本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、黒田官兵衛(孝高)・長政父子二代にわたり股肱の臣として仕え、筑前福岡藩五十二万石の礎を築いた筆頭家老・栗山善助利安(くりやま ぜんすけ としやす)の生涯を、現存する史料に基づき多角的に解明するものである。
利安は、黒田家の精鋭家臣団である「黒田二十四騎」及び、その中でも特に武勇に優れた「黒田八虎」の一人に数えられる勇将であった 1 。しかし、彼の真価は単なる武勇に留まらない。冷静沈着な判断力で藩政を切り盛りする為政者として、また、主君や同僚から絶対の信頼を寄せられる人格者としての側面を併せ持っていた。家臣団における序列は第一位であり、その存在は単なる役職名としての「筆頭家老」を超え、敬意と信頼を込めて「一老」と称された 3 。この呼称は、利安が黒田家という組織において、実務のトップであると同時に、精神的な支柱、いわば「家の良心」とも言うべき存在であったことを示唆している。
本報告書では、播磨の一土豪から身を起こし、主君・官兵衛との運命的な出会いを経て、いかにしてこの不動の地位を築き上げたのかを追う。戦場での武功、藩政における手腕、そして彼の人間性を伝える逸話や後世への影響を詳細に分析し、智勇兼備の忠臣・栗山利安の実像に迫る。
西暦 |
和暦 |
年齢(数え) |
出来事 |
関連資料 |
1550年 |
天文19年 |
1歳 |
播磨国姫路栗山に生まれる。 |
3 |
1565年 |
永禄8年 |
16歳 |
黒田官兵衛孝高に仕官する。 |
3 |
1566年 |
永禄9年 |
17歳 |
初陣を飾る。 |
4 |
1569年 |
永禄12年 |
20歳 |
青山・土器山の戦いで首級2つを挙げ、83石の知行を得る。 |
3 |
1578年 |
天正6年 |
29歳 |
有岡城に幽閉された官兵衛の救出活動を開始する。 |
3 |
1579年 |
天正7年 |
30歳 |
有岡城落城の際、官兵衛を救出する。 |
4 |
1580年 |
天正8年 |
31歳 |
官兵衛が播磨で1万石を与えられ、利安も200石に加増される。 |
4 |
1588年 |
天正16年 |
39歳 |
官兵衛が豊前中津領主となり、6,000石を与えられ平田城代となる。 |
3 |
1593年 |
文禄2年 |
44歳 |
黒田長政に従い、文禄・慶長の役に参加。晋州城の戦いで功を挙げる。 |
3 |
1600年 |
慶長5年 |
51歳 |
関ヶ原の戦い。大坂屋敷から長政夫人らを救出。如水に従い石垣原の戦いで武功を挙げる。 |
1 |
1601年 |
慶長6年 |
52歳 |
黒田家の筑前入国に伴い、1万5千石を与えられ、麻底良城主となる。 |
4 |
1604年 |
慶長9年 |
55歳 |
主君・黒田如水(官兵衛)の菩提を弔うため、円清寺を建立する。 |
4 |
1617年 |
元和3年 |
68歳 |
隠居し、家督を子の利章(大膳)に譲る。 |
3 |
1631年 |
寛永8年 |
82歳 |
8月14日、死去。 |
5 |
栗山利安は、天文19年(1550年)に播磨国姫路栗山、現在の兵庫県姫路市栗山町付近で生を受けた 4 。生年には天文20年(1551年)説も存在するが 6 、多くの資料は1550年説を採っている 3 。通称は善助、後に四郎右衛門、備後守と名乗った 6 。
その家系の源流は、播磨の名族として知られる赤松氏に遡ると伝えられている 6 。『姓氏家系大辞典』などの記録によれば、赤松三郎師範の子である備中守利宗が、播磨国飾磨郡栗山邑に居住したことから「栗山」の姓を名乗るようになったとされ、利安はその子孫にあたる 12 。父は栗山善右衛門浄順という 4 。利安が歴史の表舞台に登場する以前、栗山家は姫路近辺の土豪であったが、その後、東播磨へ移り、当時は三木城を拠点とする別所氏の勢力下にあったと考えられている 1 。
