榊原康政(1548年 - 1606年)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、主君である徳川家康を支え、江戸幕府の創設と安定に多大な貢献を果たした武将である。酒井忠次、本多忠勝、井伊直政と共に「徳川四天王」の一人に数えられ、その武勇は広く知られているが、康政の真価は戦場での活躍に留まらない。彼は卓越した知略、能筆家としての教養、そして藩主としての行政手腕をも兼ね備えた、まさに「文武両道」を体現した人物であった 1 。激動の時代にあって、彼の多岐にわたる才能は、徳川家が天下を掌握し、新たな時代を築く上で不可欠な要素となった。
特筆すべきは、康政が徳川家臣団の中で比較的低い身分から出発した点である。榊原家は元来、松平氏(後の徳川氏)の譜代家臣である酒井氏に仕える陪臣(家臣の家臣)であった 3 。そのような出自から、主君家康の最も信頼する側近の一人、そして徳川四天王という重臣へと昇り詰めた事実は、当時の徳川家臣団における実力主義的な側面と、康政自身の非凡な才能、そして弛まぬ努力がいかに評価されたかを物語っている 3 。家康は、家柄だけでなく個人の能力と忠誠心を見抜き、それを登用することで、強力な家臣団を形成していった。康政の立身出世は、その好例と言えるだろう。
本稿では、榊原康政の生涯を辿り、その出自と台頭、徳川四天王としての武功と知略、文武にわたる多才な側面、上野国館林藩初代藩主としての治績、そして彼の晩年と後世への影響について、現存する資料に基づき詳細に考察していく。
榊原康政は、天文17年(1548年)、三河国上野郷(かみのごう)(現在の愛知県豊田市上郷町)にて、榊原長政の次男として生を受けた 3 。幼名は於亀(おかめ)、または亀丸(かめまる)と伝えられ、後に通称として小平太(こへいた)を名乗った 3 。榊原家は、前述の通り、松平家の譜代家臣である酒井忠尚に仕える陪臣の家柄であった 3 。この出自は、後の康政の目覚ましい活躍と栄達を考える上で、重要な背景となる。
康政が歴史の表舞台に登場するのは、13歳の時である。永禄3年(1560年)、松平元康(後の徳川家康)に小姓として仕え始めた 3 。豊田市の郷土史家によれば、康政は幼い頃から学問を好み、菩提寺である大樹寺で学んでいた際に、その才能を家康に見出されたことが、仕官のきっかけとなったとされる 5 。小姓としての勤務は、主君の側近くに仕え、その薫陶を受けると共に、自身の能力を示す絶好の機会であった。
康政が初めて戦場に立ったのは、永禄6年(1563年)、16歳の時であった。当時、三河国では浄土真宗本願寺教団(一向宗)の門徒が蜂起した「三河一向一揆」が勃発し、徳川家康(当時は松平元康)は深刻な危機に直面していた。この一揆には、家康の家臣の中にも宗徒として参加する者が多く、家臣団が二分される事態となった 8 。康政の生まれ故郷である上野の城主、酒井忠尚も一揆方の中心人物の一人であった 5 。
この困難な状況下で、康政は上野城攻めに初陣として参加し、目覚ましい武功を挙げた 5 。その勇猛果敢な戦いぶりは家康に高く評価され、褒美として家康自身の諱(いみな)の一字である「康」を与えられ、「康政」と名乗ることを許された 3 。主君から諱の一字を賜る「偏諱(へんき)」は、武家社会において特別な信頼と期待を示すものであり、陪臣出身の若き武士にとっては破格の栄誉であった。これは単なる恩賞に留まらず、家康が康政の将来性を見込み、自らの影響下に強く結びつけようとした戦略的な意図も含まれていたと考えられる。この栄誉により、康政の徳川家臣団内での地位は一躍高まり、家康の寵臣として将来を嘱望される存在となった。
