日本の戦国時代、南九州に覇を唱えた島津氏の歴史は、島津四兄弟として知られる義久、義弘、歳久、家久の活躍によって彩られている。しかし、その輝かしい栄光の陰には、彼らを支え、共に戦い、時にはその内情を冷静に記録した数多の家臣たちの存在があった。本報告書が光を当てる樺山忠助(かばやま ただすけ)もまた、そのような功臣の一人である。彼は、島津氏の薩摩・大隅・日向の三州統一事業において多大な武功を挙げた勇将でありながら、和歌や犬追物(いぬおうもの)に通じた文化人、そして自らの見聞を後世に伝える記録者という、三つの顔を持つ稀有な人物であった。
本報告書の目的は、従来「島津家臣。善久の子。久高の父」といった断片的な情報で語られがちであった樺山忠助の生涯を、現存する史料を基に多角的に再構築し、その実像を徹底的に明らかにすることにある。彼の出自と島津宗家との血縁関係、数々の合戦における武功、武人としての枠を超えた文化的側面、そして彼自身が残した一次史料『樺山紹剣自記』の分析を通じて、島津氏の歴史における彼の真の役割と重要性を解明する。本報告書は、彼の生涯を時系列に沿って追いながらも、各側面をテーマ別に深掘りする構成を取ることで、読者が樺山忠助という人物を立体的かつ深く理解することを目指すものである。
樺山忠助を理解する上で、三つの鍵が存在する。第一に、島津宗家との「血脈」である。彼の母は島津氏中興の祖・忠良の娘であり、彼は島津四兄弟の従兄弟にあたる。さらに彼の妹は四兄弟の末弟・家久の正室となるなど、二重三重の姻戚関係は、彼の家中に於ける特殊な地位と影響力の源泉となった 1 。第二に、「武功と教養の両立」である。岩屋城の戦いで満身創痍となりながらも奮戦するほどの猛将でありながら、父・善久譲りの和歌の才や、琉球使節の饗応という外交の場で披露されるほどの犬追物の名手でもあった 1 。この文武両道は、当時の理想的な武士像を体現するものであった。そして第三に、「記録者としての視座」である。彼が残した『樺山紹剣自記』は、公式記録からは窺い知れない島津家の内情、特に兄弟間の葛藤を生々しく伝える貴重な一次史料であり、彼の歴史的価値を不朽のものとしている 1 。
本論に入る前に、樺山忠助の基本的な人物情報と、その生涯の骨子を以下の略年表に整理する。
表1:樺山忠助 略年表
年代(西暦) |
出来事 |
典拠 |
天文9年(1540年) |
島津家臣・樺山善久の次男として誕生。 |
1 |
弘治3年(1557年) |
兄・忠副が纒頭(まとう)の戦いで戦死。これにより家督を継承する。 |
2 |
永禄3年(1560年) |
次男・久高が誕生。久高は後に琉球侵攻の総大将を務める。 |
3 |
天正元年(1573年) |
禰寝氏救援のため出陣し、大隅西俣にて肝付氏を破る武功を挙げる。 |
1 |
天正3年(1575年) |
犬追物で射手を務め、11匹を射るという優れた技量を示す。 |
1 |
天正4年(1576年) |
伊東氏の高原城攻めに出陣。琉球使節饗応の犬追物でも射手を務める。日向国穆佐(むかさ)の地頭に任じられる。 |
1 |
天正6年(1578年) |
耳川の戦い。この頃、穆佐地頭職を嫡子・規久に譲り、自身は堅利に居住。 |
1 |
天正12年(1584年) |
筑前岩屋城攻めに参加。大石で兜を砕かれ、満身創痍となりながらも奮戦する。 |
1 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦いの裏で、甥・島津豊久に代わり日向佐土原城を守将として預かり、攻め寄せた伊東勢から城を死守する。 |
3 |
慶長14年(1609年) |
出水(いずみ)にて病没。享年70。 |
1 |
樺山忠助の生涯と家中での地位を理解するためには、まず彼が属した樺山氏の出自と、島津宗家との間に結ばれた緊密な血縁関係を解き明かす必要がある。彼は単なる譜代の家臣ではなく、宗家と二重三重の絆で結ばれた「一門」であり、そのことが彼のキャリアのあらゆる局面に影響を与えた。
樺山氏は、鎌倉時代に薩摩国守護職に任じられた島津氏の長い歴史の中で分派した、由緒ある庶流の一つである。その祖は、島津宗家4代当主・島津忠宗の五男にあたる資久(すけひさ)に遡る 4 。資久が日向国諸県郡三股院(みまたいん)の樺山(現・宮崎県北諸県郡三股町樺山)を領地としたことから、その地名を姓とし「樺山氏」を称したのが始まりとされる 4 。
