柳生宗矩は剣豪でありながら、徳川家康・秀忠・家光の三代に仕え、初代大目付となり大名にまで出世した。剣術を治国の哲学に昇華させ、泰平の世における武士の役割を再定義した。
柳生宗矩(やぎゅう むねのり、1571年 - 1646年)は、日本の歴史において特異な光彩を放つ人物である。彼は、父・柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさい むねよし)より新陰流を継承した当代随一の剣豪でありながら、その生涯は道場の中だけに留まらなかった。徳川家康、秀忠、家光という三代の将軍に仕え、兵法指南役という武人の誉れ高き地位にありながら、ついには幕政の中枢を担う初代大目付に就任し、一万石を超える大名にまで上り詰めた 1 。剣士、政治家、大名、そして思想家という、幾多の顔を持つ彼の存在は、戦国から江戸へと移行する時代のダイナミズムそのものを体現している。
本報告書が探求する中心的な問いは、一度は所領を失い流浪の身となった一介の国人領主の家の出身者が、いかにして徳川将軍家の絶対的な信頼を勝ち取り、幕府創成期における枢要な役割を担うに至ったのか、という点にある。この問いを解き明かす鍵は、彼の「剣」と、それを昇華させた「思想」、そしてその思想を現実世界で実践した「政治」という三つの要素を、不可分の一体として分析することにある。宗矩の成功は、単に剣の腕前が優れていたからでも、時流に乗るのがうまかったからでもない。それは、彼が時代の変化を誰よりも深く洞察し、自らの兵法を旧来の「人を殺す技術」から、泰平の世を築き、維持するための「国を治める哲学」へと再定義し、新たな時代の支配者である徳川家に提示できたことに起因するのである。
この宗矩の複雑な人物像は、後世の創作物において両極端な解釈を生んできた。深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』では、将軍家の権力闘争の裏で暗躍し、目的のためには我が子をも犠牲にする冷酷非情な「謀略家」として描かれる 4 。一方で、山岡荘八の小説を原作とするNHK大河ドラマ『春の坂道』では、争いを好まず、剣の道を平和構築のために用いる高潔な「平和思想者」としての側面が強調された 7 。なぜ彼の評価は、これほどまでに分かれるのか。その源泉は、彼の思想と行動そのものに内包された「活人剣(人を活かす剣)」と「殺人刀(人を殺す刀)」という両義性にこそ求められる。本報告書は、史実を丹念に追うことで、この多面的で深遠な人物の実像に迫ることを目的とする。
西暦 |
年号 |
年齢 |
宗矩の動向・役職・石高 |
日本の主な出来事 |
1571 |
元亀2 |
1 |
大和国柳生庄にて誕生 3 |
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1585 |
天正13 |
15 |
太閤検地により柳生家、所領没収 10 |
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1594 |
文禄3 |
24 |
父・宗厳と共に徳川家康に謁見。200石で仕官 12 |
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1600 |
慶長5 |
30 |
関ヶ原の戦いで東軍に属し、後方攪乱に従事 2 |
関ヶ原の戦い |
1601 |
慶長6 |
31 |
旧領回復、計3,000石。徳川秀忠の兵法指南役に就任 2 |
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1615 |
慶長20 |
45 |
大坂夏の陣で秀忠を護衛し、敵兵7人を斬る 10 |
大坂夏の陣 |
1621 |
元和7 |
51 |
徳川家光の兵法指南役に就任 2 |
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1629 |
寛永6 |
59 |
従五位下但馬守に叙任 1 |
紫衣事件 |
1632 |
寛永9 |
62 |
初代大目付(総目付)に就任 3 。『兵法家伝書』を著す 16 。 |
徳川忠長の改易 |
1636 |
寛永13 |
66 |
加増により1万石となり、大名に列する 1 |
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1646 |