また、この時期に康政は兄・清政に代わって榊原家の家督を継いでいる 3 。その理由については、兄・清政が一揆に加担したため、あるいは謀反の疑いで自刃に追い込まれた家康の嫡男・松平信康の近習であったため、家康から疎まれたため、といった説が伝えられている 3 。いずれの理由であれ、この家督相続の背景は、戦国時代の武士の忠誠や立場がいかに流動的で、一族の運命を左右しうるものであったかを示唆している。兄の失脚(あるいはそれに類する状況)に対し、一揆で忠誠と武勇を示した康政が家督を継ぐことは、家康にとって榊原家の忠誠を確保する上で自然な選択であった。康政は、結果的にこの時代の不確実性の中から、自身の地位を確立する機会を得たのである。
西暦 |
和暦 |
年齢 |
主要な出来事 |
関連資料 |
1548 |
天文17年 |
1歳 |
三河国上野郷にて榊原長政の次男として誕生 |
3 |
1560 |
永禄3年 |
13歳 |
徳川家康の小姓となる |
3 |
1563 |
永禄6年 |
16歳 |
三河一向一揆で初陣、戦功により家康から「康」の字を賜る |
3 |
1570 |
元亀元年 |
23歳 |
姉川の戦いに参戦、第二陣の将として活躍 |
2 |
1572 |
元亀3年 |
25歳 |
三方ヶ原の戦いに参戦 |
1 |
1575 |
天正3年 |
28歳 |
長篠の戦いに参戦 |
7 |
1581 |
天正9年 |
33歳 |
高天神城の戦いで先陣を務める |
3 |
1584 |
天正12年 |
37歳 |
小牧・長久手の戦い、秀吉を挑発する檄文を作成 |
1 |
1590 |
天正18年 |
43歳 |
関東移封に伴い上野国館林10万石の城主となる |
1 |
1600 |
慶長5年 |
53歳 |
関ヶ原の戦い、徳川秀忠軍の軍監として従軍、戦後家康と秀忠の仲を調停 |
1 |
1606 |
慶長11年 |
59歳 |
館林にて病没 |
3 |
徳川家康の天下取りを支えた「徳川四天王」の一人として、榊原康政は数々の合戦で目覚ましい武功を挙げた。しかし、彼の貢献は単なる武勇に留まらず、戦況を的確に判断し、時には大胆な知略を用いる点にもあった。
元亀元年(1570年)、織田信長と同盟を結んでいた家康は、浅井・朝倉連合軍との間で起こった姉川の戦いに参戦した。この戦いで康政は、徳川軍の第二陣の将として出陣 2 。彼は機を見て朝倉軍の側面に巧みに攻撃を仕掛け、苦戦していた味方を助け、戦局を有利に導くきっかけを作った 3 。家康はこの康政の戦いぶりを目の当たりにし、「三河武士の模範とすべし」 8 、あるいは「この手の戦い方は、この度の康政が手本なり」 2 と称賛したと伝えられている。この評価は、康政が単に勇猛なだけでなく、戦術的な洞察力にも優れていたことを示している。
元亀3年(1572年)、家康は当時最強と謳われた武田信玄との三方ヶ原の戦いで、生涯最大の敗北を喫した。徳川軍が総崩れとなる中、康政も奮戦したが、敗勢を覆すには至らなかった 1 。しかし、康政はこの敗戦で意気消沈することなく、浜松城へ敗走する途中、あるいは帰還後に、勝利に油断していた武田軍の陣営に夜襲を敢行した 1 。この行動は、大勢に影響を与えるものではなかったかもしれないが、大敗を喫してもなお一矢報いようとする康政の不屈の闘志と気概を示す逸話として語られている。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いは、織田信長亡き後の覇権を巡り、徳川家康・織田信雄連合軍と羽柴(豊臣)秀吉が直接対決した唯一の戦いである 10 。この戦いに先立ち、家康は康政に命じて小牧山城の防御施設を改修させている 10 。戦いが膠着状態に陥る中、康政はその知略を発揮して戦況を動かした。
