最終更新日 2025-07-24

栗山利章

栗山利章は黒田藩家老。主君・忠之の不行跡を幕府に直訴し「黒田騒動」を起こす。藩存続を願う忠義と解釈され、幕府は巧妙な裁定を下す。彼の行動は近世初期の主従関係の変容を象徴する。

栗山利章の生涯と黒田騒動の真相 ―忠誠と確執、近世初期大名家の実像―

序章:栗山大膳利章 ― 歴史に刻まれた忠臣か、反逆者か

江戸時代初期の寛永9年(1632年)、筑前国福岡藩52万石で、封建社会の根幹を揺るがす前代未聞の事件が発生した。藩の筆頭家老である栗山利章(通称・大膳)が、主君である二代藩主・黒田忠之を「幕府に対し謀反の企てあり」と公然と訴え出たのである 1 。この「黒田騒動」、あるいは「栗山大膳事件」として知られるこの一件は、利章を歴史上、極めて特異な人物として位置づけることとなった 3

主君を告発するという行為は、主従関係を絶対的なものとする武家社会の倫理において、最大の裏切りに他ならない。しかし、後世における利章の評価は、単純な反逆者として断罪されるものではなかった。むしろ、彼の行動は、主君の失政による御家の取り潰しを恐れ、自らが罪人となることを覚悟の上で藩の存続を図った、究極の忠義の表れであったとする見方が広く受け入れられている 2

一方で、彼の人物像を、生真面目で融通が利かず、自らの信じる忠義に固執するあまり、主君や同僚から疎外され、追い詰められた末に主家を危機に陥れた独善的なものと捉える解釈も存在する 5 。果たして栗山利章は、身を挺して主家を救った稀代の忠臣だったのか。それとも、その硬直した正義感が招いた悲劇の主人公だったのか。

本報告書は、福岡藩の公式記録、同時代の他藩の書状、そして後世に編纂された物語に至るまで、断片的に残された史料を丹念に読み解き、この歴史的な問いに多角的に迫るものである。第一部では、利章の出自と、彼の行動原理を形成した偉大な父・利安の存在を明らかにする。第二部では、藩主・忠之との確執から幕府の裁定に至る「黒田騒動」の全貌を、その政治的背景と共に詳細に分析する。そして第三部では、騒動後の利章の流転の人生と、史実と創作の狭間で語り継がれてきた「栗山大膳」像の形成過程を追う。これらの検証を通じて、栗山利章という一人の武士の生涯を深く掘り下げ、近世初期における大名家の内実と、変容する主従関係の実像を浮き彫りにすることを目的とする。


第一部:礎 ― 黒田家臣筆頭・栗山一族の系譜

栗山利章という人物を理解するためには、まず彼が背負っていたものの大きさを知らねばならない。それは、父・利安が一代で築き上げた「黒田家随一の忠臣」という輝かしい名声と、それに伴う重責であった。

第一章:父・栗山利安の威光

栗山利章の父、栗山備後守利安(通称・善助)は、黒田家の歴史において傑出した存在であった。黒田官兵衛(孝高、後の如水)と長政の二代に仕え、黒田二十四騎、そしてその中でも精鋭とされる黒田八虎の一人に数えられる、まさに黒田家臣団の筆頭と言うべき人物である 7 。家臣の中では序列第一位の「一老」と称され、その武功と知略は広く知れ渡っていた 10

利安の功績の中でも特に名高いのが、主君・官兵衛との絶対的な信頼関係を象徴する逸話である。天文19年(1550年)に播磨国姫路近郊の栗山に生まれた利安は、永禄8年(1565年)、15歳の時に官兵衛の側近として仕え始めた 8 。天正6年(1578年)、織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得するため有岡城に赴いた官兵衛が、逆に捕らえられ土牢に幽閉されるという絶体絶命の危機に陥った際、利安は同僚の母里太兵衛と共に何度も城内に潜入して主君を励まし、翌年の落城時には燃え盛る城中から官兵衛を救出した 8 。この命懸けの救出劇は、利安の揺るぎない忠節を物語るものとして、後々まで語り継がれることとなる。

