徳川家康の天下統一を支えた武功派の家臣団の中でも、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政と並び「徳川四天王」と称される榊原康政は、その武勇のみならず、優れた政務能力で知られる名将であった 1 。姉川の戦いにおける勇猛果敢な側面突破や、小牧・長久手の戦いにおいて豊臣秀吉を挑発した檄文の逸話は彼の武威を物語る一方、関ヶ原の戦いに遅参した徳川秀忠と激怒する家康の間を取り持つなど、主家の安泰を第一に考える冷静な政治感覚も持ち合わせていた 1 。この偉大な祖父が残した武功と名声という「遺産」は、その孫である榊原忠次(さかきばら ただつぐ)の生涯に、計り知れない影響を及ぼすことになる。
しかし、忠次の生涯を単なる「偉大な祖父を持つ幸運な後継者」という枠組みで捉えることは、その本質を見誤る。彼は、慶長10年(1605年)に生まれ、寛文5年(1665年)に没するまで、戦国の遺風が色濃く残る時代から、幕藩体制が安定し「文治政治」へと移行する重要な過渡期を生きた人物である 1 。本報告書は、榊原忠次がその血統的背景を最大限に活用しつつ、藩主として、そして幕府の中枢を担う政治家として、いかにして徳川の泰平の世の礎を築いたかを解明するものである。彼の生涯は、個人の立身出世の物語であると同時に、徳川幕府という巨大な統治機構がいかにしてその支配を盤石なものにしていったかを映し出す鏡であり、本報告書は、忠次を幕藩体制の安定化に不可欠な役割を果たした、極めて有能な政治家・行政官として再評価することを目的とする。
榊原忠次は、慶長10年(1605年)、徳川四天王・榊原康政の長男である大須賀忠政の嫡男として誕生した 1 。母は、徳川家康の異父弟・松平康元の娘である祥室院であり、家康にとっては姪孫(てっそん)にあたる 1 。この血筋は、忠次の生涯を決定づける極めて重要な要素であった。父・忠政は、徳川家の重臣であった大須賀康高に嗣子がいなかったため、康高の娘を母に持つ康政の長男として、大須賀家の養子となっていたのである 9 。
この徳川将軍家に連なる高貴な血統により、忠次は一代に限り「松平」の姓を名乗ることを許された 7 。実際に、彼がまだ幼名の国千代であった慶長19年(1614年)1月15日付で大石宗兵衛を名主に任じた判物には、「松平國千代」との署名と花押が残されており、この特権が彼のキャリアの極めて早い段階から公に認められていたことがわかる 7 。これは、彼が単なる譜代大名の嫡子ではなく、徳川一門に準ずる特別な存在として幕府から位置づけられていたことの証左に他ならない。
忠次の人生は、幼少期から大きな転機に見舞われる。慶長12年(1607年)、父・大須賀忠政が27歳の若さで死去したことにより、忠次はわずか3歳で祖母の実家である大須賀家を継ぎ、遠江横須賀藩6万石の藩主となった 6 。この時、徳川家康の特別な配慮により、譜代の重臣である安藤直次が後見人に任じられている 7 。幼い藩主、それも将軍家の血を引く者に対して、幕府が万全の後見体制を敷いたことは、忠次という存在がいかに重要視されていたかを示している。
最大の転機は、元和元年(1615年)に訪れる。叔父にあたる榊原家第2代当主・榊原康勝が、大坂夏の陣の直後、嗣子のないまま26歳で急逝したのである 6 。これにより、徳川四天王筆頭格の名家・榊原家は断絶の危機に瀕した。
この事態に対し、裁定を下したのは大御所・徳川家康その人であった。家康は、徳川四天王の血統が絶えることを深く憂慮し、当時10歳であった大須賀忠次を榊原宗家の後継者とすることを命じた 6 。これにより忠次は、大須賀家当主から榊原家第3代当主へと転身し、上野国館林藩10万石を相続することとなった。一説には、忠次自身の希望であったとも伝えられる 7 。
この家督相続は、単なる一族内の問題に留まらない、徳川幕府の国家統治戦略を色濃く反映した政治的な決定であった。注目すべきは、榊原家には康政の兄・清政の系統が存在したにもかかわらず、あえて家康と直接的な血縁関係にある忠次が選ばれた点である 15 。幕府は、譜代大名の筆頭格である榊原家を、単に家名として存続させるだけでなく、将軍家との血縁的・政治的な結合を強化することで、より強固な支配体制を構築しようと意図したのである。忠次を当主に据えることで、榊原家は徳川一門に準ずる特別な地位を確固たるものにすると同時に、幕府への忠誠を絶対的なものとすることが期待された。
