最終更新日 2025-08-01

松田元隆

備前松田氏の松田元隆は、浦上氏と同盟し畿内政争へ進出。京で要職に就き日蓮宗を厚く信仰。天王寺合戦で浦上村宗と共に戦死、松田氏衰退の転換点に。
「松田元隆」の画像

戦国期備前の雄 松田元隆(元陸)—その権勢と信仰、悲劇の生涯に関する総合的考察

序章:備前西部の雄、松田元隆(元陸)—その実像を求めて

戦国時代の日本列島は、旧来の権威が失墜し、各地で新たな実力者が覇を競う動乱の時代であった。備前国(現在の岡山県南東部)もその例外ではなく、守護・赤松氏の支配が揺らぎ、その被官であった浦上氏、さらにその家臣筋の宇喜多氏が次々と台頭する、まさに下剋上の坩堝と化していた。この激動の時代、備前西部に確固たる勢力を築き、一地方領主の枠を超えて畿内の中央政争にまで深く関与した一人の武将がいた。その名は、松田元隆。

一般に、松田元隆は「赤松家臣、元勝の子、摂津天王寺合戦で戦死」といった断片的な情報で語られることが多い。また、一族が熱心な日蓮宗徒であり、いわゆる「備前法華」の基礎を築いたことも知られている 1 。しかし、これらの情報は彼の生涯の一側面に過ぎない。本報告書は、これらの既知の情報を出発点としながらも、現存する多様な史料を駆使し、彼の出自、権力基盤の確立、中央政界での栄達、そしてその悲劇的な最期に至るまで、生涯の全貌を網羅的かつ徹底的に解明することを目的とする。

本報告書を読み進めるにあたり、まず留意すべきは、彼の名に関する問題である。多くの文献で「元隆(もとたか)」として知られる一方で、近年復元された系図などでは「元陸(もとみち)」という実名であった可能性が指摘されている 2 。この名称の揺れは、戦国期の地方豪族に関する史料、特に個人の実名を正確に伝える一次史料が断片的であることの証左に他ならない。本報告書では、史料による表記の違いを念頭に置き、広く流布している「元隆」の名を主として用いながらも、必要に応じて「元陸」の名を併記し、その実像に迫っていく。

松田元隆の生涯を追うことは、単に一個人の伝記を辿ることに留まらない。それは、守護、守護代、国衆といった諸勢力が複雑に絡み合い、地方の力学が中央の政争と不可分に結びついていた戦国時代中期の社会構造を解き明かす鍵となる。備前西部に君臨し、一時は京の都で幕府の要職に就きながらも、畿内の大乱に巻き込まれ散っていった彼の生涯は、戦国という時代の栄光と悲劇を色濃く映し出しているのである。

第一章:松田氏の出自と備前における権力基盤の確立

松田元隆の権勢を理解するためには、まず彼の一族が如何にして備前の地に根を張り、戦国大名へと飛躍するに至ったのか、その歴史的背景を探る必要がある。松田氏は備前土着の豪族ではなく、その源流は遠く関東に遡る。彼らが備前で一大勢力を築き上げる過程は、祖父・元成、父・元勝の二代にわたる苦闘と躍進の物語であった。

一、相模の御家人から備前の国衆へ — 一族の源流

備前松田氏のルーツは、平安時代に平将門の乱を鎮圧したことで知られる藤原秀郷の流れを汲む、相模国足柄上郡松田郷(現在の神奈川県足柄上郡松田町)を本貫地とした波多野氏の一族に求められる 1 。波多野義通の子・義常が松田郷を領して松田氏を名乗ったのがその始まりとされる 1

鎌倉時代、この相模松田氏の庶流が、西国へと移住する。その契機となったのが、承久の乱(1221年)あるいは元弘の乱(1331-33年)であった。彼らは幕府方として参陣した功績により、恩賞として備前国御野郡伊福郷(現在の岡山市北区伊福町周辺)の地頭職を与えられ、この地に新たな根を下ろしたのである 4

この出自は、松田氏の性格を規定する上で極めて重要な意味を持つ。彼らは備前土着の勢力ではなく、鎌倉幕府という中央権力の権威を背景として備前に入った「移住者」であった。この事実は、在地勢力との間に一定の緊張関係を生む要因となった一方で、一族の中に中央政界との繋がりを維持しようとする意識を育んだと考えられる。後の元隆の代に、将軍の召し出しに応じて上洛し、畿内の政争に深く関与していく行動の伏線は、既にこの一族の出自そのものに内包されていたと言えよう。

