最終更新日 2025-06-20

桑折貞長

伊達家臣・桑折貞長 ― 天文の乱から伊予宇和島藩へ、その生涯と一族の軌跡

序章:桑折貞長という武将 ― 研究の視座と「景長・貞長」問題の整理

戦国時代の東北地方にその名を刻んだ伊達氏。その栄光の歴史は、独眼竜として知られる伊達政宗の活躍によって象徴されることが多い。しかし、その強大な権力は、政宗一人の力によって築かれたものではなく、幾多の家臣たちの忠誠と、時には熾烈な権力闘争を経て確立されたものである。本報告書が光を当てる桑折貞長(こおり さだなが)は、まさにその伊達家の権力構造の変遷と、戦国武将の生き様を体現する人物である。

ユーザー様よりご提示いただいた「主君・伊達晴宗が奥州探題となった際、牧野久仲とともに奥州守護代となり、鷹や馬、黄金三十両などを進上した」という記録は、彼のキャリアにおける頂点の一場面を的確に捉えている。しかし、彼の生涯はそれだけに留まらない。本報告書は、この情報を出発点としつつ、桑折氏の出自、伊達家を二分した内乱「天文の乱」における役割、権力の中枢での浮沈、そして彼の子孫が遠く伊予国宇和島藩で家名を存続させていくまでの壮大な物語を、あらゆる史料を基に徹底的に解明することを目的とする。

本報告書を読み進めるにあたり、まず整理すべきは「桑折景長(かげなが)」と「桑折貞長」という二つの呼称の問題である。史料によっては両者を親子として記述するものも散見されるが 1 、生没年や活動時期の連続性、そして『伊達治家記録』などを参照したとみられる詳細な記録 2 を総合的に勘案すると、両者は同一人物であり、生涯のある時点で「景長」から「貞長」へと改名したと考えるのが最も合理的である。この見解に基づき、本報告書では、天文の乱で活躍した時期を「景長」、伊達晴宗の奥州探題就任以降、守護代として活動した時期を「貞長」として記述を進める。この改名は、単なる呼称の変更ではなく、彼の政治的キャリアにおける重要な転換点を象徴する出来事であった。

桑折貞長の生涯は、伊達家が内乱を乗り越え、戦国大名として飛躍を遂げる激動の時代と完全に重なっている。彼の軌跡を追うことは、戦国期における主君と家臣のダイナミックな関係性、そして地方権力の確立過程を理解するための、またとない窓となるであろう。

表1:桑折貞長(景長)と伊達家関連略年表

年代(西暦)

伊達家の動向

桑折貞長(景長)の動向

永正3年(1506年)

-

桑折景長、誕生 2

天文元年(1532年)

14代当主・伊達稙宗、本拠を桑折西山城に移す 3

-

天文11年(1542年)

天文の乱 勃発 。伊達稙宗、嫡男・晴宗に西山城で幽閉される 5

景長、中野宗時らと共に晴宗を擁立し、 クーデターを主導 2

天文12年(1543年)

天文の乱、継続中

養子の伊達宗貞が死去。実子・宗長を還俗させ後継とする 2

天文17年(1548年)

天文の乱 終結 。稙宗が隠居し、晴宗が15代当主に就任 6

晴宗方の主力として勝利に貢献 2

天文22年(1553年)

晴宗、家臣団の知行再編を実施

居城の小松城を牧野久仲に譲り、刈田郡万行楯城へ移る 2

弘治元年(1555年)

伊達晴宗、室町幕府より奥州探題に補任される 2

景長から貞長へ改名か 。牧野久仲と共に 奥州守護代に就任 1

永禄13年/元亀元年(1570年)

16代当主・伊達輝宗、中野宗時・牧野久仲父子を追放(元亀の変) 8

貞長、 再び小松城主となる 2

天正5年(1577年)

伊達輝宗の治世

桑折貞長、死去(享年72) 。墓所は小松城下の仏成寺 2


第一章:伊達氏の庶流・桑折氏の出自

桑折貞長の人物像を理解するためには、まず彼が属した「桑折氏」が、伊達一門の中でいかなる位置を占めていたかを知る必要がある。桑折氏は、伊達氏の歴史と分かちがたく結びついた、由緒ある庶流(分家)であった。

