戦国時代の上野国(現在の群馬県)史において、「下剋上」という時代の潮流を最も鮮烈に体現した一族が横瀬氏です。主家である岩松氏の家臣でありながら、三代にわたる周到な計画の末にその権力を簒奪し、戦国大名・由良氏として飛躍する礎を築きました。その権力簒奪という長大な事業の最終段階を完遂し、歴史の転換点に立った人物こそ、本報告書の主題である横瀬泰繁(よこせ やすしげ)にほかなりません 1 。
泰繁の生涯は、主君・岩松昌純の暗殺という衝撃的な事件によって語られることが多く、その人物像は冷酷な簒奪者という一面的な評価に留まりがちです 1 。しかし、この下剋上は泰繁一人の野心による突発的な行動ではなく、祖父・成繁が実権を掌握し、父・景繁がその権力を安定させた末に訪れた、いわば必然の帰結でした。彼の行動を理解するためには、個人の資質のみならず、彼に至るまでの横瀬一族の執念、そして享徳の乱以来、権力構造が絶えず流動していた関東地方の複雑な政治情勢を深く考察する必要があります。
本報告書は、横瀬泰繁の生涯を多角的に検証することを目的とします。その出自から、権力掌握の過程、領国経営の実態、そして謎に包まれた最期に至るまでを丹念に追跡します。特に、後世の家伝によって生じた通説や史実の誤謬(ごびゅう)を、信頼性の高い史料に基づいて訂正し、権力簒奪の「完成者」としての泰繁の実像を、客観的かつ詳細に明らかにしていきます。
横瀬泰繁による主家打倒は、彼の代に始まったものではありません。それは、祖父の代から約半世紀にわたって周到に準備され、実行された長期的な計画の最終段階でした。この章では、泰繁が登場する以前の横瀬氏が、いかにして主家を凌駕する力を蓄え、下剋上への布石を打っていったのかを検証します。
横瀬氏の起源は、平安時代の貴族・小野篁(おののたかむら)を祖とするとされる武蔵国の武士団、武蔵七党の一角を占める猪俣党、あるいは横山党に連なる一族であったとされています 2 。その本領は、当初、上野国新田荘(にったのしょう)にありながら利根川を隔てて武蔵国側に位置する横瀬郷であり、この地名が氏の由来となりました 6 。
彼らが歴史の表舞台に本格的に登場するのは、源氏の名門・新田氏の庶流である岩松氏の被官(家臣)となったことによります。岩松氏に仕えることで、横瀬氏は上野国における政治の中枢へと進出する足掛かりを得たのです 6 。後年、戦国大名として独立した由良氏(横瀬氏の後身)は、新田義貞の子孫を養子に迎えたという伝承を根拠に「新田氏」を自称するようになりますが、これは下剋上によって得た新田荘の支配権を正当化するため、戦国期に創作された可能性が高いと考えられています 3 。
15世紀半ば、鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉氏の対立に端を発し、関東全域を約30年にもわたる未曾有の戦乱に巻き込んだ「享徳の乱」(1455年勃発)は、横瀬氏にとって大きな飛躍の契機となりました 10 。
当初、主家の岩松氏は古河公方・足利成氏方に属して戦いました 10 。この混乱の中、横瀬氏は岩松軍の中核として軍事・政治の両面で頭角を現し、家宰(家臣の筆頭)としての地位を固め、主家内部での影響力を飛躍的に高めていきました。
ここで、泰繁の経歴に関する重要な史実の訂正が必要です。ユーザー提供情報や一部の家伝、特に由良氏が編纂した「由良文書」などでは、泰繁の父・景繁が「武蔵須賀合戦」で戦死し、その際に泰繁自身も負傷したと記されています 5 。しかし、『群馬県史』をはじめとする近年の研究では、この須賀合戦は享徳の乱が始まった直後の康正元年(1455年)の出来事であり、この戦いで命を落としたのは泰繁から見て曽祖父にあたる
横瀬貞国 であったと結論付けられています 3 。この伝承の混同は、単なる記録ミスではなく、後世の由良氏が自家の歴史を編纂する過程で、権力簒奪を成し遂げた泰繁の代に武功と悲劇を集約させ、その支配の正統性をより劇的に演出しようとした意図的な「歴史の編集」の結果と見るべきでしょう。
下剋上の第一段階を断行し、その方向性を決定づけたのが、泰繁の祖父である横瀬成繁(初代)です。主君であった岩松尚純とその父・明純は、増大する横瀬氏の権勢を危険視し、その排斥を試みます。しかし、成繁はこれを機敏に察知し、逆に尚純らを攻め立てて返り討ちにしました 7 。
