最終更新日 2025-07-20

椎津行憲

戦国期房総の驍将、椎津隼人佐行憲の実像 — 出自と第一次国府台合戦における役割の徹底考察

序章:戦国期房総に生きた武将、椎津隼人佐行憲

戦国時代の関東地方は、古河公方足利家を巡る内紛と、相模国から急速に勢力を伸張させた後北条氏の台頭により、複雑かつ流動的な権力闘争の舞台となっていた。この激動の時代、房総半島に一時期、覇を唱えたのが「小弓公方」足利義明である。本報告書が主題とする椎津隼人佐行憲(しいづ はやとのすけ ゆきのり)は、この義明に仕え、その運命を共にした武将として歴史に名を留める 1

通説によれば、行憲は小弓公方の家臣として、天文7年(1538年)の後北条氏との一大決戦「第一次国府台合戦」に参陣。北条軍の渡河作戦に際して的確な進言を行うも容れられず、先鋒として奮戦した末に重傷を負い、その年のうちに命を落としたとされる 1 。しかし、彼の生涯に関する直接的な記録は極めて断片的であり、その人物像は依然として多くの謎に包まれている。

本報告書は、この椎津行憲という一人の武将の実像に迫ることを目的とする。そのために、行憲個人の記録のみを追うのではなく、彼が属した「椎津氏」の出自と本拠地、主君である「小弓公方」足利義明の興亡、そして彼の運命を決定づけた「第一次国府台合戦」の全貌を、多角的な視点から徹底的に考察する。分析にあたっては、『北条史料集』や『千葉大系図』といった編纂史料、『房總里見軍記』などの軍記物語に加え、近年の市史編纂事業や城郭発掘調査によって得られた新たな知見を横断的に参照し、史料批判の視座を保ちながら、可能な限り立体的な人物像を再構築することを目指す。

第一章:椎津氏の出自と系譜 — 諸説の検討

椎津行憲の人物像を理解するためには、まず彼が属した「椎津氏」の基盤とルーツを解明する必要がある。一族の本拠地であった上総国椎津の地理的・戦略的価値と、諸説紛紜たるその系譜を検討することで、行憲が置かれていた歴史的背景を明らかにする。

第一節:本拠地・上総国椎津と椎津城の戦略的重要性

椎津氏の本拠は、上総国市原郡椎津(現在の千葉県市原市椎津)に比定される 2 。この地は、古代から東京湾(江戸湾)の内湾航路を扼する水陸交通の要衝であった。特に、椎津城の麓に広がっていた椎津湊(姉崎湊)は、江戸湾の海上交通、物流、そして軍事における極めて重要な拠点であり、対岸の品川湊と対峙する位置にあった 5 。この湊を警護・支配するために築かれたのが椎津城であり、その戦略的価値の高さから、戦国時代を通じて房総の覇権を争う諸勢力による激しい争奪戦の舞台となった 5

椎津城は、標高約28メートルの台地に築かれた平山城で、その規模は南北約400メートル、東西約180メートルに及び、市原市内でも最大級の城郭であった 4 。近年の発掘調査では、城の南端に位置する五霊台遺跡において、敵の侵攻を阻むための防御施設である「畝堀(うねぼり)」が検出されており、高度な築城技術を用いて改修が重ねられた、戦国期の重要な拠点であったことが考古学的にも裏付けられている 7

この城の歴史は、椎津氏のみならず、房総の権力闘争の縮図ともいえる。椎津氏の後、城主は目まぐるしく入れ替わり、三浦氏、真里谷武田氏、里見氏(城代として木曾氏を配置)、そして後北条氏(城代として白幡氏を配置)といった有力大名が次々とこの城を支配下に置いた 5 。椎津行憲が生きた時代は、まさにこの城の戦略的重要性が最も高まった時期と重なるのである。

第二節:諸説紛紜たる一族のルーツ

椎津氏の出自については、複数の説が存在し、いまだ定説を見ていない。主要な説を以下に検討する。

1. 二階堂氏庶流説

一部の二次資料では、椎津氏は鎌倉時代の名族・二階堂氏の庶流の一族であると言われている 1。二階堂氏は鎌倉幕府の政所執事を務めた有力御家人であり、その一族は陸奥国や薩摩国などで戦国大名化している 11。房総半島においても、鋸南町に二階堂氏の開創と伝わる寺院が存在するなど、その活動の痕跡が見られる 12。しかし、椎津氏と二階堂氏を直接結びつける具体的な系図や同時代の一次史料は確認されておらず、この説は伝承の域を出ない可能性が高い。

