最終更新日 2025-07-18

柳沢元政

柳沢元政は公家出身の武将。足利将軍家、毛利家、豊臣家と主君を変え、石見銀山奉行などを歴任。関ヶ原後は毛利家に帰参し、長州藩士として隠居。俊龍寺を再興し、旧主の供養塔を建立した。

柳沢元政 ― 室町幕府の終焉と近世大名権力の間を生きた武将の実像

序論:忘れられた幕臣、柳沢元政

日本の戦国時代は、数多の英雄や梟雄が覇を競った時代として知られるが、その激動の歴史の陰には、時代の転換点を巧みに生き抜いた、注目すべき人物が存在する。本報告書が対象とする柳沢元政(やなぎさわ もとまさ)は、まさにそのような人物の一人である。彼の生涯は、足利将軍家、毛利家、そして豊臣家という、室町時代末期から近世初頭にかけて日本の歴史を動かした三大権力に仕えるという、極めて稀有な経歴に彩られている 1 。その軌跡は、室町幕府という旧来の権威が失墜し、新たな統一権力が形成されるという、日本の歴史における一大転換期そのものを体現していると言っても過言ではない。

しかしながら、柳沢元政という名は、歴史研究において必ずしも広く知られているわけではない。その一因として、徳川綱吉の側用人として絶大な権勢を誇った柳沢吉保との混同が挙げられる。吉保の家系は甲斐武田氏に仕えた清和源氏系の武家であるのに対し 3 、本報告書の主題である元政は、京都の公家、藤原北家日野流柳原家の分流という全く異なる出自を持つ 1 。この混同を解きほぐし、元政固有の生涯と、その歴史的意義を明らかにすることが、本報告書の第一の目的である。また、一部の二次的資料には元政を大内氏の旧臣とする記述が見られるが 6 、『寛政重修諸家譜』などの信頼性の高い史料との整合性が取れず、本報告書ではこれを退け、公家の出身という彼の出自を明確に位置づける 7

本論に入る前に、読者が元政の複雑な生涯の全体像を俯瞰できるよう、以下の略年表を提示する。この年表は、彼のキャリアの変遷を時系列で追うことで、各章で詳述される出来事の文脈を理解するための一助となるであろう。

【表1:柳沢元政 略年表】

西暦

和暦

年齢

主な出来事と所属

典拠

1536年

天文5年

1歳

公家・柳原新右衛門の子として京都に誕生。

1

(不明)

(不明)

-

13代将軍・足利義輝の命により「柳沢」に改姓。

1

1565年

永禄8年

30歳

永禄の変。主君・足利義輝が三好三人衆らに討たれる。

7

1569年

永禄12年

34歳

本圀寺の変。足利義昭を襲撃した三好三人衆と戦い、武功を挙げる。(所属:足利義昭)

5

1573年

天正元年

38歳

織田信長により義昭が京を追放。これに従い備後国鞆へ移る。(所属:足利義昭→毛利輝元)

5

(文禄年間)

(文禄年間)

50代

毛利家臣の身分から豊臣秀吉の直臣に抜擢される。(所属:豊臣秀吉)

1

1593年

文禄2年

58歳

従五位下・監物に叙任。石見銀山奉行などを務める。

7

1598年

慶長3年

63歳

豊臣秀吉の死後、毛利家に帰参。(所属:毛利輝元)

1

1600年

慶長5年

65歳

関ヶ原の戦後、毛利氏の防長移封に従い、1300石を与えられる。

1

1613年

慶長18年

78歳

周防国山口にて死去。享年78。

1

第一章:出自と足利将軍家への仕官 ― 京の公家から武士へ

第一節:公家・柳原家の出自と「柳沢」への改姓

柳沢元政は天文5年(1536年)、京都の公家社会にその生を受けた 1 。彼の家系は藤原北家日野流の庶流にあたる柳原家であり、父は柳原新右衛門、母は柳原資定の娘と伝えられている 1 。この出自は、彼が生粋の公家文化の中で育ったことを示している。しかし、父・新右衛門の代から武家化し、室町幕府の将軍家に仕えるようになっていた 1 。元政もまた、父の跡を継ぎ、武士として将軍に仕える道を選んだ。

