松浦弘定は肥前国の戦国武将。家督争いで居城を追われるも大内氏の支援で復権。敵対勢力を制圧し松浦党を統一、平戸松浦氏の権力基盤を確立した。
戦国時代の幕開けと共に、日本各地で旧来の権威が揺らぎ、新たな秩序が模索される激動の時代が訪れた。九州北西部に位置する肥前国松浦郡もまた、その例外ではなかった。本報告書が主題とする松浦弘定(まつら ひろさだ、初名:正)は、この混乱の時代に平戸松浦氏第23代当主として一族の舵取りを担った人物である 1 。彼の生涯は、家督を巡る一族内の深刻な対立、居城を追われての亡命という絶体絶命の危機、そして大国の力を借りて復権を果たし、後の平戸藩の繁栄へと繋がる盤石な基礎を築き上げるという、劇的な展開に満ちている。
弘定が生きた15世紀末から16世紀初頭にかけて、かつて元寇に際しては強固な団結を誇った海の武士団「松浦党」は、その共和的な結束を失い、内部抗争に明け暮れていた 2 。特に、松浦一族の宗家(そうけ)とされてきた相神浦(あいこうのうら)松浦氏と、海外交易の拠点・平戸を本拠として急速に力をつけていた分家の平戸松浦氏との間の対立は、地域の力学を決定づける深刻な問題となっていた 2 。
松浦弘定の評価は、単なる一地方領主にとどまらない。彼は、この分裂と抗争の時代を生き抜き、次代の松浦興信(おきのぶ)、そして南蛮貿易により平戸を国際都市へと飛躍させることになる孫の松浦隆信(たかのぶ)の時代の「礎を築いた」人物として、歴史的に重要な位置を占めている 1 。本報告書は、現存する史料を丹念に読み解き、彼の生涯の軌跡を詳細に追うことで、一人の国人領主が、いかにして乱世の荒波を乗り越え、一族の未来を切り拓いたのか、その実像に迫ることを目的とする。
年代(西暦) |
松浦弘定の動向 |
松浦一族・周辺勢力の動向 |
備考 |
文明18年頃 (1486) |
叔父・松浦弘の遺言により田平領の継承者となる。甥の峯昌と家督争いが勃発 6 。 |
峯昌(田平松浦氏)、有馬氏を頼り島原へ亡命 7 。 |
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延徳3年 (1491) |
【壺陽録説】 峯昌・有馬貴純・相神浦松浦政らの連合軍に攻められ、箕坪城に籠城。敗れて筑前へ亡命 8 。 |
峯昌・有馬氏ら、平戸を攻撃(箕坪合戦) 9 。 |
『壺陽録』に基づく年代。 |
明応元年 (1492) |
【壺陽録説】 大内政弘の援護を受け平戸に帰還、弘定と改名 8 。 |
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明応3年 (1494) |
【歴代鎮西志説】 峯昌・少弐政資・有馬氏らの連合軍に攻められ、箕坪城に籠城 7 。 |
少弐政資、有馬氏らを率いて平戸に侵攻 7 。 |
『歴代鎮西志』に基づく年代。遣明船の動向から、こちらを支持する研究が有力。 |
明応4年 (1495) |
【研究者による推定】 箕坪城を脱出し、大内氏の勢力圏へ亡命 7 。 |
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明応6年 (1497) |
大内義興の調停により平戸へ帰還。峯昌の子・興信を娘婿・養嗣子とする和議が成立 5 。 |
大内義興、少弐政資・高経親子を破る。峯昌方の後ろ盾が消滅 7 。 |
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明応7年 (1498) |
箕坪合戦の報復として相神浦松浦政の居城・大智庵城を急襲、政は自刃 10 。 |
相神浦松浦氏の勢力が大きく後退。政の子・幸松丸(後の親)は人質となる 10 。 |
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永正5年 (1508) |
山代氏から鷹島を奪還 5 。 |
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永正10年 (1513) |
五島列島の宇久氏の内乱で、当主の子・盛定が亡命してくるとこれを保護 1 。 |
宇久氏で玉之浦納の乱が勃発 1 。 |