永禄8年(1565年)夏、数え16歳の利安は、その後の人生を決定づける大きな一歩を踏み出す。当時、姫路城主・小寺政職の家臣であった黒田官兵衛孝高の将来性を見抜いたのか、単身で官兵衛のもとを訪れ、その側近として仕えることになった 1 。主家を離れ、自らの意思で仕えるべき主君を選び取ったこの行動は、若き利安が持つ主体性と先見の明を物語っている。
官兵衛の家臣となった利安は、早速その武才を発揮する。永禄9年(1566年)に初陣を飾ると 4 、永禄12年(1569年)には、西播磨で勢力を誇った龍野赤松氏との間で行われた青山・土器山の戦いにおいて、敵兵の首を二つ挙げるという目覚ましい武功を立てた 3 。この功績により、利安は83石の知行と武具を与えられた 3 。これは、後に「黒田節」で知られる猛将・母里太兵衛と比較しても遜色のない戦功であり、利安が単なる知恵者ではなく、優れた武人であったことを示す最初期の記録である 9 。
栗山利安の名を黒田家中で不滅のものとしたのが、天正6年(1578年)に起きた有岡城での主君救出劇である。この年、織田信長に反旗を翻した摂津の荒木村重を説得するため、官兵衛は単身で有岡城に乗り込んだ。しかし、村重の翻意は固く、官兵衛は逆に捕らえられ、城内の土牢に幽閉されるという絶体絶命の危機に陥った 3 。
主君の窮地を知った利安は、井上之房や母里太兵衛といった同僚たちと共に、即座に行動を開始した。彼らは有岡城下に潜伏し、官兵衛の安否を探りながら救出の機会を窺った 1 。ある記録によれば、利安は何度も城内に忍び込み、一年にも及ぶ幽閉生活で心身ともに衰弱していく官兵衛を励まし続けたという 14 。この行動は、単なる任務を超えた、主君への深い忠誠心と人間的な情愛から生まれたものであった。
天正7年(1579年)、織田軍の総攻撃により有岡城はついに落城する。利安はこの混乱に乗じ、官兵衛の牢番を務めていた加藤重徳(後にその功績から息子の一成が黒田家に迎えられる)らの協力も得て、燃え盛る城内から官兵衛を無事に救出した 8 。救出された官兵衛は、劣悪な環境での長期にわたる幽閉生活がたたり、足が不自由になるという重い後遺症を負ったが、命を救った利安の功績を深く賞賛し、感謝の印として自らの馬を贈ったと伝えられている 9 。
この有岡城での一件は、単なる一つの武功譚ではない。官兵衛にとって肉体的・精神的に生涯最大の危機であったこの状況下で、文字通り命を賭して救出を成し遂げた利安は、官兵衛にとって「命の恩人」という、他の誰とも比較できない特別な存在となった。この時に築かれた主従の絆は、その後の利安の黒田家中における地位を絶対的なものとし、筆頭家老への抜擢や官兵衛臨終の際の破格の待遇など、全ての根源になったと言っても過言ではない。
有岡城での一件以降、官兵衛の利安に対する信頼はますます揺るぎないものとなり、それは知行の加増という形で明確に示された。天正8年(1580年)、官兵衛が羽柴秀吉の中国攻めにおける功績で播磨国揖東郡に1万石を与えられると、利安の知行も200石へと加増された 3 。
そして天正16年(1588年)、官兵衛が豊臣政権下で豊前国に12万石を与えられ中津城主となると、利安は一気に5,800石を加増され、合計6,000石という大身に取り立てられた 3 。同時に、国境の要衝である平田城の城代にも任じられ、名実ともに黒田家中の重臣としての地位を確立した。かつて83石の知行から始まった彼のキャリアは、主君の飛躍と共に、まさに破格の出世を遂げたのである。
