戦国時代の三河国にその名を刻み、徳川家康の天下取りの遠い礎を築いたとされる松平家五代当主、松平長親。彼は、駿河の今川氏や伊豆の北条早雲といった強大な敵の侵攻を退け、松平氏の勢力拡大に大きく貢献した武将として知られています。また、玄孫にあたる家康が誕生した際、その幼名を「竹千代」と命名したという逸話は、徳川の歴史を語る上で欠かせない一幕です。
しかし、この「松平長親」という人物像に迫る時、我々はまず一つの根本的な問題に直面します。それは、彼の呼称をめぐる史料上の不一致です。
一般に広く知られる「長親」という名は、主に江戸時代に徳川幕府によって編纂された公式の歴史書である『徳川実紀』や、それに基づいて作成された『寛永諸家系図伝』などの二次史料に由来します 1 。現代の一般的な解説書や事典も、この通説に倣うものが大半です 3 。
ところが、近年の古文書研究の進展により、彼が活動した同時代に「長親」という署名が記された一次史料は、現在のところ一点も確認されていません。その代わりに発見されているのが、「長忠」という実名が記された複数の書状です 1 。これらの史料から、彼は初め「忠次」と名乗り、次に「長忠」と改め、比較的早い段階で出家して「道閲(どうえつ)」と号したと考えられています 1 。彼の活動期間の多くにおいて法名の「道閲」が用いられたため、実名での記録が少ない一因ともなっています。
この呼称の変遷は、単なる名前の問題にとどまりません。後世、徳川家の歴史が編纂される過程で、その祖先の功績を顕彰し、理想化された「徳川の祖」像を構築する意図が働いた可能性を示唆しています。史料から浮かび上がる一地方領主としての「長忠」の実像と、江戸幕府の公式史観の中で語られる英雄的な「長親」像との間には、微妙な乖離が存在するのです。これは、歴史がどのように「作られ」、語り継がれていくかを示す好例と言えるでしょう。
したがって、本報告書では、史料的確実性を尊重し、人物の実名としては主に「長忠」という呼称を用います。ただし、広く定着している通説や逸話に言及する際には、読者の混乱を避けるため「長親」の名も併記する方針をとります。この呼称の問題を念頭に置くことは、彼の生涯を多角的に理解する上で不可欠な視点となります。
表1:松平長親(長忠) 略年表
西暦(和暦) |
年齢(1455年生誕説) |
年齢(1473年生誕説) |
主な出来事 |
1455年(康正元年) |
0歳 |
- |
生誕(一説) 3 |
1473年(文明5年) |
18歳 |
0歳 |
生誕(一説) 7 |
1496年(明応5年) |
41歳 |
23歳 |
父・親忠の隠居に伴い、安祥城主となる。この頃までに家督を継いだとされる 3 。 |
1501年(文亀元年) |
46歳 |
28歳 |
この年までに法名「道閲」を名乗る。嫡男・信忠への家督相続があったとする説がある 1 。 |
1506年(永正3年) |
51歳 |
33歳 |
永正三河の乱。今川氏親・伊勢宗瑞(北条早雲)の三河侵攻を井田野で迎撃し、撃退する 7 。 |
1508年(永正5年) |
53歳 |
35歳 |
再び今川軍が侵攻。岩津城が落城し、宗家・岩津松平家が没落。安祥松平家が惣領の地位を確立する 3 。 |
1518年(永正15年) |
63歳 |
45歳 |
連歌師・柴屋軒宗長を招き、妙源寺で連歌会を催す 1 。 |
1535年(天文4年) |
80歳 |
62歳 |
孫の清康が「森山崩れ」で暗殺される。三男・信定が岡崎城を簒奪するも、これを黙認したとされる 6 。 |
1542年(天文11年) |
87歳 |
69歳 |
玄孫・徳川家康(幼名:竹千代)が誕生。長忠(長親)が命名したという逸話が残る 6 。 |
1544年(天文13年) |
89歳 |
71歳 |
8月22日、死去。大樹寺に葬られる 1 。 |
松平長忠が歴史の表舞台に登場する背景には、三河の一豪族に過ぎなかった松平氏が、戦国乱世の中で着実に勢力を拡大していく過程がありました。彼がどのようにして一門のリーダーシップを握るに至ったのか、その出自と時代背景から探ります。
