柳生兵庫助利厳は石舟斎の嫡孫で、尾張柳生を創始。純粋な剣の道を追求し、叔父宗矩と対立しつつも新陰流の道統を継承した。
通称「兵庫助(ひょうごのすけ)」として知られる柳生利厳(やぎゅう としよし/としとし)は、江戸時代初期の剣術史において、特異な光を放つ存在である 1 。徳川将軍家の兵法指南役として絶大な権勢を誇った叔父・柳生但馬守宗矩(むねのり)の華々しい活躍の影に隠れがちではあるが、その剣技は宗矩をも凌ぐと評され、柳生新陰流の道統を純粋な形で継承し、現代まで続く「尾張柳生」の礎を築いた人物として、武芸史研究において看過することはできない 3 。
本報告書は、この柳生兵庫助利厳の72年の生涯、その武芸思想、そして複雑な人間像を、現存する史料や信頼性の高い伝承に基づき、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。彼の生涯を貫く核心的な主題は、「武芸の純粋性」と「時代の現実」との間に生じた相克である。祖父であり、剣聖と謳われた柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさい むねよし)から、新陰流の神髄を汚さず受け継ぐことを宿命づけられながらも、その「殊のほかなる一徹の短慮物」と評された気性は、社会との間に深刻な軋轢を生んだ 1 。一方で、戦国の世が終わり、泰平の時代が到来すると、彼は剣術そのものの在り方を問い直し、大胆な変革を断行する思想家としての一面も見せる。この理想と現実の狭間で揺れ動くダイナミズムこそが、利厳という傑出した剣豪を理解する鍵となるであろう。
まず、彼の生涯を俯瞰するために、以下の略年表を提示する。
西暦(元号) |
年齢 |
主要な出来事と関連情報 |
典拠 |
1579年(天正7) |
1歳 |
大和国柳生庄にて、柳生厳勝の次男として誕生。 |
1 |
1597年(慶長2) |
19歳 |
兄・久三郎が朝鮮蔚山の戦いで戦死し、石舟斎の嫡孫となる。 |
1 |
1600年(慶長5) |
22歳 |
関ヶ原の役。石舟斎は利厳を手元に置き、修行に専念させる。 |
1 |
1603年(慶長8) |
25歳 |
熊本藩主・加藤清正に500石で仕官。 |
1 |
1604年頃 |
26歳頃 |
同僚を斬り、加藤家を致仕。牢人となり諸国を遍歴する。 |
1 |
1615年(元和元) |
37歳 |
尾張藩に500石で仕官。初代藩主・徳川義直の兵法師範となる。 |
1 |
1625年(寛永2) |
47歳 |
三男・厳包(後の連也斎)が誕生。 |
6 |
1648年(慶安元) |
70歳 |
隠居し「如雲斎」と号す。隠居領300石を拝領。 |
1 |
1650年(慶安3) |
72歳 |
京都・妙心寺にて死去。塔頭麟祥院に葬られる。 |
1 |
柳生兵庫助利厳が、柳生新陰流の「正統」を継承する者と見なされるに至った背景には、彼の血脈、特異な教育環境、そして祖父・石舟斎の深遠な戦略的判断が存在した。
利厳の父・柳生厳勝は、剣聖・石舟斎宗厳の嫡男であり、本来であれば柳生家の家督と新陰流の道統を継ぐべき人物であった 1 。しかし、厳勝は戦場で受けた鉄砲傷がもとで身体に障害が残り、武芸の道を究めることが困難な状態にあったと伝えられる 1 。この父の悲運が、次男である利厳の運命を決定づけた。父が継承し得なかった柳生本家の「嫡流」としての役割は、孫の世代へと託されることになったのである。
さらに慶長2年(1597年)、利厳の兄である久三郎が朝鮮蔚山の戦役で若くして戦死したことにより、利厳は名実ともに石舟斎の「嫡孫」という立場を確立する 1 。これにより、彼は柳生本家の武芸の神髄を受け継ぐ者として、祖父・石舟斎から一身に期待を寄せられる存在となった。
