松平秀康(まつだいら ひでやす)、幼名を於義丸(おぎまる)といい、後に羽柴秀康、結城秀康、そして最終的には松平秀康を名乗った人物は、徳川家康の次男として生まれながら、豊臣秀吉、次いで関東の名族結城家の養子となるという、戦国乱世の荒波に揉まれた複雑な経歴を持つ武将である 1 。彼の生きた時代は、戦国時代の終焉から江戸時代初期へと移行する激動期であり、徳川家、豊臣家、そして結城家という複数の立場を経験したその生涯は、当時の政治状況を色濃く反映している。武勇に優れ、将来を嘱望される将器の持ち主と目されながらも、徳川宗家の後継者となることはなく、北陸の雄藩、越前福井藩の初代藩主としてその礎を築いた。本報告は、この松平秀康の生涯を丹念に追い、その実像に迫ることを目的とする。
本報告では、松平秀康の出自の秘密、二度にわたる養子縁組の政治的背景、数々の戦役における軍事的功績、下総結城および越前福井における統治者としての業績、そして父家康や養父秀吉、弟秀忠との人間関係を通じて形成された彼特有の人物像を、現存する史料や伝承に基づいて多角的に掘り下げる。特に、彼の生涯を彩る数々の逸話や、その行動の背後にあったであろう葛藤や決断にも光を当て、単なる年譜の追跡に留まらない、血肉の通った歴史像を描き出すことを目指す。彼の短いながらも濃密な生涯が、戦国末期から江戸初期の歴史にどのような影響を与えたのかを考察する。
松平秀康 略年表
年号 |
西暦 |
年齢 |
主要出来事 |
関連資料ID |
天正2年 |
1574年 |
1歳 |
徳川家康の次男として遠江国宇布見村にて誕生。幼名、於義丸。 |
1 |
天正12年 |
1584年 |
11歳 |
小牧・長久手の戦いの和睦条件として、豊臣秀吉の養子(人質)となる。羽柴秀康と改名。 |
1 |
天正12年 |
1584年 |
11歳 |
従五位下三河守に叙任、河内国に1万石を与えられる。 |
2 |
天正13年 |
1585年 |
12歳 |
従四位下侍従に昇進。 |
21 |
天正15年 |
1587年 |
14歳 |
九州征伐に初陣。 |
22 |
天正16年 |
1588年 |
15歳 |
正四位下左近衛権少将に昇進。 |
21 |
天正17年 |
1589年 |
16歳 |
秀吉の実子・鶴松誕生。 |
2 |
天正18年 |
1590年 |
17歳 |
小田原征伐に参陣。秀吉の命により結城晴朝の養子となり、結城家18代当主となる。結城領10万1千石を継承。 |
1 |
(結城家相続後) |
|
|
羽柴結城少将と称される。葛西大崎一揆鎮圧に出陣。 |
2 |
文禄元年頃 |
1592年頃 |
19歳頃 |
文禄の役に参陣(具体的な戦功は不明)。 |
2 |
文禄4年 |
1595年 |
22歳 |
結城領の検地を行う(10万1千石と確定)。 |
17 |
慶長3年 |
1598年 |
25歳 |
結城城下に新たな城下町を建設。 |
17 |
慶長5年 |
1600年 |
27歳 |
関ヶ原の戦いにおいて、宇都宮城にあって上杉景勝を牽制。戦功により越前68万石を与えられる。 |
1 |
慶長6年 |
1601年 |
28歳 |
越前国に入国。北ノ庄城(福井城)の大改修と城下町建設に着手。芝原上水を開削。 |
1 |
慶長9年 |
1604年 |
31歳 |
松平姓を名乗ることを許される(通説)。 |
2 |
慶長10年 |
1605年 |
32歳 |
権中納言に昇進。越前中納言と称される。 |
2 |
慶長12年 |
1607年 |
34歳 |
越前北ノ庄城にて病没。 |
1 |
松平秀康は、天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村(現在の浜松市中央区雄踏町)で生を受けた 3 。幼名は於義丸(おぎまる)、あるいは於義伊(おぎい)、義伊丸(ぎいまる)、義伊松(ぎいまつ)などと伝えられている 1 。その出生地は、当時浜名湖周辺の代官などを務めていた中村源左衛門正吉の屋敷であった 3 。この中村家は源範頼の系譜を引く領主であり、この縁は後年まで続き、歴代の福井藩主が参勤交代の道中で中村家に立ち寄り、饗応を受けるのが慣例となったという 3 。この事実は、秀康の出生が単なる私的な出来事ではなく、後々まで影響を及ぼす一定の公的な意味合いを持っていたことを示唆している。
秀康の母は、お万の方(おまんのかた)、または於古茶(おこちゃ)といい、後に剃髪して長勝院(ちょうしょういん)と号した女性である 3 。彼女の出自については、永見吉英(ながみ よしひで)の娘とする説が有力であるが 3 、一説には村田意竹(むらた いちく)の娘ともされている 4 。お万の方は、家康の正室である築山殿(つきやまどの)に侍女として仕えていた際に家康の目に留まったと考えられている 5 。この出自と立場が、秀康の誕生を巡る複雑な事情を生む要因の一つとなった。