利安の人物像は、単なる猛将に留まらない。黒田家が筑前国に入り52万石の大名となると、利安も朝倉郡に1万5千石を与えられ、左右良(まてら)城主という大身になった 8 。しかし、その身分に驕ることは一切なく、道で誰かに会った際には身分の上下に関わらず必ず馬から下りて挨拶をし、決して礼を失うことのない、非常に謙虚な人物であったと伝えられる 8 。また、自身の生活は質素を旨とし、寡黙でありながら、家臣や領民の困窮を聞きつければ、返済の催促なしで金銀を貸し与えるなど、深い情けを持ち合わせていた 8

この偉大な父の存在は、息子・利章の人格形成に決定的な影響を与えた。利安は自身の経験を振り返り、「わしは先君(官兵衛)に仕えて3年目に初めて足軽の小者を1人もらった。これが一番嬉しかった。(中略)人間というものは付け上がるものだから、若者たちは初心を忘れぬように、よく注意しなければならぬよ」と語ったという 8 。戦国の世を生き抜き、主君との絶対的な信頼関係を基盤に、武功と仁徳の両方で家中の尊敬を集めた父・利安は、利章にとって乗り越えるべき、そして模倣すべき「理想の忠臣」像そのものであった。利章が後に見せる、常軌を逸したとも言えるほどの硬直した忠誠心は、この偉大な父から「黒田家を守護する」という責務を継承した者の、宿命的な重圧の裏返しであったのかもしれない。

第二章:若き日の利章と確執の萌芽

天正19年(1591年)、栗山利安の嫡男として生まれた利章は、父の跡を継いで黒田家に仕え、筆頭家老の地位を約束されたエリートであった 15 。彼は父同様、黒田長政に仕え、その嫡男であり、後に二代藩主となる万徳丸(後の忠之)の傅役(守役)を務めた 6 。このことは、彼が次代の藩政においても中心的な役割を担うことを期待されていた証左である。

利章が若き日にその存在感を示したのが、主君・長政が忠之の廃嫡を考えた際の一件である。長政は、慶長7年(1602年)生まれの嫡男・忠之の奔放で器量の狭い性格を深く憂い、廃嫡して聡明とされた三男・長興に家督を譲ろうと具体的に動いたことがあった 6 。この時、傅役であった利章は、これを阻止するために奔走する。彼は、600石以上の藩士の嫡子90人を集め、「若殿に反省の機会を与えていただきたい。もし聞き入れられなければ、我々は全員切腹して若殿にお供する」という血判状を取りまとめ、長政に嘆願した 6 。藩の中核を担う若者たちが全員殉死すれば、黒田家の将来は成り立たない。長政は「これは大膳(利章)の考えに違いない」と、その覚悟を認め、廃嫡を思いとどまったという 6 。この時点において、利章は紛れもなく、自らが仕えるべき若き主君・忠之を守り、その将来を案じる忠実な家臣であった。

長政は元和9年(1623年)に亡くなるが、その死の床で、利章と小河内蔵允を呼び、忠之の後見を託したと伝えられている 6 。父・利安から受け継いだ忠誠心と、長政からの直接の遺命。この二重の責務が、利章の双肩に重くのしかかることになった。

利章は、単なる武辺一辺倒の武士ではなかった。元和7年(1621年)には、遠賀川流域の治水、灌漑、そして水運を目的とした「堀川」の掘削工事に着手しており、土木事業における高い能力と先見性も有していた 16 。また、江戸では当代随一の学者であった林羅山に学ぶなど、儒学にも通じた知識人としての一面も持っていた 20 。文武両道にわたり、藩政を支えるに足る能力を備えていたからこそ、長政は彼に未来を託したのである。しかし、この実直さと学問に裏打ちされた強い正義感が、後に主君・忠之の奔放な性格と激しく衝突する火種となることを、この時点では誰も予想していなかった。


