序章:森可成とは
森可成(もり よしなり)は、日本の戦国時代、尾張の風雲児・織田信長の草創期からその覇業を支えた重臣の一人である。彼の生涯は、信長の勢力拡大の軌跡と深く結びついており、その活躍と死は、勃興期の織田政権における有力家臣の重要性、そしてその喪失がもたらす影響を象徴している。
可成は、大永3年(1523年)に生まれ、元亀元年(1570年)に近江国宇佐山城の戦いで壮絶な最期を遂げるまで、信長に一貫して忠誠を尽くした武将であった 1 。その武勇は「攻めの三左」と称えられ、槍の名手として数々の戦場で武功を挙げた。しかし、彼の価値は単なる武辺だけに留まらない。美濃金山城主、近江宇佐山城主として領国経営にも手腕を発揮し、信長の上洛後は京都周辺の政務にも関与するなど、軍事・行政の両面で信長の信頼に応えた 1 。
信長の初期の主要な戦いにはほとんど参陣し、尾張統一、美濃平定、そして上洛という信長の飛躍の各段階で、可成は欠くことのできない役割を果たした。彼の存在は、新興勢力であった織田家にとって、伝統的な権威と実力を兼ね備えた重石のようなものであったと言えるかもしれない。それゆえ、宇佐山城での彼の戦死は、信長にとって計り知れない痛手であり、その後の対浅井・朝倉戦略、さらには比叡山延暦寺に対する強硬策の一因になったとも指摘されている 1 。本報告では、この森可成という戦国武将の生涯を、その出自から最期、そして後世への影響に至るまで、史料に基づいて詳細に追っていく。
第一章:出自と家系
森可成の人物像を理解する上で、その出自と家系は重要な背景となる。彼は大永3年(1523年)、尾張国葉栗郡蓮台(現在の岐阜県羽島郡笠松町周辺)で生を受けたとされる 1 。幼名は伝わっていないが、通称として与三(与三郎)、三左衛門尉、あるいは単に三左衛門と称された 1 。これらの通称は、彼の官途や立場を示すものであったと考えられる。
森氏は、その祖を清和源氏に遡るとされる名門の家系である。具体的には、河内源氏の棟梁として名高い鎮守府将軍・八幡太郎義家(源義家)の七男(一説には六男 3 )、陸奥七郎義隆を祖とすると伝えられている 1 。森という名字は、義隆が相模国森荘に住したことに由来するとも、その孫である森頼定が初代となって確立されたとも言われる 1 。可成の家系は、この頼定の次男・森定氏の子孫が美濃国に住し、代々土岐氏に仕えたとされている 1 。戦国時代という実力主義が横溢した時代にあっても、こうした伝統的な家格や血筋は、武将の社会的地位や影響力に一定の役割を果たした。信長が旧体制の権威を利用しつつ新たな秩序を構築しようとした過程において、可成のような伝統的権威に連なる家臣の存在は、単なる武力以上の意味を持っていた可能性がある。
可成の父は森可行(もり ゆきゆき)、母は青木秀三の娘、あるいは大橋重俊の娘とされている 1 。兄弟には可政(よしまさ)がいたことが記録されており 1 、この可政も後に森氏の分家として旗本などに名を連ね、一族の広がりを示している 3 。可成自身も、その出自を意識し、武士としての誇りや行動規範に影響を受けていたと推測される。例えば、彼の武勇や信長への忠誠心、さらには宇佐山城の戦いで敵対した比叡山延暦寺との間には、祖先である源義隆が比叡山の僧兵の矢によって討たれたという積年の因縁があったとも伝えられている 1 。これは、彼の戦いぶりに個人的な感情以上の、ある種の宿命的な要素が絡んでいた可能性を示唆している。
第二章:織田信長への臣従と初期の戦歴
