森忠政は森家最後の生き残り。激動の時代を生き抜き、津山藩を創建。津山城と城下町を築き、領主として功罪相半ばする統治を行った。
戦国の世に、その勇猛さと悲劇性をもって鮮烈な記憶を刻んだ一族がある。美濃金山城主、森氏である。「鬼武蔵」と敵味方から恐れられた次兄・長可、「本能寺の変」において主君・織田信長に殉じた三人の兄、成利(蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸) 1 。彼らは戦国の空に眩い光を放ち、そして次々と命を散らしていった。
その中でただ一人、戦国の動乱を生き抜き、近世大名として家名を明治の世まで伝え、西国美作の地に巨大な足跡を遺した武将がいる。森可成の六男、森忠政である 4 。彼は、兄たちの死によって図らずも一族の命運をその双肩に担うこととなった、「最後の生き残り」であった。
本報告書は、この森忠政という人物が、相次ぐ肉親の死という悲劇を乗り越え、いかにして激動の時代を巧みに泳ぎきり、美作津山藩十八万六千五百石の創業者となり得たのか、その生涯の光と影、そして統治者としての功罪を、あらゆる角度から徹底的に解明することを目的とする。彼の人生は、織田政権の終焉、豊臣政権の興隆と崩壊、そして徳川幕藩体制の確立という、日本の歴史上最も劇的な転換期と完全に重なっている。忠政の生涯を追うことは、即ち、戦国という時代がいかにして終わり、近世という新たな秩序がいかにして築かれていったかを、一人の武将の視点から見つめ直す作業に他ならない。
本論に入るに先立ち、読者が忠政の生涯と時代の大きな流れを俯瞰できるよう、彼の人生における主要な出来事をまとめた年表を以下に示す。
表1:森忠政 関連年表
西暦 (元号) |
年齢 |
忠政の動向および森家の出来事 |
社会の主な出来事 |
1570 (元亀元) |
1 |
美濃金山城にて森可成の六男として誕生(幼名:仙千代)。同年、父・可成、長兄・可隆が戦死 3 。 |
姉川の戦い、石山合戦始まる。 |
1580 (天正8) |
11 |
石山合戦の和睦条件により、一時僧籍に入る 6 。 |
石山本願寺、信長に降伏。 |
1582 (天正10) |
13 |
信長の小姓として出仕するも、素行が原因で美濃へ送り返される 8 。6月、本能寺の変。兄・成利(蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)が信長と共に討死 2 。 |
本能寺の変、山崎の戦い、清洲会議。 |
1583 (天正11) |
14 |
兄・長可により、人質となっていた岐阜城から救出される 8 。 |
賤ヶ岳の戦い。 |
1584 (天正12) |
15 |
4月、次兄・長可が小牧・長久手の戦いで戦死。家督を相続し、美濃金山城主(7万石)となる 1 。 |
小牧・長久手の戦い。 |
1587 (天正15) |
18 |
九州征伐に従軍。従四位下・侍従に叙任され、羽柴姓を賜る 7 。 |
豊臣秀吉、九州を平定。 |
1590 (天正18) |
21 |
小田原征伐に従軍 9 。 |
豊臣秀吉、天下を統一。 |
1592 (文禄元) |
23 |
文禄の役では肥前名護屋城の築城・警備にあたる 9 。 |
文禄の役(朝鮮出兵)。 |
1594 (文禄3) |
25 |
豊臣秀長の養女・お岩(智勝院)と結婚 12 。 |
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1598 (慶長3) |
29 |
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豊臣秀吉、死去。 |
1599 (慶長4) |
30 |
石田三成襲撃事件の際、徳川家康の屋敷を警護し、家康から深く感謝される 9 。 |
前田利家、死去。 |
1600 (慶長5) |
31 |
家康の計らいで信濃川中島13万7千石余に加増転封 11 。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属し、上田城の真田昌幸を攻める 7 。 |
関ヶ原の戦い。 |
1602 (慶長7) |
33 |
信濃で「右近検地」と呼ばれる苛烈な検地を実施。大規模な一揆を鎮圧 15 。 |
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1603 (慶長8) |
34 |
美作一国十八万六千五百石に加増転封。津山藩初代藩主となる 8 。 |
徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府。 |
1604 (慶長9) |
35 |
鶴山を「津山」と改め、津山城の築城を開始 15 。 |
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1614 (慶長19) |
45 |
大坂冬の陣に徳川方として参陣 9 。 |
大坂冬の陣。 |
1615 (元和元) |
46 |
