最終更新日 2025-07-17

柳生家厳

柳生家厳は剣豪・宗厳の父。戦国大和を政治手腕で生き残り、松永久秀に帰順。宗厳の剣術を支え、柳生家繁栄の礎を築いた。

剣豪の父、柳生家厳 ― 戦国大和を生きた国人領主の実像

序章:剣豪の父、柳生家厳 ― 戦国大和を生きた国人領主の実像

柳生家。その名を聞いて多くの人々が想起するのは、剣聖・上泉信綱より新陰流の印可を受け、柳生新陰流の礎を築いた柳生石舟斎宗厳(むねよし)、あるいは徳川将軍家の兵法指南役として一万石の大名にまで上り詰めた柳生但馬守宗矩(むねのり)であろう。彼らの名は、剣の道における至高の象徴として、また権力の中枢で活躍した武士の姿として、今日まで語り継がれている。

しかし、この輝かしい柳生一族の歴史、その全ての礎を築いた人物が存在する。宗厳の父であり、宗矩の祖父にあたる柳生家厳(やぎゅう いえよし)である。彼の名は、あまりにも偉大な子や孫の名声の影に隠れ、歴史の表舞台で語られることは稀である。多くの場合、彼は単に「剣豪・宗厳の父」として、系譜上の一点としてのみ認識されているに過ぎない 1

本報告書は、この柳生家厳という人物に焦点を当て、彼が単なる「剣豪の父」に留まらない、明応6年(1497年)から天正13年(1585年)に至る88年の生涯を、激動の戦国時代にありながら巧みに生き抜いた老練な国人領主であったことを、あらゆる史料を駆使して徹底的に解明するものである。

本報告の視座は、家厳の生涯を、守護不在という特殊な政治的風土を持つ大和国、そして畿内全体の権力闘争という広大な文脈の中に位置づけることにある。彼が下した一つ一つの政治的決断が、いかにして一族の存続と発展、ひいては後の「柳生新陰流」という日本を代表する文化的遺産の誕生に繋がったのか。その複雑かつ深遠な因果関係を深く掘り下げることで、歴史の影に隠された一人の武将の実像に光を当てることを目的とする。

第一章:柳生氏の淵源と戦乱前夜の大和国

柳生家厳の生涯を理解するためには、まず彼が生まれ育った柳生一族の背景と、大和国が置かれていた特異な状況を把握する必要がある。

第一節:柳生一族の出自と本拠地「柳生庄」

柳生氏は、江戸時代に編纂された家譜『玉栄拾遺』などにおいて、菅原氏の後裔を称している 4 。戦国時代の武家が自らの家格と権威を高めるために名門の出自を称することは一般的であったが、柳生氏と深い関わりを持つ中坊氏もまた菅原氏を称し、家紋に梅鉢紋を用いていることから、単なる飾りに留まらない一定の蓋然性も指摘されている 8

柳生氏が歴史の表舞台に明確に姿を現すのは、南北朝時代の動乱期である。柳生永珍(ながよし)が元弘の変(1331年)に際し、笠置山に立てこもった後醍醐天皇の挙兵に馳せ参じた 1 。この功績により、一度は鎌倉幕府に没収された所領を、建武の新政後に回復し、大和国添上郡柳生庄の地に国人領主としての確固たる基盤を築いたのである。

彼らの本拠地である柳生庄は、単なる山間の郷村ではなかった。この地は、古くから春日大社に奉仕する「神戸四箇郷(かんべしかごう)」、すなわち大柳生、小柳生、坂原、邑地の四庄の一部を成していた 8 。この事実は、柳生氏の立場を極めて特殊なものにしていた。大和国において絶大な権力を誇った興福寺と、その末社である春日大社という宗教的権威に直結する「神領」の管理者であったことは、彼らが単なる武力だけの存在ではなく、畿内の政治・経済の中枢と繋がる情報網と交渉力を有していたことを示唆する。

