日本の戦国時代、越中国(現在の富山県)の歴史は、隣国である越後や加賀、そして中央の政治情勢と密接に連動しながら、複雑かつ激しい権力闘争の舞台となった。その渦中にあって、椎名長常(しいな ながつね)という武将は、二つの大きな歴史的転換点の狭間に位置する極めて重要な人物である。彼の生涯は、兄・椎名慶胤(よしたね)が越後守護代・長尾為景(ながお ためかげ)との戦いに敗れ、越中東部における椎名氏の自立性が失われた永正17年(1520年)の動乱に始まり、彼の治世の終焉と共に、後継者・椎名康胤(やすたね)が宿敵・神保長職(じんぼう ながもと)の猛攻に耐えかね、長尾景虎(後の上杉謙信)に全面的な支援を要請し、越中が上杉・武田両雄の代理戦争の舞台へと変貌していく永禄年間(1558年〜)の激動へと繋がっていく。
長常の治世は、まさにこの二つの激動期をつなぐ「移行期」そのものであった。彼の生涯を解明することは、単に一個人の伝記を追うに留まらない。それは、越中という一地域国家が、いかにして隣国の大国の影響下に組み込まれ、その中で在地領主たちがどのように生き残りを図ったのかという、戦国時代の権力構造の変容を解き明かす上で不可欠な作業である。しかしながら、長常は後継者である康胤の華々しくも悲劇的な活躍の影に隠れがちであり、彼自身に関する直接的な史料は極めて乏しいのが現状である 1 。
本報告書は、この史料的制約を認識しつつも、『越佐史料』や『富山県史』といった編纂史料、現存する古文書の断片、そして近年の歴史研究の成果を総合的に分析・活用することによって、椎名長常の実像を可能な限り再構築し、その歴史的役割を正当に評価することを目的とする。彼の生涯を通じて、戦国期における守護代、そして「又守護代」という特異な権力構造の実態と、在地領主が直面した過酷な現実を浮き彫りにしていきたい。
椎名長常の人物像を理解するためには、まず彼が率いた椎名一族の出自と、越中新川郡における権力基盤の特質を把握する必要がある。椎名氏は関東の名門武士団にその源流を持ち、越中においては守護の代官という立場から勢力を扶植し、さらに独自の経済基盤によってその力を確固たるものとしていた。
越中椎名氏は、その出自を桓武平氏千葉氏流に持つ、関東由来の名門武士団の一族である 3 。彼らの名字の地は下総国千葉荘椎名郷(現在の千葉県千葉市緑区椎名崎町周辺)とされ、家祖は平安時代末期に源頼朝の挙兵を支えた有力御家人・千葉常胤の弟にあたる椎名胤光(たねみつ)と伝えられている 3 。『吾妻鏡』にも椎名弥次郎や椎名六郎胤継といった一族の名が見え、鎌倉幕府の御家人として活動していたことが確認できる 3 。この関東の名門としての出自は、椎名氏が単なる在地土豪ではなく、武家社会において由緒ある家柄であったことを示している。彼らが遠く離れた越中の地に根を下ろすに至る過程は、鎌倉時代から室町時代にかけて、幕府や守護といった中央権力との結びつきを通じて、武士団が全国各地へ移住し、在地領主化していく典型的な事例の一つと言える。
越中椎名氏が史料上で明確に確認されるようになるのは室町時代に入ってからである。通説では、鎌倉時代に越中守護であった北条氏の一族、名越氏の被官として入部したとされるが 3 、より確実なのは、14世紀後半に越中守護となった畠山氏に仕え、その在地代官として新川郡に赴任したという経緯である 7 。畠山氏は室町幕府の管領を輩出する名門であったが、守護自身は京都に在住することが多く、現地の統治は守護代に委ねられていた。越中では、新川郡を椎名氏、婦負・射水郡を神保氏、砺波郡を遊佐氏がそれぞれ分郡守護代として治める体制が敷かれていた 9 。