2. 千葉氏流椎名氏説

『千葉大系図』を典拠とする説であり、比較的有力視されている 4。これによれば、千葉氏の一族である椎名胤仲(しいな たねなか)が元応年間(1325年頃)に椎津の地に居住し、「椎津三郎」と称したのが始まりとされる 4。椎名氏は千葉介常胤の弟・胤光を祖とする千葉氏の有力な庶流であり 14、彼らが本拠とした地名を名乗ったとするこの説は、房総半島における千葉一族の広範な勢力分布とよく整合する 16。

3. 相馬氏一族説

敵方であった後北条氏が編纂した『北条史料集』第二巻に、「上総国市原郡椎津を本拠とした武士で相馬氏の一族という」と記されている説である 2。相馬氏もまた、千葉介常胤の次男・師常を祖とする千葉氏の庶流であり、下総国北部から奥州にかけて勢力を持っていた 17。特に下総の守谷城を拠点とした相馬氏は、戦国期に関東で活動していた 19。敵方の記録であるため、客観的な情報として一定の信頼性を持ち、椎津氏が何らかの形で相馬氏の指揮下にあったか、あるいは婚姻関係を通じて一族と見なされていた可能性を示唆している。

第三節:系譜の統合的考察と椎津氏の実像

椎津氏の出自にこれほど複数の説が存在する事実は、単なる記録の混乱として片付けるべきではない。むしろ、これは戦国期房総の武士団が置かれた流動的な状況を反映していると考えられる。当時の房総半島では、在地領主(国衆)の帰属は固定化されておらず、主家の盛衰や婚姻政策、軍事同盟の変転に応じて、自らの出自を戦略的に語り変えたり、あるいは周囲から異なる系統の一族として認識されたりすることが頻繁にあった。

この観点から諸説を再検討すると、一つの解釈が浮かび上がる。「千葉氏流」という大きな枠組みの中で、椎名氏の系統から分かれた一族が、ある時期に同じ千葉一族である相馬氏の配下に入る、あるいは婚姻関係を結んだ結果、外部勢力である後北条氏からは「相馬氏の一族」として認識された、という可能性である。つまり、椎名氏説と相馬氏説は必ずしも矛盾するものではなく、時代の変遷の中で変化した椎津氏の立場を異なる側面から捉えた記録と解釈できる。

したがって、椎津行憲という武将のアイデンティティは、遠い祖先の血筋といった静的な系譜よりも、彼が根を下ろした本拠地「椎津」という土地と、彼が忠誠を誓った直接の主君「小弓公方」への人格的な結合によって、より強く規定されていたと考えるべきであろう。これは、中世的な「所領(イエ)」を基盤とする武士から、戦国的な「主君(殿)」への忠義を重視する武士へと移行する、時代の過渡期の武士の姿を象徴している。

表1:椎津氏の出自に関する諸説の比較

二階堂氏庶流説

典拠史料 : 典拠不明(『椎津行憲』Wikipedia等)

記述内容の要約 : 「鎌倉時代の名族・二階堂氏の庶流と言われている」

史料の性質と信頼性評価 : 伝承レベルであり、具体的な史料的裏付けに乏しい。

千葉氏流椎名氏説

典拠史料 : 『千葉大系図』

記述内容の要約 : 「椎名胤仲が椎津三郎と称して居城」

史料の性質と信頼性評価 : 千葉一族の系譜を記したもので、在地領主の起源として一定の説得力を持つ。ただし、後世の編纂物である点には注意が必要。

相馬氏一族説

典拠史料 : 『北条史料集』

記述内容の要約 : 「上総国市原郡椎津を本拠とした武士で相馬氏の一族という」

史料の性質と信頼性評価 : 敵方である後北条氏による同時代の情報を含む編纂物であり、客観性は比較的高いと考えられる。ただし、椎津氏と相馬氏の具体的な関係性の詳細は不明。

