最終更新日 2025-06-15

柏山明長

「柏山明長」の画像

戦国武将・柏山明長の生涯と時代背景 ―葛西家中の実力者、その内訌と末路―

序章:奥州の荒武者、柏山明長

本報告書は、戦国時代末期の陸奥国にその名を刻んだ武将、柏山明長(かしやま あきなが)に焦点を当てるものです。彼の名は、全国的な知名度を持つ武将たちに比べれば、歴史の表舞台に現れることは稀です。しかし、彼の生涯を丹念に追うことは、中央政権の動向から遠く離れた奥州の地で、在地領主たちが如何に生き、如何に時代の奔流に飲み込まれていったかを理解する上で、極めて重要な意味を持ちます。

柏山明長に関する直接的な一次史料は、残念ながら極めて乏しいのが現状です。彼の生涯は、断片的な記録や後世の編纂物、そして郷土史の中に、おぼろげな姿として浮かび上がるに過ぎません。それゆえ、本報告書では、明長個人を単独で論じるのではなく、彼が属した一族、すなわち葛西氏の重臣として絶大な権勢を誇った柏山氏の動向、そして父・柏山明吉、兄弟である明国、明宗、明久、さらには家老の三田将監といった周辺人物との関係性を多角的に分析するアプローチを採用します。これらの断片的な情報を繋ぎ合わせ、時代の文脈の中に彼を位置づけることで、その実像に可能な限り迫ることを目的とします。

報告書の構成は三部に分かれています。第一部では、明長が活躍した舞台である葛西氏の統治構造と、その中で柏山氏が如何にして「葛西随一」と称されるまでの勢力を築き上げたのかを概観します。第二部では、本報告書の中核をなす柏山家の内訌、すなわち家督と路線を巡る骨肉の争いと、その中で明長が果たした決定的かつ暴力的な役割、特に家老・三田将監殺害事件の真相に迫ります。第三部では、豊臣秀吉による奥州仕置によって主家・葛西氏が滅亡し、その後の葛西大崎一揆の中で柏山一族が辿った悲劇的な流転を追います。

この分析を通じて、柏山明長という一人の「荒武者」の生涯が、単なる地方の小競り合いに留まらず、戦国末期の奥州における権力構造の複雑性と脆弱性、そして時代の転換期における武士の多様な生き様と末路を象徴する、普遍的な物語であることを明らかにします。

第一部:柏山氏の台頭と葛西家中の力学

第一章:戦国大名・葛西氏の統治構造

柏山明長の生涯を理解するためには、まず彼が仕えた主家、葛西氏の特異な統治構造を把握する必要がある。葛西氏は、奥州の地に長きにわたり君臨した名門でありながら、その支配体制は戦国時代の他の大名とは一線を画すものであった。

葛西氏の祖は桓武平氏の流れを汲み、鎌倉時代初期の文治5年(1189年)、源頼朝による奥州征伐の軍功により、陸奥国に広大な所領を与えられたことに始まります 1 。戦国時代に至るまで、現在の宮城県北部から岩手県南部にまたがる磐井、江刺、気仙、本吉、牡鹿、登米、桃生の各郡、いわゆる「葛西七郡」を支配し、その石高は三十万石と称されるほどの勢力を誇りました 1 。本拠地を寺池城(現在の宮城県登米市)に置き、隣接する伊達氏、大崎氏、そして北方の南部氏といった有力大名と、時に連携し、時に抗争を繰り広げる、奥州の重要なプレイヤーの一人でした 1

しかし、その広大な領国における統治の実態は、中央集権的なものではありませんでした。葛西氏の支配は、柏山氏、江刺氏、熊谷氏、及川氏といった有力な一族(家臣団)との連合体としての性格が極めて強かったのです 1 。これらの家臣団は、単なる被官ではなく、それぞれが自らの所領と家臣を持つ独立した領主(国人)としての側面を色濃く有していました 8 。特に、胆沢郡を領した柏山氏や江刺郡を領した江刺氏は、時代が下るにつれて在地領主化を進め、ついには「主家である葛西氏以上の勢力を持つように」なったと記録されています 6