このように、椎名氏は越中土着の豪族ではなく、中央の有力者である守護畠山氏の代官という立場で現地に入り、勢力を築いた「移住領主」であった。彼らの権力の源泉は、当初から守護という上位権力との公的な結びつきにあり、その関係性が彼らの政治的立場を規定し続けることとなる。文明13年(1481年)の史料には、守護奉行人が椎名四郎次郎(順胤)に対し、所領の引き渡しを命じる内容が見られ、この時点で椎名氏が新川郡守護代の地位にあったことが明確にわかる 11 。
椎名氏の権力を物理的に支えたのが、本拠地である松倉城(富山県魚津市)であった。この城は、標高約430メートルの城山に築かれた、富山県内最大級の山城であり、越中三大山城の一つにも数えられている 12 。天然の急峻な地形を利用し、南北1キロメートルにわたって多数の曲輪や堀切を配した構造は、まさに難攻不落の要塞と呼ぶにふさわしい 13 。その堅固さは、後に上杉謙信による百日間に及ぶ包囲攻撃にも耐え抜いたことからも証明されている 16 。
しかし、椎名氏の強大さを支えたのは、この軍事的な拠点だけではなかった。松倉城の繁栄と椎名氏の権勢を経済的に裏付けていたのが、城の背後に控える松倉金山の存在である 18 。この金山は室町時代の応永年間(1394年〜1428年)に発見されたとされ、戦国時代を通じて採掘が続けられた 19 。戦国大名にとって金銀山は、傭兵の雇用、鉄砲など最新兵器の購入、そして家臣団への恩賞といったあらゆる軍事・経済活動の源泉であり、その支配は死活問題であった 21 。
ここに、越中椎名氏の権力基盤の二重性が見て取れる。すなわち、彼らの力は「守護代」という政治的・軍事的な公的地位と、「松倉金山」という潤沢な資金を生み出す経済的基盤の二本の柱によって成り立っていたのである。この強固な経済力があったからこそ、椎名氏は新川郡における実効支配を維持し、有力な家臣団を抱えることが可能であった。
この金山の存在は、椎名氏の運命に大きな影響を与え続けることになる。西方の宿敵・神保氏が執拗に椎名領への侵攻を繰り返した背景には、単なる領土的野心だけでなく、この莫大な富を生む金山の奪取という経済的な目的があったと推察される。そして、後に椎名氏を従えることになる越後の長尾氏にとっても、この金山からもたらされる利益は極めて魅力的であったに違いない。椎名氏を完全に滅ぼさず、又守護代として存続させた長尾為景の判断の裏には、この金山の権益を間接的にでも掌握したいという戦略的な思惑があった可能性は十分に考えられるのである。
椎名長常が歴史の表舞台に登場する直接のきっかけは、兄・慶胤の敗死という一族の存亡に関わる大事件であった。守護からの自立を目指したこの動きは、結果として隣国・越後の実力者である長尾為景の介入を招き、越中、特に椎名氏の運命を大きく変える転換点となった。
16世紀初頭、越中では守護・畠山氏の権威が揺らぎ、守護代たちの自立化の動きが活発化していた。永正16年(1519年)頃、越中中部の婦負・射水郡を治める守護代・神保慶宗が、主君である守護・畠山尚長(尚順)からの独立を目指して兵を挙げた 24 。これは、守護権力の形骸化に乗じた典型的な下剋上の動きであり、戦国時代の到来を告げるものであった。
この「神保慶宗の乱」に、新川郡守護代であった椎名慶胤は同調し、加担した 16 。これは、椎名氏もまた神保氏と同様に、名目上の主君である畠山氏の軛(くびき)から逃れ、新川郡における自立した戦国大名としての地位を確立しようという野心を抱いていたことを示唆している。永正16年8月には、椎名慶胤が在地領主の土肥氏に所領を安堵する文書が残っており、神保氏と連携しながら、来るべき戦いに備えて領内の勢力を固めていた様子がうかがえる 28 。
守護代たちの反乱に対し、守護・畠山尚長は自力での鎮圧が困難と判断し、隣国越後の守護代・長尾為景に支援を要請した 7 。為景は、父・能景がかつて越中一向一揆と神保氏の連合軍に敗れて討死した過去があり、神保氏に対して強い敵愾心を抱いていた 30 。彼はこの要請を好機と捉え、畠山氏を助けるという大義名分を掲げて越中へ大軍を派遣した 31 。
