最終更新日 2025-07-25

松木五郎兵衛

松木五郎兵衛は武田信玄の甲州金鋳造を担い、徳川幕府下でも重用された貨幣鋳造の匠。武田氏滅亡後、大久保長安事件を機に再登用され、甲州金座の独占的地位を確立。

松木五郎兵衛 ― 時代の転換点を生きた貨幣鋳造の匠

序論:時代の転換点を生きた貨幣鋳造の匠

日本の貨幣史において、甲州金の金貨に打たれた「松木」の極印は、その鋳造者の名を今日にまで明確に伝えている 1 。しかし、その名、松木五郎兵衛という人物そのものの生涯に光を当てようとすると、驚くほど多くの事柄が歴史の霧に包まれている。彼が鋳造した無数の金貨という物質的な遺産が雄弁にその存在を語る一方で、彼個人の記録は極めて乏しい。この逆説こそが、松木五郎兵衛という人物の特異性を象徴している。

本報告書は、松木五郎兵衛を単なる一介の貨幣鋳造職人として捉えるのではなく、戦国時代の群雄がそれぞれに経済圏を形成した領国経済と、徳川幕府による統一的貨幣経済という、二つの大きく異なる時代をその卓越した技術で繋いだ「テクノクラート(技術官僚)」として再評価することを目的とする。彼の生涯は、武田氏の滅亡、徳川氏の台頭、そして近世日本の経済的統一という、歴史の巨大な転換点を映し出す縮図に他ならない。

本報告では、まず武田氏治下における甲州金の誕生と、その鋳造体制における松木氏の役割を明らかにする。次に、主家滅亡後の雌伏の時を経て、徳川家康による劇的な再登用を遂げ、江戸時代における松木金座が確立されるまでの軌跡を辿る。この過程を詳細に分析することで、「金属に刻まれた遺産」の背後にある、一人の技術者の類稀なる生涯と、彼が生きた時代の経済的・政治的力学を解き明かす。

第一章:甲州金の黎明と武田氏の金座

第一節:武田領国の経済的支柱

戦国時代、甲斐国を拠点とした武田氏の強大な軍事力と政治的影響力は、その領内に豊富に存在した金鉱山と分かち難く結びついていた。黒川金山や湯之奥金山といった鉱山から産出される金は、武田氏の経済活動の根幹を成すものであった 3 。武田信玄(あるいはその父・信虎の代からともいわれる)は、この豊富な金を単なる富の蓄積に留めず、領国経済の安定化と統制を目的とした、当時としては極めて先進的な幣制改革に着手した 2

この改革は、品質も価値も不確かな輸入銭や、非効率な物々交換に依存していた経済からの脱却を目指すものであった。戦国大名が継続的な軍事行動を維持するためには、天候や作柄に左右される年貢米に依存する経済基盤だけでは不十分であった。金山を直接掌握し、そこから産出される金を規格化された貨幣として鋳造・流通させることで、武田氏は外部環境に左右されにくい、安定的かつ流動的な資金源をその手中に収めることができた。この事実は、武田氏が単なる軍事指導者であるだけでなく、高度な経済政策を立案・実行できる統治者であったことを示している。彼らにとって金座は、城郭にも匹敵するほどの重要性を持つ国家機関だったのである。

第二節:計数貨幣「甲州金」の革新性

武田氏の幣制改革の中でも特筆すべきは、日本史上でも早期に体系化された「計数貨幣」としての甲州金の導入である。当時の日本では、金貨の価値をその都度、重量を計って定める「秤量貨幣」が主流であった。これに対し甲州金は、金貨に額面を打刻し、その刻印によって価値が保証される「計数貨幣」という形態を採用した 4 。これにより、取引の度に重量を測定する手間が省かれ、商取引の迅速化と信頼性の向上に大きく貢献した。

さらに甲州金は、「一両=四分=十六朱=六十四糸目」という、四進法を基軸とした精緻な単位系を持っていた 3 。この体系的な単位は、高額な取引から日常的な小額決済まで、あらゆる商取引の需要に対応できる優れた実用性を備えていた。このシステムの先進性は、後に天下を統一した徳川家康が全国通用の貨幣制度を確立する際に、甲州金の「両・分・朱」という単位系をそのまま継承したという事実からも明らかである 3