第二部:激震 ― 黒田騒動の全貌

父・長政の死後、藩主となった忠之と、後見役である利章の関係は、次第に修復不可能な亀裂を生んでいく。それは、戦乱を知らない新世代の君主と、戦国の気風を色濃く残す旧世代の家老との、価値観の衝突でもあった。


表1:黒田騒動 関連年表

西暦

和暦

出来事

関連人物の年齢(数え年)

1550年

天文19年

栗山利安、生まれる

-

1591年

天正19年

栗山利章、生まれる

-

1602年

慶長7年

黒田忠之、生まれる

-

1623年

元和9年

黒田長政、死去。忠之が二代藩主に就任

忠之: 22歳, 利章: 33歳

1624年頃

寛永元年頃

忠之、側近・倉八十太夫を重用し始める

忠之: 23歳, 利章: 34歳

1630年頃

寛永7年頃

忠之、幕府禁制の大型船「鳳凰丸」を建造

忠之: 29歳, 利章: 40歳

1631年

寛永8年

栗山利安、死去

享年82歳

1632年

寛永9年5月

肥後熊本藩主・加藤忠広、改易される

-

1632年

寛永9年6月

栗山利章、幕府に忠之の謀反を直訴

忠之: 31歳, 利章: 42歳

1633年

寛永10年3月

幕府による裁定が下る

忠之: 32歳, 利章: 43歳

1637年

寛永14年

島原の乱が勃発。忠之、出陣し武功を挙げる

忠之: 36歳

1652年

承応元年

栗山利章、配流先の盛岡にて死去

享年62歳

1654年

承応3年

黒田忠之、死去

享年53歳


第三章:対立の激化 ― 君臣の亀裂

二代藩主・黒田忠之は、祖父・如水や父・長政とは全く異なる環境で育った。戦乱の苦労を知らず、生まれながらにして52万石の大藩の世継ぎであった彼は、性格も華美を好み、わがままで、家臣団に対しても好き嫌いを露わにする傾向があったと記録されている 21 。この新世代の藩主の登場が、黒田家に長く培われてきた質実剛健の家風を揺るがし、騒動の直接的な原因となっていく。

忠之の藩政運営における最大の問題は、譜代の功臣たちを遠ざけ、自らの意のままになる側近を重用したことにあった。その象徴が、小姓から取り立てられた倉八十太夫である 5 。忠之は十太夫を異常なまでに寵愛し、本来200石程度の家柄であった彼を、最終的には9千石から1万石という破格の大身へと引き上げた 24 。さらに、他の重臣に諮ることなく家老職に任じるなど、藩の序列と秩序を著しく乱した 1

加えて、忠之の行動は幕府の政策を軽んじるかのような、危険な兆候を示し始めた。徳川幕府が武家諸法度によって大名の軍備を厳しく制限し、軍縮を進めていた時代にもかかわらず、忠之は十太夫に命じて豪華絢爛な大型軍船「鳳凰丸」を建造させた 1 。これは、いつ謀反の疑いをかけられてもおかしくない、極めて挑発的な行為であった。さらに、幕府に無断で足軽を200人新規に召し抱え、それを十太夫の配下とするなど、軍備拡張とも受け取られかねない独断専行を繰り返した 1

こうした主君の暴走に対し、傅役であり筆頭家老である利章は、父・長政の遺言を守り、再三にわたって忠之を諫めた。しかし、忠之はこれらの諫言に耳を貸すどころか、利章を「口うるさい奴」として次第に遠ざけていく 19