長尾軍の侵攻に対し、神保・椎名連合軍は激しく抵抗したが、戦況は長尾方に有利に進んだ。そして永正17年(1520年)12月、新川郡の新庄城で行われた決戦において、神保・椎名軍は為景率いる長尾軍に壊滅的な敗北を喫した 30 。この「新庄城の合戦」で、椎名慶胤は討死したとみられている 24 。この敗北は、自立を目指した椎名氏にとって決定的な打撃となり、一族は存亡の危機に瀕することとなった。
新庄城の合戦における勝利は、長尾為景の越中における影響力を決定づけた。戦後、為景はこの戦功を認められ、守護・畠山尚順から正式に新川郡の守護代職を与えられた 29 。これは、単なる一合戦の勝敗に留まるものではなく、越中の支配構造そのものを根本的に変容させる出来事であった。
それまで越中の支配構造は、名目上の支配者である在京守護・畠山氏と、その現地代官である神保・椎名・遊佐の三守護代という体制であった。しかし、この事件によって、新川郡の守護代職という公的な支配権そのものが、隣国の実力者である長尾為景の手に渡ったのである。これは、室町幕府の権威(守護の任命権)を背景とした、公式な権力の移譲であった。
この結果、越中東部は長尾氏の勢力圏へと実質的に組み込まれることになった 29 。これ以降、新川郡の政治情勢は、越後の国内事情と密接に連動せざるを得なくなる。長尾氏の安定は新川郡の安定に、長尾氏の混乱は新川郡の混乱に直結する。椎名長常、そしてその後継者である康胤の運命は、この時に敷かれた新たな権力構造のレールの上を走ることになるのである。椎名氏は、自立した領主から、越後の大国の従属者へと、その立場を大きく変えざるを得なかった。
兄・慶胤の敗死という未曾有の危機の中、椎名氏の家督を継いだのが椎名長常であった。しかし、彼の立場はかつての守護代とは大きく異なり、「又守護代」という従属的な地位であった。彼の治世は、新たな支配者である長尾氏の権威を背景に、混乱した領内を再建し、西からの脅威に備えるという、苦難に満ちたものであった。
慶胤の死後、長常が椎名氏の当主となったことは確実であるが、その家督継承の経緯や慶胤との血縁関係には不明な点が多い 16 。長常を慶胤の「兄弟」で、後の当主・康胤の「叔父」にあたるとする説がある一方で 34 、康胤を慶胤の「子」とする説も有力であり 16 、両者の記述は系譜上、単純には両立しない。さらに、長常は椎名氏の宗家ではなく「庶家」の出身であった可能性も指摘されている 32 。
この情報の錯綜は、慶胤の敗死による一族の混乱と、長常自身に関する史料の乏しさを物語っている。しかし、この曖昧さの背後には、新たな支配者となった長尾為景の政治的な意図が働いていた可能性が考えられる。為景にとって、自らに反乱を起こした慶胤の直系(康胤が幼少であった可能性もある)をすぐに当主とするよりも、より従順で扱いやすい人物を立てる方が、越中支配の上で都合が良かったであろう。特に長常が庶家出身であったり、慶胤と直接の親子関係でなかったりする場合、彼の権力基盤は本質的に脆弱であり、その弱みは必然的に為景への依存度を高めることになる。したがって、長常の家督継承は、椎名氏の内部事情だけでなく、為景が椎名氏を傀儡化し、新川郡を間接統治するために、意図的に彼を当主に据えた結果であると推察される。長常の権力は、自立したものではなく、当初から為景によって「与えられた」ものであった可能性が高いのである。
長尾為景は、新川郡守護代の地位を得たものの、本国である越後の統治に専念する必要があり、新川郡に常駐することはできなかった。そのため、為景は椎名長常を「又守護代(またしゅごだい)」、あるいは「目代(もくだい)」として任命し、現地の統治を委ねた 27 。この「又守護代」とは文字通り「守護代の代理」を意味し、椎名氏が長尾氏の完全な下位に置かれたことを示す役職名である。長常の権限は、あくまで為景の代官としての範囲に限定され、その統治は常に為景の意向を窺いながら行われたと考えられる。
