森村春は阿波水軍の将。三好氏に仕え、秀吉の四国平定に協力し、蜂須賀家臣となる。朝鮮出兵で戦死したが、森家は「海上方」として徳島藩を支えた。
本報告書は、戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、阿波国(現在の徳島県)を舞台に活躍した水軍の将・森村春(もり むらはる)の生涯を、その出自から死、そして後世への影響に至るまで、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。在地領主から豊臣政権、そして近世大名である蜂須賀藩の体制へと移行する激動の時代の中で、彼が果たした役割と歴史的意義を多角的に考察する。
森村春は、単なる一地方武将として片付けることのできない、特異な存在である。彼は、阿波の在地勢力として中世的な自立性を保ちながら、天下人である豊臣秀吉という中央政権と直接結びつき、新たな領主として入国した蜂須賀家政の治世下において、その卓越した実力をもって他の家臣とは一線を画す特別な地位を確保した。彼の生涯は、中世的な「海領主」とも言うべき存在が、いかにして近世大名の家臣団へと組み込まれていったか、その具体的な過程を鮮明に示す稀有な事例を提供する。本報告書では、この歴史の転換点を生きた一人の武将の実像に迫る。
年代 |
出来事 |
典拠 |
天文年間 (1532-1555) |
父・森元村が鳴門に土佐泊城を築城する。 |
1 |
天文11年 (1542) |
森村春、出生。 |
3 |
天文16年 (1547) |
父・元村より家督を譲られ、通称「志摩守」を名乗る。元村は「筑前守」を名乗り隠居。 |
3 |
天正3年 (1575) |
主君・三好長治が主催した宗論に参加した堺の僧侶を、水軍を率いて送迎する。 |
5 |
天正5年 (1577) |
荒田野の戦いで敗れた三好長治の救援に向かうが、合流に失敗する。 |
4 |
天正10年 (1582) |
中富川の戦いで三好氏が敗れた後も、土佐の長宗我部元親に降伏せず、土佐泊城で抗戦を続ける。 |
1 |
天正13年 (1585) |
豊臣秀吉の四国平定に際し、羽柴秀長軍に協力。木津城・岩倉城攻略で軍功を立てる。秀吉から直接、3,000石の知行を約束する朱印状を授かる。同年、阿波の新領主となった蜂須賀家政に仕える。 |
3 |
天正14年 (1586) |
蜂須賀家政の命により、本拠地を土佐泊から阿波南部の椿泊へ移し、松鶴城を築く。 |
7 |
文禄元年 (1592) 6月2日 |
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍。朝鮮水軍との唐浦海戦において戦死。享年51。 |
3 |
文禄3年 (1594) 6月5日 |
父・森元村、病没する。 |
2 |
阿波水軍の中核を担った森氏の歴史は、戦国時代、因幡国(現在の鳥取県)出身とされる佐田九郎兵衛という人物に遡る 3 。彼は阿波国の守護であった細川氏に仕え、水軍を率いる武将として頭角を現した。当初は徳島市国府町周辺に拠点を置いていたが、やがてその活動の主軸を海上へと移していく 3 。細川氏の力が衰えた後は、阿波の実権を握った三好氏に仕えた 8 。
伝承によれば、九郎兵衛は後に「佐田九朗兵衛」と改名し、子らには世話になった主君か恩人の姓である「森」を名乗らせたとされる 9 。これは、主従関係や人間関係の中で家のアイデンティティを形成していく、当時の武家の慣習を反映したものであろう。この佐田九郎兵衛こそが、阿波森氏の始祖と見なされている。
森氏が阿波における水軍勢力としての地位を不動のものとしたのは、村春の父である森元村(もとむら)の代であった。元村は、当初拠点としていた名東郡黒田村から、より海上活動に適した板野郡土佐泊(現在の鳴門市鳴門町土佐泊浦)へと進出した 1 。そして天文年間(1532年~1555年)に、この地に土佐泊城を築城する 1 。
