横山長隆、前田家臣として賤ヶ岳で戦死。その死は家繁栄の礎、長知加賀藩重臣に。横山家は長隆の死を不滅の物語として継承。
加賀百万石と称された前田藩において、家臣団の頂点に君臨した「加賀八家」。その筆頭に数えられ、三万石という大名に匹敵する知行を誇った横山家は、江戸時代を通じて藩政に絶大な影響力を持ち続けた 1 。しかし、この名家の礎を築いたとされる初代・横山長隆(よこやま ながたか)が、主君である前田家に仕えた期間は、天正10年(1582年)の仕官から翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおける戦死まで、わずか一年余りに過ぎない 4 。
一人の武将の、あまりにも短い奉公。それが、なぜ三百年近くにわたる一族の繁栄の起点となり得たのか。本報告書は、この歴史的な問いを解明するため、諸史料を横断的に分析し、横山長隆の出自からその最期、そして死後に遺した影響に至るまで、生涯の全容を徹底的に追跡する。これにより、単なる悲劇の武将という側面だけでなく、その死をもって一族の未来を切り拓いた戦略家としての一面を浮き彫りにし、その実像と歴史的意義の再評価を試みるものである。
和暦(西暦) |
年齢 |
出来事 |
関連人物・場所 |
主要典拠 |
天文8年(1539) |
1歳 |
美濃国多芸郡の国人・横山時隆の子として誕生。幼名は清三郎。 |
横山時隆、美濃国多芸郡 |
4 |
不明 |
- |
多芸郡直江郷の杉弥左衛門の婿養子となり、清水城主・稲葉良通に仕える。 |
杉弥左衛門、稲葉良通 |
4 |
不明 |
- |
同僚と争い相手を殺害。稲葉家を出奔し、越前国へ逃れる。 |
美濃国、越前国 |
5 |
不明 |
- |
越前大野城主・金森長近に仕える。 |
金森長近、越前大野城 |
5 |
天正10年(1582)以前 |
- |
金森家を退き、越前府中で閑居。「半喜(はんき)」と号す。 |
越前府中 |
5 |
天正10年(1582) |
44歳 |
越前府中で前田利長に出仕し、旗奉行となる。次男・長知も共に仕える。 |
前田利長、横山長知 |
4 |
天正11年(1583) |
45歳 |
賤ヶ岳の戦いに柴田勝家方として参陣。前田軍撤退の際に殿(しんがり)を務め、近江国柳ヶ瀬にて戦死。 |
羽柴秀吉、柴田勝家、近江国柳ヶ瀬 |
4 |
横山長隆の前半生は、その出自からして複数の説が伝わっており、安定とは程遠い流転の連続であった。この時期の経験が、彼の武士としての性格を形成し、後の運命を決定づけることになる。
横山長隆の出自については、主に二つの系統の記録が存在し、そのどちらが事実に近いかについては議論の余地がある。
第一の説は、横山家自身が公式の記録として藩に提出した『横山家譜』などに記されているもので、長隆を美濃国の出身とするものである 4 。これによれば、長隆は天文8年(1539年)、美濃国多芸郡の国人であった横山時隆の子として生まれたとされる 4 。さらにその家系を遡ると、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて武蔵国で一大武士団を形成した「横山党」に行き着くとされる 11 。横山党は、小野妹子や小野篁を祖先に持つと称する小野姓の一族で、鎌倉幕府初期の権力闘争である和田合戦で北条氏に敗れた後、本拠地を失い、その一部が美濃国に移住したと伝えられている 5 。この説は、長隆が最初に仕官した稲葉氏が美濃の有力者であることと地理的に整合性が取れており、横山家が自らの権威を高めるために構築した公式の家系譜として、一定の信憑性を持つ。
