伊賀の豪族・植田光次 ―天正伊賀の乱における抵抗とその後―
1. はじめに
本報告書は、戦国時代の伊賀国にその名を刻んだ武将、植田光次(うえだみつじ、生没年不詳 1)について、現存する史料に基づき、その出自、天正伊賀の乱における役割、そしてその後の生涯を詳細に解明することを目的とします。
植田光次に関しては、伊賀の豪族であり、伊賀十二人衆の中心的人物として、第一次天正伊賀の乱において織田信雄の臣・柘植三郎左衛門を討ち取り織田軍を撃退したものの、後に織田軍に敗れて三河へ逃れた、といった概要が知られています。本報告書は、これらの情報を基点としつつ、さらに深く掘り下げ、植田光次という人物の実像に迫ろうとするものです。
植田光次の生没年が不明であるなど、彼に関する史料は断片的であり、その全貌を明らかにするには限界があることは否めません。しかし、これらの限られた情報をつなぎ合わせ、当時の伊賀国が置かれた状況や、そこで活動した人々の動向を考察することは、一地方豪族の視点から戦国時代という激動の時代を理解する上で、重要な意義を持つと考えられます。
2. 植田光次の出自と伊賀における立場
伊賀国山田郡下阿波の豪族
植田光次は、伊賀国山田郡下阿波(現在の三重県伊賀市下阿波周辺)を本拠とした豪族であったと記録されています 1。戦国時代の伊賀国は、特定の守護大名による強力な支配が及ばず、各地の地侍や豪族が強い自立性を保持していました。植田光次もそうした在地勢力の一つであり、彼が根を下ろした山田郡下阿波は、その勢力と活動の基盤となっていたと考えられます。
伊賀十二評定衆と伊賀惣国一揆
植田光次は、「十二家評定衆」(伊賀十二評定衆とも)の一員であったと伝えられています 1。これは、伊賀国内の各郷(里)から選出された12名の代表者による合議制の統治組織であり、伊賀国全体の意思決定を担っていました 2。植田光次がこの一員であったことは、彼が単なる一武将としてだけでなく、伊賀国の運営や方針決定に深く関与する指導的な立場にあったことを示唆しています。
当時の伊賀国は、「伊賀惣国一揆」と呼ばれる、地侍層を中心とした自治的・軍事的な共同体を形成していました 2。この共同体の結束を支えたのが「伊賀惣国一揆掟書」と呼ばれる規約です 2。この掟書には、他国からの侵攻に対する共同防衛義務(第一条)、国境付近での有事の際の鐘による警報と、武器・兵糧持参での参陣義務(第二条)、17歳から50歳までの男子の出陣義務と武者大将の指揮への服従(第三条)、そして伊賀を裏切り他国勢を引き入れた者への所領没収と討伐(第六条)などが詳細に定められていました 2。これらの規定は、伊賀の人々が外部勢力に対して極めて強い警戒心と団結力、そして高度な組織性をもって対抗しようとしていたことを明確に示しています。植田光次がその指導者層である十二評定衆の一人であったという事実は、彼がこうした伊賀独自の自治と防衛体制の維持・運営に深く関与し、その理念を体現する存在であったことを物語っています。
居城・館:植田氏城と阿波氏館
植田光次の具体的な居城や館についても、いくつかの伝承が残されています。現在の三重県伊賀市下阿波には植田氏城跡が存在し、城主として植田豊前守光信や植田筑前守光次(植田光次)の名が挙げられています 4。この城は、周囲を高土塁で囲んだ典型的な伊賀の堀込城郭であり、その規模から相当数の兵員を収容できたと考えられています 4。
また、伊賀市須原には阿波氏館跡があり、ここは元々植田氏館の跡地であったとする説や、阿波氏が植田光次の家臣であったという伝承も存在します 4。
これらの城館跡の存在は、植田光次が伊賀国内に確固たる所領と軍事的な拠点を有し、家臣団を抱える在地領主であったことを物理的に裏付けています。彼が天正伊賀の乱において、伊賀衆の一翼を担い、組織的な抵抗運動を展開できた背景には、こうした領主としての実力があったと考えられます。
表1:植田光次 関連年表
年代 |
出来事 |
典拠例 |
生年不詳 |
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1 |
