最終更新日 2025-07-30

正木通綱

正木通綱は里見氏の有力家臣で、国衙奉行を務め水軍を掌握。里見義豊に粛清されたが、その死が正木氏の飛躍と徳川将軍家への血脈に繋がった。

正木通綱 ― 房総の戦国史を動かした謎の武将、その実像と歴史的意義

序章:房総の風雲児、正木通綱 ― その謎に満ちた実像

戦国時代の房総半島、その歴史の転換点に、一人の武将の名が刻まれている。正木通綱(まさき みちつな)。安房里見氏の家臣として知られながら、その生涯は単純な主従関係の枠に収まらず、多くの謎と矛盾に満ちている。彼の名は、里見氏の歴史における最大の内乱「稲村の変(天文の内訌)」の中心人物として、悲劇的な最期と共に語り継がれてきた。しかし、その死は一つの時代の終わりであると同時に、彼の一族が房総半島随一の勢力へと飛躍する壮大な物語の始まりでもあった。

従来の軍記物語などが描く「悲劇の忠臣」という像は、果たして彼の真の姿を映し出しているのだろうか。近年の研究は、古文書や棟札といった一次史料の再検討を通じて、通説に大きな揺さぶりをかけている。そこから浮かび上がるのは、相模からの亡命者という儚げな貴種流離譚の主人公ではなく、安房の地に深く根を張り、自らの実力でのし上がった、したたかな土着の権力者の姿である。

本報告書は、この正木通綱という人物に焦点を当て、断片的な伝承と最新の研究成果を丹念に突き合わせることで、その出自の謎、権力の源泉、そしてその死が持つ真の意味を解き明かすことを目的とする。通綱の生涯を追うことは、一人の武将の実像を浮き彫りにするだけでなく、戦国期における房総の権力構造の力学と、ローカルな勢力争いがやがて日本の歴史の中枢へと繋がっていくダイナミズムを理解する上で、不可欠な作業となるであろう。

第一部:出自の探求 ― 通綱はどこから来たのか

正木通綱の人物像を理解する上で、最初の、そして最大の謎がその出自である。彼は一体何者で、どこから来たのか。後世に編纂された系譜は、彼を相模の名門・三浦氏の血を引く悲劇の亡命者として描くが、史料批判の光を当てると、その物語は大きく揺らぐ。

第一章:伝説のベール ― 相模三浦氏からの亡命者説

江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』をはじめとする諸系図は、正木氏の祖を通綱とし、その出自を相模の桓武平氏三浦氏に求めている 1 。これらの伝承は、主に二つの系統に大別される。

第一は、 三浦時高の子とする説 である。これは、明応3年(1494年)に三浦氏の家督をめぐる内紛が発生し、三浦時高が養子の三浦義同(よしあつ、一般に道寸として知られる)に攻め滅ぼされた際、時高の幼い息子(通称:弥次郎)が家臣に守られて安房国へ逃れ、正木郷(現在の千葉県館山市)で成長し、正木時綱(通綱)を名乗った、というものである 1

第二は、 三浦義同(道寸)の子とする説 である。こちらは、永正13年(1516年)、相模統一を目指す北条早雲(伊勢盛時)によって三浦義同・義意親子が新井城で滅亡した際に、義同の一子が船で安房へ脱出し、正木氏の祖となった、とする物語である 1

これらの説は、いずれも正木氏を、北条氏に滅ぼされた悲劇の名門・三浦氏の正統な後継者として位置づける点で共通している。戦国時代を生き抜いた武家が、自らの家系の権威付けのために、より高貴な、あるいは由緒ある家系に自らを結びつけることは珍しくなく、正木氏に関するこれらの伝承も、その典型例であった可能性が指摘されている 4

第二章:史料批判の視座 ― 亡命者説への懐疑

魅力的な物語性を持つ亡命者説であるが、信頼性の高い史料と照らし合わせると、いくつかの深刻な矛盾点が浮かび上がる。特に、三浦時高の子とする説は、年代的に大きな問題を抱えている。