正保3 |
76 |
3月26日、江戸にて死去。最終石高1万2,500石。死後、従四位下を追贈 1 。 |
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柳生宗矩という人物の強靭な精神と、権力の中枢へと駆け上がろうとする野心の根源を理解するためには、彼の青年期を覆った「没落」という暗い影を避けて通ることはできない。栄光からの転落と、そこからの再起への渇望こそが、彼の生涯を貫く行動原理を形成したのである。
柳生氏は、その起源を平安時代末期から鎌倉時代に遡る、大和国(現在の奈良県)の有力な国人領主であった 10 。しかし、戦国時代の動乱期にあっては、大和を支配する筒井氏や松永久秀といった強大な戦国大名の狭間で、離反と臣従を繰り返す弱小豪族の悲哀を味わう存在に過ぎなかった 10 。
この一族の中から、柳生家の運命を大きく変える人物が登場する。宗矩の父、柳生宗厳である。宗厳は若い頃から剣の道に励み、「五畿内一の兵法者」と称されるほどの腕前であった 19 。しかし彼の転機は、当代随一の剣豪として名高い上泉信綱との出会いであった。宗厳は信綱に完膚なきまでに敗れ、その場で弟子入りを志願する 19 。この敗北は、彼に単なる強さではない、剣の奥にある「理」の存在を教えた。二年後、宗厳は信綱から新陰流の印可状を与えられ、その正統な継承者となったのである 20 。
柳生宗厳が剣の道で名を馳せる一方で、柳生家の世俗的な運命は暗転する。天正13年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉が実施した太閤検地において、柳生家の領内に「隠し田」があったことが発覚した 1 。この罪により、柳生家は父祖伝来の所領をすべて没収され、一族は離散の憂き目に遭う 10 。
当時15歳であった宗矩にとって、この出来事は筆舌に尽くしがたい衝撃であったに違いない。国人領主としての地位、経済的基盤、そして武士としての誇り、そのすべてを一瞬にして失ったのである。この困窮と屈辱の経験は、宗矩の心に、失われたものを取り戻し、二度と失うことのない盤石な地位と秩序を築きたいという、燃えるような渇望を植え付けた。彼の生涯をかけた徳川家への忠誠と、泰平の世の実現への執念は、この青年期の原体験によって深く刻み込まれたものと言えよう。
流浪の日々を送る柳生家に、再起の好機が訪れる。文禄3年(1594年)、豊臣政権下で関東に封じられていた徳川家康が、黒田長政の仲介を通じて、当時すでに高名な剣豪であった柳生宗厳に謁見を求めたのである 2 。この時、24歳になっていた宗矩も父に同行した。
京都郊外の紫竹村にて、家康の御前で宗厳が披露したのは、新陰流の奥義「無刀取り」であった 2 。これは、武器を持たない素手の状態で、真剣で斬りかかってくる相手の太刀を奪い取り、制圧するという神技である 2 。この技は、師である上泉信綱ですら完成させていなかったものを、宗厳が独自に大成させたとされる 2 。家康は、木刀を振り下ろす宗矩(あるいは別の弟子)の攻撃を、宗厳が柳のように受け流し、一瞬のうちにその喉元に拳を突きつけて制圧する様を目の当たりにした 19 。
家康が感銘を受けたのは、その超人的な技量だけではなかった。彼は、相手を殺傷せずに制圧する「無刀取り」の背後にある、「活人剣」すなわち「人を活かす剣」の思想を見抜いたのである 22 。戦乱の世を終わらせ、新たな秩序を築こうとしていた家康にとって、この思想はまさに時代が求める武士のあり方そのものであった。
伝えられるところによれば、家康はその場で宗厳に入門を誓う誓詞を書き、仕官を請うた 19 。しかし、宗厳は老齢を理由にこれを固辞し、「代わりに心血を注いで育てたせがれの宗矩をお召し抱え下されば望外の幸せ」と述べ、息子を推挙した 19 。家康はこれを快諾し、宗矩は知行200石で徳川家に仕えることとなった 2 。これは、柳生一族にとって、没落の淵から這い上がるための、まさに運命の出会いであった。宗矩の個人的な再起への願いと、家康の天下平定という国家的プロジェクトが、この「無刀取り」という一点で奇跡的に結びついた瞬間であった。
徳川家康に見出された柳生宗矩の人生は、ここから大きな飛躍を遂げる。彼は単なる剣士に留まらず、その類稀なる知謀と剣技を時代の要請に合わせて巧みに使い分け、徳川幕府創成期に不可欠な存在へと変貌していく。彼のキャリアは、兵法が「実戦の武術」から「平時の統治術」へと見事に適応・進化した過程そのものであった。
