最終更新日 2025-07-14

松浦鎮信

肥前国平戸藩祖、松浦鎮信(法印)の生涯―激動の時代を乗り越えた海の戦略家

序論:海の領主、松浦鎮信―激動の時代を乗り越えた戦略家

本報告書は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、肥前国平戸(現在の長崎県平戸市)を拠点として活躍した武将、松浦鎮信(まつら しげのぶ、天文18年(1549年) - 慶長19年(1614年))の生涯を、その出自、時代背景、政治・外交戦略、そして人物像に至るまで、多角的に分析し、徹底的に解明するものである。彼は出家後に法印(ほういん)の僧位に昇ったことから「平戸法印」とも称され、平戸藩の初代藩主としてその礎を築いた人物である 1

鎮信が生きた時代は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人が次々と現れ、日本が分裂から統一へと向かう、まさに激動の時代であった。このような中央政権の激変期にあって、鎮信は単なる一地方領主にとどまらなかった。彼は、大陸との海上交通の要衝に位置する領地の特性を最大限に活かし、海外交易を藩経営の生命線とする「海の領主」として独自の地位を確立した 4 。そして、中央の巨大権力と海外勢力との狭間で、卓越した現実主義と巧みな外交手腕を駆使し、松浦家を滅亡の危機から救い、近世大名として生き残らせることに成功したのである 6

彼の生涯を考察する上で、まず明確に区別すべき点がある。それは、鎮信の曾孫にあたり、茶人として高名な平戸藩第4代藩主・松浦鎮信(まつら ちんしん、号は天祥)との混同である 9 。両者は同名であるが、本報告書が対象とするのは、あくまでも藩祖である「法印」鎮信(しげのぶ)である。この区別を明確にした上で、本報告書は、鎮信の出自である「松浦党」の歴史から説き起こし、家督相続、周辺勢力との角逐、豊臣・徳川両政権下での動向、国際貿易の推進、そして彼の複雑な人物像に至るまでを時系列に沿って深く掘り下げていく。その生涯を追うことは、戦国乱世から徳川泰平の世へと移行する時代の大きなうねりの中で、一地方大名がいかにして生き抜いたかを示す、卓越した戦略家の軌跡を辿ることに他ならない。

松浦鎮信(法印)関連年表

松浦鎮信の生涯

日本国内の動向

国際関連の動向

天文18年 (1549) 松浦隆信の長男として誕生 1

ポルトガル船、鹿児島に来航(ザビエル来日)

天文19年 (1550)

フランシスコ・ザビエル、平戸に来航。父・隆信が布教を許可 12

永禄3年 (1560) 塚原幹勝に剣術を学ぶ 3

桶狭間の戦い

永禄4年 (1561)

宮ノ前事件発生。ポルトガル船が平戸から離れる 12

永禄11年 (1568) 父・隆信の隠居に伴い家督相続。元服し「鎮信」を名乗る 1

織田信長、足利義昭を奉じて上洛

天正1年 (1573) 壱岐を巡見 14

室町幕府滅亡

天正10年 (1582)

本能寺の変

天正遣欧少年使節、長崎を出帆

天正12年 (1584)

沖田畷の戦い(龍造寺隆信、戦死)

スペイン船、平戸に来航し商館を設置 15

天正14年 (1586) 嫡男・久信が、大村純忠の娘メンシアと結婚 16

天正15年 (1587) 豊臣秀吉の九州征伐に従い、所領を安堵される 2

豊臣秀吉、九州を平定。バテレン追放令を発布 17

天正17年 (1589) 出家し法印に叙される 1

天正20年 (1592) 文禄の役。小西行長隊に属し朝鮮へ出兵 1

豊臣秀吉、朝鮮へ出兵(文禄の役)

慶長2年 (1597) 慶長の役

慶長3年 (1598)

豊臣秀吉、死去

慶長4年 (1599) 亀岡城(後の平戸城)の築城を開始 3

父・隆信、死去 3

慶長5年 (1600) 関ヶ原の戦いで東軍に属す。戦後、所領を安堵される 1

関ヶ原の戦い

オランダ船リーフデ号、豊後に漂着 20

慶長6年 (1601) 隠居し、家督を嫡男・久信に譲る 1

慶長8年 (1603)

徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開府

慶長14年 (1609) 平戸にオランダ商館を開設 20

オランダ東インド会社、平戸に商館を設置

慶長18年 (1613) 完成間近の平戸城を自ら焼却 22

幕府、キリスト教禁教令を全国に発布

イギリス船クローブ号、平戸に来航。イギリス商館を開設 21

慶長19年 (1614) 5月、病没(享年66) 3

大坂冬の陣

第一章:松浦党の黎明―海の武士団の系譜

松浦鎮信の特異な戦略性を理解するためには、まず彼がその長として立った「松浦党」という武士団の成り立ちと、その本質を把握する必要がある。松浦党は、一般的な戦国大名とは一線を画す、海に生きた者たちの集合体であった。