当初は「柳原元政」と名乗っていたが、彼のキャリアにおいて最初の大きな転機となったのが、13代将軍・足利義輝の命による改姓であった 1 。これにより、彼は「柳沢」という新たな姓を名乗ることになる。この改姓は、単なる名称の変更に留まらない。公家としての伝統的な家名である「柳原」とは別に、将軍に仕える武士としての新たな家名を下賜されたことを意味し、彼のアイデンティティが公家から武士へと明確に移行した象徴的な出来事であった。

この出自は、彼の生涯を貫く特質を形成する上で決定的な役割を果たした。公家としての教養(読み書き、和歌、礼法)と、武士としての実務能力(軍事、統治)を兼ね備えた「公武ハイブリッド」とも言うべき彼の存在は、戦国時代の流動的な社会において極めて特異な価値を持っていた。後の彼のキャリアにおいて、毛利氏との外交交渉や、豊臣政権下での石見銀山奉行といった重職を歴任できたのは、単なる武辺一徹の武将では務まらない、この二つの世界に通じた稀有な能力があったからに他ならない。彼の公家出身という背景は、激動の時代を生き抜くための強力な武器となったのである。

第二節:将軍義晴・義輝の時代と永禄の変

柳沢元政は、父・新右衛門と同じく、12代将軍・足利義晴、13代・義輝、そして後に15代となる義昭という、三代にわたる将軍に仕えた譜代の幕臣であった 1 。その具体的な役職は、将軍を直接警護する「奉公衆」などの親衛隊的な武力集団であったと推測される。彼の青年期は、失墜しつつある幕府の権威を再興しようと奮闘する「剣豪将軍」義輝のもとで過ぎていった。

しかし永禄8年(1565年)5月19日、彼の主君である足利義輝が、三好三人衆と松永久通らの軍勢によって御所を襲撃され、壮絶な最期を遂げるという「永禄の変」が勃発する 7 。『言継卿記』などの同時代史料には、この時に義輝と運命を共にし、討死した幕臣たちの名が数多く記録されているが、その中に柳沢元政の名は見当たらない 7

義輝の側近でありながら、なぜ彼はその場にいなかったのか、あるいは生還したのか。この「沈黙」は、彼の行動原理を理解する上で重要な示唆を与える。主君と共に死すという「殉死」の美学が重んじられた時代にあって、彼の選択は一見すると忠誠心の欠如と映るかもしれない。しかし、その後の彼の行動を見ると、異なる解釈が浮かび上がる。彼は義輝の死後、速やかにその弟である覚慶(後の足利義昭)を擁立する動きに加わっている。これは、主君個人の死をもってすべてを終焉とするのではなく、足利将軍家そのものの存続と再興を最優先するという、より大局的かつ現実的な判断に基づいた行動であった可能性が高い。彼の行動は、感情的な忠義よりも、家名を存続させ、次代の主君を立てて再起を図るという、極めて現実主義的な生存戦略と政治的判断力の現れであったと分析できる。

第三節:本圀寺の変における武功

永禄の変を生き延びた元政は、足利義昭の擁立に尽力した。織田信長の強力な後ろ盾を得て上洛し、15代将軍に就任した義昭であったが、その地位は盤石ではなかった。永禄12年(1569年)1月、信長が美濃へ帰国した隙を突き、三好三人衆が京都にいた義昭の仮御所・本圀寺を急襲する事件が起こる(本圀寺の変) 7

この時、柳沢元政は、後に信長の重臣となる明智光秀らと共に、数的に圧倒的に不利な状況下で義昭を護り、奮戦した 5 。『寛政重修諸家譜』に付された逸話によれば、この戦いで元政は7箇所もの傷を負いながらも敵の猛攻を凌ぎきり、その武功を義昭から高く賞賛され、感状と馬一頭を賜ったという 8 。この本圀寺の変における顕著な働きにより、彼は義昭の側近としての信頼を不動のものとし、幕臣としての名声を大いに高めることとなった。永禄の変での「沈黙」とは対照的に、この戦いでの彼の武勇は、彼が単なる官僚的な臣ではなく、主君の危機に際しては身を挺して戦う、優れた武士でもあったことを証明している。

第二章:亡命将軍との流転と毛利家への出仕

第一節:信長との決裂と備後鞆への同行

足利義昭と織田信長の関係は、当初こそ良好であったが、天下の支配権を巡る両者の思惑の違いから次第に悪化し、天正元年(1573年)にはついに修復不可能な対立へと至った。信長は武力をもって義昭を京から追放し、ここに室町幕府は事実上の終焉を迎える。