この説の根拠となる明応3年(1494年)の内紛で、仮に通綱が数え一、二歳の幼児として安房へ亡命したと仮定しよう。その場合、それからわずか14年後の**永正5年(1508年)**には、彼はまだ15、6歳の少年に過ぎない。ところが、この年に安房国の鶴谷八幡宮(館山市)が造営された際の棟札には、驚くべき記録が残されている。そこには、安房国主である「副帥 源 義通」(里見義通)に次ぐ地位として、「 国衙奉行 平 通綱 」の名が明確に記されているのである 3

国衙奉行とは、国府の行政権を掌握する国のナンバー2に相当する要職である。亡命してきたばかりの十代の少年が、いかに里見氏の庇護下にあったとしても、このような破格の地位に就くことは、戦国時代の社会通念上、極めて不自然と言わざるを得ない 3 。この一点だけでも、亡命者説の信憑性は根底から揺らぐ。三浦義同の子とする説も、通綱の子である正木時茂らの生没年と照らし合わせると年代的な整合性が取れず、やはり無理がある 4

こうした矛盾から、近年の研究では、これらの亡命譚は後世の創作であるとの見方が有力となっている。特に、通綱の子孫である正木為春が、里見氏改易後に徳川家康に仕え、紀州徳川家の家老という重職を得た際に、自らの家格を高めるために三浦氏嫡流を称する系譜を創作した可能性が強く指摘されているのである 4

第三章:新たな光 ― 安房土着勢力としての実像

亡命者説に代わり、現在最も有力視されているのが、正木通綱を古くから房総半島に土着していた三浦一族の末裔、すなわち**「内房正木氏」**に連なる人物と捉える説である 3 。三浦半島を本拠とした三浦氏は、鎌倉時代から東京湾の海上交通を掌握し、房総半島にも多くの庶流が進出していた。佐久間氏や多々良氏などがその代表であり、正木氏もまた、こうした内房地域の水軍勢力を率いる三浦氏庶流の武将の一人であったと考えられる 3

この説を強力に裏付けるのが、前述の一次史料である。

第一に、永正5年(1508年)の鶴谷八幡宮棟札である。この棟札は、通綱がこの時点で既に安房国政の中枢にいた事実を示すだけでなく、彼が源氏を称する里見氏とは別に、平氏(三浦氏は桓武平氏)を名乗る、独立性の高い存在であったことを物語っている 3。彼は里見氏の家臣というよりも、安房国の統治を分担するパートナーであった。

第二に、近年その存在が知られるようになった 享禄3年(1530年)の新蔵寺棟札 である。この棟札には、通綱が「 長狭庄代官 」であったことが記されており、彼の具体的な支配領域と権力基盤が、安房国長狭郡(現在の鴨川市周辺)にあったことを証明している 9 。これは、通綱が単なる名目上の高官ではなく、特定の地域に根差した実力者であったことを示す決定的な証拠と言える。

また、名前の問題も重要である。多くの伝承では「時綱」とされるが、信頼性の高い同時代の史料では一貫して「 通綱 」と記されている 4 。この「通」の字は、当時の安房国主であった里見

義通 から偏諱(へんき、主君などが名前の一字を与えること)として与えられたと考えるのが自然である 3 。これは、両者が単なる主従関係を超えた、極めて密接な政治的同盟関係にあったことを強く示唆している。

悲劇の亡命者ではなく、房総の地で自らの実力でのし上がった土着の権力者へ。史料が明らかにする正木通綱の実像は、後世の物語とは大きく異なっている。彼の権力の源泉は、陸上の支配のみならず、三浦半島と房総半島を結ぶ東京湾の海上交通路の掌握、すなわち「海の豪族」としての側面にあった。この視点を持つことで、彼の生涯と、後の里見氏と後北条氏の抗争の構図を、より深く理解することができるのである。