松浦氏の起源と系譜

松浦氏の出自については諸説あるが、嵯峨天皇を祖とする嵯峨源氏の流れを汲み、平安時代中期の武将・渡辺綱(わたなべのつな)を遠祖とする説が通説となっている 2 。渡辺綱の子孫とされる渡辺久(松浦久)が、11世紀後半に肥前国松浦郡に下向・土着し、地名をとって「松浦」を名乗ったのがその始まりとされる 2 。彼らは渡辺氏を棟梁とする摂津国の武士団「渡辺党」の分派であり、元来、内裏の警護や水軍の統括を担う一族であった 24 。この出自そのものが、松浦氏が水軍として発展する素地を持っていたことを示唆している。

海の武士団「松浦党」の形成

松浦氏が根を下ろした肥前国松浦地方は、九州の北西端に位置し、複雑なリアス式海岸と壱岐・対馬をはじめとする無数の島々が点在する地域である。この地理的条件が、松浦党の性格を決定づけた。内陸の平野部に比べて耕作に適した土地が乏しく、人々は古くから漁業や海運業、そして大陸との交易を生活の糧としてきた 5 。陸路は山地によって閉ざされ、海上交通が主要な移動・輸送手段であったこの地では、海を制することが生き残るための絶対条件であった。

このような背景から、松浦氏は血縁関係のない在地領主たちをも「党」という一種の同盟組織に組み入れ、強大な武士団を形成していった 2 。彼らは「松浦党」と称され、その勢力は平戸、壱岐、五島列島から、現在の唐津市、伊万里市、佐世保市にまで及ぶ広大な海域を支配した 9 。彼らは、源平合戦のクライマックスである壇ノ浦の戦いでは平家方の水軍として奮戦し、二度の元寇(蒙古襲来)においては、その地の利と操船技術を活かして日本防衛の最前線で戦った記録が残っている 5 。彼らは単なる武士ではなく、交易商人であり、時には海賊(倭寇)でもあった。海を舞台に、戦い、商い、そして生きる、それが松浦党の実像であった。

この歴史的背景は、鎮信の代に至るまでの松浦家の権力基盤を理解する上で極めて重要である。多くの戦国大名が「石高」、すなわち米の生産量を国力の指標としていたのに対し、松浦氏の力の源泉は明らかに「海」にあった。彼らは土地の生産力に依存しない、交易による富の獲得という独自の経済モデルを確立していたのである 4 。この「海のDNA」とも言うべき伝統こそが、後の鎮信がポルトガル、オランダ、イギリスといった海外勢力と対等に渡り合い、巧みな外交を展開できた根本的な要因であった。他の大名にとって「南蛮人」が未知の存在であったとしても、松浦党にとっては古くからの交易相手の延長線上にいる存在に過ぎなかったのである。

平戸松浦氏の台頭

中世を通じて、松浦党は多くの分家に分かれ、必ずしも一枚岩ではなかった。宗家とされたのは相神浦(あいかみうら)松浦氏であったが、戦国時代に入ると、分家の一つであった平戸松浦氏が急速に頭角を現す 2 。鎮信の祖父・豊久や曾祖父の代から周辺地域の制圧を進め、勢力を拡大していった 2

そして、鎮信の父・松浦興信(おきのぶ)の代に、周防の大内氏との結びつきを強めたことで、平戸松浦氏の優位は決定的なものとなる 12 。興信は大内義興から偏諱(へんき)を受けるなど、有力大名の後ろ盾を得ることで、松浦党内での覇権を確立しつつあった。この父・興信が築いた政治的・経済的基盤が、次代の隆信、そして鎮信の活躍の土台となったのである。

第二章:父・隆信の時代と鎮信の誕生

松浦鎮信の生涯と彼の政策を理解するためには、その父であり、平戸に最初の国際化の波をもたらした松浦隆信(たかのぶ、道可)の治世を抜きにしては語れない。隆信の功績と失敗は、鎮信にとって最大の教訓となり、その後の彼の行動指針を形成する上で決定的な影響を与えた。

