松永久秀(まつなが ひさひで)は、日本の戦国時代において、他に類を見ない特異な存在として歴史に名を刻んでいます。彼の名は、下剋上、裏切り、そして型破りな行動と結びつけられ、「梟雄(きょうゆう)」というレッテルと共に、毀誉褒貶相半ばする複雑な評価を受けてきました 1 。主君を凌駕し、将軍を弑逆し、大仏殿を焼き払ったとされる彼の所業は、長らく悪逆非道の象徴として語られてきました。
しかし近年、一次史料の再検討や研究の深化に伴い、従来の松永久秀像は見直しを迫られています 3 。彼が単なる裏切り者や破壊者ではなく、卓越した政治手腕を持つ官僚、革新的な築城家、そして当代一流の文化人であった側面が注目されるようになっています。いわゆる「三悪事」についても、冤罪や誇張であった可能性が指摘され、「悲劇の武将」としての側面すら浮かび上がってきています 3 。
本報告書は、このような松永久秀の多面的な実像に迫ることを目的とします。出自の謎から、三好政権下での躍進、織田信長との複雑な関係、そしてその最期に至るまで、彼の生涯と事績を、最新の研究成果と多様な史料に基づいて多角的に検証します。特に、伝統的な「梟雄」という評価がどのように形成され、それが現代の研究によってどのように見直されているのか、その変遷を明らかにすることに重点を置きます。松永久秀という人物を通して、戦国乱世の実像と、歴史評価そのものの在り方を考察します。
松永久秀に対する評価の変遷を辿ることは、各時代の価値観や史料解釈の進展を映し出す鏡と言えるでしょう。江戸時代の軍記物語が強調した「梟雄」像は、当時の道徳観や、物語としての分かりやすさを反映していた可能性があります 6 。それに対し、近年の研究は、より実証的なアプローチに基づき、彼の行動原理や当時の政治状況を深く考察しようとしています 4 。この評価の変遷自体が、歴史学の方法論的変化をも示唆しているのです。また、「梟雄」という強烈なレッテルは、彼の複雑な行動や、下剋上が常態化した戦国時代特有の状況を単純化し、一面的な理解を促してきた側面も否定できません 1 。本報告書では、このレッテルを一旦脇に置き、彼の行動を多角的に分析することで、より深層的な理解を目指します。
松永久秀の前半生、特にその出自については、確たる史料が乏しく、長らく謎に包まれてきました。生年についても、永正5年(1508年)説と永正7年(1510年)説がありますが、正確な日付は不明です 6 。出身地に関しても、複数の説が提唱されており、決定的なものはありません。
出自に関する諸説
松永久秀の出自については、主に以下の三つの説が存在します。
これらの諸説をまとめたものが以下の表です。出自が不確かであることは、彼が実力でのし上がっていったことを裏付けると同時に、その人物像に神秘性を与える一因ともなっています。
提案表1:松永久秀の出自に関する諸説
説 |
主な根拠 |
主な提唱者/関連史料 |
近年の評価・特記事項 |
阿波国説 |
旧家の由緒書 |
6 |
史料的裏付けに乏しい |
山城国西岡説 |
(商人出身説と関連) |
長江正一 6 |
かつて有力、近年は摂津説が浮上 |
摂津国五百住説 |
土豪出身、『摂津名所図会』、高槻市の伝承など |
天野忠幸 6 、中西裕樹 6 、 5 |
近年最も有力視 |
三好長慶への仕官と初期の活動
出自は不明ながら、松永久秀が歴史の表舞台に登場するのは、畿内に勢力を拡大しつつあった三好長慶の家臣としてでした。天文2年(1533年)か3年(1534年)頃、長慶の右筆(書記)として仕え始めたとされています 6 。右筆は、主君の発する文書の作成や管理、情報伝達を担う重要な役職であり、高度な知識と実務能力が求められました。久秀が右筆としてキャリアをスタートさせたことは、彼が初期から高い教養と事務能力を備えていたことを示唆しています。
史料上で彼の名が確認できる最も古い例は、天文9年(1540年)のものです。この年、33歳になっていた久秀は「弾正忠」の官途名を名乗り、長慶の西宮神社への寄進に関する書状を伝達する役目を果たしています 6 。同年には、堺の豪商の土地所有を認める文書に副状(添え状)を発給しており、この時点で既に奉行としての職務を担っていたことがわかります 6 。これは、彼が単なる書記に留まらず、行政的な実務能力を発揮し、長慶の信頼を得ていた証左と言えるでしょう。
さらに、天文11年(1542年)には、木沢長政討伐後も抵抗を続ける大和国人衆を鎮圧するため、三好軍の指揮官として山城南部に在陣した記録が残っています 6 。これは、彼が文官としての能力だけでなく、武将としての才覚も併せ持ち、早くから軍事面でも活躍していたことを示しています。
久秀の初期のキャリアは、彼の後の政治活動における情報収集能力、交渉術、文書作成能力の基盤を形成したと考えられます。右筆としての経験を通じて培われた情報処理能力や論理的な思考力、そして主君の側近として機密情報に触れる機会は、彼が複雑な戦国の世を渡り歩く上で不可欠な武器となったはずです。