第二の説は、『三州奇談』などの後代の編纂物に見られるもので、長隆を近江国の出身とするものである 4 。この説では、長隆は近江国横山村の住人で、近江源氏佐々木氏の末裔であるとされる。近江における横山氏は、佐々木信綱の子孫が高島郡横山に移り住んだことに始まるとの伝承があり 13 、長隆が最期を遂げた地が近江であることや、その墓所とされる場所が同国内にあることとの関連性から生まれた可能性が考えられる 4 。
これら二つの説を比較検討すると、後者が長隆の死没地との関連から生まれた伝承である可能性が高いのに対し、前者の美濃小野党説は、横山家が江戸時代を通じて自らの由緒として公式に主張し続けたものであり、そのキャリアの出発点とも矛盾しない。武家社会において、家の由緒や系譜は家格を決定づける重要な政治的要素であった。坂東武者の名門である横山党の末裔を称することは、加賀藩内で自家の地位を確立するための戦略的な選択であったと解釈するのが妥当であろう。
長隆の武士としてのキャリアは、波乱に満ちたものであった。史料によれば、彼はまず美濃国多芸郡直江郷の杉弥左衛門の婿養子となり、当時美濃で勢力を誇った清水城主・稲葉良通(通称、一鉄)に仕えた 4 。しかし、ここで同僚との間に諍いを起こし、相手を殺害するという刃傷沙汰に及んでしまう 5 。
この事件は、長隆の激しい気性を示すと同時に、当時の武士社会における「自力救済」の気風を物語る。主家の裁定を待たず、自らの名誉や尊厳を実力で守ろうとする行為は、決して珍しいものではなかった。とはいえ、主家の秩序を乱した以上、その地に留まることはできず、長隆は稲葉家を出奔し、隣国の越前へと逃れた。
新天地の越前で、彼は大野城主であった金森長近に仕官する 5 。出奔した身でありながら、すぐに別の有力大名に仕官できたという事実は、長隆が単なる粗暴な人物ではなく、それを補って余りある武芸や軍事的な能力の持ち主として評価されていたことを示唆している。彼は、自らの才覚を資本として主君を渡り歩く、戦国時代特有の流動的な実力主義の武士であった。
しかし、金森家での奉公も長くは続かなかった。長隆はほどなくして金森家を退き、越前府中で閑居の身となった。この時、剃髪して「半喜(はんき)」と号したと伝えられる 4 。この閑居は、単なる隠遁生活ではなく、自らの価値を最も高く評価してくれる新たな主君を探し、次なる飛躍の機会を窺うための戦略的な待機期間であった可能性が高い。この時期に、美濃や丹波に離散していた一族を呼び寄せたという記録もあり 4 、来るべき時に備えていた様子がうかがえる。
浪人生活を送っていた長隆に転機が訪れるのは天正10年(1582年)のことである。この年、彼は運命の主君と出会い、その一年後、日本の歴史を大きく左右する戦場でその生涯を終えることになる。
天正10年(1582年)、織田信長の家臣として越前府中(現在の福井県越前市)に所領を与えられていた前田利家に代わり、その嫡男である利長が城代として府中を治めていた。長隆はこの利長に出仕し、軍の旗を預かる重要な役職である旗奉行に任じられた 4 。この時、次男の長知(当時15歳)も父と共に利長に仕えている 4 。
ここで注目すべきは、長隆が前田家の当主である利家ではなく、その世子である利長に直接仕えたという点である。当時の利長は、父・利家とは別に独自の家臣団を編成し始めており、横山父子はその一員として迎えられた 8 。これは、長隆にとって極めて戦略的な選択であった。利家の家臣団には、奥村永福をはじめとする譜代の重臣たちが既に確固たる地位を築いており、刃傷沙汰の過去を持つ新参者の長隆がそこに割って入ることは容易ではなかった。
一方で、次期当主である利長が新たに形成しつつある家臣団は、まだ序列が固定化されておらず、実力次第で中心的な地位を掴むことが可能であった。長隆は、将来の権力の中枢に直接連なる道を選んだのである。この選択は、自らの息子である長知の将来をも見据えた、長期的な視野に立った布石であった。この利長との直接的な主従関係こそが、後に横山家が前田家中で特別な地位を占めることになる、すべての始まりであった。
