本報告書は、戦国時代から現代に至るまで、多様な形で語り継がれてきた「根津甚八」という人物像について、史実と伝承、創作の各側面から徹底的に調査し、その実像と虚像を明らかにすることを目的とする。特に「真田十勇士」の一員としての根津甚八に着目し、その成立背景や後世への影響を考察する。
根津甚八は、歴史上の実在が確実視される人物ではない一方で、真田幸村に仕えたとされる勇士として、また現代においては俳優の芸名としても広く認知されている 1 。この多層的なイメージの源泉を探ることは、本報告書の重要な課題である。史実の根津氏、伝承上の勇士、そして創作におけるキャラクターという三つの側面からアプローチする。この調査を進めるにあたり、根津甚八という名称が、特定の歴史的人物から直接由来するのではなく、複数の要素、すなわち実在の根津一族の存在、物語としての真田十勇士への大衆的希求、そして後代の創作活動が複合的に絡み合って形成された「文化的アイコン」としての性格を持つ可能性が浮かび上がってきた。史料には「真田十勇士」としての根津甚八に関する明確な記録が乏しい一方で 3 、根津一族は実在し、真田氏とも関わりがあったことが確認できる 5 。また、真田十勇士の物語は立川文庫などによって創作された要素が強いとされており 4 、これに加えて俳優の根津甚八氏の芸名としての知名度も無視できない 1 。これらの要素が混ざり合い、特定の「根津甚八」像が形成されたのではないか。それは単一の起源を持つのではなく、時代ごとの解釈や需要に応じて変容してきた文化的構築物である可能性を示唆している。
滋野氏の流れを汲む根津氏は、信濃国小県郡などを拠点とした名族であり、戦国時代には武田氏や真田氏と深く関わっていた 5 。『松代藩史』などの史料には、真田昌幸に仕えた根津昌綱(根津志摩守幸直とも。 9 では「禰津志摩守幸直」として上級武士の系譜に名が見える)といった人物の記録があり、真田家中で重用されていたことがうかがえる 7 。例えば、武田氏滅亡後、武田遺臣として真田氏を頼った根津頼長は真田昌幸の重臣として仕え、関ヶ原合戦では昌幸に従い西軍に参陣し、敗戦後は昌幸と共に九度山へ赴いたとされる 5 。これは、根津姓の人物が真田氏の重要な局面に関与していたことを示す重要な記述である。
また、武田信玄(晴信)が家臣団から起請文を徴収した際、小県郡の根津政直や根津直吉の名が見えることも、根津氏が地域の有力者として存在し、真田氏とも関連があったことを裏付けている 5 。さらに、根津氏の中には、諜報活動、いわゆる「透波」の頭領として名が挙がる者もおり 8 、真田家の情報戦略に関与していた可能性も示唆される。これらの関係性をより詳細に解明するためには、『吾妻鏡』、『太平記』、『大塔物語』、『高白斎記』、『松代藩史』 7 、『信濃国松代真田家文書』 9 、『八田家文書目録』 11 、『信濃史料』 12 、『上田市史』 14 、『真田史料集』 7 、国文学研究資料館のデータベース 17 、長野県立歴史館 19 、上田市立博物館 20 など、広範な史料調査が不可欠である。
これらの史料を検討する中で、根津一族と真田氏の間には、単なる主従関係を超えた、婚姻などによる血縁的・姻戚的な結びつきや、諜報活動を通じた特殊な信頼関係が存在した可能性が考えられる。根津昌綱の子息が真田家次席家老小山田茂誠の娘を娶ったという記録 7 は、単なる家臣ではなく、より深い関係性を示唆する。また、 5 では根津政直が真田幸隆の娘婿であるという説(ただし疑問視されている)に触れられており、このような説が生まれる背景に何らかの緊密な関係があった可能性を考えさせる。諜報活動 8 は高度な信頼関係を必要とするものであり、これらの断片的な情報をつなぎ合わせると、根津氏は真田家にとって単なる譜代の家臣以上の、戦略的に重要なパートナーであった可能性が浮かび上がる。この強固な関係性が、後に「真田十勇士」という創作において根津姓の人物が取り上げられる素地となったのかもしれない。
根津甚八という特定の個人を史実に見出すことは困難であるが、いくつかの人物がモデルとして取り沙汰されている 3 。