この精緻な計数貨幣システムを物理的に支えたのが、高精度の秤(はかり)であった。武田氏は、秤の製造・販売に関する独占権を特定の職人(守随家初代・吉川茂済)に与えるなど、正確な計量を制度的に保証する政策も同時に進めていた 3 。甲州金の革新性は、単に金を貨幣の形にしたというだけでなく、その価値を保証するための単位系と計量技術が一体となった、総合的な経済システムとして評価されるべきである。

第三節:四氏体制下の金座と松木氏

武田氏の治世下において、甲州金の鋳造は特定の家系に委ねられていた。史料によれば、松木、山下、志村、野中の四氏が金座役人としてこの任にあたっていたとされる 2 。この四氏による共同管理体制は、武田氏の金座運営の根幹をなしていたと考えられる。しかし、現存する史料の制約から、松木氏を除く他の三氏については、その由緒や具体的な役割など、多くが不明となっている 2 。この事実は、後に時代の激動を乗り越え、徳川の世までその名を留めることになった松木氏の特異な立場を、逆説的に浮き彫りにしている。

利用者から提示された「諏訪の商人」という情報に関して、現存する調査資料からは、松木氏が諏訪出身の商人であったことを直接的に裏付ける証拠は見出せない 12 。しかし、この説の蓋然性について歴史的文脈から考察することは可能である。甲斐と諏訪は地理的に隣接しており、武田氏による諏訪統治を通じて、政治的・経済的に極めて密接な関係にあった。甲州街道が両地域を結び、人々の往来や物資の交易も活発であった。当時の有力商人は、豊富な資本力や広範な情報網に加え、冶金のような専門技術を持つ者も少なくなく、領主が主導する事業において重要な役割を担うことがあった。したがって、諏訪の有力な商人一族が、その能力、特に貨幣鋳造に関わる技術や知識を買われ、武田氏の経済機構に組み込まれたという仮説は、歴史的状況を鑑みれば十分に考えられる。これは確定事実として断定はできないものの、今後の一次史料の発見が待たれる、蓋然性の高い仮説として位置づけることができる。

第二章:激動の時代と松木氏の雌伏

第一節:武田家滅亡と甲斐の混乱

天正十年(1582年)、織田・徳川連合軍の侵攻により、甲斐の名門・武田家は滅亡した。この突然の主家の崩壊は、甲斐国に壊滅的な影響をもたらした。武田氏という強力な庇護者を失った金座とその役人たち、すなわち松木五郎兵衛らは、自らが仕えるべき政治体制そのものを一挙に失い、深刻な混乱と先の見えない不安の中に突き落とされた。金座の運営は停止し、甲州金の鋳造も途絶えたとみられる。

武田氏の旧領を巡っては、直ちに徳川家康、北条氏政、上杉景勝が激しく争う「天正壬午の乱」が勃発した。この戦乱は甲斐国を主戦場の一つとし、社会経済活動を著しく停滞させた。金山の採掘や貨幣の鋳造といった安定した統治体制を前提とする事業は、当然ながら継続不可能であった。松木氏のような高度な専門技術を持つ職人たちは、この激動の中で新たな支配者が定まるまで、その技術を振るう場を失い、息を潜めて時代の趨勢を見守るほかなかった。

第二節:徳川家康の甲斐支配と大久保長安の台頭

天正壬午の乱を制し、甲斐国をその支配下に収めたのは徳川家康であった。家康は甲斐の統治体制を確立するにあたり、金銀山経営の責任者として一人の人物を抜擢した。それが大久保長安である 2 。長安は元々武田氏に仕えた猿楽師の子であったが、その非凡な算術能力と行政手腕を家康に見出され、破格の抜擢を受けた。