この統治構造は、葛西氏がその成立過程で、一族や有力国人たちとの盟約、すなわち「一揆(心を一つにすること)」を通じて勢力を拡大してきた歴史的経緯に根差しています 4 。主君への絶対的な忠誠よりも、各一族の利害と自立性が尊重される緩やかな主従関係は、平時においては領国の安定に寄与したかもしれませんが、外部からの強い圧力や内部の亀裂に対しては、極めて脆弱な構造でした。一つの有力な家臣団が揺らげば、その影響はドミノ倒しのように葛西氏全体の統制を揺るがす危険性を常に内包していたのです。この構造的欠陥こそが、後に柏山家の内訌が葛西氏全体の命運を左右する悲劇へと繋がる、重要な伏線となります。

第二章:葛西随一の勢力、柏山氏

葛西氏の家臣団の中でも、ひときわ強大な力を有し、主家の運命に深く関わったのが、柏山明長の属する柏山一族であった。彼らは単なる家臣の域を超え、事実上の独立勢力として、葛西領北部に君臨していた。

柏山氏の出自については、葛西氏の庶流とする説や、奥州千葉一族の流れを汲むとする説などがあり、判然としません 9 。いずれにせよ、彼らは陸奥国胆沢郡(現在の岩手県奥州市周辺)を本拠とし、代々この地を支配してきました 6 。胆沢郡は奥州でも有数の穀倉地帯であり、この豊かな土地が柏山氏の強大な経済力と軍事力の基盤となっていたことは想像に難くありません 12 。その本城は、胆沢川と永沢川に挟まれた要害の地、大林城(別名:百岡城)でした 10

柏山氏の権勢を決定的なものとしたのが、明長の父である柏山伊勢守明吉(あきよし、明好とも記される)の時代です。明吉は「葛西氏随一の実力者」と評されるほどの傑物でした 14 。彼の力を象徴する出来事が、伊達氏の内部抗争である天文の乱(1542年~1548年)における動向です。この時、主家である葛西氏は伊達稙宗方に与しましたが、明吉は独断で息子の晴宗方に味方し、勝利に貢献しました 8 。これは、単なる家臣であれば到底許されない越権行為であり、柏山氏が自らの利害に基づき、主家とは異なる外交路線を選択できるだけの独立性を持っていたことを如実に物語っています。さらに永禄8年(1565年)には、近隣の内西根城主・新渡戸頼長を攻め滅ぼすなど、その軍事力は周辺に広く知られていました 14

このように、柏山氏は葛西氏の家臣という立場にありながら、その実態は、葛西氏と「従属同盟」に近い関係を結んだ、独立国人領主と見なすのが妥当でしょう 8 。主家を凌駕しかねないほどの力を持つ家臣の存在は、葛西氏にとって北方の守りを固める上で頼もしい存在であったと同時に、常に潜在的な脅威でもありました。明吉という強力な当主のリーダーシップによって保たれていたこの微妙なパワーバランスは、彼の死後、息子たちの代で大きく崩れ、一族を破滅へと導く内乱の引き金となるのです。

第二部:柏山家の内訌と明長の動静

父・明吉が築き上げた強大な権勢は、皮肉にもその息子たちの代で、一族を二分する深刻な内乱の火種となった。家督相続と、北方に勢力を伸張する南部氏への対応という二つの問題が複雑に絡み合い、柏山家は骨肉の争いへと突き進んでいく。この混乱の渦中で、柏山明長は「荒武者」として、その歴史的役割を果たすことになる。

第三章:内乱の勃発 ― 家督と路線を巡る対立

柏山家の内紛は、元亀年間(1570年~1573年)には既に始まっていたとされ、その根は深いものでした 15 。直接的な原因は、当主・明吉の後継者の座を巡る、長男・明国と次男・明宗の対立です 14 。しかし、この家督争いは単なる兄弟間の感情的な対立に留まらず、当時の奥州北部の政治情勢を反映した、深刻な路線対立の様相を呈していました 15

当時、葛西領の北方では、三戸を本拠とする南部氏が急速に勢力を南下させていました 18 。この新たな脅威に対し、柏山家は如何に対応すべきか、家中は二つの意見に割れたのです。

  • 長男・明国(親葛西派) : 従来通り、主家である葛西氏との連携を重視し、一丸となって南部氏の南進を食い止めるべきだと主張しました。これは、既存の秩序を維持しようとする保守的な路線と言えます 15
  • 次男・明宗(親南部派) : 衰退の兆しが見える主家・葛西氏に固執するのではなく、むしろ勢いのある南部氏に接近することで、柏山家そのものの安泰と勢力拡大を図るべきだと主張しました。これは、旧来の主従関係に囚われない、下剋上も辞さない現実的な路線でした 15