「檄文」事件: 康政は、秀吉の出自が低いこと、そしてかつての主家である織田家に対して弓を引く不忠義を痛烈に非難する内容の檄文(げきぶん)を作成した 2 。彼はこの檄文を敵味方の区別なく広く頒布し、高札として各所に掲げたのである 2 。これは単なる感情的な挑発ではなく、秀吉の性格的な弱点(出自に対する劣等感 2 )を的確に突き、心理的に揺さぶりをかけることを狙った高度な戦略であった。武家出身ではない秀吉にとって、出自に触れられることは最大の侮辱であり、康政は敢えてその点に踏み込んだ。案の定、檄文を読んだ秀吉は激怒し、康政の首に10万石という破格の懸賞金をかけた 1 。康政はこの挑発が秀吉軍の性急な反撃を誘発することを見越していた。そして、怒りに駆られて突出してきた秀吉軍の一部隊(森長可、池田恒興らが率いる部隊)を、康政は得意とする側面からの奇襲攻撃によって待ち伏せし、これを撃破した 1 。この戦果は、緒戦における徳川方の勝利に大きく貢献し、康政の知略と大胆さを示す象徴的な出来事となった。さらに、この戦いでは、崩れた豊臣秀次(秀吉の甥)の軍勢を追撃し、森長可や池田恒興といった敵の有力武将を討ち取るという大きな武功も挙げている 3 。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、康政は家康の三男であり、徳川家の後継者である徳川秀忠の軍に従い、軍監(軍の監督・指導役)として中山道を進軍した 1 。しかし、秀忠軍は道中の信濃国上田城に籠る真田昌幸の巧みな戦略に翻弄され、城攻めに予想以上の時間を費やしてしまった。康政は上田城攻撃の継続に反対し、早期に関ヶ原へ向かうよう進言していたとされるが 3 、結果的に秀忠軍は9月15日の関ヶ原の本戦に間に合わないという、致命的な失態を犯してしまった 1 。
この報を受けた家康は激怒した。後継者である秀忠のこの失態は、徳川家の将来にも関わる重大な問題であったからである。しかし、この時、康政は自らの危険を顧みず、激高する家康に対して秀忠を熱心に弁護した。資料によっては、康政が逆に家康を叱責するほどの強い態度で父子の仲を取り持ったと記されている 1 。この康政の必死の擁護により、秀忠は家康の勘気を解かれ、後継者としての地位を失わずに済んだ。この行動は、単に家康個人への忠誠を示すだけでなく、徳川家の将来の安定を見据えた、深い洞察力と責任感の表れであった。主君の怒りを買う可能性も高い諫言でありながら、それを実行した康政の行動は、徳川政権の円滑な継承において極めて重要な役割を果たしたと言える。
康政の武功は上記の戦いに留まらない。天正9年(1581年)の武田氏との高天神城の戦いでは先陣を務め、40余りの首級を挙げる活躍を見せた 3 。また、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、家康の主要な合戦の多くに参戦し、常に第一線で戦い続けた 7 。
軍事書『武備神木抄』においては、康政の部隊指揮能力は同僚の本多忠勝をも上回り、井伊直政と並び称されるほどであったと評価されている 3 。特に、遊撃隊を率いて機動的に動き、敵の側面を突いたり、戦線の膠着状態を打開したりする戦術を得意とした 1 。これは、本多忠勝が「天下無双」と称えられた正面からの突破力とは異なる、康政独自の戦術的専門性を示している。家康が、このように異なるタイプの指揮官を擁していたことは、徳川軍が多様な戦況に対応できる、洗練された軍事組織であったことを示唆している。康政の機動的な戦術は、徳川軍に柔軟性と適応力をもたらし、数々の勝利に貢献した重要な要素であった。
榊原康政は、戦場での勇猛さで知られる一方で、深い教養と優れた実務能力を兼ね備えた「文武両道」の将であった。その多才ぶりは、彼の人物像をより深く理解する上で欠かせない要素である。