大坂夏の陣に参陣。戦功により家康から名物茶入「青木肩衝」を拝領 7 。 |
大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。武家諸法度制定。 |
1616 (元和2) |
47 |
津山城が完成 17 。 |
徳川家康、死去。 |
1626 (寛永3) |
57 |
従四位上に昇進 11 。 |
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1634 (寛永11) |
65 |
7月7日、将軍・家光の上洛準備のため滞在していた京都にて急死 6 。 |
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森忠政の生涯を理解する上で、その出発点がいかに過酷なものであったかを知ることは不可欠である。彼の幼少期は、肉親の相次ぐ死と、常に死と隣り合わせの緊張感の中にあった。その経験が、後の彼の冷徹な現実主義と、一族を存続させることへの執念の原点となった。
忠政がこの世に生を受けたのは、元亀元年(1570年)、織田信長の家臣であった父・森可成が治める美濃国金山城においてであった 6 。しかし、彼が生まれたまさにその年、織田家は浅井・朝倉連合軍や石山本願寺との激しい戦いの渦中にあった。父・可成は、近江の宇佐山城を守る戦いで奮戦するも、同年9月に討死。さらに長兄の可隆も、父に先立って同じ年に命を落としていた 1 。忠政は、物心つく以前に父と長兄の顔を知らぬまま、母・妙向尼(美濃の豪族・林氏の娘)の手によって育てられることとなる 6 。
彼の幼少期における特異な経験として、一時的に仏門に入れられたことが挙げられる。これは、天正8年(1580年)に成立した織田信長と石山本願寺の和睦に際し、その条件の一つとして「森家ゆかりの者を僧籍に入れる」という項目があったためである 6 。母・妙向尼が熱心な一向宗の門徒であったことから、彼女が和睦の使者の一翼を担い、その証として末子である忠政が差し出されたと考えられている。程なくして、姉婿である関成政の子が代わりに出家したため忠政は還俗するが、この経験は、森家が織田家家臣でありながら本願寺とも浅からぬ縁を持っていたという、複雑な立場を象徴している。
天正10年(1582年)の春、数え13歳となった忠政は、兄たちに続いて織田信長の小姓として出仕する 7 。信長の寵愛を受けていた兄・蘭丸らの存在もあり、彼もまた将来を期待されての出仕であっただろう。しかし、ここで彼の激しい気性を示す逸話が残されている。先輩の小姓であった梁田河内守にからかわれたことに腹を立てた忠政は、主君である信長の御前であるにもかかわらず、おもむろに扇子を取り出し、梁田の頭を打ち据えたのである 7 。
この行状を見咎めた信長は、「仙(仙千代)はまだ側仕えは早い。母の元へ返せ」と命じ、忠政を美濃の金山城へと送り返してしまう 8 。主君の勘気を被っての帰郷は、若き忠政にとって屈辱であったに違いない。しかし、この信長の判断が、皮肉にも彼の運命を大きく変えることになる。同年6月2日、京都の本能寺において、明智光秀が謀反。信長は自刃し、その側に仕えていた三人の兄、成利(蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)も主君と運命を共にした 2 。もし忠政が信長の側にいれば、彼もまた兄たちと同じ末路を辿っていたことは想像に難くない。この偶然の生還は、彼の生涯を決定づける最初の、そして最大の転機であった。
変報に接した時、忠政は母・妙向尼と共に近江安土城にいた。政情が混乱を極める中、彼ら母子を救ったのは、森家と日頃から親交のあった甲賀流忍者の一族、伴惟安であった 7 。惟安は母子を安土から脱出させ、甲賀にある自らの所領にかくまった。この事実は、森家が単なる武辺一辺倒の家ではなく、諜報や遊撃を担う甲賀衆とも深い関係を築いていたことを示しており、戦国を生き抜くための多面的なネットワークを有していたことを物語っている。
信長の死後、織田家の後継者を巡る内紛が激化し、天下の情勢は羽柴秀吉と柴田勝家の二大勢力の対立へと収斂していく。この時、森家の家督を継いでいた次兄・長可は、岳父である池田恒興と共に秀吉方につくことを決断する。しかし、彼には大きな懸念があった。弟の忠政が、対立する織田信孝の人質として、岐阜城に預けられていたのである 9 。
このまま秀吉方として旗幟を鮮明にすれば、忠政の命が危ない。そう判断した長可は、弟の救出を決意する。彼はわずかな手勢を率いて岐阜城下に忍び込むと、城壁の外、約30メートル下の谷底に密かに布団を幾重にも敷き詰めた。そして城内の忠政を連れ出すと、躊躇なくその谷底めがけて突き落としたのである 8 。常人には考えも及ばぬこの荒業によって、忠政は無傷で脱出に成功した。この逸話は、兄・長可の常軌を逸した豪胆さと、弟を思う深い情を示すものである。同時に、忠政が幼くして、一族の政略の駒として常に死の危険に晒されていたという、彼の過酷な境遇を浮き彫りにしている。