また、出自が必ずしも高くないにもかかわらず、実力者である三好長慶に早期から見出され、重用された事実は、久秀が当時の「下剋上」の風潮を体現する人物であったことを物語っています。家柄よりも個人の能力が重視される時代にあって、久秀の卓越した才能は、長慶という慧眼の主君を得て開花したと言えるでしょう。これは、後の「梟雄」というイメージとは異なる、実務能力に長けた能吏としての一面を初期から示している点で注目されます。
三好長慶の下で頭角を現した松永久秀は、長慶が畿内の覇権を確立する過程で、その右腕として目覚ましい活躍を見せ、三好政権の中枢へと駆け上がっていきます。
家宰としての手腕と中央政界での活動
天文18年(1549年)、三好長慶が将軍足利義輝らを近江へ追放し、京都を事実上支配下に置くと、久秀の役割はさらに重要性を増します。彼は三好一族の重鎮である三好長逸と共に、公家や有力寺社が三好家と交渉する際の窓口となり、政権運営の実務を取り仕切る「家宰」としての地位を確立しました 6 。公家の山科言継の日記『言継卿記』には、所領問題などを巡って言継が久秀と頻繁に交渉している様子が記録されており、彼が中央政界における三好家の顔として機能していたことがうかがえます 6 。
久秀の活躍は政務に留まりません。弟の松永長頼と共に軍事面でも才能を発揮し、天文20年(1551年)の相国寺の戦いでは、京都に攻め込んできた細川晴元方の三好政勝・香西元成らを撃退するなど、京都の防衛と敵対勢力の掃討に大きく貢献しました 6 。
その功績により、天文22年(1553年)には摂津国滝山城(現在の兵庫県神戸市)の城主に任じられます 6 。さらに永禄2年(1559年)には大和国信貴山城(現在の奈良県生駒郡)に移り 13 、翌年には興福寺などの在地勢力を制圧して大和一国を平定 12 、事実上、大和国守護のような立場となりました。これは、一介の家臣が独立した大名に匹敵するほどの強大な権勢を手に入れたことを意味します。
室町幕府との関係においても、久秀は複雑な役割を演じました。将軍足利義輝に対しては、時には長慶との約束を反故にする「悪巧み」を非難する書状を送る一方で 6 、長慶の天下静謐の意向を伝えるなど、巧みな交渉術で幕府との関係を維持しようとしました。永禄4年(1561年)には従四位下弾正少弼に叙任され、義輝から将軍家の紋である桐紋と、高位の人物のみが乗ることを許された塗輿の使用を許可されるに至ります 6 。これは、幕府も久秀を単なる三好家の家臣ではなく、長慶父子に匹敵する実力者として認めざるを得なかったことを示しています。
主君・三好長慶との信頼関係
久秀の異例とも言える出世の背景には、主君・三好長慶からの絶大な信頼がありました。弘治2年(1556年)、長慶は久秀の居城である滝山城へ「御成」(主君が家臣の邸宅を訪問すること)を行い、久秀は連歌会や観世元忠による能でもてなしました 6 。御成は、主従間の極めて良好な関係と、主君からの特別な信頼を示すものであり、長慶がいかに久秀を高く評価していたかがうかがえます。
また、永禄3年(1560年)には、長慶の嫡男・三好義興と共に将軍義輝の御供衆に任じられています 6 。これは、外様の家臣である久秀が、主君の跡継ぎと同格の扱いを受けていたことを意味し、長慶の寵愛ぶりを物語っています。長慶は、家柄にとらわれず能力のある人物を登用する傾向があり 6 、久秀はその代表例でした。
しかし、三好政権が盤石に見えた矢先、悲劇が訪れます。永禄4年(1561年)に長慶の弟・十河一存が、永禄6年(1563年)には嫡男・義興が相次いで死去します。これらの死に関して、久秀による暗殺説も根強く囁かれていますが 6 、一次史料による確証はありません。むしろ、柳生家に残る古文書には、義興の病状悪化を久秀が深く嘆き悲しむ様子が記されており 7 、暗殺説を単純に受け入れることはできません。さらに永禄7年(1564年)には、最後に残った弟・安宅冬康が長慶自身の命令で自害に追い込まれます。これにも久秀の讒言があったとする説がありますが 14 、真相は不明です。相次ぐ一族の死に長慶は心身を病み、同年に失意のうちに世を去りました。
長慶個人の信任に大きく依存していた久秀の権力基盤は、長慶の死によって不安定化したと考えられます。絶対的な後ろ盾を失ったことで、三好家内部での立場は微妙なものとなり、これが後の三好三人衆(三好長逸、三好政康、石成友通)との激しい権力闘争へと繋がっていきます。長慶との個人的な信頼関係が久秀の権勢の源泉であったと同時に、その死は久秀にとって大きな転換点となり、より自立的かつ危険を伴う権力闘争へと彼を駆り立てることになったのです。
また、久秀が大和一国を支配するほどの権力を持ったことは、三好政権の構造的特徴を反映しています。畿内を中心に広大な勢力圏を築いた三好政権は、中央集権的な支配を目指しつつも、その広大な領域を維持するためには、久秀のような有能な家臣に特定地域の支配を大幅に委任する必要がありました。これは、中央集権化と地方分権化のバランスを取ろうとする過渡的な政権の姿を示しており、久秀のような人物が大きな権限を持つことが、政権の強みであると同時に、後の内紛の火種ともなったと言えるでしょう。