仕官の翌年、天正11年(1583年)、本能寺の変後の織田家の主導権を巡り、羽柴秀吉と柴田勝家が近江国賤ヶ岳で激突する 15 。柴田方に与した前田利家・利長軍は、戦況が秀吉方に有利に傾くと、突如戦線を離脱し、本拠地である越前府中城への撤退を開始した 4 。
この決断は、味方を置き去りにする行為であり、裏切りとも見なされかねない、前田家にとって極めて不名誉なものであった。混乱の中、追撃してくる秀吉軍から本隊を逃がすため、誰かが最後尾で敵を食い止める「殿(しんがり)」という、生還の望みが薄い役割を担う必要があった。
この絶望的な状況で、殿役を自ら買って出たのが横山長隆であった。『北藩秘鑑』などの軍記によれば、利家と利長は長隆の武勇を惜しみ、当初は彼に府中城の留守居役という安全な役目を命じていた 4 。しかし長隆は、これを固辞する。利長が「復(また)尊躬(そんきゅう)ニカハラザルモノヲ差置カレ度トノ賢慮(あなたの代わりになる者はいないので、留守を守ってほしい)」と再三にわたって説得したにもかかわらず、長隆は御旗奉行として死地に赴くことを強く願い出たという 4 。
長隆の願いは聞き入れられ、彼は殿軍の将として近江国柳ヶ瀬(現在の滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬)の地に留まった 5 。彼は、主君である前田利家・利長の軍勢が無事に撤退するための時間を稼ぐべく、押し寄せる秀吉軍の大軍を相手に獅子奮迅の戦いを繰り広げた。この戦いで、前田軍は長隆のほか、富田景勝といった武将も失っている 15 。
奮戦の末、ついに敵兵に幾重にも包囲された長隆は、壮絶な討死を遂げた。享年45であった 5 。一説には、激戦地の近くにあった吉祥庵(きっしょうあん)の境内で自刃したとも伝えられている 16 。
この長隆の死は、単なる忠義の発露としてのみ解釈することはできない。これは、前田家が負った「戦線離脱」という汚名を雪ぎ、自らの一族に永続的な「政治的資産」を遺すための、計算された自己犠牲であった可能性が高い。新参者である彼が、主君の命令に背いてまで死地を選んだという行為は、彼の忠誠心をこれ以上ない形で証明するものであった。この死によって、彼は主君・利長に対して「命をもって返さねばならない恩」を負わせた。この行為こそが、息子・長知と横山家の未来を盤石にするための、長隆の生涯で最大かつ最後の戦略だったのである。
横山長隆の死は、一つの時代の終わりであると同時に、加賀藩における新たな名家の始まりを告げるものであった。彼が命と引き換えに遺したものは、息子・長知の代に開花し、横山家を不動の地位へと導いていく。
父・長隆の壮絶な戦死の後、息子の横山長知は主君・利長からその功を高く評価され、200石を与えられて家督を相続した 8 。これは、父が遺した「恩」が早速形となって現れた最初の事例であった。
利家が没し、利長が正式に前田家の当主となると、長知は利長の最も信頼する側近として金沢城に入り、若くして重臣の列に加えられた 8 。慶長4年(1599年)、前田家に徳川家康からの謀反の嫌疑がかけられた際には、長知が使者として大坂城に赴き、家康に直接弁明することで前田家の絶体絶命の危機を救うという大功を立てている 1 。
しかし、彼の異例の出世は、利家以来の古参家臣たちとの間に深刻な軋轢を生んだ。陪臣(利家の直接の家臣ではない)であり、いわば「落下傘」で重臣となった長知に対し、彼らの反発は根強かった 14 。この対立は、慶長7年(1602年)、長知が利長の密命を受け、家中における反徳川派の中心人物であった大聖寺城主・太田長知を暗殺するという、暗闘にまで発展した 1 。長知は、利長の藩内統治を強化するための「手足」として、汚れ役も厭わなかったのである。その結果、利長が後に記した遺言には、長知と他の重臣たちの不和を深く憂慮する一文が残されるほどであった 14 。