長安の登用は、甲斐金座の支配体制における大きな転換点となった。家康は、武田氏時代の松木・山下ら四氏による分権的な共同管理体制を事実上解体し、長安という一人の強力な奉行を通じて金山経営と貨幣鋳造を幕府の直接統制下に置く、中央集権的なシステムを構築しようとした。この時期、甲府の佐渡町(現在の甲府市相生二丁目)に金座の鋳造所(御吹所)が本格的に整備されたのも長安の主導によるものである 2 。この新たな体制下で、松木五郎兵衛ら旧来の金座役人たちは、家康の全幅の信頼を得た長安が事業全体を掌握する中でその権限を失い、第一線から退かざるを得なかった。この期間は、松木氏にとってまさに「雌伏期」であったと位置づけられる。

第三章:奇跡の再登用 ― 大久保長安事件の余波

第一節:「天下の総代官」長安の栄華と失脚

徳川家康の下で重用された大久保長安の権勢は、甲斐一国に留まらなかった。彼は甲斐に加えて佐渡金山、石見銀山など全国の主要鉱山を管轄し、初期徳川幕府の財政を実質的に一手に担う存在にまで上り詰めた。その権勢は「天下の惣代官」と称されるほど絶大なものであった 14

しかし、その栄華は長くは続かなかった。慶長十八年(1613年)四月、長安が病死すると、事態は一変する。彼の死後、生前の不正蓄財、キリシタンとの通謀、さらには武田氏の遺臣と結託して幕府転覆を企てていたといった、国家を揺るがすほどの重大な嫌疑が次々と露見したとされる 14 。この「大久保長安事件」により、長安の一族はことごとく処断され、その影響は広範囲に及んだ。長安と姻戚関係にあった館山藩主・里見忠義が改易されるなど、多くの大名や旗本が連座して処分を受けた 16 。この事件の背景には、長安個人の問題だけでなく、幕閣内における本多正信・正純親子と、長安が属していた大久保忠隣を中心とする大久保派との間の激しい派閥争いが絡んでいたとする説も有力であり、事件の真相は複雑な権力闘争の様相を呈している 15

第二節:家康の決断 ― なぜ松木五郎兵衛だったのか

大久保長安の失脚は、初期徳川幕府の財政基盤である金銀山経営に、致命的ともいえる権力の空白と機能不全をもたらした。最高責任者を失った金座をいかにして再建するか、徳川家康は迅速かつ効果的な後継者選定を迫られた。この時、家康が下した決断こそが、松木五郎兵衛の運命を劇的に変えることになる。家康は、長安の死後、かつて武田氏に仕えた旧金座役人の中から、松木五郎兵衛「のみ」を甲州金座役人として再び起用したのである 2

この再登用は、単なる温情や偶然によるものではなく、家康の老練な政治的計算に基づいた、極めて実利的な判断の結果であったと考えられる。まず、長安のような強大な権力と政治的野心を持つ人物を再び登用することは、同じ過ちを繰り返すリスクを伴う。幕府の財政を安定させるためには、信頼できる後継者が必要であったが、それはもはや長安のような政治的人物ではなかった。

家康が必要としたのは、政治的野心を持たず、ただ純粋に高品質な貨幣を鋳造する卓越した技術と、甲州金という複雑な貨幣システムの運営ノウハウ、すなわち「制度的知識(Institutional Memory)」を持つ、純粋な技術者であった。この条件に、松木五郎兵衛は完璧に合致していた。彼は政治家ではなく、あくまで職人であった。彼の忠誠心は特定の権力者個人ではなく、貨幣鋳造という仕事そのものに向けられており、幕府にとってこれほど信頼性が高く、かつ統制しやすい存在は他にいなかった。

家康が旧四氏の中から松木氏「のみ」を単独で選んだ点も重要である。これにより、①金座の安定稼働を速やかに確保し、②複数の役人による分権体制を避けることで新たな権力者の台頭を防ぎ、③かつての武田家臣を登用することで甲斐の民心を慰撫するという、一石三鳥の効果を狙ったのである。松木五郎兵衛の再登用は、混乱を収拾し、幕府の財政基盤を再構築するための、最も合理的でリスクの少ない選択肢であった。

表1:甲斐金座の支配体制の変遷

時代

支配者

金座の責任者

運営形態

松木五郎兵衛の立場

武田氏時代 (~1582年)