文禄2年(1593年)、官兵衛が家督を息子の長政に譲り隠居すると、利安は新たな主君となった長政に仕え、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に従軍する 3 。異国の戦場においても利安の武勇は衰えることなく、特に晋州城を巡る戦いなどで数々の功績を挙げたと記録されている 3 。
注目すべきは、利安が単なる武功のみを求めていなかった点である。ある史料によれば、彼は朝鮮の地で、父・官兵衛からの「力で押さえつけるのではなく、慈愛をもって朝鮮の人々を手なずけるように」という教えを忠実に守り、軍事行動以外でも現地の民心掌握に努めたという 1 。この逸話は、武力による制圧が主流であった当時において、官兵衛と利安が統治の本質を深く理解していたことを示唆しており、後の福岡藩における善政の萌芽を窺わせる。慶長3年(1598年)に帰国した後は、井上之房と共に宇佐神宮の造営奉行を務めるなど、内政面でもその手腕を発揮した 4 。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、利安は再びその真価を発揮する。徳川家康に従い会津征伐へ向かった黒田長政をはじめ、東軍に与した諸大名の妻子が、西軍を率いる石田三成によって人質として大坂城へ集められようとしていた 9 。黒田家の大坂屋敷にも、長政の正室・栄姫(徳川家康の姪で養女)と、官兵衛(この時すでに出家し如水)の妻・光子(てる)を差し出すよう、西軍の使者が幾度となく訪れた。この国家的な危機に際し、利安は義兄弟の母里太兵衛と協力し、機転を利かせて二人の夫人を屋敷から見事に脱出させ、海路で如水が待つ豊前中津へと送り届けたのである 1 。この作戦の成功は、黒田家が後顧の憂いなく東軍として戦うための絶対条件であり、有岡城の救出劇と並ぶ、利安の冷静な判断力と大胆な実行力が光る功績であった。
一方、九州では主君・如水が「天下取り」の機到来と見て、長年蓄えた金銀で浪人たちを雇い入れ、瞬く間に大軍を組織していた 9 。利安はこの如水軍の中核を担い、豊後国で西軍に味方した旧領主・大友義統の軍勢と激突した(石垣原の戦い)。この戦いでも利安は勇戦し、黒田軍の勝利に大きく貢献した 3 。戦場での直接的な戦闘指揮から、敵地での重要人物救出という特殊任務まで、利安はあらゆる局面で黒田家にとって不可欠な存在であり続けた。
関ヶ原の戦いにおける黒田長政の功績は、徳川家康から絶賛され、黒田家は豊前中津12万石から筑前国一国、実に五十二万三千石へと大加増・移封された。この新たな領地・福岡藩の誕生に伴い、栗山利安の知行も1万5千石へと大幅に加増された 4 。さらに、息子である利章(後の大膳)にも別に3,300石が与えられ、栗山家は親子合わせて2万石弱を領する、大名に匹敵するほどの家格を持つに至った 3 。
福岡藩主となった長政は、隣接する大大名、熊本藩の加藤清正や小倉藩の細川忠興らへの備えとして、国境地帯に6つの支城を配置する防衛体制を敷いた。これが「筑前六端城」である 15 。利安はこの六端城のうち、豊後国との国境に位置し、日田街道を見下ろす最重要拠点の一つ、麻底良城(までらじょう、左右良城とも記される)の城主に任じられた 4 。これは、利安に対する信頼が、単なる軍事能力に留まらず、国境地域の防衛と行政を一体的に担う方面司令官としての役割を期待されていたことを明確に示している。
麻底良城は現在の福岡県朝倉市杷木志波の麻底良山にあり、山頂の本丸跡には麻底良神社が祀られている 17 。現在でも、往時を偲ばせる石垣や堀切、曲輪といった遺構が確認できる 16 。
