最終更新日 2025-07-30

横瀬景繁

横瀬景繁は、岩松氏の家臣でありながら実権を掌握し、古河公方家の内紛で活躍。武蔵須賀合戦で戦死したとされるが、史料批判によりその死因は不明。横瀬氏の下剋上を完成させた重要な人物。
「横瀬景繁」の画像

戦国期上野の権力者、横瀬景繁の実像:下剋上を継承し、飛躍させた武将の生涯

序章:下剋上を体現する一族と横瀬景繁という存在

本稿は、戦国時代の上野国(現在の群馬県)にその名を刻んだ武将、横瀬景繁(よこせ かげしげ)の生涯と、彼が属した横瀬一族の下剋上の実態を、多角的な史料を基に徹底的に解明することを目的とする。利用者が提示された「岩松家臣。成繁の子。『国繁以来三代超過の器量』と評された。古河公方家の内紛の際は、高基方に属し、各地で活躍した。武蔵須賀合戦に参陣した際、戦死」という概要は、景繁の生涯の要点を的確に捉えているが、その背景には、数世代にわたる権力闘争と関東地方全体の複雑な政治情勢が深く関わっている。本報告書では、この概要を遥かに超える深度で、一人の武将の実像と彼が生きた時代を浮き彫りにする。

横瀬景繁は、主家を凌駕する「下剋上」という時代の潮流を象徴する一族の中核を担った人物である。しかし、その具体的な功績や、特にその死をめぐる記録には錯綜が見られる。本稿では、祖父・国繁、父・成繁の代からの権力掌握の過程を詳細に追い、景繁がその中で果たした「橋渡し」としての役割を明確に定義する。さらに、彼の死因に関する「武蔵須賀合戦戦死説」について、史料批判を通じてその真相に迫る。

第一章:横瀬氏の出自と権力基盤の形成 ― 祖父・国繁の時代

第一節:横瀬氏のルーツと二重の権威戦略

横瀬氏の権力掌握の物語を理解するためには、まずその出自と、彼らが用いた巧みな権威戦略に目を向ける必要がある。横瀬氏は、その起源を武蔵七党の一つである猪俣党、さらに遡れば小野篁に連なる小野姓の武士団に持つとされている 1 。これは、彼らが関東の地に深く根差した在地領主としての正統性を持つことを示している。この出自は、関東の他の国人衆との連携や地域社会における影響力の基盤となった。

しかし、横瀬氏は在地領主としての出自に安住しなかった。彼らはより高次の権威を求め、のちに新田義貞の孫とされる貞氏を婿養子に迎えたという家伝を形成し、源氏の名門・新田氏の血を引くことを標榜するようになる 2 。この行動は、単なる家系の粉飾ではない。彼らの主家である岩松氏もまた新田一族の庶流であり、同じ新田の血を引くと主張することは、岩松氏と対等な立場、ひいてはそれを凌駕する権威を主張するための、極めて意図的な戦略であった。つまり、横瀬氏は「武蔵武士」としての地域的な正統性と、「新田一族」としての貴種性を併せ持つという二重のアイデンティティを構築したのである。この戦略は、彼らの下剋上が単なる裏切りではなく、正統な血統を持つ者による権力の回復であるという物語を、内外に示すための重要な布石であった 4

第二節:名宰相・横瀬国繁の活躍と権力掌握への布石

横瀬氏の下剋上の実質的な礎を築いたのは、景繁の祖父である横瀬国繁であった。彼は、15世紀後半の関東を揺るがした享徳の乱の最中、主君・岩松家純の腹心として目覚ましい活躍を見せた。当時、岩松氏は同族で分裂し争っていたが、国繁は家純を補佐してその統一に大きく貢献し、家中で絶対的な信頼を勝ち取った 6

国繁の功績は軍事面にとどまらない。文明元年(1469年)、彼は家純の命を受けて上野国の要衝に新田金山城を築城し、その儀式指南役を務めた 6 。これは、横瀬氏が岩松氏の領国経営の中枢を担っていたことを示す象徴的な出来事である。そして、その権力を決定的なものにしたのが、文明9年(1477年)の岩松家の後継者問題であった。家純が嫡男・明純を勘当するという重大な決断を下した際、国繁はその決定を執行する「壁書の執行者」に指名されたのである 2 。これにより、国繁は岩松家の「執事」として、事実上の最高権力者の地位を法的に確立した。

国繁の権力掌握は、武力による簒奪ではなく、主君への忠誠と卓越した実務能力によって信頼を得て、主家の内部から合法的に権力を委譲させていくという、極めて巧妙なものであった。彼は主君・家純との間では良好な主従関係を維持しつつ、岩松家の権力構造を内側から変質させ、自らがその中核を占めることに成功した。この国繁が築いた盤石な権力基盤があったからこそ、次代の成繁、そして景繁による下剋上の完成が可能となったのである 8