天正7年 (1579) |
第一次天正伊賀の乱。織田信雄軍の柘植三郎左衛門保重を討ち取る。 |
1 |
天正9年 (1581) |
第二次天正伊賀の乱。織田信長軍に敗北し、伊賀を離れる。 |
4 |
同年以降 |
三河へ逃れ、徳川家康に臣従する。 |
4 |
時期不詳 |
(説)豊臣秀吉に臣従する。 |
6 |
没年不詳 |
|
1 |
3. 第一次天正伊賀の乱における武功
織田信雄による伊賀侵攻の背景と経過
天正7年(1579年)、織田信長の次男であり、伊勢北畠家の養嗣子となっていた北畠信雄(後の織田信雄。初名は具豊、後に信意、信勝とも名乗る 8)は、父信長に無断で伊賀国への侵攻を開始しました 5。当時、伊勢国を実質的に掌握していた信雄にとって、隣国でありながら独立を保つ伊賀国の存在は、自らの支配領域拡大の障害と映ったのでしょう。
侵攻に先立ち、信雄は家臣の滝川雄利に命じて伊賀の丸山城を修築させ、侵攻の拠点としようと試みました。しかし、この動きを察知した伊賀衆は激しく抵抗し、丸山城は完成を待たずして落城、織田勢は伊勢へ撤退を余儀なくされました 10。これが第一次天正伊賀の乱の直接的な引き金の一つとなります。
その後、信雄は体勢を立て直し、同年9月、伊賀に対して長野峠、青山峠、そして鬼瘤越(おにこぶごえ)の三方向から、総勢1万余りとも言われる軍勢をもって侵攻を開始しました 5。
柘植三郎左衛門保重の討伐とその意義
この織田信雄軍の侵攻に対し、植田光次は目覚ましい戦功を挙げます。彼は、信雄軍の部将の一人であった柘植三郎左衛門保重(つげさぶろうざえもんやすしげ)を討ち取ったのです 1。柘植保重は通称を三郎左衛門といい 11、織田信雄に属して日置大膳亮らと共に伊賀国に侵攻した武将でした。ある記録によれば、保重は1500の兵を率いて鬼瘤越から伊賀に侵入しましたが、これを百地丹波守(ももちたんばのかみ)ら伊賀衆が迎え撃ち、植田光次がこの戦いで保重を討ち取ったとされています 5。また別の記録では、退却する織田軍の殿軍(しんがり)を務めていた際に討たれたとも伝えられています 1。
いずれにせよ、一軍の将であった柘植保重の戦死は、織田信雄軍の士気を著しく低下させ、作戦継続を困難にしました。結果として、信雄軍は伊賀衆の巧みなゲリラ戦術と頑強な抵抗の前に大きな損害を出し、伊勢への撤退を余儀なくされます。
信雄によるこの無断かつ稚拙な伊賀侵攻の失敗は、父・織田信長の逆鱗に触れることとなりました。『信長公記』にも、信長がこの敗戦と信雄の独断専行に対して激怒し、書状で厳しく叱責したことが記されています 9。植田光次による柘植保重討伐という戦功は、単に一武将を討ち取ったという局地的な勝利に留まらず、織田信雄軍全体の侵攻作戦を頓挫させ、さらには織田家内部の力学にも影響を与えるほどの戦略的なインパクトを持っていたと言えます。そして、この信長の怒りが、二年後の第二次天正伊賀の乱という、伊賀国にとってさらに過酷な運命を招く遠因となった可能性も否定できません。
表2:天正伊賀の乱 主要関連人物と植田光次
人物名 |
立場・役職など |
植田光次との関係・主な行動 |
典拠例 |
植田光次 |
伊賀の豪族、伊賀十二評定衆の一員 |
第一次天正伊賀の乱で柘植保重を討伐。第二次天正伊賀の乱で敗北後、徳川家康に臣従。 |
1 |
織田信雄(北畠信雄) |
織田信長次男、伊勢国司北畠家養子、伊勢国主 |
第一次天正伊賀の乱を主導。植田光次ら伊賀衆に敗北。 |
5 |
柘植三郎左衛門保重 |
織田信雄家臣 |
第一次天正伊賀の乱で伊賀に侵攻。植田光次に討ち取られる。 |
5 |
織田信長 |
尾張の戦国大名、天下人 |
信雄の伊賀侵攻失敗に激怒。第二次天正伊賀の乱で伊賀を制圧。 |
9 |
百地丹波守(百地三太夫) |
伊賀の有力豪族、伊賀流忍術の上忍三家の一 |
第一次天正伊賀の乱で植田光次らと共に織田軍と交戦。 |
5 |
滝川雄利 |
織田信雄家臣 |
丸山城修築を指揮するも伊賀衆の妨害で失敗。 |
10 |
徳川家康 |
三河の戦国大名、後の江戸幕府初代将軍 |
