織田家の宿老 林秀貞 ―その生涯と謎に包まれた失脚―
序章:林秀貞という人物
本報告書は、戦国時代の武将、林秀貞(はやし ひでさだ)の生涯、特に織田信秀、織田信長という二代の主君に仕えた中での役割、そしてそのキャリアの終焉を飾った謎多き追放劇を中心に、多角的な視点から検証することを目的とする。林秀貞は、通称を新五郎、あるいは佐渡守と称し、織田家において宿老としての重責を担った人物である。しかし、その長年にわたる貢献にもかかわらず、晩年は主君信長によって突如追放され、失意のうちに生涯を終えたとされる。その劇的な失脚の真相については諸説あり、未だ歴史の謎として多くの関心を集めている。
林秀貞に関する研究は、織田家の勃興期から信長の天下統一事業が本格化するまでの過程を理解する上で重要な意義を持つ。彼は織田家臣団の中でも最初期からの重臣であり、その動向は織田家の内部事情や政策決定に深く関わっていたと考えられるからである。しかしながら、彼に関する史料は断片的であり、その人物像や歴史的評価は必ずしも一様ではない。特に、信長による追放の具体的な理由については、『信長公記』などの基本史料においても明確な記述が乏しく、後世の研究者による多様な解釈を生んできた。本報告書では、限られた史料を丹念に読み解き、関連する諸情報を突き合わせることで、林秀貞という人物の実像と、彼が織田家において果たした歴史的役割、そしてその失脚の背景に迫ることを試みる。
表1:林秀貞 略年表
年代 |
出来事 |
永正10年(1513年) |
生誕と伝わる 1 。 |
天文年間初期 |
父・林通安と共に織田信秀に仕える 1 。 |
天文12年(1543年)頃 |
織田信長の傅役(筆頭家老)となる 1 。 |
天文15年(1546年) |
織田信長の元服に際し、介添え役を務める 2 。 |
弘治元年(1555年) |
信長が清洲城を占拠後、那古野城の留守居役に任ぜられる 2 。 |
弘治2年(1556年) |
織田信勝(信行)を擁立し、信長に反旗を翻す(稲生の戦い)。敗北するも赦免される 1 。 |
永禄年間~天正初期 |
織田家筆頭家老として外交・行政面で活躍。清洲同盟の立会人、足利義昭を奉じての上洛時の起請文に筆頭で署名するなど 2 。 |
天正4年(1576年) |
織田信長が家督を嫡男・信忠に譲ると、信忠付きの筆頭家老となる 2 。 |
天正7年(1579年) |
安土城の天主(天守)完成に際し、信長から村井貞勝と共に天主の見物を許される 2 。 |
天正8年(1580年)8月 |
織田信長により、佐久間信盛らと共に突如として追放される 1 。 |
天正8年(1580年)10月15日 |
死去。享年68と伝わる 1 。 |
第一章:出自と織田信秀への臣従
林秀貞の出自は、尾張国春日井郡沖村(現在の愛知県北名古屋市沖村)を本貫とする土豪であったとされている 2 。その家系は越智姓伊予河野氏の支流を称する尾張林氏と伝えられており 2 、このことは林氏が織田弾正忠家(信秀・信長の家系)の台頭以前から尾張国内に一定の勢力基盤を有していた在地領主層の一角を占めていた可能性を示唆している。
秀貞は永正10年(1513年)の生まれとされ 1 、父である林通安(八郎左衛門)と共に、尾張国で急速に勢力を拡大しつつあった織田信秀に仕えた 1 。親子二代にわたって同一の主君に仕えるという形態は、戦国時代における主従関係の構築と家臣団形成の一つの典型であり、林家が比較的早い段階から織田家に対して忠誠を誓い、家を挙げて奉公していたことを物語っている。
信秀の政権下において、秀貞は卓越した政治手腕や外交交渉能力を発揮し、また軍団の統率においても信秀の厚い信頼を得て、重臣の地位を確立した 1 。信秀の主要な居城であった勝幡城は、当時木曽川水運の拠点として栄えた津島湊に近接していた 6 。津島は伊勢湾交易圏の中核を成す港町であり、伊勢・尾張・美濃を結ぶ水上交通の要衝であったことから 6 、信秀政権における経済力と流通の掌握が極めて重要であったことが窺える。秀貞が「政治や外交に手腕を発揮」し、「軍団のまとめ役」として信秀の信頼を得た背景には、こうした経済的基盤を背景とした軍の維持・運営能力や、通商に関わる渉外能力も含まれていた可能性が考えられる。軍団を維持し効果的に運用するためには、兵糧や武具、その他の物資の調達と管理が不可欠であり、そのためには経済的な知見や管理能力が求められる。秀貞が信秀の重臣として軍の統率を任されたことは、彼がそうした能力をも有していたことの証左と言えよう。