多くの幕臣が信長に降るか、あるいは離散していく中で、柳沢元政は義昭に最後まで付き従う道を選んだ。彼は、上野秀政や真木島昭光といった少数の忠実な側近たちと共に、主君・義昭に随行し、紀伊由良などを経て、西国の大大名・毛利輝元の庇護下にある備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町)へと落ち延びた 2 。これは、彼の足利将軍家に対する揺るぎない忠誠心を示す行動であり、彼のキャリアにおける第二の大きな転換点の始まりであった。

第二節:「鞆幕府」における役割と毛利氏への臣従

備後鞆に拠点を移した義昭は、なおも将軍としての権威を保ち続け、信長打倒のための反信長包囲網の形成に奔走した。この亡命政権は、後世「鞆幕府」と通称される。この鞆幕府において、柳沢元政は中心的な役割を担うこととなる。特に、彼らにとって生命線とも言える庇護者・毛利輝元との連絡および交渉役として、その手腕を大いに発揮した 10

主君である義昭の安全と活動基盤を確保するため、元政は戦略的な決断を下す。それは、義昭の庇護を受ける見返りとして、形式上、毛利氏に出仕し、その家臣となることであった 1 。これは、主君を二人持つという異例の形ではあるが、足利将軍家の再興という大義のためには、西国最大の勢力である毛利氏の全面的な支援が不可欠であるという、彼の冷静な政治判断に基づくものであった。この臣従は、彼の忠誠心と政治的柔軟性が両立した、巧みな処世の一環であったと言える。

第三節:毛利家臣としての初期の活動

毛利輝元は、亡命将軍の側近というだけでなく、元政自身の能力を高く評価していた。その証左として、元政は毛利領国の重要拠点であった周防国山口に置かれた高嶺城の城代に任じられている 1 。これは、毛利氏が元政を単なる客将としてではなく、領国経営の一翼を担うに足る有能な武将として正式に遇したことを示している。京の公家出身であり、幕府の奉公衆としてキャリアを積んだ彼が、西国の戦国大名の城代を務めるに至ったことは、彼の非凡な適応能力と、いかなる状況下でも自らの価値を証明しうる実務能力を物語っている。

第三章:豊臣政権下での飛躍

第一節:秀吉への臣従 ― 戦略的な主君変更

本能寺の変で織田信長が倒れ、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、日本の権力構造は再び大きく変動する。毛利氏もまた秀吉に臣従し、その巨大な権力体制の一翼を担うこととなった。この新たな政治状況の中で、柳沢元政は彼の生涯で最も大きな飛躍を遂げる。彼は毛利家臣という立場から、天下人である秀吉の直臣(直参)へと抜擢されるという、異例の栄転を果たすのである 1

ある逸話によれば、秀吉から直臣になるよう誘われた際、元政は一度「毛利家から多年のご恩を受けておりますので」と固辞したという 8 。この態度は、秀吉に深い感銘を与えた。主君を変えるにあたり、旧主への恩義を口にするその姿は、秀吉の目に「この男は一度仕えれば裏切らない、忠義に厚い人物だ」と映ったのである。この行動は、単なる忠誠心の発露と見ることもできるが、より深く考察すれば、極めて高度な政治的パフォーマンスであったと分析できる。当時の武家社会において最も重要な徳目の一つである「忠義」を巧みにアピールすることで、彼は主君変更というデリケートな行為を正当化し、なおかつ自らの評価を最大限に高めることに成功した。結果として、彼は毛利氏との関係を損なうことなく、天下人である秀吉の側近となり、自身の地位を飛躍的に向上させた。これは、彼の生涯を特徴づける、計算された「処世術」の真骨頂であった。

第二節:石見銀山奉行と西国代官としての権勢

豊臣政権下で、元政の能力は遺憾なく発揮された。彼は、当時の日本の、ひいては世界の経済を左右するほどの価値を持っていた石見銀山の鉱山奉行という、国家財政の根幹に関わる重職を任された 1 。この任命は、彼の統治能力や経済感覚が、秀吉から絶大な信頼を得ていたことを物語っている。

さらに彼は「西国代官」も務め 2 、出雲・備後両国において1万石という広大な知行を与えられた 8 。そして文禄2年(1593年)10月2日には、従五位下・監物に叙任され(後に讃岐守にも任官)、名実ともに大名級の処遇を受けるに至った 1 。足利将軍家の譜代の臣から、亡命政権の交渉役、そして天下人の直臣として国家の要職を担うに至ったこの時期は、紛れもなく彼の生涯における絶頂期であった。