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永正12年 (1515) |
死去 1 。 |
養嗣子の松浦興信が家督を継承。 |
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松浦弘定の生きた時代を理解するためには、まず彼が属した特異な武士団「松浦党」の成り立ちと、戦国期におけるその変質を把握する必要がある。
肥前国松浦郡一帯に盤踞した松浦氏は、古くから「松浦党」と呼ばれる武士団を形成していた 2 。その出自については、前九年の役で敗れた安倍宗任の末裔とする説と、嵯峨天皇を祖とする嵯峨源氏の流れを汲むとする説の二つが伝えられている 13 。しかし、松浦一族が鎌倉時代以降、一貫して源姓を名乗っていることなどから、現在では嵯峨源氏説が有力視されている 3 。
松浦党の最大の特徴は、特定の惣領が一族全体を支配するピラミッド型の主従関係ではなく、各地域の松浦氏一族が対等な立場で連合する「党的武士団」であった点にある 2 。この共和的な性格は、13世紀の元寇(蒙古襲来)のような対外的な危機に際しては、一族が団結して行動するという強みを発揮した 14 。しかし、時代が下り、個々の領主が領土拡大と権力集中を目指す戦国時代に入ると、この構造は逆に弱点へと転化する。かつての団結は崩壊し、一族同士が互いの所領を巡って激しく争う内部抗争の時代へと突入したのである 2 。この構造的変化こそが、弘定の生涯を規定する根本的な要因であった。旧来の共和的システムが、実力主義という新たな時代の要請の前に崩壊していく過程、その渦中に弘定はいたのである。
戦国期における松浦党の内部抗争を象徴するのが、宗家と分家の対立である。松浦一族の嫡流、すなわち宗家とみなされていたのは、現在の長崎県佐世保市相浦地域を本拠とする相神浦松浦氏であった 4 。彼らは松浦党の本来の中心として、一定の権威を保持していた。
一方、弘定が属する平戸松浦氏は、本来この宗家から分かれた一族であった 4 。しかし、平戸が大陸との交易における要衝であったという地理的優位性を背景に、次第に経済力と軍事力を蓄えていく。特に弘定の父である松浦豊久の代には、生月島や津吉などを支配下に収めるなど、積極的に勢力拡大を進めていた 4 。この新興勢力である平戸松浦氏の台頭は、旧来の権威である宗家・相神浦松浦氏との間に、避けがたい緊張と対立を生み出していた。弘定が家督を継いだのは、まさにこの両者の力関係が逆転しようとする、一触即発の状況下であった。
弘定の当主としてのキャリアは、一族を二分する壮絶な家督争いから始まった。この争いは、単なる内輪揉めにとどまらず、九州の覇権を争う大国の思惑が絡んだ代理戦争の様相を呈していく。
争いの直接的な発端は、文明18年(1486年)頃、弘定の叔父にあたる松浦弘(ひろし)が残した遺言にあった 6 。弘は、田平(たびら)の峯(みね)氏に養子に入っていた実兄の子・昌(さかえ、峯昌)ではなく、自身の甥である弘定(当時の名は正)に田平領を譲るとした。これに峯昌が猛反発。弘定は波多氏や大島氏といった味方と共に田平へ攻め込み、峯昌はこれに敵わず、支援を求めて島原半島の有力大名・有馬氏のもとへ落ち延びた 7 。こうして、松浦一族の内部対立の火蓋が切られたのである。
有馬氏の庇護下に入った峯昌は、有馬貴純(ありま たかずみ)や大村純伊(おおむら すみこれ)、そして平戸松浦氏の台頭を快く思わない宗家の相神浦松浦政(まつら まさし)といった肥前の有力国人たちの支援を取り付け、弘定を討つべく連合軍を結成した 7 。
連合軍は海と陸から平戸へ侵攻。弘定方は当初、潮の流れが速いことで知られる平戸瀬戸の地理を活かした海戦でこれを迎撃しようと試みるが、陸路を進む大軍の前に劣勢は明らかであった 7 。平戸の港市は防御に適さないと判断した弘定は、戦略的な撤退を決断し、防御の堅い山城である箕坪城(みのつぼじょう)に籠城した 7 。
連合軍は箕坪城を完全に包囲し、兵糧攻めを開始した。特に、海上を封鎖され、島々の味方からの補給路を断たれたことは籠城する弘定方にとって致命的であった 7 。百日にも及ぶ壮絶な籠城戦の末、ついに兵糧が尽き、これ以上の抵抗は不可能と悟った弘定は、城の裏手にあたる海岸から小舟で脱出。再起を期して、当時九州北部で強大な勢力を誇っていた周防国の大内政弘(おおうち まさひろ)を頼り、筑前国へ亡命したのである 7 。主を失った箕坪城は、その後開城を余儀なくされた。