利厳の叔父にあたる柳生宗矩は、早くから徳川家康に見出され、江戸にあって将軍家の兵法指南役として、また後には大目付として政治の世界でその手腕を発揮していた 4 。その一方で、利厳は祖父・石舟斎の膝下、大和国柳生の庄に留め置かれ、俗世の雑事から隔絶された環境で、ただひたすらに純粋な剣術修行に明け暮れる日々を送った 1 。
この対照的な処遇を象徴するのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦における逸話である。天下分け目のこの大戦に際し、宗矩は徳川方として活躍し、戦後の柳生家安泰の礎を築いた。しかし、石舟斎は嫡孫である利厳を決して手元から離さず、合戦に参加させることなく、ひたすら修行に専念させたと伝えられている 1 。この事実は、石舟斎が利厳を政治や戦の駒としてではなく、上泉信綱から受け継いだ新陰流の神髄を、一点の曇りもなく寸分違わずに継承すべき神聖な「器」として捉えていたことを強く示唆している。
後世、利厳を祖とする尾張柳生家には、流祖・上泉信綱から石舟斎、そして利厳へと、新陰流の正統な道統が「一子相伝」の形で伝えられたという伝承が生まれた 1 。これは、将軍家師範という公的な地位と権勢を誇った江戸の宗矩ではなく、尾張の利厳こそが柳生新陰流の真の継承者であるという強い自負の表れである。では、なぜ石舟斎は、政治的に成功した宗矩ではなく、武芸一筋の利厳を自らの後継者として選んだのであろうか。
この問いへの答えは、石舟斎が描いた柳生家の未来図にある。彼の後継者指名は、どちらか一方が優れているという単純な選択ではなく、柳生家の「存続」と新陰流の「純粋性の維持」という二つの至上命題を同時に達成するための、極めて戦略的な「役割分担」であったと考えられる。
第一に、戦国乱世を生き抜いた老練な武将である石舟斎は、武家が存続するためには、時の権力者との繋がり、すなわち政治力が不可欠であることを痛感していたはずである 7 。その点において、五男・宗矩の持つ交渉力や世渡りの才は、柳生家を「家」として安泰させ、社会的地位を確立させる上で最適な資質であった。
第二に、石舟斎は同時に、自身が師・上泉信綱から「一国一人の印可」という形で託された新陰流の深遠な武芸が、政治の都合や処世術として歪められることを何よりも危惧したであろう 9 。武芸の純粋性を保つためには、政治の世界から距離を置き、ただひたすらに技を究める求道者が必要であった。
この二つの要請に対し、利厳の人物像は完璧に合致していた。彼はその不器用で一徹な性格ゆえに、政治の世界には全く不向きであったが、妥協を許さず、ただひたすらに剣の道を究める求道者として、新陰流の「正統」を汚さずに継承するのに最もふさわしい人物であった 1 。
したがって、石舟斎は「家の安泰と社会的繁栄」という政治的側面を宗矩に託し、「武芸の道統と哲学的純粋性」という芸術的側面を利厳に託したのである。これは、柳生という名を後世に確固として残すための、深慮遠謀に満ちた二元的な継承戦略であったと言えよう。
青年期の利厳の足跡は、彼の類稀なる剣才と、それを危うくさせる「一徹」な気性との相克によって彩られている。祖父の元を離れ、初めて実社会に出た彼を待ち受けていたのは、理想と現実の厳しい衝突であった。
慶長8年(1603年)、25歳となった利厳は、当代きっての猛将として知られた熊本藩52万石の藩主・加藤清正から、500石という破格の待遇で兵法師範として招聘された 1 。これは、若き利厳の武名が、柳生の庄を越えて遠く肥後の地まで轟いていたことを示している。