忠政の幼少期から少年期は、肉親の死、裏切り、そして奇跡的な生還の連続であった。父、長兄、そして本能寺で一度に三人の兄を失い、自らも人質として命の危機に瀕した。これらの強烈な体験が、彼の精神の根幹を形成したことは疑いようがない。彼の周囲では、父や兄のような勇猛果敢な武将たちが、次々と「戦死」という形でその生涯を終えていった。彼にとって、「武士らしい名誉の死」は、一族の断絶と直結する、忌むべきトラウマとして刻まれた可能性が高い。その結果、彼の行動原理は「いかに名誉ある死を遂げるか」ではなく、「いかにして一族を存続させるか」という、より現実的で切実なものへと変質していったと考えられる。本能寺の変における「偶然の生還」や、兄による「強引な救出」は、彼に「生き残ること」の絶対的な重要性を、骨の髄まで教え込んだはずである。したがって、後年に見られる彼の冷徹な政治判断や、敵対者への容赦ない態度は、単なる性格的な欠点として片付けるべきではない。それは、一族の命運を一身に背負うことになった「最後の生き残り」としての強烈なプレッシャーと、「何としても家を絶やしてはならない」という強迫観念にも似た執念の表れであった。この「生存への執念」こそが、彼のその後の生涯を読み解く上で、最も重要な鍵となるのである。
兄たちの相次ぐ死により、森忠政は15歳という若さで、戦国の荒波に翻弄される森家の舵取りを任されることとなった。それは、勇猛な兄の遺言と、新たな天下人の命令との間で、自らの進むべき道を見出さねばならない、苦難に満ちた船出であった。
忠政の前に森家の家督を継いでいた次兄・長可は、家中随一の猛将として知られ、「鬼武蔵」の異名で恐れられていた 1 。その戦いぶりは苛烈を極め、信長からも高く評価されていた。天正10年(1582年)の甲州征伐では、その功績を認められて信濃川中島四郡二十万石という破格の領地を与えられるなど、織田家中でも屈指の出世頭であった 1 。しかし、そのあまりに強硬な統治手法は、現地の国衆の激しい反発を招き、その支配は常に不安定なものであった 26 。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが勃発すると、長可は羽柴秀吉方として参陣する。この戦に際し、彼は鎧の上に白装束をまとい、生きては帰らぬ覚悟を示して戦場に臨んだという 28 。同年4月9日、長久手の地で徳川家康本隊と激突。井伊直政の部隊を相手に奮戦するも、鉄砲隊による狙撃で眉間を撃ち抜かれ、27歳という若さで壮絶な討死を遂げた 1 。
長可は、この最後の出陣に際して、一通の遺言状を遺していた。武士の遺言としては極めて異例なことに、その内容は、森家の「繁栄」よりも「存続」をただひたすらに願うものであった。「城主になるな」「大役を担うな」といった言葉が並ぶこの遺言は、常に死と隣り合わせの危険な最前線に身を置き続けた猛将が、自らの生き方を省みた末に、唯一残った弟へ託した悲痛な願いであった 29 。
兄・長可の遺志に反し、天下人への道を歩み始めていた羽柴秀吉は、当時まだ15歳であった忠政(仙千代)に家督を継がせ、兄の旧領であった美濃金山7万石を安堵した 1 。これは、長可をはじめとする森一族が織田家、そして秀吉自身に尽くした功績に報いるという名目と同時に、若く未熟な当主を自らの強い影響下に置くことで、森家を確実に豊臣政権の枠内に組み込もうとする、秀吉の巧みな政治的計算があったと考えられる。
この裁定により、忠政は極めて困難な立場に立たされる。一方は、戦場で散った兄が遺した「大役を担い、危険な道を歩むな」という遺言。もう一方は、新たな時代の支配者である秀吉からの「森家を継ぎ、大名として生きろ」という命令。この二つの相克する意思の狭間で、彼は森家の当主としてのキャリアをスタートさせなければならなかった。
家督を相続した忠政は、豊臣政権下で大名として着実にその地歩を固めていく。天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐といった、秀吉の天下統一事業を締めくくる重要な戦役に従軍した 9 。これらの経験を通じて、彼は大軍の動かし方や兵站の重要性など、実戦的な統治の術を学んでいった。
天正15年(1587年)には、従四位下・侍従に叙任されると共に、秀吉から「羽柴」の姓を賜っている 7 。これは、彼が豊臣一門に準ずる大名として、正式に政権の中枢に迎え入れられたことを意味する。さらに文禄3年(1594年)には、秀吉の弟である豊臣秀長の養女・お岩(智勝院)を継室として迎えた 4 。秀長は豊臣政権の重鎮であり、この婚姻は森家の政治的地位をより一層安定させるための、極めて重要な政略結婚であった。
文禄元年(1592年)から始まった文禄の役(朝鮮出兵)においては、兄・長可のような武勇を期待される立場ではなく、渡海はせずに肥前名護屋城の築城工事や城の警備を担当した 9 。この大規模な築城プロジェクトに関わった経験は、彼に土木技術や普請における人員管理のノウハウをもたらし、後の津山城築城という大事業を成し遂げる上での貴重な糧となった可能性が高い。