両者の対立が決定的なものとなったのが、「合子形兜(ごうすなりかぶと)」を巡る一件である。この兜は、かつて黒田如水が栗山家に下賜した家宝であった。忠之は、この兜が黒田家伝来のものであることを理由に、利章に返上を命じた。利章は釈然としないまま渋々これに応じたが、忠之がその家宝をあろうことか寵臣の倉八十太夫に与えてしまったことを知る 24 。父祖の代からの栄誉の象徴を、成り上がりの寵臣に与えられたことに利章は激怒。十太夫の屋敷に乗り込み、「この兜は汝のような者が持つべきものではない」と力ずくで取り返し、藩の蔵に納めてしまったという 24 。この事件は、もはや単なる政策上の対立ではなく、両者の感情的な溝が修復不可能なレベルに達したことを示している。関係は極度に悪化し、利章は忠之によって毒殺されるのではないかという強迫観念にさえ苛まれるようになったと伝えられている 6

第四章:主君への直訴 ― 究極の賭け

主君との関係が破綻し、自らの命にさえ危険を感じるようになった栗山利章は、ついに常識では考えられない最後の手段に打って出る。寛永9年(1632年)6月、彼は自領を離れ、九州諸大名の動向を監視する幕府の出先機関である日田代官所へ赴き、代官の竹中采女正(うねめのしょう)に対して「我が主君、黒田忠之に幕府への謀反の企てあり」と記した訴状を提出したのである 6

この前代未聞の行動の動機については、複数の解釈が存在する。最も広く知られているのは、主家を救うための苦肉の策であったとする「主家救済説」である 4 。この説によれば、利章は忠之の放埓な振る舞いが続けば、いずれ黒田家は幕府によって取り潰される(改易)と確信していた。それを未然に防ぐため、自らが「主君を訴える」という大罪を被ることを覚悟の上で、あえて問題を公にし、幕府の穏便な介入を招くことで、藩そのものの存続を図ったというものである 1

一方で、利章の個人的な動機を重視する見方もある。生真面目すぎる性格と、自らが信じる「忠義」への過剰なこだわりが、現実的な政治感覚を欠いた行動につながったとする説である 5 。主君に疎まれ、家中で孤立し、その存在意義を脅かされた利章が、自らの面目を保ち、この窮地を打開するために、一世一代の賭けとしての騒動を引き起こしたという解釈も可能である 6

いずれにせよ、この行動は単なる自暴自棄なものではなく、利章なりの計算に基づいたものであった。彼にはいくつかの勝算があったと考えられる。第一に、関ヶ原の戦いの後、徳川家康が黒田長政の功績を称え、「子々孫々まで疎略にしない」と約束した感状の存在である 6 。利章は、この「神君家康公」のお墨付きを最後の切り札として、最悪の事態である改易だけは免れるだろうと踏んでいた 6 。第二に、訴え出た相手である日田代官・竹中采女正が、かつて父・利安の盟友であった軍師・竹中半兵衛の縁者であったこと、そして自らの師である林羅山が幕府中枢に影響力を持っていたことなど、彼が築いてきた人脈も頼りになったはずである 27

この決断の背景には、当時の緊迫した政治状況があった。利章が直訴するわずか1ヶ月前の寛永9年5月、隣国肥後の大大名であった加藤忠広(加藤清正の子)が、些細な不行跡を理由に突如改易されるという事件が起きていた 6 。54万石の大藩ですら、いとも簡単に取り潰されるという現実は、利章に「もはや一刻の猶予もない」という強い危機感を抱かせたに違いない。

第五章:幕府の裁定 ― 計算された政治判断

筆頭家老による主君の謀反告発という知らせは、江戸の幕府中枢に激震を走らせた。幕府は直ちに黒田忠之と栗山利章の双方に江戸への出府を命じ、評定所での審理が開始された。しかし、忠之は「家臣と主君が公の場で対決するなど、古今東西聞いたことがない。それを強要されるくらいなら切腹する」と述べ、直接の対決を断固として拒否した 6 。この態度は、老中たちに「さすがは長政の息子だ」と感心させたとも伝えられる。