父・松浦隆信(道可)の功罪

松浦隆信は、天文12年(1543年)に家督を継ぐと、松浦党の統一と勢力拡大に邁進した 12 。彼の治世における最大の功績は、南蛮貿易を本格的に開始したことである。天文19年(1550年)、鹿児島での布教を断られたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが平戸に来航すると、隆信はこれを歓迎し、領内でのキリスト教布教を許可した 12 。この決断により、ポルトガル船は毎年のように平戸港を訪れるようになり、平戸は南蛮貿易の中心地として最初の黄金時代を迎えることとなる 12 。隆信は鉄砲や大砲といった最新兵器を積極的に購入し、軍備を近代化させると同時に、貿易がもたらす莫大な富を背景に、北松浦半島を制圧するなど、その勢力を飛躍的に拡大させた 12

しかし、この繁栄は長くは続かなかった。隆信は熱心な曹洞宗の信者であり、キリスト教そのものには全く馴染まず、信者の増加は領内に新たな軋轢を生んだ 12 。貿易の利益は欲するが、キリスト教の布教は望まないという彼の矛盾した態度は、やがて深刻な事態を招く。永禄元年(1558年)、隆信は宣教師ガスパル・ヴィレラに平戸からの退去を命じ、これに乗じた仏教徒が教会を焼き討ちにする事件が発生した 12 。さらに永禄4年(1561年)には、商取引上のトラブルからポルトガル人が殺傷される「宮ノ前事件」が起こり、ポルトガル側との関係は決定的に悪化する 12

この結果、ポルトガル船は平戸を見限り、自らもキリシタン大名となった大村純忠が治める横瀬浦、そして福田浦へと貿易の拠点を移してしまった 12 。隆信は貿易利権を失ったことを悔やみ、ポルトガル船の再寄港を働きかけるが、一度失った信頼を取り戻すことはできず、長崎港が本格的に開港されるに及んで、平戸のポルトガル貿易は終焉を迎えた 12

鎮信の誕生と国際都市平戸の空気

松浦鎮信は、このような南蛮貿易の興隆と混乱の渦中にある天文18年(1549年)、隆信の長男として誕生した 1 。彼が物心ついた頃の平戸は、マカオやマニラから来航する南蛮船が行き交い、肌の色も言葉も異なる人々が闊歩する、日本でも有数の国際都市であった 8 。父・隆信は、鎮信に対し「刀だけでなく、筆と算盤をも武器とせねばならぬ」と教え、武芸や学問のみならず、外交の重要性を説いたと伝えられている 8 。幼い鎮信が、城の高台から異国の船がもたらす珍しい品々や情報に胸を躍らせたであろうことは想像に難くない。この多文化が共存する環境は、間違いなく彼の国際感覚と、物事を観念ではなく実利で判断する現実主義的な思考を育んだ土壌となった。

同時に、彼は父・隆信が宗教問題でつまずき、莫大な利益をもたらす南蛮貿易の主導権を失う過程を目の当たりにした。父の失敗は、鎮信にとって生々しい反面教師となった。彼は、宗教的対立がいかに容易に経済的利益を破壊するかを痛感したはずである。この経験こそが、後の鎮信の政策決定に大きな影響を与えることになる。彼が、自身は熱心な仏教徒でありながら、布教を伴わないプロテスタント国であるオランダやイギリスとの交易を積極的に推進し、一方で幕府の禁教令を遵守して領内のキリスト教を厳しく取り締まるという、ある種の「政教分離」政策を徹底できたのは、父・隆信の失敗から学んだ現実的な教訓があったからに他ならない。彼は、イデオロギーよりも実利を優先する冷徹な判断力と、異なる価値観を巧みに管理するバランス感覚を、平戸の栄枯盛衰の中から体得していったのである。

第三章:家督相続と肥前の群雄割拠

父・隆信から家督を継いだ鎮信は、若き当主として、一門の統率と、龍造寺氏や大村氏といった周辺の強大な勢力との間で繰り広げられる熾烈な生存競争に直面することになる。この時期の彼の動向は、巨大勢力に翻弄されながらも、巧みな戦略で自家の独立を維持しようとする、彼のリアリストとしての一面を色濃く映し出している。

家督相続と青年期の活動

永禄11年(1568年)、父・隆信が隠居すると、鎮信は20歳で家督を相続し、平戸松浦家第26代当主となった 1 。この時、豊後の戦国大名・大友義鎮(宗麟)から「鎮」の一字を偏諱として与えられ、「鎮信」と名乗った 3 。これは、当時九州で強大な勢力を誇った大友氏との良好な関係を背景にしたものであり、若き当主の権威付けに寄与したと考えられる。

鎮信は単なる領主ではなく、武人としての資質にも恵まれていた。永禄3年(1560年)には塚原幹勝に剣術を学ぶなど、早くから武芸の鍛錬に励んでいた記録が残る 3 。家督相続後、近隣国衆との戦いで初陣を飾り、小舟を駆使して敵陣の背後を突くという、松浦党ならではの海上の戦術で功を挙げたと伝えられている 8 。また、複雑に分かれた松浦一門の所領問題を調停するなど、内政においても若くしてその手腕を発揮し、家中の信頼を固めていった 8