康政は武芸だけでなく、学問にも熱心であったことが伝えられている。特に書においては達筆で知られ、その能力は主君・家康にも高く評価されていた 1 。家康の右筆(ゆうひつ、秘書官)として、重要な書状や文書の代筆を務めることも多かったという 1 。13歳で家康に初めて謁見した際にも学問に励んでいたという逸話 2 は、彼の知的好奇心と勤勉さを物語っている。この能筆家としての側面は、彼が単なる武人ではなく、高度な実務能力と教養を身につけた知識人でもあったことを示している。戦国時代から江戸時代初期にかけて、行政や外交における文書作成の重要性は増しており、信頼できる高位の武将が書記業務もこなせることは、情報管理の効率化と機密保持の観点から、家康にとって戦略的に極めて価値の高いことであった。康政はこの役割を通じて、軍事面だけでなく、政務においても家康を支える重要な存在となった。
康政の戦場での旗指物(はたさしもの、個人の識別標識)は、紺色の地に金色の円(日輪)と、同じく金色の「無」の一文字が描かれたものであったと伝えられている 2 。この「無」という一文字に込められた正確な意味については、残念ながら明確な記録は残されていない。しかし、「無私・無欲」の精神、「無名の一将でありたい」という謙虚さ、あるいは「この世に永遠不変のものは存在しない」という仏教的な「無我」の境地を目指したものではないか、など様々な解釈がなされている 2 。
この「無」の旗印は、家紋や勇ましい図像、神仏の名などを掲げることが多かった当時の武将たちの旗指物の中では、異彩を放っている。この抽象的で哲学的な象徴の選択は、康政が単なる武勇や功名心に留まらない、深い内省や独自の精神性を持っていたことを示唆している。禅における「無心」や「無我」といった、私心を捨て、状況に動じず、冷静に任務に集中するという理想的な精神状態を表していた可能性も考えられる。自己顕示よりも、精神的な境地や行動規範を重視する彼の姿勢が、この旗印に象徴されているのかもしれない。
康政の知的な側面は、戦場での策略や外交交渉の場面でも発揮された。小牧・長久手の戦いにおける秀吉への檄文は、彼の知略と大胆さを示す代表例である。
さらに注目すべきは、その後の和睦交渉における康政の役割である。小牧・長久手の戦いが和睦で終結した後、秀吉は最初の使者として、他ならぬ榊原康政を指名した 2 。自らを激しく罵倒した檄文を書いた張本人を指名したのである。康政は臆することなく上洛し、秀吉に謁見した。秀吉は康政に対し、あの時の檄文に示された志は立派であったと述べ、その胆力と功績を賞賛し、従五位下式部大輔(じゅごいのげ しきぶたいふ)の官位を授けた 2 。これは、家康の家臣としては初めての任官であり、秀吉は祝宴まで催したという 2 。この出来事は、いくつかの重要な点を示唆している。第一に、秀吉が敵対した相手であっても、その能力や気骨を正当に評価する度量の大きさを持っていたこと。第二に、康政自身が、非常に困難で危険を伴う可能性のあった外交任務を成功させ、敵将であった秀吉にさえ敬意を抱かせるほどの交渉術、冷静さ、そして人間的な威厳を備えていたことである。この一件は、康政が戦場だけでなく、高度な政治・外交の舞台でも活躍できる人物であったことを証明している。
また、家康の嫡男であった松平信康が粗暴な振る舞いを見せた際、康政は信康に諫言を行った。激怒した信康が弓で射殺そうとしたが、康政は全く動じず、冷静に自身の意見を述べ続けた。その毅然とした態度に、最終的には信康の方が折れて諫言を受け入れたという逸話も残っている 3 。これも、康政が相手が誰であろうと正しいと信じることを貫く、強い精神力と信念の持ち主であったことを示している。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原北条氏滅亡後、徳川家康は関東への移封を命じられた。これに伴い、榊原康政は上野国館林(現在の群馬県館林市)に10万石を与えられ、館林藩の初代藩主となった 1 。戦場での活躍が主であった康政にとって、藩主としての領国経営は新たな挑戦であったが、ここでも彼は優れた行政手腕を発揮した。