第二章:主君・小弓公方足利義明の興亡

椎津行憲の生涯を語る上で、その主君である小弓公方・足利義明の存在は不可欠である。義明の野心と挫折の軌跡は、そのまま行憲の運命に直結していた。ここでは、義明が房総に一大勢力を築き上げ、やがて後北条氏との決戦に至るまでの過程を追い、その人物像を再評価する。

第一節:小弓公方の成立と房総における勢力拡大

足利義明は、室町幕府の関東統治機関であった鎌倉公方の後継、古河公方・足利政氏の子として生まれた 21 。当初は鶴岡八幡宮の僧侶(空然)であったが、父・政氏と兄・高基が関東の覇権を巡って争った「永正の乱」を契機に、彼の運命は大きく転換する 21

この内乱に乗じ、房総半島での勢力拡大を目論んだのが、上総の有力国人・真里谷武田氏の当主、武田信清(恕鑑)であった 22 。信清は、古河公方に対抗するための権威として、足利一門である義明に白羽の矢を立てた。永正15年(1518年)頃、信清に擁立された義明は還俗し、下総国小弓城(現在の千葉市中央区)を拠点として「小弓公方」を称するに至る 22

当初、義明は信清の傀儡に近い存在であったが、彼はその立場に甘んじる器ではなかった。自らが持つ「貴種性」、すなわち足利将軍家に連なる血筋という絶対的な権威を最大限に活用し、安房の里見氏をはじめとする房総の諸勢力を次々と味方につけていった 25 。さらに、里見氏内部で起こった家督争い「天文の内訌」や、支援者であった真里谷武田氏の家督争いに巧みに介入し、自派の候補を勝利させることで、傀儡の立場から脱却。房総半島における自らの影響力を絶対的なものへと高めていった 22 。こうして義明は、単なる地方勢力に担がれた貴人から、自らの意志で南関東の諸大名を束ねる、名実ともに独立した戦国期の権力者へと変貌を遂げたのである。

第二節:関東の覇権を巡る後北条氏との対立

義明が房総に確固たる地歩を築く一方で、関東の勢力図を塗り替えつつあったのが、伊豆・相模を制圧した新興勢力、後北条氏であった。初代・早雲の跡を継いだ北条氏綱は、武蔵国へと進出。大永4年(1524年)には江戸城を攻略し、東京湾西岸一帯を完全に支配下に置いた 23

この動きは、東京湾東岸を勢力圏とする小弓公方・真里谷氏・里見氏らにとって、死活問題であった。東京湾の制海権を後北条氏に掌握されることは、彼らの経済的・軍事的基盤を根底から揺るがす脅威であり、両者の対立は必然であった 23

ここに、複雑な同盟関係が生まれる。義明が打倒を目指す本家の古河公方(当主は甥の足利晴氏)と、関東での覇権確立を目指す後北条氏の利害が一致し、両者は強固な同盟を締結した 23 。これにより、義明は「古河公方」という関東の公的権威と、「後北条氏」という新興の実力者の両方から挟撃されるという、極めて困難な戦略的状況に追い込まれた。天文7年(1538年)、後北条氏が義明の勢力圏に隣接する武蔵国葛西城を攻略したことを受け、義明はこれ以上の後北条氏の進出を座視できず、自ら決戦を挑むべく、国府台への出陣を決意するのである 23

第三節:足利義明の人物像評価

第一次国府台合戦における足利義明の采配、特に北条軍の渡河中に攻撃を仕掛けるという有利な策を退けたとされる逸話は、後世の軍記物語において、彼の性急さや傲慢さを示すものとして「無謀」「猪武者」といった評価を生んできた 3

しかし、この評価は一面的に過ぎる可能性がある。例えば、『鎌倉公方九代記』は義明を「当代無双の英雄」と高く評価しており、実際に彼が房総の複雑な内乱を勝ち抜き、後北条氏の進出を長年にわたって阻んできた政治的・軍事的手腕は並大抵のものではない 23 。この矛盾を解く鍵は、彼の行動原理を単なる武勇や性格の問題としてではなく、「貴種としての自負」と「戦国武将としての現実認識」の相克として捉えることにある。

義明は、自らの血筋の権威をもって、小細工ではない正々堂々の会戦で敵主力を粉砕することに、戦略的価値以上の意味を見出していた可能性がある。また、この合戦の記録の多くが、勝利者である後北条方の視点で書かれた軍記物語に依拠している点も忘れてはならない。彼らが義明の敗北をその個人的な欠陥に帰すことで、自軍の勝利を正当化し、劇的に演出したという「曲筆」の可能性も十分に考慮すべきである 26