松永久秀の名に常につきまとう「梟雄」というレッテル。その根拠として長らく語られてきたのが、いわゆる「三悪事」です。すなわち、①主家である三好家の乗っ取り、②将軍足利義輝の暗殺、③東大寺大仏殿の焼失。これらの行為は、織田信長が徳川家康に久秀を紹介した際に「この老人は常人では一つとして為せないことを三つもしておる」と語ったという逸話 6 と共に、彼の悪名高いイメージを決定的なものとしました。しかし、近年の研究では、これらの「悪事」に対する久秀の関与や、その背景について、従来の見解が大きく見直されています。
提案表2:松永久秀の「三悪事」とされる行為の概要と諸説
行為 |
伝統的評価(主犯説など)と根拠 |
近年の研究・異説(久秀の関与度、他の要因、冤罪の可能性など)と根拠 |
将軍足利義輝暗殺(永禄の変) |
久秀が裏で糸を引いたとされる 16 。三悪事の一つ 6 。 |
久秀は事件当時大和に不在で直接関与せず、実行犯は息子久通と三好義継ら 16 。久秀は義輝の弟・義昭の命を保証 16 。 |
東大寺大仏殿焼失 |
久秀が夜襲の際に放火したとされる 6 。三悪事の一つ 6 。 |
失火説(三好軍の火薬への引火や陣屋からの失火:『大和軍記』『足利季世紀』 24 )、三好三人衆側のキリシタン兵による放火説(フロイス『日本史』 24 )、戦闘中の偶発的な延焼(『多聞院日記』 24 )。久秀による意図的な放火ではないとする見方が有力 3 。 |
主家・三好家乗っ取り |
三好長慶の死後、実権を掌握し主家を滅ぼしたとされる 6 。三悪事の一つ 6 。 |
長慶存命中は忠実であり、目立った謀反や専横は一次史料から確認できない 2 。長慶死後は三好三人衆らとの権力闘争であり、単純な乗っ取りとは言えない 6 。義興や一存の死への関与も確証なし 6 。 |
将軍足利義輝暗殺(永禄の変)への関与の再検討
永禄8年(1565年)5月19日、三好義継(長慶の養子)、松永久秀の嫡男・久通、そして三好三人衆らが軍勢を率いて京都の二条御所を襲撃し、第13代将軍足利義輝を殺害しました(永禄の変) 6 。この事件は、久秀が首謀者であるかのように語られることが多いですが、事件当時、久秀自身は大和国におり、直接襲撃には加わっていません 16 。
確かに、嫡男の久通が実行部隊の中心にいたことから、久秀が事前に計画を知っていた、あるいは黙認していた可能性は否定できません 16 。しかし、事件後、久秀は義輝の弟で興福寺にいた覚慶(後の足利義昭)の身柄を保護し、「命を取るつもりはない」という内容の誓詞(起請文)を提出しています 16 。これは、将軍家の根絶やしを図ったとされる三好三人衆らの動きとは一線を画すものであり、久秀が必ずしも将軍弑逆を積極的に主導したとは言えない状況証拠となります。久秀と息子の久通の間で、将軍家に対する方針に違いがあった可能性も指摘されています 19 。久秀は、たとえ実権が失われていても将軍の権威を重んじる保守的な側面を持っていたのかもしれません。
東大寺大仏殿焼失の真相と責任論の再検討
永禄10年(1567年)10月10日、久秀は、対立する三好三人衆が陣を構えていた奈良の東大寺を夜襲しました。この戦闘の最中に火災が発生し、世界最大級の木造建築であった大仏殿が焼失しました 24 。この事件は、久秀の最も悪名高い行為の一つとされています 6 。
しかし、焼失の原因については諸説あり、久秀が意図的に放火したという確証はありません。興福寺の僧侶による日記『多聞院日記』には、「穀屋の兵火が法華堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した」と記されており、戦闘に伴う失火・延焼であった可能性を示唆しています 24 。
また、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、東大寺に駐屯していた三好三人衆側のキリシタン兵士が、仏像を偶像と見なして自発的に放火した、という驚くべき記述も存在します 24 。さらに、『大和軍記』や『足利季世紀』といった軍記物には、三好軍の鉄砲の火薬への引火や、陣小屋からの失火が原因であったとする記述も見られます 24 。
これらの史料や近年の研究を踏まえ、現在では、久秀による意図的な放火ではなく、戦闘中の偶発的な失火や延焼であったとする説が有力視されています 3 。事実、久秀は茶人でもあり、焼失を免れた近隣の茶室を事前に移築させていたとも言われ、また事件後には大仏再建を支援する旨の書状を送っています 27 。文化財の価値を理解していた彼が、意図的に大仏殿を焼くとは考えにくい、という見方です。
主家・三好家乗っ取りという評価の妥当性の再検討
松永久秀が主家である三好家を乗っ取った、という評価も根強いものがあります 6 。確かに、三好長慶の死後、三好家は内紛と衰退の道を辿り、その過程で久秀が大きな影響力を持ったことは事実です。
しかし、長慶の存命中、久秀は忠実な家臣として仕え、目立った謀反や専横の事実は一次史料からは確認されていません 2 。長慶の弟・十河一存や嫡男・義興の死に久秀が関与したという毒殺説 14 も、あくまで憶測の域を出ず、むしろ義興の病死を嘆く久秀の書状が存在します 7 。