明応4年(1495年)に起きたこの一連の内紛は「屋裏の錯乱(やうりのさくらん)」と呼ばれます。この事件の結果、成繁は主君・尚純を強制的に隠居させ、その嫡男でまだ幼い夜叉王丸(後の岩松昌純)を新たな当主として擁立しました 14 。自らはその後見人として、岩松家の家政と軍事に関する一切の実権を完全に掌握します。この瞬間、主従の力関係は逆転し、上野の名門・岩松氏は事実上、横瀬氏の傀儡(かいらい)と化したのです。
泰繁の父・横瀬景繁の時代は、祖父・成繁が奪取した権力を盤石なものにするための「安定期」と位置づけられます。景繁は、傀儡の主君・岩松昌純の名代として、長享の乱や永正の乱といった関東各地で続く戦乱に積極的に介入しました 13 。
これらの戦いで戦功を重ねることで、横瀬氏は主家・岩松氏を凌駕する軍事力と、周辺勢力も無視できない政治的影響力を内外に誇示しました。祖父が内部から奪った権力を、父が外部との戦争を通じて確固たるものにしたのです。この一連の動きは、横瀬氏の下剋上が単なる一人の武将の野心によるものではなく、三代にわたる長期的な視野に立った戦略であったことを示唆しています。祖父が権力構造の逆転という 戦略的基盤 を築き、父がそれを 安定・強化 させ、そしてその遺産を継いだ泰繁が、最後の仕上げを行う舞台が整えられていったのです。
人物 |
泰繁との関係 |
役職・立場 |
須賀合戦(康正元年/1455年)との関わり |
備考(通説との比較) |
横瀬貞国 |
曽祖父 |
岩松家家臣 |
この合戦で戦死した当事者(史実) 6 |
「由良文書」などでは景繁が戦死したとされますが、年代的に矛盾します。 |
横瀬国繁 |
祖父 |
岩松家執事 |
貞国の跡を継ぎ、家督を相続しました。 |
|
横瀬景繁 |
父 |
岩松家筆頭家老 |
この合戦には関与していません。 |
通説で戦死者とされますが、これは誤りです 13 。 |
横瀬泰繁 |
本人 |
横瀬氏7代当主 |
この合戦には関与していません(まだ生まれていません)。 |
通説で負傷したとされますが、これも誤りです 4 。 |
父・景繁が盤石にした権力基盤を継承した横瀬泰繁は、ついに下剋上という一族の悲願を完成させる役割を担うことになります。しかし、その道は平坦ではなく、成長した傀儡の主君との宿命的な対決が待ち受けていました。この章では、泰繁がいかにして最後の障壁を乗り越え、名実ともに金山城主となったのかを詳述します。
父・景繁が没した(永正17年/1520年説、または大永2年/1522年説あり)後、泰繁は横瀬氏の家督を相続します 13 。彼が当主となった1520年代の関東地方は、権力の中心が大きく揺らいでいました。古河公方家では足利高基とその子・晴氏が家督を巡って争い、関東管領・山内上杉家でも上杉憲寛と憲政が後継者の座を巡って内紛を繰り広げていました。これらは「関東享禄の内乱」と呼ばれ、政治的な権威が著しく低下した権力の空白期間を生み出します 20 。このような上位権力の混乱は、泰繁のような野心を持つ地域の国人領主たちが、自立と勢力拡大を加速させる絶好の機会となりました。
泰繁が直面した最大の課題は、主君・岩松昌純との関係でした。祖父・成繁によって幼くして当主に据えられた昌純も、この頃には成長し、自らが横瀬氏の傀儡に過ぎないという屈辱的な現実に強い不満を抱くようになっていました 7 。
昌純は、新田源氏の嫡流としての誇りから、失われた権力を取り戻すべく、家中で絶大な権勢を振るう泰繁を排除する計画を密かに練り始めます 4 。傀儡として生かされてきた当主と、その実権を握る権臣との間の緊張は、もはや破局を避けられない段階にまで達していました。祖父の代に作られた「傀儡政権」という歪な権力構造は、いわば時限爆弾を内包しており、その爆発は時間の問題だったのです。
享禄元年(1528年)頃、主君・昌純の排斥計画を察知した泰繁は、先手を打って行動に移ります。彼は軍勢を率いて、昌純が居城とする金山城を攻撃しました。これが「享禄の変」と呼ばれる、横瀬氏による下剋上の総仕上げとなる事件です 2 。
圧倒的な実力差の前に昌純方に勝ち目はなく、彼は敗れて殺害されたと伝えられています(あるいは自害に追い込まれたともされます) 1 。この事件により、泰繁は名実ともに金山城の支配者となりました。