この対立は、天正9年(1581年)に父・明吉が没すると、ついに武力衝突へと発展します 16 。明国は、娘婿である下黒沢城主・黒沢豊前信明の支援を取り付け、正式に家督を継いだとされる弟・明宗に戦いを挑みました 16 。主君である葛西晴信は、この深刻な事態を憂慮し、家臣の三田氏や大内氏に和解の斡旋を命じたり、水沢城主・佐々木将監実綱を派遣して武力介入を図ったりしましたが、一度燃え上がった争いの火を消すことはできませんでした 15

内乱の具体的な経緯は不明な点が多いものの、最終的には「性質が乱暴であった」とされる長男・明国が追放され、次男・明宗が家督を完全に掌握したと伝えられています 13 。この内訌における各兄弟の立場を整理すると、以下のようになります。

【表1:柏山明吉の子と柏山家内訌における立場】

続柄

氏名

通称・別名

居城

内訌における立場・動向

柏山明吉

伊勢守

大林城

葛西氏随一の実力者。彼の死が内訌激化の引き金となる。

長男

柏山明国

伊勢守

(大林城)

親葛西派。家督を巡り明宗と対立。粗暴な性格で、後に追放される。

次男

柏山明宗

中務少輔

(大林城)

親南部派。家督を継承。内訌の勝利者。柏山明助の父。

三男

柏山明長

小山九郎

小山城(九郎館)

明宗派。弟・明久と共に「荒武者」と評される。三田将監殺害の実行者か。

四男

柏山明久

折居宮内

折居館

明宗派。兄・明長と共に「荒武者」と評される。後に葛西大崎一揆で活躍。

出典: 9 およびユーザー提供情報に基づく

第四章:小山城主・柏山明長

この柏山家の内訌において、武力の中核として兄・明宗を支え、その勝利を決定づけたのが、三男である柏山明長でした。

明長は柏山明吉の三男として生まれ、通称を九郎と称しました 9 。彼は本家から分家して小山(おやま)氏を名乗ったとされ、「小山九郎」の名で知られています 9 。その居城は、本拠地である大林城の南東、現在の岩手県奥州市前沢区古城に位置した小山城でした 23 。この城は、彼の通称にちなんで「九郎館(くろうだて)」とも呼ばれ、胆沢段丘の東端に位置する天然の要害でした 23

明長個人を特徴づける評価として、四男である弟・折居明久とともに「領内屈指の荒武者」と称されていたことが挙げられます(ユーザー提供情報)。この評価は、彼が単なる城主ではなく、卓越した武勇を持つ武将であったことを示しています。内訌という非常時において、この「荒武者」としての資質は、兄・明宗にとって何よりも頼もしいものであったでしょう。

戦国時代の兄弟関係においては、長男や家督者が一族の「顔」として政治や外交を担い、次男以下の弟たちが武力や実務を担うという役割分担がしばしば見られます。柏山家においても、穏健派、あるいは政治家タイプの兄・明宗が「親南部」という新たな路線を掲げ、その実現のために障害となる勢力を排除する「実行部隊」の役割を、武闘派の弟である明長と明久が担っていたと考えることができます。明宗が描いた戦略を、明長がその武力をもって戦術レベルで実行に移す。この兄弟間の巧みな連携こそが、内訌を勝利に導いた原動力であったと推察されます。明長の「荒武者」という評価は、まさにこの役割を冷徹に、そして効果的に遂行した結果、得られたものに違いありません。

第五章:家老・三田将監の殺害

天正9年(1581年)、柏山家の内訌は、一つの血腥い事件によって決定的な局面を迎えます。それは、柏山家の家老であった三田将監(みた しょうげん)の殺害であり、その実行者こそが、柏山明長であったと伝えられています。

三田氏は、応永年間(1400年頃)に主家である葛西氏から胆沢郡に所領を与えられ、柏山氏の譜代家老となった名門です 26 。前沢城を居城とし 27 、四百年にもわたって柏山家に仕え、家中で重きをなす存在でした 28