土佐泊城が築かれた場所は、紀伊水道と瀬戸内海を結ぶ鳴門海峡の入口に位置し、畿内と四国を繋ぐ海上交通路を扼する、まさに海の要衝であった 1 。この地理的優位性を最大限に活用し、元村は強力な水軍を組織・運用することで、阿波の歴代領主である細川氏や三好氏から重用される存在となった 1 。彼は三好氏の家臣という立場にありながらも、讃岐から侵攻してきた敵対勢力を独力で撃退し、さらには逆襲して武名を上げるなど、高い軍事的能力と独立性を有していたことが記録からうかがえる 2 。森氏の力の源泉は、土地の広さが示す石高ではなく、制海権の掌握にあった。彼らは、土地に根差した領主であると同時に、海を支配する「海領主」とも言うべき存在だったのである。
天正10年(1582)、土佐の長宗我部元親が阿波へと侵攻を開始すると、阿波・讃岐の諸城は次々とその軍門に降った。当時の阿波における森氏の主家であった三好氏は、中富川の戦いで元親に大敗を喫し、その支配力は事実上崩壊した 4 。しかし、このような絶望的な状況下にあっても、元村・村春親子は土佐泊城に籠城し、最後まで元親に屈することはなかった 1 。
この徹底抗戦は、単なる旧主への忠義心のみで説明できるものではない。むしろ、自らの存立基盤である海の支配権を陸の覇者である長宗我部氏に明け渡すことを拒否する、海領主としての強い意志の表れと解釈すべきである。彼らにとって土佐泊という拠点は、経済活動と軍事力の源泉そのものであり、これを失うことは水軍としての死を意味した。そして、この粘り強い抵抗は、結果的に森氏の戦略的価値を天下に知らしめることとなる。四国平定を目前に控えていた豊臣秀吉にとって、長宗我部氏に屈しなかった強力な水軍勢力の存在は、極めて魅力的であった。森氏の抗戦は、自らの価値を新たな時代の支配者に対して最大化する、極めて戦略的な行動だったのである。
Mermaidによる関係図
注:上記系図は、史料 3 に基づき、主要人物の関係性を簡略化して図示したものである。
天文11年(1542年)に生まれた森村春は、父・元村から家督を譲られた後、三好氏の家臣としてキャリアを開始した 3 。しかし、彼が活動した時期、主家である三好氏はすでに織田信長の台頭によって畿内での影響力を失い、衰退の一途をたどっていた。天正5年(1577年)の荒田野の戦いでは、主君・三好長治が敗走する中、村春は水軍を率いて救援に向かったものの、闇夜であったことも災いし、合流地点を誤り主君を救出できなかったという記録が残っている 4 。これは、没落しつつある主家と運命を共にするのか、あるいは新たな道を模索するのか、村春が時代の大きな岐路に立たされていたことを象徴する出来事であった。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定が開始されると、村春は迷わず秀吉方につく決断を下す。羽柴秀長(秀吉の弟)が率いる大軍が四国に上陸する際、村春の水軍はこれに協力し、その先導役を務めたと考えられている 6 。これは、旧主・三好氏を滅ぼし、長年にわたり敵対してきた長宗我部氏を打倒するための、必然の選択であった。
村春は阿波国内の戦いにおいても、木津城や岩倉城といった要所の攻略に参加し、水軍を駆使して戦功を重ねた 3 。これらの働きは秀吉に高く評価され、村春は四国平定後、阿波の新領主となる蜂須賀家政を介さず、秀吉本人から直接「3,000石の知行を与える」という約束が記された朱印状を授かるという、破格の待遇を得る 3 。これは、一在地領主としては極めて異例のことであり、村春が自らの軍事的能力と地理的知見を武器に、新たな天下人との間に直接的なパイプを築くことに成功したことを意味する。この朱印状は、来るべき新体制下で自らの地位を保障するための、強力な切り札となったのである。
四国平定後、阿波一国18万石の領主として蜂須賀家政が入国すると、彼は秀吉から村春に与えられた朱印状の存在に拘束されることになった。その結果、家政は村春に対し、福井庄(現在の阿南市)などで合計3,026石余という、一家臣としては群を抜く知行を与えざるを得なかった 1 。