お万の方が家康の子を身ごもったことを知った築山殿は、これを承認せず、お万の方を浜松城内から追放したと伝えられている 3 。当時の正妻は、夫の側室を承認するか否かの権限を有しており、築山殿のこの行動は単なる嫉妬ではなく、正妻としての権限行使であったと理解すべきである 3 。築山殿がお万の方を家康の側室として認めていないにもかかわらず懐妊したため、城内から追放されたのであり、この事実は江戸時代以降に矮小化されて「妻の嫉妬」として語られるようになった側面がある 3 。
城を追われたお万の方は、家康の重臣である本多作左衛門重次(ほんだ さくざえもん しげつぐ)の差配によって、浜松城下の宇布見村にある中村正吉邸で秀康を出産した 3 。秀康の誕生は、こうした複雑な経緯から周囲に必ずしも歓迎されず 5 、実父である家康も、秀康が幼少の間はしばらく対面しなかったとさえ言われている 7 。このような出生時の困難な状況は、秀康の生涯にわたる「不遇」のイメージの原点となり、彼のその後の人格形成や徳川家内における初期の不安定な立場を象徴している。正室の承認を得られなかったという事実は、徳川家における秀康の正統性を曖昧にし、後の後継者問題にも影響を与えた可能性が考えられる。
秀康の出生に関しては、双子であったという説が存在する。『柳営婦女伝系』によれば、秀康は双子として生まれ、弟は生後間もなく亡くなったとされている 3 。しかし、これとは異なる記述が、母・お万の方の実家である三河国知立神社(現在の愛知県知立市)に伝わる「知立明神古文書」に見られる 3 。この古文書によれば、秀康の弟は永見貞愛(ながみ さだちか)と名乗り、知立神社の神職となって31歳まで生存したと記されている 3 。さらに、秀康は貞愛に対し、年二千俵の経済的援助を行っていたことを示す書状なども含まれているという 3 。永見貞愛は、秀康が亡くなる3年前に病没したとも伝えられている 11 。
この「知立明神古文書」の記述が事実であれば、秀康の人物像に新たな側面が加わる。公には認知されにくい立場にあった弟を、秀康が経済的に支援し、兄弟間の交流が続いていた可能性が示唆されるからである。これは、彼が単に不遇をかこつだけでなく、情誼に厚い一面を持ち、養子に出された後も実家やその周辺との繋がりを保っていた証左となり得る。秀康の生涯を通じて見られる複雑な立場や、周囲への配慮といった行動の背景に、このような出生の秘密が影響していた可能性も否定できない。
於義丸と名付けられた秀康の幼少期は、実父家康から疎んじられていたとも伝えられ 5 、その後の彼の人生における最初の試練の時期であったと言える。この時期の経験が、後の彼の性格形成や、二度にわたる養子縁組を比較的容易に受け入れた心理的背景と無関係ではないだろう。
秀康の生涯における最初の大きな転機は、天下統一を目前にした羽柴(豊臣)秀吉の養子となったことである。これは彼の意思とは無関係な、戦国時代特有の政略の産物であった。
天正12年(1584年)、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉との間で行われた小牧・長久手の戦いは、局地的な戦術的勝利は家康側にあったものの、全体としては膠着状態に陥った 17 。戦後、両者の間で和議が結ばれることになり、その和睦の証として、当時11歳であった於義丸(秀康)が、秀吉のもとへ養子(実質的には人質)として送られることとなった 1 。この際、父家康からは餞別として名刀「童子切」と采配を授けられたと伝えられている 21 。そして、養父となる秀吉と実父家康からそれぞれ一字ずつを与えられ、「秀康」と名乗ることになった 1 。この名は、両者の和睦を象徴するものであった。
秀吉の養子となった秀康は、「羽柴三河守秀康」と称し、河内国(現在の大阪府東部)に1万石の領地を与えられた 2 。これは単なる人質ではなく、羽柴一門としての待遇であったことを示している。
松平秀康 官位叙任表(羽柴・結城時代含む)
年代 |
官位 |
役職 |
任命者/背景 |
関連資料ID |
天正12年 (1584) |
従五位下 |
三河守 |
豊臣秀吉(養子入りに伴う) |
14 |
天正13年 (1585) |
従四位下 |
侍従 |
豊臣秀吉(秀吉の関白任官に伴う昇進) |
14 |
天正16年 (1588) |
正四位下 |
左近衛権少将 |
豊臣秀吉 |
14 |
(結城家相続後) |
(左近衛権少将のまま) |
(羽柴結城少将) |
(結城家相続後も羽柴姓を称し、官位により呼称) |
2 |
慶長10年 (1605) |
従三位 14 |
権中納言 |
徳川家康(幕府成立後) |
2 |
官位も順調に昇進し、天正12年(1584年)に従五位下三河守に任じられたのを皮切りに、天正13年(1585年)には従四位下侍従、天正16年(1588年)には正四位下左近衛権少将へと昇った 14 。これらの処遇は、秀吉が家康に対して配慮を示すと同時に、秀康自身の将来性を見込んでいたことの現れとも考えられる。