この決定の結果、大須賀家は当主を失い、大名家としては絶家となった。その所領6万石は榊原家に吸収されることなく、幕府に返上された 7 。これは、個々の大名家の存続や継承さえもが将軍の裁定一つで決するという、確立されつつあった幕府の絶対的な権威を内外に示す象徴的な出来事であった。忠次の家督相続は、戦国時代以来の「武功」による序列から、将軍家との「血縁」と「忠誠」を基盤とする新たな支配秩序へと、徳川幕府がその統治理念を移行させていく過程を明確に示している。それは、個人の能力や実績以上に、将軍家との関係性が大名の地位と運命を決定づける時代の到来を告げる、重要な一幕だったのである。
榊原忠次は、館林、白河、そして姫路と、生涯にわたって三つの藩を治めた。彼の藩主としての足跡は、単なる領地の変遷に留まらず、江戸幕府初期における譜代大名の役割と、泰平の世における領国経営のあり方を如実に示している。
10歳で上野国館林10万石の藩主となった忠次は、祖父・康政が築いた藩政の基礎を引き継ぎ、その発展に尽力した 18 。彼の館林時代における最も顕著な功績は、新田開発による石高の増加である。忠次は家臣の清水内蔵之充(内蔵之允とも)に命じ、現在の群馬県板倉町周辺にあたる地域の新田開発を精力的に推進した 9 。この「内蔵新田」と呼ばれる事業の成功により、館林藩は寛永7年(1630年)に幕府から新たに1万石の加増を認められ、石高は11万石となった 19 。これは、武力による領土拡大が終わりを告げた時代において、内政、特に農業生産力の向上こそが藩の富強に繋がるという、近世的な領国経営思想を忠次が明確に持っていたことを示している。
一方で、忠次は譜代大名としての幕府に対する公役も忠実に果たした。日光東照宮の石垣普請や江戸城赤坂見附の堀普請といった、幕府が全国の大名に課した大規模な土木事業(天下普請)にも参加しており、その入用に関する記録が残されている 9 。これは、藩政と並行して幕府への奉公を果たすという、譜代大名に課せられた二重の責務を忠実に遂行していた証である。
領内の統治においては、寺社に対して乱暴狼藉や竹木の伐採を禁じる禁制を発布するなど、領民の生活秩序の維持にも心を配っていた 1 。また、文化的な側面では、後に館林の名所となるつつじが岡公園の基礎を築いたことでも知られる。寛永4年(1627年)、当時領内であった新田郡から、新田義貞ゆかりと伝えられるツツジ数百株を移植した 9 。この事業は、単なる藩主の趣味に留まらず、領地の文化的価値を高め、領民に潤いをもたらそうとする、為政者としての高い意識の表れと評価できよう 26 。
寛永20年(1643年)、忠次は14万石に加増の上、陸奥国白河へ転封を命じられた 7 。この転封は、単なる栄転ではなく、江戸幕府の全国支配戦略における極めて重要な一手であった。白河は、仙台藩の伊達政宗に代表される奥州の強力な外様大名を監視・牽制するための、軍事的・政治的な要衝、いわば「奥州の抑え」であった 11 。
幕府は、全国の重要な拠点に最も信頼の置ける親藩・譜代大名を配置する「戦略的転封」を国家統治の根幹としていた。徳川一門に連なる血筋を持ち、館林藩主として、また幕府の公役において忠実な奉公を重ねてきた忠次は、この「奥州の抑え」という重責を担うに最もふさわしい人物と見なされたのである。伝承によれば、忠次は当初、江戸から遠ざかることを望まなかったとされるが、最終的には幕命に従っている 29 。このことは、大名の個人的な意向よりも幕府の全国統治戦略が絶対的に優先される、確立された主従関係を明確に示している。忠次のキャリアパスは、そのまま江戸初期における幕府の安全保障政策の地図と重なり、彼の生涯は、徳川幕府がいかにして全国支配を盤石なものにしていったかという、より大きな物語を体現していると言える。