長慶の死後、三好家は若年の義継を当主とし、久秀や三好三人衆らによる集団指導体制のような形になりましたが、間もなく主導権を巡る激しい対立が始まります 6 。久秀の行動は、この権力闘争の中で自らの地位と勢力を維持・拡大しようとするものであり、単純な「乗っ取り」という言葉で片付けられるものではありません。結果的に三好家は衰退しましたが、それは久秀一人の責任というよりは、長慶という強力な指導者を失った後の後継者問題や、家臣団内部の対立といった複合的な要因によるものと考えるべきでしょう。
これらの「三悪事」に関する評価の形成と流布には、織田信長による政治的な意図を含んだ言説や、江戸時代に成立した軍記物語における勧善懲悪的なストーリーテリングが大きく影響していると考えられます 6 。信長は、自らに敵対した久秀のイメージを低下させることで、自身の支配の正当性を高めようとした可能性があります。また、江戸時代の軍記物語は、歴史的事実よりも物語としての面白さや教訓を重視する傾向があり、人物像が類型化・誇張されやすいメディアでした 8 。これらの要因が重なり、「梟雄・松永久秀」というステレオタイプなイメージが後世に定着していったのです。
さらに、久秀が関与したとされる事件の多くは、当時の畿内における複雑な政治状況、すなわち三好家内部の権力闘争、失墜しつつあった将軍権威、諸勢力の離合集散といった文脈の中で発生しています。将軍暗殺にしても、東大寺焼失にしても、三好家の内紛にしても、それは久秀個人の悪意や陰謀だけで起こったのではなく、複数の勢力の思惑が絡み合い、偶発的な要素も加わって発生したと見るべきです。久秀を「梟雄」として断罪する従来の評価は、こうした複雑な背景を捨象し、結果責任を久秀一人に負わせているきらいがあります。彼の行動は、戦国乱世という厳しい環境下で生き残り、勢力を拡大しようとした戦国武将としての、ある種の合理的な判断の結果であった側面も考慮に入れる必要があるでしょう。
三好長慶亡き後の畿内が混乱する中、尾張から急速に勢力を伸ばしてきた織田信長との関係は、松永久秀の後半生を決定づける重要な要素となります。当初は協力関係を結びますが、やがて対立し、二度にわたる反逆の末に滅亡へと至る、その複雑な関係性の変遷を見ていきます。
信長への臣従と大和支配
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して京都へ進軍すると、畿内の情勢は一変します。当時、三好三人衆との抗争で劣勢に立たされていた久秀は、この新しい時代の到来を敏感に察知し、いち早く信長に接近しました。彼は信長に対し、名物として名高い茶入「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を献上し、臣従の意を示しました 6 。
この迅速な判断は功を奏し、久秀は信長の強力な軍事力を背景に三好三人衆らを退け、大和一国の支配を改めて認められます 20 。当初、久秀は信長の有力な同盟者、あるいは有力家臣として扱われ、畿内方面での軍事作戦にも参加しました。特に元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いでは、浅井長政の裏切りによって窮地に陥った信長の撤退を助けるという功績も挙げています 1 。この時点では、両者の関係は比較的良好であったと考えられます。
一度目の反逆と宥恕
しかし、信長と将軍足利義昭との関係が悪化し始めると、久秀の立場も微妙になっていきます。元亀2年(1571年)頃から、久秀は信長と対立を深める義昭に接近し、反信長勢力の一翼を担うようになります 6 。甲斐の武田信玄が西上作戦を開始すると、これに呼応する形で、久秀は公然と信長に反旗を翻しました 15 。これは、信長包囲網の一環としての行動であったと考えられます。
ところが、元亀4年(1573年)に武田信玄が病死し、信長包囲網が瓦解し始めると、久秀は再び窮地に立たされます。同年、信長に降伏し、居城であった多聞山城を明け渡すことを条件に、異例とも言える赦免を受けました 15 。信長が一度裏切った久秀を許した理由については、久秀の持つ高い能力や畿内における影響力を惜しんだためとも 30 、あるいは久秀が所有するもう一つの名物茶器「平蜘蛛釜」を手に入れるためであったとも言われています 30 。信長は名物茶器の収集に熱心であり、茶器を政治的な道具としても利用していました。久秀を生かしておくことが、いずれ平蜘蛛釜を手に入れる機会に繋がると考えた可能性は十分にあります。この一件は、戦国時代の武将と文化の関係性を示す興味深い事例と言えるでしょう。
二度目の反逆とその背景
一度は許された久秀でしたが、天正5年(1577年)、再び信長に対して反逆を起こし、居城である大和国の信貴山城に立て籠もりました 6 。この二度目の反逆は、彼の滅亡を決定づけることになります。
その背景には、複数の要因が考えられています。