これらのモデルとされる人物が複数存在し、それぞれ異なる出自や背景を持つことは、「根津甚八」という特定の英雄像が、多様な願望や物語的要請を投影される対象であったことを示唆している。つまり、単一の史実的人物ではなく、複数の実在・非実在の要素が混ざり合って「作られた」英雄である可能性が高い。禰津小六は真田家譜代の滋野一族の系譜を引く「内なる勇士」のイメージに合致し 3 、浅井井頼は浅井長政の子という貴種流離譚的な要素を持ち、外部から来た「助っ人」としての側面を持つ 3 。これらのモデルとされる人物の属性(譜代、外様、武勇、諜報、悲劇性など)が、講談や読み物で求められる多様な英雄像の断片を提供したと考えられる。「根津甚八」という一つの名前に、これらの異なる要素が集約され、理想化された結果、多面的な魅力を持つキャラクターとして成立したのではないだろうか。これは、民衆が求める英雄像の多様性を反映しているとも言える。
表1:根津甚八のモデルとされる主要人物比較
人物名 |
出自(家系、主な活動地域) |
主な活動時期 |
史料における記述(概要) |
真田氏との関連(具体的なエピソードなど) |
根津甚八の伝承との共通点 |
根津甚八の伝承との相違点/疑問点 |
禰津小六 |
滋野氏一族、禰津氏(信濃国)。禰津政直の子、または禰津信光の次男説あり 3 。 |
戦国時代 |
真田家の実在武将とされる 22 。通称「小六」 3 。 |
真田氏に仕えたとされるが、具体的な活躍を示す史料は乏しい。 |
真田家臣。通称「小六」が根津甚八の通称とされること。 |
具体的な事績、特に十勇士としての活躍を示す史料がない。 |
浅井井頼 |
浅井長政の三男(あるいは養子)と自称 25 。近江国。 |
戦国時代末期~江戸時代初期 |
羽柴秀保、秀長、増田長盛に仕官。関ヶ原で浪人後、大坂の陣で大坂方として参戦 25 。特技「忍」 26 。 |
直接的な真田氏との関連を示す史料は乏しい。 |
大坂の陣での活躍(死守、討死説) 22 。 |
真田家臣であったという明確な証拠がない。出自の不確かさ 25 。 |
根津貞盛 |
(呼称)根津甚八の諱とされる 3 。 |
不明 |
『真田三代記』に「根津甚八郎貞盛」として登場 4 。 |
『真田三代記』中で真田幸村の家臣。 |
大坂夏の陣で幸村の影武者として討死 4 。 |
「貞盛」という名の根津氏人物に関する一次史料が乏しい。 |
現時点での史料調査からは、「真田十勇士」の一員として活躍した「根津甚八」という特定の個人を明確に実在の人物として特定することは困難である 3 。しかし、根津一族が戦国時代に信濃で活動し、真田氏とも深い関わりを持っていたことは史実であり 5 、この史実的背景が、後に根津姓の勇士が真田十勇士の一員として創作される素地となった可能性は十分に考えられる。「根津甚八」は、実在の根津一族の誰か、あるいは複数の人物の逸話が、講談や読み物の中で脚色され、融合して生まれた複合的な英雄像であると推察するのが妥当であろう。
「根津甚八」の実在性の曖昧さ自体が、彼の伝承が持つ魅力の一因となっている可能性も否定できない。つまり、完全に架空でもなく、かといって詳細な史実で固められているわけでもない「余白」が、後世の創作者たちに自由な想像を許し、多様な根津甚八像を生み出す原動力となったと考えられる。実在が確定している人物の場合、その史実から大きく逸脱した創作は受け入れられにくいことがある一方、完全に架空の人物の場合、歴史物語としてのリアリティや深みが薄れることがある。根津甚八の場合、根津一族という実在の背景がありつつ 5 、個人の事績は不明瞭である 3 。この「確からしさ」と「不確かさ」のバランスが、物語の登場人物として非常に扱いやすかったのではないだろうか。この「余白」があったからこそ、海賊の首領であったり 22 、幸村の影武者であったり 4 といった、劇的な役割を付与しやすかったと考えられる。
真田十勇士は、猿飛佐助、霧隠才蔵をはじめとする10人の勇士で構成され、主に明治から大正にかけて刊行された立川文庫によってその英雄像が確立・普及した 4 。 4 によれば、基本的な構成は猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人とされているが、作品によって差異が見られることも指摘されている。