その先進性を示す好例が、柳生庄に残る「柳生の徳政碑文」である 10 。これは正長の土一揆(1428年)に際し、神戸四箇郷の住民が自らの手で債務の破棄を宣言し、その勝利を石に刻んだ記念碑である 13 。民衆が自らの行動を記録として残すことが極めて稀であったこの時代において、このような碑文が存在することは、柳生庄が畿内の経済動向に敏感で、住民の自治意識と結束力が高い、先進的な地域であったことを物語っている。柳生家厳が率いた柳生氏とは、このような宗教的権威と先進的な経済圏を背景に持つ、情報と交渉に長けた国人領主だったのである。

第二節:守護不在の国・大和の権力構造

家厳が生きた戦国期の大和国は、他の多くの国とは一線を画す、極めて特異な政治構造を有していた。鎌倉時代以降、大和には特定の武家が守護として一国を安定的に支配する体制が確立されず、大和最大の荘園領主である興福寺が、実質的な守護の権能を掌握していたのである 16

国内の武士たちは、興福寺の僧侶の資格を得て武装した「衆徒(しゅと)」や、春日大社の神人(じにん)として組織された「国民(こくみん)」といった身分を得ることで、興福寺の権威の下、その統治システムに組み込まれていた 16 。彼らは「大和武士」と総称され、寺社の権威を背景に互いに勢力を競い合っていた。

家厳が柳生家の家督を継承したとみられる16世紀前半、大和国内は筒井氏、越智氏、十市氏、箸尾氏、古市氏といった有力国人たちが離合集散を繰り返す、複雑で流動的な情勢の只中にあった 16 。柳生氏もまた、この「大和武士」の一員として、常に周囲の強大な勢力との均衡を保ちながら、一族の存続を図るという、絶え間ない緊張の中に置かれていたのである 6

第二章:激動の畿内と国人領主・家厳の生存戦略

混沌とした大和国において、柳生家厳は一国人領主として、目まぐるしく変わる畿内の勢力図の中で、巧みな政治判断を下し続けた。その生涯は、まさに弱小勢力が乱世を生き抜くための生存戦略の連続であった。

第一節:新興勢力への追随 ― 木沢長政との連携

天文5年(1536年)、家厳は一つの大きな決断を下す。当時、管領細川氏の内紛に乗じて畿内で急速に台頭していた畠山氏の重臣・木沢長政が信貴山城を拠点に大和へ侵攻すると、家厳はいち早くこれに追随したのである 1 。これは、大和国内の旧来の枠組みに固執するのではなく、畿内全体を動かす新たな権力者を見極め、その傘下に入ることで自勢力の安泰を図るという、家厳の戦略的思考の現れであった。木沢方として、彼は大和の旧守勢力である筒井氏らと干戈を交えることとなる 1 。しかし、この選択は大きなリスクを伴っていた。天文11年(1542年)、木沢長政が管領・細川晴元や三好長慶との戦いに敗れて河内太平寺で敗死すると、柳生氏は強力な後ろ盾を瞬時に失い、存亡の危機に立たされた。

第二節:筒井氏への屈服 ― 小柳生合戦と家名存続の決断

木沢氏の没落は、好機と見た筒井順昭による反攻を招いた。順昭は木沢残党の掃討に乗り出し、その矛先は柳生氏にも向けられた。天文13年(1544年)、『多聞院日記』によれば一万余と号する筒井氏の大軍が柳生家の本拠地・小柳生城に殺到した 6

この時、当主の家厳と、まだ10代後半であった嫡男・宗厳は、一族を率いて奮戦する。三日間に及ぶ激しい攻防戦が繰り広げられたが、衆寡敵せず、小柳生城はついに落城した 6 。絶体絶命の状況下で、家厳は降伏を決断し、筒井氏への臣従を受け入れる 1 。この決断は、単なる敗北ではなく、無益な抵抗による一族の根絶を避け、家名を未来に繋ぐための、国人領主としての現実的かつ不可欠な選択であった。この後、柳生氏は筒井氏の配下として行動し、若き宗厳は吐山(はやま)城攻めなどで武功を立て、筒井氏から賞されるなど、新たな主君の下でその存在感を示していった 26