秀吉は、人質として送られてきた秀康を養子として迎え入れ、「秀」の一字を与えるなど、格別の配慮を示し、大変可愛がったとされている 5 。秀康が16歳の時、伏見城内で乗馬中に秀吉の寵臣が無礼にも競争を仕掛けてきたことがあった。この時、秀康はその寵臣を「無礼者」として斬り捨ててしまった。この報告を受けた秀吉は、「我が子(秀康)に対する無礼は万死に値する。秀康の心映えは天晴れである」と述べ、秀康を不問に付したという逸話が残っている 2 。この出来事は、秀康の剛胆な性格を示すと同時に、秀吉が彼を形式的な養子以上に評価し、その気概を認めていたことを示唆している。徳川家では複雑な立場にあった秀康にとって、秀吉からのこのような評価は、彼の自尊心を育む上で大きな意味を持ったであろう。
羽柴秀康として、豊臣政権下で主要な軍事行動にも参加している。天正15年(1587年)の九州征伐では初陣を飾り、日向国まで兵を進めたとされ 22 、岩石城攻めでは先鋒を務めたともいう 23 。天正18年(1590年)の小田原征伐にも秀吉軍の一員として参陣している 2 。
結城家を相続した後も、「羽柴結城少将」として、葛西大崎一揆の鎮圧のために奥州へ出陣し 2 、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも参加したと記録されている 2 。文禄・慶長の役における具体的な渡海や戦闘の詳細は不明な点が多いものの、豊臣政権下の大名として軍役を忠実に果たしたことは、彼の武将としての経験値を高め、後の関ヶ原の戦いや越前統治に繋がる素地を養ったと考えられる。
順調に豊臣家の一員としての地位を築きつつあった秀康であったが、天正17年(1589年)に秀吉待望の実子・鶴松が誕生すると、その立場は微妙なものとなる 2 。秀吉が鶴松を溺愛し、自らの後継者と定めたため、養子である秀康の豊臣家における将来的な役割は大きく後退し、再び養子に出される運命を辿ることになるのである 2 。この鶴松の誕生が、秀康の人生における二度目の大きな転換点、すなわち結城家への養子入りの直接的な契機となった。秀吉の養子としての経験は、秀康に徳川家とは異なる価値観や統治方法に触れる機会を与え、その視野を広げた一方で、豊臣家の内情に翻弄されるという、彼の宿命的な立場を改めて浮き彫りにした。
豊臣秀吉の実子・鶴松の誕生により、羽柴秀康の立場は再び流動的になる。そして、秀吉の政略の一環として、関東の名門・結城家を相続することとなった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が終結し、関東・奥羽地方の仕置が進められる中、下総国結城(現在の茨城県結城市)を本拠とする名族・結城晴朝が、男子に恵まれず家の将来を案じ、秀吉に養子を願い出た 1 。秀吉はこの申し出を了承し、自身の養子となっていた羽柴秀康を結城家へ養子として送り込むことを決定した 1 。時に秀康は17歳であり、これにより結城家第18代当主の座に就くこととなった 17 。
この養子縁組に際し、秀康は結城晴朝の養女(実父は常陸国水戸城主・江戸重通)である鶴姫(江戸鶴子)を正室に迎えた 2 。この縁組の仲介は、秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛(孝高)が務めたとされている 2 。結城家を継いだ秀康は、結城領10万1千石を相続し 1 、引き続き羽柴姓を称し、その官位から「羽柴結城少将」と呼ばれるようになった 2 。これは、秀康が依然として豊臣政権の一翼を担う存在であり、徳川家と豊臣家の双方に繋がる特異な立場にあったことを示している。この結城家相続は、秀吉の関東支配を安定させ、信頼できる人物を戦略的に配置するという深謀遠慮の現れであった。
結城家の当主となった秀康は、若年ながらも領国経営にその手腕を発揮し始める。文禄4年(1595年)には、結城領内の総検地(文禄検地)を実施し、その石高を10万1千石と公式に確定させた 17 。これは領国支配の基礎を固める上で不可欠な事業であった。
さらに、慶長3年(1598年)には、本拠地である結城城の西側に新たに城下町を建設し、その町割りを行った 17 。この時に整備された街区は、現在の結城市北部市街地の原型となっており、彼の都市計画の才を今に伝えている 17 。一方、養父となった結城晴朝は、秀康に家督を譲った後、下野国中久喜(現在の栃木県小山市)の栃井城に隠居したとされている 24 。