表1:正木通綱 出自に関する諸説比較表

説の名称

根拠となる主な文献

概要

矛盾点・問題点

現代における評価

三浦時高の子説

『寛政重修諸家譜』など 1

明応3年(1494年)の内紛で父が殺害され、幼児の通綱が安房へ亡命したとする。

永正5年(1508年)の棟札記録と年代が合わない。十代の少年が国衙奉行になるのは不自然 3

後世の創作の可能性が極めて高い。

三浦義同(道寸)の子説

『里見軍記』など 1

永正13年(1516年)の新井城落城で父が自害し、安房へ亡命したとする。

子である正木時茂らの生年と整合性が取れない 4

同上。

安房土着の三浦一族説

鶴谷八幡宮棟札、新蔵寺棟札 4

古くから安房に土着し、水軍を率いていた三浦一族の有力者(内房正木氏)の一人。

特に大きな矛盾点は指摘されていない。

一次史料との整合性が高く、現在最も信憑性の高い説として有力視されている 3


第二部:権力の頂点へ ― 里見氏の同盟者として

出自の謎を解き明かした先に浮かび上がるのは、里見氏の権力構造の中で特異な地位を占める正木通綱の姿である。彼は単なる家臣ではなく、里見氏が房総半島に覇を唱える上で不可欠な、独立した軍事・行政能力を持つ同盟者であった。その権力の源泉は、巧みな政治的立ち回りと、堅固な軍事基盤にあった。

第一章:国衙奉行から姻戚へ ― 里見氏との特異な関係

正木通綱は、里見氏の家臣団の中で、明らかに別格の存在であった。永正5年(1508年)の時点で既に国衙奉行という安房国の行政のトップにいた彼は、その後、里見氏との関係をさらに強化する 3 。その決定打となったのが、婚姻政策である。通綱は、安房国主・里見義通の妹を正室として迎えた 4 。これにより、彼は単なる有力者から里見氏の「御一門衆」に準じる姻戚となり、譜代の家臣たちとは一線を画す、極めて強固な政治的地位を確立したのである。

この特別な立場は、彼の軍事行動にも表れている。通綱は、義通の弟であり、上総方面の軍事を担当していた里見実堯(さねたか)の配下として、里見氏の勢力拡大の先兵となった 12 。里見義豊の代には、その命を受けて武蔵国品川湊を攻撃するなど、里見水軍の中核を担う将として、対後北条氏戦線の最前線で活躍した記録も残っている 4 。これは、彼が里見氏の統治機構と軍事機構の両面において、枢要な役割を担っていたことを示している。この時期の安房里見氏は、里見氏当主による統治と、正木通綱による国衙行政および水軍力の掌握という、一種の権力分担体制にあったと見ることができる。通綱は家臣ではなく、里見氏が房総に支配を確立するための不可欠なパートナーであった。この特異な関係こそが、彼の権力の頂点であり、同時に後の悲劇の伏線ともなったのである。

第二章:山之城と水軍 ― 権力の源泉

通綱の強大な権力を物理的に支えていたのが、その本拠地と軍事力である。彼の初期の居城は、安房国長狭郡に位置する 山之城 (やまのじょう、現在の千葉県鴨川市)であったと伝えられている 4

山之城は、嶺岡山系の東側、比高250メートルを超える険しい山中に築かれた、典型的な戦国期の山城である 14 。周囲を天然の急崖に囲まれ、容易に敵の侵入を許さないこの城は、守りに非常に適した堅固な軍事拠点であった 14 。そして、この城が位置する長狭郡は、房総半島を縦断する交通の要衝であり、外房の沿岸ルートと内陸部を同時に抑えることができる戦略的に極めて重要な場所であった。新蔵寺棟札が示すように、通綱はこの長狭庄の代官として、この地を直接支配していたのである 10

しかし、彼の権力基盤は陸上だけに留まらなかった。彼の出自が内房の水軍勢力にあったことからもわかるように、通綱は強力な水軍を掌握していた 4 。彼は、正木郷を中心とする内房の諸勢力をまとめ上げ、その技術を結集して、東京湾における制海権を握るほどの水軍を組織したとされる 7 。山之城を拠点とする陸上支配と、東京湾を舞台とする水軍の掌握。この二本柱こそが、正木通綱を里見氏にとってさえ無視できない、独立した大勢力たらしめていた権力の源泉であった。