しかし、この仕官に際して、祖父・石舟斎は清正に対し、極めて異例の条件を提示したと伝えられる。「兵助(利厳の通称)儀は殊のほかなる一徹の短慮物にござれば、たとえ、いかようの儀を仕出かし候とも、三度まで死罪の儀は堅く御宥し願いたい」(兵助は格別に一本気で思慮の浅い者ですので、万が一、どのような事件を起こしたとしても、三度までは死罪をお許しいただきたい) 1 。この言葉は、石舟斎が孫の比類なき才能を認めると同時に、その才能が社会との軋轢を生む制御不能な爆発力をも秘めていることを見抜いていた、祖父としての深い憂慮の表れであった。
石舟斎の憂慮は、不幸にも現実のものとなる。利厳は加藤家に仕官してからわずか1年足らずで、同僚と争いを起こしてこれを斬殺し、結果として加藤家を出奔、牢人の身となった 1 。事件の詳細は、加藤家が後に改易されたこともあり、公式な史料には乏しい。しかし、利厳の子孫である尾張柳生家には、その経緯が口伝として生々しく伝えられている 1 。
その口伝によれば、事件の背景には領内で発生した百姓一揆の鎮圧があった。鎮圧に手間取る先任者、伊藤長門守に代わって派遣された利厳は、一揆勢への即時総攻撃による迅速な解決を主張した。しかし、長門守がこれに反対したため、利厳は議論の末に長門守を斬り捨て、自らの判断で総攻撃を敢行し、見事に一揆を鎮圧した。そして、事の次第を清正に報告すると、その日のうちに加藤家を退去したという 1 。
この事件は、単なる血気や短慮の結果として片付けるべきではない。むしろ、利厳が剣術修行を通じて骨の髄まで叩き込まれた「最短距離で本質を突き、一撃で問題を解決する」という思考様式を、複雑な人間社会の現実にそのまま適用しようとした結果生じた、必然的な悲劇であったと分析できる。
彼の剣の理合において、逡巡や妥協は敗北に繋がる「悪」である。一揆鎮圧という課題に対し、同僚の慎重論は、利厳の目には問題解決を遅延させる「障害」としか映らなかった可能性が高い。剣の立ち合いで相手の隙を瞬時に突くように、彼は問題の本質(鎮圧)を阻害する障害(同僚の反対)を、最も直接的かつ効率的な手段(斬殺)で排除した。彼自身の論理の中では、それは理に適った正しい行動であったかもしれない。しかし、武家社会の組織論理や人間関係の機微は、剣の理合とは全く異なる。同僚の斬殺は組織の秩序を破壊する大罪であり、結果として彼は自らの信じる正義を貫いた代償として、社会的な居場所を失うことになった。この事件は、利厳の純粋すぎる武人としての精神が、現実社会の複雑さと相容れなかったことを象徴している。
加藤家を致仕し、牢人となった利厳は、諸国を遍歴する武者修行の旅に出た 5 。この放浪の期間は、彼にとって苦難の時期であったと同時に、その武芸をさらに深化させる貴重な機会ともなった。
この時期、彼は兵法家・阿多棒庵(あたぼうあん)という人物に出会い、新当流槍術と穴沢流薙刀術を学び、皆伝を得たとされる 1 。剣術のみならず、槍や薙刀といった異なる間合いを持つ長柄武器の理合を体得したことは、彼の武術家としての視野を大きく広げた。この経験は、単なる一介の剣士から、様々な武器の特性を理解し、その長所短所を分析できる総合武術家へと彼を成長させた。後に尾張藩で藩主や藩士に多角的な指導を行う際、この牢人時代の経験が大きな礎となったことは想像に難くない。
十数年に及ぶ牢人生活を経て、柳生兵庫助利厳は新たな仕官の機会を得る。それは、徳川御三家の筆頭、尾張徳川家への招聘であった。この地で彼は、その生涯をかけて「尾張柳生」という一大流派の盤石な基礎を築き上げていくことになる。
元和元年(1615年)、利厳37歳の時、尾張藩の御附家老である成瀬隼人正の強い推挙により、初代藩主・徳川義直の兵法師範として500石で召し抱えられた 1 。牢人生活で人間的な円熟味を増したのか、あるいは剣術指南という専門職が彼の気性に合っていたのか、加藤家時代のような大きな問題を起こすことなく、彼はその卓越した技量をもって藩主の深い信頼を勝ち取っていく。