陣営 |
松浦弘定方 |
峯昌(反弘定)連合軍 |
大将 |
松浦弘定(正) |
峯昌(田平松浦氏) |
主な与力国人 |
大島氏、津吉氏、生月氏など平戸方諸将 |
有馬貴純、大村純伊、相神浦松浦政、佐志氏、西郷氏 |
背後の大勢力(庇護者) |
大内氏 (大内政弘) |
少弐氏 (少弐政資)、(間接的に 細川氏 ) |
この箕坪城を巡る一連の戦いは、一見すると松浦一族の家督争いに周辺国人が介入しただけの局地的な紛争に見える。しかし、その背後には、より大きな政治的構図が存在した。それは、周防を拠点に西国の覇権を握ろうとする大内氏と、それに抵抗する肥前の名門・少弐(しょうに)氏との対立である。そして、この少弐氏の背後には、室町幕府の管領として大内氏と対立する中央の権力者・細川氏の影があった 7 。
この戦いの時期について、江戸時代の史料『壺陽録』は延徳3年(1491年)とするが、『歴代鎮西志』は明応3年(1494年)としている 7 。近年の研究では、後者の1494年説が有力視されている。その根拠は、当時の日明貿易(勘合貿易)を巡る利権争いにある。遣明船の重要な寄港地である平戸と博多を自らの影響下に置きたい細川氏は、少弐氏を支援して大内氏の勢力をこの地域から排除しようと画策した。峯昌を担いで弘定を攻撃させたのは、その戦略の一環だったのである 7 。
この視点に立つと、松浦弘定の個人的な争いは、実は日本の対外交易と西日本の覇権を巡る大国間の代理戦争であったことがわかる。弘定の敗北と亡命は、単なる一個人の不運ではなく、大内氏の対明貿易ルートが一時的にせよ、ライバルである細川・少弐連合によって脅かされたことを意味する。弘定の運命は、この時点で既に、彼自身の思惑を遥かに超えた、巨大な政治的・経済的力学の中に組み込まれていたのである。
一度は全てを失い、亡命の身となった弘定であったが、彼の運命は庇護を求めた大内氏の動向と固く結びついていた。九州における大局的なパワーバランスの変化が、弘定に復権への道を開くことになる。
筑前へ逃れた弘定は、周防山口を本拠とする大内政弘、そしてその後を継いだ義興(よしおき)の庇護下に入った 6 。大内氏にとって、平戸から追われた弘定は、対少弐氏戦略における極めて重要な駒であった。平戸港という対外交易の要衝を、敵対する少弐・細川陣営の影響下に置かれ続けることは、大内氏の経済基盤を揺るがしかねない。弘定を支援して平戸に復帰させることは、大内氏自身の死活問題でもあったのである。
復権の好機は、大内氏の軍事行動によってもたらされた。大内義興は九州へ大軍を送り込み、明応6年(1497年)、ついに弘定の宿敵たちの後ろ盾であった少弐政資・高経親子を攻め滅ぼした 7 。これにより、九州北部における大内氏の覇権は決定的なものとなり、同時に峯昌ら反弘定派は、その最大の支援者を失うことになった。
大局的な力関係が完全に逆転したことで、峯昌方はもはや大内氏の意向に逆らうことはできなかった。同年、大内義興の強力な調停のもと、両者の間で和議が結ばれることとなった 5 。
この和議の内容は、極めて政治的な知恵に富んだものであった 6 。
この決着は、単に勝利した弘定が敗者を寛大に許したというものではない。むしろ、対立の根源を将来にわたって断ち切るための、大内氏による高度な政治的判断が働いた結果と見るべきである。もし弘定が峯昌の一族を完全に排除しようとすれば、遺恨は残り続け、平戸の情勢は不安定なままだっただろう。しかし、敵対した家系の血を後継者として受け入れることで、両者の対立は解消され、一つの新たな家系へと統合される。これにより、平戸松浦氏と田平松浦氏は一体化し、遣明船航路の要である平戸瀬戸の支配権は完全に安定した 5 。大内氏にとっては、目先の勝利よりも、忠実で安定した協力者を平戸に確保することこそが最大の利益だったのである。弘定もまた、この政治的現実を受け入れ、個人的な感情よりも一族の長期的な安定と繁栄を優先する決断を下した。この和議は、戦国時代の領主が生き残るために必要とした、冷徹なまでの現実主義と戦略的思考の表れであった。