周辺勢力との角逐

鎮信が当主となった頃の肥前国は、まさに群雄割拠の様相を呈していた。その中でも最大の脅威は、佐賀を本拠とし、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信であった。

対龍造寺氏:従属と独立の使い分け

龍造寺隆信は、大友氏の勢力を退けて肥前における覇権を確立し、その矛先を松浦領にも向けてきた。圧倒的な兵力を誇る龍造寺氏に対し、鎮信は正面からの衝突を避けるという現実的な判断を下す。彼は一時的に龍造寺氏の傘下に入り、その圧力を巧みに受け流した 2 。しかし、これは完全な服従を意味しなかった。鎮信は、平戸島周辺の潮の流れが速く、地理に不案内な者には航行が困難であるという地の利を最大限に活用した 8 。小回りの利く小舟によるゲリラ的な奇襲で龍造寺軍の輸送船を攻撃し、海上での優位を保つことで、陸での劣勢を補い、龍造寺氏を牽制し続けたのである 8

この状況は、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津軍に敗れ戦死したことで一変する。肥前に権力の空白が生じると、鎮信はこの好機を逃さなかった。彼は即座に龍造寺氏の支配から脱し、再び独立勢力として領土の拡大を図ったのである 7

対大村氏・有馬氏:敵対から戦略的和睦へ

南蛮貿易の利権を巡っては、長崎を拠点とする大村氏や、その背後にいる有馬氏と長らく敵対関係にあった 13 。しかし、天正14年(1586年)、鎮信は大きな政治的決断を下す。日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠の五女・メンシアを、嫡男・久信の妻として迎えることで、長年の宿敵と和睦したのである 16

これは単なる和睦ではなかった。この時期、豊臣秀吉による九州平定の動きは目前に迫っていた。鎮信は、来るべき中央の巨大権力に対抗するためには、肥前の諸勢力が争っている場合ではないと判断したのだろう。この政略結婚は、秀吉の来攻という未曾有の事態を前に、地域の安定を図り、松浦家の発言力を高めるための、極めて戦略的な布石であったと考えられる。

鎮信の一連の行動は、彼が感情や面子に流されることなく、常に客観的なパワーバランスを分析し、自家の存続と利益を最大化するための最も合理的な選択肢を取り続ける、徹底したリアリストであったことを示している。強大な龍造寺氏には一時的に従属し、権力に空白が生じれば即座に独立する。長年の宿敵とも、より大きな脅威の前では手を結ぶ。この柔軟性と冷徹なまでの決断力こそが、彼が戦国の世を生き抜いた最大の武器であった。

第四章:天下人との邂逅―秀吉、そして朝鮮出兵

肥前の群雄たちとの間で繰り広げられた地域紛争は、豊臣秀吉という新たな天下人の出現によって、全く新しい局面を迎える。鎮信は、この時代の大きな転換点を的確に読み、迅速に行動することで、松浦家を近世大名への道へと導いた。

豊臣秀吉への迅速な帰順

天正14年(1586年)、島津氏の勢力拡大に危機感を抱いた大友宗麟の要請を受け、豊臣秀吉は九州への出兵を決定した。この情報をいち早く察知した鎮信の行動は、迅速かつ的確であった。彼は、秀吉が九州に上陸するやいなや、いち早く貢物を贈って誼を通じ、自ら水軍を率いて秀吉の島津征伐軍に加わったのである 2

この先見の明に満ちた判断は、松浦家の運命を大きく左右した。秀吉による九州平定後、多くの松浦党の分家や周辺の国衆が、秀吉への抵抗や遅参を理由に所領を没収(改易)される中、鎮信は肥前国松浦・彼杵(そのき)両郡と壱岐国にわたる6万3200石の所領を安堵された 1 。これは、彼が時代の流れを読む力と、躊躇なく決断する政治的手腕がいかに優れていたかを証明する結果となった。秀吉は、海上交通の要衝である平戸の価値と、それを支配する鎮信の水軍力を高く評価し、自らの支配体制に組み込むことを選んだのである 8

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)

豊臣政権下の大名となった鎮信には、新たな軍役が課せられた。それが、天正20年(1592年)に始まる文禄・慶長の役、すなわち朝鮮出兵である。鎮信は、キリシタン大名として知られる小西行長が率いる第一軍に属し、嫡男の久信と共に3,000の兵を率いて朝鮮半島へ渡海した 1