武田氏

四氏 (松木・山下・志村・野中)

領国直轄の御用職人

四氏の一員、共同責任者

大久保長安時代 (1600年頃~1613年)

徳川幕府

大久保長安

幕府直轄

不明、恐らくは一技術者として従属または雌伏

松木金座時代 (1613年以降)

徳川幕府

松木五郎兵衛

請負制度 (江戸金座の監督下)

唯一の鋳造責任者、独占的地位

第四章:徳川幕府下の松木金座

第一節:独占的鋳造権の確立

大久保長安事件後の再登用を経て、松木家は甲州金の鋳造権を独占的に掌握することになった 10 。武田氏時代の四氏共同体制から、長安による中央集権体制を経て、最終的に松木家単独による運営へと移行したのである。現存する甲州金の大部分に「松木」の極印が打たれているのは、この歴史的経緯に起因する 1

再興された甲府佐渡町の金座の運営形態は、幕府との「請負制度」であった。これは、松木家が幕府に対して「冥加金」と呼ばれる一種の営業許可料や手数料を上納する見返りに、甲州金の鋳造を請け負うというものであった 2 。この制度は、幕府にとっては、専門的な技術を要する現場作業を信頼できる専門家に委託しつつ、冥加金という形で安定した財源を確保できるという利点があった。一方、松木家にとっては、幕府の公的な権威を背景に、独占的な鋳造権という安定した事業基盤を得ることができた。これは、幕府と専門技術者の間に築かれた、効率的かつ合理的な支配・運営方式であったといえる。

第二節:江戸金座との関係性と甲州金の存続

徳川幕府は慶長六年(1601年)に全国通用の金銀貨、すなわち慶長金銀を制定し、その鋳造・管理のために江戸に中央造幣局である「江戸金座」を設立した 18 。その責任者には、後藤徳乗の弟子であった後藤庄三郎光次が任じられ、以後、後藤家が世襲でその職を務めた 19 。江戸金座は、全国の貨幣制度の頂点に立つ存在であった。

この江戸金座と、甲府の松木金座の間には、明確な階層関係が存在した。松木金座は独立した存在ではなく、江戸後藤金座の監督下に置かれる地方の出張所的な位置づけであり、その統制下で存続を許されていた 17 。全国の貨幣を統一するという幕府の大方針の中で、なぜ甲州金という一地方通貨が存続し得たのか。その背景には、経済的合理性だけでは説明できない、政治的・文化的な要因が存在した。

甲斐の人々にとって、甲州金は単なる通貨ではなかった。それは、彼らが今なお敬愛する旧主・武田信玄が定めた制度、すなわち「信玄の遺制」として、地域の誇りとアイデンティティの象徴となっていた。そのため、幕府が一方的に甲州金の通用を禁止しようとした際には、領民からの強い抵抗に遭い、幕府は禁止令を撤回せざるを得なかったという経緯がある 21 。特に支配体制が盤石でなかった幕府初期において、戦略的要衝である甲斐国の民心をいたずらに刺激することは得策ではなかった。そこで幕府は、甲州金の存続を特例的に認める代わりに、その鋳造を松木金座を通じて自らの監督下に置くという、一種の政治的妥協を選択したのである。近世初期における徳川の権力が、必ずしも絶対的・画一的なものではなく、地域の強い伝統やアイデンティティと交渉しながら形成されていったことを、この事実は示している。そして、松木五郎兵衛という人物は、この中央の権力と地方の伝統との間を取り持つ、まさに「人間的な接点」として機能したのである。

しかし、この特例的な地位も永続はしなかった。甲州金は、幕府の公式貨幣である小判との交換レートが金の含有量に対して不利であったこと、年貢として甲斐国外に吸い上げられたこと、そして新たな改鋳が行われず品質が劣化したことなど、主に経済的な要因によって徐々に流通量を減らし、幕末にはほとんどその姿を消していった 17

表2:甲州金と慶長小判の比較

項目

甲州金

慶長小判

鋳造主体

松木金座 (幕府監督下)

江戸金座 (後藤庄三郎)