康政は館林藩主として、領地の安定と発展のために様々な施策に取り組んだ。まず、領内全域にわたる総検地(土地調査)を実施し、石高(領地の生産力)を正確に把握しようとした 7 。これは、年貢徴収の基礎を固め、公平な支配体制を確立するために不可欠な作業であった。
また、城郭と城下町の整備にも力を注いだ。館林城を修築・拡張し、藩の政治的・軍事的拠点としての機能を強化した 3 。さらに、文禄2年(1593年)には城下町の周囲に土塁や堀を巡らせる「惣構え(そうがまえ)」の普請に着手し、同4年に完成させている 7 。これは城下町の防御力を高めると共に、計画的な都市整備を進める意図があったと考えられる。現在も館林市内には、この時の土塁や堀の一部が残されている 7 。
領内のインフラ整備にも積極的に取り組み、特に利根川や渡良瀬川といった大河川の治水事業に力を入れた 3 。これらの河川はしばしば氾濫を起こし、領民の生活や農業生産に大きな被害を与えていたため、堤防の構築などによる治水対策は、領地の安定と生産力向上に直結する重要な課題であった。加えて、領内の街道整備も行い、交通網の改善にも努めた 7 。
さらに、領内の寺社保護にも配慮し、茂林寺や龍興寺などの有力寺院に対して禁制(禁止事項を定めた法令)を発給し、寺領の安堵(所有権の保証)を行った 3 。これは、地域の宗教的・文化的中心である寺社の権威を認め、領民の精神的な安定を図る目的もあったと考えられる。
これらの多岐にわたる施策は、康政が単なる武人ではなく、領国経営においても先見性と実行力を兼ね備えた為政者であったことを示している。彼の行った検地、城郭・城下町整備、治水事業、街道整備、寺社保護といった取り組みは、新たな支配体制下での地域社会の基盤を築き、江戸時代初期の大名に求められた「国づくり」を実践するものであった。
館林藩主となった後も、康政は徳川家の中枢との関わりを持ち続けた。文禄元年(1592年)の文禄の役(朝鮮出兵)の際には、家康の指示で江戸に留まり、若き日の徳川秀忠の警護および補佐役を務めた 4 。この時期に築かれた秀忠との関係は、後の関ヶ原の戦いにおける秀忠擁護へと繋がっていく。
関ヶ原の戦いの後、家康はその功績を高く評価し、康政に対して常陸国水戸25万石への大幅な加増転封を提示した。しかし、康政は「関ヶ原において自身には戦功がない」として、これを固辞したと伝えられている 3 。さらに、江戸幕府が開かれると、家康は康政を老中(幕府の最高職の一つ)に就けようとしたが、これも「老臣が権力を争うのは亡国の兆しである」と述べて断り、領国の館林へ帰ってしまった 3 。
この老中就任辞退の理由は、単なる謙遜や隠遁願望に留まらない、より深い政治的な意図を含んでいた可能性がある。新興の徳川幕府において、特定の功臣たちに権力が集中したり、組織が硬直化したりすることへの懸念、あるいは政権の健全性に対する警鐘であったとも解釈できる。
晩年の家康との関係については、複雑な側面が窺える。家康が、戦場で功績を挙げた武功派の家臣よりも、本多正信のような吏僚派(行政・実務担当)の家臣を重用するようになったことに対し、康政は不満を抱いていたとされる 3 。病床にあった康政を見舞いに来た使者に対して、「わしは腸(はらわた)が腐って死ぬであろう」と述べ、本多正信らを暗に「腐った腸」に例えて批判したという逸話 3 は、その不満の深さを物語っている。戦乱が終息し、国家運営の主軸が武力から行政へと移行する中で、康政のような武功派の重鎮が、新たな政治方針や権力構造に対して疎外感や違和感を覚えたとしても不思議ではない。このエピソードは、江戸幕府初期における武功派と吏僚派の間の潜在的な緊張関係を映し出している。家康との関係が「冷え込んでいた」 4 とされる背景には、こうした政治的な立場の違いがあったのかもしれない。