6 と 6 、 6 によると、立川文庫の初期段階(例えば『忍術名人 猿飛佐助』)では九勇士までしか揃っておらず、根津甚八は含まれていなかった。大正2年(1913年)に出版された本で初めて十勇士が揃い、「十勇士」という名称も使われるようになったとされている。このことから、根津甚八は十勇士のメンバーとして比較的後から加わった可能性が示唆される。興味深いことに、 6 では、「十勇士」という名称自体は、山中鹿之助が筆頭の尼子十勇士が先に使っていたと指摘されている。
真田十勇士の成立は、単なる英雄譚の創出に留まらず、明治・大正期の社会における大衆の娯楽希求や、特定の価値観(忠義、武勇など)の称揚といった時代的背景と深く結びついていると考えられる。立川文庫が小中学生や丁稚奉公の少年たちに広く読まれたという事実 32 は、当時の教育レベルや娯楽の形態を反映している。日清・日露戦争後の高揚感の中で、日本の伝統的な武勇伝や英雄譚が再評価され、大衆に受け入れられやすい形で提供されたのが立川文庫であった可能性がある。猿飛佐助や霧隠才蔵といった忍者の活躍は、非現実的な能力への憧れや、勧善懲悪的な物語への期待に応えるものであった。根津甚八が後から加わったという事実は 6 、物語の展開や読者の需要に応じてキャラクターが追加・調整されていった、ダイナミックな創作過程を示唆している。
江戸時代に成立した軍記物『真田三代記』には、真田幸村の家臣として「根津甚八郎貞盛」の名が見える 4 。 4 によれば、大坂夏の陣の最終局面で幸村の影武者となって討死したと記されており、これが後の創作における根津甚八の重要な役割の一つ(影武者)の原型となったと考えられる。 30 では、根津の姓は滋野三家(海野・禰津・望月)の根津であり、父との死別後に海賊の首領となり、幸村が熊野灘で九鬼水軍の情勢を探る際に巡り会い十勇士に加わったとされている。また、穴山小助と共に活躍し、大坂夏の陣で幸村の影武者として討死したとある。この記述は、『真田三代記』の内容を踏襲しつつ、海賊説などの要素が付加されている可能性を示唆する。 33 のデジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説も、『真田三代記』における影武者としての役割と討死に言及している。
ただし、提供された資料からは『真田三代記』における根津甚八郎貞盛の具体的な活躍、性格描写、幸村や他の家臣との詳細な関係性については情報が不足している 30 。『真田三代記』における根津甚八郎貞盛の記述は、立川文庫版の派手な忍者活劇とは異なり、より武士的な忠誠心や自己犠牲に焦点を当てた原型であった可能性がある。『真田三代記』は江戸時代の軍記物であり、武士道徳や主君への忠義が重視される価値観を反映していると考えられる 4 。影武者として討死するというエピソード 4 は、まさに忠臣の鑑と言える行動である。立川文庫では、これに忍術や海賊といったエンターテイメント性の高い要素が加わっていく 30 。つまり、『真田三代記』の根津甚八郎貞盛は、後の派手な十勇士像の「核」となる、よりシリアスで悲劇的な英雄像の原型を提供したのではないかと推測される。
立川文庫において、根津甚八は真田十勇士の一員として確固たる地位を築く 30 。 30 、 30 では、根津の姓は滋野三家の一つであり、父と旅に出て死別後、海賊の首領となり、幸村が熊野灘で九鬼水軍の調査中に彼と出会い十勇士に加わったとされている。関ヶ原、大坂冬・夏の陣で活躍し、幸村の影武者として大坂夏の陣で討死したという、現在よく知られる根津甚八像の基本設定がここで提示されている。 33 の記述も、立川文庫『真田幸村』の登場人物として、北信濃の名族滋野氏の一族であり、幸村の影武者として大坂夏の陣で討死したことを記している。 33 は、立川文庫の『真田幸村』に登場する根津甚八が、真田十勇士の一人であり、影武者として穴山小助と共に討死したと述べている。しかし、その英雄譚は立川文庫による創作であるとも明記しており、史実と創作の境界を意識させる。