伊達氏からの分流と桑折の地

桑折氏の祖は、伊達家初代・朝宗から数えて三代目の伊達義広の子、あるいは四代目の政依の子(または庶兄)とされる親長(しんちょう)、入道して心円(しんえん)と号した人物に遡るとされる 2 。その名の由来は、陸奥国伊達郡桑折(現在の福島県伊達郡桑折町)の地名を氏としたことによる 11 。この桑折の地は、鎌倉時代に源頼朝から伊達郡を拝領した伊達氏が最初に本拠を置き、勢力を拡大した「伊達氏発祥の地」そのものである 3

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にもその名が見えることから、桑折氏は早くから伊達一門の一員として活動していたことがわかる 11 。永仁5年(1297年)には、祖である心円の娘と嫡男・時長との間で所領を巡る争いが起き、鎌倉幕府が裁定を下した記録(「関東下知状」)が『伊達家文書』に残されている 10 。これは、桑折氏が鎌倉時代から続く、伊達一門の中でも特に古い家柄であったことを証明している。

伊達家中における地位と役割

伊達宗家が時代と共に領土を拡張し、本拠を梁川城(福島県伊達市)、さらには米沢城(山形県米沢市)へと移していく中で、桑折氏は伊達一門の有力な武将として、その軍事行動を支え続けた 9 。伊達氏が出羽国置賜郡を攻略した際には、その地の要衝である小松城(山形県東置賜郡川西町)の城主を任されるなど、一門の重鎮としての地位を確立していた 11

桑折氏が伊達氏「発祥の地」の名を冠している点は、単なる支流以上の特別な意味合いを持っていた可能性が高い。宗家が本拠を移した後も、そのルーツを象徴する「桑折」の名を継ぐ一族は、他の庶流とは一線を画す家格と権威を有していたと考えられる。貞長(景長)の父は桑折宗季と伝わるが 2 、彼が伊達家の歴史を揺るがす大事件において主導的な役割を果たし得た背景には、こうした桑折氏が代々築き上げてきた特別な地位があったことは想像に難くない。


第二章:天文の乱と景長の台頭

桑折景長(後の貞長)の名が歴史の表舞台に大きく躍り出るのは、伊達家の存亡を揺るがした内乱「天文の乱」においてである。彼はこの乱で、旧来の秩序を破壊し、新たな権力構造を築き上げる中心人物となった。

天文の乱 ― 骨肉の争いの発端

天文の乱は、伊達家14代当主・伊達稙宗(たねむね)とその嫡男・晴宗(はるむね)との間に生じた骨肉の争いである 6 。その直接的な引き金となったのは、稙宗が推し進めた壮大な政略であった。稙宗は、三男の実元(さねもと、幼名・時宗丸)を、後継者のいない越後国守護・上杉定実(さだざね)の養子として送り込み、越後国にまで影響力を拡大しようと図った 2

しかし、この計画には大きな代償が伴った。実元を送り込むにあたり、精鋭の家臣100騎を随行させることが条件とされたのである 6 。これに対し、伊達家中の重臣たちは猛反発した。「伊達家中は蝉の抜け殻となる」とまで言われ、このままでは伊達家の軍事力が著しく弱体化(骨抜き)してしまうという危機感が急速に広がった 7 。さらに、稙宗が制定した分国法『塵芥集』に基づく中央集権的な領国経営や、強引な段銭(臨時税)の徴収など、かねてからの独裁的な手法に対する家臣団の不満も、この問題を機に一気に噴出した 6

晴宗擁立とクーデターの決行

家中の不満が頂点に達した天文11年(1542年)6月、ついに事件は起こる。桑折景長は、同じく伊達家の重臣であった中野宗時(なかの むねとき)らと謀り、嫡男・晴宗を旗頭として擁立した 2 。そして、鷹狩りの帰路にあった当主・稙宗を急襲して捕縛し、伊達氏の本拠であった桑折西山城の一角に幽閉するという、前代未聞のクーデターを断行したのである 2

この景長らの大胆な行動は、伊達家のみならず、南奥羽の諸大名をことごとく巻き込む、6年以上にわたる大乱の幕開けとなった 6 。稙宗はほどなくして小梁川宗朝らによって西山城から救出され、娘婿である相馬顕胤(そうま あきたね)や蘆名盛氏(あしな もりうじ)らの支援を得て反撃に転じる 2 。こうして伊達家は、稙宗方と晴宗方に二分され、泥沼の内戦へと突入していった。