忠政が兄・長可の遺言を無視して大名としての道を歩んだ背景には、深い洞察があったと考えられる。長可は、戦国乱世の猛将として、自らの「武」の力のみを頼りに戦い、そして若くして散った。彼の遺言は、その生き方の限界、すなわち「武」のみに頼る生き方では、いずれ一族は滅びるという痛切な警鐘であった。忠政は、兄の死を間近で見たからこそ、その警鐘の意味を誰よりも深く理解していたはずである。しかし、彼は兄のように「大役を避ける」という消極的な道を選ばなかった。代わりに、彼は「武」だけでなく、これからの時代を支配する「政」の重要性を認識し、新たな秩序の創造者である秀吉の体制の中で生き抜く道を選択した。羽柴姓を賜り、秀長の養女を娶るという一連の行動は、単なる栄誉の享受ではない。それは、豊臣政権という巨大な権力構造に自らを主体的に組み込むことで、森家の安全保障を確固たるものにしようとする、極めて戦略的な行動であった。忠政は、兄の遺言を「大名になるな」と文字通りに受け取るのではなく、「兄と同じ死に方をするな」という、より高次のメッセージとして解釈し、それを乗り越えようとしたのである。彼の豊臣政権下での冷静沈着な立ち振る舞いは、個人の武勇や感情に流されることなく、時代の大きな流れを冷徹に見極め、権力構造の中で自らの立ち位置を的確に確保しようとする、極めて現実主義的な政治家としての第一歩であったと評価できる。
豊臣秀吉の死は、彼が一代で築き上げた権力構造の脆弱性を露呈させ、日本の支配者を巡る新たな闘争の幕開けを意味した。この天下の行く末を左右する激動期において、森忠政は驚くべき先見性と決断力をもって、一族の未来を賭けた選択を行う。それは、過去の恩義よりも未来の実利を取る、冷徹な政治家としての彼の真骨頂であった。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、豊臣政権内部の権力闘争は瞬く間に表面化する。その中心にいたのが、五大老筆頭の徳川家康と、五奉行の石田三成であった。多くの大名が両者の間で去就に迷う中、忠政は早くから時代の流れが家康に傾いていることを見抜き、積極的に接近を図った 9 。
その動きを象徴するのが、慶長4年(1599年)、前田利家の死をきっかけに発生した、加藤清正ら七将による石田三成襲撃事件である。この時、忠政は盟友の細川忠興と共に、誰よりも早く家康の大坂屋敷に駆けつけ、その警護の任にあたった。この迅速かつ的確な行動に対し、家康は「両家の真心は、徳川の家が続く限り決して忘れぬ」と述べ、深く感謝したと伝えられている 9 。この一件により、忠政は家康から絶大な信頼を勝ち取り、来るべき決戦において、徳川方の中核を担う大名の一人としての地位を確立したのである。
慶長5年(1600年)2月、関ヶ原の戦いの半年前、忠政の人生における重要な転機が訪れる。家康の特別な計らいにより、兄・長可がかつて治めた因縁の地、信濃川中島四郡へ、13万7千石余という大幅な加増をもって転封されたのである 11 。この転封に際し、忠政は「兄の跡目を信濃川中島に、というお約束は、亡き秀吉公がご存命の頃にいただいたものです。このことは秀頼公にもお伝えいただいているはずです」と家康に申し立てたという逸話が残っている 15 。これは、自らの要求の正当性を豊臣家の権威によって補強しつつ、家康に大きな恩を売らせるという、彼の巧みな政治手腕を示すエピソードである。
この転封から間もない同年4月頃、事態の急を知った石田三成が、忠政を西軍に引き入れるべく、わざわざ信濃川中島まで足を運んで会談の席を設けた。この時点で忠政は、表向きにはまだ豊臣家の家臣であった。しかし、彼はこの席で、あえて豊臣家を痛烈に批判するかのような言動を繰り返した。これに激怒した三成は交渉を打ち切り、憤然と帰ってしまったという 8 。これは、単なる失言や感情的な対立ではない。豊臣家への恩義を公然と断ち切り、徳川方につくという自らの立場を、もはや後戻りできない形で内外に明確に示すための、周到に計算されたパフォーマンスであった。この一件を境に、彼は羽柴姓を捨てて本姓である森姓を再び名乗り、家康支持の立場を鮮明にした。
天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、忠政は徳川家康の嫡男・秀忠が率いる、中山道を進む主力部隊に組み込まれた 7 。彼らに与えられた重要な任務の一つが、西軍に味方した信濃上田城主、真田昌幸・幸村父子を制圧することであった。
しかし、知将・真田昌幸の巧みな籠城戦術の前に、秀忠率いる3万8千の大軍は上田城の攻略に手間取り、痛恨の足止めを食らうことになる(第二次上田合戦) 30 。忠政の部隊もこの上田城攻めに参加し、城下の田の稲を刈り取って挑発する「苅田」戦術や、城兵との小競り合いで奮戦した 32 。しかし、秀忠軍全体としては真田の術中にはまり、多大な時間を浪費した挙句、主戦場である関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態を演じてしまった。