関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が成立し、世の中が新たな秩序へと移行していく中で、榊原康政もまた、その晩年を迎えることとなった。
関ヶ原の戦いにおける秀忠軍の遅参という失態を、康政は身を挺して擁護した。この行動は、秀忠に深い感銘を与え、秀忠は康政への恩義を生涯忘れなかったと伝えられている 4 。一方で、主君家康からの評価は、加増辞退という形で現れた。前述の通り、家康は康政の功績を認め、水戸25万石への加増を提示したが、康政はこれを固辞した 3 。資料によっては、10万石以上の加増は受けなかったとも記されている 4 。
この大規模な加増を断った康政の行動は、様々な解釈を呼ぶ。一つには、彼の潔さや、権力や富に対する執着の薄さを示すものと見ることができる。「関ヶ原での戦功なし」という理由は、謙遜と受け取ることもできるが、同時に、自らの働きに対する厳格な自己評価の表れとも言える。また、老中就任を辞退したことと併せて考えると、幕府の中枢から距離を置き、権力闘争に関わることを避けようとした、あるいは晩年の家康の政権運営に対する複雑な思いがあった可能性も否定できない。いずれにせよ、この行動は、彼の晩年の政治姿勢を象徴するものとして注目される。
慶長11年(1606年)5月14日(旧暦)、榊原康政は居城である上野国館林城にて、その生涯を閉じた 3 。享年59(満年齢では57歳または58歳)であった 1 。死因は、毛嚢炎(もうのうえん)、いわゆる「おでき」が悪化したことによるものと伝えられている 4 。
康政危篤の報は、駿府の家康、江戸の秀忠にも伝えられた。家康は見舞いの使者を、秀忠は医師や家臣を派遣し、その回復を願った 4 。死を目前にした康政は、家康からの使者に対しては、自身を批判していたとされる本多正信の安否を尋ね、家康の健康を気遣う言葉を残したという 4 。一方、秀忠からの使者に対しては、かねてより好んでいた鼓の演奏を所望し、共にその音色を楽しんだ後、「良い世の中を作ってほしい」と後事を託し、「自分が死んだ後は天狗となって蘇り、秀忠公を守護する」と約束したと伝えられている 4 。この最期の言葉、特に秀忠へのメッセージは、関ヶ原後の擁護によって築かれた両者の深い絆が、死の間際まで極めて強固なものであったことを示している。師父にも似た康政の存在は、二代将軍として歩み始めたばかりの秀忠にとって、大きな精神的な支えとなっていたであろう。
康政の死後、家督は三男の康勝が継承した 3 。しかし、康勝は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の最中に、嗣子がないまま持病の痔が悪化して若くして亡くなってしまう 12 。これにより、榊原家は断絶の危機に瀕した。
この事態に際し、徳川家康が自ら介入した。康政の長男・大須賀忠政(母方の実家である大須賀家を継いでいた)の子、すなわち康政の孫にあたる忠次(ただつぐ)に榊原家の家督を継がせることを決定したのである 3 。これにより、榊原家の家名は存続することになったが、一方で大須賀家は断絶することとなった。家康が自ら介入してまで榊原家を存続させたことは、家康がいかに康政の功績を高く評価していたかの証左であると同時に、他の功臣たちの忠誠心を維持し、幕府の基盤を固めるための政治的な配慮でもあった。有力な功臣の家が安易に断絶することは、他の家臣たちの士気に関わる問題であり、家康はそれを避けたかったのである。これは、徳川政権下で忠誠を尽くせば、その家名は永続するというメッセージを家臣団に示す、巧みな政治判断であった。
