最終更新日 2025-07-19

横山友隆

横山友隆は長宗我部元親に仕え、武功と内政で活躍した土佐の豪族。浦戸城番大将や代官を務め、元親の信頼厚く、四国統一を支えた。

土佐の驍将、横山友隆 ― 長宗我部家臣団における実像と生涯

序章:長宗我部史における横山友隆の位置づけ

長宗我部元親による四国統一という戦国史に刻まれる壮大な事業は、彼一人の力によって成し遂げられたものではない。その覇業の背後には、主君の野望を自らの武勇と知略で支えた数多の家臣たちの存在があった。本報告書では、その家臣団の中にあって、武功、内政、そして信仰の各面において極めて重要な役割を果たした土佐の豪族、横山友隆(よこやま ともたか)の生涯に焦点を当てる。

元親のような大名本人とは異なり、その家臣である一武将の生涯を正確に追跡する作業は、必然的に困難を伴う。その記録は『土佐物語』のような後世に編纂された軍記物や、断片的な伝承の中に散見されることが多い。しかし、幸いにも横山友隆に関しては、長宗我部氏が実施した検地の記録である『長宗我部地検帳』に、その具体的な活動を示す記述が残されている。本報告書は、これら性質の異なる史料群を慎重に比較検討し、時にその矛盾点を考察することで、一人の武将の実像を可能な限り立体的に再構築することを目的とするものである。

第一章:介良の土豪・横山氏の系譜

一族の淵源

横山氏の出自は、遠く相模国を本拠とした武蔵七党の一つ、横山党の末裔と伝えられている 1 。その一族が土佐の地に根を下ろしたのは鎌倉時代に遡る。建仁3年(1203年)、横山朝泰なる人物が土佐国介良庄(けらのしょう)に入部したのがその始まりとされ、以来、戦国時代に至るまで三百数十年という長きにわたり同地を支配し続けた、由緒ある土豪であった 3

本拠地の戦略的価値

横山氏が本拠としたのは、介良に築かれた平山城である花熊城(はなくまじょう)、別名を横山城とも呼ばれる城であった 1 。さらに、その東方に位置する標高170メートルの山頂には、有事の際の最終防衛拠点となる詰城(つめのしろ)として介良城が構えられていた 3

この介良という土地の地理的条件は、当時の土佐における勢力図を考える上で極めて重要である。介良は、長宗我部氏の本拠地である岡豊城と、土佐国の政治的中心地であった国府や、海上交通の要衝である浦戸湾岸地域との中間に位置していた。これは、岡豊城から土佐中央平野部への進出と制覇を目指す長宗我部国親にとって、その経路上に存在する横山氏が、決して看過できない戦略的障害であったことを意味する 4 。横山氏の存在は、国親の勢力拡大における初期の重要な試金石であり、その動向が土佐中央部の情勢を左右する鍵の一つであったと言える。

城跡の現状

かつての横山氏の栄枯盛衰を見つめてきた城跡は、現在もその痕跡を留めている。詰城であった介良城跡は緑地公園として整備されているが、往時の石垣の一部が残り、歴史の息吹を今に伝えている 5 。一方、本城であった花熊城跡には、城山八幡と共に、この地を治めた横山一族を祀る横山神社が建立されており、地域の人々によってその記憶が守り継がれている 6

第二章:国親の躍進と存亡の決断

天文年間の攻防

天文16年(1547年)、岡豊城を拠点としていた長宗我部国親は、土佐国内での勢力拡大を本格化させる。国親はまず大津城の天竺氏を攻略すると、その勝利の勢いを駆って、隣接する介良の花熊城へと軍を進めた 4 。この時、花熊城にあって長宗我部軍を迎え撃った城主は、「横山九郎兵衛」であったと記録されている 4

「横山九郎兵衛」の正体に関する考察

横山友隆の通称が九郎兵衛であったことは、複数の資料で確認できる 7 。しかし、ここに一つの年代的矛盾が生じる。友隆の生年を1536年頃とする説に従うならば 7 、1547年の攻防当時、彼はまだ11歳前後の少年であり、一城の主として軍の采配を振るうには若すぎる。この事実から、国親に降伏した「九郎兵衛」は、友隆本人ではなく、その父である横山道範 7 、あるいは同名を名乗る先代の当主であったと考えるのが最も合理的である。友隆はその後、一族の家督を継承すると共に、当主が代々名乗った「九郎兵衛」という通称をも受け継いだと推察される。