晴宗方の主力としての勝利への貢献

桑折景長は、この天文の乱において、自らが擁立した晴宗方の主力として各地を転戦し、その勝利に決定的な貢献を果たした 2 。乱の前半は、周辺大名の多くを味方につけた稙宗方が優勢であったが、次第に晴宗方が勢力を盛り返し、最終的に天文17年(1548年)9月、稙宗が隠居して晴宗に家督を譲るという形で和睦が成立し、乱は終結した 6

桑折景長の決起は、単なる家中の権力争いに留まるものではなかった。それは、主君の政策に異を唱え、実力行使によってその進退を決するという、家臣による革命的行為であった。彼のこの行動がなければ、晴宗の治世はありえず、その後の輝宗、そして政宗へと続く伊達家の歴史も、全く異なる様相を呈していたであろう。彼は伊達家の危機を救うと同時に、自らの手で新たな時代を切り拓いたのである。この比類なき功績こそが、戦後の晴宗政権における彼の不動の地位を約束するものであった。


第三章:奥州探題体制の成立と守護代就任

天文の乱という未曾有の内乱を乗り越えた伊達家は、晴宗の下で新たな体制を構築していく。この過程で桑折氏は、その功績にふさわしい最高の栄誉と地位を与えられ、名実ともに伊達家臣団の頂点に立つことになった。この時期、彼は名を「景長」から「貞長」へと改めたと考えられ、伊達家の新たな時代の幕開けと共に、彼自身のキャリアも新たな段階へと進んだ。

伊達晴宗の奥州探題就任と桑折貞長の役割

乱に勝利した伊達晴宗は、父・稙宗から家督を譲り受けると、本拠地を父が築いた桑折西山城から出羽国米沢城へと移した 6 。そして弘治元年(1555年)頃、室町幕府13代将軍・足利義輝から、奥州探題(おうしゅうたんだい)に補任されるという快挙を成し遂げた 2

奥州探題とは、室町幕府が陸奥国の統治のために置いた役職である。当時、この職は足利一門である大崎氏が世襲していたが、その権威は既に形骸化していた 19 。実力で奥羽に覇を唱える伊達氏の当主がこの職に就いたことは、名実ともに伊達氏が「奥羽の覇者」であることを幕府が公的に追認したことを意味し、父・稙宗の陸奥守護職就任と並ぶ画期的な出来事であった 18

この晴宗の奥州探題就任の実現に奔走し、最大の功労者の一人とされるのが、桑折貞長(景長)であった 1 。その功績を賞され、貞長は、天文の乱で共に戦った中野宗時の子である牧野久仲(まきの ひさなか)と共に、奥州守護代(しゅごだい)に任じられた 2

守護代とは、本来、守護の職務を代行する役人であり、任国の軍事・行政を司る強大な権限を有した 24 。室町時代後期には、守護代が主家を凌駕し、戦国大名へと成長する例(越前の朝倉氏、尾張の織田氏など)も数多く見られる 25 。晴宗政権下における「奥州守護代」もまた、単なる名誉職ではなく、探題という公的な権威を背景に、伊達領国の統治を担う極めて重要な役職であった。晴宗は、自らが築く新体制の中核に、貞長を据えることでその功に報いたのである。

献上品に込められた政治的メッセージ

この栄えある守護代就任に際し、桑折貞長が主君・晴宗に献上した品々は、彼の政治的立場を雄弁に物語っている。記録によれば、彼は鷹、馬、そして黄金三十両を献上した 8

これらの献上品は、単なる感謝の品ではない。それぞれが戦国時代の主従関係において、極めて象徴的な意味を持つ。

  1. 鷹と馬 : これらは武士の武威や尚武の精神を象徴する、最高の贈答品であった 26 。これを献上することは、自らが探題の軍事力を支える筆頭家臣であることを内外に示す行為に他ならない。
  2. 黄金三十両 : これは、貞長自身の豊かな経済力を誇示すると同時に、晴宗が打ち立てた新政権を財政面からも全面的に支援するという強固な意思表示である。黄金は「富」と「権威」の象徴であり 27 、主君の威光を高めるための演出でもあった。