森可成が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、織田信長に仕えてからである。それ以前の経歴については、美濃国の守護大名であった土岐氏に仕えていたとされるのが一般的である 1 。しかし、土岐氏は斎藤道三によってその地位を奪われ、美濃は下剋上の渦中にあった。可成がいつ、どのような経緯で信長に臣従したかについては諸説あり、土岐氏滅亡後とも、あるいは斎藤氏の家臣であった長井道利に仕えた後とも言われている 2 。いずれにせよ、この主君の変遷は戦国時代の武士の流動性を示すものであり、可成が新たな主君として信長を選んだ背景には、信長の将来性を見抜いた慧眼があったのかもしれない。
信長の家臣となってからの可成は、信長の尾張統一事業において早くも頭角を現す。弘治元年(1555年)、信長が尾張下四郡の守護代であった織田信友(清洲織田氏)を攻めた清洲城の戦いでは、可成は信友を討ち取り、その首級を挙げるという大きな戦功を立てた 1 。翌弘治2年(1556年)には、信長の弟・信行(信勝)との間で行われた家督争いである稲生の戦いにも参陣し、信長方の勝利に貢献した 1 。また、同年、斎藤道三がその子・義龍との長良川の戦いで討死した際には、道三への援軍として出陣した信長軍の退却を助け、自身も肘を負傷しながらも追撃を防ぎ、無事撤退させたという逸話も残っている 1 。これらの戦いは、信長が尾張を統一し、次なる目標である美濃へと勢力を拡大する上で、避けては通れない重要な戦いであった。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいては、今川方の武将・四宮左近を討ち取ったとされる 1 。さらにこの戦いでは、かつて織田方から今川方に寝返った山口教継・戸部政直が再び織田方に内通しているとの流言を広め、今川義元がこれを信じて両名を誅殺するに至らしめたという謀略にも才覚を示した 1 。可成の功績は、敵将を討ち取る直接的な武勇に加え、退却戦での殿(しんがり)や謀略による敵の切り崩しなど、多岐にわたっていた。
これらの戦功を通じて、可成は信長の信頼を確実に得ていった。桶狭間の戦い後、本格化する美濃攻略戦においても、可成は重要な役割を担う。永禄4年(1561年)の森部の戦いでは柴田勝家らと共に奮戦し、長井衛安・日比野景直らを討ち取った 1 。永禄7年(1564年)の堂洞城攻めでも岸信周を破るなど 1 、美濃平定に大きく貢献した。こうした一連の功績が評価され、永禄8年(1565年)、可成は美濃金山城(旧烏峰城)の城主に任命される 1 。これは、織田家における彼の地位が確固たるものになったことを示す出来事であった。柴田勝家よりも早くから信長に仕えた年長組の一人として、また美濃衆の中心人物として、可成は織田家中で重きをなす存在となっていったのである 1 。彼の初期の活躍は、後の宇佐山城での死守という彼の武将としての生き様を予感させるものであり、信長にとって彼が単なる戦力としてだけでなく、信頼できる重臣であったことを示唆している。
第三章:主要な戦いと武功(美濃攻略以降)
美濃金山城主となった森可成は、織田信長のさらなる飛躍、すなわち上洛戦においても中心的な役割を担うことになる。永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍足利義輝の弟・足利義昭を奉じて京都を目指した際、可成は柴田勝家らと共に先鋒部隊として進軍した 1 。この上洛作戦は、信長が「天下布武」を本格的に開始する画期であり、その先陣を任されたことは、可成への信頼の厚さを物語っている。
道中、六角義賢・義治父子が守る南近江の観音寺城攻略にも参加した(観音寺城の戦い) 8 。『信長公記』によれば、信長は柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚に三好三人衆方の岩成友通が籠る山城国勝龍寺城の攻略を命じ、これを降伏させている 1 。さらに摂津国の芥川山城など、畿内各地の城を次々と攻略し、信長の上洛を成功に導いた 1 。