臣従とその後

攻防の末、三百数十年にわたり介良の地を守ってきた横山氏は、新興勢力である長宗我部国親の軍門に降ることとなった。しかし、国親は横山氏を滅ぼすことなく、その所領を安堵するという寛大な処遇をもって遇した 3 。これにより横山氏は、独立した領主としての地位を失う代わりに、長宗我部家の家臣団の一員として一族の存続を保証されたのである。

この処遇は、長宗我部氏が旧敵対勢力を物理的に排除するのではなく、自らの軍事力、すなわち後の「一領具足」制度の中核として再編・吸収することで、急速に勢力を拡大していったという巧みな統治戦略の現れに他ならない。一方で、横山氏にとっては、これは戦国乱世を生き抜くための現実的な生存戦略であった。横山友隆が後に長宗我部家のために発揮する忠誠と武功の基盤は、まさにこの存亡の決断の時に築かれたのである。

第三章:元親の覇業を支えた武功

土佐統一の分水嶺「八流の戦い」

永禄12年(1569年)、長宗我部元親は土佐東部に君臨する最大勢力・安芸国虎との決戦に臨んだ。この「八流の戦い」は、元親による土佐統一を事実上決定づけた、歴史的な分水嶺となる合戦である。この重要な戦いにおいて、横山友隆が目覚ましい武功を挙げたことは、複数の史料が一致して伝えている 2

この戦いにおける友隆の活躍は、単なる一個人の武勇伝に留まらない、より深い意味を持っていた。かつて長宗我部氏に敵対し、降伏した旧豪族である横山氏にとって、この戦いは新たな主君・元親に対して、その忠誠心と実力を決定的な形で証明する絶好の機会であった。ここで示された「功」がなければ、その後の友隆の家臣団内における栄進はあり得なかったであろう。この事実は、戦国時代における主従関係が、単なる形式的なものではなく、実戦における具体的な貢献によって絶えず検証され、強化されていくという、厳しい社会の力学を如実に物語っている。

四国統一戦への従軍

友隆の武功は土佐国内に留まらなかった。土佐統一後、元親がその勢威を四国の他国へと拡大していく過程においても、友隆は一貫してその軍に従い、各地の戦役で活躍したとされる 9 。伊予、阿波、讃岐へと進む長宗我部軍の中で、友隆は中核を担う武将の一人として、その地位を不動のものにしていったと考えられる。具体的な戦功に関する詳細な記録は乏しいものの、一連の四国統一戦への従軍を通じて、彼は長宗我部家にとって不可欠な武将としての評価を確立していったのである。

第四章:信頼の証左 ― 城番大将から代官へ

要衝・浦戸城の城番大将

土佐中央部の雄であった本山氏を滅ぼした後、長宗我部氏にとって浦戸城はその戦略的価値を飛躍的に高めた。土佐湾に面し、水軍の拠点ともなるこの城は、領国の海の玄関口であり、防衛・経済の両面で最重要拠点であった 10 。元親は、この極めて重要な浦戸城の城番大将として、横山友隆を抜擢した 8 。この人事は、八流の戦いなどで示された友隆の武功と忠誠に対する、元親からの最大の信頼の証であった。

『長宗我部地検帳』に見る統率力

友隆が単なる名目上の城主に留まらなかったことは、長宗我部氏が実施した一大検地事業の成果である一次史料『長宗我部地検帳』の記述によって裏付けられる。そこには、友隆が「浦戸城詰ノ段に在城」し、「9人の給人を統率」していたと、具体的に明記されている 8

この記述は、彼の役割を解明する上で決定的に重要である。「詰ノ段」とは城の中枢区画を指し、そこに配置されたこと自体が、元親からの絶大な信頼を物語っている。さらに、「給人」とは、自らの家臣や兵員を抱え、主君から知行を与えられた武士を意味する。その給人を9人も統率していたという事実は、友隆が相当規模の直属部隊を指揮する権限と責任を有していたことを示している。これは、彼が単なる一騎当千の勇猛な武人であるだけでなく、部隊を組織し、管理・維持する能力に長けた、いわば「武官僚」としての一面をも併せ持っていたことを示す、極めて貴重な記録である。

長浜代官への転身

天正19年(1591年)頃、元親は本拠地を長年の岡豊城から、より支配の利便性が高い浦戸城へと移すという、一大政治決断を下す。これに伴い、友隆は浦戸城番大将の任を解かれ、新たに長浜の代官に就任した 7