松平氏の始祖については、時宗の僧侶であった徳阿弥が還俗して松平親氏と名乗り、三河国加茂郡松平郷の領主・松平信重の婿養子となったという伝説が広く知られています 7 。しかし、この親氏から三代目の信光に至るまでの初期の系譜は、後世の編纂による部分が多く、史料的な確証に乏しいのが実情です 11 。
確実な記録が増えるのは、長忠の祖父にあたる三代・信光の代からです。信光は岩津(岡崎市)を本拠としながら、西三河各地に勢力を伸張させました。その子である四代・親忠(長忠の父)は、安祥城(安城市)に進出し、西三河平野部における松平氏の勢力基盤を築き上げた重要人物です 11 。しかし、親忠は信光の三男(あるいは次男)であり、本来の惣領(家督相続人)ではありませんでした。江戸時代の軍記物『三河物語』によれば、信光は長男に惣領を譲ったとされており、親忠の安祥松平家はもともと分家的な位置づけであった可能性が指摘されています 11 。
このような家系の中に、長忠は松平親忠の三男として生まれました。母は土豪・鈴木重勝の娘と伝えられています 3 。三男という立場は、通常であれば家督相続から遠い存在でした。彼の生年については、康正元年(1455年)説 3 と文明5年(1473年)説 7 があり、18年もの開きがあります。この生年の不確かさ自体が、当時の松平氏がまだ中央の記録に留められるほどの有力な存在ではなく、三河の一国人に過ぎなかったことを物語っています。後に徳川家康の祖先としてその系譜が重要視される中で、異なる伝承が混入したり、他の人物との年代的整合性を取るために調整が加えられたりした結果、このような混乱が生じたと考えられます。
表2:松平長親(長忠)の家族と松平分家
関係 |
氏名 |
備考 |
父 |
松平親忠 |
松平家4代当主。安祥城に進出し、安祥松平家の基礎を築く。 |
母 |
閑照院殿 |
鈴木重勝の娘 3 。 |
正室 |
月空浄雲大姉 |
松平近宗の娘 3 。 |
兄弟 |
親長、乗元、親房、張忠など |
親長は宗家・岩津松平家を継いだとされるが系譜に異説あり 13 。 |
嫡男(長男) |
松平信忠 |
松平家6代当主。長忠の後を継ぐも、器量に欠けたと伝わる 7 。 |
次男 |
松平親盛 |
福釜(ふかま)松平家 の祖 1 。 |
三男 |
松平信定 |
桜井松平家 の祖。後に宗家と家督を争う 1 。 |
四男 |
松平義春 |
青野(東条)松平家 の祖 1 。 |
五男 |
松平利長 |
藤井松平家 の祖 1 。 |
長忠が歴史の表舞台でその名を轟かせたのは、永正年間(1504年~1521年)に勃発した「永正三河の乱」でした。当時、駿河・遠江を支配する今川氏の当主・今川氏親は、勢力拡大を目指して西三河への侵攻を繰り返していました 7 。
永正3年(1506年)、そして特に大規模な侵攻となった永正5年(1508年)、氏親は叔父であり、後に「北条早雲」として戦国史に名を馳せることになる猛将・伊勢宗瑞に大軍を預け、三河に送り込みます 3 。今川軍の主たる攻撃目標は、当時松平氏の惣領家であった岩津城の岩津松平家でした 3 。
この国家存亡の危機に際し、安祥城主であった長忠は、宗家を救援すべく出陣します。『三河物語』などの記述によれば、長忠は岡崎の井田野において、1万余と号する今川の大軍に対し、わずか500余の手勢で決戦を挑みました 3 。数で圧倒的に劣る松平勢は決死の覚悟で戦い、長忠の勇猛な戦いぶりは今川軍を大いに苦しめ、一時は伊勢宗瑞の本陣に肉薄するほどの猛攻を見せたと伝えられています。この奮戦の結果、今川軍は撤退を余儀なくされ、長忠の武名は三河一円に鳴り響きました 7 。
しかし、この戦いの実像を冷静に分析する必要もあります。今川軍の戦略目標はあくまで岩津松平家の打倒であり、岩津城を攻め落としたことでその目的は達成されたため、戦略的に兵を引いたに過ぎないという見方も有力です 3 。つまり、長忠の奮戦が今川軍を完全に打ち破ったわけではない可能性が高いのです。