久秀の二度にわたる反逆は、単なる気まぐれや生来の裏切り癖として片付けることはできません。それは、三好政権下で大きな権力を持ち、自立した大名として振る舞ってきた久秀が、信長の強力な中央集権体制の中で自身の存在意義と自律性を維持しようとした、戦国武将としての最後の抵抗であったと解釈することも可能です。特に二度目の反逆は、もはや失うものが少ない老境に達した久秀が、一人の武将としての意地と誇りをかけて、強大な権力に立ち向かった行為と見ることもできるでしょう。彼の行動は、戦国時代の価値観と、統一政権へと向かう時代の流れとの間で揺れ動く、一人の武将の葛藤を映し出しているのかもしれません。
天正5年(1577年)、二度目の反逆を起こした松永久秀に対し、織田信長は嫡男・信忠を総大将とする大軍を派遣し、久秀の居城である信貴山城を包囲させました。これが、久秀の生涯最後の戦いとなる信貴山城の戦いです。
信貴山城の戦いの経緯
同年10月、織田信忠率いる約4万の軍勢が信貴山城を取り囲みました 30 。対する松永軍は約8千と、兵力差は圧倒的でした 34 。織田軍はまず、信貴山城の支城である片岡城を攻略し、その後、信貴山城への総攻撃を開始しました 33 。
信長は、家臣の松井友閑らを派遣して降伏を促しましたが、久秀はこれに応じませんでした 30 。一説には、信長の使者である佐久間信盛が、城兵の助命を条件に、久秀が秘蔵する名物茶器「平蜘蛛釜」を引き渡すよう要求したとされます。しかし、久秀はこれを、「平蜘蛛の釜と我らの首の二つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と言って、きっぱりと拒絶したと伝えられています 10 。この言葉は、最後まで信長に屈しない久秀の気概を示すものとして、後世に語り継がれています。
壮絶な最期と平蜘蛛釜伝説
万策尽きた松永久秀は、10月10日、城内の天守に火を放ち、自ら命を絶ったとされています 6 。享年68歳(または70歳)。太田牛一が記した『信長公記』には、その最期は「焼死」であったと記録されています 30 。
しかし、松永久秀の最期として最も有名なのは、「平蜘蛛釜に火薬を詰めて、もろとも爆死した」という伝説です 2 。この劇的な逸話は、久秀の「梟雄」としてのイメージと相まって広く知られていますが、同時代の信頼できる史料には見られません。『信長公記』や『多聞院日記』といった一次史料には爆死の記述はなく、後世の創作である可能性が高いと考えられています 8 。
爆死説の根拠とされることがある『川角太閤記』には、「久秀の頸は火薬で焼き割って微塵に砕けたので平蜘蛛の茶釜と同様になった」という記述がありますが 8 、これは首と茶器が破壊されたという内容であり、全身が爆死したことを意味するものではありません。また、『多聞院日記』には久秀の首が安土に送られたとあり 20 、『大和志料』には胴体が達磨寺に葬られたと記されていることから 20 、遺体が完全に消滅したとする爆死説とは矛盾します。
平蜘蛛釜の行方についても諸説あり、『太閤様軍記の内』では「打ち砕き、焼け死に候」とされ 35 、『玉栄拾遺』では打ち壊して信忠に贈った後に自害したとされています 35 。一方で、戦後に瓦礫の中から発見され、後に他の人物の手に渡ったという記録も存在します 17 。
久秀の最期が10月10日であったことは、奇しくも10年前の永禄10年(1567年)に東大寺大仏殿が焼失したのと同じ日付でした。この偶然の一致から、当時の人々は「仏罰が下った」と噂し合ったと『信長公記』は伝えています 20 。この事実は、久秀の死に因縁めいた影を落とし、彼の「仏敵」としての側面を強調する役割を果たしました。
平蜘蛛釜と共に爆死するという伝説は、史実とは異なる可能性が高いものの、久秀の「梟雄」としてのイメージを決定的にし、彼の死を劇的に演出する上で大きな役割を果たしてきました。最後まで信長に屈せず、天下の名物を道連れに派手に散るという姿は、常識外れの悪党という久秀のパブリックイメージに合致し、それをさらに強化する効果があったと言えるでしょう。この伝説は、松永久秀という人物の特異性を象徴するエピソードとして、彼のキャラクター形成に大きく寄与したのです。
辞世の句の有無と最期の言葉
松永久秀が最期に辞世の句を残したという確かな史料は確認されていません 10 。戦国武将の中には辞世の句を残す者も多くいますが、久秀に関しては、そうした記録は見当たりません。
彼の最期の言葉として最も広く知られているのは、前述の平蜘蛛釜の引き渡しを拒否した際のものです 8 。この言葉が、彼の辞世の句のように扱われることもありますが、厳密には異なります。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、最期の言葉として「南無三宝」が描かれましたが、これはドラマオリジナルの演出です 42 。
松永久秀は、戦国時代の武将として権謀術数を巡らせる一方で、当代一流の文化人としての顔も併せ持っていました。彼の文化活動は、単なる個人的な趣味に留まらず、その政治的地位や影響力とも深く結びついていたと考えられます。
茶の湯への傾倒と名物「平蜘蛛釜」
久秀は、戦国時代を代表する茶人の一人として高名です 2 。彼は多くの名物茶器を収集し、茶会を催すなど、茶の湯に深く傾倒していました。その中でも特に有名なのが、彼が秘蔵した茶釜「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」です 35 。蜘蛛が地を這うような独特の形状からその名がついたとされるこの茶釜は、天下に名高い名品でした。