島津氏の家臣団は厳格な家格によって編成されていたが、その中でも樺山氏は特別な地位を占めていた。島津家6代当主・氏久が後継者である元久に宛てた訓戒の中に、「宗家と御一家の間に身分の上下は無く、特に和泉・佐多・新納・樺山・北郷の各氏は御教書を与えられた家であり、上下はないと心得るよう」と諭した記録が残っている 8 。これは、樺山氏が新納氏や北郷氏といった他の有力庶家と並び、「御一家(ごいっか)」と称される最高位の家格に準ずる存在として、宗家から深く敬意を払われていたことを示している。この高い家格は、単なる家臣ではなく、宗家と共に領国を治めるパートナーとしての役割を期待されていたことの証左に他ならない。
樺山忠助の代に、樺山氏と島津宗家との関係はさらに緊密なものとなる。その鍵を握るのが、彼の両親である父・樺山善久(よしひさ)と母・御隅(おすみ)の婚姻であった。
父の樺山善久(法号は玄佐)は、永正10年(1513年)に生まれ、文禄4年(1595年)に83歳で没した、戦国期の島津家を代表する名将の一人である 2 。彼は島津貴久・義久の二代に仕え、数々の合戦で抜群の軍功を挙げ、島津氏の三州統一に大きく貢献した 3 。その武勇は高く評価される一方、近衛前久から古今伝授を受け、飛鳥井雅綱に蹴鞠を学ぶなど、中央の文化にも通じた一流の教養人でもあった 2 。また、彼自身も『樺山玄佐自記』という詳細な記録を残しており、その文武両道ぶりは息子の忠助にも深く受け継がれることとなる 9 。
母の御隅は、島津氏の歴史において極めて重要な人物である。彼女は、分裂状態にあった島津氏を再興し「中興の祖」と称えられる島津忠良(日新斎)の次女であり、15代当主・島津貴久の姉(一説に妹)にあたる 1 。この婚姻により、樺山善久は当主・貴久の義兄弟という極めて近い姻戚となり、その子である忠助は、貴久の子、すなわち島津義久・義弘・歳久・家久の四兄弟とは従兄弟という関係になった 3 。この血縁関係は、忠助が島津家中において単なる家臣以上の、親族としての信頼と発言力を得るための強力な基盤となった。
この血と婚姻による二重の絆は、忠助の生涯を方向づける決定的な要因であった。彼は主君の甥であり、次代を担う若君たちの従兄弟として、幼少期から宗家と密接な関係の中で育ったと考えられる。さらに、後述するように、忠助の妹は島津家久の正室となっており 1 、これにより彼は家久の義兄という立場にもなった。この幾重にも張り巡らされた血縁の網こそが、彼が家中の機密に触れ、時にはその内情を批判的に記録し得た背景にある。
樺山善久と御隅の間には、忠助の兄である忠副(ただそえ)が嫡男として生まれていた 1 。本来であれば、彼が樺山家の家督を継承するはずであった。忠副もまた父に劣らぬ武勇の士であり、天文23年(1554年)の岩剣城の戦いに参加するなど、若くして将来を嘱望されていた 12 。
しかし、彼の運命は戦場の露と消える。弘治3年(1557年)、大隅の有力国人である蒲生氏・菱刈氏との間で行われた「纒頭(まとう)の戦い」において、忠副は敵陣に深く切り込み奮戦するも、深手を負い、その日のうちに息絶えた 2 。享年21という若さであった。この忠副の死を、主君である島津義久は和歌を詠んで深く哀悼したと伝えられている 12 。
この兄の突然の戦死は、次男であった忠助の人生を大きく変える転換点となった。兄の死により、彼は樺山氏の家督を継承する立場となり、父・善久と共に島津家の重臣として歴史の表舞台に立つことになったのである 2 。もし兄・忠副が生きていれば、忠助の人生は一介の将として兄を支えるものに留まった可能性も否定できない。兄の死という悲劇が、結果として忠助を樺山家の当主へと押し上げ、彼の武功と後世に残る記録を生み出すきっかけとなったことは、歴史の皮肉と言えるかもしれない。彼の生涯は、個人の資質のみならず、こうした血縁と、予期せぬ運命の巡り合わせによって大きく規定されていたのである。