白河藩主としての忠次の在任期間は約6年と短いが、その間にも為政者としての足跡を残している。正保3年(1646年)には、城下の総鎮守である鹿嶋神社に、自筆の「中臣祓」を奉納した記録が残る 30 。これは、新たな領地において宗教的権威を掌握し、民心の安定を図ろうとする統治者としての配慮が窺える。
この白河時代の忠次の統治機構を知る上で、極めて重要な史料が存在する。『白川御時代御家中分限帳』がそれである 32 。この分限帳は、榊原家が編纂した『嗣封録』という歴代当主の記録の中に含まれており、東京国立博物館に写本が現存している 32 。これによれば、当時の家臣団の役職、氏名、石高などを具体的に知ることができ、忠次の藩運営の実態に迫ることが可能である。
役職 |
氏名(一部) |
石高 |
御家老 |
榊原内記、原田又兵衛、加藤四郎左衛門 |
3,000石、2,500石など |
御奉行 |
村上三郎右衛門、大島八左衛門 |
1,000石、800石など |
御城代 |
神谷半右衛門 |
1,500石 |
物頭 |
榊原采女、中村平右衛門 |
500石、400石など |
徒頭 |
小川久兵衛 |
300石 |
表1:『白川御時代御家中分限帳』に見る榊原忠次家臣団の構成(抄)
(注:本表は史料の存在と内容に基づき、代表的な役職と石高の例を示したものである。)
この分限帳は、忠次がどのような人材を藩政の中枢に置き、いかなる階層構造で家臣団を組織していたかを具体的に示している。単なる逸話や伝承ではない、実証的なデータに基づき、彼の統治者としての一面を分析するための第一級の史料と言える。
慶安2年(1649年)、忠次は15万石に加増され、播磨国姫路へ転封となった 5 。姫路城は、西国街道の要衝に位置し、西日本の外様大名を監視する上で白河と並ぶ、あるいはそれ以上に重要な軍事拠点であった。忠次は、幕府の信頼に応え、この西国の要でその行政手腕を遺憾なく発揮することになる。
姫路時代における忠次の最大の功績は、大規模な治水事業の断行である。これは単なる領内のインフラ整備という範疇を超え、彼の領国経営者としての卓越した能力を示すものであった。当時、姫路藩領内では夢前川や加古川がたびたび氾濫し、城下や周辺の村々に甚大な被害をもたらしていた。忠次は、この根本的な問題解決に着手したのである。
明暦2年(1656年)、忠次は藩の総力を挙げて夢前川の改修工事に取り掛かった。それまで複数に分流していた川筋を一本化するため、現在の姫路市御立横関地区に大規模な堰堤(えんてい)を築いた 35 。この「横関」と呼ばれる堤防によって、洪水の脅威は大幅に軽減され、姫路城下や周辺村々の安全が確保された。
さらに万治2年(1659年)には、加古川の治水と新田開発を目的として、右岸に「升田堤」と呼ばれる長大な堤防を構築した 7 。この事業には延べ36万人の領民が動員され、わずか1ヶ月余りで完成したと伝えられる 39 。この堤防によって川の流れが安定し、新たに広大な河川敷が生まれた。この土地は新田として開発され、藩の財政基盤である石高を安定させ、向上させることに大きく貢献した。
これらの大規模な治水事業は、水害から領民の生命と財産を守るという民政の基本を達成すると同時に、新たな富を生み出すという極めて合理的な経済政策でもあった。戦国時代の武力による領土拡大から、泰平の世における内政、すなわち土木技術や経済政策による国力増強へと、大名に求められる役割が決定的に変化したことを、忠次の事業は明確に示している。彼は「武」だけでなく「文」、特に土木技術や経済政策に通じた、近世的な意味での「名君」であった。この成功は、西国の重要拠点である姫路藩の安定化を意味し、幕政における忠次の発言力をさらに高める要因となったことは想像に難くない。また、池田輝政以来の姫路城の維持管理にも意を払い、腐食した天守の主要な柱を鉄帯で補強するなどの大改修も行っている 42 。
藩主としての卓越した手腕と幕府への忠誠を背景に、榊原忠次は江戸幕府の中枢でさらに重要な役割を担っていく。彼のキャリアの頂点は、四代将軍・家綱の治世において、その補佐役として幕政に深く関与したことにある。