第三節:戦略的転換 ― 松永久秀への寝返り

筒井氏配下として雌伏の時を過ごしていた柳生氏に、最大の転機が訪れる。永禄2年(1559年)、畿内の覇者であった三好長慶の重臣・松永久秀が、筒井氏を標的として大和へ侵攻を開始したのである 1 。大和の勢力図を根底から覆す、新たな権力の登場であった。

この動きに対し、筒井氏は柳生氏の離反を防ぐため、白土(しらつち)の地を与えるといった引き留め工作を行った 27 。しかし、家厳・宗厳父子はこれに応じなかった。彼らは、大和を瞬く間に席巻する松永氏の圧倒的な力と、その背後にある三好中央政権の権勢を見抜き、筒井氏を見限って松永氏に帰順するという、大胆な賭けに出たのである 1

この「寝返り」は、単なる目先の利害や忠誠心の欠如によるものではない。それは、畿内全体のパワーバランスの変化を的確に読み解いた上での、一族の生存と発展を賭けた高度な戦略的判断であった。筒井氏はあくまで大和国内の有力者に過ぎないが、松永久秀は畿内全域を支配する三好長慶という中央政権を背景に持つ。家厳はかつて木沢長政という畿内レベルの権力者に従った経験から、大和国内の勢力争いに留まるよりも、より大きな権力構造に組み込まれることの重要性を痛感していた。松永氏への帰順は、柳生氏が所属する「世界」を大和国レベルから畿内レベルへと引き上げることを意味した。事実、この決断の後、息子の宗厳は久秀の側近として外交の取次ぎなど、畿内政治の中枢に関わる重要な役割を担うことになり、これは筒井氏配下のままでは決して得られなかった地位であった 27 。この戦略的転換こそ、柳生氏が地方豪族から中央政界と繋がる存在へと飛躍するための、極めて合理的な一手だったのである。

表1:柳生家厳の生涯と大和国勢力の変遷

家厳の複雑な政治的遍歴と、その決断の背景にある情勢変化を以下に要約する。

西暦 (A.D.)

和暦 (Japanese Era)

家厳の年齢 (approx.)

柳生家厳・柳生氏の動向

大和国の主要勢力

関連史料・出典

1497

明応6

0

柳生家厳、誕生

筒井・越智氏ら国人割拠

1

1536

天文5

39

畠山氏重臣・木沢長政に従属。筒井氏と敵対。

木沢長政

1

1542

天文11

45

主君・木沢長政が敗死し、後ろ盾を失う。

筒井順昭

1

1544

天文13

47

筒井順昭に小柳生城を攻められ、降伏・臣従する。

筒井順昭

1

1559

永禄2

62

筒井氏を離反し、大和に侵攻した松永久秀に帰順。

松永久秀(三好氏)

1

1563

永禄6

66

嫡男・宗厳が上泉信綱と出会い、新陰流に入門。

松永久秀(三好氏)

1

1568

永禄11

71

織田信長の上洛。松永氏と共に信長に従う。

織田信長・松永久秀

1

c.1571

元亀2

74

大和の戦乱収束後、家督を宗厳に譲り隠居。

織田信長・筒井順慶

1

1585

天正13

88

逝去。

豊臣秀長(羽柴氏)

1

第三章:松永氏配下での飛躍と「剣豪・宗厳」の誕生

松永久秀への帰順は、柳生家にとって大きな飛躍の機会となった。それは単に主君を変えただけでなく、一族の在り方そのものを変革する契機となったのである。

第一節:父子の役割分担 ― 老練な当主と躍動する嫡男

松永氏の配下において、柳生家は巧みな役割分担を実践した。父・家厳は柳生家の当主として、長年の経験に裏打ちされた政治感覚で大局的な判断を下し、一族の安定と領地経営に専念した。一方、嫡男の宗厳は、武将として、また久秀の近習として、政治の最前線で活動した 27