さらに、天文2年(1533年)には、林秀貞が蹴鞠の宗家である飛鳥井雅綱の門弟となったという記録があり、その場には主君である信秀も同席していたとされる 7 。この事実は、秀貞が若年の頃から中央の文化人とも接点を持ち、武芸だけでなく教養を深める機会に恵まれていたこと、そして信秀の側近としてそうした文化的な交流の場にも侍る立場にあったことを示している。信秀の時代から既に重臣として政治・外交を担い、かつ文化的な素養も有していたことは、彼が単なる武辺一辺倒の武将ではなく、統治能力や交渉力に長けた官僚的な側面を併せ持っていたことを示唆しており、これは後の信長政権下での彼の役割を考える上で重要な素養であったと言える。
第二章:織田信長の傅役から筆頭家老へ
織田信秀は、嫡男である幼少の織田信長に那古野城を与えた際、その傅役(後見役兼教育係)として、平手政秀と共に林秀貞を任命した。中でも秀貞は筆頭家老(一番家老)の立場であり 1 、平手政秀は「ニ長(次席家老)」と位置づけられていたことから 3 、秀貞が信秀から寄せられていた期待と信頼の大きさが窺える。傅役の選任は、その人物の能力、忠誠心、家格などが総合的に判断されるものであり、秀貞が織田家中で極めて高い評価を得ていたことの証左と言えよう。
天文15年(1546年)、古渡城において執り行われた信長の元服の儀式では、秀貞が介添え役を務めた 2 。これは傅役としての当然の責務であり、信長の成人後も引き続きその後見的立場にあって、若き主君を補佐する役割を担っていたことを示している。
信秀の死(天文21年/1552年)、そして信長を諫めるために自刃したとされる平手政秀の死(天文22年/1553年)を経て、秀貞は名実ともに織田家の筆頭家老としての地位を不動のものとした 2 。信長が清洲城に本拠を移した後には、那古野城の城代を林秀貞が務めていたとの記録もあり 8 、筆頭家老としての彼の責任と権限の大きさが推察される。
信長の傅役筆頭という立場は、秀貞にとって、信長の人格形成期に最も近い位置で影響を及ぼす機会を与えられた一方で、同時に「うつけ」と評された信長の奇抜な言動に最も頭を悩ませる立場でもあった。この初期の関係性が、後に秀貞が信長の弟・信勝(信行)擁立へと傾斜していく伏線となった可能性は否定できない。傅役としての責任感からすれば、主君の将来を案じるのは当然であり、信長の型破りな言動に対する不信や憂慮が、旧来の価値観を持つ宿老である秀貞の中で次第に「信長では織田家の将来は任せられない」という判断へと繋がっていったのかもしれない。
また、同じく信長の傅役であった平手政秀の自刃は、秀貞にとって織田家内における自身の相対的な影響力を増大させる結果となった一方で、信長に対して諫言を行うことができる重要な重臣を失うことでもあった。これにより、秀貞はより直接的に信長と向き合い、その奇行や将来への不安を一人で抱え込む状況に置かれた可能性があり、これが後の対立をより深刻化させ、より過激な手段、すなわち信勝擁立へと彼を駆り立てた一因となったとも考えられる。
第三章:信長との軋轢と織田信勝擁立
織田信長の「うつけ」とも評される常軌を逸した行動に対し、傅役として、また筆頭家老として信長に仕えてきた林秀貞は、織田家の将来を深く憂慮し、次第に信長を当主として不適格と見なすようになったとされる 2 。これは、伝統的な価値観や秩序を重んじる宿老としての立場から、革新的、あるいは破天荒とも言える信長の行動様式が理解し難く、容認できなかったことの表れであろう。
弘治2年(1556年)、秀貞はついに信長の弟である織田信勝(信行)を新たな当主として擁立すべく、信勝の宿老であった柴田勝家や、自身の弟である林通具(美作守)らと共に兵を挙げた 1 。この挙兵の背景には、信長が美濃の斎藤義龍や、同族である岩倉織田氏の織田信賢までも敵に回すなど、その攻撃的な外交政策に対する危機感が秀貞の中にあったことが指摘されている 4 。これは、秀貞の行動が単に信長個人への感情的な不満に留まらず、織田家の将来を案じた上での戦略的判断(結果的には誤判断であったが)に基づいていた可能性を示唆している。