忠政も本戦に参加することは叶わなかったが、彼の働きが全く無意味だったわけではない。彼が信濃川中島に確固たる拠点を築き、徳川方として睨みを利かせていたからこそ、真田氏が北の上杉景勝と連携して徳川軍の背後を大きく脅かすという、西軍にとって最も望ましい戦略を防ぐことができたのである 34 。この戦略的な功績は、戦後、家康によって高く評価されることとなる。
忠政の一連の行動は、単に「勝ち馬に乗る」という安易な日和見主義とは明確に一線を画している。彼は、秀吉死後の政局を誰よりも冷静に分析し、自らが徳川方にとってどれほど戦略的価値のある存在かを正確に理解していた。そして、その価値を最大限に利用して、自らの地位と領地を向上させようとしたのである。信濃川中島への転封要求は、その好例と言える。兄の旧領という「名分」と、上杉・真田への抑えという「実利」を巧みに結びつけ、この戦略的要衝を家康から与えられることで、彼は「家康から特別に信頼され、重要任務を任された大名」という、他の多くの外様大名とは一線を画す特別なポジションを自ら作り出した。
石田三成との会談における挑発的な態度は、この特別な関係性を盤石にするための、いわば最後の仕上げであった。彼は、このような天下の情勢においては、中途半端な態度こそが最も危険であることを熟知していた。豊臣家との関係を、劇的に、そして公然と断ち切ることで、家康に対して「もはや疑いの余地なき味方である」と、これ以上ない形で証明してみせたのである。それは、森家の存続という至上命題のためには、過去の恩義すらも冷徹に切り捨てるという、彼の非情なまでの合理性と、未来への確実な投資を惜しまない優れた政治家としての資質を、如実に示すものであった。
関ヶ原の戦いを経て、徳川の世が目前に迫る中、信濃川中島の領主となった森忠政。しかし、彼がこの地で展開した統治は、平和な治世とは程遠い、血と鉄による苛烈なものであった。その統治は、彼の性格の冷酷さを示すと同時に、来るべき新時代に向けて一族の基盤を築こうとする、明確な目的意識に基づいたものでもあった。
忠政が信濃川中島に入領して、最初期に行ったことの一つが、かつて兄・長可を裏切った者たちへの凄惨な報復であった。天正10年(1582年)、本能寺の変後の混乱期において、信濃の国衆であった高坂昌元らは、孤立無援となった長可に反旗を翻し、その信濃からの退去を妨害した。忠政は、この18年前の遺恨を決して忘れてはいなかった。彼は領内に入ると直ちに高坂一族の者たちを探し出し、その子供に至るまで一人残らず捕らえると、見せしめとして磔に処したのである 8 。
この報復は、単なる私怨を晴らす行為に留まらない。それは、森家に仇なす者は、たとえ歳月が流れようとも決して許さないという、領内の国衆や領民に対する強烈なメッセージであり、彼の執念深さと、支配者としての冷酷さを示す象徴的な出来事であった。彼が居城とした海津城を「待城(まつしろ)」(後の松代城)と改名したのも、この復讐の時を長年「待っていた」という彼の心情が込められていたからだ、という説もあるほどである 8 。
慶長7年(1602年)8月、忠政は信濃四郡の全域を対象とした大規模な総検地を実施する。彼の官途名である右近大夫にちなみ、この検地は「右近検地」と呼ばれた 15 。この検地は、田畑の等級付けや面積の測定において極めて厳格に行われ、その結果、領内の公式な石高は、それまでよりも5万石以上も水増しされることとなった。これは、領民にとって実質的な大増税を意味し、彼らの生活を著しく圧迫するものであった 15 。
この過酷な増税に耐えかねた領民たちは、検地のやり直しを求めて忠政に嘆願したが、彼は一切聞き入れなかった。追い詰められた領民はついに蜂起し、その動きは瞬く間に信濃四郡全域に拡大、領内全てを巻き込む大規模な「全領一揆」へと発展した 8 。
しかし、忠政はこの一揆に対して、一切の妥協や宥和策を見せることなく、徹底的な武力鎮圧をもって臨んだ。一揆勢は容赦なく殲滅され、捕らえられた者数百人が鳥打峠などで次々と磔に処された。その犠牲者は600人余りにのぼったとされ、そのあまりの凄惨さから、後に犠牲者を弔うために「千人塚」が築かれたと伝えられている 8 。この塚には、犠牲者の姓名が赤字で刻まれているといい、忠政の統治の苛烈さを今に伝えている。一揆鎮圧後も、検地が見直されることはなかった。
忠政がなぜこれほどまでに強硬な手段を用いたのか。それは単に彼が暴君であったから、というだけでは説明がつかない。彼の行動の根底には、統治者としての冷徹な計算があったと考えられる。兄・長可も統治に苦慮したように、信濃川中島は、在地勢力である国衆の力が伝統的に強く、支配が容易ではない土地であった 26 。忠政にとって、この地はあくまで次なる本拠地へ移るまでの一時的な領地であり、ここで最優先すべきは、領民との共存共栄ではなかった。彼の目的は、第一に、兄の代から続く反抗勢力の芽を完全に摘み取り、森家の支配権を絶対的なものとして確立すること。そして第二に、来るべき新天地での壮大な藩経営の元手となる資金(米)を、この地から最大限に収奪することであった。