天正14年(1586年)、村春は家政の命により、長年の本拠地であった土佐泊から、阿波南部の良港・椿泊へと拠点を移す 7 。この移転は、土佐の長宗我部氏の残存勢力に対する「抑え」という明確な軍事戦略の一環であり、森氏の水軍力が蜂須賀藩の防衛体制の要として正式に組み込まれたことを示している 7 。村春はこの地に新たに松鶴城(しょうかくじょう、別名・椿泊城)を築き、阿波水軍の新たな拠点とした 14 。
一連の経緯は、村春が受動的に新たな主君に従ったのではなく、時代の転換点を的確に読み、自らの価値を交渉材料として能動的に立ち回った結果であることを示唆している。彼は、秀吉から得た「お墨付き」を背景に、新たな主従関係において一方的に従属するのではなく、自らの既得権益と特別な地位を確保することに成功したのである。これは、中世的な自立性を有した在地領主が、近世的な大名家臣団へと再編されていく過程で、いかにして有利な地位を築こうとしたかを示す、見事な移行戦略であったと評価できる。
天下統一を果たした豊臣秀吉が次なる目標として大陸侵攻を企図し、文禄元年(1592年)に朝鮮出兵(文禄の役)が開始されると、森村春もまた、その渦中へと身を投じることになった。彼は主君・蜂須賀家政の軍に属し、手塩にかけて育て上げた阿波水軍を率いて朝鮮半島へと渡った 3 。蜂須賀勢は、福島正則や長宗我部元親らと共に第五番隊に編成されており、その任務は兵員や兵糧・武具といった物資の海上輸送、そして敵水軍との海上戦闘であった 16 。陸路を進む日本軍にとって、海上補給路の確保は作戦の成否を左右する生命線であり、村春率いる阿波水軍には極めて重要な役割が期待されていた。
同年6月2日、朝鮮水軍の歴史に不滅の名を刻む提督・李舜臣(イ・スンシン)が率いる艦隊が、慶尚南道の唐浦(タンポ)に停泊していた日本船団に奇襲をかけた 17 。この唐浦海戦において、阿波水軍を率いて奮戦した森村春は、その生涯を閉じることとなる。享年51であった 3 。この時、唐浦に停泊していた日本船団は20隻余りで、伊予の水軍大名である来島通之(くるしま みちゆき)や、亀井茲矩(かめい これのり)らが率いていたとされ、村春の部隊もその中に含まれていたと考えられる 18 。
森村春の具体的な最期については、日韓双方の史料に食い違いが見られ、歴史の謎に包まれている。
朝鮮側の史料、特に李舜臣が朝鮮王朝に提出した公式の戦勝報告書である『唐浦破倭兵状』には、この海戦で討ち取ったある「倭将」の壮絶な死に様が、極めて劇的に描写されている。その記述によれば、その将は高さ二丈(約6メートル)もある豪華な楼船に座し、周囲に紅色の羅紗の幕を張り巡らせた中で、泰然自若として軍配を振るっていたという。李舜臣の艦隊が攻撃を集中させると、まず額に銃弾を受けたが、顔色一つ変えなかった。続けざまに放たれた矢がその胸を貫いて、ようやく声もなく崩れ落ちたと記されている 17 。
一方、日本側の記録を検証すると、この唐浦海戦では森村春だけでなく、伊予の大名であった来島通之も戦死していることが確認できる 18 。来島は秀吉配下の水軍大名であり、村春と同様に水軍の将であった。
この状況を鑑みると、李舜臣の報告書に描かれた一人の「美丈夫の大将」の物語は、森村春と来島通之という二人の将の戦死の報が、朝鮮側で一つの象徴的なエピソードとして集約され、あるいは脚色された可能性が考えられる。敵将の死をより英雄的かつ劇的に描くことは、自軍の戦功を際立たせ、士気を高揚させるための常套手段であり、戦時の記録にはしばしば見られる傾向である。森村春がこの海戦で命を落としたことは紛れもない事実であるが、その最期の詳細な描写については、こうした背景を念頭に置いた上で、史料批判的な視点をもって慎重に解釈する必要がある。彼の死の「事実」と、その死をめぐる「物語」は、区別して理解されるべきであろう。
異国の海で当主・村春を失った森家は、存続の危機に直面した。家督は村春の嫡男であった忠村が継承したが、彼は若くして亡くなってしまう 3 。これにより本家は断絶の危機に瀕したが、ここで重要な役割を果たしたのが、村春の弟・村吉の子である村重(むらしげ)であった。