宗矩が徳川家臣として最初にその価値を示したのは、天下分け目の関ヶ原の戦いであった。慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐に向かう道中で石田三成が挙兵すると、宗矩は家康の密命を受け、故郷である大和国へ派遣された 2 。彼の任務は、大和の在地豪族を調略して東軍に味方させ、西軍の後方を攪乱することであった 14 。この時、彼が発揮したのは腕っ節の強さではなく、情報収集や説得といった情報戦・謀略戦の能力であったと伝えられる 24 。関ヶ原の本戦にも家康の本陣で参戦し、これらの功績が認められて、かつて没収された旧領柳生庄2,000石を回復した 2 。
宗矩が「剣士」としての真価を発揮したのは、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣である。この戦いで、彼は二代将軍・徳川秀忠の側近として従軍した 13 。豊臣方の猛攻により秀忠の本陣が危機に陥った際、宗矩は秀忠の馬前に立ちはだかり、迫りくる敵兵7人(人数には諸説あり)を瞬く間に斬り伏せたと記録されている 10 。これは、公式な記録の中で宗矩が自らの手で人を斬った唯一の事例であり、彼の「殺人刀」が、主君を守るという大義のもとに、冷徹に振るわれた瞬間であった。
戦乱の時代が終わり、世が泰平へと向かう中で、宗矩の役割もまた変化していく。慶長6年(1601年)、彼は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され、3,000石の旗本へと昇進した 2 。さらに元和7年(1621年)には、三代将軍となる徳川家光の兵法指南役にも就任する 2 。
特に家光との関係は、単なる師弟のそれを超えていた。宗矩は家光に対し、新陰流の剣技だけでなく、禅の思想や政治論に至るまでを教授し、その人間形成に絶大な影響を与えた 2 。彼は家光にとって「真の教育者」であり、精神的な支柱であった。家光が稽古中に悪戯で不意打ちを仕掛けようとした際、宗矩が「上様の御稽古である。皆、見るでない」と大喝してこれを諌めたり、平伏しているところに斬りかかってきた家光の太刀を敷物を引いて巧みにかわしたりといった逸話は、二人の間にあった深い信頼関係と、同時に常に真剣勝負のような緊張感が存在したことを物語っている 13 。宗矩の死後、家光が「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという言葉は、その影響の計り知れない大きさを端的に示している 13 。
宗矩のキャリアの頂点を示すのが、寛永9年(1632年)に新設された「大目付(おおめつけ)」への就任である。当初は総目付と称されたこの役職は、徳川家光が幕藩体制の支配を強化する目的で設置したもので、宗矩は秋山正重、水野守信、井上政重と共に、その初代に任命された 3 。
大目付の職務は、諸大名や高家、さらには朝廷の動向を監視し、幕府に対する謀反の企てなどを未然に防ぐことであった 15 。いわば幕府の最高監察官であり、その権限は絶大であった。宗矩はこの役職において、単なる監察官に留まらなかった。彼は、全国各地の大名家に剣術指南役として送り込んでいた柳生新陰流の門弟たちを情報源とする、独自のネットワークを構築していたと推測される 31 。これにより、諸藩の内部情報を的確に収集・分析し、幕府の政策決定に貢献した。この役割は、彼を実質的な「幕府諜報機関の長官」たらしめ、後世に語り継がれる「謀略家・柳生宗矩」というイメージの源泉となった。
彼の政治的手腕が発揮された具体例として、肥後熊本藩主・加藤忠広の改易(領地没収)への関与や 33 、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱における的確な情勢分析が挙げられる。『徳川実紀』などの史料によれば、宗矩は乱の鎮圧に派遣された板倉重昌が小藩の主であることから九州の諸大名を統率できず、討死するであろうことを正確に予見し、家光に派遣の撤回を諌言したという 13 。この進言は聞き入れられなかったが、結果として彼の予測通りとなり、家光をはじめ周囲を驚かせた。これは、彼の能力がもはや個人の武勇の範疇を超え、国家の安全保障に関わる政治・軍事戦略の領域に達していたことを示す好例である。