つまり、この一連の献上は、貞長による高度な政治的パフォーマンスであったと言える。それは、「私が伊達晴宗公を奥州の公的な支配者(探題)として推戴し、その筆頭家臣(守護代)として、軍事・財政の両面から新政権を盤石にする」という、家臣団全体に対する力強い宣言であった。天文の乱の勝利者である晴宗と、その最大の功臣である貞長との強固な結びつきを可視化することで、新体制の権威と安定性をアピールする狙いがあったことは明らかである。


第四章:晴宗・輝宗政権下の権力構造と貞長の動向

奥州守護代という最高の地位を得た桑折貞長であったが、その後の道のりは平坦ではなかった。彼のキャリアは、戦国大名家中に渦巻く権力闘争の力学を色濃く反映している。

晴宗政権下での権力闘争と雌伏

伊達晴宗の政権下では、貞長と共に守護代に任じられた牧野久仲と、その父である中野宗時が絶大な権勢を振るった 2 。中野宗時は外交の場で活躍し 8 、遠藤基信といった有能な人材を見出すなど 29 、晴宗の側近として実権を掌握していた。

このため、桑折貞長の権力は、守護代という格式の高さや、毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)と白傘袋(しろかさぶくろ)の使用を許されるといった家臣団最上位の待遇とは裏腹に、実質的には限定的なものであったと見られている 2 。そのことを象徴する出来事が、天文22年(1553年)に行われた晴宗による知行地の再編である。この時、貞長は桑折氏代々の本拠地とも言える小松城を牧野久仲に明け渡し、自身は刈田郡の万行楯城(まんぎょうたてじょう)へ移ることを余儀なくされた 2 。これは、晴宗政権下における中野・牧野一派の優位と、貞長の相対的な地位の低下を明確に示すものであった。天文の乱を共に戦い抜いた同志でありながら、戦後の権力配分において、貞長は一時的に後退を強いられたのである。

元亀の変と輝宗による復権

権力図が再び大きく動いたのは、晴宗が隠居し、その子である16代当主・伊達輝宗(てるむね)の治世になってからであった。輝宗は、父の代から強大な権力を握り続ける中野宗時・牧野久仲父子を危険視し、その権勢を削ぐ機会を窺っていた 8

永禄13年(元亀元年、1570年)、ついに輝宗は行動を起こす。中野父子に謀反の疑いありとして、討伐の兵を挙げたのである。これが「元亀の変」である 9 。追い詰められた中野宗時と牧野久仲は、久仲の居城である小松城に立てこもって抵抗するも、やがて城を脱出し、敵対する相馬領へと落ち延びていった 2 。彼らが伊達家への帰参を許されることは、生涯なかった 28

この政変は、桑折貞長にとって復権の絶好の機会となった。輝宗は、父の代の権臣であった中野一派を排除する一方で、同じく父の代からの功臣であり、中野氏のライバルであった貞長を再び重用した。輝宗のこの判断の背景には、家臣団の勢力バランスを再編し、自らの権力基盤を強化する狙いがあった。結果として、貞長はかつて明け渡した小松城の城主として、見事に返り咲きを果たしたのである 1

天文の乱で功績を挙げながらも、同僚の台頭によって一時的に不遇をかこつ。しかし、主君の代替わりという政治的変動の潮目を読み、忍耐強く機会を待ち、ライバルの失脚と共に再び権力の中枢に返り咲く。この一連の経緯は、桑折貞長が単なる武勇の士ではなく、権力闘争を生き抜く忍耐力と、変化を好機に変える優れた政治的生存能力を兼ね備えた人物であったことを示している。


第五章:晩年と死

元亀の変を経て小松城主へと復帰した桑折貞長は、伊達輝宗政権下で再び重臣としての役割を担い、その晩年を過ごした。彼の生涯は、伊達家が戦国大名としての地位を固める、まさにその激動の時代と共にあった。

伊達輝宗政権下での役割

輝宗の時代、伊達家は中野宗時に代わる新たな側近として、卓越した行政手腕を持つ遠藤基信(えんどう もとのぶ)を抜擢し、重用した 8 。しかし、こうした新興の吏僚派が台頭する一方で、貞長のような伊達一門の伝統と由緒を背負う譜代の重鎮もまた、政権の安定には不可欠な存在であった。貞長は、輝宗が相馬氏との抗争や、最上家のお家騒動(天正最上の乱)への介入など、領土拡大政策を推し進める中で、一門の長老として主君を支え続けたと考えられる 32