本章で見てきたように、横瀬氏は巧みな由緒戦略と国繁の卓越した政治手腕によって、主家の実権を掌握する土台を築き上げた。この盤石な基盤の上に、景繁の父・成繁の時代、下剋上を決定づける事件が起こることになる。

表1:横瀬氏と主家・岩松氏の権力関係の変遷

横瀬氏当主

岩松氏当主

主な出来事と権力関係の変化

横瀬国繁

岩松家純

良好な主従関係。国繁は筆頭家老として家純を支え、新田荘の統一と金山城築城に貢献。執事として実権の基礎を固める 6

横瀬成繁

岩松尚純

「屋裏の錯乱」を経て尚純を隠居させ、幼主・昌純(夜叉王丸)を傀儡として擁立。横瀬氏が完全に実権を掌握する 2

横瀬景繁

岩松昌純

傀儡の主君・昌純の名代として関東の動乱で活躍。主家の権威を利用し、横瀬氏の対外的な地位と支配を盤石なものとする 11

横瀬泰繁

岩松昌純・氏純

権力奪還を試みた昌純を攻め、自害に追い込む 6 。下剋上が事実上、最終段階に入り、主従関係が完全に形骸化する。

第二章:父・成繁の時代と「屋裏の錯乱」― 下剋上の決定的瞬間

第一節:対立の激化

祖父・国繁が築いた権力基盤を継承した景繁の父・横瀬成繁の時代、横瀬氏による下剋上は決定的な段階を迎える。その引き金となったのは、明応3年(1494年)の岩松家純の死であった 10 。絶対的な権威を誇った家純の存在によってかろうじて保たれていた岩松家内の均衡は、彼の死とともに崩壊した。

家純の後を継いだ当主・岩松尚純と、かつて家純によって勘当・隠居させられていたその父・明純は、国繁・成繁父子によって実権を掌握された現状に強い不満を抱いていた 2 。彼らは横瀬氏からの権力奪還を画策し、岩松家内部の対立は一触即発の状態となる。この対立は単なるお家騒動ではなかった。尚純・明純父子の背後には関東管領・山内上杉氏がおり、一方で横瀬氏は古河公方の支持を取り付けていた 2 。岩松家の内紛は、関東の二大勢力である古河公方と関東管領の代理戦争という側面を色濃く帯びていたのである。

第二節:「屋裏の錯乱」の勃発と横瀬氏の勝利

明応4年(1495年)4月、ついに事件が勃発する。横瀬成繁が戦傷の治療などのため、三百余人もの家臣を引き連れて草津温泉へ湯治に出かけるという、絶好の機会が生まれた 2 。この報を受けた岩松尚純・明純父子は、この隙を突いて反横瀬派の旗頭となり、下野国の有力国人である佐野氏の軍勢に金山城を攻撃させたのである 2 。当時の記録である『松陰私語』は、この時の成繁の行動を「大油断之時分也」と記しており、横瀬氏にとってまさに危機的状況であったことがうかがえる 14

しかし、金山城の守りは固かった。成繁は急遽帰還し、横瀬一族は籠城して尚純・佐野連合軍の猛攻を凌ぎきった 16 。戦況が膠着する中、横瀬氏の後ろ盾である古河公方・足利成氏が調停に乗り出す 16 。この仲介は、中立的なものではなく、明らかに横瀬氏に有利な形での決着を目指すものであった。

同年末に成立した和議の結果、岩松尚純は隠居を強制され、その幼い息子である夜叉王丸(のちの岩松昌純)が新たな岩松氏当主として擁立された 2 。もちろん、幼い夜叉王丸に実権はなく、その後見人となった横瀬成繁と、その嫡男である景繁が、名実ともに岩松領国の全権を掌握することになった。この一連の騒動は「屋裏の錯乱」と呼ばれ、横瀬氏による下剋上が事実上完成した決定的な瞬間として歴史に刻まれている 3 。この事件を通じて、横瀬氏は自らの軍事力と、関東の有力者である古河公方との強固な結びつきを内外に示し、その支配体制を盤石なものとしたのである。景繁は、この激動の時代に青年期を過ごし、父と共に権力闘争の最前線に立つことで、次代の指導者としての経験を積んでいった。