第二次天正伊賀の乱後、伊賀を逃れた植田光次を家臣として受け入れる。 |
4 |
4. 第二次天正伊賀の乱と伊賀からの離散
織田信長による本格的伊賀侵攻
天正9年(1581年)、第一次天正伊賀の乱における信雄の無残な敗北と、伊賀衆の頑強な抵抗に業を煮やした織田信長は、伊賀国の完全制圧を決意します。信長は、織田信雄をはじめとする諸将に命じ、数万とも伝えられる大軍を編成し、伊賀国に対して四方から波状的に侵攻させました 4。これは、伊賀国にとって未曾有の規模の軍事侵攻であり、伊賀衆は圧倒的な兵力差という絶望的な状況に直面することになります。この戦いは「天正伊賀の乱」として知られ、特にこの信長主導の侵攻を「第二次天正伊賀の乱」と呼びます。
伊賀衆の抵抗と敗北、植田光次の動向
圧倒的な織田軍の侵攻に対し、伊賀衆は各地の城砦に立てこもり、地の利を活かしたゲリラ戦術や夜襲を駆使して最後まで激しく抵抗しました。しかし、織田軍の圧倒的な物量と組織的な攻撃の前に、伊賀各地の拠点は次々と陥落し、伊賀衆は次第に追い詰められていきました。
この第二次天正伊賀の乱において、植田光次もまた織田軍と戦い、最終的には敗れたとされています 4。彼の居城であったとされる植田氏城も、この時に落城したか、あるいは放棄されたものと考えられます。
この絶望的な戦況の中にあっても、植田光次が抵抗の意思を失っていなかったことを示す逸話が残されています。織田軍の伊賀侵攻の際に道案内役を務めた伊賀の土民・耳須(みみずか)という人物が、植田光次の命を受けたとされる小田村の与助と左八という者たちによって暗殺されたという記録です 12。この出来事は、敗色が濃厚となる中でも、植田光次が伊賀の指導者の一人として、伊賀惣国一揆の掟(例えば第六条の裏切り者への処罰 2)に則り、内部の裏切り者に対して制裁を加えるなど、組織的な活動を継続していた可能性を示唆しています。それはまた、彼の指導者としての責任感と、伊賀衆の抵抗がいかに凄惨を極めたかを物語るものでもあります。
しかし、こうした伊賀衆の必死の抵抗もむなしく、伊賀国は織田信長によって完全に平定されました。これにより、長らく続いてきた伊賀の「惣国一揆」という自治体制は事実上終焉を迎え、植田光次をはじめとする伊賀の豪族たちは、故郷を追われるという過酷な運命を辿ることになったのです。
三河への逃避行
第二次天正伊賀の乱で敗北し、伊賀国が織田信長の支配下に置かれた後、植田光次は故郷を離れ、三河国(現在の愛知県東部)へと逃れたと伝えられています 4。
5. 伊賀退去後の植田光次
徳川家康への臣従
伊賀を追われ、三河国へ逃れた植田光次は、同地を治めていた徳川家康を頼り、その家臣となったと複数の資料で一致して述べられています 4。当時、徳川家康は織田信長と同盟関係にありましたが、東海地方に独自の勢力圏を築きつつある途上にあり、有能な人材を広く求めていました。伊賀衆は、その戦闘技術や情報収集能力、ゲリラ戦術など、戦国時代を生き抜く上で有用な特殊技能を持つ集団として知られていました。家康にとって、植田光次のような伊賀の指導者層の武将を受け入れることは、自軍の軍事力強化に繋がるものであり、合理的な判断であったと考えられます。
植田光次が徳川家康に仕官したという事実は、戦国時代の武士の主従関係の流動性と、能力さえあれば出自やかつての敵対関係に関わらず登用される可能性があったことを示しています。伊賀という特殊な地域で指導的立場にあった植田光次の経験や能力は、家康にとって魅力的なものであったと推測され、彼が伊賀武士の代表格の一人として迎えられたとしても不思議ではありません。この出来事は、後に徳川幕府が伊賀者を「伊賀組同心」として組織し、諜報活動や警備などに活用した歴史的背景の、遠い伏線の一つと見なすこともできるかもしれません。
豊臣秀吉への臣従に関する説とその検討
一部の資料では、植田光次が徳川家康に仕えた後、さらに豊臣秀吉の家臣にもなったという記述が見られます 6。