筑前入国後、利安は名実ともに黒田家の筆頭家老、すなわち「一老」として、藩主・長政を補佐し、創成期の福岡藩政を支える中心人物となった 21 。長政は家臣との対話を重視し、毎月一度、家老や「思案も有りて談合の相手よき者」を集めて夜話の会を催していたとされ、利安も当然その中核をなす一人であったと考えられる 23 。
彼の行政手腕は、藩内統治に留まらなかった。藩主・長政の嫡男であり、後の二代藩主となる黒田忠之は、福岡城がまだ築城の途上にあったため、利安の福岡城下の屋敷で誕生したと伝えられている 4 。藩の跡継ぎの生誕という最も重要な儀式の場として利安の屋敷が選ばれたという事実は、極めて象徴的である。これは、黒田家と栗山家の間に、単なる主従関係を超えた、家族にも等しい強固な信頼関係が存在したことを物語っている。しかし、この栄誉ある出来事は、後に自らの屋敷で生まれた若君(忠之)と、自らの息子(大膳)が藩を二分する大騒動(黒田騒動)の中心人物となるという、皮肉な運命の伏線ともなった。
福岡藩の拠点である福岡城内において、利安は三の丸の東地区に広大な邸宅を与えられていた 24 。この場所は、藩の政治的中心部に隣接する一等地であり、彼の地位の高さを示している。利安の没後、この屋敷は同じく重臣であった立花実山のものとなり、近代には福岡高等裁判所の敷地となった 24 。
一方、彼のルーツである播磨国姫路の生誕地(姫路市栗山町)は、現在、灘菊酒造株式会社の敷地の一部となっており、往時を偲ぶ「栗山善助屋敷跡」の伝承が残されている 7 。
栗山利安は、黒田八虎に数えられるほどの武勇を誇りながら、その素顔は全く異なるものであったと伝えられる。普段は非常に寡黙で、決して自らの功績をひけらかすことはなかった 3 。道で身分の低い者に会った際でさえ、必ず自ら馬を下りて丁寧に挨拶をするなど、極めて礼儀正しい人物であったという 3 。
生活は質素を旨とし、華美を嫌った 9 。その一方で、家臣や領民が生活に困窮していると聞けば、返済を催促することなく金子を貸し与えるなど、深い慈悲の心を持っていた 3 。晩年、彼は自らの出世を振り返り、次のように語ったと記録されている。「私が仕官して最初に足軽の小者を一人与えられた時が、一番嬉しかった。次に19歳で初めて83石の知行地を賜った時の感激も忘れられない。その後、豊前で六千石、筑前で一万五千石という大禄を賜ったが、これらは最初の感動ほどではなかった。人間というものは、とかく地位や富に慣れて初心を忘れがちになる。若者たちは、このことをよくよく心に留めておかなければならない」 3 。この言葉は、彼の驕ることのない謙虚な人柄と、人間性への深い洞察をよく表している。
利安の人間的器の大きさを最もよく示す逸話が、猛将・母里太兵衛との関係である。母里太兵衛は、福島正則から名槍「日本号」を飲み取るほどの豪傑であったが、その性格は猪突猛進で、誰の言うことも聞かない荒くれ者として知られていた 1 。
主君・官兵衛は、この太兵衛の武勇という長所を活かしつつ、その短所を制御するために、一計を案じた。思慮深く人望の厚い利安と太兵衛に義兄弟の契りを結ばせ、利安を兄としたのである 14 。そして官兵衛は太兵衛に対し、「今後は善助(利安)の言いつけには一切背いてはならぬ」と厳命した。不思議なことに、あれほど頑固で誰の指図も受けなかった太兵衛が、この言いつけだけは生涯忠実に守り通し、利安の言うことには素直に従ったという 29 。
この逸話は、官兵衛の巧みな人心掌握術を示すと同時に、利安が腕力や権威ではなく、その人格と知力によって猛将すら心服させるほどの器量を持っていたことを物語っている。彼は、黒田家という個性豊かな家臣団をまとめる「調整役」としても、比類なき存在であった。