この重臣が、なぜ殺害されなければならなかったのか。その背景には、柏山家の内訌に対する主家・葛西氏の介入がありました。葛西晴信は、家中の混乱を収拾するため、三田氏や大内氏に和解の斡旋を命じていました 16 。つまり、三田将監は、柏山家の家老であると同時に、葛西氏の権威を背景に内紛を調停しようとする「主家の代理人」という立場にあったのです。

しかし、この三田将監の動きは、「親南部」路線を推し進める明宗・明長兄弟にとって、看過できない障害でした。彼らの路線は、葛西氏の意向に真っ向から反するものであり、その実現のためには、葛西氏の介入を断固として排除する必要があったからです。この文脈において、三田将監の殺害は、単なる私憤による凶行ではなく、柏山家内の主導権を完全に掌握し、親葛西派の勢力を一掃するための、極めて計画的な政治的クーデターであったと解釈できます。

ユーザー提供情報によれば、この暗殺を実行したのが柏山明長です。兄・明宗の意を受け、その「荒武者」としての役割を最も象徴的な形で果たしたのが、この事件でした。この暴挙は、柏山家が主家・葛西氏の統制から事実上離脱し、独自の道を歩むことを内外に宣言した、決定的な瞬間であったと言えます。一介の家臣団が、主家の意を受けた家老を殺害するという行為は、まさに「下剋上」そのものでした。この事件によって葛西晴信は柏山家に対する影響力を著しく削がれ、領内統制能力の低下を露呈することになります。そしてそれは、約10年後に訪れる葛西氏滅亡の、紛れもない序曲となったのです。

第三部:葛西氏の滅亡と柏山一族の流転

三田将監の殺害によって、柏山家は一時的にその独立性を高めたかのように見えた。しかし、この主家を軽んじる行為は、結果として葛西氏全体の弱体化を招き、自らの首を絞めることになった。天下統一を推し進める豊臣秀吉の巨大な権力の前に、奥州の在地領主たちは、否応なく選択を迫られることになる。

第六章:奥州仕置と葛西・柏山氏の改易

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の北条氏を討伐すべく、全国の大名に小田原への参陣を命じました。これは、各大名が豊臣政権に服属するか否かを問う、事実上の踏み絵でした。しかし、葛西氏当主・葛西晴信は、この命令に応じることができませんでした 1

その最大の理由は、領内の統制が完全に失われていたことにあります。長年にわたる柏山家の内訌をはじめ、各地で家臣団の離反や抗争が頻発し、晴信は領国を完全に掌握できていなかったのです 6 。大軍を率いて関東まで遠征する余力は、もはや葛西氏には残されていませんでした。

秀吉はこの小田原不参陣を、豊臣政権への反逆と見なしました。結果、葛西氏は奥州仕置によって、鎌倉時代から400年以上にわたって支配してきた広大な所領をすべて没収され、大名としての家はここに滅亡します 1

主家の改易は、当然ながらその家臣団の運命をも左右しました。葛西氏随一の実力者であった柏山氏もまた、例外なく胆沢郡の所領を失いました 6 。一部の伝承では、当主(明吉、あるいはその後継者である明宗)がこの仕置に反抗して挙兵したものの、豊臣軍の浅野長政らによって鎮圧され、没落したとされています 10 。柏山明長もまた、この時に父祖伝来の地である小山城を失ったのです。

第七章:葛西大崎一揆と兄弟の選択

奥州仕置によって葛西・大崎氏の旧領は、秀吉の家臣である木村吉清・清久父子に与えられました。しかし、新領主による性急な検地や過酷な支配は、旧領主を慕う武士や領民の強い反発を招きます。天正18年(1590年)10月、ついに彼らの不満は爆発し、奥州の歴史を揺るがす大規模な反乱「葛西大崎一揆」が勃発しました 1

この一揆において、柏山一族は再び歴史の表舞台に登場します。特に、柏山明長の弟であり、彼と共に「荒武者」と評された折居明久は、一揆軍の指導者の一人としてその名を連ねています 11 。彼は、木村氏の家臣が守る水沢城を攻撃するなど、一揆の中核として最後まで抵抗を続けました 13