しかし泰繁は、主君殺しという下剋上の最大の禁忌を犯したことによる悪評を和らげ、依然として利用価値のある「岩松」という家の権威を維持するため、巧みな後処理を行います。彼は昌純の嫡男である氏純を岩松氏の新たな当主として擁立したのです 4 。もちろん、この氏純もまた父と同様、金山城内に事実上監禁され、一切の権力を持たない完全な傀儡であり続けました 3 。泰繁の行動は、戦国時代の権力闘争における「殺られる前に殺る」という冷徹な自己防衛の論理に基づいた、必然的な先制攻撃でした。それは、祖父が仕掛けた時限爆弾を、孫である泰繁が自らの手で処理する行為でもあったのです。
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
関係者(主導者) |
権力掌握の段階 |
1495年 |
明応4年 |
屋裏の錯乱。 岩松尚純を排斥し、幼い昌純(夜叉王丸)を傀儡当主とする 14 。 |
横瀬成繁(祖父) |
第一段階:実権掌握 |
1500年代~1520年代 |
永正~大永年間 |
景繁、昌純の名代として各地を転戦。横瀬氏の軍事力を誇示し、権力基盤を固める 13 。 |
横瀬景繁(父) |
第二段階:権力安定化 |
1528年頃 |
享禄元年頃 |
享禄の変。 抵抗を試みた岩松昌純を殺害し、金山城を完全に掌握する 1 。 |
横瀬泰繁(本人) |
第三段階:権力簒奪の完成 |
1565年頃 |
永禄8年頃 |
由良に改姓。名実ともに戦国大名として独立を果たす 24 。 |
横瀬(由良)成繁(子) |
第四段階:新体制の確立 |
主君・岩松昌純を排除し、金山城を完全に掌握した横瀬泰繁は、単なる権力者に留まりませんでした。彼は、武力(ハード・パワー)によって奪った権力を、法や宗教といった文化的権威(ソフト・パワー)を用いて正当化・安定化させる、新たな統治の段階へと移行します。この章では、事実上の戦国大名となった泰繁の領国経営と、その支配を盤石にするための権威創出の試みについて考察します。
「享禄の変」以降、泰繁は金山城を拠点として、上野国新田荘一帯を実質的に支配する領主となりました 2 。彼の統治下で、金山城は関東屈指の難攻不落の山城として、その姿を整えていったと考えられます。現在、国の史跡として整備されている金山城跡に見られる堅固な石垣や巧みに配置された堀切、虎口(城の出入り口)などは、主に泰繁の子・成繁(後の由良成繁)の時代に完成されたものですが、その基礎となる縄張りや防御思想は、泰繁の治世に築かれた可能性が極めて高いと言えます 25 。
泰繁が単なる武力集団の長から、領民を直接統治する領域権力へと変貌を遂げたことを示す、より明確な証拠が存在します。それは、天文5年(1536年)に発布されたと伝わる「家中法度」および「百姓仕置法度」です 24 。この法度は、家臣団に対する規律と、領内の百姓に対する統治方針を定めたものであり、横瀬氏が独自の法体系を持つ独立した領主(戦国大名)として領国経営を行っていたことを物語る一級の史料です。発布の名義は子の成繁とされていますが、年代的に見て、泰繁がその制定に深く関与し、彼の統治理念が反映されていたことは間違いありません。
下剋上によって権力を手にした者が、その支配を正当化し、人心を掌握するためによく用いた手段が、寺社の建立や保護でした。泰繁もまた、この手法を巧みに利用します。天文10年(1541年)、泰繁は自らの菩提寺として、現在の群馬県太田市に龍得寺(りゅうとくじ)を開基しました 32 。これにより、彼は「龍得寺殿」とも称されるようになり、文化的・宗教的なパトロンとしての側面を内外にアピールしました 32 。これは、簒奪者という負のイメージを払拭し、領民の求心力を高めるための極めて戦略的な行動でした。
龍得寺には、今日まで泰繁ゆかりの文化財が伝えられています。彼の墓所とされる場所があり、戒名である「龍得寺感岳宗虎居士」もこの寺に由来するものです 4 。さらに特筆すべきは、彼の肖像画「絹本著色横瀬泰繁画像」が現存していることです 32 。この肖像画には、甲冑に身を固め、右手に采配、左手に弓を持ち、床几(しょうぎ)に堂々と腰掛ける武将としての泰繁の姿が描かれています 32 。これは、彼の武威と権威を後世に伝えるために、生前か死後まもなくに制作されたと考えられており、彼が自らの権力をいかに可視化しようとしていたかを物語っています。武力による支配の確立後、法と宗教という二本の柱によって自らの統治を固めようとした泰繁は、単なる武人ではなく、新時代の統治者としての明確な自覚を持っていたと言えるでしょう。