その後、榊原家は姫路藩主などを務めたが、江戸時代中期、榊原政岑(まさみね)の代に、八代将軍徳川吉宗が進めた享保の改革における倹約令に反して派手な生活を送ったことが吉宗の怒りを買い、懲罰として姫路(播磨国)から石高は同じ15万石ながら実収は大幅に少ない越後国高田へ転封されるという出来事もあった 12 。
明治維新を経て、榊原家は子爵となった。現代においても、榊原家の子孫は続いており、現当主(17代)の榊原政信氏は、会社経営の傍ら、康政ゆかりの4都市(豊田市、館林市、姫路市、上越市)が持ち回りで開催している「榊原サミット」に参加し、地方創生に関する意見交換を行うなど、先祖の遺徳を顕彰する活動に関わっている 3 。また、姫路藩主時代に始まったとされる「姫路ゆかたまつり」にも、榊原家の子孫が参加し、先祖の墓参りを行っているという 13 。これらの活動は、榊原康政という人物が、時代を超えて地域の人々に記憶され、敬愛されていることを示している。
榊原康政は、戦国時代の動乱から江戸幕府の確立という、日本史上の一大転換期において、徳川家康の覇業を支え、新時代の礎を築いた重要な人物であった。彼の歴史的意義は、多岐にわたる側面から評価することができる。
第一に、徳川家康の天下統一と江戸幕府の成立に対する多大な貢献である。徳川四天王の一人として、姉川、三方ヶ原、小牧・長久手、関ヶ原といった主要な合戦において、その武勇と卓越した指揮能力を発揮し、徳川軍の勝利に貢献した。特に小牧・長久手の戦いにおける知略に富んだ檄文の活用や、関ヶ原の戦い後の秀忠擁護は、単なる武功を超えた、彼の政治的判断力と影響力の大きさを示すものである。さらに、外交交渉や館林藩主としての内政手腕も高く評価され、まさに多方面から家康の事業を支えた不可欠な存在であった。
第二に、康政は「文武両道」を体現した、質実剛健な武士の鑑(かがみ)として評価される。戦場での勇猛さだけでなく、能筆家としての教養を持ち、家康の右筆を務めるほどの知性を兼ね備えていた 1 。華美を嫌い、実直な人柄であったことは、「無」の一文字を染め抜いた旗印にも象徴されているように思われる。そして、主君である家康やその嫡男・信康に対しても、臆することなく諫言を行ったという逸話 1 は、彼の強い道徳観と、主家への真の忠誠心からくる勇気を示している。彼の生涯は、徳川家臣団における理想的な武士像の一つであり、その忠誠心、多才な能力、そして諫言をも厭わない道徳的な強さは、江戸時代の武士道における模範ともなった。
第三に、康政のキャリアは、戦国時代の激しい戦乱期から江戸時代初期の国家建設期への移行期そのものを体現している。彼の活躍の場は、戦場での指揮官から、領国経営者、そして幕政への助言者へと、時代の要請に応じて変化していった。これは、日本社会が武力による覇権争いの時代から、行政による統治と秩序の時代へと移行していく過程を、彼自身の人生が映し出していると言える。彼はまさに、二つの時代を繋ぐ架け橋のような存在であった。
最後に、彼の功績と人柄は、後世にも大きな影響を与え続けている。館林藩主としての善政は、地域の発展の礎となり、その名は現代に至るまで記憶されている。康政ゆかりの地で「榊原サミット」 3 が開催され、地域間の交流が続いていることは、彼が単なる歴史上の人物としてだけでなく、今なお地域の人々にとって敬愛され、誇りとなる存在であることを示している。榊原康政の生涯は、激動の時代を駆け抜け、新たな時代を築くために力を尽くした武将の理想像の一つとして、今後も語り継がれていくであろう。