この家督争いは稲生の戦いにおいて信長方の勝利に終わり、この戦いで秀貞の弟・林通具は信長自身の手によって討ち取られるという悲劇的な結末を迎えた 2 。ただし、秀貞自身が稲生の戦いに直接参陣したか否かについては史料によって見解が異なり、『信長公記』の記述などからは、彼が戦況を静観していた可能性も読み取れる 2 。また、信勝方が信長襲撃を画策した際、秀貞は「三代報恩の主君(信秀・信長・信忠を指すか、あるいは信秀以来の恩義を指すか)に手をかけることはできない」と反対したという逸話も伝えられており 2 、信長個人への不信と、織田家そのものへの忠誠心や旧主信秀への恩義との間で揺れ動く、秀貞の複雑な内面が窺える。この内面の葛藤が、稲生の戦いにおける秀貞自身の動向がやや不鮮明であることの背景にあるのかもしれない。
稲生の戦いで敗北した後、秀貞は柴田勝家と共に信長に降伏した。信長と信勝の生母である土田御前の取りなしなどもあってか、彼らは赦免され、秀貞は宿老としての地位に留め置かれた 1 。この異例とも言える赦免は、信長が宿老である秀貞の政治的手腕や、猛将である柴田勝家の軍事的能力を依然として必要としていたこと、そして何よりも織田家中のさらなる分裂を避けるための現実的な判断であったと考えられる。
信勝擁立事件は、秀貞の経歴における最大の汚点と言えるが、それにもかかわらず赦免されたという事実は、当時の織田家における秀貞の依然とした影響力と、信長の能力を重視するプラグマティックな人材登用方針を物語っている。しかしながら、この「裏切り」の記憶は、信長の中に禍根として残り、24年後の追放の際に再びその罪状として持ち出されることになり、秀貞のキャリアに決定的な影を落とすことになる。一度は許されたかに見えた反逆行為が、長い年月を経て最終的には致命的な結果を招くという、戦国武将の処世の厳しさを示す事例と言えよう。
第四章:織田政権における政治・外交手腕
稲生の戦いにおける反逆行為にもかかわらず赦免された林秀貞は、その後も織田家の宿老、そして筆頭家老として重用され続け、特に外交や行政といった政務の面でその手腕を発揮した 1 。この事実は、当時の織田家において彼の政治的能力が他に代えがたいものであったことを強く示唆している。信長は、たとえ過去に敵対した者であっても、その能力が有用であると判断すれば登用するという、感情よりも実利を優先するリアリストとしての一面を有しており、秀貞の能力を高く評価し、活用し続けたのである。
具体的な活動としては、永禄5年(1562年)に締結された清洲同盟(織田信長と松平元康、後の徳川家康との軍事同盟)の際には、織田側の立会人として重要な役割を果たした可能性が高い。また、信長が発給した政治的な重要文書には、秀貞が常にその名を連ねており、特に永禄11年(1568年)に信長が足利義昭を奉じて上洛した際に、諸将との間で交わされた起請文においては、秀貞が筆頭で署名している 2 。これは、彼が名実ともに織田家臣団の序列の頂点に位置していたことを明確に示すものである。
さらに、公家である山科言継の日記『言継卿記』によれば、言継が信長に拝謁する際には、常に秀貞が奏者(取次役)を務めていたと記録されている 2 。これは、秀貞が信長の対外的な窓口としての機能を担い、朝廷や他の有力勢力との交渉において、不可欠な役割を果たしていたことを示している。信長が清洲城移転後に那古野城の城代を任されていたことからも 8 、彼の行政官としての高い能力が評価されていたことがわかる。