天正五年の死と墓所

伊達家の三代(稙宗、晴宗、輝宗)に仕え、その激動の歴史を見届けた桑折貞長は、天正5年(1577年)9月19日、その生涯に幕を閉じた 2 。享年72。これは、戦乱の世を生きる武将としては、特筆すべき長寿であった。

彼の墓所は、晩年を過ごした居城・小松城の程近く、現在の山形県東置賜郡川西町に位置する仏成寺(ぶつじょうじ)にある 1 。その戒名は「凌雲院殿素白休意大居士(りょううんいんでんそはくきゅういたいこじ)」という 2 。天を凌ぐほどの気概を持ち、世俗の塵を離れて安らかに眠る大人物、といった意味が込められており、彼の生涯と伊達家における功績の大きさを物語っている。

彼の死は、一つの時代の終わりを告げるものであった。天文の乱という最大の危機を乗り越え、晴宗の下で奥州探題体制を確立し、輝宗による安定政権の礎を築くまでの道程を見守った重鎮の死は、伊達家が次なる時代、すなわち伊達政宗の時代へと移行していく転換点に位置づけられる。


第六章:桑折氏の後継と子孫の行方

桑折貞長の死後も、桑折一族の物語は続く。嫡流の断絶という危機を乗り越え、主君・伊達政宗の采配の下、新たな道を歩むことになった。その軌跡は、戦国から江戸時代への移行期における、武家の巧みな存続戦略を鮮やかに示している。

嫡男・桑折宗長の活躍

貞長には、桑折宗長(むねなが)という実子がいた。興味深いことに、宗長は当初、相模国の遊行寺(ゆぎょうじ)にて覚阿(かくあ)と号する僧侶であった 2 。しかし、貞長が養子として迎えていた伊達稙宗の六男・宗貞が天文12年(1543年)に17歳で早世したため、急遽呼び戻されて還俗し、桑折家の家督を継ぐことになったのである 2

家督を継いだ宗長は、父・貞長に劣らぬ武将として活躍した。父の死後も伊達輝宗、そしてその子・政宗の二代に仕え、相馬氏との合戦や、政宗の命運を分けた人取橋の戦い、会津の蘆名氏を滅ぼした摺上原の戦いなど、数々の重要な戦陣で武功を挙げた 1 。隠居後は点了斎不曲(てんりょうさいふきょく)と号し、評定衆(ひょうじょうしゅう)の一員として政宗を補佐し続けた重臣であった 1

孫・桑折政長の悲劇と家督の危機

宗長の嫡男・桑折政長(まさなが)もまた、父や祖父の血を受け継ぐ将来有望な武将であった 36 。しかし、彼の運命はあまりにも早く尽きる。文禄2年(1593年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に従軍中、渡海先の朝鮮・釜山浦(ふざんほ)にて病に倒れ、32歳の若さでこの世を去ったのである 1

この政長の早すぎる死は、桑折家に最大の危機をもたらした。彼には男子がおらず、娘が一人いるのみであった 36 。これは、貞長、宗長と続いた桑折家の嫡流が断絶することを意味していた。

石母田氏からの養子と家名の存続

この危機に際し、裁定を下したのは主君・伊達政宗であった。文禄3年(1594年)、政宗の命により、故・政長の娘である吉菊(よしぎく、当時4歳)に、政長の従弟にあたる石母田景頼(いしもだ かげより)の嫡男・満六(まんろく、当時6歳)を婿養子として迎え、桑折重長(しげなが)と名乗らせて家を継がせることになった 36

この石母田景頼は、貞長の娘を妻としており、桑折家とは極めて近しい姻戚関係にあった 2 。血縁の近い一族から養子を迎えることで、家の断絶を防ぎ、その家名を存続させるというのは、この時代の武家社会でしばしば見られた存続戦略であった。

新天地・伊予宇和島藩への道

桑折家の運命は、さらに大きな転機を迎える。慶長19年(1614年)、大坂の陣の功績により、伊達政宗の庶長子・伊達秀宗(ひでむね)が、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)に10万石の領地を与えられ、仙台藩の支藩として宇和島藩を立藩することになった。