上洛後、可成は近江国滋賀郡の宇佐山城を与えられ、南近江の守備という重責を担った 1 。宇佐山城は琵琶湖西岸に位置し、京都へ至る交通の要衝であり、北近江の浅井長政や越前の朝倉義景といった潜在的な敵対勢力の南進を食い止めるための最前線基地であった 11 。美濃金山城も引き続き可成の支配下にあり、こちらは東美濃における戦略拠点、そして木曽川を利用した水運の要として機能し、城下町の整備も進められたと考えられる 5 。
可成の能力は、軍事面に留まらなかった。信長の上洛後は、京都周辺の寺社や堺の会合衆などに対して多くの文書を発給しており、織田家の重臣として政務にも深く関与していたことが史料から確認できる 1 。例えば、永禄11年(1568年)9月28日には、信長が京都の東福寺に発給した禁制に、柴田勝家、蜂屋頼隆、坂井政尚と共に奉行として連署している 13 。これは、彼が単に武勇に優れた武将であるだけでなく、統治能力や交渉能力においても信長から高く評価されていたことを示している。信長は家臣の能力を多角的に見極め、適材適所で活用する傾向があったが、可成が軍事・統治・政務の全てにおいて重用されたことは、彼が信長の多岐にわたる要求に応えられるだけの総合的な能力を有していたことを意味する。
元亀元年(1570年)6月28日に勃発した姉川の戦いにも、可成は織田軍の第五陣に所属して参陣している 1 。これは、彼が最前線の宇佐山城を守備しつつも、大規模な野戦にも動員される、織田軍にとって不可欠な戦力であったことを示している。
表1:森可成 主要参戦記録
合戦名 |
年月日(和暦) |
可成の役割・戦功など |
主な結果 |
清洲城の戦い |
弘治元年(1555年) |
織田信友を討ち取り首級を挙げる 1 。 |
織田信長方勝利 |
稲生の戦い |
弘治2年(1556年) |
織田信行方と戦い、信長の勝利に貢献 1 。 |
織田信長方勝利 |
長良川の戦い(援軍) |
弘治2年(1556年)4月 |
斎藤道三方として参戦。道三敗死後、織田軍の退却を助ける 1 。 |
斎藤義龍方勝利 |
桶狭間の戦い |
永禄3年(1560年)5月 |
今川方武将・四宮左近を討ち取る。山口教継らの内通流言を流し敵軍を攪乱 1 。 |
織田信長方勝利 |
森部の戦い |
永禄4年(1561年) |
柴田勝家らと共に斎藤軍と戦い、長井衛安・日比野景直らを討ち取る 1 。 |
織田信長方勝利 |
堂洞城の戦い |
永禄7年(1564年)夏 |
岸信周の堂洞城を攻略 1 。 |
織田信長方勝利 |
上洛作戦(観音寺城の戦い、勝龍寺城の戦い等) |
永禄11年(1568年)9月 |
柴田勝家らと共に先鋒を務め、各地を攻略。勝龍寺城主岩成友通を降伏させる 1 。 |
織田信長方勝利 |
姉川の戦い |
元亀元年(1570年)6月 |
織田軍第五陣に所属して参戦 1 。 |
織田・徳川連合軍勝利 |
宇佐山城の戦い |
元亀元年(1570年)9月 |
城主として浅井・朝倉連合軍3万と戦う。緒戦で撃退するも、増援を得た敵軍との激戦の末、9月20日に討死 1 。宇佐山城は落城を免れる。 |
織田方防衛成功(可成戦死) |
第四章:宇佐山城の戦いと最期
元亀元年(1570年)、織田信長は最大の危機の一つに直面する。いわゆる「信長包囲網」の形成である。この年、信長が摂津国で三好三人衆や石山本願寺勢力と対峙している隙を突いて、浅井長政・朝倉義景の連合軍約3万が京都を目指して南下を開始した。これが「志賀の陣」と呼ばれる一連の戦いの発端である 1 。この時、南近江の要衝・宇佐山城の守備を任されていたのが森可成であった 1 。宇佐山城の兵力はわずか1千余りであり、圧倒的な兵力差での防衛戦を強いられることとなった 1 。