この結城家当主としての経験は、秀康にとって初めて自身の明確な領地と家臣団を持ち、独立した大名として統治を行う貴重な機会であった。それは、単に「家康の子」「秀吉の養子」という立場から脱却し、自らの力で領国を治めるという実績を積む重要なステップであり、後の越前福井藩というさらに大きな領地を統治する上での貴重な経験となった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、結城秀康は徳川家康の東軍の一翼を担い、戦局全体を左右する極めて重要な戦略的役割を果たすことになった。
徳川家康が会津の上杉景勝討伐の軍を起こし、下野国小山まで進軍した際、石田三成らが西軍を蜂起したとの報が届いた 26 。家康は急遽、軍議(小山評定)を開き、軍を西へ反転させて石田三成らを討つことを決定する 26 。この時、家康は次男である秀康に対し、徳川秀忠が率いる本隊の別動隊には加わらず、下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)に留まり、会津の上杉景勝の南下を阻止し、江戸への進攻を防ぐという重責を命じた 2 。宇都宮城がその防衛拠点とされた 27 。
血気盛んな秀康は、当初この配置に不満を示し、自身も西上の主力軍に加わりたいと申し出たとされるが、家康は「上杉は謙信以来の武勇の家であり、それを抑えることができるのはお前しかいない」と説得し、その重要任務を託したという逸話が残っている 23 。この配置は、秀康の武勇と、彼がかつて豊臣秀吉の養子であり、結城家を継いで関東に基盤を持っていたという複雑な経歴を巧みに利用した家康の戦略であった。これにより、上杉だけでなく、去就の定まらない関東・奥羽の諸大名(特に豊臣恩顧の大名)に対しても睨みを利かせることができたのである。
秀康が宇都宮に大軍を率いて留まったことは、上杉景勝の西進を阻む大きな要因となった。さらに、関東地方の諸大名の動向を監視し、彼らが西軍に与したり、東軍の背後を脅かしたりするのを防ぐという、関東全体の安定化という役割も担っていた 20 。事実、家康は戦後、秀康のこの功績を高く評価し、「そなたが奥州方面を強力に抑えてくれたおかげで、関東は安泰であった」と讃辞を送ったと伝えられている 26 。
この秀康の働きは、家康が東国の憂いを断ち、安心して主力軍を西へ進め、関ヶ原での決戦に集中することを可能にした点で、東軍の勝利に大きく貢献したと言える。弟の秀忠が中山道を進軍中に真田昌幸の策にはまり、関ヶ原の決戦に遅参するという失態を犯したのとは対照的に 18 、秀康は与えられた重要任務を確実に遂行し、軍事指揮官としての能力の高さを示した。
宇都宮にあって上杉景勝と対峙するにあたり、秀康は奥羽の有力大名である伊達政宗との連携も図っていた。家康が伊達政宗に宛てた書状の中には、秀康とよく話し合って上杉景勝の軍に備えるようにとの指示が見られる 2 。また、関ヶ原の戦いが終結した後、秀康は伊達政宗に対し、佐和山城陥落などの戦勝を伝える書状を送っている 31 。これらの事実は、秀康が単独で上杉勢と対峙したのではなく、広域的な視野に立ち、他の東軍方大名との連携を模索しながら、対上杉包囲網を形成していたことを示唆している。
関ヶ原における秀康のこれらの働きは、徳川政権の樹立に不可欠なものであり、戦後の論功行賞において、彼が越前68万石という破格の大封を与えられる大きな理由となった。
関ヶ原の戦いにおける功績により、結城秀康は徳川家康から破格の恩賞を与えられ、北陸の大藩である越前福井藩の初代藩主として、その治世を開始することになる。これは彼の生涯における最大の栄誉であり、その後の越前松平家の繁栄の礎を築く重要な時期であった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、秀康はその戦功を認められ、越前一国、石高にして68万石という広大な領地を与えられた 1 。一部資料には67万石との記述も見られるが、福井県文書館の資料によれば、検地や軍役などの記録に基づくと68万石が正しいとされている 9 。この石高は、加賀100万石の前田家に次ぐ規模であり 22 、徳川一門としても破格の待遇であった。
この大封は、単に秀康の戦功に報いるという意味合いだけでなく、いくつかの重要な政治的・戦略的意義を含んでいた。第一に、父家康の秀康に対する武将としての能力への高い評価と、その将来への期待の大きさを示すものであった 20 。第二に、越前国は、豊臣恩顧の有力大名が多く割拠する西国と、徳川政権の中枢である関東とを結ぶ交通の要衝であり、特に強大な勢力を保持する加賀の前田家を監視し、牽制するという地政学的に極めて重要な役割を担っていた 20 。秀康の越前配置は、徳川政権初期における北陸地方の安定化と支配体制の確立に不可欠な一手だったのである。