天正4年(1576年)、信長が家督を嫡男である織田信忠に譲ると、秀貞は信忠付きの筆頭家老に任じられた 2 。これは、信長が自身の後継者である信忠の政権基盤を固めるために、最も経験豊富で実績のある宿老である秀貞を側近として付けたと解釈でき、この時点においては依然として信長からの信頼が厚かったことを示唆している。しかし、この人事は別の見方も可能である。信忠付きの筆頭家老という立場は、確かに名誉な職ではあるが、信長自身が直接指揮を執る中央政権の最前線からは一歩退いたとも解釈できる。信長の天下統一事業が急速に進展し、明智光秀や羽柴秀吉といった、より軍事的才能に長け、革新的な政策にも柔軟に対応できる新しいタイプの実力主義的な武将が台頭してくる中で、秀貞のような旧来型の重臣の役割は、信長本体の最前線から、次世代への権力移譲を円滑に進めるための「お目付け役」あるいは「安定装置」へと徐々にシフトしていったのかもしれない。これは、後の追放への遠因となった可能性も考えられる。
一方で、武将としての秀貞の活躍は限定的であった。播磨神吉城攻防戦など、いくつかの合戦に出陣した記録は『信長公記』にも見られるものの 2 、その多くは軍監や軍目付、あるいは後詰といった予備部隊の指揮官としての従軍であったと推測されている 2 。桶狭間の戦い、姉川の戦い、長篠の戦い、あるいは長期にわたった石山合戦といった織田家の主要な合戦において、秀貞が前線で部隊を率いて目覚ましい戦功を挙げたという具体的な記録は乏しい。このことは、彼の主たる役割が軍事面よりも政務・後方支援にあったことを裏付けていると言えよう。
第五章:謎に包まれた突然の追放
天正8年(1580年)8月、林秀貞は、同じく織田家の重臣であった佐久間信盛・信栄親子、安藤守就、丹羽氏勝らと共に、主君織田信長によって突如として織田家から追放された 1 。この追放に際し、信長が公式に提示した理由の筆頭は、実に24年も前の弘治2年(1556年)に秀貞が信長の弟・信勝を擁立しようとした一件であった 2 。長年にわたり宿老として織田家に貢献してきた人物に対する処遇としては、あまりにも不可解な理由と言わざるを得ない。
この同時期に追放された佐久間信盛は、石山本願寺攻めにおける指揮の怠慢などを理由に、19ヶ条にもわたる折檻状を突きつけられている 5 。複数の宿老・重臣がほぼ同時期に、過去の罪状や現在の働きぶりを厳しく問われて追放されたという事実は、これが単に個々の人物に対する懲罰というだけでなく、信長による家臣団の再編成や統制強化といった、より大きな政治的意図のもとに行われた可能性を示唆している 13 。
秀貞追放の真の理由については、公式理由の不自然さから、様々な説が提唱されてきた。
第一に、公式理由である「過去の謀反」については、24年も前の事件を今更持ち出すのは不自然であり、何らかの別の理由を隠すための口実であったとする見方が有力である 2。
第二に、「老齢・能力不足説」である。当時68歳であった秀貞が老齢により、信長の期待するような働きができなくなったため、実力主義を標榜する信長が不満を抱いたというものである 2。しかし、もしこれが主たる理由であれば、強制的に隠居させるなどの穏便な処置も可能であったはずであり、家中に動揺を与えかねない追放という厳しい処分を下した理由としては説明が十分とは言えない 2。
第三に、「新たな内通疑惑(信長包囲網への加担説)」である。『信長公記』には、信長がかつて反信長勢力による包囲網によって窮地に陥った際に、秀貞が謀反を企て敵と通じた、という趣旨の記述が見られるが、この記述の信憑性については疑問視する声も多い 2。『信長公記』が記す追放理由「先年信長公御迷惑の折節 野心を含み申すの故なり」という表現 17 は、過去の何らかの不信行為を指している可能性を示唆するものの、具体的な内容は不明である。
第四に、「家臣団の世代交代・権力集中」という説である。信長の権力が絶頂に達しつつあったこの時期に、旧体制を象徴する老臣たちを排除し、明智光秀や羽柴秀吉のような、より自身に忠実で有能な新世代の家臣へと権力を集中させ、家臣団の若返りと活性化を図ろうとしたという見方である。