9月16日、浅井・朝倉連合軍は宇佐山城に迫る。可成は寡兵を以てこれを迎え撃ち、緒戦においては巧みな指揮で3万の敵軍を撃退するという目覚ましい奮戦を見せた 1 。しかし、敵は兵力に物を言わせて波状攻撃を仕掛けてくる。さらに9月19日には、石山本願寺の法主・顕如の要請に応じた比叡山延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、宇佐山城はますます窮地に立たされた 1 。
運命の9月20日、可成は城から打って出て、坂本(現在の滋賀県大津市坂本)に陣を敷き、敵の進軍路を遮断して決戦を挑んだ 1 。『信長公記』などの史料によれば、この日の戦いは凄惨を極めた。可成は先鋒の朝倉景鏡の部隊を押し返すなど獅子奮迅の働きを見せたが、浅井軍の浅井対馬守・浅井玄蕃允の部隊(約2千)に側面から攻撃を受け、さらに朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎といった朝倉方の諸隊、そして浅井長政の本隊までもがこれに加わって総攻撃を仕掛けてきた 1 。
『信長公記』には、その最期の様子が「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎(信長の弟・信治)防戦火花を散らし、九天九地の下を通り、終日合戦なり。浅井、朝倉新手を入れ替えて攻め戦うによって、織田九郎、森可成両将とも下坂本瀬戸在家にて討ち死になり」と記されている 1 。この記述は、両軍が入り乱れて激しく戦い、終日に及ぶ死闘の末、織田信治と共に可成が討ち死にしたことを伝えている。享年48であった 1 。
森可成は戦死したものの、その死は決して無駄ではなかった。彼の決死の防戦により、浅井・朝倉連合軍の進軍は数日間にわたって遅滞し、近江に釘付けにされた。これにより、連合軍は信長の本隊の背後を突くという戦略目的を達成することができなかったのである 1 。また、宇佐山城自体も、可成の討死後、城内に残った家臣の各務元正(かがみ もとまさ)や肥田直勝(ひだ なおかち)らが奮戦し、ついに落城を免れた 1 。後日、信長はこの両名を賞賛したと伝えられる。
可成の戦死は、織田信長に大きな衝撃を与えた。信長は可成の死を深く悲しみ、これが直後の元亀2年(1571年)に行われた比叡山延暦寺焼き討ちの一因になったとも言われている 1 。浅井・朝倉連合軍に与した延暦寺に対する報復、そして見せしめという意味合いに加え、可成の弔い合戦という側面があった可能性も否定できない。さらに、森家の祖先である源義隆がかつて比叡山の僧兵によって討たれたという因縁も指摘されており 1 、この出来事には個人的な感情を超えた、ある種の歴史的な宿縁が絡んでいたとも考えられる。可成の死は、単なる一武将の戦死に留まらず、信長の対敵戦略、特に宗教勢力への強硬姿勢を明確化する上での一つの転換点となった可能性があり、その後の歴史に少なからぬ影響を与えたと言えるだろう。
第五章:人物像と評価
森可成の人物像は、史料や逸話を通じて多角的に浮かび上がってくる。まず特筆すべきは、その卓越した武勇である。彼は関兼貞(せきのかねさだ)銘の十文字槍を愛用した槍の名手として知られ 1 、その勇猛果敢な戦いぶりから「攻めの三左」(あるいは「槍の三左」 19 )という異名を誇った 1 。この異名は、彼の積極的で攻撃的な戦闘スタイルを的確に表しており、数々の戦場での華々しい活躍を裏付けている。