第四章:関ヶ原以降の晩年と長州藩士として

第一節:秀吉の死と毛利家への帰参

慶長3年(1598年)、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じると、日本は再び動乱の時代へと突入する。秀吉という絶対的な権力者の死は、豊臣政権の内部対立を激化させ、新たな覇権争いの幕開けを告げた。この不穏な情勢を前に、柳沢元政は再び大きな決断を下す。彼は豊臣家の直臣という輝かしい地位を捨て、三度、毛利氏の家臣へと復帰したのである 1

この決断は、彼の卓越した現実主義と先見の明を示すものであった。幼い秀頼を戴く豊臣政権の先行きに不安を感じ、自らのキャリアの原点であり、西国に強固な地盤を持つ毛利氏のもとに戻ることこそが、乱世を生き抜く上で最も安全かつ賢明な道であると判断したのである。彼の生涯は、忠誠を尽くすべき主君を見極め、時流に応じて自らの立ち位置を戦略的に変えていくことの連続であった。

第二節:関ヶ原の戦いと防長移封

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。元政の主君である毛利輝元は西軍の総大将として擁立されたが、戦いは東軍の圧倒的な勝利に終わり、毛利氏は敗者となった。戦後処理において、輝元は安芸広島を中心とする120万石の広大な領地を没収され、周防・長門の二国、約37万石へと大幅に減封されるという、厳しい処分を受けた 1

この毛利家最大の危機にあって、柳沢元政は輝元を見捨てることなく、その苦難の道に随行した。彼は多くの家臣が暇を出される中で、毛利氏の新たな本拠地となった防長(長州)へと移り、長州藩士として1300石の知行を与えられた 1 。大幅な減封により、家臣団の規模を縮小せざるを得なかった毛利氏が、それでもなお元政にこれだけの知行を安堵したという事実は、彼が藩にとって不可欠な重要人物として遇されていたことを明確に示している。

第三節:山口における隠居と最期

長州藩士として新たなスタートを切った元政であったが、すでに入っていた老齢を鑑み、その翌年には家督を嫡男の景祐に譲っている。彼は自身の知行1300石のうち1000石を景祐に相続させ、家の将来を託した 1

この時、主君・毛利輝元は、元政に対して異例の計らいを見せた。残る300石の知行について、元政の「先年以来の度々の辛労」に報いるため、彼一代に限り、すべての藩役を免除する「無役」とすることを認めたのである 1 。これは、足利将軍家の臣として始まり、毛利家、豊臣家と渡り歩き、そして最後は毛利家の存亡の危機を共に乗り越えた彼の、実に70年以上にわたる功労に対する、主君からの最大限の敬意と感謝の表明であった。

穏やかな晩年を送った元政は、慶長18年(1613年)5月5日、周防国山口の地で、78歳の生涯に幕を下ろした。彼の墓所は、自らが再興に尽力した山口市の俊龍寺にあり、静かにその生涯を物語っている 1

第五章:人物像と後世への遺産

第一節:俊龍寺の再興と四基の供養塔

柳沢元政の人物像を語る上で欠かせないのが、彼が晩年を過ごした山口の地で成した事業である。彼は、当時荒廃していた俊龍寺を再建し、その伽藍を整えた 11 。そして、この寺の境内に、彼の生涯を象徴する極めて重要な遺産を残している。それは、毛利輝元の命によって建立された、四基の供養塔である 11

その供養の対象は、旧主である13代将軍・足利義輝、15代将軍・足利義昭、そして二人の母である慶寿院、さらに、かつて天下人として仕えた豊臣秀吉であった 1 。この四名の選択は、元政の複雑なキャリアそのものを集約している。しかし、この建立は単なる元政個人の慰霊や追憶の行為に留まらない。これが主君・毛利輝元の「命令」によるものであったという点に、深い政治的意図が隠されている。