特に、藩主・徳川義直自身が学問や武芸に優れた人物であったことが、利厳にとっては幸いであった 14 。義直は利厳の指導を熱心に受け、後には利厳から新陰流の剣術のみならず、彼が武者修行時代に体得した新当流槍術、穴沢流薙刀術の印可までも相伝されるに至った 1 。これにより、柳生新陰流は単なる一指南役の私的な流派ではなく、尾張藩の公式な武芸、すなわち「御流儀」としての絶対的な地位を確立したのである 1 。
利厳が尾張で純粋な武芸指導に専念する一方、江戸では叔父・宗矩が率いる「江戸柳生」が、将軍家指南役として、また大目付として政治的な影響力を日に日に強めていた。この二つの柳生は、同じ新陰流を源流としながらも、その性格と役割において明確な違いを見せ始める 4 。
比較項目 |
江戸柳生 |
尾張柳生 |
典拠 |
流祖 |
柳生但馬守宗矩 |
柳生兵庫助利厳 |
4 |
主君 |
徳川将軍家(家康、秀忠、家光) |
尾張徳川家(義直) |
4 |
拠点 |
江戸 |
尾張(名古屋) |
4 |
主な役割 |
将軍家兵法指南、大目付など政治的役割 |
藩主兵法指南、藩士への武芸指導 |
15 |
石高 |
最終的に1万2500石の大名 |
500石の指南役(後に加増) |
15 |
後世の道統 |
剣術流儀としては途絶 |
現代まで血統・道統共に継承 |
4 |
この両者の間には、単なる役割分担に留まらない、深い確執が存在したことが伝えられている。その不和が決定的となったきっかけとして、利厳の妹(厳勝の娘)と、朝鮮出身の家臣・柳生主馬(やぎゅう しゅめ)との婚姻問題が挙げられている 18 。
この「主馬問題」は、単なる縁談を巡る感情的な対立と見るべきではない。その根底には、利厳が固執した「柳生本家嫡流の血の尊厳」という理想主義と、宗矩が優先した「柳生家の現実的な統治」という現実主義との、埋めがたい価値観の衝突が存在した。
利厳の立場からすれば、彼は自らを「石舟斎の長男・厳勝の血を引く正統な嫡流」と強く自負していた 19 。彼にとって柳生の名と血は、新陰流の武芸の神聖さと分かちがたく結びついたものであった。一方、大名として多くの家臣を抱える宗矩にとって、この縁談は有能な家臣(主馬は柳生家の老職であった)を柳生一門に完全に組み込み、その忠誠心を高めるための、現実的かつ効果的な人事政策であった 19 。
しかし、利厳の視点から見れば、これは神聖であるべき「柳生の血」を、出自の定かではない異国出身者に与えることで汚す、許しがたい冒涜行為であった。嫡流としての彼のプライドは、この叔父の決定によって著しく傷つけられたであろう。ここに、「武芸と血統の純粋性を絶対視する理想主義者(利厳)」と、「家の安泰と発展のためには出自を問わず人材を登用し、縁組をも利用する現実主義者(宗矩)」という、両者の根本的な断絶が露呈したのである。この一件を境に、江戸と尾張の柳生は、事実上、袂を分かつことになった。
柳生兵庫助利厳は、単に卓越した技量を持つ剣の達人であっただけではない。彼は時代の変化を鋭敏に捉え、自らの思索と工夫によって剣術を革新した、稀有な思想家でもあった。その思想の精髄は、彼が一代の工夫を書き記した伝書『始終不捨書(しじゅうふしゃのしょ)』に凝縮されている 1 。
『始終不捨書』において、利厳は極めて大胆な主張を展開する。彼は、たとえ祖父・石舟斎から直接受け継いだ教えであっても、泰平の世となった「今」の時代にそぐわなくなった部分を、「昔の教悪(むかしのおしえあく)」、すなわち「過去の悪しき教え」として明確に批判したのである 1 。そして、それに代わる新しい時代に即した技法や心構えを、「今の教(いまのおしえ)」として全68項目にわたって具体的に提示した。
これは、伝統を盲目的に信奉するのではなく、自らの経験と知性に基づき、それを主体的に検証し、再構築しようとする、彼の革新的な精神を何よりも雄弁に物語っている。彼は、剣術を固定化された過去の遺産ではなく、常に変化し続ける生きた技術として捉えていた。