柳生家に残された古文書群『柳生文書』には、この時期の宗厳の活躍を物語る史料が数多く含まれている。そこには、久秀から宗厳個人に宛てられた書状や、宗厳が取次役として扱った三好家中の機密情報を含む書状などが残されている 26 。これらの文書は、宗厳が単なる一武将ではなく、久秀から厚い信頼を寄せられ、外交や情報管理といった極めて重要な役割を担う側近であったことを明確に示している。この老練な父と躍動する嫡男による役割分担は、経験に裏打ちされた政治力と、若く有能な実行力を組み合わせた、柳生氏の巧みな組織戦略であったと言えよう。

第二節:剣の道への専心 ― 政治的安定がもたらした文化的投資

永禄6年(1563年)、宗厳の人生、そして柳生家の運命を決定づける出会いが訪れる。興福寺の子院・宝蔵院の院主であり、槍術の達人でもあった胤栄(いんえい)の紹介で、諸国を遍歴していた剣聖・上泉信綱と相見えるのである 28 。当時、宗厳は「五畿内一の兵法者」と称されるほどの腕前であったが、信綱とその高弟・疋田景兼(ひきたかげかね)との立ち合いで完膚なきまでに敗北を喫した 1 。己の未熟を悟った宗厳は、その場で即座に信綱への弟子入りを志願する。

宗厳が剣の修行に没頭し、永禄8年(1565年)に信綱から新陰流の印可状を授かることができた背景には、見過ごすことのできない重要な要素がある。それは、父・家厳が松永氏との関係を安定させ、柳生庄の領地経営を盤石にしていたという、強固な政治的・経済的基盤の存在である。

戦国時代の国人領主にとって、最大の責務は領地と一族を守ることであった。武芸の修行は重要だが、それはあくまで手段の一つであり、当主自らが長期間それに専念することは、領地経営や政治工作を疎かにする危険性を孕んでいた。宗厳が上泉信綱に入門し、修行に打ち込めた永禄年間、柳生氏は松永氏の庇護下にあり、大和国内での立場は比較的安定していた。この安定は、父・家厳の巧みな政治判断によってもたらされたものである。家厳が当主として政治と経済の舵取りをしっかりと行っていたからこそ、嫡男の宗厳は安心して「武芸」という専門分野の深化、いわば一族の将来への「技術投資」に時間を費やすことができたのである。もし家厳が筒井氏配下に留まるなど、不安定な状況に身を置き続けていれば、宗厳は日々の合戦や政争に追われ、剣の道を極める時間的・精神的余裕はなかったであろう。したがって、家厳の政治家としての成功は、宗厳が剣豪として大成するための必要不可欠な前提条件であった。柳生家の歴史は、政治(家厳)と武芸(宗厳)という両輪が完璧に噛み合った時に、大きく飛躍したのである。

第三節:家督継承と隠居

永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、畿内の政治情勢は再び大きく変動する。柳生氏が属する松永久秀は信長に従属するが、後に反旗を翻して天正5年(1577年)に滅亡。代わって、信長に恭順した筒井順慶が大和一国の支配を認められる。

この大和の戦乱が一旦収束した元亀年間(1570年-1573年)頃、家厳は70歳を超えた年齢で家督を宗厳に譲り、隠居生活に入ったと見られる 1 。長年にわたる国人領主としての重責を全うし、次代への円滑な移行を図った、まさに潮時を心得た引退であった。

第四章:晩年と柳生家の未来への礎

家督を譲った後も、家厳は柳生家の行く末を静かに見守り続けた。彼の晩年は、柳生家が新たな時代へ向かうための、最後の産みの苦しみの時期と重なっていた。

第一節:隠居後の家厳と一族の動向

家厳は天正13年(1585年)に88歳でその長い生涯を閉じるまで、約15年間の隠居生活を送った 1 。この間、家督を継いだ宗厳は、主君であった松永氏の滅亡後、大和の新たな支配者となった筒井順慶にも完全には従属せず、十市氏と結ぶなど、巧みなバランス感覚で独立性を保ちながら、柳生の地で新陰流の深化に努めた 1

しかし、家厳が没する天正13年、柳生家は最大の危機に直面する。天下人となった豊臣秀吉による太閤検地で隠し田が摘発され、先祖伝来の所領を没収されてしまったのである 1 。一族は離散の危機に瀕し、宗厳は浪々の身となった。家厳の死は、奇しくもこの柳生家最大の危機の直後であった。