樺山忠助の武人としてのキャリアは、島津氏が薩摩一国の大名から、南九州三州(薩摩・大隅・日向)を席巻し、やがて九州全土の覇権に手をかけるに至る領土拡大の歴史と完全に軌を一にしている。彼は単に個々の戦闘で武功を立てただけでなく、戦略的に重要な局面で常に第一線に立ち続け、島津軍の中核を担う信頼性の高い指揮官として活躍した。
忠助の武功が史料上で明確に確認され始めるのは、島津氏が大隅・日向の平定を本格化させた天正年間からである。彼の働きは、三州統一事業の重要な局面において、決定的な役割を果たした。
天正元年(1573年)、島津氏に一旦は降伏した大隅の有力国人・禰寝重長(ねじめ しげなが)が、なおも島津氏に抵抗を続ける肝付氏に攻められるという事態が発生した。この時、島津義久は禰寝氏を救援すべく軍を派遣し、忠助もその一員として出陣した。彼は西俣(現在の鹿児島県肝付町)において肝付軍と激突し、これを撃破する上で大きな功績を挙げた 1 。この勝利は、大隅における反島津勢力を削ぎ、禰寝氏を完全に島津陣営に組み込む上で重要な意味を持ち、忠助が軍の主力を担う将として信頼されていたことを示している。
続いて忠助は、日向方面の戦線にも投入される。天正4年(1576年)、島津氏は長年の宿敵であった日向の伊東氏が支配する高原城への攻撃を開始した。忠助はこの戦いにも参加し、島津軍の勝利に貢献した 1 。この高原城攻めは、二年後の「耳川の戦い」で伊東氏を壊滅させるための布石ともいえる重要な軍事行動であり、忠助が一貫して対伊東氏戦線の最前線にいたことを物語っている。
これらの軍功が評価され、忠助は同年に日向国穆佐(むかさ、現・宮崎市高岡町)の地頭に任じられた 1 。地頭への任命は、単なる武功への恩賞に留まらない。それは、占領地の治安維持、検地、徴税といった行政・統治能力をも含めて、その地を預けるに足る人物であると主君から認められたことを意味する。これにより、忠助は単なる戦闘指揮官から、占領地の経営までを担う、より高次の役割を期待される存在へとステップアップしたのである。
三州統一をほぼ成し遂げた島津氏は、次なる目標として九州全土の制覇へと乗り出す。この過程で、忠助はさらに過酷な戦いに身を投じることとなった。
天正6年(1578年)、九州の覇権を巡り、島津氏と豊後の大友氏が日向高城川で激突した「耳川の戦い」が勃発する。この九州の歴史を画する大会戦において、忠助の具体的な戦闘参加を示す記録は限定的である。史料によれば、この頃、彼は穆佐の地頭職を嫡男の規久(のりひさ)に譲り、自身は大隅の堅利(かねとし)に居を移していたとされる 1 。最前線の地頭職を子に譲り、後方の拠点にいたという事実は、彼が直接的な戦闘部隊の指揮から離れ、兵站の確保や予備兵力の管理、あるいは別動隊の指揮といった、より大局的な役割を担っていた可能性を示唆している。彼の父・善久や義弟・家久がこの戦いで中心的な役割を果たしていることから 15 、忠助もまた重要な任務を帯びてこの大会戦に深く関与していたと考えるのが妥当であろう。
忠助の武人としての真骨頂が最も発揮されたのが、天正12年(1584年)の筑前「岩屋城攻め」である。九州統一の最終段階において、島津軍の前に立ちはだかったのが、大友方の名将・高橋紹運が守る岩屋城であった。この戦いは凄惨を極めたが、忠助は鬼神の如き働きを見せる。敵が城壁から投じた大石が彼の兜を砕き、さらに無数の矢玉をその身に受けながらも、彼は一歩も引かずに奮戦を続けたと記録されている 1 。この満身創痍での奮闘は、彼の武人としての比類なき勇猛さと精神力を示す、最も象徴的な逸話である。
岩屋城は島津軍の猛攻の末に落城したが、忠助の戦いはまだ終わらなかった。彼はその退き陣の際に、これまでの激戦の疲労と戦傷が原因で病に倒れ、一時戦線を離脱して堅利へと戻ることを余儀なくされた。しかし、彼の不屈の精神は病魔にも打ち勝った。数ヶ月後には奇跡的に回復を遂げると、再び豊後攻めの戦線に復帰し、なおも武功を挙げ続けたのである 1 。この一連の経緯は、樺山忠助が単に勇猛なだけでなく、強靭な意志と責任感を持った、まさに島津武士の鑑というべき武将であったことを雄弁に物語っている。