結論として、足利義明は、旧来の権威が失墜し、実力が全てを決定する戦国乱世という新しい時代において、自らの「血」という古風な、しかし最後の切り札に全てを賭けた、時代の過渡期を象徴する悲劇的な人物であったと評価できる。椎津行憲をはじめとする家臣たちの運命は、この主君が挑んだ壮大かつ危険極まりない賭けに殉じる形で決定づけられたのである。

第三章:第一次国府台合戦と椎津行憲の最期

天文7年(1538年)10月、小弓公方と後北条氏の雌雄を決する戦いの火蓋が切られた。この第一次国府台合戦は、椎津行憲の生涯における最後の、そして最も輝かしい舞台となった。

第一節:合戦前夜 — 両軍の戦略と布陣

合戦の舞台となったのは、下総国の国府台(現在の千葉県市川市)と、江戸川を挟んでその対岸に位置する相模台(現在の千葉県松戸市)一帯であった 3 。国府台は下総台地の西端に位置する天然の要害であり、小弓公方連合軍はここに本陣を構えた 26 。対する後北条軍は、小田原から進発して江戸城に入り、さらに最前線の葛西城へと軍を進め、江戸川の渡河地点を窺った 26

小弓公方軍の布陣において、椎津行憲は重要な役割を担っていた。総大将・義明は、主力が布陣する国府台の北方、敵の渡河が予想される地点を見渡せる相模台に、行憲らの部隊を監視および前衛部隊として配置したのである 3 。これは、敵の初動をいち早く察知し、本隊が対応する時間を稼ぐための極めて重要な配置であった。

両軍の兵力については諸説あるが、後北条軍が小弓公方軍を数において圧倒していたことは、ほぼ間違いない。

表2:第一次国府台合戦における両軍の構成と兵力(推定)

陣営

小弓公方連合軍

総大将 : 足利義明

主要武将 : 里見義堯、真里谷信応、椎津行憲

推定兵力 : 約1万 30 とも、2,000余 26 ともされる。

後北条・古河公方連合軍

総大将 : 北条氏綱

主要武将 : 北条氏康

推定兵力 : 約2万 30

第二節:渡河作戦を巡る攻防と行憲の進言

10月7日早朝、北条軍はついに江戸川の渡河を開始した 30 。この動きを相模台から監視していた椎津行憲は、戦機を逃さなかった。『房總里見軍記』などの軍記物語によれば、行憲はただちに義明の本陣に駆けつけ、敵が半ば渡り終え、陣形が整わないところを急襲すべきであると進言したという 2 。これは兵法の要諦に適った、極めて合理的かつ効果的な戦術であった。

しかし、総大将の義明はこの進言を却下したとされる 3 。全ての敵が渡河し終えるのを待ち、堂々とこれを迎え撃つことを命じたのである。この決断は、小弓公方軍敗北の最大の要因として、多くの書物で批判的に記述されている 3

義明のこの不可解な決断の背景には、単なる彼の性格や傲慢さだけでは説明できない、彼が率いた連合軍の構造的な脆弱性が存在した。小弓公方軍の中核をなすはずの安房の里見義堯は、かつての内紛の経緯から義明に対して複雑な感情を抱いており、この戦いへの参加自体に消極的であったと見られている 3 。事実、里見軍は戦況が不利になると、自軍の損害を避けるために早々に戦線を離脱し、兵力を温存したまま撤退している 23

義明は、こうした一枚岩とは言えない連合軍の士気を鼓舞し、統率を維持するために、圧倒的な勝利を演出する必要に迫られていたのかもしれない。中途半端な奇襲ではなく、万全の態勢の敵主力を正面から粉砕することで、自らの武威と権威を房総の諸将に見せつけ、求心力を不動のものにしようとした可能性がある。第一次国府台合戦は、中央集権的な指揮系統を持つ後北条軍と、利害の異なる諸将の寄り合い所帯であった小弓公方連合軍の、組織力の差が勝敗を分けた戦いであった。椎津行憲のような忠実な直臣が命を賭して戦う一方で、里見義堯のような有力同盟者は自家の利益を優先して動く。行憲の悲劇は、この連合軍が抱える構造的欠陥の犠牲となった側面が極めて大きい。