「今の教」として示された変革の中で、最も象徴的かつ本質的なものが、構えに関する教えである。利厳は、腰を深く落として重心を低く保つ従来の構え「沈なる身(しずまるみ)」を、「身堅マリツマル故也(身体が固く強張ってしまうからだ)」という理由で明確に否定した 1 。そして、それに代わるべき構えとして、より自然体で動きやすい「直立の身(ちょくりつのみ)」を強く推奨したのである。
この構えの変更は、単なる技術的な改良に留まるものではない。それは、剣術が使用される社会的、物理的環境の根本的な変化、すなわち主戦場が「戦場での甲冑武者相手」から「平時での平服の人間相手」へと移行したことに本質的に対応しようとする、剣術の「近代化」とも言うべき思想的転換であった。
戦国時代の剣術、すなわち「介者剣術」においては、敵は重い甲冑を着用している。分厚い鉄板を断ち切る、あるいは兜の隙間を正確に突くためには、腰を深く落とした「沈なる身」で下半身を安定させ、全身の力を込めた強力な斬撃を放つ必要があった 20 。ここでは安定性とパワーが最優先される。
しかし、徳川の治世が始まり泰平の世が訪れると、剣術の主な舞台は、道場や市中での平服(素肌)による立ち合いへと変化した。この「素肌剣術」においては、相手は防御の無い生身の人間である。甲冑を断ち割るほどの絶対的なパワーはもはや不要となり、むしろ、相手の攻撃を紙一重でかわし、一瞬の隙を突いて急所を斬るための、スピード、機動性、そして相手の動きに瞬時に反応する柔軟性がより重要な要素となった。
利厳は、この時代の変化が剣術に要求するものの質的変化を的確に見抜いた。彼にとって、平時の立ち合いにおける「沈なる身」は、もはや安定性の源ではなく、動きを阻害する「昔の教悪」であった。そして、自然体で素早く、かつ柔軟に動ける「直立の身」こそが、新しい時代に適合した「今の教」であると結論づけたのである。
この革新は、祖父・石舟斎が提唱した「活人剣(人を生かす剣)」の思想を、利厳なりに発展させたものと解釈することも可能である。平和な時代において「剣術そのものを、時代遅れの遺物とせずに生かし続ける」という彼の試みは、まさに活人剣の精神の実践であった。利厳は、偉大なる伝統の忠実な継承者であると同時に、時代の要請に応え、未来へと道を切り拓く、卓越した革新者・思想家であった。
剣の道を究め、尾張柳生の礎を築いた利厳の晩年は、青年期の激しい気性とは対照的な、静かで深い境地に満ちていた。彼が後世に残したものは、卓越した剣技や思想のみならず、その血脈と、妥協なき求道の精神であった。
利厳の私生活に目を向けると、彼の妻・珠(たま)が、関ヶ原の戦いで石田三成の軍師として勇名を馳せた猛将・島左近清興の娘であったことは特筆に値する 1 。これは、利厳が単なる一介の剣術家ではなく、名だたる戦国武将の家と縁組するに足る、高い社会的評価を得ていた人物であったことを示唆している。
利厳と珠の間には、三人の息子がいた。長男の清厳(きよとし)は、父の期待を担うも島原の乱で若くして戦死 22 。家督は次男の利方(としかた)が継承した 1 。そして、三男の厳包(としかね)、後の連也斎(れんやさい)こそ、父をも凌ぐとされ、「尾張の麒麟児」「新陰流最強の剣士」と称される不世出の天才剣士であった 6 。
幼い連也斎が、日々の厳しい稽古が終わった後も満足せず、自ら銭を褒美として懸け、門弟たちに自分を打ち込むよう促して夜毎多人数を相手に稽古を続けたという逸話は、利厳が築いた尾張柳生家の、一切の妥協を許さない求道的で厳しい家風を象徴している 6 。それは、利厳自身の生き様そのものであった。
慶安元年(1648年)、70歳を迎えた利厳は隠居し、「如雲斎」と号した。彼は尾張名古屋を離れ、京都の名刹・妙心寺の塔頭である麟祥院に「柳庵」と名付けた一草庵を建て、静かな余生を送った 1 。