平戸への劇的な帰還を果たした弘定は、ただちに権力基盤の再構築と領国の安定化に着手する。その手法は、内なる宿敵に対する容赦ない攻撃と、外部勢力に対する巧みな影響力行使という、硬軟両様の戦略を特徴としていた。
弘定が平戸に復帰した翌年の明応7年(1498年)、彼は行動を開始した。標的は、かつて箕坪城攻めで自分を窮地に追い込んだ張本人、宗家当主の相神浦松浦政であった 11 。弘定は弟の大野定久に軍を率いさせ、政の居城・大智庵城(だいちあんじょう)を夜陰に乗じて急襲。城はわずか一夜で陥落し、脱出も叶わなかった政は城内で自刃に追い込まれた 5 。
この電撃的な攻撃は、箕坪合戦に対する明確な報復であると同時に、長年にわたる平戸松浦氏と相神浦松浦氏の対立に終止符を打つ、決定的な一撃であった。これにより、松浦党内における平戸松浦氏の主導権は確立され、名実ともに松浦一族の盟主としての地位を固めたのである 2 。この時、政の幼い嫡男・幸松丸(後の松浦親)は母と共に捕らえられ、人質として平戸へ送られた 10 。この幸松丸が後に脱出し、平戸松浦氏への執拗な抵抗を続けることになるが、それは次代の物語である。
内なる敵を制圧した弘定は、次いでその影響力を周辺地域へと及ぼしていく。その象徴的な出来事が、五島列島を治める宇久(うく)氏の内紛への介入であった。永正10年(1513年)、宇久氏の家中で家臣の玉之浦納(たまのうら おさむ)が反乱を起こし、当主の宇久囲(うく かこむ)が自刃するという事件が発生した 1 。この時、囲の嫡男・盛定(もりさだ)は乳母に抱かれて辛くも五島を脱出し、平戸の弘定を頼って落ち延びてきた 1 。
弘定はこの幼い亡命者を快く保護した。これは単なる人道的な行為ではない。弘定、そしてその後を継いだ興信は、盛定が成長するのを待ち、彼が失地を回復するための軍事的な援助を行った 12 。この支援の結果、盛定は五島へ帰り、反乱者を討って家督を再興することに成功する。この一連の出来事は、平戸松浦氏がもはや肥前の一国人に留まらず、周辺の小大名の運命さえ左右できる、地域全体の調停者・庇護者としての役割を担うまでに成長したことを示している。内なる競争相手であった相神浦松浦氏に対しては徹底的な武力を行使して排除する一方で、外部勢力である宇久氏に対しては恩を売って恩義のある協力関係を築く。この硬軟織り交ぜた戦略的思考は、弘定の非凡な政治手腕を物語っている。
弘定はこうした軍事的・外交的成功と並行して、領国の拡大と安定化にも努めた。永正5年(1508年)には、かつて奪われていた鷹島を山代氏から奪還するなど 5 、北松浦半島における支配地を着実に広げていった。弘定の一連の行動は、平戸松浦氏の権力基盤を磐石なものとし、次代の興信、そして孫の隆信の時代に迎える「栄光の百年」の礎を、文字通り築き上げたのである 5 。
松浦弘定の生涯は、戦国初期の国人領主が直面した過酷な現実を凝縮したものであった。家督争いによる亡命という最大の危機を、自らの力のみならず、大内氏という大国の政治力学を巧みに利用することで乗り越え、復権後は迅速かつ的確な戦略で権力基盤を固めていった。
弘定の最大の功績は、分裂と抗争に明け暮れていた松浦党を、平戸松浦氏のもとに事実上統一し、強力な水軍力と安定した領国を次代に引き継いだ点にある 1 。彼が築いたこの基盤なくして、孫の松浦隆信が明の海商・王直(おうちょく)らと結び、南蛮貿易の莫大な利益を独占して戦国大名へと飛躍することは不可能であったろう 16 。弘定の苦闘と成功の時代は、平戸が国際貿易港として最も輝いた「栄光の百年」の、まさに序曲であったと評価できる 5 。
彼の生き様は、大勢力の狭間で翻弄されながらも、機を見て自立と勢力拡大を図る戦国国人領主の典型例である。しかし、その中でも、国際貿易港・平戸という他に類を見ない地理的特性を最大限に活用し、中央の政治・経済動向と自らの運命をダイナミックに連動させて危機を乗り越えた点に、彼の非凡さと歴史上の独自性を見出すことができる。松浦弘定の物語は、戦国時代が単に著名な大名同士の華々しい戦いだけで構成されていたのではなく、彼のような在地の国人たちが繰り広げた、より複雑で、より熾烈な生存競争の集合体であったことを、我々に雄弁に語りかけてくれるのである。