貨幣体系

計数貨幣

計数貨幣

単位系

四進法 (両・分・朱・糸目)

四進法 (両・分・朱)

主な流通圏

甲斐国内

全国

法的根拠

幕府による特例的許可

幕府法

象徴的意味

武田氏の遺制、甲斐の地域的象徴

徳川の天下統一の象徴

結論:歴史の奔流を生き抜いた技術者の遺産

松木五郎兵衛の生涯は、戦国大名の滅亡という主家の崩壊を乗り越え、かつての主君を滅ぼした新政権の下で、以前にも増して重要な地位を確立するという、日本史上でも稀有な軌跡を辿った。武田氏の金座役人の一員から、徳川政権下での雌伏、そして大久保長安事件という政変を契機とした奇跡的な再登用と独占的地位の確立に至る彼の人生は、個人の能力と時代の要請が交差する一点に生まれた、類稀な物語である。

しかし、彼の劇的な経歴とは裏腹に、松木五郎兵衛個人の生没年、家族構成、墓所の所在地といった、人物像を具体的に描き出すための記録は、驚くほど乏しい 22 。彼の人物像を現代に伝える最も確かな史料は、皮肉にも彼が後世に残した無数の甲州金そのものである。その一枚一枚の金貨に刻まれた「松木」の極印こそが、彼の卓越した技術、時代の変化に対応した適応力、そして当時の経済において彼が果たした不可欠な役割を、何よりも雄弁に物語っている。

結論として、松木五郎兵衛は、個人的な野心や政治的策謀によってではなく、その比類なき専門技術によって歴史に名を残した、究極のテクノクラートとして理解されるべきである。彼は、自らの名を歴史書にではなく、黄金の上に刻み込んだ。その遺産は、年代記に記された物語ではなく、一国の経済を支え、やがては地域のアイデンティティの象徴ともなった、生きた歴史そのものである。日本史上で最も激しい動乱期において、甲府の金座の炉の火を絶やすことなく守り続けた彼の功績は、その沈黙の内にこそ、より一層の重みを持って我々に語りかけてくる。

引用文献

  1. 甲州二朱金を賢く買取してもらうコツは?買取方法や注意点を紹介します! - バイセル https://buysell-kaitori.com/column/coin-kousyunisyukin_kaitori/
  2. 甲州金(こうしゅうきん) | 山梨県歴史文学館 山口素堂とともに - 楽天ブログ https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/201903260020/
  3. 信玄公が愛した山梨に残る徳川家康の足跡 #1 甲州金 https://www.yamanashi-kankou.jp/special/shigen_ieyasu_kosyukin_sontaiji.html
  4. 近世の貨幣/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/currency-basic/early-modern-money/
  5. 甲州金 http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Yamanashi/Info/KosyuKin.html
  6. 甲州金 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E9%87%91
  7. 甲州金(甲州一分金、甲州一朱金、甲州二朱金)の買取価格 - アンティーリンク https://antylink.jp/buyinglist/49664/
  8. 「武田の甲州金」の名で知られる武田信玄の金貨とは?金山開発も活発だった? - リファスタ https://kinkaimasu.jp/gold/takeda-shingen-koshu-gold/
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  11. 文化財建造物に使用された金箔に関する保存修復科学的な調査研究 - 金沢箔技術振興研究所 https://www.kanazawahaku-giken.jp/pdf/2021/jigyouR1_n.kitano.pdf
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  15. 【江戸時代のお家騒動】大久保長安事件ーー幕府中枢の権力闘争が原因? - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2020/10/06/180000
  16. 【江戸時代のお家騒動】里見騒動ーー大久保長安事件のとばっちりと見せしめの改易 - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2020/10/08/180057
  17. 松木金座(まつききんざ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%9C%A8%E9%87%91%E5%BA%A7-1419656
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  19. 金座跡地の「日本銀行」と本物の小判を見学できる「貨幣博物館」 - ひとりで東京歴史めぐり https://taichi-tokyo.com/kinza-currency-museum/
  20. 後藤庄三郎(ごとうしょうざぶろう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%BA%84%E4%B8%89%E9%83%8E-835904
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