人名 |
通称 |
続柄・関係 |
主な功績・逸話 |
関連資料 |
栗山利安 |
善助、備後守 |
筆頭家老 |
有岡城にて官兵衛を救出。智勇兼備で「一老」と称される。 |
1 |
井上之房 |
九郎右衛門 |
家老 |
官兵衛救出に尽力。石垣原の戦いで敵将・吉弘嘉兵衛を討ち取る。 |
1 |
母里友信 |
太兵衛 |
家老 |
名槍「日本号」を飲み取った猛将。利安の義弟。 |
30 |
後藤基次 |
又兵衛 |
家老 |
勇将として名高いが、後に黒田家を出奔。大坂の陣で活躍。 |
2 |
黒田一成 |
三左衛門 |
家老(官兵衛養子) |
有岡城の牢番・加藤重徳の子。官兵衛に引き取られ養子となる。 |
2 |
黒田利高 |
兵庫助 |
官兵衛の実弟 |
長政の後見役を務め、家中の模範となる行動で人望を集めた。 |
1 |
黒田利則 |
修理亮 |
官兵衛の異母弟 |
賤ケ岳の戦いや朝鮮出兵で活躍。一門の長老として家を支えた。 |
1 |
黒田直之 |
図書助 |
官兵衛の異母弟 |
熱心なキリシタン。秋月1万2千石を領し、信者を保護した。 |
1 |
慶長9年(1604年)、官兵衛(如水)は京都伏見の藩邸でその生涯を閉じようとしていた。彼は死の床に、跡を継ぐ長政と、最も信頼する家臣・利安を呼び寄せた 25 。そして、自らの象徴であり、戦場で常にその身に着けていた「朱塗合子形兜(あかごうすなりかぶと)」を利安に授け、次のような遺言を託した。
「この兜を、今より後は自分自身だと思え。善助は長政を我が子と思い、指導してやってくれ。そして長政は、この兜を持つ善助の諫言に決して背いてはならない」 25 。
この遺言は、利安に藩主の後見人、そして黒田家の行く末を見守る「目付役」という、家臣として最高の名誉と最も重い責任を託したことを意味する。兜は単なる防具ではなく、官兵衛の魂そのものの象徴であった。それを血縁者ではない利安に与えたことは、彼を精神的な後継者として指名したに等しい行為であり、栗山家を他の家臣とは一線を画す特別な存在として位置づけるものであった。この官兵衛からの絶大な信頼の証と、「黒田家の真の忠義を守る」という強烈な自負は、息子の栗山大膳へと受け継がれていく。そしてそれは、後に主君の行いを「先君の遺風に反する」と断じた大膳が、藩の存亡を賭けて幕府へ直訴するという、常軌を逸した行動へと向かう精神的な土壌を形成することになる。
利安は元和3年(1617年)に家督を譲って隠居し、一葉斎卜庵と号して静かな余生を送った 9 。そして寛永8年(1631年)8月14日、82歳で大往生を遂げた 3 。
その最期は、彼の生涯を象徴するものであった。死の直前、病床で意識が朦朧とする中、利安は突如として目を見開き、はっきりとした口調でこう叫んだという。「馬をひけ、鉄砲を用意せよ。あれに敵が出たぞ。あの山に鉄砲を上げて撃たせよ。敵の騎馬が来たら、折り敷いて迎え撃て。わしの采配を見て、慌てず静々とかかれ」 3 。彼は一日のうちに五度も同じように、戦の指揮を執る言葉を繰り返した末、静かに息を引き取った。
この様子を看取った人々は、「絶えず軍陣のことを考え、敵に備えていたことがこの譫言でわかる。まことに大剛の人、奇特な一念であるかな」と深く感嘆したと伝えられている 3 。その魂は、死の瞬間まで戦場にあり、生涯を武人として貫き通したのであった。
主君・官兵衛への利安の忠誠心は、その死後も揺らぐことはなかった。慶長9年(1604年)に官兵衛が亡くなると、利安はすぐさまその菩提を弔うため、自らの知行地である筑前国朝倉郡杷木志波(現在の福岡県朝倉市)に一寺を建立した 4 。これが龍光山円清寺である。