南北朝時代には、松田盛朝が備前守護に任じられるなど 4 、一族は着実に備前国内での地位を固めていった。室町時代には富山城(岡山市北区矢坂)を拠点とし、御野郡・津高郡に勢力を伸張させ、幕府の番衆(将軍の親衛隊)を務めるなど、中央との関係も維持し続けた 6

二、祖父・松田元成の時代 — 戦国松田氏の礎

戦国時代における備前松田氏の飛躍の礎を築いたのは、元隆の祖父にあたる松田元成であった。彼は、松田氏を単なる有力国衆から、備前西部に覇を唱える戦国大名へと脱皮させた「中興の祖」と評価される 1

元成の治世における最大の画期は、文明12年(1480年)に行われた本拠地の移転である。彼はそれまでの拠点であった富山城から、より北方の金川(現在の岡山市北区御津金川)に新たに金川城(玉松城)を築き、本拠を移した 1 。この移転は、単なる居城の変更に留まらない。吉井川中流域に位置し、美作国への交通路を押さえる要衝である金川に拠点を移したことは、守勢に偏りがちであった富山城時代からの脱却と、備前平野の中心部から美作方面へと支配力を拡大しようとする、元成の強い意志の表れであった。

しかし、元成の勢力拡大は、当時の備前守護であった赤松政則とその被官で守護代として実権を握りつつあった浦上氏の強い警戒を招くことになる。赤松氏の被官という立場でありながら、その主家を脅かすほどの力をつけた元成に対し、ついに赤松政則は追討を命じる 8

文明15年(1483年)、赤松方の浦上則国(浦上則宗の一族)が松田領に侵攻し、戦いの火蓋が切られた。世に言う「福岡合戦」である。元成は西軍の総大将であった山名政豊に援軍を求め、赤松方の小鴨氏らが守る福岡城(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)を攻撃した 9 。戦いは翌文明16年(1484年)正月にまで及び、松田勢はついに福岡城を陥落させる 9

この勝利に勢いづいた元成は、備前一国の掌握を目指し、浦上則国の居城・三石城(備前市三石)へ向けて進撃を開始する。しかし、この深追いが命取りとなった。進軍の途中、吉井川東岸の天王原(現在の岡山市東区瀬戸町)で浦上勢の反撃に遭い大敗。元成は深手を負い、本拠・金川城への退却もままならず、磐梨郡弥上村の山の池(岡山市東区瀬戸町塩納)にて自害を遂げた 9

元成の死は、一見すれば松田氏の敗北である。しかし、この戦いは歴史的に見れば異なる側面を持っていた。元成は命を落としたものの、この福岡合戦を通じて、松田氏は主家・赤松氏やその代官である浦上氏と対等に渡り合うだけの軍事力と、備前西部における自立した支配権を内外に誇示したのである。結果として、赤松・浦上氏の直接的な支配力は備前西部から一時的に後退し、松田氏の独立性をかえって高める契機となった。父・元成の死という最大の危機を乗り越えた次代の元勝は、この「苦い勝利」によってもたらされた政治的遺産の上に、新たな権力基盤を築いていくことになる。

三、父・松田元勝の時代 — 権力基盤の継承と拡大

祖父・元成が戦場で斃れるという未曾有の危機的状況下で、急遽家督を継承したのが元隆の父・松田元勝(史料によっては元藤とも記される 3 )であった。総大将の戦死は一族の崩壊に繋がりかねない事態であったが、元勝はこれを巧みに取りまとめ、山名氏との連携を維持しながら赤松・浦上氏との戦いを継続した 13 。元成の死後、元勝がその亡骸を葬り、菩提を弔うために大乗寺を建立したと伝えられている 11

この時期、松田氏と浦上氏の関係は、抗争と和睦を繰り返す一進一退の状況が続いた。明応6年(1497年)、浦上氏が富山城を攻めた際には、元勝がこれを撃退 4 。一方で、文亀2年(1502年)の矢津(岡山市北区)での合戦、翌文亀3年(1503年)の牧石河原(岡山市北区)での合戦では、浦上方の宇喜多能家(後の梟雄・宇喜多直家の祖父)の活躍もあり、松田方は敗走を喫している 3

こうした軍事的な緊張関係の一方で、松田氏の威勢と文化的な求心力が高まっていたことを示す興味深い逸話も残されている。永正6年(1509年)、元勝は京の公卿であり当代一流の文化人であった三条西実隆に依頼し、居城である金川城の命名を受けている。この時、「玉松城」と「麗水」という二つの名が提案され、「玉松城」の名が採用されたという 4 。地方の武将が中央の公卿に城の命名を依頼し、それが実行されるということは、当時の松田氏が単なる武辺一辺倒の勢力ではなく、京の文化人とも交流を持つほどの財力と名声を兼ね備えていたことを物語っている。

このように、父・元勝の時代は、祖父・元成が切り開いた独立路線を継承し、浦上氏との熾烈な生存競争を繰り広げながらも、備前西部における支配者としての地位を確固たるものにした重要な時期であった。元隆は、この父が固めた権力基盤を受け継ぎ、一族をさらなる高みへと導くことになる。


表1:備前松田氏 略系図(元成から元賢まで)

世代

氏名(別名)

生没年・活動時期

主要な事績・関係性

祖父

松田 元成

? - 1484年

・金川城を築城し、戦国松田氏の礎を築く 1

・福岡合戦で浦上氏と戦うも、東天王原で敗死 9

松田 元勝 (元藤)

? - ?