彼の武人としての苛烈な経験を物語る逸話として、「十九」という蔑称で呼ばれることがあったという話が伝わっている 1 。これは、いずれかの戦で指を一本失い、手足の指の合計が十九本になったためだという。また、彼の人間的な度量の広さや戦術眼、そして同僚からの信頼の厚さを示す重要なエピソードとして、前田利家との関わりがある。織田家を一時追放されていた利家が帰参を望んでいた際、可成は利家に対し、戦場での武功の立て方を実地で教え、一番乗りの功を譲ったとされる。利家はこの恩義を終生忘れず、可成を「あれほどの戦巧者は稀であった」と称賛したと伝えられている 19 。これは、可成が単に勇猛なだけでなく、他者を思いやり、育てることのできる器の大きな人物であったことを示唆している。
一方で、可成は武勇一辺倒の人物ではなかった。信長の上洛後は、京都周辺の寺社や堺の会合衆に対して多くの文書を発給するなど、政務においても優れた能力を発揮したことが確認されている 1 。これは、彼が複雑な政治状況を理解し、適切に対応できるだけの知性と実務能力を兼ね備えていたことを示しており、信長が彼を軍事面だけでなく統治面でも重用した理由の一つであろう。
家庭人としての可成については、正室である林通安(あるいは通利 2 )の娘・えい(法名:妙向尼)との間に六男三女、合計九人の子供をもうけたが、その全てが正室えいとの間の子であったことから、愛妻家であったと伝えられている 1 。戦国時代の武将としては珍しく側室を持たなかった可能性も示唆され、彼の誠実な人柄を窺わせる。
同時代および後世からの評価も高い。織田家中においては柴田勝家よりも早くから信長に仕えた古参の武将であり、その忠誠心と能力は信長から深く信頼されていた 1 。信長が可成の死を悼み、その弔い合戦として比叡山を焼き討ちしたという説が有力であることは、信長にとって可成がいかにかけがえのない存在であったかを物語っている 1 。現代においても、ゲーム『信長の野望 出陣』などの創作物では、その武勇や特性が高く評価されており 21 、勇猛にして忠義に厚い武将としてのイメージが広く浸透している。
これらの側面を総合すると、森可成は「攻めの三左」と称される猛将としての武勇、複雑な政務をこなす知性と実務能力、そして家族や同僚を思いやる人間的な温かみを兼ね備えた、戦国時代の理想的な武将像の一つを体現していたと言えるだろう。彼の多面的な能力と人間性が、信長からの絶大な信頼と、多くの人々からの尊敬を集めた要因であり、その死が信長に大きな衝撃を与え、後の歴史に影響を及ぼしたのも故なしとしない。
第六章:家族と子孫
森可成の生涯を語る上で、その家族、特に息子たちの存在は欠かすことができない。彼らは父の死後も戦国の世を駆け抜け、森家の名を歴史に刻むことになる。
可成の正室は、美濃の国人・林通安(あるいは通利 2 )の娘で、名を「えい」、法名を妙向尼(みょうこうに)という 1 。彼女との間には、六男三女が生まれたと記録されている 1 。
表2:森可成 関係人物表
続柄 |
氏名(通称、諱) |
生没年・主な事績など |
父 |
森可行(もり ゆきゆき) |
詳細不明。 |
母 |
青木秀三の娘(または大橋重俊の娘) |
詳細不明 1 。 |
正室 |
えい(妙向尼) |
林通安(または通利)の娘。六男三女の母 1 。 |
長男 |
森可隆(もり よしたか) |
? - 元亀元年(1570年)。父に先立ち、越前手筒山城攻めで戦死 1 。 |
次男 |
森長可(もり ながよし) |
永禄元年(1558年) - 天正12年(1584年)。父の死後家督を継ぐ。「鬼武蔵」と恐れられた猛将。小牧・長久手の戦いで戦死 1 。 |
三男 |
森成利(もり なりとし、通称:蘭丸) |
永禄8年(1565年) - 天正10年(1582年)。織田信長の小姓として寵愛を受ける。本能寺の変で信長と共に討死 1 。 |
四男 |
森長隆(もり ながたか、通称:坊丸) |
? - 天正10年(1582年)。蘭丸と共に本能寺の変で信長に殉死 1 。 |
五男 |