この異動は、決して左遷を意味するものではない。むしろ、彼のキャリアにおける役割の転換を示すものである。軍事の最前線である城番大将から、長浜という重要地域(後述する若宮八幡宮の所在地でもある)の民政・行政を司る内政官へと転身したことは、友隆が軍事と内政の両面に通じた、多才な能力の持ち主であったことを証明している。主家の政策転換に柔軟に対応し、新たな役職においてもその能力を遺憾なく発揮し続ける、有能な家臣の姿がここから浮かび上がってくる。


表1:横山友隆関連年表

西暦(和暦)

横山友隆の動向・事績

長宗我部氏および土佐の主要な出来事

備考(史料出典など)

1536年頃 (天文5年頃)

(友隆、誕生か)

7

1547年 (天文16年)

(父か先代が)長宗我部国親に降伏、臣従する。

国親、介良・花熊城を攻略。

4

1560年 (永禄3年)

元親、長浜の戦いで初陣。父・国親死去。

11

1569年 (永禄12年)

八流の戦いで安芸国虎勢を破る武功を立てる。

元親、安芸氏を滅ぼし土佐東部を平定。

8

(永禄12年以降)

浦戸城の城番大将に任ぜられる。

元親、本山氏滅亡後の浦戸城を拠点化。

8

(時期不詳)

若宮八幡宮、土佐一宮神社の造営に尽力。

元親、若宮八幡宮を篤く崇敬。

7

1591年頃 (天正19年頃)

長浜の代官に就任。

元親、本拠を浦戸城へ移す。

7

1599年 (慶長4年)

4月8日、死去。(有力説)

5月19日、主君・元親が伏見で死去。

7

1615年 (元和元年)

(子・将監か)大坂夏の陣で盛親に従い戦死。(異説)

長宗我部盛親、大坂の陣で敗れ刑死。

7


第五章:信仰と造営事業

長宗我部氏の氏神・若宮八幡宮

高知市長浜に鎮座する若宮八幡宮は、長宗我部氏、特に元親にとって特別な意味を持つ神社であった。永禄3年(1560年)、元親が初陣である長浜城攻めに臨んだ際、この神社の馬場先に陣を構え、戦勝を祈願して見事に勝利を収めた。この故事に倣い、若宮八幡宮は以来、長宗我部家の出陣祈願の社として篤い崇敬を受けることとなった 12

元親の信仰心の篤さは、社殿の改築にも表れている。彼は、後退せずに前にのみ進むことから「勝ち虫」と呼ばれ、武士の間で縁起が良いとされた蜻蛉(とんぼ)にあやかり、社殿を「出蜻蛉(でとんぼ)式」と呼ばれる、まさに蜻蛉が飛び立とうとする姿を模した独特の建築様式に改めさせたことが有名である 12

友隆の貢献

この長宗我部家にとって精神的な支柱とも言える若宮八幡宮の造営事業に、横山友隆が深く関与し、尽力したことが複数の史料に記録されている 7 。主君の個人的な信仰の象徴であり、一族の武運を左右する神社の造営を任されるという事実は、単なる軍事・内政面での信頼を超えた、極めて人格的な信頼関係が元親と友隆の間に存在したことを示唆する。友隆が、主君の精神的な領域にまで踏み込むことを許された、腹心に近い存在であった可能性がここから浮かび上がる。この事業への関与は、彼の家臣団内における地位の高さを物語る、何よりの証拠と言えよう。

土佐一宮神社への関与

友隆の宗教的事業への貢献は、長宗我部家の氏神に留まらなかった。彼は若宮八幡宮だけでなく、土佐国において最も社格が高いとされる土佐一宮神社(現在の土佐神社)の造営にも尽力したと伝えられている 7 。この事実は、彼の活動が主家の個人的な信仰の枠を超え、土佐国全体の宗教的権威に関わる事業にまで及んでいたことを示しており、その影響力と、長宗我部政権内における彼の公的な立場の重要性を物語っている。

第六章:最期の考察 ― 二つの没年説をめぐって

横山友隆の最期については、二つの異なる説が伝えられており、その生涯の終わり方に謎を投げかけている。

慶長4年(1599年)死去説

最も有力とされる説は、友隆が慶長4年4月8日に死去した、というものである 7 。この説は、具体的な月日が記されている点から信憑性が高いと考えられる。奇しくも、彼の主君である長宗我部元親が伏見の屋敷で病没するのが、同年の5月19日である 15 。この説が正しければ、友隆は生涯を捧げた主君の死を見届けることなく、その約1ヶ月前にこの世を去ったことになる。