これらの諸説を検討する上で注目すべきは、追放の前年である天正7年(1579年)に、安土城の壮麗な天主(天守)が完成した際、信長は数多いる家臣の中で、林秀貞と村井貞勝の二人にだけ、特別に天主の見物を許しているという事実である 2 。これは、追放の直前まで信長が秀貞に対して一定の敬意や信頼を寄せていたことを示すものであり、そのわずか一年後の突然の追放という厳しい仕打ちとの間には、大きな矛盾が存在する。この厚遇から一転しての追放劇は、信長の気まぐれさや非情さを示す逸話として語られることが多いが、見方を変えれば、信長が秀貞に対して最後まで何らかの期待をかけていたものの、最終的に見限らざるを得ない何らかの事態が発生したのか、あるいは追放の決断に至るまでに信長自身の内心に大きな葛藤があった可能性も示唆している。あるいは、周囲への見せしめとして、あえて厚遇していた人物を突然切り捨てることで、家臣団に対する恐怖による支配を徹底しようとしたという、信長特有の深謀遠慮があったとも考えられる。
秀貞の追放は、単一の理由によって引き起こされたのではなく、複数の要因が複合的に絡み合った結果である可能性が高い。信長の猜疑心の強さや時に見せる非情なまでの合理性、家臣団統制の強化という政治的判断、旧世代から新世代への移行という時代の要請、そして秀貞自身の過去の行動(特に信勝擁立事件)や、信忠付き家老としての現在の能力に対する信長の厳しい評価などが、複雑に影響しあった結果、何らかの具体的なきっかけ(それは些細なことであったかもしれない)によって、長年蓄積された不信感や政権運営上の判断が一気に表面化し、過去の罪状を口実とした追放という形で現れたのではないだろうか。佐久間信盛への折檻状 16 に見られるような、信長の家臣に対する極めて高い要求水準と、それに応えられない者への非情なまでの処断は、林秀貞追放の背景にも共通して存在する論理であった可能性が考えられる。信長は、方面軍司令官や筆頭家老といった高い地位にある者に対して、その地位に見合うだけの具体的な成果(軍功や調略の成功など)を常に求めており、それが果たされないと判断した場合には、過去の功績や立場に関わらず、粛清の対象とした。秀貞もまた、信忠付き家老としての役割において、信長の期待する「働き」を示せなかった、あるいは信長の構想する新しい織田家の姿に適合しない旧弊な存在と見なされたのかもしれない。
第六章:追放後の生涯と最期
織田信長によって突如追放された林秀貞は、その後、京都に潜居したと伝えられている 2 。一説には、南部勝利、あるいは丹波守、但馬守などと改名し 2 、安芸国(現在の広島県西部)に身を移して余生を送ったともされる。追放という不名誉な処分を受けた秀貞が改名したという伝承は、彼が過去の身分や織田家との縁を断ち切り、新たな人生を歩もうとした心情の表れであったのかもしれない。あるいは、信長からの追及を逃れるための処置であった可能性も否定できない。「林秀貞」という名は、織田家の宿老としての彼のアイデンティティと不可分であり、それを捨てるという行為は、過去との決別、あるいは厳しい現実からの逃避を意味していたとも考えられる。
しかし、その潜居生活も長くは続かなかった。追放からわずか2ヶ月後の天正8年(1580年)10月15日、秀貞は死去したと伝えられている 2 。享年は68歳であった 1 。長年にわたり仕えた主君からの突然の仕打ちは、老齢の秀貞にとって計り知れない精神的打撃となり、急速にその気力と体力を奪った可能性が高い。彼の墓所は、現在も広島市内に存在するとされている 2 。追放から間もなくの死は、秀貞にとってこの処分がいかに過酷なものであったかを物語っている。長年織田家に尽くしてきたという自負があったであろう彼にとって、この追放は功績と忠誠を全否定されたに等しいものであり、その精神的ショックと生活基盤の喪失が、老齢の身体に致命的な影響を与えたとしても不思議ではない。これは、信長の非情とも言える家臣統制がもたらした悲劇の一側面と言えるだろう。
秀貞の子である林一吉(勝吉とも)は、父と共に追放され、一時蟄居を余儀なくされたが、後に旧知の間柄であった山内一豊に仕えることとなる。そして、その子孫は土佐藩(山内家)において重臣として家名を保った 2 。これは、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会において、主家が滅亡したり、あるいは主君から追放されたりした場合でも、個人の能力や縁故を頼りに別の家に仕官し、家名を再興する道が開かれていたことを示す一例である。
第七章:林秀貞の人物像と歴史的評価