・父の戦死後、家督を継ぎ一族をまとめる 13

・浦上氏との抗争を継続 3

・金川城を「玉松城」と命名される 4

当主

松田 元隆 (元陸)

? - 1531年

・浦上村宗と同盟を結び、中央政界へ進出 3

・京で所司代、妙覚寺別当職に就任 1

・大物崩れ(天王寺合戦)で浦上村宗と共に戦死 1

日兆

? - 1536年

・元隆の子と推定される 17

・京都妙覚寺の第17世住職となる

・天文法華の乱で19歳で死去 16

後継

松田 元盛

? - ?

・元隆の死後、家督を継承 1

後継

松田 元輝

? - ?

・元盛の跡を継ぐ 1

・浦上政宗や尼子氏と結び、宇喜多直家に対抗 19

後継

松田 元賢

? - 1568年

・元輝の子。宇喜多直家の娘を妻とする 1

・金川城落城の際に討死し、備前松田氏宗家は滅亡 10


第二章:松田元隆の治世と中央政界への進出

父・元勝が固めた権力基盤を継承した松田元隆は、その治世において、一族の運命を大きく左右する大胆な外交戦略を展開する。彼は、長年の宿敵であった浦上氏との関係を転換させ、その強力な同盟者として畿内の中央政争へと深く関与していく。その結果、松田氏の権勢は頂点に達し、元隆自身も京の都で幕府の要職に就くという栄誉を手にした。

一、家督相続と新たな外交戦略

元隆が家督を相続した当初、松田氏と浦上氏の関係は依然として緊張状態にあった。しかし、当時の政治情勢は大きく変動しつつあった。播磨・備前・美作の守護であった赤松氏の権威は完全に失墜し、代わって守護代の浦上村宗が事実上の支配者としてその権勢を拡大していた 3

この下剋上の潮流を的確に読み取った元隆は、旧来の敵対関係という枠組みに固執せず、現実的な戦略判断を下す。すなわち、もはや形骸化した主家・赤松氏に見切りをつけ、新興の実力者である浦上村宗と手を結ぶ道を選択したのである。この外交方針の転換は、単なる寝返りや追従ではない。自家の生き残りとさらなる勢力拡大のため、より強力な勢力と連携するという、戦国武将としての極めて合理的な決断であった。

その決定的な転換点となったのが、永正16年(1519年)の出来事である。主君・赤松義村が、増長する浦上村宗の権力を削ごうと挙兵し、村宗の本拠・三石城を攻撃した。この時、元隆は赤松軍に加わらず、逆に浦上村宗に加勢し、赤松軍の撃退に大きく貢献した 3 。この行動により、松田氏は名実ともに赤松氏の支配から離脱し、浦上氏の最も重要な同盟者として、備前における新たな政治秩序の中にその地位を確立したのである。

二、将軍に召され京へ — 権勢の頂点

浦上村宗との強固な同盟関係は、松田氏の活動範囲を備前から畿内へと飛躍的に拡大させる原動力となった。浦上村宗は、当時の中央政界で管領・細川高国を支える有力な軍事指揮官として重きをなしていた。その村宗の盟友である元隆の名声もまた、畿内にまで轟くこととなる。

その権勢を象徴する出来事が、大永二年(1522年)に起こる。元隆は、室町幕府第12代将軍・足利義晴によって、京の都へ召し出されたのである 1 。一地方の国衆に過ぎなかった松田氏の当主が、将軍から直接招きを受けるというのは異例のことであり、これは松田氏の勢力が中央政界においても無視できない存在と認識されていたことを明確に示している。

さらに、この時期の元隆は、京において「所司代(しょしだい)」を務めたと記録されている 1 。室町幕府における所司代は、侍所の長官である頭人(とうにん)が兼務する役職で、京中の警察権や司法権を司る重要な地位であった。もしこの記録が事実であるならば、元隆は一時的にせよ、幕府の中枢で治安維持の重責を担っていたことになる。