青年時代に「一徹の短慮物」と評された激しい気性は、長い年月と剣の修行を経て、深い静謐の境地へと昇華されていた。晩年の利厳は、同寺の住職であった霊峰和尚と親しく交わり、禅の道を深めるとともに、庭の千草万木を愛で、いつも銅製の瓶に花を生けて側に置いていたと伝えられている 1 。
この晩年の姿は、利厳の剣の道が到達した最終的な境地を示している。人を斬る「殺人刀」から始まった彼の道は、自己の修養と技法の革新を経て、万物を慈しみ、自然と一体となる「活人剣」の理想へと至った。それは、柳生新陰流が目指す「剣禅一如」の思想を、彼自身の生涯をもって体現した姿であった。青年期に同僚を斬り捨てたその同じ手が、晩年には静かに花を生けていたという事実は、一人の武人が「力(殺人刀)」、「理(思想・革新)」、そして「無(無心・慈愛)」という段階を経て自己を完成させていった、壮大な軌跡を物語っている。彼が愛した一輪の花は、彼が生涯をかけて追い求めた剣の道の、究極の答えであったのかもしれない。
慶安3年(1650年)1月16日、利厳は柳庵にて72年の生涯を閉じた。その亡骸は、晩年を過ごした妙心寺塔頭麟祥院に葬られた 1 。
利厳の死後、彼が築いた尾張柳生の道統は、天才・連也斎へと完全に受け継がれ、その名声は不動のものとなった 6 。慶安4年(1651年)に江戸城で催されたとされる御前試合で、連也斎が江戸柳生を率いる柳生宗冬(宗矩の三男)を木刀で打ち破ったという伝説は、尾張柳生の武芸的優位性を象徴する逸話として、後世まで語り継がれている 27 。
利厳がその生涯をかけて築き上げた尾張柳生流は、その後も政治の波に翻弄されることなく、藩主・徳川家の「御流儀」として確固たる地位を保ち続けた。そして特筆すべきは、江戸柳生をはじめとする他の多くの武術流派が歴史の中で途絶えていく中、尾張柳生は現代に至るまで、利厳から続く血脈と新陰流の道統を連綿と伝え続けていることである 4 。これは、利厳が遺したものの確かさと、その盤石な基盤がいかに強固なものであったかを何よりも力強く証明している。
柳生兵庫助利厳は、単に「宗矩の甥」や「尾張柳生の祖」という肩書きだけでは到底語り尽くすことのできない、極めて複雑で多面的な人物であった。本報告書の分析を通じて、その人物像はより鮮明な輪郭を結ぶ。
彼は、祖父・石舟斎から新陰流の神髄を託された 正統な継承者 であり、時代の変化を的確に読み解き、剣術の在り方を根底から問い直した 革新的な思想家 であった。同時に、その純粋すぎるが故の「一徹」な気性で社会と衝突を繰り返した 不器用な求道者 であり、連也斎という不世出の天才を育て上げた 優れた教育者 でもあった。
津本陽をはじめとする後世の小説家たちは、彼の武勇や妥協なき求道者としての一面を強調し、魅力的な英雄「兵庫助」像を創り上げた 1 。また、宮本武蔵との対決が噂されるなど 31 、数々の伝説が生まれたこと自体が、彼の剣技がいかに高く評価されていたかの証左と言える。しかし、史実の利厳は、祖父の深い憂慮、同僚との衝突、叔父との確執、そして剣を置いた晩年の静かな境地など、より人間的な葛藤と深みを持った人物であった。
結論として、柳生兵庫助利厳の最大の功績は、柳生新陰流を戦国の遺物として風化させることなく、平和な江戸時代において「生き続ける武芸」として再定義し、その盤石な基礎を築き上げたことにある。彼が遺した「今の教」という革新的な思想と、尾張柳生という組織は、400年という時の流れを超えて、今なおその技と精神を伝え続けている。政治の表舞台に立ち、権勢を誇った叔父・宗矩が「柳生」という家の名を世に広めたとすれば、利厳は、その喧騒から距離を置き、ただひたすらに道を究めることで、「柳生新陰流」の魂を未来へと繋いだ、真の麒麟児であったと言えるだろう。