長知の成功と苦難は、父・長隆が遺した「忠死という名の政治的遺産」の光と影の両側面を体現していた。主君・利長からの絶対的な庇護は、同時に旧臣たちからの激しい敵意をもたらした。長知の生涯は、この父の遺産を巡る、加賀藩内での熾烈な政治闘争の歴史そのものであったと言える。
長知の代に確立された横山家の地位は、その子孫たちに受け継がれ、不動のものとなっていく。彼らは代々加賀藩の国家老職を世襲し、最終的に三万石という広大な知行を領する加賀八家の筆頭としての地位を確立した 2 。
横山家の家譜や藩の公式記録において、初代・長隆の賤ヶ岳での武勇伝は、一族のアイデンティティの中核として、またその特別な家格の根拠として、代々語り継がれていった 4 。横山家は、「主家が最も困難な時に、初代当主が命を捧げた」という、他のどの家臣も持ち得ない強力な物語を独占的に所有したのである。この物語こそが、他の家臣に対する圧倒的な優位性の源泉となった。
この家格は江戸時代を通じて維持され、明治維新後にはその功績と家柄から男爵を授けられるに至った 2 。一人の武将の、わずか一年余りの奉公と壮絶な死が、三百年にわたる一族の繁栄の礎となったのである。横山家の歴史は、長隆が自らの死をもって遺した「不滅の物語」というブランドを、巧みに維持し、活用し続けた歴史であった。
横山長隆の生涯は、史料の中だけでなく、彼が駆け抜けた土地に残る史跡や伝承の中にもその痕跡を留めている。
長隆が討死したとされる近江国柳ヶ瀬の古戦場近く、現在の滋賀県長浜市余呉町中河内には、吉祥庵(現在は曹洞宗吉祥院)という寺院がある 4 。この寺の境内が長隆の最期の地であり、その墓所が設けられたと伝えられている 4 。
この墓所の存在は、横山家にとって極めて重要な意味を持っていた。江戸時代、加賀藩主の参勤交代に随行した横山家の当主が、多忙な道中にもかかわらず、わざわざこの地に立ち寄り、初代・長隆の墓に参詣したという記録が『家譜』に残されている 4 。これは、一族が初代の忠死をいかに神聖視し、その記憶を継承することを大切にしていたかを示す、何よりの証拠である。
長隆の最期の地である近江には、もう一つ興味深い接点が存在する。長浜市高月町には「横山」という地名があり、そこには式内社である横山神社や、横山神社古墳群、横山遺跡といった古代からの史跡が点在している 19 。
この地名の存在が、第一部で述べた長隆の出自に関する「近江佐々木氏後裔説」を生む一因となった可能性は高い 4 。直接的な関係を証明する史料はないものの、こうした地名との関連性は、後世の一族が自らのルーツやアイデンティティを構築していく上で、様々な物語を生み出す土壌となったであろう。
横山長隆の生涯を詳細に追跡すると、彼が単に賤ヶ岳の露と消えた悲劇の武将ではないことが明らかになる。彼は、流転の末に掴んだ千載一遇の機会を逃さず、自らの死を最も効果的な形で演出し、一族に永続的な繁栄をもたらした、極めて優れた戦略眼の持ち主であった。
彼の人生は、特定の主人に縛られず実力でのし上がる戦国武士の苛烈な生存競争、主従関係の中に存在する複雑な政治力学、そして一つの「死」がいかにして強力な「物語」となり、後世の歴史を動かしていくかを鮮やかに示している。
したがって、横山長隆の歴史的評価は、「忠臣」という一言に留まるものではない。彼は、加賀藩最大の家臣団である横山家の三百年の繁栄を設計した、真の「創業者」として再評価されるべき人物である。彼の壮絶な最期は、終わりではなく、壮大な物語の始まりだったのである。