元隆がこのような要職に就くことができた背景には、彼の同盟者である浦上村宗の政治的影響力が大きく作用していたことは間違いない。細川高国・浦上村宗の陣営にとって、自派の信頼できる武将を京の要職に配置することは、政権の安定化に不可欠であった。元隆の所司代就任は、彼個人の栄誉であると同時に、当時の畿内における細川高国政権の軍事・政治的布陣の一環として理解することができる。それは、地方の軍事力が中央の政争の行方を直接左右するという、戦国時代ならではの現象を如実に示すものであった。

三、京都妙覚寺との関わり

元隆の京における活動は、政治・軍事の領域に留まらなかった。彼は、宗教の世界においても重要な役割を果たしている。史料によれば、元隆は京での滞在中、日蓮宗の有力寺院である京都妙覚寺の「別当職(べっとうしょく)」に就いていたとされる 1 。別当とは、寺院の事務一切を統括する長官であり、世俗の権力者が就任することもあった。

この事実は、次章で詳述する松田氏一族の熱心な日蓮宗信仰が、単に領国・備前における宗教政策に留まらず、宗派の中枢である京都の教団にまで強い影響力を及ぼしていたことを示している。備前における日蓮宗寺院の多くは、この京都妙覚寺の末寺であったため、その本山のトップに大檀越(有力な信者・後援者)である松田氏の当主が就任することは、教団側にとっては強力な庇護者を得るという利点があり、元隆側にとっては自らの権威を宗教的な側面からも高めるという効果があった。

元隆にとって、京での活動は、政治的地位である「所司代」と、宗教的権威である「妙覚寺別当」を両輪とするものであった。彼はこの二つの顔を使い分けることで、自らの権勢を内外に誇示し、松田氏のプレステージを最大限に高めようとしたのである。信仰は、もはや単なる個人的な内面の問題ではなく、彼の権力を正当化し、強化するための重要な政治的装置としても機能していた。この政治と宗教の密接な結びつきこそが、松田元隆の権勢を支える重要な構造だったのである。

第三章:「備前法華」の守護者として

松田元隆とその一族を語る上で、彼らの篤い信仰心を抜きにすることはできない。松田氏は、備前国において日蓮宗(法華宗)を強力に保護・奨励し、「備前は悉く法華」とまで言わしめるほどの「法華王国」を築き上げた。この特異な宗教的背景は、一族の結束を強固にする一方で、その後の運命に光と影の両方を落とすことになる。

一、松田氏と日蓮宗の篤き信仰

備前松田氏と日蓮宗の深い関わりは、南北朝時代にまで遡る。当時、中国地方で布教活動を行っていた日蓮宗の高僧・大覚大僧正(日像門流)に松田氏の当主が深く帰依したのがその始まりであった 9 。以来、一族は代々熱心な法華経の信者となり、その庇護者として領国における教線の拡大に尽力した。

特に、元隆の祖父・元成、父・元勝、そして元隆自身の三代にわたる治世は、備前法華が最も隆盛を極めた時代であった。『備前軍記』によれば、この三代は読経を常とし、極めて熱心に信仰に打ち込んでいたと伝えられる 1 。彼らはその政治的権力を行使して領内の他宗派の寺院を次々と日蓮宗に改宗させ、あるいは新たに寺院を建立し、備前西部を日蓮宗一色に染め上げていった 21

松田氏が帰依したのは、日蓮宗の中でも特に教義に厳格な「不受不施派(ふじゅふせは)」であったとされる 1 。不受不施とは、「法華経を信じない者(謗法者)からの布施は受けず、またそのような者には施しをしない」という徹底した排他的な教義である。この厳格な信仰は、門徒団の強固な結束を生み出す源泉となった。松田氏が戦国大名として滅亡した後も、彼らが築いたこの信仰の砦は「備前法華」として生き続け、後の江戸時代に幕府や岡山藩から厳しい弾圧を受ける中でも屈しない、巨大な宗教勢力の礎となったのである 10

二、妙国寺の建立と寺社統制

松田氏の宗教政策の象徴的存在が、金川城下に建立された妙國寺である。この寺は、文明12年(1480年)、祖父・元成が本拠を金川に移した際に、自身の法名「妙国」を冠して創建したものであった 1 。開山には元成の弟である日精を迎えている 17

妙國寺は、京都妙覚寺の末寺として、備前・美作両国に120余りの末寺を擁する一大本山へと発展した 17 。松田氏は、この妙國寺や、岡山の城下にあった蓮昌寺などを拠点として手厚く保護し、備前法華の中心寺院として位置づけた 22 。これにより、彼らは領国における宗教勢力を自らの統制下に置き、信仰を媒介として領民支配を強化するという、巧みな宗教政策を展開したのである。