一方で、兄である柏山明長の具体的な動向を記した史料は、現在の調査範囲では確認できません。しかし、内訌において運命を共にした弟・明久が一揆の指導者であったこと、そして明長自身の「荒武者」という評価を鑑みれば、彼もまた一揆に深く関与していたと考えるのが自然でしょう。弟とは別の部隊を率いて戦っていたのか、あるいは参謀として弟を支えていたのか。その詳細は不明ですが、彼が旧領回復を目指す戦いに身を投じていた可能性は極めて高いと推測されます。

この葛西氏滅亡という激動期において、柏山兄弟が選んだ道は三者三様でした。それは、戦国の敗者が取りうる典型的な三つの末路を象徴しているかのようです。

第一の道は、新たな秩序への「順応」です。内訌の勝者であった次男・明宗の子、柏山明助はいち早く南方へ赴き、新たな領主となった南部氏に仕官しました。

第二の道は、旧秩序への「殉死(抵抗)」です。四男・折居明久は、失われた旧領を回復すべく一揆に身を投じ、最後まで武士としての意地を貫こうとしました。

そして第三の道が、「歴史からの消失」です。内訌の敗者であった長兄・明国、そして一揆に加担したであろう三男・明長は、この動乱を最後に確かな消息が途絶えます。彼らが戦場で命を落としたのか、あるいはどこかへ落ち延びて牢人となったのか、歴史の記録は沈黙しています。柏山明長という、一時は一族の運命を左右するほどの役割を果たした武将が、その最期を記録されることなく歴史の狭間に消えていったという事実は、戦国という時代の過酷さと、無数の「敗者」たちの存在を我々に突きつけているのです。

第八章:その後の柏山一族

葛西大崎一揆が伊達政宗や蒲生氏郷らによって鎮圧され、奥州に新たな秩序が確立された後、柏山一族はそれぞれ異なる運命を辿りました。

内訌の勝者であった柏山明宗の子・明助は、一族の中で唯一、武士として生き残ることに成功します。彼は父の路線通り、南部氏に仕官しました 35 。慶長5年(1600年)、旧和賀領で発生した岩崎一揆(和賀氏の残党による反乱)の鎮圧において目覚ましい軍功を挙げ、その功績により1000石の知行と花巻の岩崎城代という要職を与えられ、南部家の重臣として重用されました 35 。しかし、その卓越した実力は、かえって主君・南部利直の警戒を招いたとも言われています。一説には、利直による毒殺であったとも伝えられており、寛永元年(1624年)に47歳でその生涯を閉じました 35 。その後、明助の家系は跡を継ぐ男子が相次いで早世したため、ついに断絶してしまいます 11

一方で、明吉の他の息子たちの末路は、より悲劇的でした。

内訌に敗れて追放された長兄・明国は、その後の消息が一切不明です 13。

三男・柏山明長は、前述の通り、葛西大崎一揆以降の動向が全く分かっていません。

四男・折居明久も、一揆の指導者として活動した記録を最後に、歴史から姿を消します。一揆の敗北と共に、戦場で討ち死にした可能性が最も高いと考えられます。

彼ら、明国、明長、明久の墓所や供養塔に関する確かな記録や伝承は、現在のところ見出すことはできません 39。奥州の地に強大な勢力を誇った柏山一族の直系は、時代の荒波の中で、こうして完全に歴史の舞台から姿を消したのです。

結論:歴史の狭間に消えた武将・柏山明長

柏山明長の生涯は、戦国末期の奥州に生きた一人の武将の、栄光と悲劇を凝縮したものでした。葛西氏随一と謳われた柏山氏の三男として生を受け、彼は一族の内訌という激動の中で、兄・明宗の覇権を武力で支える「荒武者」として、その歴史的役割を十二分に果たしました。特に、譜代の家老である三田将監を殺害するという凶行は、柏山家が主家の統制から離脱し、自らの道を歩むことを内外に知らしめた、彼の生涯における最大のハイライトであったと言えるでしょう。

しかし、この一族の自立を目指した行動は、皮肉にも主家・葛西氏の弱体化を加速させ、結果として豊臣政権による改易という形で、自らの首を絞めることになりました。主家と共に所領を失った明長は、旧領回復を期した葛西大崎一揆にその身を投じたと推測されますが、その後の足跡は歴史の闇に閉ざされ、確かな記録を残すことなく、歴史の舞台から静かに姿を消しました。