これらの将軍家への多大な貢献は、宗矩の地位と石高を着実に押し上げていった。関ヶ原の戦い後の2,000石から始まり、秀忠指南役就任で3,000石の旗本となり、寛永6年(1629年)には従五位下但馬守に叙任される 1 。そして大目付としての功績が評価され、寛永13年(1636年)、ついに加増を受けて所領は1万石に達し、大名の列に加わった 2 。最終的には1万2,500石を領する大和柳生藩の初代藩主となり、その生涯を終えた 3 。一介の剣術家が、自らの一代で大名にまで上り詰めるというのは、日本の長い歴史の中でも前例のない、まさに異例中の異例の出世であった 24 。この事実は、彼が自らの価値を、戦国の遺物となりかねなかった「剣の強さ」から、泰平の世が求める「将軍への有用性」へと、見事に転換させることに成功した戦略家であったことを何よりも雄弁に物語っている。
柳生宗矩の功績を真に理解するためには、彼の行動を支えた思想の核心に迫らねばならない。その集大成が、寛永9年(1632年)、宗矩が62歳の時に著した『兵法家伝書』である。この書は単なる剣術の技術書ではない。それは、徳川幕府という新たな政治体制のイデオロギーを構築するための「政治的綱領」であり、武士階級が泰平の世において統治者として君臨し続けるための、哲学的正当性を創出した知的金字塔であった。
『兵法家伝書』は、宮本武蔵の『五輪書』と並び、近世武道書の二大巨峰と称される 16 。しかしその内容は、武蔵が「いかにして勝つか」という実戦的な兵法を追求したのに対し、宗矩の書は一貫して「心法」、すなわち精神のあり方に重きを置いている点に大きな特徴がある 16 。
本書は「進履橋(しんりきょう)」、「殺人刀(せつにんとう)」、「活人剣(かつにんけん)」の三巻から構成される 17 。宗矩は、父・宗厳から受け継いだ新陰流の技法と思想を基盤としながらも、そこに中国の古典(『大学』や『三略』など)や、盟友・沢庵宗彭から学んだ禅の思想を融合させた 16 。これにより、彼は柳生新陰流を単なる一武術流派から、将軍家が学ぶべき「治国の道」へと昇華させ、その思想体系を確立したのである。
宗矩の思想の核心は、「殺人刀」と「活人剣」という二つの概念にある。これは、平和な時代における武力の存在意義という、根源的な問いに対する彼の答えであった。
「殺人刀」の巻では、「兵は不祥の器なり」という老子の言葉を引用し、武力が本質的に忌むべきものであることを認める 16 。しかし、その上で、世が乱れ、罪なき人々が苦しむ時には、その乱れを断ち切るための断固たる武力行使、すなわち「殺人刀」が必要であると説く。これは、平和という目的を達成するための、やむを得ない手段としての武力の肯定である。
これに対し、「活人剣」は、その武力の究極的な目的を示す。「一人の悪をころして、万人をいかすはかりごと」という有名な一節に集約されるように、武力はそれ自体が目的ではなく、多くの人々を生かし、社会全体の安寧を保つための手段でなければならないと定義する 13 。
そして宗矩は、この二つの概念を弁証法的に統合する。すなわち、乱世を平定するために振るわれた「殺人刀」は、ひとたび世が治まれば、その平和を維持するための力、すなわち「活人剣」そのものとなる、と結論づけるのである 13 。これは、徳川幕府による武断政治を正当化すると同時に、泰平の世における武士の役割を「秩序の維持者」として再定義する、極めて高度な政治思想であった。
宗矩の思想の最も独創的な点は、兵法を「小なる兵法」と「大なる兵法」の二つに分けたことにある 40 。
「小なる兵法」とは、個人と個人が対峙する一対一の剣術を指す。これは従来の兵法の概念である。しかし宗矩は、将軍が真に学ぶべきは「大なる兵法」であると説いた。「大なる兵法」とは、一国を治め、天下を泰平に導くための統治術そのものである。彼は、家臣をいかに使いこなすか、民をいかに治めるか、そして国家の政(まつりごと)をいかに運営するかということまでを、兵法の領域に含めたのである 40 。
この思想は、儒教の重要な経典である『大学』に説かれる「修身・斉家・治国・平天下」の理念と深く共鳴している 16 。『大学』では、まず自らの身を修めること(修身)から始まり、それが家庭(斉家)、国家(治国)、そして天下の平和(平天下)へと繋がっていくと説く。宗矩は、この論理を巧みに援用し、剣の修行という個人的な修練(修身)が、最終的には国家を統治する能力(治国平天下)へと直結する道であると論理づけた。これにより、将軍の剣術修行は、単なる護身術や趣味ではなく、「天下を治めるための帝王学」という、極めて高尚な政治的行為へと意味づけられたのである。