この戦役において、松浦水軍はその真価を遺憾なく発揮する。平壌の戦いでは、明軍の猛攻に苦しむ小西行長を救援するなど、数々の戦功を挙げた 2 。松浦勢は24戦全勝という目覚ましい戦歴を残したとも伝えられており、その勇猛さは高く評価された 21 。この朝鮮での7年間にわたる激戦の経験は、鎮信の武人としての誇りを大いに高めたようである。後年、60代になった鎮信が旧知の武将に宛てた書状の中で、「内々、唐人と一合戦仕り度く候(内心では、もう一度明の軍勢と一戦交えたいものだ)」と記していることからも、その気概が晩年まで衰えることがなかったことが窺える 29

文化史的遺産:三川内焼の誕生

朝鮮出兵は、松浦家、ひいては日本の文化史に、予期せぬ大きな遺産をもたらした。鎮信は、朝鮮からの帰国の際、多くの朝鮮人陶工を日本に連れ帰ったのである 3 。彼らの中には、後に三川内焼の祖とされる巨関(こせき)らが含まれていた 31

鎮信は、彼ら陶工を藩の保護下に置き、平戸の中野などで窯を開かせた 32 。やがて彼らは良質な陶石を求めて三川内(現在の佐世保市)の地に移り住み、そこで作られた精緻な白磁や染付は「三川内焼」または「平戸焼」として知られるようになる 31 。当初は藩の御用窯として、将軍家や朝廷への献上品が作られたが、その高い技術は広く評価され、平戸藩の重要な産業へと発展していった 35

この事実は、鎮信の卓越した先見性を示している。多くの大名にとって朝鮮出兵が多大な兵員と兵站の負担を強いる「コスト」であったのに対し、鎮信はそれを新たな「資本」を獲得する機会へと転換させた。彼は単に軍事行動をこなすだけでなく、朝鮮人陶工たちが持つ高度な技術という「無形の資産」の価値を見抜いていた。そして、その技術が将来的に藩の経済を潤す新たな文化産業になり得ることを予見し、投資を惜しまなかったのである。戦争という破壊的な行為の中から、新たな創造の種を見出し、育てる。この軍事貢献を文化・経済資本へと転換する経営感覚は、鎮信が単なる武将ではなく、優れた領国経営者であったことを物語っている。

第五章:関ヶ原の深謀―徳川体制への適応

豊臣秀吉の死後、天下の情勢は再び流動化し、徳川家康と石田三成の対立が先鋭化する。この天下分け目の大戦において、鎮信は松浦家の存続を賭けた、極めて慎重かつ大胆な決断を下す。それは、彼のリアリストとしての真骨頂を示すものであった。

天下分け目の選択:両属という名の生存戦略

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、鎮信は本国の平戸にあって、肥前の神集島(かしわじま)に大村喜前、有馬晴信、五島玄雅といった近隣の諸将を招集し、自らの去就を協議する会議を開いた 3 。西軍からの誘いもあったが、鎮信は大村喜前の進言なども容れ、最終的に東軍(徳川方)に与することを決定した 3

しかし、彼の行動は単純な東軍参加ではなかった。当時、鎮信の嫡男であり家督を継ぐ立場にあった松浦久信は、大坂に滞在しており、西軍(豊臣方)に組していたのである 3 。これは、父・鎮信が東軍に、子・久信が西軍に属することで、万が一どちらが敗れても家名を存続させようとする、戦国時代によく見られた「両属策(りょうぞくさく)」であったとする説が有力である 2 。豊臣家から長年の恩顧を受けてきた鎮信にとって、この選択は家の安泰を図るための苦渋の決断であった。

徳川家康の信頼獲得への道

東軍参加を表明したものの、家康の鎮信に対する視線は依然として厳しいものであった。彼は豊臣恩顧の大名であり、何より息子が敵方である西軍にいる。この根深い疑念を払拭するため、鎮信は常人には思いもよらない、大胆な行動に出る。

平戸城の焼却(第一次)

鎮信は、慶長4年(1599年)から築城を進めていた自らの居城、亀岡城(または日之嶽城、後の平戸城)を、建設途中であったにもかかわらず、自らの手で焼き払ってしまったのである 3 。これは、自らの軍事拠点を破壊することで、「徳川家に弓引く意思は毛頭ない」という絶対的な忠誠心を、言葉ではなく行動で示すための、計算され尽くした「パフォーマンス」であった。

この忠誠の「見える化」は、絶大な効果を発揮した。家康は鎮信のこの徹底した対応を高く評価し、戦後、その所領である壱岐・松浦郡6万3200石を安堵した 3 。これにより、鎮信は初代平戸藩主としての地位を確立し、西軍に与した嫡男・久信も咎めを受けることなく、松浦家は無事に徳川の世を乗り切ることに成功したのである 3