長常は「弾正左衛門尉(だんじょうさえもんのじょう)」の官途名を称したことが史料から確認できる 8 。また、彼の諱(いみな)である「長」の字は、旧主筋にあたる越中守護・畠山稙長(たねなが)から偏諱(へんき)を賜ったものとみられており 34 、旧来の権威である畠山氏と、新たな実力者である長尾氏の両方に配慮しなければならない、彼の複雑な立場を象徴している。
表1:越中椎名氏 主要人物関係図
関係性 |
人物名 |
役職・立場 |
備考 |
椎名氏一族 |
椎名長常 |
新川郡又守護代 |
本報告書の中心人物。官途は弾正左衛門尉。 |
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椎名慶胤 |
新川郡守護代 |
長常の兄(一説)。神保慶宗の乱に加担し、長尾為景に敗死。 |
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椎名康胤 |
新川郡又守護代 |
長常の後継者。慶胤の子、または長常の甥とされる。 |
主君・庇護者 |
長尾為景 |
越後守護代、新川郡守護代 |
新庄城の戦いで慶胤を破り、長常を又守護代に任命。 |
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長尾景虎(上杉謙信) |
越後国主 |
為景の子。後に康胤の要請で越中に介入。 |
敵対勢力 |
神保慶宗 |
婦負・射水郡守護代 |
守護畠山氏に反乱。慶胤と共に為景に敗れる。 |
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神保長職 |
婦負・射水郡守護代 |
慶宗の子。神保家を再興し、長常・康胤と激しく争う。 |
上位権力・仲介者 |
畠山尚順 |
越中守護 |
為景に新川郡守護代職を与える。 |
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能登畠山氏 |
能登守護 |
越中守護家の分家。長常と長職の争いを仲介。 |
又守護代という従属的な立場ではあったが、長常は長尾為景という強力な支援を背景に、敗戦で混乱した新川郡における権力の再確立に努めた 32 。年未詳卯月廿四日付の『椎名長常書状』には、越中国内の騒乱鎮圧に協力した在地領主・村山与七郎義信に対し、その功を賞し謝意を伝える内容が記されている 8 。これは、長常が長尾氏の権威を借りて、在地勢力の掌握と領内の秩序回復に動いていたことを示す貴重な史料である。
また、この時期に椎名氏は本拠地のあり方を大きく転換したと考えられる。それまで平地の居館(魚津城など)と有事の際の詰城(つめのしろ)である山城(松倉城)を併用していたが、長常の代に、日常の政庁機能も含めて、より防衛的な山城である松倉城へと本拠を完全に移した可能性が指摘されている 32 。これは、もはや平穏な統治が望めず、常に西方の神保氏からの軍事的脅威に晒されていた当時の緊迫した状況を反映している。
これらの動きから、長常の統治政策が、領土拡大のような攻勢的なものではなく、敗戦で失われた権威を回復し、来るべき神保氏の反攻に備えるという、守勢に立った安定化政策が中心であったことがうかがえる。彼の統治期間は平和な時代ではなく、次の嵐の前の、緊張をはらんだ小康状態であったと評価するのが妥当であろう。
椎名長常の治世は、常に西方の宿敵・神保氏の影に脅かされていた。特に、強力な庇護者であった長尾為景の死は、越中のパワーバランスを大きく揺るがし、神保氏の再興を促すことになる。神保長職の東進は「越中大乱」と呼ばれる長期の抗争を引き起こし、椎名氏は再び存亡の危機に立たされた。