それでも、この戦いが松平氏の歴史に与えた影響は絶大でした。主戦場となった岩津城は落城し、惣領家であった岩津松平家は当主をはじめ多くの将兵を失い、壊滅的な打撃を受けて没落します 6 。その一方で、長忠は「宗家を救うために強大な敵と果敢に戦った」という大義名分と、三河随一の武将としての名声を手に入れました。ライバルであった宗家が事実上自滅し、自らは武名を上げるという、まさに危機的状況を巧みに利用した結果、分家であった長忠の安祥松平家が、松平一門を率いる事実上の「惣領」としての地位を確立するに至ったのです 3 。井田野の戦いは、軍事的な完勝というよりも、松平家内の権力構造を劇的に転換させた、きわめて政治的な勝利であったと評価することができます。
松平長忠の評価は、戦場での武勇に留まりません。彼は新興の領主として、領国を安定させ、人心を掌握するための施策にも力を注ぎました。また、武辺一辺倒ではない、教養豊かな文化人としての一面も持ち合わせていました。
武力によって松平一門の主導権を握った長忠でしたが、その地位を盤石なものにするためには、武威だけでなく権威の裏付けが必要でした。彼がその手段として重視したのが、寺社勢力への手厚い保護です。
特に象徴的なのが、松平一族の菩提寺である大樹寺(岡崎市)への貢献です。永正三河の乱で荒廃した大樹寺の再建を主導し、寺領の寄進や安堵を積極的に行いました。さらに、寺の永続的な運営規則である「式目」を制定させるなど、その復興と発展に深く関与しています 1 。一門全体の菩提寺の庇護者として振る舞うことは、彼が松平氏全体の新たなリーダーであることを内外に示す、きわめて効果的なパフォーマンスでした。
また、松平氏発祥の地である松平郷(豊田市)の高月院に対しても、寺領を寄進するとともに、初代・親氏、二代・泰親、そして自身の母の墓を建立しています 1 。これは、松平氏の正統な歴史を受け継ぐ者が自分たちの系統であることを視覚的にアピールする、強力なプロパガンダであったと言えます。これらの寺社政策は、単なる敬虔な信仰心の発露という側面以上に、実力で手にした惣領の地位を権威によって補強し、領民の人心を掌握するための、計算された戦略的投資であったと解釈することができます。
『徳川実紀』に「風月を友として連歌を楽しんだ」と記されるように、長忠は文化人としての素養も備えていました 1 。そのことを示す具体的な証拠が、永正15年(1518年)4月に妙源寺(岡崎市)で催された連歌会です。
この時、長忠は当代随一の連歌師として名高い柴屋軒宗長を三河に招聘し、盛大な連歌会を主催しました。幸いにも、この時に詠まれた百韻連歌の懐紙(かいし、句を書き記す紙)が現存しており、その詳細を知ることができます 1 。懐紙には、主催者である長忠(道閲)や弟の張忠など松平一門の名が連なっており、彼が連歌師・宗長の15句に次いで2番目に多い10句を詠んでいることから、彼がこの会の中心人物であり、相当な技量を持っていたことがうかがえます 1 。
このような文化的活動は、単なる趣味の域を超えた、政治的・社会的な機能を持っていました。中央の著名な文化人を招くことは、地方領主としての財力と権威を示す絶好の機会です。また、一門や家臣たちと共に句を詠む場は、主従の絆を深め、一族の結束を固める重要な社交の場でもありました。長忠の連歌への傾倒は、彼が武力のみならず、文化的な権威によっても領国を統治しようとしていたことを示唆しています。
井田野の戦いで武名を轟かせ、松平氏のリーダーとなった長忠ですが、その生涯には大きな影を落とす一章が存在します。それは、家督相続をめぐる問題と、それが引き金となって生じた一族の内紛です。彼が戦場で示した英雄的な姿とは対照的に、家政における判断の誤りは、松平家に深刻な危機をもたらしました。