鎮信のこの一連の行動は、彼が単なる武勇に優れた武将ではなく、情報戦と心理操作に長けた、極めて高度な政治家であったことを物語っている。彼は、新時代の支配者である家康が何を最も恐れ(豊臣恩顧大名の反乱)、何を最も望んでいるか(絶対的な忠誠の証)を正確に見抜いていた。そして、物理的な城の価値よりも、「家康の疑念を払拭する」という政治的価値の方が遥かに高いと判断し、躊躇なく自己の資産を破壊してみせた。これは、武力や兵力だけでなく、情報と心理が戦況を左右する新たな時代の到来を、鎮信が誰よりも早く理解していたことを示している。彼は、自らの行動が家康にどう伝わり、どう解釈されるかを計算し尽くした上で、最も効果的な一手を打ったのである。

第六章:平戸貿易の黄金時代―オランダ・イギリス商館の誘致

関ヶ原の戦いを乗り越え、徳川幕府から正式に大名として認められた鎮信は、初代平戸藩主として藩政の安定に努めると同時に、彼の生涯のテーマであった海外交易のさらなる発展に心血を注いだ。この時期、彼の卓越した外交手腕によって、平戸はかつてないほどの国際的な繁栄を迎えることになる。

オランダとの接触と商館開設

好機は、関ヶ原の戦いが起きた慶長5年(1600年)に訪れた。オランダ船リーフデ号が豊後国(現在の大分県)に漂着したのである 20 。この船には、後に徳川家康の外交顧問となるイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)も乗船していた。鎮信はこの機を逃さなかった。彼は、父・隆信がポルトガルとの関係悪化で貿易利権を失った苦い経験を教訓に、新たな貿易相手としてオランダに狙いを定めた。慶長10年(1605年)、リーフデ号の生存者たちが帰国する際には、家康から海外渡航許可の朱印状を得てこれを援助するなど、オランダ側との関係構築に積極的に努めた 1

この地道な努力は、数年後に実を結ぶ。慶長14年(1609年)、オランダ東インド会社は徳川家康から正式に貿易許可の朱印状を得ると、その商館の設置場所に平戸を選んだ 20 。これにより、平戸は再び国際貿易の表舞台に華々しく返り咲いた。鎮信は、キリスト教の布教を目的としないプロテスタント国であるオランダとの交易が、幕府の政策とも合致し、かつ藩に莫大な利益をもたらすことを見抜いていたのである 39

イギリス商館の開設と二大商館の並立

鎮信の国際戦略は、オランダの誘致だけでは終わらなかった。彼は、ウィリアム・アダムスがイギリス人であることを知ると、彼を介してイギリスとの交渉も進めた。慶長18年(1613年)、イギリス東インド会社の司令官ジョン・セーリスがクローブ号で平戸に来航すると、鎮信はこれを大いに歓迎した 21 。イギリス側の記録によれば、鎮信と、当時家督を継いでいた息子の隆信(久信が改名した後の名か、あるいは隠居していた父・隆信を指すかについては諸説ある)は、自らイギリス船に乗り込み、船内で催された饗宴と音楽でもてなされ、大いに喜んだと記されている 40

この友好的な関係を背景に、イギリスも平戸に商館を開設。リチャード・コックスが初代館長に就任した 23 。これにより平戸は、オランダとイギリスという、当時世界に進出していた二大海洋国家の商館が隣り合って並び立つ、日本で唯一の場所となった 41 。平戸の港は、ヨーロッパの最新の商品を積んだ船、そして日本の銀や銅を求める船で賑わい、その繁栄は頂点を迎えた。

この成功の背景には、鎮信の巧みな「ハブ港」戦略があった。徳川家康は当初、江戸に近い浦賀を貿易拠点にしようと考えていたが、鎮信はそれを出し抜いて平戸への誘致を成功させた 39 。彼は、平戸が古くから大陸や東南アジアへの航路上の要衝に位置するという「地政学的な価値」を、オランダやイギリスに対して最大限にアピールした。同時に、幕府に対しては、自らが責任を持って海外勢力を管理・監視する役割を担うことを示し、海外勢力に対しては、幕府との複雑な交渉を円滑に進めるための「信頼できる窓口」としての役割を果たすことで、自藩を幕府と海外勢力の双方にとって不可欠な存在にしたのである。平戸を単なる寄港地ではなく、国内外を結ぶ「ハブ(結節点)」として機能させることで、その価値を飛躍的に高め、貿易利権を独占することに成功した。これは、現代の国際戦略にも通じる、極めて高度な経営手腕であった。

