要性を示している。

  • 随念寺(善徳院) (岡崎市):徳川家康が祖父・清康を弔うために建立した寺院 5 。清康の墓は、彼の妹であり家康の養育者でもあった久子(隨念院)の墓と並んである 5 。江戸幕府からの庇護も厚かった 5 。一部情報では墓所は非公開とされている 5
  • 大樹寺 (岡崎市):松平氏代々の菩提寺。清康の墓も存在する 2 。大林寺にあった五輪塔の一部が移されたとの伝承もある 28
  • 大林寺 (岡崎市):元は西郷信貞が建立した寺だが、後に清康の菩提寺となった。清康の墓(高さ1.93mの五輪塔)と正室・春姫(波留姫)の墓がある 3
  • 宝勝寺 (名古屋市守山区):守山崩れの地である守山城跡に、寛永14年(1637年)に清康の菩提を弔うために建立された 23
  • 愛知県西尾市長縄町には、遺骸を岡崎へ移送する途中で仮葬したと伝わる石塔も現存する 3

これらの墓所や寺院が複数存在することは 2 、清康が徳川の系譜においていかに重要な人物であったか、そして特に家康がその記憶を大切にしていたかを示している。大樹寺や大林寺といった主要な菩提寺に墓があること、家康が自ら随念寺を建立したことは、清康を徳川家の公式な歴史と精神的支柱の中に位置づけようとする意図の表れである。また、横死した守山に宝勝寺が建てられたことも、慰霊と記憶の継承という点で意義深い。これらの史跡が、特に随念寺のように徳川幕府によって手厚く保護されたこと 5 は、清康が決して忘れられた祖先ではなく、その遺産が積極的に顕彰されていたことを示している。

B. 現存する肖像画と古文書

松平清康の姿や事績を伝える史料として、数少ないながらも肖像画や古文書が存在する。

  • 肖像画
  • 「松平清康公御吉例之真影(まつだいらきよやすこうごきちれいのしんえい)」として知られる肖像画が随念寺に伝わる 31
  • これは享禄3年(1530年)、清康が20歳の時に描かれたとされ、彼が夢で手のひらに「是」の字を握るのを見たことを記念したものと言われる。この夢は、彼の家系から天下人が出る吉兆と解釈された 5
  • 肖像画には、後に松平・徳川家の家紋となる以前、本多氏などとも関連のあった「立葵紋」が描かれている 32
  • 安城市の博物館などと共に作成された複製も存在する 31
  • 古文書
  • 享禄4年(1531年)以降に清康が発給した一部の文書には、「世良田」の姓が用いられている 1
  • 国立公文書館所蔵の『松平記』は、江戸時代初期に成立した編纂物で、清康の死(天文4年、1535年)から天正7年(1579年)までの出来事を記している 35
  • 『三河物語』のような後代の軍記物も、清康の生涯や業績に関する記述を含んでいる 3
  • 「先祖松千代鉄座御免許并御由緒筋申上候書付」という史料には、松井惣左衛門尉光次が清康に仕えたとの記述がある 36

1530年の肖像画 5 が正確な年代のものであれば、同時代の貴重な視覚史料となる。「是」の字の夢とその解釈(「日下人」、すなわち天下人) 5 にまつわる物語は、清康自身、あるいはその側近たちが、彼のイメージと一族の将来への期待を積極的に形成しようとしていたことを示す、強力な正当化の物語である。「立葵紋」 32 もまた、後の徳川のアイデンティティへと繋がる要素である。『松平記』 35 や『三河物語』 3 のような編纂史料は、たとえ後世のものであっても、徳川氏の起源を語る上で清康の時代がいかに重要視されていたかを示している。『松平記』が清康の死から記述を始めていること 35 は、その事件が松平氏の歴史における重大な転換点と認識されていたことの証左である。

VII. 結論:松平清康の短くも鮮烈な輝き

松平清康は、その短い生涯において、戦国時代の三河国に鮮烈な足跡を残した武将であった。わずか13歳で家督を継ぎ、岡崎城への拠点移動、そして破竹の勢いでの三河統一達成は、彼の非凡な軍事的才能と戦略的洞察力を如実に物語っている。さらに、岡崎における楽市政策の萌芽に見られる経済への配慮や、世良田氏の称名による権威の主張など、若年にして多角的な統治構想を抱いていたことがうかがえる。

しかし、その輝かしい未来は、天文4年(1535年)の「守山崩れ」によって25歳という若さで突如として断ち切られた。この悲劇は、清康個人の無念に留まらず、松平氏の勢力を一時的に大きく後退させ、息子の広忠、そして孫の家康に多大な困難をもたらす直接的な原因となった。阿部弥七郎による暗殺の真相は、誤解説が有力視される一方で、叔父・松平信定の陰謀説も根強く残り、事件の全貌は未だ謎に包まれている部分もある。

『三河物語』が「あと10年生きていれば天下を統一したかもしれない」と評したように 3 、清康の早すぎる死は多くの「もしも」を想起させる。客観的な歴史的視点から見ても、彼の指導力と行動力は、当時の東海地方において際立っており、もし彼が長命であれば、戦国時代の勢力図は大きく異なっていた可能性は否定できない。

松平清康は、しばしば孫である徳川家康の偉大な業績の影に隠れがちであるが、彼の存在なくして家康の台頭はあり得なかったと言っても過言ではない。清康が築き上げた三河統一の基盤は、一時的に崩壊したとはいえ、家康による再統一と天下取りの重要な布石となった。彼は、戦国時代特有の若き野心的な武将の典型であり、その急成長と突然の悲劇的な最期は、まさに時代の激動と非情さを象徴している。松平清康の生涯は、戦国乱世における権力掌握の夢と、常に隣り合わせに存在する破滅の危険性を凝縮した物語であり、その短くも鮮烈な輝きは、日本史において特筆すべきものである。

引用文献

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  3. 松平清康の歴史/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/92705/
  4. 松平清康物語 - カラクリBOOKS http://karakuri-books.com/book/15
  5. 【どうする家康 記念連載】第一回 三河、幻の英雄 家康公の祖父 ... https://pokelocal.jp/article.php?article=194
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  8. 岡崎信用金庫100年史 https://www.okashin.co.jp/100th/pdf/okashin_100th.pdf
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