樺山忠助の人物像を語る上で、彼の武人としての側面だけでは不十分である。彼は、戦国武将の典型的なイメージ、すなわち武勇一辺倒の人物像を覆す、洗練された文化人としての一面を併せ持っていた。和歌や古典文学への深い造詣、そして武家の伝統的な武芸である犬追物における卓越した技量は、彼の人間的な幅の広さを示すと共に、当時の薩摩武士が育んだ独特の文化の高さを物語っている。
忠助の文化的素養の根底には、父・樺山善久の存在が大きく影響している。前述の通り、父・善久は島津家を代表する歌人であり、その教養は息子の忠助にも色濃く受け継がれた。忠助自身も和歌を好んだと伝えられており、武勇の誉れ高い父が同時に文化人としても敬われていた環境が、彼の価値観形成に大きな影響を与えたことは想像に難くない 1 。
忠助自身が詠んだ和歌の作品で現存するものは具体的に確認されていないが、彼の文化的な関心の高さは他の逸話からも十分に窺い知ることができる。例えば、『本藩人物誌』などの史料によると、天正3年(1575年)に彼は『源氏物語』の登場人物の系図を記した書物を入手したという記録が残っている 15 。当時、長大な物語である『源氏物語』を深く理解するためには、複雑な人間関係を整理した系図が不可欠であった。彼がそのような書物を求めたという事実は、単に和歌を嗜むだけでなく、その背景にある古典文学の世界にまで深い関心と教養を持っていたことを示している。戦場の合間に古典文学に親しむ彼の姿は、武と文を両立させようとする求道的な精神の表れであったと言えよう。
忠助の文化人としての側面を最も華々しく象徴するのが、犬追物(いぬおうもの)における名手としての活躍である。犬追物とは、馬場に放たれた犬を、騎乗した武士たちが追いかけながら鏑矢(かぶらや)で射る、鎌倉時代に起源を持つ武家の騎射訓練である。これは単なる武芸ではなく、神事や饗応の儀式としても行われる、高度な技術と格式を要求されるものであった。忠助は、この犬追物の達人として島津家中にその名を知られていた 1 。
その技量のほどを如実に示すのが、天正3年(1575年)に行われた犬追物での活躍である。この時、射手の一人として参加した忠助は、疾走する馬上から次々と的確に犬を射抜き、実に11匹を射止めるという驚異的な成績を収めた 1 。この活躍により彼の評価は不動のものとなり、以降、毎年の犬追物で射手を務めるのが恒例となったという。
彼の技量が最も重要な舞台で発揮されたのが、天正4年(1576年)の出来事である。この年、島津氏のもとへ琉球王国からの使節が訪れた。島津家はこれを国を挙げて饗応し、その一環として犬追物を催した。これは単なる余興ではない。琉球使節に対して島津氏の武威と文化の高さを誇示するための、極めて重要な外交儀礼であった。この晴れの舞台で、忠助は島津家を代表する射手としてその大役を任されたのである 1 。彼の放つ矢の一本一本が、島津氏の威信を乗せていたと言っても過言ではない。この事実は、忠助の犬追物の技術が、個人的な趣味や武芸の域を超え、藩の威光を示すための重要なツールとして公に認められていたことを意味する。彼の存在は、島津氏が武力だけでなく、洗練された武家文化をも備えた大名であることを内外に示す上で、不可欠なものであった。
樺山忠助の歴史的評価を決定づける上で、彼の武功や文化的素養以上に重要なのが、「記録者」としての側面である。彼は法号である「紹剣(しょうけん)」の名で、自らが見聞した出来事を日記形式で書き残した。この『樺山紹剣自記』は、戦国末期から近世初頭にかけての島津氏の動向を、当事者である家臣の視点から描いた類稀な一次史料であり、彼の冷静な観察眼と、時には主家に対しても批判を辞さない精神を今に伝えている。
樺山忠助が残した記録は、一般に『樺山紹剣自記』として知られ、『樺山紹剣日記』とも呼ばれる 17 。その記述は、天正4年(1576年)から始まり、関ヶ原の戦い後の慶長10年(1605年)頃まで及んでいる 19 。この自記は、彼の父・善久が残した『樺山玄佐自記』と並び、戦国大名としての島津氏が権力を統一し、近世大名へと変貌していく過程を、内部の視点から如実に示すものとして極めて高い史料的価値を持つ 9 。