織田信長は、この平蜘蛛釜を強く欲し、久秀に再三献上を求めましたが、久秀は最後までこれを拒み続けました 32 。信長が名物狩りを進め、茶器を権威の象徴として利用していた当時において、この拒絶は久秀の信長に対する反骨精神や、自らの美意識と独立性を守ろうとする強い意志の表れと解釈されています。最期に平蜘蛛釜と共に滅んだ(とされる)逸話は、彼の茶の湯への深い愛着と、武将としての誇りを象徴するものとして語り継がれています。
久秀が拠点とした信貴山城跡からは、茶の湯に使用する石臼や茶臼が発見されており 49 、彼が城内で日常的に茶を楽しんでいたことがうかがえます。戦国時代の茶の湯は、単なる芸道ではなく、武将間の重要なコミュニケーションツールであり、外交や情報交換の場でもありました。久秀にとって茶の湯は、自らの教養と洗練されたセンスをアピールし、公家や他の有力武将との人脈を形成・維持するための有効な手段であったと考えられます。
築城術の革新性:多聞山城と多聞櫓
久秀は、築城家としても非凡な才能を発揮しました。彼が永禄年間に奈良に築いた多聞山城は、当時の城郭建築の常識を覆す、革新的な要素を多く含んでいました 6 。
多聞山城は、それまでの寺院建築や公家屋敷にしかなかった礎石を用いた恒久的な建物を曲輪全体に配し、壁には分厚い土壁を用い、屋根は瓦葺きとするなど、中世的な山城から近世城郭へと移行する過渡期の重要な城郭と位置づけられています 13 。城内には主殿、会所、庫裏といった豪華な建物が建ち並び、庭園も設けられ、金工師による引手や狩野派絵師による障壁画で飾られていたとされます 13 。天守に相当する四階建ての「高矢倉」が存在した可能性も指摘されており、もし事実であれば安土城に先駆けるものとなりますが、詳細は不明です 13 。
特に注目されるのが、久秀が創始したとされる「多聞櫓(たもんやぐら)」です 6 。これは、石垣の上に長屋状の建物を建て、防御施設(櫓)と居住空間、倉庫などを一体化させたものです。防御力を高めつつスペースを有効活用できるこの様式は画期的であり、その後の近世城郭建築において広く採用されることになりました。
多聞山城は、単なる軍事拠点としてだけでなく、壮麗な建築や庭園、集められた美術品によって、久秀自身の権力と文化的素養を誇示する「見せる城」としての性格も持っていました 13 。天正2年(1574年)にこの城を検分した織田信長は大きな衝撃を受け、自らの安土城築城の際にその意匠を取り入れたとも言われています 50 。久秀の築城における革新性は、彼の実用主義的な思考と、旧来の慣習にとらわれない先進的な精神を反映していると言えるでしょう。
その他の文化的関心
久秀の文化的な関心は、茶の湯や築城に留まりませんでした。
このように、松永久秀は武将としての側面だけでなく、茶の湯、築城、和歌、その他の学問・芸術にも深い関心と才能を示した、戦国時代でも稀有な多才な文化人でした。彼の文化活動は、彼の政治的野心や権力誇示と表裏一体であり、戦国武将としての総合的な戦略の一環と捉えることができるでしょう。
松永久秀の人物像は、江戸時代の軍記物語などを通じて形成された「梟雄」というイメージが長らく支配的でした。しかし、近年、同時代の一次史料の博捜と批判的な検討が進むにつれて、そのイメージは大きく揺らぎ、より複雑で多面的な実像が浮かび上がってきています。
同時代史料に見る久秀の実像
これらの一次史料を丹念に読み解くと、軍記物語が描くような単純な「悪役」としての姿だけでなく、有能な官僚、優れた武将、洗練された文化人、そして時代の変化に翻弄される一人の人間としての久秀像が浮かび上がってきます。
「梟雄」イメージの形成過程と近年の研究動向
松永久秀=「梟雄」というイメージは、主に江戸時代以降に成立した軍記物語や逸話集によって形作られ、広く流布しました。特に湯浅常山の『常山紀談』 6 などは、久秀の「三悪事」をはじめとする悪逆非道なエピソードを数多く収録し、そのイメージ形成に大きな影響を与えました。これらの物語は、史実よりも勧善懲悪的な面白さや教訓を重視する傾向があり、久秀の行動はしばしば誇張され、否定的に描かれました。信長が家康に久秀を紹介した際の「三悪事」の逸話 6 も、このイメージを補強する上で決定的な役割を果たしたと考えられます。
しかし、近年の歴史学では、こうした二次史料の記述を鵜呑みにせず、一次史料に基づいた実証的な研究が重視されるようになっています。その結果、天野忠幸氏をはじめとする研究者たちによって、従来の久秀像に対する見直しが進められています 3 。
前述の通り、「三悪事」とされる行為についても、久秀の直接的な関与が疑わしい、あるいは状況的にやむを得なかった側面があった可能性が指摘されています。東大寺焼失は失火説が有力となり 24 、将軍暗殺も直接手を下したのは息子らであり、久秀自身はむしろ将軍の弟を保護する動きを見せています 16 。主家乗っ取りに関しても、長慶存命中は忠勤に励んでおり 3 、長慶死後の行動は複雑な権力闘争の結果と見るべきでしょう。