天文11年(1542年)頃、越中東部に絶大な影響力を誇っていた長尾為景が死去した 16 。為景の死後、越後では後継者をめぐる内紛が続き、他国への介入能力は一時的に大きく後退した。この権力の空白期を好機と捉えたのが、かつて為景に滅ぼされた神保慶宗の子・長職であった。彼は一向一揆勢力とも結びつきながら着実に神保家を再興し、父の悲願であった越中統一を目指して勢力を拡大し始めた 16 。長常の権威の源泉であった長尾氏という後ろ盾が揺らいだことで、越中の勢力図は再び流動化し始めたのである。これは、外部勢力に依存する在地領主の権力基盤の脆弱性を如実に示すものであった。
神保長職の野心は、天文12年(1543年)頃、具体的な軍事行動となって現れる。彼は椎名領との境界線であった神通川を越え、その東岸の安住郷に富山城を築城したのである 25 。これは、椎名氏に対する明確な挑戦状であり、新川郡への本格的な侵攻を開始する拠点であった。
この富山城築城を契機として、椎名長常と神保長職の間で、越中の国人衆を巻き込んだ大規模な抗争、すなわち「越中大乱」が勃発した 25 。これ以降、常願寺川や神通川が両勢力の軍事境界線となり、越中は椎名氏が支配する東部と、神保氏が支配する西部に二分され、泥沼の戦いが繰り広げられることになった。
越中大乱において、椎名長常は神保長職の猛攻の前に苦戦を強いられ、敗北を重ねた 41 。長尾氏からの有効な支援を得られない中、長常は劣勢に立たされた。この膠着状態を打開するため、天文13年(1544年)、両者の旧主筋であり、名目上の越中守護でもあった能登畠山氏が仲介に乗り出し、和睦が成立した 25 。
この和睦は、越中の紛争解決における主導権が、一時的に越後長尾氏から能登畠山氏へと移行したことを示している。長常は、かつての庇護者であった長尾氏に頼ることができず、旧主の権威にすがらざるを得ないほど追い詰められていたのである。しかし、この和睦の内容は、神保長職による富山城領有と常願寺川以西の支配を事実上容認するものであり、椎名氏にとっては極めて不満の残る、屈辱的な結果であった 25 。この和睦後も神保氏からの軍事的圧迫は続き、椎名氏の勢力はますます衰退していった 16 。
長常の統治は、長尾為景という強力な後ろ盾の存在を前提としていた。その前提が崩れた時、彼は独力で神保長職の攻勢を防ぎきることができなかった。これが、彼の当主としての限界であり、椎名氏が再び存亡の危機に瀕した直接の原因であったと言えよう。
表2:椎名長常の時代(永正17年~天文末期)における越中情勢年表
年代(西暦/和暦) |
椎名氏の動向 |
神保氏の動向 |
越後長尾氏の動向 |
その他勢力の動向 |
主要な出来事 |
1520年(永正17年) |
椎名慶胤、新庄城の戦いで敗死。 椎名長常 が家督継承。 |
神保慶宗、新庄城の戦いで敗死。一族は一時衰退。 |
長尾為景、越中に侵攻し神保・椎名連合軍を破る。 |
守護畠山尚順が為景を支援。 |
新庄城の戦い 。椎名氏、長尾氏に従属。 |
1521年(大永元年) |
長常 、為景の又守護代として新川郡を統治。 |
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長尾為景、畠山尚順から正式に新川郡守護代に任命される。 |
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長尾氏による越中東部の支配体制が確立。 |
1538年(天文7年) |
長常 (弾正左衛門尉)、書状を発給 35 。 |
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長尾為景、在世中。 |
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長常による領内統治の様子が窺える。 |
1542年頃(天文11年頃) |