幸いなことに、この貴重な史料は現代の研究者も閲覧が可能である。『鹿児島県史料集 第三十五集』において、その全文が翻刻され、広く公開されている 10 。また、鹿児島大学附属図書館が所蔵する玉里文庫(たまざとぶんこ)にも、その写本が『樺山紹釼日記』として保管されており、デジタルアーカイブを通じてその存在を確認することができる 18 。これらの史料の存在が、樺山忠助という一人の武将の生涯を、単なる伝承ではなく、確かな根拠に基づいて詳細に研究することを可能にしている。
『樺山紹剣自記』が持つ最大の価値は、島津家の公式な歴史書である『島津家譜』などからは決して窺い知ることのできない、生々しい人間関係や家中の内実を明らかにしている点にある。特に注目すべきは、英雄として一枚岩の結束を誇ったとされる島津四兄弟の間に存在した、微妙な人間関係に関する記述である。
忠助は、自らの妹を娶った義弟・島津家久と行動を共にすることが多かったため、彼の視点は自然と家久に近いものとなっていた 1 。家久は四兄弟の中で唯一、母が正室ではなく側室であり、その出自から家中にあってやや特殊な立場にあったとされる 5 。しかしその一方で、沖田畷の戦いや戸次川の戦いなどで敵の大将を討ち取るなど、彼の軍事的な才能と功績は兄弟の中でも突出していた 5 。
この家久の抜群の戦功に対して、次兄である島津義弘が嫉妬しているかのような様子を、忠助は自らの自記の中に冷静な筆致で記録している。彼は「島津義弘が家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と、義弘の態度を明確に批判しているのである 1 。
この記述は、島津家の歴史を研究する上で極めて重要である。それは、一般に語られる「兄弟四人の固い結束」という神話を解体し、その裏側に存在した人間的な葛藤や対立、そして潜在的な派閥力学の存在を浮かび上がらせるからである。家久の突出した能力と、彼の出自の複雑さが、兄弟間に微妙な緊張関係を生んでいた可能性が、忠助の筆によって示唆されている。
樺山忠助は、自らの記録を通じて、意図せずして島津家の「正史」に対する一種の「カウンター・ナラティブ(対抗言説)」を提供したと言える。彼は単に出来事を記録しただけではない。一門の重鎮という特権的な立場から、主家の内情を冷静に観察し、時にはその在り方に疑問を呈する批判精神をも持ち合わせていた。彼の歴史的価値は、数々の武功や高い教養に加え、この「記録者」としての類稀な視座にこそ、より大きなものがあると言えるだろう。
数多の戦場を駆け抜け、島津氏の栄光と苦難を共にしてきた樺山忠助の生涯は、戦国時代の終焉と徳川の世の到来という、時代の大きな転換点の中で静かに幕を閉じる。彼の晩年は、関ヶ原の戦いという天下の動乱の渦中で本国の守りを固めるという最後の奉公と、次世代が新たな舞台で活躍するのを見届けるかのような最期によって象徴される。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、島津家は西軍に与し、当主・島津義弘が主力を率いて本州へ出陣した。この時、日向国の要衝である佐土原城は、義弘の子であり忠助の甥にあたる島津豊久が城主を務めていた 3 。
豊久が主君であり父でもある義弘に従って関ヶ原へ出陣したため、佐土原城の守りは手薄となった。この機を逃さず、かつて島津氏によって日向を追われ、豊後の大友氏を頼っていた伊東氏が、徳川家康率いる東軍方として旧領回復の絶好の機会と捉え、佐土原城に大軍を率いて攻め寄せた 3 。関ヶ原での本隊の勝敗が不明な中、本国が敵の手に落ちることは島津家にとって致命的な事態であった。
この国家的な危機に際し、既に60歳を過ぎ老境にあった樺山忠助が、甥の豊久に代わって佐土原城の守将として采配を振るった。彼は長年の経験に裏打ちされた巧みな防衛戦術を展開し、伊東勢の猛攻をことごとく凌ぎ、見事に城を死守したのである 3 。この佐土原城防衛は、忠助の生涯における最後の、そして極めて重要な武功であった。関ヶ原で敗れ、壮絶な敵中突破を経て帰国する義弘と、疲弊した島津軍にとって、本国の拠点が無事であったことの戦略的価値は計り知れない。忠助の働きは、敗戦後の混乱期において島津家の領国を保全し、その後の徳川幕府との困難な交渉を乗り切るための重要な基盤を守ったと言える。
関ヶ原の戦いが終わり、島津家が巧みな交渉の末に本領安堵を勝ち取り、世に徳川の治世が確立されると、忠助もまた武人としての役目を終え、静かな晩年を過ごしたと考えられる。