第三節:相模台の激戦 — 先鋒としての奮戦と死

主君の命令は絶対であった。椎津行憲は、わずか200騎ほどの手勢を率い、渡河を終えて相模台に展開しつつあった数倍の後北条軍の第一陣に突撃した 2 。これは、後方の義明本隊が国府台から進軍し、戦闘態勢を整えるための時間を稼ぐという、生還を期しがたい極めて過酷な任務であった。

行憲の部隊は死力を尽くして奮戦した。しかし、五倍とも言われる圧倒的な兵力差の前には、次第に後退を余儀なくされる 3 。やがて義明の本隊が到着し、相模台は両軍が入り乱れる一大激戦地と化した。この乱戦の中で、椎津行憲は重傷を負った 3

彼の最期については、史料によって記述が分かれる。『房總里見軍記』などではその場で「討死した」と記される一方 2 、『椎津行憲』のWikipedia記事などが引く説では、「戦場からは離脱したが、このときの戦いで受けた傷がもとで、同年のうちに死去した」とされている 1 。後者の記述はより具体的であり、壮絶な戦闘を生き延びたものの、その傷が致命傷となった彼の壮絶な最期を物語っている。いずれにせよ、彼がこの相模台の戦いで、小弓公方のためにその命を散らしたことに疑いはない。

第四節:合戦の結末と歴史的影響

椎津行憲らの決死の奮戦も空しく、小弓公方軍の敗勢は覆せなかった。兵力と組織力に勝る後北条軍の猛攻の前に、連合軍は総崩れとなった。そして、乱戦の中で総大将・足利義明は、弟の基頼、嫡男の義純と共に討ち死を遂げた 3 。これにより、一代で房総に覇を唱えた小弓公方は、その創設からわずか20年で事実上滅亡したのである。

この戦いの勝利は、関東の勢力図を大きく塗り替えた。後北条氏は房総半島への影響力を決定的に強め、長年の宿敵であった古河公方をも事実上の支配下に置くなど、関東における覇権確立への大きな一歩を記すことになった 23 。一方、敗れた里見氏は、当主・義堯のしたたかな判断によって主力を温存したため、この敗戦を乗り越え、その後も長きにわたって後北条氏と房総の覇権を巡り、激しく争い続けることになる 33

結論:椎津行憲という武将の歴史的評価

椎津隼人佐行憲。その生涯を追うことは、断片的な史料の海を航海するような困難な作業である。しかし、それらの断片を繋ぎ合わせることで、一人の武将の輪郭が浮かび上がってくる。彼は、主君への揺るぎない忠誠心、戦況を的確に判断する冷静な戦略眼、そして絶望的な状況下でも臆することなく敵陣に切り込む無類の武勇を兼ね備えた、戦国期における理想的な武士の一人であったと言えよう。

彼の生涯と死は、単なる一武将の悲劇に留まるものではない。それは、戦国期関東の歴史を読み解く上で、いくつかの重要な視座を提供してくれる。

第一に、彼の主君・足利義明の敗北は、古河公方という旧来の権威が、後北条氏という実力本位の新興勢力に屈していく時代の大きな転換点を象徴している。行憲は、沈みゆく船と運命を共にした忠臣であった。

第二に、彼の存在は、国衆と呼ばれる在地領主が、自らの存亡をかけて主君の野心に殉じた姿を体現している。彼の忠誠は、戦国乱世における主従関係のあり方を考える上で、貴重な事例を提供する。

第三に、彼の奮戦譜、特に「半渡の撃」の進言と、それが容れられなかった悲劇は、『房總里見軍記』などの軍記物語において、合戦の教訓や英雄像を形成するための格好の題材となった。我々が知る行憲像は、史実と物語が交錯する中で形作られてきたのである。

椎津隼人佐行憲の名が、戦国史の表舞台で大きく語られることはないかもしれない。しかし、彼の生と死を徹底的に追跡する作業は、我々に戦国乱世の関東を動かした、よりリアルで複雑な権力闘争のダイナミズムと、そこに生きた無数の武士たちの息遣いを確かに感じさせてくれる。彼の存在は、歴史が勝者によってのみ作られるものではないという、自明でありながら忘れがちな真実を、今なお雄弁に物語っているのである。

引用文献

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