越前入封後の慶長9年(1604年)には、秀康は家康から松平姓を名乗ることを許されたとされている 2 。これにより、彼は名実ともに徳川一門の有力大名として明確に位置づけられた。長らく結城姓を名乗ってきた秀康にとって、松平姓への復帰は、徳川宗家との関係を再確認し、その藩屏としての役割をより一層強く意識する契機となったであろう。通説では関ヶ原の戦いの後に越前国を領してから松平姓を名乗ったとされるが、一次史料においては、この時期に彼が実際に称した名字が明確にはなっていないという指摘もある 3 。いずれにせよ、越前移封を機に、彼は越前松平家の始祖となったのである 17 。
慶長6年(1601年)、秀康は越前国に入国すると、直ちに領国経営に着手した。その中心となったのが、かつて柴田勝家が居城とした北ノ庄城(きたのしょうじょう)の大規模な改修と、新たな城下町の建設であった 1 。この事業には6年の歳月が費やされたという 1 。
改修後の北ノ庄城は、福井城と改称され、4重から5重にも及ぶ広大な堀を巡らし、本丸には4層5階の壮大な大天守閣が聳え立つ巨大な城郭へと生まれ変わった 1 。この福井城の威容は、68万石の大大名にふさわしいものであり、北陸における徳川家の権威を象徴するものであった。また、秀康は城の建設と並行して、計画的な城下町の整備も進めた。この時に築かれた城と城下町の基本的な構造は、現在の福井市街地の骨格として今もその面影を残している 1 。これらの大規模な土木事業は、秀康が単なる武勇に優れた武将であるだけでなく、優れた統治構想とそれを実行に移すだけの卓越した能力を持っていたことを示している。
秀康は、城郭や城下町の整備といったハード面だけでなく、領民の生活基盤の安定にも心を配った。その代表的な事業が、芝原上水(しばはらじょうすい)の開削である 1 。これは、福井城下の北東約8キロメートルに位置する芝原郷(現在の福井県吉田郡永平寺町松岡)で九頭竜川から取水し、城下へ飲料水を供給するための上水道であり、家老の本多富正に命じて行わせたとされる 40 。この芝原上水は、城下の生活用水としてだけでなく、周辺68ヶ村の農業用水としても利用され、地域の発展に大きく貢献した 40 。
また、九頭竜川左岸の松岡から北野(現在の福井市)に至る連続堤防の建設も行っており 41 、治水事業にも積極的に取り組んでいたことが窺える。これらの事業は、領民の生活安定と生産力の向上を目指したものであり、秀康の民政家としての一面を物語っている。
越前に入国した秀康は、速やかに藩政の確立に着手した。まず、家臣たちの知行割(ちぎょうわり)を行い、それぞれの禄高を定めるとともに、領内の要所には信頼の置ける重臣たちを配置して、支配体制の強化を図った 37 。また、彼は武勇に秀でた人材を積極的に登用し、家臣団の育成にも力を注いだという 39 。秀康の家臣団には、かつての結城家以来の譜代の家臣である「結城四老」(多賀谷氏、山川氏、水谷氏、岩上氏など)も含まれており 37 、旧来の家臣と新たに召し抱えた家臣とを融合させ、強力な家臣団を形成しようとした努力が推察される。
秀康の治世における具体的な産業振興策に関する詳細な史料は多くないものの、後の福井藩の特産品となる越前和紙を藩の専売とするなど、産業の振興にも意を用いていたとの記述も見られる 42 。ただし、これが秀康自身の直接的な施策であったか、あるいは越前松平家全体の傾向であったかについては、さらなる検討が必要である。
秀康の越前における治世は、わずか6年余りという短い期間であったが、その間に彼は福井藩の基礎を固め、後の発展の土台を築き上げた。彼の統治能力の高さは、これらの事績からも十分に窺い知ることができる。
松平秀康は、その複雑な出自と波乱に満ちた生涯にもかかわらず、あるいはそれゆえに、際立った個性と能力を持つ武将として、同時代人および後世から評価されている。彼の人物像は、数々の逸話や人間関係の中に色濃く映し出されている。
秀康は武勇に優れ、剛毅な性格で、体躯も立派であったと伝えられている 2 。その将器を示す逸話は数多く残されている。
例えば、徳川家康と共に京都に滞在中、近隣で火災が発生した際には、家康に先んじて少数の供回りを率いて迅速に消火活動にあたり、鎮火を見届けるとすぐに引き揚げたという 23 。この行動は、彼の決断力と行動力を示すものとして評価されている。
関ヶ原の戦いに際して、宇都宮で上杉景勝の抑えを命じられた際、当初は不満を示したものの、家康からその重要性を説かれると納得した。その後、上杉景勝が江戸に攻め入るとの噂が流れると、秀康は大胆にも景勝に対し「退屈しのぎに我々と一戦交えようではないか」という趣旨の書状を送ったという 23 。これに対し景勝は「大将(家康)の留守中に攻め入るようなことは、亡き父・謙信の教えに背く」と返答したとされ、秀康の豪胆さと相手の心理を読む洞察力を示している。
また、豊臣秀吉の死後、石田三成が武断派の諸将に命を狙われた際、家康の命により三成を大坂から居城の佐和山城まで護衛する任務を果たした 23 。佐和山城下に到着後も、三成の身の安全を案じ、自身の家臣を護衛につけるなど、義侠心と冷静な判断力を示した。これに感銘を受けた三成は、秀康に名刀「石田正宗」を贈ったと伝えられている 23 。