輝元にとって、この事業は関ヶ原の敗戦後の苦しい立場から、毛利家の権威と正統性を内外に示すための、高度な政治的パフォーマンスであった。まず、滅び去った足利将軍家を丁重に弔うことで、毛利家が旧来の権威を尊重する、礼節をわきまえた名門であることをアピールする。次に、天下人であった秀吉を弔うことで、豊臣政権への(過去の)忠誠を示し、新たな支配者である徳川家康に対する敵意がないことを間接的に表明する狙いがあったと考えられる。そして、この象徴的な事業の実行者として、足利・豊臣の両方に仕えた経歴を持つ柳沢元政を起用することほど、その行為に正当性と重みを与えるものはない。俊龍寺の供養塔は、元政の生涯の集大成であると同時に、毛利輝元の巧みな政治戦略の舞台装置でもあったのである。

第二節:肖像画に見る元政

柳沢元政の姿を今に伝える貴重な資料として、京都の建仁寺霊源院に所蔵されている肖像画が挙げられる。ここには、慶長4年(1599年)に描かれた柳沢元政像と、その12年後の慶長16年(1611年)に描かれた彼の妻(本光院)の像が、対の掛軸として現存している 1 。これらの肖像画は、絶頂期を過ぎ、長州藩士として穏やかな晩年を過ごしていた彼の風貌や、夫婦の絆を偲ばせる、第一級の史料である。

第三節:子孫と柳沢家のその後

元政の家系は、彼の二人の息子によって、それぞれ異なる道を歩むことになった。

嫡男の柳沢景祐は、父の跡を継いで長州藩に仕え、その家系は藩の重臣である「寄組」という高い家格を維持し、幕末まで続いた 1 。一方、次男の柳沢元吉は、徳川家に仕官し、500石(後に加増され700石)取りの旗本となった 7 。これにより、元政の子孫は、関ヶ原の戦いで敵対した毛利家と徳川家の両家に、それぞれ仕えるという結果になった。これは、父・元政がその生涯をかけて実践した、いかなる権力構造の変化にも適応し、家名を存続させていくという処世術が、最終的に結実した姿であると言えるかもしれない。

結論:乱世を渡り抜いた「忠」と「処世」の体現者

柳沢元政の生涯は、一人の主君に命を捧げる「滅私奉公」といった、旧来の武士の美学だけでは捉えきれない。彼は、足利将軍家への「忠」を自らのアイデンティティの基盤としながらも、義昭、毛利、豊臣という時々の最高権力者との関係性を巧みに構築し、自らの価値を最大限に高めていった。彼の行動は、単なる変節や日和見主義として断じるべきではない。それは、公家の教養と武士の実務能力という二つの武器を自在に操った彼ならではの、極めて高度な「処世術」であった。

室町幕府という中世的な旧秩序の崩壊から、豊臣、徳川による近世的な新秩序の形成に至る、日本史上最も激しい変動の時代を、彼は見事に渡り抜いた。その生涯は、時代の転換期を生きる人間の、したたかで、そして強靭な生存戦略の典型として、再評価されるべきである。柳沢元政は、まさに戦国から近世への過渡期を象徴する、稀有な人物像として歴史にその名を刻んでいる。

引用文献

  1. 柳沢元政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%85%83%E6%94%BF
  2. 柳沢元政の墓 http://masa.sakura.ne.jp/sengoku/haka/motomasa_y450h.html
  3. 柳沢氏一族の群像 - 文芸・小説、同人誌・個人出版 川村一彦(歴史研究会) https://bookwalker.jp/dee67d733a-3a44-40ec-a391-74cf3f7b387c/
  4. 武家家伝_柳沢氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ynagisawa.html
  5. 柳沢元政 Yanagisawa Motomasa - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/yanagisawa-motomasa
  6. 山口紀行23 雲谷庵 / 俊龍寺 | mixiユーザー(id:250900)の日記 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1971122804&owner_id=250900
  7. 歴史の目的をめぐって 柳沢元政 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-36-yanagisawa-motomasa.html
  8. 柳沢元政 http://nariyama.sppd.ne.jp/myner/m05.html
  9. 柳沢家 | 試撃行 https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/tag/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%AE%B6
  10. 【古文書入門】解読の基本を織田信長の書状から学ぶ https://raisoku.com/6985
  11. 俊龍寺(山口県山口市天花)の歴史、観光情報、所在地、アクセス https://suoyamaguchi-palace.com/shunryuji/
  12. 柳沢元政(やなぎさわもとまさ)『信長の野望 天道』武将総覧 http://hima.que.ne.jp/tendou/tendou_data_d.cgi?equal1=BC04
  13. 人物データベース 検索 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu.html?page=3