立川文庫における根津甚八像は、史実の根津氏の背景(滋野一族)、『真田三代記』の影武者設定、そして大衆受けする海賊という要素を巧みに組み合わせることで、他の勇士とは異なる独自の魅力を付与されたキャラクターとして創造された可能性がある。猿飛佐助や霧隠才蔵が「忍者」という明確な属性を持つのに対し、根津甚八には当初、そこまで際立ったキャラクター性がなかったかもしれない( 6 、 6 で後から加わった説)。そこで、史実の根津氏の出自 30 を設定することでリアリティを持たせつつ、『真田三代記』の悲劇的な影武者の役割 30 を継承。さらに「海賊の首領」という、勇猛さや異質な経歴を感じさせる要素 22 を加えることで、キャラクターに深みと独自性を与えたのではないだろうか。これは、物語のバリエーションを豊かにするための戦略的なキャラクターメイキングと言える。
根津甚八の最も代表的な役割は、真田幸村の「影武者」である 4 。大坂夏の陣で幸村の身代わりとなり、敵を欺きながら壮絶な最期を遂げる姿は、多くの創作で描かれている。「海賊の首領」であったという設定も広く知られており 22 、これにより、水軍の指揮に長けていたともされ 3 、陸戦中心の他の勇士とは異なる特技を持つキャラクターとして描かれる。 30 では、幸村が熊野灘で彼と出会ったとされている。また、 22 では、筧十蔵と義兄弟の契りを結んでいたという人間関係も示唆されている。
根津甚八に付与された「影武者」と「海賊」という二つの主要な属性は、それぞれ「忠義」と「自由奔放さ」という、一見相反する要素を体現しており、この二面性がキャラクターの深みと魅力を増している可能性がある。「影武者」は主君への絶対的な忠誠と自己犠牲を象徴し 4 、これは武士道的な価値観に合致する。一方、「海賊の首領」は組織に縛られない自由な生き方や、型破りな強さを想起させ 22 、これは既存の枠組みにとらわれない英雄像を求める大衆の嗜好に合致する。この二つの属性が一人のキャラクターに共存することで、単なる忠臣でもなければ、単なる無法者でもない、複雑で魅力的な人物像が形成される。この内なる葛藤や対比が、物語にドラマ性を与え、読者や視聴者の想像力を刺激するのではないだろうか。
根津甚八は、立川文庫以降も数多くの小説、漫画、映画、ドラマで描かれ、その人物像は時代や作者の解釈によって多様に変遷している。
根津甚八のキャラクターは、時代ごとの「ヒーロー像」の変遷を反映する鏡のような役割を果たしてきた。『真田三代記』の「忠臣・影武者」 4 は、江戸時代の武士道的価値観を反映し、立川文庫の「海賊・勇士」 30 は、明治大正期の冒険活劇への需要を反映している。そして、『BRAVE10』の「特殊能力者・恋愛模様」 38 は、現代の漫画・アニメにおけるキャラクター重視の傾向やファンタジー要素の取り込みを反映している。これらの変遷は、根津甚八というキャラクターが固定されたものではなく、各時代のクリエイターや受け手によって再解釈され、再創造され続ける「生きた」存在であることを示している。
表2:主要な創作物における根津甚八の描写比較
作品名 |
作者/監督 |
発表媒体 |
発表年代 |
根津甚八の主な設定(出自、能力、性格など) |
物語における役割 |
他の十勇士との関係性 |
特記事項 |
『真田三代記』 |
(編者不詳) |
軍記物 |
江戸時代中期 |
根津甚八郎貞盛。幸村の家臣 4 。 |
大坂夏の陣で幸村の影武者となり討死 4 。 |
穴山小助と共に討死する描写あり 33 。 |
立川文庫以前の原型の一つ。 |
立川文庫(『真田幸村』など) |
(玉田玉秀斎など) |
小説(読み物) |
明治末期~大正期 |
滋野氏一族。元海賊の首領。水練に長ける 22 。 |
幸村に仕え、各地で活躍。大坂夏の陣で幸村の影武者として討死 30 。 |
十勇士の一員。筧十蔵と義兄弟の契りを結ぶ説あり 22 。 |
真田十勇士のイメージを決定づけた。 |
『BRAVE10』 |
霜月かいり |
漫画 |
2006年~ |
湖賊の頭領。黒豹ヴェロニカを連れる。雷を操る能力「霹靂咆哮」。酒と女好きだがアナスタシアに片思い 37 。 |