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長尾為景が死去。越後国内は後継者問題で不安定化。 |
- |
越中における長尾氏の影響力が一時的に低下。 |
1543年頃(天文12年頃) |
神保氏の侵攻を受け、抗争が激化( 越中大乱 )。 |
神保長職が神保家を再興。神通川東岸に 富山城 を築城し、東進を開始。 |
為景死後の混乱期。 |
- |
神保氏の勢力が急拡大。 |
1544年(天文13年) |
神保氏の攻勢に敗北。不本意な形で和睦を受け入れる。 |
長職、椎名氏を圧倒。 |
- |
能登畠山氏が両者の争いを仲介。 |
神保氏の富山城領有が公認され、椎名氏は劣勢に。 |
1550年代中頃(天文末期) |
長常 から椎名康胤へ家督が継承される。長常は歴史の表舞台から退場。 |
椎名領への圧迫を続ける。 |
長尾景虎(上杉謙信)が越後を統一し、勢力を回復。 |
- |
椎名氏、当主交代。対神保強硬路線へ転換。 |
神保長職の絶え間ない圧迫により、椎名氏の勢力は衰退の一途をたどった。この危機的状況は、椎名氏内部の権力構造にも変化を及ぼし、長常から次代の康胤へと当主が交代する。この家督継承を境に、長常は歴史の記録からその姿を消し、静かな終焉を迎えることとなる。
神保氏の攻勢によって領地を侵食され、一族が衰退していく中、天文年間の末頃(1550年代中頃)に、椎名氏の当主は長常から康胤へと交代した 16 。この家督継承が具体的にどのような経緯で行われたのかを直接的に記した史料は現存しない。しかし、長常の治世が神保氏の圧力の前に有効な手を打てず、行き詰まりを見せていた状況を鑑みれば、円満な隠居であったとは考えにくい。
戦国時代の武家社会において、当主が外敵の侵攻を防げず、一族を危機に陥れた場合、家臣団の不満が高まり、より有能と目される一族の者に当主の座を譲らせる、一種のクーデターや家中合意に基づく強制的な隠居は決して珍しいことではなかった。後継者となった康胤は、家督を継ぐや否や、越後の長尾景虎(上杉謙信)に積極的に働きかけ、大規模な軍事介入を要請するという、長常の受動的な姿勢とは全く対照的な行動に出ている 16 。
このことから、長常から康胤への家督継承は、神保氏の圧力という外的要因に加え、この危機的状況を打開できない長常の守勢の統治に対する家臣団の不満という内的要因が引き起こした、事実上の「当主交代劇」であった可能性が高い。すなわち、椎名家中の「対神保強硬派」が、越後長尾氏との連携を強化し、積極的な軍事行動によって失地回復を目指す康胤を新たな当主として担ぎ上げ、現状維持に甘んじてジリ貧に陥っていた長常を隠居に追い込んだ、というシナリオが想定される。康胤の登場は、椎名氏の対外政策における大きな方針転換の表れであった。
椎名康胤に家督を譲った後、長常は歴史の表舞台から完全に姿を消す。彼の没年、死因、墓所の場所など、その最期を伝える確実な史料は一切存在しない 34 。これは、戦国時代において権力の座を失った人物にしばしば見られる現象である。
長常の存在が歴史的に重要であったのは、あくまで長尾為景の「又守護代」として新川郡を統治していた期間に限られていた。その役目を終えた(あるいは解かれた)後は、同時代の記録者たちにとって、特筆して記録に残す価値を失ったと見なされたのであろう。彼の「静かな退場」は、その権力が個人的な才覚やカリスマ性に根差したものではなく、長尾為景という外部権力によって与えられた「役職」に過ぎなかったことを象徴している。役職という公的な立場を失った彼は、一介の国人に戻り、歴史の記述の片隅からも消えていったのである。彼の生涯は、戦国という時代において、一個人の運命がいかに外部の権力構造に翻弄されるかを物語っている。