彼の生涯は、戦国末期における奥州の在地領主が置かれた、複雑で困難な立場を鮮やかに映し出しています。すなわち、主家に従属しつつも強い独立性を志向し、伊達氏や南部氏といった周辺大国の動向に絶えず翻弄され、そして一族内部の路線対立が、家そのもの、ひいては主家の運命さえも左右してしまうという、この時代の権力構造の複雑さと脆弱性を、彼の人生は体現しているのです。

柏山明長という人物そのものに関する新たな一次史料の発見は、今後も困難を極めるかもしれません。しかし、彼が関わった三田氏や黒沢氏といった周辺一族の古文書、あるいは彼の一族が後に仕えた南部藩の史料の中に、その消息を伝える断片的な情報が眠っている可能性は残されています。また、彼の居城であった小山城(九郎館)跡や、柏山氏の本拠地であった大林城跡の考古学的な調査が進展すれば、彼らが生きた時代の息吹を伝える新たな知見が得られることも期待されます。歴史の狭間に消えた「荒武者」の探求は、まだ終わってはいないのです。

付録

【表2:柏山氏関連年表】

西暦

元号

主な出来事

関連人物

典拠

1542-48

天文11-17

伊達氏で天文の乱が勃発。柏山明吉は主家と異なり伊達晴宗方に与する。

柏山明吉

14

1565

永禄8

柏山明吉、内西根城主・新渡戸頼長を攻め滅ぼす。

柏山明吉

14

1570頃

元亀年間

柏山家で、明吉の後継者を巡る内訌が始まる。

柏山明国, 柏山明宗

15

1581

天正9

父・柏山明吉が死去。内訌が激化し、武力衝突に発展。柏山明長、家老・三田将監を殺害する。

柏山明吉, 柏山明国, 柏山明宗, 柏山明長

16 , ユーザー提供情報

1588

天正16

大崎合戦。葛西晴信、領内の江刺氏らに参陣を求めるなど、奥州の情勢が緊迫する。

葛西晴信

45

1590

天正18

豊臣秀吉、小田原征伐を敢行。葛西氏は参陣せず、奥州仕置により改易。柏山氏も所領を没収される。

葛西晴信, 柏山一族

1

1590-91

天正18-19

葛西・大崎旧領で大規模な一揆(葛西大崎一揆)が勃発。折居明久が一揆の指導者の一人として活動する。

折居明久

11

1600

慶長5

柏山明宗の子・明助、南部氏に仕え、岩崎一揆の鎮圧で戦功を挙げる。

柏山明助

35

1624

寛永元

柏山明助、死去。後に彼の家系(柏山氏本流)は断絶する。

柏山明助

35

引用文献

  1. 葛西氏(かさいうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E6%B0%8F-44054
  2. 葛西氏 http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/meizoku/kasai.htm
  3. 葛西氏と地頭政治 - 須川土地改良区 http://www.sukawa.jp/rekisi_07.html
  4. 会期は11月3日(火・祝)まで。第22回企画展「葛西氏の興亡」(一関市博物館様) | 戦国魂ブログ https://sengokudama.jugem.jp/?eid=4179
  5. 郷土歴史倶楽部(大崎領郡内動向 - FC2 https://tm10074078.web.fc2.com/oosakilocalkuri100.html
  6. 中世(平安時代末期~安土桃山時代)/奥州市公式ホームページ https://www.city.oshu.iwate.jp/web_museum/rekishi/1/4429.html
  7. 葛西氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E6%B0%8F
  8. 第85話 南下作戦 - 【書籍化】三日月が新たくなるまで俺の土地 ... https://kakuyomu.jp/works/16817330664988695877/episodes/16817330667075385729
  9. 奥州千葉一族。「かしやま」と読む。葛西氏の重臣で千葉清胤(佐渡前司)が陸奥国江刺・輪賀・胆沢を領し、柏山氏を称したという。 - 千葉氏の一族 https://chibasi.net/oshu3.htm
  10. 陸奥 大林城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/ohbayashi-jyo/
  11. 柏山氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%B1%B1%E6%B0%8F
  12. 奥州中世史について - FC2 https://tm10074078.web.fc2.com/ousyu100.html
  13. 大林城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/iwate/oobayashi/oobayashi.html
  14. 柏山明吉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%B1%B1%E6%98%8E%E5%90%89
  15. 郷土歴史倶楽部(葛西領郡内動向 - FC2 https://tm10074078.web.fc2.com/kasailocalisawa.html
  16. 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史) - FC2 https://tm10074078.web.fc2.com/kasai7500.html
  17. 郷土歴史倶楽部(葛西領郡内動向 - FC2 https://tm10074078.web.fc2.com/kasailocaliwai.html
  18. 解 説 書 - 奥州市 https://www.city.oshu.iwate.jp/material/files/group/79/26831.pdf
  19. 센고쿠 다이묘戦国大名에 속한 무장집안 - 카시야마柏山씨. : 네이버 블로그 https://blog.naver.com/xtaiji83/220532589001?viewType=pc
  20. 八反町遺跡・中畑城跡発掘調査報告書 - concat https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/22/22031/16264_1_%E5%85%AB%E5%8F%8D%E7%94%BA%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%83%BB%E4%B8%AD%E7%95%91%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