第三章:横瀬景繁の生涯と関東の動乱

第一節:家督相続と景繁の立場

父・成繁の死(文亀元年/1501年説と永正8年/1511年説がある 16 )に伴い、横瀬景繁は横瀬氏の家督と岩松家の筆頭家老職を継承した 11 。彼が立ったのは、祖父・国繁が築き、父・成繁が「屋裏の錯乱」を経て完全に掌握した、盤石な権力基盤の上であった。彼の主君は、父が擁立した傀儡の幼君・岩松昌純であり、景繁は主君の「名代(みょうだい)」として、岩松氏の権威を名目的に利用しながら、実質的な領国支配者として行動する立場にあった 11

利用者情報にも見られる「国繁以来三代超過の器量」という評価は、景繁がこの特異な状況下で果たした役割の重要性を示唆している。この評価は、景繁が祖父・国繁の老練な政治力、父・成繁の果断な決断力といった美点を受け継ぎ、さらに自らの武勇と外交感覚を加えて、一族をさらなる高みへと導いたことを示すものと解釈できる。彼の時代、横瀬氏は守勢から攻勢へと転じ、その活動範囲を新田荘という一地域から、関東全域へと大きく拡大させていくことになる。

第二節:関東の戦乱における活躍

景繁が家督を継いだ16世紀初頭の関東は、複数の勢力が複雑に絡み合い、戦乱が絶えない時代であった。景繁はこの動乱に積極的に介入し、横瀬氏の存在感を飛躍的に高めていく。

まず、長享元年(1487年)から続いていた山内・扇谷両上杉氏の抗争「長享の乱」において、景繁は山内上杉家方として参陣した 11 。特に永正元年(1504年)に武蔵国で発生した「立河原の戦い」では、主君・岩松昌純の名代として出陣し、山内上杉軍の中核として活躍した 19 。この戦いを通じて、景繁は関東の諸将にその武名を知らしめた。

さらに、関東の政治秩序の根幹を揺るがす「永正の乱」が勃発すると、景繁は巧みな政治判断で勝利者側につき、一族の地位をさらに強化した。この乱は二つの側面を持っていた。一つは、古河公方・足利政氏とその嫡男・高基の父子間の内紛である。景繁は、関東管領・上杉憲房と共に高基を支持し、その勝利に貢献した 6 。もう一つは、山内上杉家の家督相続を巡る内紛であった。関東管領・上杉顕定の死後、その後継を巡って養子の上杉顕実と上杉憲房が争うと、景繁は一貫して憲房を支持した 20 。永正9年(1512年)、景繁は足利長尾氏の長尾景長らと共に顕実方の拠点である鉢形城を攻め落とし、憲房の家督継承を決定づけた 22 。これらの戦功により、景繁は憲房から敵方であった成田氏の旧領を与えられるなど、具体的な領土拡大も果たしている 12

第三節:中央政権への接近と権威の確立

景繁の戦略は、関東内部での勢力拡大にとどまらなかった。彼は、自らの権威をより確固たるものにするため、関東を越えた中央政権、すなわち京の室町幕府との直接的な結びつきを模索した。永正11年(1514年)、景繁は上洛し、時の将軍・足利義稙(よしたね)に謁見するという画期的な行動に出る 20

これは、単なる儀礼的な拝謁ではない。当時、横瀬氏は形式上、岩松氏の家臣であり、さらにその岩松氏は山内上杉氏の麾下にあった。その家臣の家老という身分でありながら、主家や関東管領を飛び越えて将軍に直接謁見することは、自らが彼らとは別個の、幕府に直結した独立勢力であることを内外に宣言するに等しい、極めて大胆な政治的パフォーマンスであった。この上洛によって、景繁は横瀬氏の地位を飛躍的に向上させ、単なる一地方の国人領主から、中央にも認知される有力武将へと脱皮させたのである。

このように、景繁の時代は、父が力で確立した支配を、巧みな軍事・外交手腕によって安定させ、さらに権威付けを行うことで、横瀬氏を下剋上大名へと飛躍させる重要な過渡期であった。彼は傀儡の主君を立て続けることで急進的な変革に伴う反発を巧みに回避しつつ、実質的な支配を盤石なものにしていったのである。

第四章:景繁の死をめぐる謎 ― 史料批判的考察

横瀬景繁の生涯は、関東の動乱の中で輝かしい武功を重ねたものであったが、その最期については記録が錯綜しており、歴史的な謎の一つとなっている。

第一節:通説としての「武蔵須賀合戦戦死説」

利用者情報にもあるように、景繁の死因として広く知られているのが「武蔵須賀合戦戦死説」である。これは、横瀬氏が後世に編纂した家伝「由良文書」などの記録に基づくもので、景繁は大永3年(1523年)12月、武蔵国須賀(現在の埼玉県東松山市付近)での合戦に参陣し、そこで討ち死にしたというものである 11 。この説では、景繁の死後、子の国経(くにのり)が家督を継いだとされている 20 。この物語は、一族の最盛期を築いた当主の英雄的な最期として、由良氏(横瀬氏の後身)の間で語り継がれてきた。