平戸貿易がもたらした文化と経済効果

平戸貿易は、藩に莫大な経済的利益をもたらしただけでなく、日本の文化にも多大な影響を与えた。オランダ商館を通じて、西洋の医学や天文学、兵学といった学問、そして甘藷(さつまいも)やじゃがいもといった新たな作物、さらにはガラス製品や洋酒、ペンキなどの文物や食文化が日本にもたらされた 37 。平戸は、後の鎖国時代に長崎出島がその役割を担うまで、日本における西欧文明の主要な玄関口として機能し、その遺産は現代の我々の生活にも深く根付いている。

第七章:豊臣恩顧の宿命―平戸城焼却(第二次)と幕府との緊張関係

平戸藩主として、また国際貿易の推進者として成功を収めた鎮信であったが、その晩年は、徳川幕府との緊張関係の中で、常に薄氷を踏むような日々であった。豊臣家から受けた恩顧は、徳川の世においては、常に猜疑の目で見られる「宿命」となったのである。

幕府の嫌疑と「豊臣鎮信」宛名事件

大坂の豊臣秀頼の存在は、天下人となった徳川家康にとって、依然として最大の懸念材料であった。家康は大坂の陣を前に、豊臣恩顧の大名たちの忠誠心を試すため、様々な揺さぶりをかけていたとされる 2

そのような中、松浦家を震撼させる事件が起きたと伝えられている。慶長17年(1612年)、鎮信の孫であり、家督を継いでいた松浦隆信(第3代藩主)の従五位下への叙任に際し、幕府から送られてきた公式な宛名が、本来あるべき「松浦隆信」ではなく、「豊臣鎮信」と記されていたというのである 2 。これが事実であれば、これは単なる誤記ではなく、松浦家が未だに豊臣方と見なされているという、家康からの強烈な警告であった可能性が高い。この「豊臣」の姓は、鎮信がかつて秀吉から与えられたものであった。

平戸城の焼却(第二次):究極の忠誠証明

この宛名事件に衝撃を受けた鎮信は、松浦家の存続を確実なものにするため、再び常軌を逸した行動に出る。慶長18年(1613年)、関ヶ原の後に再建し、完成したばかりの壮麗な居城・日の岳城(平戸城)を、またもや自らの手で焼き払ったのである 9

一度ならず二度までも、自らの権威と軍事力の象徴である城を破壊するという行為は、鎮信が「徳川幕府の猜疑心」を、物理的な軍事力よりも遥かに恐ろしい脅威と認識していたことを物語っている。彼は、有形の資産(城)を完全に破壊することで、無形の資産(幕府からの信頼、家の安泰)を得ようとした。これは、関ヶ原の時以上に、松浦家が徳川体制下で生き残るための、悲壮なまでの決意表明であった。この自己破壊による究極の忠誠証明によって、鎮信は家康の疑念を完全に払拭しようとしたのである。

キリシタン問題と家庭内の相克

幕府との緊張関係は、キリシタン問題においても顕在化した。幕府の禁教令が全国で強化される中、鎮信は領内のキリシタンを厳しく取り締まり、幕府への恭順の意を示した 3 。しかし、この問題は彼の家庭内に複雑な影を落としていた。

鎮信の嫡男・久信の妻であり、孫・隆信の母であるメンシア(洗礼名、日本名は松東院)は、キリシタン大名・大村純忠の娘であり、彼女自身も熱心なキリスト教徒であった 16 。鎮信は、この嫁に対して再三にわたり棄教を迫ったが、メンシアはこれを断固として拒否した 16 。興味深いことに、夫である久信は、父・鎮信の意向に反して妻の信仰に理解を示し、屋敷内に密かに礼拝堂を設けるなどして彼女を庇ったと伝えられている 16

このエピソードは、当時の平戸藩が抱えていた政治的・社会的緊張を象徴していると同時に、世代間の価値観の相克をも示唆している。戦国の荒波を自力で乗り越え、家の存続のためには非情な決断も厭わないリアリストの父・鎮信。それに対し、比較的安定した時代に育ち、政略結婚の相手であった妻に対して人間的な情愛や個人の信条を重んじようとした息子・久信。ここには、戦国から江戸へと移行する時代の大きな価値観の変化が、一つの家族のドラマとして凝縮されている。鎮信の冷徹な政治判断と、久信の人間的な葛藤は、時代の転換期を生きた父子の姿を鮮やかに描き出している。

第八章:鎮信の人物像と私生活

松浦鎮信は、激動の時代を乗り切った優れた政治家・外交官であったが、その素顔は多様な側面を持つ、魅力的な人物であった。彼の性格、文化的な素養、そして家族との関係は、彼をより深く理解するための鍵となる。