林秀貞の人物像を考察するにあたり、まず挙げられるのは、彼が武将としての軍功よりも、むしろ政治家・行政官としての手腕に長けていたという点である 1 。織田信秀の時代からの宿老として、そして信長政権の初期を支えたその行政能力や外交交渉能力は高く評価されるべきであろう。
信長との関係性は、極めて複雑かつ変化に富んだものであった。幼少時の信長の傅役としての深い関わりから始まり、信勝擁立事件における深刻な対立、その後の赦免と筆頭家老としての重用、そして最終的には謎に包まれた突然の追放と、その関係は一言では言い表せない。信勝擁立の一件は、信長から見れば最も身近な側近による「裏切り」行為であり 9 、この事実は両者の間に拭い難い不信の種を蒔いたことは想像に難くない。しかし、その後も長きにわたり秀貞を重用し続けたのは、やはり信長が彼の行政官としての能力を高く評価し、織田家の運営に不可欠であると判断していたからであろう。
しかし、信長の天下統一事業が軍事的に急速に進展し、より実力主義的で革新的な人材が求められるようになると、秀貞のような旧来の価値観を持つ政務型の宿老は、次第に時代の変化に対応しきれなくなった側面も指摘できるかもしれない。
林秀貞の生涯は、戦国時代における「宿老」という存在が担った役割とその限界を象徴しているように思われる。主家の草創期から安定期にかけては、その豊富な経験と政治力によって組織を支え、発展に貢献する。しかし、主君がより強大な権力を掌握し、急進的な改革や拡大政策を推し進めるようになると、旧来の価値観や手法に固執しがちな宿老層は、次第に新しい体制の中で疎んじられ、時には権力集中の過程で排除される運命にあった。秀貞の追放もまた、こうした戦国大名家における権力構造の変化と、それに伴う宿老層の没落という、より大きな歴史的文脈の中で捉えることができるかもしれない。
林秀貞に対する評価は、彼を信長への「裏切り者」と見るか、信秀以来の恩義を重んじた「旧時代の忠臣」と見るか、あるいは有能ではあったが時代の変化に取り残された「行政官僚」と見るかで大きく分かれるであろう。しかし、これらの側面は必ずしも排他的なものではなく、彼という一人の人間の中に複雑に共存していた可能性が高い。信長という稀代の革新的な主君に対し、旧来の秩序の中で培われた忠誠心と、織田家の将来に対する危機感が複雑に絡み合い、信勝擁立という行動に至った。その後もその行政手腕を必要とされながらも、最終的には信長の非情とも言える論理によって切り捨てられた彼の生涯は、戦国という激動の過渡期を生きた武将の一つの典型と言えるのかもしれない。
近年の研究においては、信長の家臣団統制や宿老の役割に関する分析が進んでおり、林秀貞の果たした具体的な役割や、その追放の背景について、新たな解釈が提示される可能性も残されている。例えば、同時期に追放された佐久間信盛の追放理由の一つとして「過度な保身」が指摘されているが 18 、こうした評価が秀貞にも当てはまる部分があったのかどうかは、今後の研究課題と言えよう。
終章:総括
林秀貞の生涯を概観すると、織田信秀、信長という二代の英傑に仕え、織田家の勃興から発展期にかけて重臣として活躍しながらも、最後は謎の追放によってそのキャリアを終えるという、栄光と悲劇の交錯するものであった。彼の人生は、戦国時代という厳しい時代における武将の生き様、そして主君との関係の複雑さを如実に示している。
秀貞の生涯は、現代に生きる我々に対しても、いくつかの示唆を与えてくれる。組織における古参の役割と、時代の変化やリーダーシップの変遷に対応していくことの難しさ、一度失われた信頼を回復することの困難さ、そして人間関係における信頼の構築とその失墜のダイナミズムなど、現代の組織論や人間関係論にも通じる普遍的な教訓を読み取ることができる。また、歴史上の人物を評価する際には、一面的な見方ではなく、その人物が置かれた時代背景や、多角的な視点から総合的に判断することの重要性を改めて認識させられる。
林秀貞に関する史料は限られており、特にその追放の真相については未だ多くの謎が残されている。今後の新たな史料の発見や、より深化した研究アプローチによって、林秀貞という人物の多面的な実像がさらに明らかになり、彼に対する歴史的評価がより豊かなものとなることへの期待が寄せられる。