森長氏(もり ながうじ、通称:力丸) |
? - 天正10年(1582年)。蘭丸、坊丸と共に本能寺の変で信長に殉死 1 。 |
六男 |
森忠政(もり ただまさ) |
元亀元年(1570年) - 寛永11年(1634年)。兄・長可の跡を継ぎ、後に美作津山藩初代藩主となる 1 。 |
長女 |
碧松院(へきしょういん) |
関成政(せき なりまさ)室 1 。 |
次女 |
娘 |
青木秀重(あおき ひでしげ)室 1 。 |
三女 |
うめ |
木下勝俊(きのした かつとし)室 1 。 |
森家の男子の多くが、戦国の動乱の中で若くして命を落としたことは特筆される。父・可成と長男・可隆は元亀元年(1570年)に相次いで戦死。その後、家督を継いだ次男・長可は「鬼武蔵」と異名を取るほどの勇猛さで知られたが、天正10年(1582年)の本能寺の変で主君信長が横死した後、豊臣秀吉に仕えるも、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで27歳の若さで戦死した 3 。そして、本能寺の変においては、三男・成利(蘭丸)、四男・長隆(坊丸)、五男・長氏(力丸)の三兄弟が信長に殉じて壮絶な最期を遂げた 1 。これは森家にとって最大の悲劇であると同時に、織田家への忠誠の象徴とも言える出来事であった。
このように相次ぐ当主クラスの戦死は、通常であれば家の断絶に繋がりかねない危機的状況であった。しかし、森家は六男の忠政によって再興される。忠政は兄・長可の遺領を継ぎ、豊臣秀吉、そして関ヶ原の戦いを経て徳川家康に仕え、その過程で巧みに立ち回り、最終的には慶長8年(1603年)、美作国一国を与えられ津山藩18万6500石の初代藩主となった 3 。これは、忠政が兄たちとは異なる資質、すなわち武勇だけでなく、政治的なバランス感覚や時勢を読む能力にも長けていたことを示唆している。
津山藩森家は、江戸時代を通じて大名家として存続したが、元禄10年(1697年)に後継者問題などから一時改易された。しかし、隠居していた元藩主・森長継に備中国西江原2万石が与えられ、宝永3年(1706年)にはその子・長直の代に播磨国赤穂藩2万石に転封となり、以後、廃藩置県まで同地を治めた 3 。維新後は華族に列せられ、子爵家となっている 3 。また、可成の弟である森可政の系統も旗本などとして存続し、森氏の血脈は多岐にわたって後世に伝えられた 3 。森一族の歴史は、戦国時代の過酷さと、その中で家名を繋いでいくことの困難さ、そしてそれを成し遂げた人物の力量を浮き彫りにしている。
第七章:史跡と墓所
森可成の生涯と功績を偲ぶことができる史跡として、彼が城主を務めた城郭跡や、その魂が眠る墓所が現代にも残されている。これらは、可成が生きた時代と彼が果たした役割を具体的に感じ取るための貴重な手がかりとなる。
まず、可成が城主としてその名を刻んだ主要な城郭として、美濃金山城と近江宇佐山城が挙げられる。
美濃金山城は、現在の岐阜県可児市兼山にその跡を残す。元は斎藤道三の養子・斎藤正義(妙春)が天文6年(1537年)に築いた烏峰城(うほうじょう)であったが、永禄8年(1565年)、織田信長の東美濃攻略に伴い、可成が城主として入城し、金山城と改称した 1。金山城は、東美濃における織田軍の戦略拠点として、また木曽川の水運を利用した物流の要衝として重要視され、可成とその後の森氏によって城下町と共に整備が進められた 5。
一方、近江宇佐山城は、現在の滋賀県大津市に位置した山城である。信長の上洛後、元亀元年(1570年)に完成し、可成が初代城主として入城した 11 。この城は、琵琶湖南西岸の宇佐山(標高約336メートル)に築かれ、湖西から京都へ至る交通路を抑える戦略的要地にあり、特に北近江の浅井氏や越前の朝倉氏の南進を警戒・阻止する最前線の防衛拠点としての役割が期待されていた 1 。可成が戦死した後、明智光秀が一時城将となったが、光秀が坂本城を築いて移ると宇佐山城は廃城となったとされ、わずか2年ほどの短い歴史の城であったが、織田軍にとってその戦略的意義は大きかった 11 。