忠之の代理として家老の黒田美作と小河内蔵允が評定の場に立ったが、利章の理路整然とした雄弁の前に、有効な反論ができなかったという 6 。しかし、利章が挙げた「謀反の証拠」はいずれも決定的なものではなかった。鳳凰丸の建造や足軽の増員は確かに問題ではあったが、それだけで謀反と断定するには弱かったのである。

訴えの内容に不審な点を感じた老中筆頭の土井利勝らは、利章を単独で呼び出して真意を質した。密室での尋問に対し、利章はついに本心を打ち明ける。「このままでは、主君の性格によっていずれ黒田家は滅亡する。それならば自分が悪者になり、事を公にすることで、所領の一部だけでも安堵してもらおうと考えた。藩の取り潰しは本意ではない」と、涙ながらに告白したと伝えられている 6

この告白を受け、寛永10年(1633年)3月、三代将軍・徳川家光自らの名で裁定が下された。その内容は、極めて巧妙な政治的バランスの上に成り立っていた。

  • 黒田忠之に対して: まず「治世に行き届かぬ点があった」として、一度、筑前52万石の領地を 没収 する。しかし、続けて「父・長政の関ヶ原における忠勤戦功に免じ、特別に旧領をそのまま 再安堵 する」とした 16
  • 栗山利章に対して: 「主君を直訴した罪は重い」として、陸奥盛岡藩の南部家へ お預け(配流)とする。しかし、同時に生涯にわたり150人扶持 という、大身旗本並みの破格の待遇を与えることを命じた 6
  • 倉八十太夫に対して: 騒動の一因として、高野山への 追放 処分となった 5

この裁定は、単なる御家騒動の仲裁を超えた、高度な政治的パフォーマンスであった。当時、家光政権は武断政治によって諸大名の力を削ぎ、幕府の絶対的権威を確立しようとしていた。黒田騒動は、そのための絶好の機会となったのである。幕府は、忠之の領地を形式的に「没収」し「再安堵」することで、「全ての大名の領地は将軍から預かっているもの」という幕藩体制の基本原則を全国の諸大名に改めて強く認識させた。一方で、家康の感状を尊重し黒田家を取り潰さないことで、徳川家の恩義と温情をも示した。そして、利章を処罰しつつも厚遇することで、「主君への直訴は許さない」という封建秩序の原則を貫きながらも、彼の行動の根底にあった忠義心を暗に認め、他の大名家の家臣たちへの配慮も見せた。結果として幕府は、この騒動を利用して、処罰、温情、原則論を巧みに使い分け、血を流すことなく、その絶対的な統治権を見事に天下に示威したのである。


第三部:流転と遺産 ― 騒動後の世界

幕府の裁定により、黒田騒動は一応の決着を見た。しかし、この事件は関係者たちのその後の人生に、そして後世の歴史認識に、長く深い影響を及ぼし続けることとなる。

第六章:奥州盛岡での後半生

栗山利章は、裁定により陸奥国盛岡へと送られた。表向きは「主君を訴えた罪人」としての配流であったが、その待遇は異例のものであった。預かり先となった南部藩では、彼は罪人として扱われることはなく、幕府から生涯にわたり150人扶持という手厚い経済的保障を与えられた 6 。これは、当時の一般的な扶持米の基準で換算すれば、150人が一年間生活できるだけの米に相当し、大身旗本に匹敵する禄高である。さらに、城下五里四方の自由な散策が許されるなど、その生活は比較的自由なものであった 20

南部藩が利章をこれほど厚遇した背景には、いくつかの理由が考えられる。第一に、幕府が彼の待遇を具体的に指示しており、その根底に利章の行動の「忠義」の側面を評価していたことがうかがえる。預かり先である南部藩としては、幕府の意向を忖度し、丁重に扱うのが当然であった。第二に、かつて52万石の大藩の筆頭家老を務めた大人物に対する、武家社会としての敬意もあっただろう。さらに、南部藩が、利章の持つ儒学の素養や、福岡藩で大規模な治水工事を手がけた土木技術の知識を、自藩の藩政に活かしたいという実利的な思惑を抱いていた可能性も否定できない 16