高坂氏への見せしめともいえる報復は、支配権の誇示であり、抵抗する者への警告であった。そして、過酷な「右近検地」は、藩の財源を確保するための最も直接的な手段であった。彼の信濃統治は、後に行う津山での「創造」のための、いわば「破壊」と「収奪」のプロセスであったと見ることができる。彼は、領民の安寧を第一に考える牧歌的な領主ではなく、一族の永続的な基盤構築という明確な目的のためには、非情な手段を用いることを厭わない、マキャベリスト的な統治者であった。この信濃での経験は、彼の統治者としての冷酷な側面を浮き彫りにすると同時に、後に津山で壮大な都市計画を実現するための、いわば「資本の原始的蓄積」の過程であったという、功罪相半ばする複雑な評価を可能にするのである。
信濃における鉄の統治を経て、森忠政はついにその生涯をかけた大事業に着手する機会を得る。それは、西国美作の地における、新たな藩の創建であった。この地で彼は、単なる支配者から、後世にまで残る城と町を築き上げた偉大な「創業者」へと変貌を遂げる。
慶長8年(1603年)、関ヶ原の戦後処理の一環として、備前・美作を領していた小早川秀秋が嗣子なく死去した。これを受け、徳川家康は忠政に対し、美作一国十八万六千五百石という広大な領地への加増転封を命じた 8 。これは、関ヶ原での忠政の功績に報いると同時に、未だ豊臣恩顧の大名が多く残る西国を監視し、その抑えとする、徳川幕府の天下平定における極めて重要な戦略的配置であった 23 。
当初、忠政は美作国の中央部に位置する院庄に拠点を構えたが、後述する家臣の誅殺事件などを経て、吉井川と宮川の合流点を見下ろす要害の地、鶴山(つるやま)を新たな城地に選定した。彼はこの地の名を「津山」と改め、慶長9年(1604年)から、壮大な城の築城を開始したのである 9 。
築城工事は、忠政の卓越した指導力のもと、13年の長き歳月をかけて元和2年(1616年)に完成した 17 。その規模は壮大を極め、平山城の形式をとりながら、五層の壮麗な天守閣、城内に林立する大小30余りの櫓、そして70以上の部屋からなる広大な本丸御殿を備えていた 20 。特に、城郭全体に用いられた石垣は、幾重にも高く、堅固に積まれ、その総延長は近世城郭の中でも屈指の規模を誇った。この壮麗にして堅牢な津山城は、森家の権威を内外に示す象徴であると共に、西国に対する幕府の睨みを利かせる「西国鎮護」の要塞としての役割を担うものであった 18 。
忠政の才能は、築城だけに留まらなかった。彼は築城と並行して、極めて計画的かつ合理的な城下町の整備を進めた 23 。その都市計画は、機能性と防御性を高度に両立させたものであった。城の西側には身分の高い家臣たちの屋敷が並ぶ武家地を、南側には東西に走る出雲街道を基軸として町人たちの住む商業地を配置。そして、城下町の東西の端には、有事の際の防御拠点となるよう、多数の寺院を意図的に集めた寺町を形成した 39 。
さらに、彼は城下町の発展に不可欠な治水事業にも力を注いだ。津山盆地を貫流する吉井川や、城の東を流れる宮川の流れを巧みにコントロールし、水害を防ぐと共に、城の堀の水源や城下町の用水として活用した 42 。忠政が築き上げたこの町割りや町名は、400年以上が経過した現代の津山市においても、その骨格として色濃く残っている 37 。これは、彼が単なる武将ではなく、長期的な視野を持った卓越した都市計画家であったことを何よりも雄弁に物語っている。
しかし、この壮大な藩創建事業は、決して順風満帆に進んだわけではなかった。美作入封当初、忠政は深刻な家臣団との対立に悩まされる。その発端となったのが、重臣・井戸宇右衛門の誅殺事件である。宇右衛門は新たな城の建設地を巡って忠政と激しく対立し、その結果、忠政の命令によって暗殺された 15 。この強硬な処置は、他の家臣たちに大きな衝撃と反発をもたらし、筆頭家老であった林為忠をはじめとする一門が、森家を出奔するという事態にまで発展した 8 。
さらに慶長13年(1608年)には、家老の各務元峯が、石切場での些細な口論から同僚の家老である小沢彦八を殺害し、仲裁に入った別の家老・細野左兵衛までもが斬り殺されるという、家中を揺るがす大事件が発生した 15 。兄・長可の代から仕える、気性の荒い家臣団を、忠政は自らの力だけでは完全に統制しきれずにいたのである。
この危機的状況を打開するため、忠政は極めて現実的な手段を講じる。彼は、徳川幕府の旗本となっていた叔父・森可政に対し、津山藩の執政(執権)として国元に来てくれるよう懇願したのである 11 。忠政は、可政に破格の領地と絶大な権限を与え、自ら国境まで出迎えるなど、最大限の礼をもって迎えた。森一族の長老である可政の権威のもと、ようやく藩政は安定へと向かい、家中の騒動は収束していった。これは、彼の統治者としての限界を示すと同時に、問題を解決するためには、自らの面子にこだわらず、外部の権威や能力を頼ることを厭わない、彼の優れた現実判断力を示すものであった。
藩内が安定軌道に乗ると、忠政は藩政の基盤固めに本格的に着手する。検地を実施して財政基盤を強化し、新田開発や用水路の整備によって農業生産力の向上を図った。また、城下町の商人を保護し、地域の特産品の開発を奨励するなど、商工業の振興にも力を注いだ 23 。これらの政策は、いずれも長期的な視点に立ったものであり、後の津山藩の安定と繁栄の礎となった。