次に、森可成の墓所として知られるのは、滋賀県大津市の聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ)と、岐阜県可児市兼山の可成寺(かじょうじ)である。
聖衆来迎寺は、宇佐山城の戦いで討死した可成が埋葬されたと伝わる寺院である 1。寺伝によれば、同寺の真雄住職が可成の死を哀れみ、当時比叡山延暦寺と深い繋がりがあったにもかかわらず、その境内に可成を葬ったという。この行為が、後の信長による比叡山焼き討ちの際に、聖衆来迎寺が焼き討ちを免れる一因になったという逸話も残されている 1。この逸話は、可成の人徳が死してなお影響を与えた可能性を示唆しており、興味深い。
可成寺は、美濃金山城の麓、現在の岐阜県可児市兼山に位置する森家の菩提寺である 1 。この寺は、可成の戦死後、その菩提を弔うために次男の長可が建立したと伝えられる(創建時期や経緯には諸説あり)。当初は金山城の山頂にあったが、慶長5年(1600年)に森忠政が信濃川中島へ転封となった際に現在地に移されたという 28 。境内裏手の墓地には、可成の供養塔を中心に、長男可隆、次男長可、そして本能寺の変で散った三男蘭丸、四男坊丸、五男力丸らの供養塔が並んでおり 28 、森一族の結束と先祖供養の篤い念を今に伝えている。
これらの城跡や寺社は、単なる歴史的建造物や墓所としてだけでなく、森可成という一人の武将とその一族が織りなした激動の物語を現代に語り継ぐ「生きた証人」と言えるだろう。彼の功績や人となりを多角的に理解する上で、これらの史跡が提供する情報は計り知れない価値を持つ。
終章:森可成が戦国史に遺したもの
森可成は、戦国時代という激動の時代を駆け抜け、織田信長の覇業初期において、軍事・政務の両面で不可欠な役割を果たした武将であった。彼の生涯とその功績は、単に一個人の武勇伝に留まらず、戦国史の大きな流れの中で重要な意味を持っている。
まず、織田政権における可成の貢献を総括すると、信長の尾張統一から美濃平定、そして上洛に至るまでの重要な局面で、常に最前線に立ち、あるいは後方支援を的確に行い、信長の勢力拡大を力強く支えた点が挙げられる。特に、美濃金山城主として東美濃の安定に寄与し、近江宇佐山城主としては浅井・朝倉連合軍の脅威から京都を守る盾となった。宇佐山城の戦いにおける彼の奮戦と死は、結果的に連合軍の進撃を遅らせ、信長が体勢を立て直すための貴重な時間をもたらした 1 。また、彼の死が信長の比叡山延暦寺焼き討ちという強硬策の一因となったとする説は、信長にとって可成の喪失がいかに大きなものであったか、そしてその死が信長の戦略や感情にどれほどの影響を与えたかを物語っている 1 。
森可成の歴史的評価は、彼自身の功績に加え、その息子たちの劇的な生涯によっても増幅されている側面がある。特に、信長の小姓として名高い三男・蘭丸(成利)、そして蘭丸と共に本能寺で殉じた坊丸(長隆)、力丸(長氏)の悲劇的な最期は、父である可成への関心を高める要因となっている 1 。また、次男・長可の「鬼武蔵」と称された勇猛果敢な生き様も、森一族の武勇を象徴するものとして語り継がれている 20 。森一族が経験した多くの戦死という悲劇は、戦国時代の過酷さを象徴すると同時に、人々の同情や興味を引き、物語性を豊かにしている。