盛岡での利章は、同じく対馬藩から配流されていた儒学者・規伯玄方(きはくげんぽう、通称・方長老)といった知識人たちと親交を結び、盛岡城下の文化振興に寄与したと伝えられている 15 。故郷から遠く離れた北の地で、彼は武人としてではなく、文化人として穏やかな後半生を送った。そして承応元年(1652年)、波乱に満ちた生涯を62歳で閉じた 6 。その墓は、今も盛岡市の恩流寺に静かに佇んでいる 30

第七章:残された者たち

一方、騒動の中心にいた黒田忠之は、事件後、人が変わったかのように藩政に力を注ぐようになる。特に、騒動から4年後の寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発すると、自ら一軍を率いて出陣し、幕府軍の一翼として原城攻撃などで武功を挙げた 16 。さらに、寛永18年(1641年)からは、幕府より肥前佐賀藩との交代で、海外貿易の窓口である長崎の警備を命じられる 35 。この重要な任務を忠実にこなすことで、忠之は騒動で失墜した名誉を着実に回復していった 16

忠之の寵愛を一身に受け、騒動の一因となった倉八十太夫の末路は対照的であった。高野山へ追放された後、彼は名誉挽回を期して島原の乱に黒田家の陣借りという形で参加したが、目立った手柄を立てることはできず、黒田家への復帰は叶わなかった。その後、上方で失意のうちに死去したと伝えられている 5

利章の一族は、彼の配流によって断絶することはなかった。盛岡で生まれた息子・利正は母方の姓を名乗り「内山氏」として南部藩に仕え、その血脈を伝えた 32 。また、福岡に残された嫡男の利周らは引き続き黒田家に仕え、栗山家は存続を許された。これは、幕府の裁定が利章個人の罪とし、一族への連座を禁じた寛大な措置の現れであった 31

第八章:語り継がれる「大膳」 ― 史実と創作の狭間で

黒田騒動は、その劇的な展開から、後世の人々の強い関心を引きつけ、様々な形で語り継がれることとなった。しかし、その過程で史実の栗山利章像は、物語の登場人物としての「栗山大膳」像へと変容していく。

まず、藩の公式記録である『黒田家譜』などは、当然ながら藩主・忠之の立場から編纂されており、利章を主君に背いた反逆者として否定的に描く傾向が見られる 38 。一方で、利章の視点から書かれたとされる『栗山大膳記』や、隣藩の藩主・細川忠利が残した書状など、他者の視点からの記録は、騒動の多面的な様相を伝えている 1

江戸時代も中期から後期に入ると、この事件は実録本や講談の格好の題材となる。『箱崎文庫』や『寛永箱崎文庫』といった読み物が人気を博し、講釈師によって語られるうちに、物語は次第に勧善懲悪の要素を強め、大衆向けに脚色されていった 1

そして、「忠臣・栗山大膳」のイメージを決定づけたのが、明治の文豪・森鴎外が著した歴史小説『栗山大膳』(1914年)である 5 。鴎外は、自身の官僚としての経験や武士道への深い思索を背景に、利章を、主家の将来を憂い、法と秩序を守るために、あえて非情な手段を取らざるを得なかった苦悩する近代的な知識人、悲劇の忠臣として描き出した。この作品の強い影響力により、「自己犠牲を覚悟で主家を救った忠義の士」という栗山大膳像が、広く一般に定着することになった 15

もちろん、こうした見方に対する異論も存在する。滝口康彦の小説『主家滅ぶべし』のように、利章の忠義を融通の利かない独善的なものとして批判的に描く作品もあり、その人物評価は決して一枚岩ではない 5 。黒田騒動は、歌舞伎や映画の世界でも繰り返し取り上げられ、その度に新たな解釈が加えられてきた 1