盤石な領国支配を築き上げた横瀬泰繁の最期は、突如として、そして自領から遠く離れた地で訪れます。彼の死に場所は、彼と横瀬氏がもはや上野国の一国人に留まらず、関東全体の政治力学に関与する広域的な地域権力へと成長していたことを逆説的に証明しています。この章では、泰繁の最期となった下野壬生合戦の背景と、その歴史的意義を探ります。
泰繁が活躍した当時、隣国の下野国(現在の栃木県)では、上野国の岩松・横瀬関係と酷似した、もう一つの下剋上が進行していました。下野の名門守護・宇都宮氏とその重臣であった壬生綱房(みぶ つなふさ)との間で、激しい権力闘争が繰り広げられていたのです 34 。
壬生綱房は、主君である宇都宮氏の当主を次々と傀儡化し、家中の実権を掌握。ついには天文18年(1549年)、主君・宇都宮尚綱が那須氏との「五月女坂の戦い」で戦死した隙を突いて、主家の本拠である宇都宮城を一時占拠するに至るなど、急速に勢力を拡大していました 37 。この下野における権力構造の激変は、当然ながら隣接する上野国の支配者である泰繁にとっても、座視できない重要な出来事でした。
天文14年(1545年)9月9日、横瀬泰繁はこの下野国で起きていた壬生氏関連の合戦のさなかに命を落とします 1 。生年から計算すると、享年は60(あるいは49歳説)でした。
史料には彼が「壬生合戦」で戦死したと記されているのみで、彼がなぜこの戦いに参加したのか、どちらの勢力に味方していたのかを明確に伝えるものはありません。考えられる可能性としては、主に以下の三つが挙げられます。
どのシナリオであったにせよ、重要なのは、横瀬氏の当主自らが、自領から離れた隣国の内紛に深く介入し、その結果命を落としているという事実です。もし横瀬氏が新田荘周辺の支配にのみ関心を持つローカルな勢力であったならば、当主がこれほど大きなリスクを冒して他国の戦争に身を投じることは考えにくいでしょう。
泰繁の参陣は、自らの勢力圏を越えて、関東全体のパワーバランスを自らに有利な形に動かそうとする、能動的かつ戦略的な外交・軍事行動であったと解釈できます。彼の死は、その野心的な活動の最中に起きた悲劇であると同時に、彼が率いる横瀬氏が、もはや一介の国人領主ではなく、関東の政治地図を動かすプレーヤーの一人となっていたことを雄弁に物語っているのです。
横瀬泰繁の生涯は、主君殺害という下剋上の極致ともいえる行動によって、権力簒奪を完成させた劇的なものでした。彼は、祖父が着手し、父が固めた一族の野望を、最も過酷な手段を用いて実現させた人物です。その評価は、単なる冷酷な簒奪者という一面に留まるものではありません。激動の時代の中で一族の生存と発展を追求し、旧来の権威を打ち破って新たな支配体制を構築した、まさに新時代の創造者としての側面を併せ持っていました。
泰繁がその生涯をかけて築き上げた盤石な権力基盤と、事実上の独立領主という地位は、嫡男である成繁(二代)へと確実に引き継がれました 4 。泰繁の死は、横瀬氏の歴史の終わりではなく、新たな時代の幕開けを意味していました。
父の遺産を継承した成繁は、永禄8年(1565年)頃、ついに一族の姓を「横瀬」から「由良」へと改めます 3 。これは、旧主・岩松氏の家臣であったことを想起させる「横瀬」の名を捨て、新田荘内の由緒ある地名を名乗ることで、過去と決別し、名実ともに独立した戦国大名であることを内外に宣言する、画期的な出来事でした。
その後、由良氏は、越後の上杉謙信や相模の北条氏康といった戦国時代の巨星たちを相手に、巧みな外交と、金山城の堅守を背景とした軍事戦略で渡り合い、関東の戦乱を生き抜いていきます 25 。一時は北条氏に降伏し没落の危機に瀕するも、最終的には豊臣、徳川の世を乗り切り、江戸時代には幕府の高家(こうけ)としてその家名を存続させることに成功しました 3 。
この戦国大名・由良氏の栄光と苦難の歴史、そしてその後の存続に至るまでの全ての礎は、主家を打倒して権力簒奪を完成させ、一族を新たなステージへと押し上げた横瀬泰繁の生涯にあったと言っても過言ではありません。彼の冷徹な決断と行動なくして、戦国大名・由良氏の歴史は始まらなかったのです。