この時、桑折家の陣代(後見人)を務めていた石母田景頼は、政宗から秀宗の筆頭家老として宇和島へ随行するよう命じられる 38 。景頼は桑折姓を名乗り、彼の次男・宗頼(むねより)が桑折家の家督を正式に継承し、宇和島藩の家老職に就いた 38

この決断の背景には、高度な政治判断があったと考えられる。仙台本藩に留まれば、他の多くの有力な伊達一門や重臣たちとの間で厳しい競争が続くだろう。それに対し、新たに立藩される支藩へ移り、その筆頭家老という確固たる地位を確保する方が、家の安泰と将来の繁栄に繋がると考えたのである。桑折貞長が築いた伊達家への多大な功績と、代々の忠勤が、その子孫にこのような新たな道を開いたと言える。

以降、桑折氏は幕末に至るまで宇和島藩の城代家老職を世襲する名家として栄えた 11 。その栄華を偲ばせる「桑折氏武家長屋門」は、現在も宇和島城の登城口に移築され、市の有形文化財としてその姿を留めている 43

表2:桑折氏略系図(貞長から宇和島藩士まで)

_(出典:[1, 2, 36, 37, 38]などから作成)_


終章:桑折貞長の歴史的評価

桑折貞長の生涯を俯瞰するとき、彼は単なる一地方武将に留まらない、伊達家の歴史、ひいては戦国時代の奥羽の動向に深く関与した重要な人物であったことが明らかになる。彼の歴史的評価は、以下の三つの側面に集約することができる。

伊達家の守護者にして変革者

第一に、桑折貞長は伊達家の守護者であると同時に、その変革者であった。天文の乱において、彼は主君・稙宗に反旗を翻し、嫡男・晴宗を擁立するという大胆なクーデターを主導した。これは、一歩間違えれば自らと一族の破滅を招きかねない危険な賭けであったが、彼は伊達家の「骨抜き」を阻止するという大義を掲げ、これを成功させた。彼のこの決断と行動がなければ、伊達家は内部分裂と弱体化の末に、周辺勢力に呑み込まれていた可能性すらある。その意味で、彼は伊達家を存亡の危機から救った守護者であった。同時に、旧来の権力者である稙宗を排除し、晴宗を新たな当主、そして奥州探題という公的な権威の座に押し上げたことで、伊達家の権力構造を刷新し、次なる飛躍への道筋をつけた変革者でもあった。後の独眼竜・政宗の華々しい活躍も、貞長らが築いたこの新たな礎なくしてはあり得なかったであろう。

権力闘争を生き抜いた稀代の政治家

第二に、貞長は武勇に優れた武人であると同時に、権力の力学を熟知した稀代の政治家であった。天文の乱後の晴宗政権下では、同僚である中野・牧野一派の台頭を許し、本拠地を明け渡すなど一時的な雌伏を余儀なくされた。しかし、彼は短慮に走ることなく、主君が輝宗に代替わりするという政治的変動を好機と捉え、ライバルの失脚と共に再び権力の中枢へと返り咲いた。その生涯は、功績を挙げても安泰とは限らず、常に同僚との競争や主君の意向に左右される戦国大名家臣団の厳しさと、その中で生き抜くための忍耐力、そして潮目を見極める政治的嗅覚の重要性を如実に物語っている。

後世への礎を築いた一族の長

最後に、彼の功績は彼一代に留まらず、桑折一族の未来への確かな礎となった。彼が築き上げた伊達家における功績と高い家格は、孫・政長の戦死によって嫡流が断絶しかけるという最大の危機に瀕した際にも、一族を支え続けた。主君・政宗の裁定によって近しい姻戚から養子を迎え家名を存続させ、さらには新天地である伊予宇和島藩の筆頭家老という、分家における最高の地位を確保する道へと繋がった。これは、貞長の生涯にわたる忠勤と功績が、後世の子孫にまで恩恵をもたらした証左である。彼の生涯は、一個人の歴史に留まらず、戦国から江戸へと至る時代の大きな転換期を、一族が如何に生き抜き、その名を後世に伝えていったかを理解する上で、欠くことのできない重要な事例と言えるだろう。

引用文献

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  43. 桑折氏武家長屋門 クチコミ・アクセス・営業時間|宇和島 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/11342737