  21. 葛西氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E6%B0%8F
  22. 戦国大名事典 http://kitabatake.world.coocan.jp/sengoku1.html
  23. 岩谷堂城 (柄杓城) 江刺市岩谷堂字館下 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/34/34368/63039_4_%E5%B2%A9%E6%89%8B%E7%9C%8C%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E8%B7%A1%E5%88%86%E5%B8%83%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
  24. 八反町遺跡・中畑城跡発掘調査報告書 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/22/22031/16264_1_%E5%85%AB%E5%8F%8D%E7%94%BA%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%83%BB%E4%B8%AD%E7%95%91%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
  25. 陸奥 九郎館-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/kuro-date/
  26. 前沢城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/iwate/maesawa/maesawa.html
  27. みょう ご さわ いせき ぐん - 明後沢遺跡群第16次発掘調査報告書 - concat https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/17/17071/12890_1_%E6%98%8E%E5%BE%8C%E6%B2%A2%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4%E7%AC%AC16%E6%AC%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
  28. 【書籍化】三日月が新たくなるまで俺の土地!~マイナー武将「新田政盛」に転生したので野望MAXで生きていきます~ - 柏山と三田 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n9638gx/113/
  29. 第113話 柏山家 - 【書籍化】三日月が新たくなるまで俺の土地!~マイナー武将「新田政盛」に転生したので野望MAXで生きていきます~(篠崎 冬馬) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330664988695877/episodes/16817330667494755123
  30. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  31. 奥州市の歴史:全ての歴史を紐解く https://www.city.oshu.iwate.jp/web_museum/rekishi/3980.html
  32. 岩手の室町時代から戦国時代の勢力図!大崎氏と斯波氏の時代を経て南部氏と伊達氏が台頭する! (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/16771/?pg=2
  33. 葛西大崎一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86
  34. 郷土歴史倶楽部(中世大崎領内歴史年表) - FC2 https://tm10074078.web.fc2.com/oosaki3500.html
  35. 柏山明助とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9F%8F%E5%B1%B1%E6%98%8E%E5%8A%A9
  36. 柏山明助 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%B1%B1%E6%98%8E%E5%8A%A9
  37. 花巻市博物館研究紀要 第15号 (PDF 5.9MB) https://www.city.hanamaki.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/020/kiyou15.pdf
  38. 近世こもんじょ館 きろく解読館 https://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/kirokukan/kirokukan_view.cgi?mode=details&code_no=57242&class_id=18
  39. 138 - 地方史情報 http://www.iwata-shoin.co.jp/local/local-info_138.pdf
  40. 武士神格化一覧・稿 : 下・西日本編 - kyushu - 九州大学 https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1551331/48_pa001.pdf
  41. スマトラ沖地震・津波 復興史Ⅱ - 京都大学地域研究統合情報センター https://www.cias.kyoto-u.ac.jp/files/pdf/publish/ciasdp55.pdf
  42. 第21号 - 中尊寺 https://www.chusonji.or.jp/download/pdf/kanzan_no21.pdf
  43. 市川市文学ミュージアム 永井荷風資料目録 https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/cul09/file/0000377184.pdf
  44. 123 - 地方史情報 http://www.iwata-shoin.co.jp/local/local-info_123.pdf
  45. 解説之書 https://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/wp/wp-content/uploads/2021/11/saikachi_manual20220221.pdf