そして慶長14年(1609年)5月13日、樺山忠助は薩摩国北辺の要衝である出水(いずみ)の地において、病のためその70年の生涯を閉じた 1 。彼の墓所もまた、終焉の地である出水に現存することが確認されている 3 。
彼の最期は、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを象徴するかのようであった。この時、彼の次男であり樺山家の家督を継いでいた樺山久高は、薩摩藩初代藩主・島津家久(忠恒)の命により、琉球出兵の総大将という重責を担っていた 3 。久高が琉球王国の首都・首里城を攻略し、薩摩藩の歴史に新たな一ページを刻んでいるまさにその最中に、父・忠助は世を去ったのである。息子が成し遂げた新たな時代の偉業を見届けるかのように息を引き取った忠助の生涯は、彼が仕えた島津貴久・義久の「三州統一」の時代が完全に終わり、彼の息子たちの世代が活躍する「近世薩摩藩」という新たな時代が幕を開けたことを画する出来事であった。最後まで武人としての責任を全うし、次世代の活躍の中に静かに消えていった彼の生涯は、戦国から近世への激動の移行期を生きた、一人の忠実な島津家重臣の生き様そのものであった。
樺山忠助の生涯を、出自、武功、文化活動、そして彼自身の記録という多角的な視点から検証した結果、彼は単なる一地方武将という枠組みには収まらない、複合的で奥行きの深い人物像として浮かび上がってくる。彼の歴史的評価は、以下の三つの側面から総合的に結論付けられるべきである。
第一に、「武人」としての評価である。彼は、島津氏の三州統一から九州制覇に至るまでの主要な合戦のほとんどに参加し、常に第一線で武功を挙げ続けた。禰寝氏救援戦での勝利、岩屋城攻めでの満身創痍の奮戦、そして晩年の佐土原城防衛に至るまで、そのキャリアは島津氏の領土拡大史と完全に重なる。彼の勇猛さと、幾度もの負傷や病を乗り越えて戦線に復帰する不屈の精神は、まさしく島津武士の鑑と評するに値する。彼は戦略的な要衝の地頭にも任じられており、戦闘能力だけでなく統治能力も兼ね備えた、信頼性の高い指揮官であった。
第二に、「文化人」としての評価である。戦国の荒波の中にありながら、彼は父・善久から受け継いだ和歌の道に親しみ、『源氏物語』などの古典文学にも深い関心を示すなど、高い教養を備えていた。特に、武家の伝統的武芸である犬追物においては島津家随一の名手とされ、琉球使節の饗応という重要な外交儀礼の場でその技を披露したことは、彼が単に武勇に秀でていただけではなく、武家の伝統と格式を体現する洗練された文化人であったことを示している。彼の存在は、薩摩が武辺一辺倒の地ではなく、中央の文化を積極的に受容し、独自の高い文化水準を維持していたことを証明する好例である。
第三に、そして最も重要なのが、「記録者」としての評価である。彼が残した『樺山紹剣自記』は、彼の歴史的価値を不朽のものとしている。この自記は、公式記録では決して語られることのない、島津家内部の人間関係や葛藤を生々しく伝える、比類なき一次史料である。特に、英雄として神格化されがちな島津四兄弟の間に存在したであろう嫉妬や対立にまで踏み込んだ記述は、彼の冷静な観察眼と、一門の重鎮であるが故に知り得た情報、そしてそれを書き残すという批判精神の表れである。彼の記録は、島津氏の歴史研究において、定説や英雄譚に再考を迫り、より人間的で深みのある歴史像を構築するための不可欠な史料となっている。
以上の分析を総合すると、樺山忠助は、島津宗家との強い血縁を背景に、武人としての卓越した能力と、文化人としての洗練された教養を兼ね備え、さらに自らが生きる時代を冷静な視点で記録した、戦国時代においても稀有な複合的人間であったと結論付けられる。彼の生涯を追うことは、島津氏の三州統一から九州制覇、そして近世大名への移行というダイナミックな歴史の転換を、一人のキーパーソンの視点を通じて深く理解することに繋がる。彼は、武勇、教養、そして記録という三つの側面において、島津家の歴史に消えることのない足跡を残した。樺山忠助は、まさしく戦国という激動の時代が生んだ、島津氏の誇るべき名臣の一人であったと言えよう。