三、信仰の光と影 — 金山寺焼き討ちの伝承

松田氏の篤い信仰は、時として苛烈な側面を覗かせた。そのことを示す逸話として、金山寺(岡山市北区)の焼き討ち伝承が残されている。

伝承によれば、文亀元年(1501年)、松田氏(元隆、あるいは父・元勝の時代)は、備前における天台宗の古刹であった金山寺に対し、日蓮宗への改宗を強要した。しかし、金山寺側がこれを拒否したため、松田氏は実力行使に出て寺院を焼き払ったという 17

この伝承の歴史的真偽を確定することは困難である。しかし、重要なのは、このような話が語り継がれること自体が、松田氏の宗教政策が他宗派に対して極めて排他的かつ強硬なものであったという、当時の人々の認識を反映している点である。事実、後世の軍記物語である『備前軍記』は、松田氏が最終的に宇喜多直家によって滅ぼされた原因の一つとして、「日蓮宗への過剰な信仰が、家臣や領民の離反を招いた」ことを挙げている 11

この指摘は、松田氏の統治が抱えていた構造的な問題を鋭く突いている。強固な信仰は、一族と家臣団の結束を強める源泉となったことは間違いない。しかし、その一方で、その排他性と不寛容さは、他宗派の信者や、信仰よりも現実的な利害を重んじる武士たちの反発を招く火種ともなり得た。強力なリーダーシップで一族を率いた元隆の時代には、こうした不満は表面化せずに抑え込まれていたかもしれない。だが、彼の死後、この潜在的なリスクが顕在化し、宇喜多直家による調略や家臣の切り崩しを容易にする土壌を提供した可能性は否定できない。信仰という強固な支柱は、諸刃の剣として、松田氏の栄光と没落の両方に深く関わっていたのである。

第四章:大物崩れ — 天王寺合戦と元隆の最期

権勢の頂点を極めた松田元隆であったが、その生涯はあまりにも突然、畿内の戦場で幕を閉じる。享禄四年(1531年)、摂津国で勃発した大規模な合戦において、彼は同盟者と共に討死を遂げた。この戦いは、彼の死、そして松田氏の運命の転換点となっただけでなく、畿内における政治勢力図を塗り替える、歴史的な一戦であった。

一、畿内の政争と参陣への道 — 細川両家の乱

元隆が命を落とした合戦の背景には、当時の畿内を二分していた「両細川の乱」と呼ばれる、室町幕府管領家・細川京兆家の内紛があった。第11代将軍・足利義澄を擁立した細川澄元と、第10代将軍・足利義稙を担いだ細川高国の間で始まったこの争いは、澄元の死後、その子・細川晴元に引き継がれ、泥沼の様相を呈していた 23

松田元隆は、彼の強力な同盟者であった浦上村宗と共に、細川高国方に与していた。浦上村宗は高国政権を軍事的に支える中心人物の一人であり、元隆はその最も信頼できるパートナーであった。享禄四年(1531年)、細川晴元が、阿波(徳島県)の三好元長(後の三好長慶の父)ら四国勢を率いて和泉国堺に上陸し、高国の本拠地である摂津国へと進軍を開始すると、高国はこれを迎え撃つべく出陣。浦上村宗と松田元隆も、播磨・備前の大軍を率いてこれに合流し、摂津国へと向かった。

二、享禄四年(1531年)六月、天王寺での激突

この合戦は、主戦場となった摂津国大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)の地名から「大物崩れ(だいもつ くずれ)」、あるいは天王寺(大阪市天王寺区)周辺でも激戦が繰り広げられたことから「天王寺合戦」とも呼ばれる 1

同年6月、細川高国・浦上村宗・松田元隆らの連合軍と、細川晴元・三好元長の連合軍は、神崎川を挟んで対峙し、ついに激突した。これは、当時の畿内の覇権を決定づける、文字通りの決戦であった。

三、赤松晴政の離反と戦局の崩壊

当初、高国方の陣営には、播磨・備前・美作の守護である赤松晴政(当時は政村と名乗っていた)も加わっていた。しかし、合戦の最中、戦況を根底から覆す事件が発生する。赤松晴政が、突如として味方を裏切り、敵である細川晴元方に寝返ったのである 3

この裏切りの背景には、積年の恨みがあった。晴政の父・赤松義村は、かつて浦上村宗によって権力を奪われ、最終的には幽閉の上で殺害されていた 3 。そして晴政自身は、村宗の傀儡として家督を継がされたという屈辱的な経緯を持つ 24 。彼にとって、同じ陣中にいる浦上村宗は、不倶戴天の父の仇であった。この大物崩れの戦いは、晴政にとって宿敵・村宗を葬り去る千載一遇の好機だったのである。