この事実は、黒田騒動が単なる歴史上の事件に留まらず、後世の人々がそこに「理想の忠臣像」や「暴君と賢臣の対立」といった普遍的で分かりやすい物語の型を見出し、時代ごとの価値観を投影しながら積極的に受容し、消費してきたことを示している。我々が今日知る「栗山大膳」とは、史実の人物像の上に、鴎外をはじめとする後世の創作者たちによって構築された「物語の登場人物」のイメージが、幾重にも塗り重ねられた存在なのである。彼の真実に迫るためには、この創作という名のベールを意識的に剥がし、その下に隠された複雑な実像を見つめる視点が不可欠となる。


結論:栗山利章という鏡が映し出すもの

栗山利章の生涯と彼が引き起こした黒田騒動は、近世日本の歴史における一つの転換点を象徴する出来事であった。彼の人物像と行動を多角的に分析することで、我々は単なる御家騒動の顛末を超えた、より深い歴史的構造を読み取ることができる。

利章は、時代の大きな交差点に立たされた人物であった。彼の父・利安は、戦国乱世の中で「力」と主君個人への絶対的な「忠義」によって身を立てた。利章もまた、その価値観を色濃く受け継いでいた。しかし、彼が生きた時代は、もはや個人の武勇や情誼ではなく、幕府が定めた「法」と「秩序」が社会を支配する泰平の世へと移行しつつあった。彼の行動は、旧時代の倫理観に基づき、新時代の問題に対処しようとした際に生じた、ある種の悲劇であったと解釈できる。主君の不行跡を正すために、戦国時代であれば直接的な諫言や、最悪の場合は武力による「主君押込」が選択されたかもしれないが、利章は幕府という新たな権威に「訴える」という、当時としては極めて新しい手段を選んだのである。

この選択は、結果として、絶対的であったはずの主君と家臣の関係が、幕府という超越的な権威の存在によって相対化されうることを示した、画期的な事件となった。黒田騒動を通じて、家臣はもはや藩主個人にのみ忠誠を誓う存在ではなく、「藩(家)」という組織そのものの存続、ひいてはその存続を保証する幕府の秩序に対しても責任を負うという、新たな主従関係のあり方が暗示された。利章の行動は、意図せずして、この時代の主従観の変容を白日の下に晒したのである。

最終的に、栗山利章は、単純な忠臣でも反逆者でもない。彼は、偉大な父の影を背負い、時代の変化の狭間で、自らが信じる「正義」と「忠誠」を、不器用ながらも貫こうともがいた、極めて人間的な葛藤の人物であった。そして彼が起こした黒田騒動は、近世初期における幕藩体制の権力構造と、その中で大名家が如何にして生き残りを図ったかを理解するための、比類なき歴史的ケーススタディとして、今日に至るまで我々に多くの示唆を与え続けている。

引用文献

  1. 黒田騒動(クロダソウドウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%A8%92%E5%8B%95-57976
  2. 国のためなら反逆の罪も覚悟!江戸時代の三大お家騒動「黒田騒動」をご紹介 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/152218
  3. 黒田騒動(クロダソウドウ)とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%A8%92%E5%8B%95
  4. kotobank.jp https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%A8%92%E5%8B%95-57976#:~:text=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%80%81%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E9%BB%92%E7%94%B0,%E3%82%92%E7%94%98%E3%82%93%E3%81%98%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%80%82
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  6. 黒田騒動 ~筆頭家老が藩主を訴えた前代未聞の江戸三大お家大騒動 - 草の実堂 https://kusanomido.com/study/history/japan/edo/45854/
  7. 黒田官兵衛ゆかりの場所を訪ねる(6)~栗山善助のふるさと~ 有馬温泉 高級料亭旅館 欽山 https://www.kinzan.co.jp/old-news/318
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