第二節:家厳の遺産 ― 政治的判断が切り拓いた道

柳生家厳の生涯は、まさに戦国大和の縮図であった。彼は木沢長政、筒井順昭、松永久秀、そして織田信長と、次々と現れる畿内の覇者たちに巧みに対応し、その都度、一族にとって最善の道を選択し続けた。

彼の最大の功績は、永禄2年(1559年)に松永久秀への帰順を決断し、柳生氏を大和の地方豪族という立場から、畿内の中央政界と直接繋がる存在へと引き上げたことにある。この時に築かれた人脈と得られた情報は、たとえ松永氏が滅亡した後も柳生家の無形の資産となり、後に宗厳が徳川家康に見出される遠因となったことは想像に難くない。

柳生家の成功物語は、通常、宗厳が上泉信綱から新陰流を継承し、孫の宗矩が徳川家に仕官したところから華々しく語られる。しかし、その成功の前提には何があったのかを遡れば、必ず家厳の代に行き着く。もし彼が天文13年の筒井氏との戦いで徹底抗戦の末に滅亡していれば、柳生家の歴史はそこで終わっていた。もし彼が永禄2年に松永氏への帰順という大胆な戦略的転換を行わなければ、宗厳は一介の地方武将に留まり、剣の道を極める機会も、徳川家康の目に留まるような畿内での知名度も得られなかった可能性が高い。

家厳の行動は、常に「一族の存続と地位向上」という明確な目的意識に貫かれていた。彼の選択は、結果的に息子・宗厳に「剣」という専門性を磨かせ、孫・宗矩に「政治」の世界で活躍する道を開いた。つまり、家厳の現実的な政治戦略が、後の世代がその才能を開花させるための肥沃な土壌を作り上げたのである。彼は、自らは剣を振るうことなく、政治という戦場で戦い抜き、一族に輝かしい未来をもたらした。この点を以て、柳生家厳を単なる「剣豪の父」としてではなく、柳生家繁栄の真の「設計者」として再評価することが可能である。

第三節:墓所と後世への伝承

柳生家厳の墓は、現在、奈良市柳生下町にある柳生家の菩提寺・芳徳寺の墓所内に、息子・宗厳や孫・宗矩ら一族と共に静かに眠っている 32 。この寺は、孫の宗矩が父・宗厳の菩提を弔うために建立したものであるが、その墓所には父・宗厳と並んで祖父・家厳の墓石が鄭重に祀られている 33 。これは、一族の繁栄の礎を築いた家厳の功績が、後世の柳生家においても正しく認識され、敬意を払われていたことを示唆している。

彼の生涯は、派手な武勇伝や劇的な逸話に乏しいため、物語の主人公となることは少ない。しかし、その堅実で戦略的な生き様こそ、戦国乱世における中小国人領主のリアルな姿であり、歴史の表舞台を支えた無数の人々の営みを我々に教えてくれる、貴重な歴史的遺産なのである。

結論:乱世の航海術 ― 柳生家厳の生涯が示すもの

柳生家厳の88年にわたる生涯は、守護不在という混沌の海であった大和国において、一艘の小舟に等しい国人領主がいかにして荒波を乗り越え、次代に希望の舵を繋いだかを示す、見事な「航海術」の手本であった。

彼は、木沢、筒井、松永、織田、豊臣と、目まぐるしく変わる勢力図という名の風を読み、潮流を見極め、時には屈辱という名の帆を下げ、時には大胆な賭けという名の転舵を行い、柳生という船を沈没させることなく航海し続けた。

彼の政治家としての成功がなければ、息子・宗厳の剣が磨かれることはなく、孫・宗矩の権勢もまたあり得なかったであろう。柳生家厳こそ、歴史の影に隠れた、しかし真に偉大な「柳生一族の創業者」であり、彼の現実主義に徹した生涯を理解することなくして、剣豪一族・柳生の真の歴史を語ることはできない。本報告書が、その実像に新たな光を当てる一助となれば幸いである。

引用文献

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