寺の名は、官兵衛の戒名「龍光院殿 如水円清 大居士」から二文字を取り、そのまま「円清寺」と名付けられた 34 。自らの領地そのものを、主君への供物として捧げるに等しいこの行為は、利安の忠義の深さを物語っている。円清寺には現在も、官兵衛、長政、そして利安本人の肖像画や位牌が大切に安置されている 19 。また、寺宝である銅鐘(梵鐘)は、日本に現存する朝鮮鐘の中でも最古級のものとして国の重要文化財に指定されており、長政が寺の建立に際して寄進したと伝えられている 10 。
利安自身の墓所も、この円清寺の境内に隣接して現存しており、主君の眠りを見守るかのように静かに佇んでいる 33 。
利安が築き上げた栄光と信頼は、しかし、次代で悲劇的な結末を迎える。利安の死後、家督を継いだ息子の栗山大膳利章と、二代藩主・黒田忠之との間で深刻な対立が生じた。忠之の奢侈や側近政治といった素行を憂えた大膳は、父・利安が官兵衛から託された「藩の目付役」としての使命感から、再三にわたり忠之を諫言した 6 。
しかし、諫言は聞き入れられず、両者の溝は深まるばかりであった。当時、幕府は些細なことを理由に外様大名を取り潰す政策を強めており、このままでは黒田家も改易の危機に瀕すると判断した大膳は、寛永9年(1632年)、捨て身の策に出る。幕府に対し「主君・忠之に謀反の企てあり」と虚偽の訴えを起こしたのである 6 。これは、幕府の裁きの場で藩の内情を訴え、将軍の威光をもって忠之を諭してもらうことを狙った、まさに苦肉の策であった。
結果として、大膳の思惑通り黒田家は改易を免れた。しかし、主君を幕府に訴えるという前代未聞の行動をとった大膳は、騒動の張本人として罪を問われ、陸奥国盛岡の南部藩預かりの身となった 12 。これにより、福岡藩における栗山家は事実上断絶し、利安以来の栄光の歴史は幕を閉じた 41 。偉大な父が官兵衛から託された重すぎる「忠義」の遺産が、皮肉にも息子とその家を悲劇へと導いたのである。
福岡藩の栗山宗家は断絶したが、その血脈や名は各地に残っている。豊前中津には、黒田家の筑前移封に従わなかった栗山家の一族がおり、その子孫は現在も「栗山堂」という屋号で300年以上続く和菓子店を営んでいると伝えられている 4 。
また、利安と大膳が治めた福岡県朝倉市杷木には、地元で「大膳楠」と呼ばれる巨大な楠が残っており、大膳にまつわる伝説と共に今に語り継がれている 22 。
栗山善助利安の生涯は、戦国乱世における主従関係の一つの理想形を体現したものであった。彼は、戦場にあっては黒田八虎の一人として比類なき武勇を誇り、平時においては筆頭家老として藩政を的確に運営する行政手腕と、荒ぶる猛将母里太兵衛すら心服させる人徳を兼ね備えていた。まさに「智」と「勇」を両立させた武将であった。
彼の人生は、黒田官兵衛・長政という二人の傑出した主君から寄せられた、絶対的な信頼によって貫かれている。主君の危機には我が身を顧みず、国家的な動乱の際には冷静沈着に最善の策を講じ、そして新興大名である黒田家の創業期をその腕と知恵で支え抜いた。黒田家の歴史における重大な局面には、常に彼の存在があったと言ってよい。
利安は、単なる一人の功臣に留まらない。官兵衛の遺言と兜に象徴されるように、彼は主家の安泰を生涯にわたって支え続けることを宿命づけられた「守護者」であった。その死後、息子・大膳が引き起こした黒田騒動の悲劇は、彼が築き、そして息子に託した「忠義」というものの重さを、逆説的に、そして鮮烈に物語っている。その智勇と揺るぎない忠誠心は、数多の武将が覇を競った時代において、ひときわ強い輝きを放っている。