さらに、家康暗殺計画の噂が流れた際には、伏見城の守備を固めつつ、最小限の手勢で家康の許へ駆けつけ、万一の場合に備えるという冷静かつ的確な判断を下した 23 。伏見城で家康と相撲を観戦していた際、興奮した観客が騒ぎ出すと、秀康は観客席から立ち上がり、鋭い眼光で一睨みするだけで騒ぎを鎮圧したという逸話もあり、その威厳は父家康をも驚かせたとされる 2 。これらのエピソードは、秀康が単に勇猛なだけでなく、状況判断能力、決断力、そして大将としての威厳を兼ね備えていたことを示している。
秀康と父・家康との関係は、一言では言い表せない複雑なものであった。幼少期には、出生の経緯から家康に疎んじられたとも伝えられている 5 。しかし、家康は秀康の武将としての能力を高く評価しており 20 、関ヶ原の戦いでは上杉景勝の抑えという重要任務を託し、戦後には越前68万石という破格の大封を与えている 20 。これは家康の秀康に対する信頼と期待の現れと言えるだろう。
一方で、家康は秀康が将軍になれなかったことに対する無念の情を理解し、弟の秀忠に対しては、兄である秀康への配慮を怠らないよう細心の注意を払うよう命じていたという 18 。秀康の早すぎる死に際しては、家康も大いに嘆き悲しんだと伝えられている 30 。これらの事実は、家康が秀康に対して、父としての情愛と、徳川家の将来を担うべき一人の武将としての期待、そしてその複雑な立場への配慮という、多層的な感情を抱いていたことを示唆している。
秀康は、実父家康の下では複雑な立場にあったが、養父となった豊臣秀吉からは実の子同然に扱われ、大変可愛がられたとされている 5 。秀吉は秀康の元服に際して自身の「秀」の字を与え、その武勇を称賛するなど、深い愛情を注いだ 2 。
秀康自身も、秀吉から受けた恩義を深く感じていたようである。秀吉の死後、その遺児である豊臣秀頼を徳川家が討つのではないかという噂が流れた際には、秀康は激怒し、徳川家の重臣である本多正信に対して「秀頼様は自分にとって弟のような存在であり、もし秀頼様を攻めるようなことがあれば決して許さない」という趣旨の強い抗議をしたという逸話が残っている 23 。これは、政略的な養子縁組を超えた、秀吉と秀康の間に育まれた個人的な絆の深さを示すものと言えよう。
徳川家の後継者問題は、秀康の生涯に大きな影を落とした。武勇、将器ともに優れていたとされる秀康であったが、徳川宗家の家督は弟の秀忠が継ぐことになった。秀康が秀忠の将軍就任の報を聞き、悔し涙を流したという逸話は 8 、彼の胸中にあったであろう将軍職への野心と、自らの不遇に対する無念の情を物語っている。
しかし、秀康は公の場では弟である将軍秀忠を立て、礼節を尽くした。秀忠の将軍就任祝いの宴席で、上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとした際、秀康は謙虚にこれを辞退しようとし、その場にいた人々を感心させたという 2 。一方の秀忠も、兄である秀康に対して常に敬意を払い、特別な配慮をもって接していたと伝えられている 18 。これは、父家康からの指示があったことに加え、秀忠自身の兄に対する敬愛の念の現れでもあったのだろう。
秀康が徳川家の後継者から外された背景には、彼の出生時の複雑な事情、豊臣家への養子入りという経歴、そして家康が秀忠を手元に置いて直接教育を施し、譜代の家臣団との関係も円滑であったことなどが複合的に影響したと考えられる 18 。秀康の有能さとその立場は、徳川家にとって貴重な存在であると同時に、ある種の危うさも孕んでいたのかもしれない。
一部の俗伝において、秀康が「鬼武蔵」という異名で呼ばれたとされることがある。これは彼の武勇を示すものとして語られるが、今回の調査範囲で参照した史料においては、この異名の具体的な由来や、それを裏付ける確かな記録は確認できなかった 3 。佐竹義重が「鬼義重」と称されたような 2 、確たる史料的根拠を持つ異名とは言い難い。
当時の武将の多くが嗜んだ鷹狩りや能楽、あるいは和歌や学問といった文化的活動に関して、秀康がどの程度関与していたかを示す具体的な記録は、今回の調査では限定的であった 3 。『大和守日記』には鷹狩りや観劇の記録が見られるが、これは秀康の子孫である松平直矩の日記であり、秀康自身の直接的な活動を示すものではない 56 。戦国の武将としての教養は当然身につけていたと考えられるが、特筆すべき記録は見当たらなかった。
秀康の人物像は、彼の置かれた複雑な環境と、それに対する彼の力強い対応によって形作られたと言える。実父と養父という二人の天下人の影響を受けながら、自らの武勇と器量で道を切り拓こうとした姿は、戦国末期の武将の典型的な生き様の一つを示すと同時に、その特異な経歴ゆえの苦悩と栄光を併せ持っていた。