信濃での苛烈な統治と、津山での創造的な統治。この二つのフェーズの違いは、忠政の目的意識の変化に起因する。信濃は、あくまで一時的な領地であり、「収奪」の対象であった。しかし、美作は徳川幕府から与えられた、森家が永続すべき本拠地である。ここで彼が目指したのは、単なる支配ではなく、一族が末永く繁栄するための盤石な「基盤」を築き上げることだった。壮大な津山城は森家の武威の象徴であり、計画的な城下町は経済的繁栄の礎であり、そして叔父の招聘は安定した統治機構の確立であった。これらはすべて、「永続」という壮大な目的を達成するための、計算され尽くした手段だったのである。津山藩の創建は、忠政にとって、相次ぐ肉親の死というトラウマを乗り越え、「最後の生き残り」としての責務を果たすための、壮大な自己実現のプロジェクトであったと言えよう。家臣との対立は、この巨大なプロジェクトを強引に推進する過程で生じた軋轢であり、それを乗り越えて藩政を安定させたことは、彼が単なる猛将ではなく、組織を運営する優れた経営者としての能力も兼ね備えていたことを示している。森忠政の生涯のクライマックスは、兄たちが駆け抜けた華々しい戦場ではなく、この津山の地で、黙々と藩の礎を築き上げた十数年間にあったのである。
藩の創業者として、また冷徹な統治者として巨大な足跡を遺した森忠政。しかし、その私生活、特に家庭においては、彼の権力や意思をもってしても抗うことのできない悲劇と苦悩に満ちていた。一族の存続に生涯を捧げた彼が、その血脈の行方にいかに心を砕き、そしてその結末がいかに皮肉なものであったかを見ていく。
忠政は生涯に複数の妻を迎えた。正室は織田信雄の家臣であった中川清秀の娘・チボ 6 。そして、豊臣秀長の養女であったお岩(智勝院)を継室に迎えている 12 。この継室・お岩は、夫である忠政が、家臣や領民など、多くの人間の命を奪ってきたことを深く憂慮していたと伝えられている。彼女が始めたとされる「きらず(おから)の行事」は、その年、幸いにも人を斬らずに済んだことを神仏に感謝し、来年もまたそうであるようにと祈りを込めたものであったという 12 。この逸話は、忠政の苛烈な性格を最も身近で見ていた妻が、その行く末を案じていた様子をうかがわせ、彼のパブリックイメージとは異なる家庭での一面を垣間見せる。
忠政は娘には恵まれたものの、跡を継ぐべき男子の運には、終生恵まれなかった 3 。長男の重政は側室の子であったため、家督を継ぐ立場にはなかった。次男の虎松丸は慶長17年(1612年)に11歳で夭折 43 。そして、嫡子として育てられた三男の忠広もまた、父である忠政に先立ってこの世を去ってしまう 6 。特に忠広の最期は悲劇的であった。彼は、忠政が後見を任せたはずの家臣によって、窮屈な部屋に監禁されるという虐待同然の扱いを受け、それが原因で病を得て30歳の若さで亡くなったとされている 8 。この事件は、忠政の権威が、必ずしも家中や家庭の隅々にまで及んでいたわけではなかったという、彼の統制の限界を示唆している。
実の息子たちが次々と先立つという悲劇に見舞われた忠政は、自らが築き上げた津山藩を誰に継がせるか、という極めて困難な問題に直面する。彼は様々な選択肢を検討した末、最終的に、自身の娘が家臣の関成次に嫁いで生まれた子、すなわち外孫にあたる関長継を養子として迎え、森家の家督を継がせることを決断した 4 。
この後継者選びには、忠政の深い苦心がうかがえる。関長継は、父方の関氏が、忠政の姉(森可成の娘)の嫁ぎ先であった。そして母方は、言うまでもなく忠政自身の娘である。つまり長継は、父方からも母方からも森家の血を引く、いわば二重の血縁を持つ存在であった 44 。これは、直系の男子が絶えた中で、可能な限り森家の血筋の純粋性を保ち、家名と家督を継承させようとした、忠政の執念の表れであった。
しかし、忠政の死後、彼が心血を注いで守ろうとした森家の未来は、安泰とはいかなかった。養子の長継が二代藩主となり、その後も家は続いたが、元禄10年(1697年)、四代藩主・長成が嗣子なくして27歳で病没。急遽、末期養子として迎えられた衆利が、家督相続のために江戸へ向かう道中で突然乱心するという不運に見舞われた。幕府は「当主乱心」を理由に、森家に改易を命じた。これにより、忠政が一代で築き上げた十八万石余の大藩は、その歴史に幕を閉じることになったのである。その後、一族は名跡の存続を許され、分家が播磨国赤穂において二万石の小大名として明治維新まで続くことになるが 4 、忠政が夢見たであろう大藩としての永続は、彼の死からわずか63年で潰えることとなった。
表2:森氏主要系図(簡略版)
コード スニペット
graph TD
A[森可成] --> B(森可隆<br>長兄・戦死);
A --> C("森長可(鬼武蔵)<br>次兄・戦死");
A --> D("森成利(蘭丸)<br>三兄・本能寺で討死");
A --> E("森長隆(坊丸)<br>四兄・本能死で討死");
A --> F("森長氏(力丸)<br>五兄・本能寺で討死");