椎名長常は、戦国越中史において、椎名慶胤の敗死と椎名康胤の台頭という二つの大きな節目をつなぐ、重要な役割を果たした人物である。彼の生涯は、華々しい武功や劇的な逸話に彩られているわけではないが、その統治と存在が後の越中の歴史に与えた影響は決して小さくない。彼の功罪と歴史的遺産を多角的に評価することで、その人物像を総括する。
椎名長常を評価する上で、まず挙げられるのが「つなぎ」の当主としての役割である。
彼の功績は、兄・慶胤が長尾為景に敗死するという一族最大の危機において、新たな支配者である為景に速やかに従属するという現実的な選択を下し、椎名家の完全な滅亡を回避した点にある。もし彼が徹底抗戦の道を選んでいれば、椎名氏は永正17年(1520年)の段階で歴史からその名を消していた可能性は極めて高い。彼は、一族の存続を最優先し、プライドを捨てて従属の道を選ぶことで、次代の康胤へと家名を繋いだのである。
一方で、彼の限界もまた明らかである。強力な庇護者であった為景の死後、自立した力で神保長職の攻勢を防ぐことができず、一族を再び衰退の淵に追い込んだ。彼の守勢に徹した統治は、結果として神保氏の勢力拡大を許し、後の康胤の代における、より大規模で悲劇的な戦乱の火種を残すことにも繋がった。彼は危機を乗り切ることはできたが、新たな時代を切り拓くことはできなかった。
皮肉なことに、椎名長常の最大の歴史的遺産は、彼自身が意図して成し遂げたことよりも、彼の存在と治世が結果として後の歴史展開の前提条件を作り出した点にある。それは、上杉謙信による本格的な越中介入への道筋をつけたことである。
長常は、約20年間にわたり、長尾為景の「又守護代」として新川郡を統治した。この事実が、「新川郡は越後長尾氏の勢力圏である」という既成事実を越中の内外に定着させた。この長きにわたる従属関係があったからこそ、後継者の康胤は、神保氏に攻められた際に「(父祖以来の主筋である)長尾氏に助けを求める」という、極めて自然かつ強力な大義名分を得ることができたのである。
そして、要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)もまた、「父・為景以来の権益地である新川郡を守る」という名目で、越中へ大規模な軍事介入を行うことができた 51 。もし長常の時代が存在せず、椎名氏と長尾氏の関係が断絶していたならば、謙信の越中出兵は単なる領土的野心に基づく侵略と見なされ、これほどスムーズには進まなかったかもしれない。
このように、椎名長常の治世は、上杉謙信による本格的な越中侵攻の「地ならし」の期間であったと評価することができる。彼が長尾氏の又守護代として統治を続けたことが、後の越中を舞台とした上杉・武田の代理戦争という、より大きなスケールの歴史の歯車が噛み合うための、重要な前提条件を形成したのである。
椎名長常に関する研究は、史料の制約から未だ多くの空白が残されている。今後の研究においては、以下の点が課題となる。
第一に、長常自身に関する一次史料のさらなる発掘が待たれる。彼が発給した書状や、彼の動向に言及した同時代の書簡、寺社の記録などが新たに発見されれば、その人物像や統治の実態、そして康胤への家督継承の真相などがより明確になるであろう。
第二に、近年の研究成果の統合と深化が求められる。特に、千葉市立郷土博物館の『研究紀要』における「越中椎名氏調査報告」 52 や、富山県の歴史研究を牽引する髙森邦男氏 1 、萩原大輔氏 55 らの研究は、越中戦国史に新たな光を当てている。これらの最新の研究成果を総合的に分析し、長常の時代の政治・社会構造をより立体的に再構築していく作業が必要である。
椎名長常は、歴史の激流の中で、一族の存続という最低限の責務を果たし、静かに舞台を去った。彼の生涯は、戦国という時代の非情さと、一個人の選択が意図せずして後の歴史を規定していくダイナミズムを我々に教えてくれる。彼の地道な、しかし重要な役割に光を当てることは、越中戦国史、ひいては日本の戦国時代史の理解を一層深めることに繋がるであろう。