松平秀康の生涯は、彼自身の武勲や統治だけでなく、その家族関係や後世に続く血脈によっても特徴づけられる。彼の家庭生活は、当時の武家の常として政略的な側面を色濃く反映していた。
秀康の正室は、鶴姫(つるひめ)、または江戸鶴子(えど つるこ)という名で知られる女性である。彼女は、結城家相続の際に婚姻した相手であり、結城晴朝の養女という立場であったが、実父は常陸国水戸城主の江戸重通(えど しげみち)であった 2 。この婚姻は天正18年(1590年)のことであり、秀康が結城家の家督を継承する上での重要な政略的要素を含んでいた。
しかし、史料によれば、秀康と鶴姫の夫婦仲は必ずしも良好ではなく、二人の間に子供は生まれなかったとされている 25 。秀康の死後、鶴姫は秀康の母である長勝院(お万の方)の取り持ちによって、公家の烏丸光広(からすまる みつひろ)と再婚し、鶴松という男子をもうけた 25 。鶴姫は元和7年(1621年)7月29日に京都でその生涯を終えた 25 。
正室との間には子がいなかった秀康だが、複数の側室との間に多くの子女をもうけた。これらの子供たちは、後に越前松平家とその分家の藩祖となり、江戸時代を通じて徳川一門の有力な支えとなった。
松平秀康 子女一覧(主要な男子)
氏名 |
生母(側室) |
生没年 |
主要事績・備考 |
関連資料ID |
松平忠直(まつだいら ただなお) |
岡山氏(中川氏) |
文禄4年(1595)~慶安3年(1650) |
越前福井藩2代藩主。幼名:仙千代、長吉丸、国若丸。大坂の陣で活躍するも後に改易。 |
59 |
松平忠昌(まつだいら ただまさ) |
岡山氏(中川氏) |
慶長2年(1597)~正保2年(1645) |
越前福井藩3代藩主(忠直改易後再興)。福井松平家の祖。 |
34 |
松平直政(まつだいら なおまさ) |
岡山氏(中川氏) |
慶長6年(1601)~寛文6年(1666) |
出雲松江藩初代藩主。雲州松平家の祖。 |
34 |
松平直基(まつだいら なおもと) |
岡山氏(中川氏) |
慶長9年(1604)~慶安元年(1648) |
播磨姫路藩主、後に越後村上藩主など。結城松平家(前橋松平家)の祖。 |
34 |
松平直良(まつだいら なおよし) |
岡山氏(中川氏) |
慶長10年(1605)~延宝5年(1677) |
播磨明石藩初代藩主。明石松平家の祖。 |
34 |
上記の男子の他にも、喜佐姫(きさひめ)、本多吉松(詳細は不明)、仏門に入ったとされる呑栄(どんえい)などの子女がいたことが記録されている 59 。秀康の側室としては、これらの子供たちの生母である岡山氏(中川氏の娘)の他に、品川氏(月照院)、小田氏(清涼院)、三好氏(祥雲院)などがいたと伝えられているが、各子女の生母の詳細については不明な点も残る。
秀康の子供たちがそれぞれ有力な親藩の藩祖となっている事実は、徳川幕府が秀康の血筋を重視し、幕藩体制の安定と強化のために彼らを戦略的に配置したことを示している。秀康自身は将軍位に就くことはなかったが、その子孫を通じて徳川体制の藩屏として大きな役割を果たしたのである。
秀康の生母であるお万の方は、秀康が越前に入封する際に同行し、北庄(福井)で息子と共に暮らした 4 。彼女は、困難な状況の中で秀康を産み育てた母として、息子の栄達を傍らで見守った。
慶長12年(1607年)に秀康が34歳の若さで病没すると、お万の方は実父である家康に相談することなく出家し、長勝院と号して、亡き息子たちの菩提を弔う余生を送った 4 。この行動は、秀康への深い愛情と、彼の早すぎる死に対する悲しみの深さを物語っている。長勝院は元和5年(1619年)、72歳でその生涯を閉じた 4 。
秀康の家族と血脈は、彼個人の生涯を超えて、江戸時代の武家社会と徳川幕府の歴史に深く関わっていくことになる。
松平秀康の生涯は、その武勇と将器にもかかわらず、あるいはそれゆえの複雑な立場の中で、若くして幕を閉じることとなった。しかし、彼が遺したものは大きく、越前松平家という形で後世に大きな影響を与え続けた。
慶長12年(1607年)、松平秀康は越前北ノ庄城(福井城)において、病のため34歳という若さでこの世を去った 1 。その死は、父・徳川家康や弟で二代将軍となっていた徳川秀忠をはじめ、彼を慕った家臣たちに大きな衝撃と深い悲しみをもたらした 30 。越前福井藩の初代藩主として、城郭の整備や城下町の建設、芝原上水の開削など、領国経営に辣腕を振るい始めた矢先のことであり、まさに志半ばでの死であった。
もし秀康が長命を保ち、その能力を十分に発揮する時間があったならば、徳川幕府初期の政治や軍事において、さらに大きな役割を果たした可能性は否定できない。彼の早逝は、徳川家にとっても、また日本の歴史にとっても、惜しむべき損失であったと言えるだろう。秀康の死は、徳川幕府初期における人材配置や勢力図にも少なからぬ影響を与えたと考えられ、彼が存命であれば、秀忠政権下で異なる形での政治的役割を担ったかもしれない。