しかし、この点については慎重な検討が必要です。例えば、ある資料には植田美濃守安信(うえだみののかみやすのぶ)という人物が豊臣秀吉の九州征伐に従軍し、天正14年(1586年)の戸次川(へつぎがわ)の戦いで敗北し、その後出家隠居したという記録があります 14。この植田安信が植田光次と同一人物であるか、あるいは同族の別人であるかは、提供された資料の範囲では明確ではありません。「植田」という姓を持つ別の武将の事績が、植田光次の経歴として混同されて伝わった可能性も考慮に入れるべきです。
徳川家康が小牧・長久手の戦いを経て豊臣秀吉に臣従した後、家康配下の武将が秀吉の指揮下に入る(例えば、秀吉が命じた戦役に参加する)ことはあり得ます。しかし、植田光次個人が徳川家を離れて直接豊臣秀吉に仕えたのか、あるいは家康の家臣という身分のまま秀吉の軍事行動に参加したのかなど、その具体的な経緯や活動内容を示す確たる史料は、現時点では限定的と言わざるを得ません。この豊臣秀吉への臣従説については、複数の二次資料で言及されているものの、一次史料や具体的な活動記録に乏しい可能性があり、今後の研究による検証が待たれます。
6. 植田光次の人物像と史料における評価
関連史料に見る記述の分析
植田光次に関する記述は、いくつかの歴史的史料や記録の中に散見されます。
「忍者」としての側面に関する考察
植田光次は、多くの史料において「豪族」と記されており 1、伊賀十二評定衆の一員として伊賀国の政治的・軍事的指導を担った側面が強く浮かび上がります。
伊賀国自体が忍術で名高い地域であり、伊賀衆がゲリラ戦術や情報収集、隠密行動に長けていたことは広く知られています。しかし、植田光次個人を指して明確に「忍者」と記述した史料は、提供された資料の範囲では見当たりません。
例えば、江戸時代に成立した忍術の秘伝書である『萬川集海(まんせんしゅうかい)』には、伊賀流・甲賀流合わせて11名の忍術名人の名が挙げられていますが 18、ここに植田光次の名は含まれていません(一方で、同じく伊賀の人物である野村孫太夫などの名は見られます 6)。
これらのことから、植田光次の実像は、伊賀という土地柄から「忍者」のイメージと結びつけられやすいものの、史料上は在地に根差した領主としての「豪族」であり、合議制の一員として地域を指導し、合戦においては一部隊を率いる「武将」としての性格がより色濃いと考えられます。彼の指揮下には忍術に長けた者たちが含まれていた可能性は十分にありますが、彼自身が隠密活動や諜報活動を専門とする、いわゆるステレオタイプな「忍者」であったと断定するには、現時点では証拠が不足していると言えるでしょう。伊賀の武士が忍術的な戦法を用いたことと、その指導者自身が専門の「忍者」であったことは、区別して考える必要があります。
7. おわりに
植田光次は、戦国時代の伊賀国において、その独立と自治を守るために戦った指導者の一人として、歴史に名を残しました。第一次天正伊賀の乱においては、織田信雄軍の部将・柘植保重を討ち取るという顕著な武功を挙げ、伊賀衆の抵抗力の高さを示す象徴的な役割を果たしました。しかし、二年後の第二次天正伊賀の乱では、織田信長の圧倒的な軍事力の前に敗北を喫し、故郷伊賀を追われることとなります。その後、三河の徳川家康に仕えることで新たな道を歩んだとされていますが、その晩年や没年については詳らかではありません。
植田光次の生涯は、戦国時代における中央集権化の大きな流れに抗した地方勢力の抵抗と、その後の激動の時代を生き抜くための処世の一つのあり方を象徴する事例として位置づけることができます。また、伊賀という特異な地域社会におけるリーダーシップの一端を示した存在としても重要であり、彼の動向は、伊賀衆全体の運命と深く結びついていました。
一方で、植田光次の生没年や、徳川家康に仕えた後の具体的な活動、そして豊臣秀吉への臣従説の真偽など、未解明な点も多く残されています。これらの謎を解き明かすためには、新たな史料の発見はもちろんのこと、特に『伊乱記』や『校正伊乱記』といった伊賀側の伝承を多く含む史料の詳細な分析が不可欠です。今後の研究の進展によって、植田光次という人物の姿がより鮮明に、そして多角的に浮かび上がってくることが期待されます。