性格と評価

同時代の記録や後世の評価において、鎮信は、激しい気性で知られた父・隆信とは対照的に、冷静沈着で的確な判断力を備えた名君として描かれることが多い 7 。龍造寺氏、豊臣秀吉、徳川家康といった次々と現れる巨大な勢力に対し、時には従い、時には間合いを取りながら、巧みに立ち回るその外交手腕は、父・隆信以上であったとさえ評されている 7 。彼は、権力者の思惑を鋭く見抜き、常に自家の利益を最大化するための最善手を選択できる、稀有な洞察力の持ち主であった 6

文武両道の文化人

鎮信は、卓越した武人であると同時に、豊かな教養を身につけた文化人でもあった。永禄3年(1560年)に塚原幹勝に剣術を学んで以来、晩年に至るまで武芸の鍛錬を怠らない剣の達人であったと伝えられている 3 。その一方で、和歌を嗜むなど風流な一面も持ち合わせていた 3

特に注目されるのが、書道への深い造詣である。彼の書は、鎌倉時代の歌人・藤原定家の書風である「定家流」を能くしたものであった 29 。現存する彼の晩年の書状は、気品と力強さを兼ね備えており、定家流が武家階層に広がっていく初期の貴重な遺例として、文化史的にも高く評価されている 29

鎮信のこうした多面性は、単に多趣味であったという以上に、彼の生存戦略そのものであったと解釈できる。彼は、交渉相手や状況に応じて、海を熟知した「武将」、洗練された「文化人」、幕府に絶対の忠誠を誓う「忠臣」といった、複数の顔を戦略的に使い分けた。これらの多様なアイデンティティは、彼の価値を高め、交渉を有利に進め、危険を回避するための実践的なスキルセットだったのである。彼の「文武両道」は、単なる個人の教養ではなく、乱世を生き抜くための強力な武器であった。

信仰と家族

鎮信は、熱心な真言宗の信者であり、自らが建立した最教寺(さいきょうじ)に、その死後、葬られた 3 。同寺には現在も彼の像が安置されている。

家族関係においては、必ずしも平穏ではなかった。嫡男の久信は、藩主として将来を期待されながらも、父である鎮信に先立って早世してしまう 28 。そのため、鎮信は慶長6年(1601年)に隠居した後も、藩主となった幼い孫の隆信(宗陽)の後見人として、死の直前まで藩政の実権を握り続けた 1 。また、キリシタンであった嫁のメンシアとの関係は、前述の通り、彼の政治的立場と個人的な感情が交錯する複雑なものであった。

逸話にみる素顔

鎮信の人柄を伝える逸話は数多く残されている。晩年、60代に入ってもなお、旧知の武将に宛てた手紙の中で「唐人(明軍)ともう一戦交えたいものだ」と記し、武人としての気概を生涯失わなかったことは、彼の矜持をよく示している 29 。また、平戸イギリス商館長リチャード・コックスの日記には、鎮信が父の代に大村氏に奪われた領地を奪い返したことなどが記されており、同時代の外国人から見た彼の姿を垣間見ることができる 46 。彼の生涯は、冷静な戦略家という側面の裏に、武人としての熱い情熱と、複雑な人間関係に悩みながらも家を守り抜こうとする、一人の人間の姿を浮かび上がらせる。

結論:晩年と後世への遺産

松浦鎮信の生涯は、慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発するわずか数ヶ月前に、66歳で幕を閉じた 2 。彼の死は、あたかも一つの時代の終わりと、徳川による盤石な支配体制の始まりを象徴するかのようであった。家督を譲った後も、彼は隠居として藩政を後見し続け、平戸貿易の発展と藩体制の確立に最後まで尽力した 1

歴史的に見れば、松浦鎮信は、父・隆信が築いた海外交易という基盤を受け継ぎ、それを盤石なものへと発展させた卓越した領国経営者であった 28 。彼は、激しい気性の父とは対照的な冷静な判断力と、権力者の思惑を的確に見抜く洞察力を駆使して、松浦家の存続を確かなものにした 7 。その巧みな政治判断と外交手腕により、平戸藩の初代藩主として、その後の約250年にわたる繁栄の礎を築いた「藩祖」としての評価は、揺るぎないものである 6

松浦鎮信の生涯を総括するならば、それは、戦国乱世から徳川泰平の世へと移る時代の大きなうねりの中を、一隻の船を巧みに操って乗り切った、熟練の「航海者」のそれに例えることができるだろう。彼は、軍事力、外交交渉、経済政策、そして時には自らの城を焼き払うという自己犠牲のパフォーマンスさえも駆使して、松浦家という船を沈没の危機から守り抜き、次代へと無事に引き継いだ。その生涯は、中央の巨大権力と国際社会の荒波という二つの潮流の中で、地方の小大名がいかにして生き抜いたかを示す、類稀なる戦略の実践例として、日本の歴史に深く刻まれている。

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