徳川家康の次男として生まれながら、豊臣家、そして結城家へと養子に出されるという複雑な運命を辿った秀康であったが、最終的には越前福井68万石という大大名の地位を確立し、越前松平家の始祖としてその盤石な礎を築き上げた 1 。
彼の武将としての器量、そして統治者としての手腕は同時代から高く評価されており、徳川幕藩体制が確立していく過渡期において、重要な役割を担ったキーマンの一人と評されている 3 。その生涯は、戦国時代から江戸時代への移行期における「個人の意思」と「家の論理(政略)」との間の緊張関係を象徴しており、彼は自らの能力を発揮する場を求めながらも、常に徳川家や豊臣家といった巨大な家の戦略の中で翻弄され続けた。しかし、与えられた環境の中で最大限の努力を重ね、大きな治績を残した。
特に、越前松平家は、徳川御三家や御三卿といった特別な家格とは別に、親藩の中でも「制外の家(せいがいのいえ)」として、ある種別格の扱いを受けたとされる 3 。これは、秀康の徳川家における特殊な立場(家康の次男、秀忠の兄、そして秀吉の元養子という経歴)と、彼が果たした功績が、後世まで語り継がれるだけの大きなインパクトを持っていたことを示している。
松平秀康が築いた越前福井藩は、その後も徳川一門の有力な親藩として幕末に至るまで存続し、幕末期には松平春嶽(慶永)のような名君を輩出し、国政においても重要な役割を果たした 18 。また、秀康の子孫たちは、福井藩を継承した本家だけでなく、出雲松江藩、美作津山藩、播磨明石藩、出羽山形藩(後に上野前橋藩などに転封)など、多くの分家を創設し、それぞれが藩主として存続した 34 。これらの藩は、徳川幕府の藩屏として、また地方統治の担い手として、日本の近世社会に貢献した。
現在でも、福井県福井市の福井城址や大安禅寺(秀康の墓所がある)、茨城県結城市の結城城跡や孝顕寺など、秀康ゆかりの史跡が各地に残り、彼の人となりや遺徳が偲ばれている 2 。秀康の短い生涯は、戦国乱世の終焉と新たな時代の幕開けを象徴するものであり、彼が遺した足跡は、今もなお歴史の中に確かな光を放っている。
松平秀康の生涯は、徳川家康の次男という出自に始まりながら、豊臣秀吉、そして結城晴朝の養子となるという、戦国時代特有の複雑な政略に翻弄されたものであった。幼少期の不遇や、実父との微妙な関係、二度にわたる養子縁組は、彼の人間形成に大きな影響を与えたであろう。しかし、彼はそうした境遇に屈することなく、類稀な武勇と将器を発揮し、歴史の重要な局面でその名を刻んだ。
羽柴秀康として豊臣政権下で活動した時期には、九州征伐や小田原征伐、葛西大崎一揆鎮圧、文禄・慶長の役といった主要な戦役に参加し、武将としての経験を積んだ。秀吉からは養子として遇され、その気概を評価される逸話も残っている。結城家を継いでからは、下総国10万石余の領主として検地や城下町整備を行い、統治者としての能力を示した。
関ヶ原の戦いにおいては、宇都宮にあって上杉景勝の南下を阻止するという戦略的に極めて重要な役割を果たし、東軍の勝利に大きく貢献した。この功績により、戦後は越前国68万石という破格の大封を得て、福井藩初代藩主となった。越前では北ノ庄城(福井城)の大改修と城下町の建設、芝原上水の開削など、藩政の基礎を固める事業を精力的に推進し、その手腕を発揮した。
人物としては、剛毅果断で武勇に優れる一方、義理堅く、配下の者や困難な立場にある者への配慮も見せるなど、複雑な魅力を持つ武将であった。父・家康との関係は終生複雑なものであったが、家康は秀康の能力を認め、要所で重用した。養父・秀吉との間には、政略を超えた絆があったことを窺わせる逸話も存在する。弟・秀忠との関係においては、将軍継嗣問題という微妙な立場にありながらも、兄としての威厳と弟への配慮を示した。
しかし、その才能と将来を嘱望されながらも、慶長12年(1607年)、34歳という若さで病没した。彼の早すぎる死は、徳川幕府初期における大きな損失であり、もし長命であれば、さらに大きな足跡を歴史に残したであろうことは想像に難くない。
松平秀康の歴史的意義は、第一に、徳川一門の有力な藩屏として越前松平家という大藩の礎を築き、その後の徳川幕府の安定に貢献した点にある。第二に、彼の生涯そのものが、戦国時代から江戸時代初期への移行期における武将の生き様、個人の能力と家の論理(政略)との相克を象徴している点である。不遇を乗り越え、与えられた場で最大限の能力を発揮し、確かな治績を残した秀康の生涯は、現代に生きる我々にも多くの示唆を与えてくれる。彼が遺した福井の街並みや、数々の逸話は、今もなおその存在感を示し続けている。松平秀康は、徳川家康の「忘れられた息子」ではなく、自らの力で歴史に名を刻んだ、特筆すべき武将であり統治者であったと再評価されるべきである。