宗矩のこうした深遠な思想の形成に、不可欠な存在がいた。臨済宗大徳寺派の僧、沢庵宗彭である。二人の交友は深く、宗矩は沢庵を精神的な師と仰いでいた 3 。
沢庵が宗矩のために説いたとされる『不動智神妙録』は、禅の思想をもって武道の極意を解き明かした画期的な書物であった 39 。特に、心が特定の一点に留まることなく、常に自由で流動的であるべきだとする「不動智」の教えは、『兵法家伝書』における心法の理論的な核となっている 43 。
二人の絆は、寛永6年(1629年)の紫衣事件で試される。幕府の法度に逆らったとして沢庵が罪に問われ、配流された際、宗矩は自らの危険を顧みず、その赦免のために奔走した 13 。後に宗矩は、剣の腕が上達しないと悩む家光に対し、「これ以上は剣術のみならず、禅による心の鍛錬が必要です」と進言し、師として沢庵を強く推挙した 13 。これによって家光は沢庵に深く帰依し、将軍・家光、兵法家・宗矩、禅僧・沢庵という三者の間に、身分を超えた強固な精神的結びつきが生まれた。この三者の関係は、徳川幕府の支配体制を思想的な側面から強固にする上で、計り知れない力となったのである 3 。
徳川幕府の重鎮として、また兵法思想家として公的な顔を持つ柳生宗矩だが、その素顔は家族や一族との関係性の中に垣間見える。特に、天才剣士として名を馳せた長男・十兵衛との関係は、後世の創作において様々な形で描かれ、宗矩の人間的な側面を浮き彫りにする。
宗矩の家庭は、彼の公的なキャリアを支える基盤であると同時に、彼の価値観が試される場でもあった。
人物名 |
宗矩との関係 |
関係性の要約と影響 |
関連資料 |
柳生宗厳(石舟斎) |
父、師 |
新陰流の継承者。無刀取りを通じて柳生家再興の道を開く。剣の求道者としての姿勢は、政治家となった宗矩とは対照的。 |
2 |
徳川家康 |
最初の主君 |
「無刀取り」の思想に感銘を受け、宗矩を登用。柳生家の運命を変えた最大の恩人。 |
2 |
徳川秀忠 |
主君(二代将軍) |
宗矩を兵法指南役として重用。大坂の陣で宗矩に命を救われる。 |
2 |
徳川家光 |
主君(三代将軍) |
宗矩を師として深く信頼し、剣術のみならず統治術も学ぶ。宗矩を大目付、大名へと引き上げた最大の庇護者。 |
2 |
沢庵宗彭 |
盟友、思想的指導者 |
禅の思想(不動智など)を通じて宗矩の「剣禅一如」の哲学形成に絶大な影響を与える。宗矩も紫衣事件で沢庵を庇護。 |
3 |
柳生三厳(十兵衛) |
長男 |
天才的剣士。父とは異なり、政治よりも純粋な剣の道を志向したとされる。父子の確執は後世の創作によるところが大きい。 |
13 |
柳生利厳(兵庫助) |
甥 |
尾張徳川家に仕え、「尾張柳生」の祖となる。宗矩の「江戸柳生」とは不和であったと伝えられる。 |
51 |
柳生新陰流は、宗矩の代で二つの大きな流れに分かれることになる。一つは、宗矩が将軍家に仕えたことで発展した「江戸柳生」。もう一つは、宗矩の長兄・厳勝の子、すなわち甥にあたる柳生利厳(としよし、通称・兵庫助)が、御三家筆頭の尾張徳川家に仕えて興した「尾張柳生」である 51 。
この両家は、江戸時代を通じてほとんど交流がなく、不和であったと伝えられている 52 。その原因については、双方の記録で食い違いが見られる。尾張側の記録では、利厳の父・厳勝の死後、叔父である宗矩が柳生家の所領を独占したことが原因とされる 52 。一方、江戸柳生側の記録では、利厳の妹の再婚問題を巡り、宗矩が利厳に相談なく話を進めたことに利厳が激怒したためとされている 52 。
真相は定かではないが、この対立は両家の家風にも影響を与えた可能性がある。江戸柳生が『兵法家伝書』に代表されるように、「治国の剣」として政治性・思想性を強めていったのに対し、尾張柳生は利厳が著した『始終不捨書』などに見られるように、より純粋な武術としての剣技の探求に重きを置いた 16 。柳生新陰流の正統はどちらにあるのかという論争は、後々まで続くこととなった。
数々の功績を挙げ、大名にまで上り詰めた宗矩の晩年は、比較的穏やかであったようだ。故郷である柳生の陣屋に家臣や近隣の住民を招き、申楽(能楽)や闘鶏に興じることもあったと伝えられている 50 。