幸村らを助け十勇士に加わる。アナスタシアを打ち負かす 38 。 |
筧十蔵と義兄弟 38 。 |
現代的なアレンジが加えられたキャラクター。 |
映画『真田十勇士』 |
堤幸彦(監督) |
映画 |
2016年 |
豊臣秀頼と二役(永山絢斗)。元海賊の首領という設定は踏襲されている模様 34 。 |
(詳細不明) |
(詳細不明) |
舞台版の映画化。 |
(参考)俳優・根津甚八氏 |
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1969年~2010年活動 |
芸名の由来が真田十勇士の根津甚八 1 。 |
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クールでニヒルなイメージが、十勇士の根津甚八像に影響を与えた可能性 41 。 |
俳優の故・根津甚八(本名・根津透)氏の芸名は、真田十勇士の根津甚八に由来する 1 。 1 によれば、劇団「状況劇場」入団時に主宰の唐十郎氏が命名したとされている。
俳優・根津甚八氏が持つクールでニヒルなイメージや、陰影のある役柄を得意としたことは 41 、大衆が抱く「根津甚八」というキャラクターのイメージに少なからず影響を与えた可能性がある。特に、彼が演じた石川五右衛門 36 のようなアウトロー的な役柄は、海賊出身とされる根津甚八のイメージと重なる部分がある。 2 の記事では、大河ドラマ『真田丸』で注目された真田十勇士の一人として根津甚八(十勇士)に触れ、その名を芸名にした俳優・根津甚八氏の逝去を報じており、両者の関連性が一般にも認識されていることを示している。
俳優・根津甚八氏の存在と活躍が、歴史上・伝承上の根津甚八の知名度を逆照射し、そのキャラクターイメージの形成に相互作用的に影響を与えたという、文化的な還流現象も考えられる。元々、真田十勇士の根津甚八は、猿飛佐助や霧隠才蔵ほど突出した知名度ではなかった可能性がある 6 。俳優・根津甚八氏がその名を芸名とし、数々の作品で強い印象を残したことで 1 、「根津甚八」という名前自体が大衆に広く浸透した。その結果、人々が真田十勇士の根津甚八に触れる際に、無意識のうちに俳優のイメージを重ね合わせるようになった可能性がある。これは、創作上のキャラクターが実在の人物(この場合は俳優)のイメージによって補強され、新たな意味合いを付与されるという興味深い文化的現象と言える。
根津甚八は、史実の根津一族と真田氏の関わりという土壌の上に、『真田三代記』における悲劇的な忠臣像、立川文庫による勇壮な海賊像、そして現代の多様な創作物における新たなキャラクター像が幾重にも積み重ねられて形成された、多面的で魅力的な存在であると言える。実在の確証は乏しいものの、その曖昧さがかえって後世の想像力を刺激し、時代ごとの英雄像を投影する格好の器となってきた。
根津甚八という人物をめぐる探求は、単に一人の武将の事績を追うだけでなく、歴史的事実がどのように伝承として語り継がれ、大衆文化の中で消費・再生産されていくのかという、歴史認識と物語生成のダイナミズムを理解する上で重要な示唆を与えてくれる。彼の物語は、史実の断片がいかにして魅力的なフィクションへと昇華され、人々の心に残り続けるのかを示す好例と言えるだろう。
根津甚八の物語は、歴史そのものの「語られ方」の変遷を映し出すメタファーであり、我々が歴史をどのように記憶し、解釈し、そして未来へ伝えていくのかという問いを投げかけている。根津甚八の「実像」は、史料の制約から完全には明らかにならない。これは多くの歴史上の人物に共通する課題である。しかし、その「語られた像」は、『真田三代記』から立川文庫、現代の創作物に至るまで、時代ごとのメディアや価値観を反映して豊かに存在する。この「実像」と「語られた像」の間のダイナミズムこそが、根津甚八研究の面白さであり、歴史学と民俗学、文学研究が交差する領域の魅力である。最終的に、根津甚八とは「何者であったか」と同時に、「どのように語られてきたか、そしてこれからも語られていくのか」という問いが重要になるのではないだろうか。