長忠は、比較的早い段階で家督を嫡男の信忠に譲り、隠居したとされています。その時期については、井田野の戦いがあった永正5年(1508年)とする説 3 のほか、古文書の署名から、それより早い明応5年(1496年)から文亀元年(1501年)の間にはすでに入道し、家督を譲っていたとする説もあります 1 。
『徳川実紀』はその動機を「早くから遁世の志があった」ためと、個人的な理由として記していますが 1 、壮年期での隠居には何らかの政治的な意図があった可能性も否定できません。重要なのは、彼が隠居後も単なる世捨て人にはならなかったという点です。法名の「道閲」として、息子の信忠や、後には曾孫の広忠と連名で文書を発給しており、実権を握り続ける「後見人」として、松平家の政治に深く関与し続けたことが明らかになっています 1 。
長忠の後を継いだ六代当主・信忠は、しかし、当主としての器量に著しく欠けていたと伝えられています。『三河物語』は、彼を「慈悲心がなく、暗愚」であり、政務能力もなかったと手厳しく評価しています 6 。信忠の統治に対して、家臣団や領民の不満は日増しに高まっていきました。
そしてついに、松平家の歴史上、前代未聞の事態が発生します。信忠の統治に見切りをつけた家臣団が結束し、彼を半ば強制的に隠居させてしまったのです。そして、その後継者として、信忠の子、すなわち長忠の孫にあたる松平清康が、わずか10代の若さで擁立されました 6 。実の父であり後見人であるはずの長忠が、この異常事態にどのような役割を果たしたのか、あるいは果たさなかったのか、その責任はきわめて重いと言わざるを得ません。
この家督相続の混乱をさらに深刻にしたのが、長忠の息子たちへの不均衡な愛情でした。彼は嫡男の信忠よりも、三男で桜井松平家の祖となった信定を偏愛していたと伝えられています 6 。この「偏愛」は、単なる個人的な感情の問題に留まらず、家中に「信忠派」と「信定派」の対立を生み、一族分裂の火種となりました 7 。
この燻っていた対立が爆発したのが、天文4年(1535年)、若くして家中の期待を一身に集めていた当主・清康が、家臣によって陣中で暗殺されるという悲劇(森山崩れ)が起こった時でした。この混乱に乗じ、叔父である信定が、清康の嫡男でわずか10歳の広忠(後の家康の父)から本拠地である岡崎城を力ずくで奪い取り、追放してしまったのです 6 。
この時、一族の最長老であり、絶大な権威を持つはずの曽祖父・長忠は、信定のこの暴挙に対して何ら有効な手を打たず、事実上これを黙認したとされています 6 。これは、彼の生涯における最大の汚点であり、その評価を大きく左右する点です。長忠の「偏愛」や「黙認」は、彼自身が息子たちを分立させて勢力拡大を図った統治構想が、結果的にコントロール不能な有力分家(桜井松平家)を生み出し、破綻したことを示しています。
そして、この松平家の内紛は、外部勢力に絶好の介入の口実を与えました。岡崎を追われた広忠は、今川義元の支援を仰ぐことで、ようやく本拠地に復帰することができましたが、その代償はあまりにも大きなものでした 6 。松平家は今川氏への完全な従属を余儀なくされ、岡崎城には今川家の家臣が城代として入るなど、領国は事実上、今川の管理下に置かれてしまったのです 15 。皮肉なことに、長忠がかつて命がけで今川氏から守り抜いたはずの松平家の独立は、彼自身の家政の失敗が遠因となって、次々世代で失われるという結末を迎えたのでした。
一族の内紛と弱体化に大きな責任を負いながらも、長忠は戦国時代にあって驚くほどの長寿を保ちました。彼の晩年は、凋落していく松平家を見守りながら、やがて天下人となる玄孫・家康の誕生に立ち会うという、数奇なものでした。
長忠は天文13年(1544年)8月22日にその長い生涯を閉じました 1 。その享年には72歳説、80余歳説、90余歳説と諸説ありますが、いずれにせよ当時としては稀に見る長寿であったことは間違いありません 1 。
彼は、今川氏の庇護下で苦しい立場にあった曾孫・広忠の時代まで存命し続けました。広忠が発給した文書に後見役として連署していることから、晩年に至るまで一族内で一定の影響力を保持していたことがうかがえます 1 。しかし、かつてのような絶対的な権威はなく、凋落していく我が家をどのような思いで見つめていたのか、その心境は察するに余りあります。