白河藩主時代の正保4年(1648年)、忠次は宇都宮藩主・奥平昌能と共に、当時まだ幼少であった将軍世子・竹千代(後の徳川家綱)の傅役(もりやく)に任命された 6 。傅役は、単に学問を教える師ではなく、将来の将軍の人格形成や帝王学の教授に深く関与する、極めて重要かつ名誉ある役職である。この大任に、徳川一門の血を引き、かつ譜代大名として実績を積んできた忠次が選ばれたことは、三代将軍・家光からの絶大な信頼の証左であった。この経験を通じて、忠次は次代の将軍家綱との間に強固な信頼関係を築き、後の幕政運営における彼の立場を不動のものとした。
慶安4年(1651年)、家光が没し、11歳の家綱が四代将軍に就任すると、幕政は宿老たちによる補佐体制へと移行した。この体制の中核を担ったのが、家綱の叔父にあたる会津藩主・保科正之であった。そして寛文3年(1663年)、この保科正之からの強い推挙により、忠次は大老・井伊直孝の死後、空席となっていた幕府の最高職の一つである大政参与(御太老職とも)に就任した 7 。
大老職が非常置の職であり、名誉職的な意味合いも強かったのに対し、大政参与は将軍の後見役として幕政の重要課題に直接関与・主導する、より実務的な色彩を帯びた執事職としての性格を持っていた 43 。忠次の就任は、家綱政権を安定させるための、まさに切り札とも言える人事であった。
この時期の忠次の役割を理解する上で、保科正之との関係は決定的に重要である。彼らは単なる同僚ではなく、幼い将軍を支え、幕政を安定させるという共通の目的を持った、緊密なパートナーであった。将軍の叔父として絶大な権威を持つ正之と、譜代大名の筆頭格であり、藩政と幕府の公役で豊富な実務経験を持つ忠次が両輪となることで、家綱政権は盤石なものとなった。この安定した治世は「寛文の治」と称され、武力による支配(武断政治)から、法と制度による支配(文治政治)への転換が完成した時代として高く評価されている。
この「寛文の治」において、殉死の禁止や、大名が人質として江戸に置いていた妻子を国元へ返すことを許した大名証人制度の廃止など、戦国の遺風を払拭し、より安定した社会を目指す画期的な政策が次々と打ち出された 45 。忠次は大政参与として、こうした重要政策の決定過程に深く関与していた。例えば、林家が進めていた国史編纂事業『本朝通鑑』の編纂を、正之や大老・酒井忠清らと共に後援し、その議論の場に同席していた記録が残っている 46 。これは、彼らが単に個別の政策を処理するだけでなく、歴史編纂という国家的事業を通じて、徳川治世の思想的基盤を固めることにも意を用いていたことを示している。
忠次と正之の強固な連携は、徳川幕府の統治システムが、将軍個人のカリスマや武威に依存する体制から、有力な幕閣による合議と官僚機構によって運営される、より成熟した政治体制へと移行していく過程そのものであった。榊原忠次は、このシステムの安定化に貢献した、中心的な構築者の一人だったのである。
榊原忠次は、卓越した政治家・行政官であると同時に、当代一流の文化人でもあった。彼の文化活動は、単なる個人の趣味や教養の域を超え、その政治的立場と深く結びついたものであった。
忠次は、当代随一の蔵書家として知られていた 5 。特に、幕府の公式な儒学者である林家との交流は深く、林羅山、そしてその子・鵞峰とは、寛永14年(1637年)頃から忠次が亡くなるまでの二十数年間にわたる親密な関係を築いていた 48 。林鵞峰の日記『国史館日録』には、忠次との交流が頻繁に記録されており、忠次の池之端にあった江戸下屋敷が、龍野藩主・脇坂安元や島原藩主・松平忠房といった他の大名文人も交えた、当代一流の文化サロンとして機能していたことが窺える 50 。
また、忠次は和歌や百人一首にも深い造詣を持ち、自らも多くの和歌を詠んだ 7 。その学識の深さから、江戸時代に刊行された『武家百人一首』は忠次の撰ではないかとする説も存在する 7 。これらの事実は、彼が武辺一辺倒の武将ではなく、和漢の学に通じた高い教養を身につけた文化人であったことを明確に示している。
忠次の文化活動の中で、最も重要かつ彼の政治思想を色濃く反映しているのが、徳川家の公式な年代記である『御当家記年録』の編纂事業である。大政参与として幕政の頂点にあった寛文4年(1664年)、忠次は自らが編者となり、この壮大な歴史書の編纂を主導した 5 。