こうした研究の進展により、松永久秀は、単なる「稀代の悪人」 22 ではなく、高い教養と政治力、軍事力を兼ね備えた有能な人物であり、戦国乱世という厳しい時代を生き抜くために、時には非情とも思える決断を下さざるを得なかった、極めて複雑な人間として再評価されつつあります 2 。信長らに翻弄され、滅亡へと追いやられた「悲劇の武将」 3 という側面も、新たな久秀像として注目を集めています。
松永久秀の人物像に見られる一次史料と二次史料(軍記物)との間の大きな乖離は、歴史情報が伝達・解釈される過程でいかに変容しうるかを示す典型例と言えます。歴史像は固定的なものではなく、史料の発見や解釈の深化によって常に更新されうることを、久秀の研究は教えてくれます。また、彼の「梟雄」イメージには、彼の出自の低さや、伝統的な権威に挑戦するような行動が、既存の秩序を重んじる人々にとって脅威と映り、必要以上に悪く評価された結果である可能性も含まれています。彼の革新性や野心が、保守的な視点からは否定的に捉えられた側面も考慮すべきでしょう。
松永久秀が生きた戦国時代の痕跡は、彼が拠点とした城郭跡や、その最期を物語る墓所などに今も残されています。これらの史跡を訪れることは、文献史料だけでは得られない、当時の空気や久秀の足跡を肌で感じる貴重な機会となります。
これらの史跡は、松永久秀という人物の多面性や、彼が生きた時代の激しさを今に伝えています。しかし、多聞山城のようにその革新性にもかかわらず遺構の保存状態が必ずしも良くない例も見られます。これは、彼の「梟雄」としてのイメージや、その後の支配者の変遷といった歴史的背景が、史跡の保存や顕彰のあり方に影響を与えてきた可能性を示唆しています。史跡の現状は、その歴史的価値だけでなく、それを取り巻く人々の評価や社会状況によって左右されることを物語っていると言えるでしょう。
松永久秀の劇的な生涯と、謎に満ちた「梟雄」としてのキャラクターは、後世の創作者たちの想像力を強く刺激し、数多くの文学作品や映像作品で取り上げられてきました。そこでは、史実をベースにしつつも、様々な解釈や脚色が加えられ、多様な松永久秀像が描かれています。
小説における描かれ方
古くは海音寺潮五郎や司馬遼太郎といった歴史小説の大家の作品にも、知略に長けた策略家、あるいは冷酷非情な野心家として登場します。これらの作品は、久秀の「梟雄」としてのイメージを広く浸透させる一助となりました。
近年では、久秀を主人公とした小説も多く書かれています。その中でも特に注目されるのが、今村翔吾氏の『じんかん』です 58 。この作品は、従来の「三悪事」のイメージを大胆に覆し、久秀を理想と野心の間で揺れ動きながらも自らの信じる道を突き進んだ人物として描き、高い評価を得ました。久秀の苦悩や人間的な側面、彼を支えた家臣たちとの絆などが深く掘り下げられ、読者に新たな久秀像を提示しました 58 。この作品は、近年の歴史研究による久秀再評価の流れとも呼応しています。
一方で、久秀を題材とした小説の中には、その悪役としての側面を強調し、過度な暴力描写や性描写(エログロ)を多用するものも存在します 64 。これらの作品は、久秀の持つダークな魅力を追求する一方で、歴史的人物としての実像からは離れてしまう傾向があります。このように、小説における久秀像は、作者の解釈や作風によって大きく異なり、その振れ幅の大きさが彼のキャラクターの複雑さを物語っているとも言えます。
大河ドラマにおける描かれ方
NHK大河ドラマにおいても、松永久秀は戦国時代を描く上で欠かせないキャラクターとして度々登場してきました。近年、特に大きな注目を集めたのが、『麒麟がくる』(2020年放送、演:吉田鋼太郎)における松永久秀です 1 。この作品では、主人公・明智光秀や織田信長に大きな影響を与える重要人物として位置づけられ、単なる悪役ではなく、老獪でありながらも人間的な弱さや苦悩を抱える、深みのあるキャラクターとして描かれました。茶の湯を愛し、政治的な駆け引きに長け、時には光秀を導き、時には翻弄する存在として、物語に複雑な陰影を与えました。有名な平蜘蛛釜と共に爆死するという伝説的な最期も、史実を踏まえつつドラマ独自の解釈を加えて描かれ、大きな話題となりました 65 。
過去の大河ドラマと比較すると、『麒麟がくる』の久秀像は、近年の研究動向を反映し、より多面的で人間的な描写が試みられていると言えます。歴代の大河ドラマにおける久秀の描かれ方の変遷を辿ることは、時代ごとの歴史解釈や、視聴者が歴史上の人物に求めるものの変化を映し出す鏡となるでしょう 7 。
漫画における描かれ方
漫画の世界でも、松永久秀は魅力的なキャラクターとして頻繁に登場します。山田芳裕氏の『へうげもの』 70 では、主人公・古田織部の茶の湯の師であり、ライバルでもある存在として、強烈な個性と美意識を持つ数寄者(すきしゃ)として描かれています。ここでは、彼の文化人としての一面が特に強調されています。
また、前述の小説『じんかん』を原作とした恵広史氏による漫画『カンギバンカ』 31 は、久秀の謎に包まれた少年時代から描き起こし、彼の成長と葛藤を壮大なスケールで描く意欲作です。