赤松軍の突然の離反と後方からの攻撃により、高国・浦上軍の戦線は一気に崩壊した。味方であるはずの軍勢に背後を突かれたことで陣形は寸断され、兵士たちは大混乱に陥った。この予期せぬ政変に、松田元隆は完全に巻き込まれる形となった。彼の運命は、戦場の駆け引きではなく、同盟者である浦上村宗が抱えていた過去の個人的な怨恨によって、決定づけられてしまったのである。戦国時代の同盟関係がいかに脆弱で、個人の因縁が一国の武将の生死をも左右するかを示す、非情な現実であった。

四、壮絶な戦死とその歴史的意味

赤松晴政の裏切りによって引き起こされた総崩れの中、浦上村宗は奮戦の末に討死。そして、彼と運命を共にした松田元隆もまた、この天王寺の地で壮絶な最期を遂げた 1

この大物崩れの結果は、畿内の政治地図を一変させた。細川高国は逃亡の末に自害に追い込まれ、高国政権は崩壊。浦上村宗と松田元隆という、播磨・備前を代表する二大勢力の当主が同時に戦死したことで、両国の勢力バランスにも大きな変動が生じた。代わって畿内の新たな覇者となったのは、勝利した細川晴元と、その勝利に大きく貢献した三好元長であった。そして、この戦いを契機として三好氏が台頭し、やがて元長の子・三好長慶が天下に号令する時代へと繋がっていく。

松田元隆の死は、単に備前の一領主の死に留まるものではなかった。それは、戦国中期の政治史における一つの大きな転換点に、彼自身がその身を投じて殉じたことを意味していた。備前から京へ、そして権勢の頂点から死地へ。彼の生涯は、まさに戦国という時代の激流そのものであった。

第五章:元隆死後の松田氏と、その遺産

松田元隆の戦死は、一族の権勢を支えていた太い柱が、根元から折れたに等しい出来事であった。この致命的な打撃から、松田氏がかつての栄光を取り戻すことは二度となかった。強力な指導者を失った一族が緩やかに衰退していく一方で、元隆が後世に残した信仰の遺産は、形を変えて生き続けることになる。

一、権勢の落日 — 宇喜多直家の台頭

松田氏にとって、当主・元隆の戦死は計り知れない損失であった 11 。家督は子の元盛、次いで元輝へと継承されたが 1 、もはや備前国内の主導権を握る力は残されていなかった。

時を同じくして、元隆のかつての同盟相手であった浦上氏の家中にも大きな変化が訪れる。大物崩れで当主・村宗が戦死した後、家督を継いだ長男の政宗と、弟の宗景との間に対立が生じ、浦上氏は二つに分裂してしまう 25 。この内紛の隙を突いて、浦上氏の家臣筋に過ぎなかった宇喜多直家が急速に台頭し、備前における新たな実力者としての地位を築き始めた 1

松田元輝は、浦上政宗や西方の尼子氏と結ぶことで、宇喜多直家の勢力拡大に対抗し、一族の存続を図ろうとした 10 。しかし、頼みとしていた尼子氏が毛利元就との戦いの中で衰退すると、松田氏は強力な後ろ盾を失ってしまう。追い詰められた松田氏は、宇喜多直家の娘を元輝の子・元賢の正室に迎えるなど、婚姻政策によって融和を図るが、もはや両者の力関係は覆すべくもなかった 10

そして永禄11年(1568年)、ついに宇喜多直家は松田氏の殲滅に乗り出す。直家は謀略を用いて松田氏の主力重臣であった宇垣兄弟を誘殺し、軍事的に無力化する 1 。そして満を持して金川城に攻め寄せ、これを陥落させた。当主・元賢は城から落ち延びる途中、伊賀氏の伏兵によって討ち取られ、ここに備前の戦国大名としての松田氏宗家は、その歴史に幕を閉じたのである 1

二、血脈の行方 — 僧となった子・日兆の悲劇

元隆の死後、松田家の悲劇は彼の直系の子孫にも及んでいた。元隆の子と目される一人の若者が、京都妙覚寺の第17世住職・日兆上人としてその名を知られている 17

日兆の生涯もまた、父・元隆と同様に、時代の動乱に翻弄された悲劇的なものであった。天文5年(1536年)、京都において、日蓮宗の勢力拡大を快く思わない比叡山延暦寺の僧兵たちが、京中の日蓮宗寺院二十一本山をことごとく焼き討ちにするという大事件が発生した。世に言う「天文法華の乱」である。この時、妙覚寺も焼き払われ、日兆は難を逃れるために和泉国堺へと避難する途上、鳥羽街道で流れ矢に当たり、19歳という若さでその命を落とした 16