長忠の晩年を語る上で最も有名なのが、天文11年(1542年)に生まれた玄孫、すなわち後の徳川家康の幼名を「竹千代」と自ら命名したという逸話です 6 。この物語は、松平家中興の英雄が、後に天下人となる赤子の誕生を祝福し、その輝かしい未来を予見したかのような、象徴的な場面として語り継がれています。
しかし、この逸話の史実性については、慎重な検討が必要です。その典拠は主に江戸時代に編纂された史書であり、同時代の一次史料による裏付けは乏しいのが現状です 3 。
史実性の有無は別として、この物語がなぜ生まれ、広く受け入れられたのかを考えることは重要です。この逸話は、「家康の出現は単なる偶然ではなく、偉大な祖先の功業を受け継ぐ宿命であった」という、徳川支配の正統性を血統と歴史の連続性の中に位置づけるための、きわめて効果的な物語として機能しました。特に「竹千代」という名が、後に徳川将軍家の世継ぎに与えられる特別な幼名として定着したことからも 18 、この命名譚が持つ象徴的な意味の大きさがうかがえます。この逸話は、史実かどうかを問う以上に、徳川幕府が自らの歴史をどのように構築しようとしたかを示す、貴重なサンプルと言えるでしょう。
長忠が亡くなった天文13年(1544年)、松平家はすでに今川氏の強い影響下にありました。彼の死は、井田野の戦いから始まった一つの時代の終わりを、家臣団に強く印象づけた出来事でした。
彼の墓所は、菩提寺である大樹寺の境内にある塔頭(たっちゅう、小寺院)・棹舟軒(とうしゅうけん)にあります。この棹舟軒は、生前の長忠自身が建立したものであり、彼が晩年を過ごした場所でもありました 1 。彼は自らが再興し、庇護した寺院の片隅で、静かに眠りについています。
松平長忠(長親)の生涯を振り返る時、その評価は功績と失敗が複雑に絡み合い、単純な英雄像や暗君像に収めることはできません。彼はまさに、光と影を併せ持つ、毀誉褒貶の将でした。
彼の功績として第一に挙げられるべきは、疑いもなくその武将としての卓越した能力です。永正三河の乱において、今川・北条という強大な敵の侵攻から領国を守り抜いた武功は、松平氏が滅亡の淵から救われたことを意味します。そして、この危機を逆手にとって、弱体化した惣領家・岩津松平家に代わり、自らの安祥松平家を事実上の一門の盟主へと引き上げました。これにより、三河の小豪族に過ぎなかった松平氏が、戦国大名として飛躍するための確固たる土台が築かれたのです。この点において、彼が「徳川の礎を築いた」と評価されるのは、決して過言ではありません。
しかしその一方で、彼の統治者としての側面、特に家政における判断には、重大な欠陥がありました。嫡男・信忠の器量を見誤り、能力主義ではなく情実によって後継者問題に混乱を招きました。三男・信定への偏愛が家中の分裂の種を蒔き、孫・清康の横死後に信定が岡崎城を簒奪するという暴挙を黙認した責任は、極めて重いと言わざるを得ません。彼が守り抜いたはずの松平家の独立は、結果的に彼自身の家政の失敗によって、次世代、次々世代の苦難と一時的な喪失を招くことになりました。
総合的に評価するならば、松平長忠は「危機の時代の英雄」としては比類なき功績を残しましたが、「安定を築く統治者」としては大きな課題を抱えていた人物でした。彼が築いた礎は、皮肉にも彼自身の失敗によって一度は崩壊しかけました。しかし、その功績と失敗の双方を含む彼の遺産が、結果として、より優れた指導者である孫の清康、そして玄孫の家康の登場を促す歴史的土壌となったこともまた事実です。
松平長忠は、徳川家にとって偉大な功労者であると同時に、その失敗が後世への教訓となった「偉大な反面教師」でもありました。一人の人間の持つ光と影が、いかに後世の歴史に複雑で多岐にわたる影響を与えるか。彼の生涯は、そのことを雄弁に物語る、示唆に富んだ一例として、戦国史の中に確かな位置を占めているのです。