大坂の陣(1615年)戦死説とその真相

一方で、友隆は16年後の慶長20年(元和元年、1615年)に、元親の子・盛親に従って大坂の陣に馳せ参じ、豊臣方として戦い、壮絶な戦死を遂げたという説も根強く伝えられている 7

しかし、この説を伝える資料の多くは同時に、「友隆本人か、その息子(将監?)かは不明」という注釈を加えており、事績の混同の可能性を示唆している 7 。関ヶ原の戦いで改易され、浪々の身となっていた旧主・長宗我部盛親が、大坂城で再起を図るとの報を受け、土佐から多くの旧臣たちがその旗の下に駆けつけた。友隆の息子で、通称を将監(しょうげん)と名乗る人物も、その一人であったと考えるのが最も自然な解釈であろう。

ここに、一つの「家の物語」が浮かび上がる。父・友隆が、長宗我部家の勃興期から最盛期にかけて、主君・元親に忠勤を尽くした生涯。そして、子・将監が、主家の没落という悲運の中、最後の当主・盛親に殉じて命を散らした壮絶な最期。この二代にわたる忠義の物語が、後世の軍記物などで語り継がれるうちに、一つの象徴的な人物像、すなわち「横山友隆」という名の下に融合・混同されていったのではないか。これは、個人の厳密な歴史的事実が、人々の記憶や物語の中でどのように変容し、一族の「家」の歴史として、より感動的で象徴的な物語へと再構築されていくかを示す、非常に興味深い事例である。

終章:横山友隆の歴史的評価

横山友隆の生涯を総括すると、いくつかの重要な歴史的評価が浮かび上がる。

第一に、彼は激動の時代を生きた地方豪族の典型的な姿を体現している。介良の地を三百数十年にわたり支配した独立領主の末裔として生まれ、より大きな権力である長宗我部氏への臣従という存亡の決断を経て、その新たな体制の中で自らの価値を最大限に発揮し、一族を存続させた。その軌跡は、戦国時代における数多の国人・土豪たちの運命を象徴している。

第二に、彼は武勇と内政手腕を兼備した、極めて有能な実務家であった。八流の戦いでの武功に代表される武人としての側面だけでなく、要衝・浦戸城の管理運営や、長浜代官として見せたであろう統率力と行政能力は、彼が長宗我部家の領国経営にとって不可欠な、バランスの取れた人物であったことを示している。

そして最後に、彼は忠誠と信頼の体現者であった。かつての敵でありながら主君・元親の絶対的な信頼を勝ち取り、軍事、内政、さらには主家の精神的支柱である信仰の領域に至るまで重用された事実は、彼の揺るぎない忠誠心と傑出した能力の高さを何よりも雄弁に物語っている。彼の如き有能な家臣たちの存在なくして、長宗我部氏の円滑な領国経営と、一時は四国を席巻した覇業は成り立ち得なかったであろう。

以上のことから、横山友隆は、四国の覇者・長宗我部元親の天下を足元から支え続けた、まさしく「驍将(ぎょうしょう)」と呼ぶにふさわしい武将として、戦国史の中に確固たる評価を与えられるべき人物である。

引用文献

  1. 土佐国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%9B%BD
  2. 土佐の国とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E3%81%AE%E5%9B%BD
  3. 介良城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2579
  4. 介良、花熊城、横山九郎兵衛さん〔3561〕2013/01/14 - ひまわり乳業 https://www.himawarimilk.co.jp/diary/?No=3561
  5. 介良城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8B%E8%89%AF%E5%9F%8E
  6. 土佐 花熊城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tosa/hanakuma-jyo/
  7. 横山友隆(1536?~1599?年) - 大坂の陣絵巻 https://tikugo.com/chosokabe/jinbutu/yokoyama/yokoyama-tomo.html
  8. 横山友隆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%8F%8B%E9%9A%86
  9. 横山友隆の紹介 - 大坂の陣絵巻 https://tikugo.com/osaka/busho/chosokabe/b-yokoyama.html
  10. 浦戸城跡、若宮八幡宮 - こうち旅ネット https://kochi-tabi.jp/model_course.html?id=12&detail=142
  11. 長宗我部元親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
  12. 高知県高知市|若宮八幡宮は長宗我部元親ファン必見!初陣の像もある戦勝祈願の神社 https://tokushimagoshuin.com/kouchi-wakamiyahatimangu-goshuin
  13. 若宮八幡宮 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/wakamiyahachimanguu.html
  14. 若宮八幡宮について http://wakamiya-kochi.com/about.html
  15. 長宗我部元親 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/motochika.html