京都妙覚寺に残る日兆の墓碑銘には、「松田左近将監息」「天文法華之乱に討死、十九歳」と刻まれているという 16 。父・元隆が「左近将監」を名乗っていたこと 1 、そして元隆が戦死した享禄4年(1531年)の5年後にこの事件が起きていることから、この日兆が元隆の子であったことはほぼ間違いないと考えられる。

この父子の運命は、松田一族の悲劇を象徴している。父・元隆は、武士として畿内の「政治闘争(大物崩れ)」の渦中で命を落とした。そしてその子・日兆は、僧侶として京の「宗教闘争(天文法華の乱)」の犠牲となった。松田氏が、政治(所司代)と宗教(妙覚寺別当)の両面で中央と深く関わったことは、一族に栄光をもたらした。しかしその一方で、中央の激しい動乱に直接巻き込まれるという高いリスクを常に抱え込むことでもあった。父子の非業の死は、そのリスクが最悪の形で現実化した結果であり、松田氏の興亡がいかに畿内の情勢と密接に連動していたかを物語る、悲痛な証左と言えるだろう。

三、歴史に刻まれた「備前法華」の信仰

戦国大名としての松田氏は滅亡したが、彼らが歴史に残した遺産のすべてが消え去ったわけではない。元隆をはじめとする歴代当主が心血を注いで築き上げた「備前法華」と呼ばれる強固な信仰の共同体は、領主を失った後も、備前の地に深く根を張り続けた 10

松田氏滅亡後、備前を支配した宇喜多氏、そして小早川氏も日蓮宗の信徒であったため、教団自体は存続した 17 。さらに重要なのは、領主の庇護という枠組みを超え、民衆レベルにまで浸透した熱心な信仰が、自律的なエネルギーを持ち始めたことである。

この信仰の力は、江戸時代に入り、岡山藩主・池田光政によって不受不施派に対する厳しい禁教令と弾圧(寛文法難)が行われた際に、その真価を発揮する。松田氏が築いた信仰の砦は、藩権力による弾圧にも屈しない強大な門徒団の精神的支柱となり、多くの殉教者を出しながらもその信仰を守り抜いた。備前が、近世を通じて全国でも有数の不受不施派の拠点として知られるようになる、その源流は、まさしく松田元隆とその一族が育んだ宗教的土壌にあったのである。武門の誉れは一代で潰えたが、信仰の遺産は時代を超えて受け継がれていった。

終章:松田元隆という武将の再評価

松田元隆の生涯を丹念に追うことで、我々は彼が単なる「赤松家臣」や「備前の一地方領主」という紋切り型の評価に収まらない、極めて多角的で複雑な人物であったことを知る。彼は、祖父・元成と父・元勝が築いた権力基盤を巧みに継承し、激動する時代の流れを的確に読んで、一族の権勢をその頂点にまで高めた卓越した指導者であった。

彼の人物像は、一つの側面からだけでは捉えきれない。彼は、旧主に見切りをつけ、新たな実力者と手を結ぶ冷徹な判断力を持つ「戦国武将」であった。同時に、将軍に召されて京の要職を務め、畿内の政争に深く関与した「政治家」でもあった。そして、そのすべての行動の根底には、一族の伝統である法華経への篤い信仰心を持つ「信仰者」としての顔があった。この、武将、政治家、信仰者という三つの顔が分かち難く結びついている点にこそ、松田元隆という人物の魅力と複雑さ、そして歴史的な独自性が存在する。

元隆の生涯は、地方の権力が中央の政治・軍事動向と不可分に結びついていた戦国時代中期の力学を、まさに体現するものであった。彼の栄達は、同盟者であった浦上村宗の中央での活躍なくしてはあり得ず、彼の死は、その同盟者が抱えていた過去の因縁に巻き込まれた結果であった。その劇的な生涯と死は、同盟関係の脆さ、そして一人の傑出した指導者を失うことが、一族の運命をいかに根底から覆してしまうかという、戦国時代の非情な現実を我々に突きつける。

さらに、彼とその子の悲劇的な死は、政治と宗教が密接に絡み合った時代の宿命をも物語っている。父は政治闘争の渦中で、子は宗教闘争の渦中で命を落とした。これは、松田氏が中央の権力と深く関わったことの代償であった。

本報告書を通じて、これまで断片的にしか語られてこなかった松田元隆の実像に光を当てることで、彼の歴史的価値を再評価することができる。彼は、戦国史の主役として語られることは少ないかもしれない。しかし、彼の生涯は、下剋上の時代を生き抜こうとした地方領主の野心と戦略、そして時代の大きなうねりに翻弄された悲運を、鮮やかに描き出している。松田元隆は、戦国時代という複雑なタペストリーを織りなす、重要かつ見過ごすことのできない一本の糸なのである。