現代においても、森可成とその一族は、小説、漫画、ゲーム、さらには大河ドラマといった様々な創作物の題材として取り上げられている。津本陽の小説『下天は夢か』 1 や、重野なおきの漫画『信長の忍び』 18 などでは、可成自身も魅力的なキャラクターとして描かれ、その武勇や信長への忠誠心が強調されることが多い。ゲーム『信長の野望』シリーズでは、能力の高い武将として登場し、プレイヤーからの人気も高い 21 。2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、直接的な登場はなかったものの、息子の森長可(演:城田優)や森乱(蘭丸、演:大西利空)が重要な役どころで描かれ、森一族の物語が改めて注目された 36 。これらの創作物における描かれ方は、歴史的事実を基にしつつも、それぞれの作品のテーマや時代背景に応じて多様な解釈が加えられており、森可成という人物像が持つ多面性を示している。
森可成が戦国史に遺したものは、彼個人の輝かしい武功や政治的手腕に加えて、彼とその一族が織りなした忠誠、武勇、そして悲劇と再生の物語である。それは戦国という時代の本質を凝縮して体現しており、だからこそ現代に至るまで多くの人々を惹きつけ、語り継がれるのであろう。彼の生涯は、困難な時代をいかに生き、いかに死んでいったかという、普遍的な問いを我々に投げかけているのかもしれない。
付録
表3:森可成 略年譜
和暦 |
西暦 |
年齢 |
主な出来事 |
典拠例 |
大永3年 |
1523年 |
1歳 |
尾張国葉栗郡蓮台にて誕生。 |
1 |
天文年間 |
1532年-1555年 |
- |
美濃国守護・土岐氏に仕える(時期詳細不明)。土岐氏没落後、織田信長に臣従(時期詳細不明)。 |
1 |
弘治元年 |
1555年 |
33歳 |
清洲城攻めに参加。織田信友を討ち取り、首級を挙げる。 |
1 |
弘治2年 |
1556年 |
34歳 |
稲生の戦いに参加し、信長の勝利に貢献。長良川の戦いで斎藤道三方として参戦、織田軍の退却を助ける。 |
1 |
永禄3年 |
1560年 |
38歳 |
桶狭間の戦いに参加。今川方武将を討ち取り、謀略で敵軍を攪乱。 |
1 |
永禄4年 |
1561年 |
39歳 |
森部の戦いで斎藤軍と戦い勝利に貢献。 |
1 |
永禄8年 |
1565年 |
43歳 |
美濃金山城(旧烏峰城)城主となる。 |
1 |
永禄11年 |
1568年 |
46歳 |
織田信長の上洛作戦に先鋒として従軍。観音寺城の戦い、勝龍寺城攻めなどで活躍。上洛後、京都周辺の政務にも携わる。 |
1 |
元亀元年 |
1570年 |
48歳 |
4月:長男・可隆が越前手筒山城攻めで戦死。 |
1 |
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5月頃:近江宇佐山城完成、城主となる。 |
11 |
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6月28日:姉川の戦いに参陣。 |
1 |
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9月16日:宇佐山城の戦い(志賀の陣)開始。緒戦で浅井・朝倉連合軍を撃退。 |
1 |
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9月20日:宇佐山城外の坂本にて、浅井・朝倉連合軍及び延暦寺僧兵らと激戦の末、織田信治と共に討死。享年48。宇佐山城は落城を免れる。 |
1 |
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同日頃:六男・忠政が美濃金山にて出生(異説あり)。 |
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