A --> G((森忠政));
A --> H(娘);
G -- 正室 --- I(中川清秀の娘・チボ);
G -- 継室 --- J(智勝院<br>豊臣秀長の養女);
G --> K(森重政<br>長男・側室の子);
G --> L(森虎松丸<br>次男・夭折);
G --> M(森忠広<br>三男・早世);
G --> N(娘);
H -- 婿 --- O(関成政);
O --> P(関成次);
N -- 婿 --- P;
P --> Q((関長継<br>忠政の外孫・養子となり津山藩二代藩主となる));
苛烈な武将、冷徹な統治者というイメージが強い忠政だが、その一方で、当代一流の文化人としての一面も持ち合わせていた。彼は茶の湯を深く愛好し、大坂夏の陣の後には、その戦功を賞した徳川家康から、天下の名物茶入として名高い「青木肩衝(あおきかたつき)」を拝領している 7 。また、独眼竜として知られる伊達政宗が主催した茶会に参加し、その礼状を認めた書状も現存しており、他大名との文化的な交流があったことも示されている 48 。
彼の文化への関心は、茶の湯だけに留まらない。ある時、城下に献上された珍しい菓子を大変気に入り、それを「松乃露(まつのつゆ)」と名付け、城内で催される茶会では必ずこの菓子を用いるよう家臣に命じたという、風流な逸話も残されている 49 。これらのエピソードは、彼の人物像に、武と政だけではない、豊かな奥行きを与えている。
寛永11年(1634年)、三代将軍・徳川家光の上洛を迎える奉行の一人として、忠政は京都に滞在していた。しかし、その任務の最中、市中の商人の家で供された桃を食べた後に体調が急変し、そのまま帰らぬ人となった 9 。享年65 6 。戦国の動乱を生き抜き、数々の危機を乗り越えてきた彼の最期は、あまりにも突然で、あっけないものであった。その遺骸は、京都紫野の大徳寺三玄院に葬られ、今も静かに眠っている 9 。
忠政の生涯を貫く最大のテーマが「森家の存続」であったことを踏まえると、彼の人生の結末は、極めて大きな皮肉をはらんでいる。彼は、卓越した政治判断力、武力、そして統治能力といった、自らの力でコントロールできるあらゆる要素を駆使して、一族が「永続」するための壮大な器、すなわち津山藩という大名家を完璧に作り上げた。しかし、跡を継ぐべき男子の健康や、数代先の当主の精神状態といった、自らの力ではどうにもならない「運命」や「血脈」という根源的な問題には、ついに打ち勝つことができなかった。これこそが、森忠政の生涯における最大の悲劇であり、また人間という存在の限界を示すものであろう。彼の人生は、人間の強固な意志と不断の努力が、歴史の中でいかに偉大なことを成し遂げうるかを力強く証明すると同時に、その前に立ちはだかる、抗いがたい運命の存在をも冷徹に描き出している。彼が築いた津山の城と町は、400年の時を超えて今もその威容の痕跡を留めているが、彼が命を懸けて守ろうとした血の繋がりは、彼が意図した形では、ついぞ続かなかったのである。
森忠政の生涯を振り返る時、我々の前に現れるのは、単一の言葉では到底捉えきれない、極めて多面的で複雑な人物像である。兄の仇を執拗に追い詰める苛烈な復讐者。領民一揆を情け容赦なく鎮圧する冷酷な統治者。時代の流れを的確に読み、勝ち馬に乗ることを躊躇しない冷徹な政治家。そして、後世に残る壮大な城と町を設計した卓越した都市計画家。さらにその裏には、息子たちに次々と先立たれる悲運に泣いた一人の父親としての顔も隠されている。
彼の歴史的評価は、兄たちのような、戦場での華々しい武勇伝によって語られるものではない。長可が「鬼武蔵」としてその武名を轟かせ、蘭丸が信長の最後の瞬間に寄り添ったことで伝説となったのに対し、忠政の功績は、より地味で、政治的・行政的な領域にこそ存在する。彼は、戦国乱世の終焉と、新たな「藩」という統治体が社会の基盤となっていく時代の過渡期を象徴する人物であった。彼の生涯は、個人の武勇が絶対的な価値を持った時代が終わり、組織を運営し、経済を動かし、権力構造の中で巧みに立ち回る能力が求められる新しい時代への移行を、見事に体現している。
森忠政の人生は、「いかにして生き残るか」という、戦国末期から近世初期にかけての武家社会における根源的な問いに対する、一つの壮絶な答えであった。その目的を達成するための手段は、時に非情であり、多くの血が流されたことも事実である。信濃での苛烈な統治は、紛れもなく彼の負の側面であろう。しかし、その強烈な「生存への執念」があったからこそ、滅亡の危機に瀕していた森家は、近世大名として再生を遂げることができた。そして、その執念が昇華された時、津山という壮麗な城郭都市が、無から創造されたのである。
彼は、戦国の英雄譚からはこぼれ落ちがちな存在かもしれない。しかし、時代の奔流の中で一族の舵を取り、幾多の危機を乗り越え、新たな時代に確かな礎を築いた、まぎれもない「創業者」の一人として、森忠政は再評価されるべき人物である。彼が遺した津山の町並みは、戦乱の世を生き抜いた一人の男の、凄まじい意志の力と、未来への渇望の物語を、今なお静かに語り続けている。