付録:松田元隆(元陸) 関連年表

西暦

和暦

出来事

関連勢力・人物

典拠

1480年

文明12年

松田元成、本拠を富山城から金川城へ移し、妙國寺を創建。

松田元成

1

1484年

文明16年

福岡合戦。松田元成、浦上則国との戦いで敗死。子の元勝が家督を継ぐ。

松田元成、松田元勝、浦上則国

9

1497年

明応6年

浦上氏が富山城を攻撃。松田元勝がこれを撃退。

松田元勝、浦上氏、宇喜多能家

3

1501年

文亀元年

(伝承)松田氏、天台宗金山寺に改宗を迫り、拒否されたため焼き討ちにする。

松田氏

17

1509年

永正6年

松田元勝、三条西実隆に依頼し、金川城が「玉松城」と命名される。

松田元勝、三条西実隆

4

1519年

永正16年

赤松義村が浦上村宗を攻撃。**松田元隆(元陸)**は村宗に加勢し、赤松軍を撃退。

松田元隆 、浦上村宗、赤松義村

3

1522年

大永2年

松田元隆 、将軍・足利義晴に召され上洛。京で所司代、妙覚寺別当職に就任。

松田元隆 、足利義晴

1

1531年

享禄4年

大物崩れ(天王寺合戦) 松田元隆 、細川高国・浦上村宗方として参陣。赤松晴政の裏切りにより敗北し、浦上村宗と共に戦死。

松田元隆 、浦上村宗、細川高国、細川晴元、赤松晴政

1

1536年

天文5年

天文法華の乱 。元隆の子と推定される京都妙覚寺住職・ 日兆 が19歳で死去。

日兆

16

1551年

天文20年

浦上政宗と宗景が対立。松田元輝は浦上政宗・尼子晴久と同盟を結ぶ。

松田元輝、浦上政宗、浦上宗景、尼子晴久

19

1568年

永禄11年

宇喜多直家の攻撃により金川城が落城。当主・松田元賢は討死し、備前松田氏宗家が滅亡。

松田元賢、宇喜多直家

1

引用文献

  1. 武家家伝_備前松田氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/b_matuda.html
  2. 松田元陸 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%85%83%E9%99%B8
  3. 下克上の時代 - 岡山県ホームページ https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/622716.html
  4. 松田氏の足跡をたどる https://www.yomimonoya.com/kaidou/okayama/matuda01.html
  5. 松田家の歴史 https://matsudake1188.jp/matsudake-yuisho.pdf
  6. 松田氏 - 佐藤氏の研究 https://sato.one/branches/matsuda/
  7. 松田家の歴史 - 焼肉八起 http://yakiniku-yaoki.com/matsudake-kouhen.pdf
  8. 松田元成及び大村盛恒墓所 - 瀬戸町観光文化協会 http://e-seto.net/midokoro/matuda.html
  9. 武家家伝_備前松田氏 - harimaya.com http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/b_matuda.html
  10. 松田氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E6%B0%8F
  11. 松田氏の足跡をたどる2 https://www.yomimonoya.com/kaidou/okayama/matuda02.html
  12. 岡山県瀬戸町 松田元成墓所 - 吉備の国探訪 https://www.kibi-guide.jp/top/matuda.htm
  13. 松田元藤 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%85%83%E8%97%A4
  14. 松田元成、大村盛恒墓所 - 岡山市 https://www.city.okayama.jp/kankou/0000006524.html
  15. 岡山市北区畑鮎・金山寺・歴史 https://hataayu.sakura.ne.jp/
  16. 簡略版 - 松田家の歴史 https://matsudake1188.jp/matsudake-zenpen.pdf
  17. 備前金川妙國寺 - Biglobe http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/n_bizen_kanagawa.htm
  18. 京都妙覚寺 - Biglobe http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/n_16_myoukakuji.htm
  19. 浦上政宗 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%94%BF%E5%AE%97
  20. 松田元輝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%85%83%E8%BC%9D
  21. 池田光政の宗教政策と不受不施派 https://religion-news.net/2020/08/20/okayama766/
  22. 備前法華の系譜 - Biglobe http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/n_bizen_hokke.htm
  23. 細川氏綱の実名について―「氏綱」って何やねん論 https://monsterspace.hateblo.jp/entry/hosokawaujitsuna-name
  24. 赤松晴政 - 落穂ひろい http://ochibo.my.coocan.jp/rekishi/akamatu/harumasa.htm
  25. うらがみ - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/uragami.html
  26. 浦上宗景について - Jikihara.com http://jikihara.com/roots/urakami/munekage.html