第二節:史料批判による説の検証

しかし、この「須賀合戦戦死説」は、近代以降の歴史研究、特に『群馬県史 通史編3』などにおける厳密な史料批判によって、由良家の伝承における誤り、あるいは複数の事実の混同である可能性が極めて高いと結論付けられている 20

史料を詳細に再検討すると、横瀬氏の当主が戦死した「須賀合戦」は、実際には享徳の乱の最中である康正元年(1455年)に発生した合戦であることが確認されている 3 。そして、この戦いで討ち死にしたのは、横瀬景繁ではなく、彼の曽祖父にあたる横瀬貞国(さだくに)であった 6

また、「由良文書」で景繁の子とされる「国経」という人物も謎が多い。彼の経歴として記されている事績(古河公方高基方としての活躍など)は、実際には景繁自身のものと酷似している 19 。このことから、「国経」という人物は実在せず、景繁の別名であったか、あるいは後世に記録が編纂される過程で生じた混同や誤記であると見なすのが妥当である。

なぜ、このような混同が生じたのか。これは単なる間違いではなく、一族の歴史をより輝かしいものにしようとする、意図的あるいは無意識的な物語の創造であった可能性がある。一族の偉大な祖先である貞国の英雄的な戦死という出来事を、より名声の高い子孫である景繁の事績として語り継ぐことで、一族の歴史に一層の箔をつけようとしたのかもしれない。これは、戦国時代の武家が自らの由緒をいかに形成していったかを示す、興味深い一例と言える。

第三節:景繁の実際の没年

須賀合戦戦死説が否定される一方で、景繁の正確な没年については、確実な史料がなく、複数の説が存在する。比較的有力なものとして、永正17年(1520年)2月20日説と、大永2年(1522年)2月20日説が挙げられている 19 。いずれの説が正しいにせよ、須賀合戦があったとされる大永3年(1523年)より前に、景繁が合戦ではなく、病などによってその生涯を終えていた可能性が高いと考えられる。彼の死後、家督は嫡男の泰繁(やすしげ)が継承した 23

結論:下剋上完成への橋渡し

横瀬景繁の歴史的役割を評価する上で重要なのは、彼が自らの手で主君を討つという「下剋上」の最後の引き金を引いたわけではないという点である。その役割は、彼の息子である横瀬泰繁(成長した主君・岩松昌純の排斥計画を察知し、逆に攻めて自害に追い込む 6 )と、孫の由良成繁(由良姓に改姓し、名実ともに戦国大名となる 3 )に残された。

景繁の時代は、父・成繁が力で奪取した権力を、巧みな政治・外交手腕によって「安定」させ、一族の威光を関東全域に轟かせる「飛躍」を成し遂げた時期であったと総括できる。彼は、主君を傀儡として立て続けるという、一見すると中途半端にも見える体制を維持することで、急進的な権力簒奪に伴う内外の反発を巧みに回避した。そして、その安定した基盤の上で、関東の動乱に積極的に介入して武功を重ね、さらには将軍に謁見することで、横瀬氏の権威を飛躍的に高めたのである。

横瀬景繁は、祖父が築き、父が奪った権力を、次代が完全に掌握するための、不可欠な「橋渡し」役であった。彼の武勇、政治的嗅覚、そして権威を希求する戦略がなければ、横瀬氏による数世代にわたる下剋上の壮大な計画は、道半ばで頓挫していた可能性も否定できない。「国繁以来三代超過の器量」との評価は、この一族の野望を完成に導くための、最も重要かつ困難な段階を乗り切った彼の功績に対する、的確な賛辞と言えるだろう。彼の生涯は、戦国時代における権力移行の複雑さと、一族の野望を数世代かけて実現していくという、壮大な歴史のドラマを我々に示しているのである。

引用文献

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  11. 横瀬景繁 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%80%AC%E6%99%AF%E7%B9%81
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  13. まんが太田の歴史・岩松氏と金山築城 - 太田市ホームページ(文化財課) https://www.city.ota.gunma.jp/page/4131.html
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  15. 「歴史地名」もう一つの読み方:ジャパンナレッジ 第74回 草津 https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/howtoread/entry.html?16&entryid=83
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  19. 上毛風土記 「横瀬景繁 一息ついた安定期」 - FC2 http://nordeq.web.fc2.com/jinbutsu/kageshige.html
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