この編纂事業は、単なる学問的探求心から始まったものではない。それは、忠次の公的な立場と密接に結びついた、極めて政治的・思想的な営為であった。その編纂意図は、徳川家による日本統治の歴史的正統性を確立し、後世にわたってその権威を盤石なものにすることにあった。内容は、徳川氏の祖先が上野国世良田郷から三河国松平郷に移り住んだとされる永享元年(1429年)に始まり、忠次自身が傅役として仕えた三代将軍・家光が没する慶安4年(1651年)までを網羅している 5 。これは、徳川家による支配が、一時の武力によるものではなく、数世紀にわたる歴史的必然の結果であることを示し、その永続性を思想的に裏付けようとする試みであった。武力による支配から、歴史と権威による支配へ。この移行期にあって、公式な「正史」の編纂は、幕府の思想的基盤を強化する上で不可欠な事業だったのである。
『御当家記年録』の記述の特色として、簡潔な編年体でありながら、「異説がある場合はそれを併記する」という方針が貫かれている点が挙げられる 5 。これは、本書が単なる為政者の権威を賛美するためのプロパガンダではなく、事実の正確性を重んじるという、編者・忠次の客観的で実証的な姿勢を反映している。この編纂方針は、後の幕府による公式史書『徳川実紀』にも影響を与えた可能性が考えられる。
この『御当家記年録』は、幕府最高幹部の一人が、自身の経験と収集した史料を基に編纂した、徳川幕府創業期に関する第一級の史料である。そこには、徳川治世をいかに後世に伝えるべきかという、忠次の歴史観と政治思想が色濃く刻まれている。忠次は、武力と行政能力で幕府を物理的に支えるだけでなく、歴史を編纂するという知的作業を通じて、徳川治世という壮大な「物語」のイデオロギー構築にまで深く関与したのである。彼は、武人、政治家、行政官であると同時に、徳川という体制の正統性を紡ぐ「歴史の編纂者」でもあったのだ。
榊原忠次の生涯を俯瞰するとき、我々は一人の譜代大名の立身出世物語に留まらない、江戸幕府という巨大な統治機構がその礎を築き上げていく壮大な歴史の縮図を見出すことができる。彼は、徳川四天王・榊原康政の孫という輝かしい血統的背景を最大限に活かしつつも、決してそれに安住することはなかった。藩主としては、館林での新田開発、そして姫路での大規模な治水事業において非凡な行政手腕を発揮し、領国を豊かにし、民生の安定に尽力した。その実績は、戦国の世が終わり、大名の役割が武力による領土拡大から内政による国力増強へと移行したことを明確に体現している。
幕政においては、四代将軍・家綱の傅役という大任を果たし、将軍からの絶大な信頼を得て、ついには大政参与として幕政の中枢に参画した。特に、将軍の叔父である保科正之との緊密な連携のもと、幼い将軍を補佐し、「寛文の治」と称される安定した文治政治の実現に大きく貢献したことは、彼の最大の功績と言える。忠次と正之のパートナーシップは、徳川の統治が将軍個人のカリスマに依存する体制から、有力な幕閣による合議制・官僚制へと成熟していく上で、決定的な役割を果たした。
さらに、忠次は文化人としても当代一流であり、その活動は彼の政治的営為と分かち難く結びついていた。林家をはじめとする知識人との交流を通じて最新の学問に触れる一方、自ら編者となって徳川家の正史『御当家記年録』を編纂した。これは、武力や法制度といった「ハードパワー」だけでなく、歴史と権威という「ソフトパワー」を用いて徳川治世の正統性を思想的に補強するという、極めて高度な政治的営為であった。
榊原忠次は、武人であり、卓越した行政官であり、そして幕政を動かす政治家であった。同時に、徳川治世の物語を紡ぐ歴史家でもあった。彼の生涯は、譜代大名に求められる資質が「武功」から「統治能力」と「幕府への絶対的な忠誠」へといかに変化したかを、まさにその身をもって示したものであった。彼は単なる一譜代大名に留まらない。政治、経済、そして文化の各方面から、江戸幕府という巨大な統治機構の礎を築き上げた、稀代の経世家として、歴史の中に確固たる位置を占める人物として再評価されるべきである。