村重は、もともと子のいなかった村春の養子となっていたが、後に実子である忠村が生まれたため、分家して「森甚五兵衛」と名乗り、500石の知行を与えられていた 3 。本家である忠村の早世を受け、この分家の村重が本家の家督をも継承し、3,000石余の知行と阿波水軍の総帥という地位を併せ持つことになった 12 。これにより森家は再興され、以後、当主は代々「森甚五兵衛」を通称として襲名していくことになる 3 。
江戸時代に入り、世の中が安定すると、かつてのような大規模な海戦は起こらなくなり、全国的に水軍の軍事的重要性は低下していった。幕府による鎖国政策も、この傾向に拍車をかけた 3 。しかし、徳島藩においては、藩主が江戸と領国を往復する参勤交代の際、大坂までの海上輸送が不可欠であったため、水軍の機能は維持され続けた 3 。
森甚五兵衛家は、この藩の最重要業務である参勤交代の航海を支える専門職「海上方(うわかた)」として、藩が所有する御座船をはじめとする船舶の建造、管理、運用、そして水主(かこ)たちの訓練に至るまで、藩の海事全般を統括する重責を担った 3 。森家は、戦国時代の「軍事力」としての水軍を、近世の「藩政運営を支える専門技術」へと巧みに転換させることで、時代の変化を乗り越えたのである。多くの武家が禄を失い、あるいはその役割を失っていく中で、森家が「海上方」という代替不可能な専門職を独占・世襲し得たのは、村春の代までに築き上げた圧倒的な海事能力と、藩主からの厚い信頼があったからに他ならない。
森甚五兵衛家は、明治維新に至るまで徳島藩の中老という上級家臣の地位を保ち続けた 3 。参勤交代の渡海は、単なる移動ではなく、藩主の威光を示す一大儀式であり、その安全かつ壮麗な運行を担う森家の役割は、藩政において極めて大きなものであった 3 。その壮観な船団の様子は、「徳島藩参勤交代渡海図屏風」などの絵画史料にも描かれ、今日に伝えられている 22 。
幕末の動乱期には、森家は藩の軍艦「戊辰丸」を率いて戊辰戦争に参戦し、宮古湾海戦にも加わるなど、最後まで水軍としての役割を果たした 3 。しかし、廃藩置県によって徳島藩が消滅すると、阿波水軍もその長い歴史に幕を閉じた。森村春がその礎を築き、子孫が代々守り続けた海の伝統は、ここに終焉を迎えたのである。
本報告書で森村春の生涯を、その出自、蜂須賀家への仕官、朝鮮出兵での最期、そして後世への影響という多角的な観点から再検討した結果、彼が単なる一地方武将に留まらず、戦国時代から近世への移行期を体現する、極めて重要な人物であったことが明らかになった。
彼の人物像は、以下の三つの側面から総合的に評価することができる。
第一に、彼は紀伊水道の制海権を力の源泉とする、 「海領主」としての側面 を持っていた。土地の支配を基本とする他の武将とは一線を画し、海上交通路の掌握によって自立性を維持した。長宗我部氏への徹底抗戦は、この海領主としてのアイデンティティを守るための戦いであった。
第二に、彼は時代の潮流を的確に読む、 「戦略家としての側面 」を併せ持っていた。衰退する旧主に見切りをつけ、新たな天下人である豊臣秀吉と直接結びつくことで、新支配体制下における自家の地位を確固たるものにした。秀吉から得た朱印状は、彼の先見性と交渉能力の証左である。
第三に、彼は徳島藩の安泰を支える**「藩の礎としての側面**」を後世に残した。彼の死後も、彼が確立した阿波水軍の卓越した能力と、蜂須賀家からの厚い信頼は「海上方」森甚五兵衛家へと受け継がれ、江戸時代を通じて徳島藩の藩政を支える重要な基盤となった。
以上の考察から、森村春は、戦国の荒波を自らの航海術で乗りこなし、近世へと続く家の礎を築き上げた、卓越した水軍の将であり、優れた戦略家であったと結論付ける。彼の生涯は、一個人の物語に留まらず、中世的な権力が近世的な支配体制へと再編されていく、日本の歴史のダイナミズムそのものを映し出している。