正保3年(1646年)3月26日、宗矩は江戸麻布の屋敷で病のため、76年の生涯を閉じた 1 。その死に際して、将軍家光自らが病床を見舞い、「何か望みはないか」と尋ねたという逸話は、二人の絆の深さを何よりも物語っている 44 。宗矩は、息子たちの将来はすべて将軍の御心次第であると述べ、ただ一つ、父・宗厳を弔うために故郷の柳生庄に寺を建て、末子の列堂義仙を住職とさせてほしいと願ったとされる 44 。
家光は宗矩の死を深く悼み、破格の従四位下を追贈した 3 。そしてその後、幕政において何か難しい問題に直面するたびに、「宗矩生きて世に在らば、此の事をば尋ね問ふべきものを(宗矩が生きていれば、このことを相談できるものを)」と、彼の不在を嘆いたと伝えられている 13 。
柳生宗矩が歴史に残した遺産は、単に一代で大名になったという立身出世の物語に留まらない。彼の思想と行動は、江戸時代の武士のあり方を規定し、後世の文化にも多大な影響を与え続けた。そして、その複雑な人物像は、時代時代の価値観を映し出す鏡として、今なお多様な解釈を生み続けている。
宗矩の歴史的功績は、二つの側面に集約される。
第一に、柳生新陰流の確立である。彼の政治的手腕と将軍家からの厚い信頼により、柳生新陰流は単なる一流派を超え、「将軍家御流儀」という公的な権威を獲得した 3 。これにより、柳生家は江戸時代を通じて兵法指南役の家として存続し、その剣技と思想は日本の武道史に確固たる地位を築いた。
第二に、徳川幕藩体制の安定への貢献である。初代大目付として、また将軍家光の個人的な相談役として、彼は幕府創成期の脆弱な支配体制を内部から支えた 3 。彼の張り巡らせた情報網と的確な政治判断は、反乱の芽を未然に摘み、泰平の世の礎を築く上で、計り知れない役割を果たしたのである。
史実の宗矩が偉大な功績を残した一方で、後世の創作物は彼の人物像を大きく二極化させてきた。
一方の極が、深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』(1978年)に代表される「権力に憑かれた謀略家」としての宗矩像である 4 。この作品において彼は、徳川家光を将軍の座に就けるためならば、我が子を駒として使い、平然と死に追いやることも厭わない、冷酷非情な権力者として描かれる。この解釈は、宗矩が大目付として諸大名を監視し、時には改易にも関与したという史実と、彼の「活人剣」思想が持つ「一人の悪を殺して万人を活かす」という非情な側面を、ドラマティックに拡大したものである。映画が制作された1970年代の、既存の権威に対する反発が強かった世相も、こうしたアンチヒーロー的な人物像の受容を後押ししたと考えられる 58 。
もう一方の極が、山岡荘八の小説『春の坂道』(1971年にNHK大河ドラマ化)で描かれた「平和を希求する教育者」としての宗矩像である 7 。こちらでは、宗矩は武力を平和構築のための道と捉え、若き将軍家光を導く高潔な人格者として描かれる。これは、「活人剣」の「万人を活かす」という理想主義的な側面と、沢庵宗彭から学んだ禅の精神性を前面に押し出した解釈である。
なぜ宗矩像は、これほどまでに分裂するのか。その根源は、彼の思想の核心である「活人剣」が、「平和のための武力行使」という、本質的に矛盾をはらんだ概念であるからに他ならない。この両義性こそが、解釈する時代や作家の思想によって、ある時は「殺人刀」の側面が、またある時は「活人剣」の側面が強調されるという、振幅の大きな人物像を生み出す源泉となっているのである。
柳生宗矩は、単純なレッテルで語れる人物ではない。彼は冷酷な謀略家でもなければ、ナイーブな平和主義者でもなかった。彼は、戦国の修羅場を知る徹底した現実主義者(プラグマティスト)であり、泰平という理想の世を維持するためには、時に非情な手段(殺人刀)も辞さない覚悟と、人々を生かすという高い理想(活人剣)の両方が不可欠であると深く理解していた。
彼の真の偉大さは、剣術という一つの専門分野の知識を、政治、哲学、教育といった普遍的な領域へと接続し、自らと一族の価値を激動の時代の中で最大化することに成功した、卓越した知的戦略家であった点にある。柳生宗矩の生涯は、旧来の価値観が崩壊し、新たな秩序が模索された転換期を、いかにして生き抜き、自らがその秩序の創造者となるかを示した、一人の人間の類稀なる知性と行動力の記録として、現代に生きる我々にも多くの示唆を与え続けている。