その他、多くの戦国時代をテーマとした漫画やゲームにおいて、久秀は知略に長けた策略家、油断のならない裏切り者、あるいはカリスマ的な悪役として、様々な形で登場し、物語を盛り上げる重要な役割を担っています 18 。
史実との比較とイメージの変遷
多くの創作物において、松永久秀は依然として「梟雄」「裏切り者」といった側面が強調される傾向にあります。彼の生涯が持つドラマ性、特に「三悪事」や信長への反逆、平蜘蛛釜の逸話などは、物語を劇的に展開させる上で格好の素材となるからです。
しかし、近年の研究成果を反映し、より多面的で人間的な深みのあるキャラクターとして描こうとする動きも顕著になっています 1 。単なる悪役ではなく、彼なりの理由や信念、苦悩を抱えた人物として描かれることで、キャラクターとしての魅力は一層増しています。
ただし、「平蜘蛛釜と爆死」の逸話のように、史実とは異なる可能性が高いとされるエピソードが、その劇的な魅力ゆえに繰り返し描かれる傾向があることには注意が必要です 15 。
松永久秀が創作物で繰り返し描かれ、多様な解釈がなされるのは、彼の生涯が持つドラマ性と、人物像に残された多くの謎が、創作者の想像力を刺激し続けるからでしょう。史実の枠組みの中で多様な解釈が可能な「開かれたキャラクター」である彼は、時代や作者によって異なる光を当てられることで、常に新しい魅力を発見され続けています。近年の創作物における人間的な深掘りは、歴史研究の進展と、現代の読者や視聴者が複雑なアンチヒーローや多面的なキャラクターを好む傾向とが共鳴した結果とも言え、歴史研究と創作文化の相互作用を示す好例となっています。
松永久秀は、戦国時代という激動の時代が生んだ、極めて複雑で多面的な人物です。長らく「梟雄」というレッテルと共に語られてきましたが、本報告書で見てきたように、その評価は一面的であり、彼の持つ多様な側面を見過ごすことになります。
三好政権下では、低い出自から実力で成り上がり、家宰として政権運営の中枢を担う有能な政治家・官僚でした。その手腕は、主君・三好長慶からの絶大な信頼を得るに至り、一国の大名に匹敵する権勢を築き上げました。また、多聞櫓の創始に代表される革新的な築城術は、日本の城郭建築史に大きな影響を与えました。さらに、茶の湯をはじめとする文化・芸術にも深く通じた当代一流の文化人であり、その洗練された美意識は、彼が所有した名物茶器と共に後世に伝えられています。
一方で、彼の生涯は、裏切りと権力闘争の連続でもありました。将軍足利義輝暗殺(永禄の変)や東大寺大仏殿焼失といった事件への関与(あるいはその疑い)は、彼の悪名を高める大きな要因となりました。主家である三好家の衰退にも、結果的に大きな影響を与えたことは否定できません。そして、織田信長に対して二度も反旗を翻し、最後は信貴山城で壮絶な最期を遂げたことは、彼の波乱に満ちた生涯を象徴しています。
しかし、近年進められている一次史料に基づいた研究は、従来の「梟雄」像に大きな疑問を投げかけています。「三悪事」とされる行為の多くは、冤罪や誇張であった可能性が指摘され、彼の行動原理についても、単なる私利私欲や裏切り癖ではなく、戦国乱世を生き抜くための合理的な判断や、自らの信念に基づいたものであったという解釈がなされるようになっています。固定化されたイメージから脱却し、史料に基づいた客観的な視点から彼の実像に迫ることの重要性が、改めて認識されています。
松永久秀の生涯は、下剋上が常態化し、個人の実力と野望が旧来の権威や秩序を激しく揺るがした戦国時代そのものを映し出す鏡と言えるでしょう。彼の成功と破滅の物語は、戦国武将が直面した厳しい現実、すなわち、絶え間ない権力闘争、裏切りと盟約の繰り返し、そして生き残りのために下さざるを得なかった非情な選択を、私たちに生々しく伝えてくれます。また、武人が茶の湯などの文化を深く嗜み、それが政治的な意味合いをも帯びていたという、戦国時代特有の文化状況を体現する存在でもありました。
彼の生涯は、戦国時代における「創造と破壊」のダイナミズムを凝縮して体現しているとも言えます。多聞櫓の創設といった革新的な「創造」の一方で、旧来の権威への挑戦や伝統的建造物の焼失への関与(とされる)といった「破壊」の側面も併せ持っていました。この二面性こそが、彼の評価を複雑にし、後世の人々を惹きつけてやまない理由の一つでしょう。
松永久秀の評価が時代と共に大きく変遷してきた事実は、歴史像というものがいかに構築され、また再解釈されうるかという、歴史学の根源的な問いを私たちに投げかけます。彼の生き様は、現代社会におけるリーダーシップ、野心、倫理観、そして時代の変化への適応といった普遍的なテーマについて、多くの示唆を与えてくれるかもしれません。
最終的に、松永久秀は、その毀誉褒貶の激しさ、善悪では割り切れない人間的な深み、そして時代を象徴するような劇的な生涯ゆえに、戦国時代の中でも特に人々の記憶に残り、尽きることのない議論と多様な解釈を生み出し続ける、類い稀なる歴史上の人物であると結論づけることができます。彼の存在は、私たちが歴史を学び、理解する上で、常に新たな視点と問いを提供してくれるでしょう。