第三部:稲村の変 ― 死の真相と歴史的再評価

天文2年(1533年)7月27日、房総の歴史を揺るがす大事件が勃発する。里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯と筆頭重臣の正木通綱を、居城である稲村城(館山市)に呼び出し、突如誅殺したのである 4 。この「稲村の変」は、通綱の生涯に終止符を打っただけでなく、里見氏を二分する内乱(天文の内訌)の引き金となった。この事件は、なぜ起きたのか。その真相は、後世の軍記物が描く単純な悲劇とは異なる、冷徹な政治的力学の中にあった。

第一章:『里見軍代記』が描く悲劇 ― 忠臣誅殺の物語

江戸時代に成立した『里見軍代記』などの軍記物は、この事件を道徳的な観点から描いている。その物語によれば、里見義通が若くして亡くなった際、嫡男の義豊はまだ幼かった。そのため、義通の弟である実堯が、義豊が成人するまで後見人(陣代)として家督を預かることになった 18 。しかし、義豊が成人しても実堯は家督を返上せず、その地位に固執した。これに不満を抱いた義豊は、実堯と、彼と結託して権勢を振るう新参者の正木通綱を疎ましく思うようになる。そして、実堯・通綱の台頭を妬む側近たちの「実堯は自らの子・義堯を次の当主に据えようと企んでいる」という讒言を鵜呑みにし、ついに暴発。忠臣である叔父と重臣を、稲村城でだまし討ちにした、という筋書きである 18

この物語は、若く無分別な当主が、私怨と讒言によって忠実な家臣を殺害するという、分かりやすい悲劇の構図を持っている。しかし、これはあくまで勝者である里見義堯(実堯の子)の側から、自らの謀反を正当化するために描かれた物語である可能性が高い。

第二章:権力闘争の実相 ― 誅殺か、それとも粛清か

近年の研究は、一次史料の分析を通じて、この事件の全く異なる側面を明らかにしている。稲村の変は、義豊の個人的な感情による暴発ではなく、里見氏の国家路線と家中の主導権をめぐる、二大派閥間の熾烈な権力闘争の帰結であった 7

事件当時、里見氏の家督は既に義豊が継承しており、彼は当主として外交も行っていた。天文2年3月には、北条氏綱から「里見太郎殿(義豊)」宛ての書状が送られており、義豊が名実ともに里見氏の当主として対外的にも認められていたことは明らかである 19 。問題は、その権力基盤が盤石ではなかったことにあった。家中には、大きく分けて二つの派閥が存在した。

一つは、 当主・里見義豊を中心とする派閥 である。彼らは譜代の家臣に支えられ、当主を中心とした中央集権的な支配体制の確立を目指していた。外交的には、房総に勢力を伸ばしていた小弓公方・足利義明との連携を重視し、関東に進出してきた後北条氏とは敵対関係にあった 18

もう一つが、 里見実堯と正木通綱を中心とする派閥 である。実堯は上総国に、通綱は長狭郡と内房の水軍に、それぞれ独自の強力な勢力基盤を持っていた 7 。彼らは、里見氏の宿敵であるはずの後北条氏との連携を模索していた形跡がある。これは、東京湾の制海権をめぐり、三浦半島を支配する北条氏との協調が、水軍を基盤とする彼らにとって現実的な利益をもたらすからであった 7

当主である義豊にとって、叔父と重臣が、敵対勢力である北条氏と結びつき、家中に半独立的な勢力を形成している状況は、自らの権力を根底から脅かす、座視できない脅威であった。義豊の誅殺は、家中の分裂を未然に防ぎ、反北条・親小弓公方路線で家中を統一するために、政敵を排除した**冷徹な「粛清」**であったと捉えるべきである 18 。彼の行動は、戦国大名として自らの主導権を確立するための、合理的ではあるが非情な政治判断だったのである。

第三章:最期の諸説

正木通綱が具体的にどのようにして命を落としたかについては、いくつかの説が伝えられている。

最も一般的なのは、稲村城に呼び出された際、里見実堯と共にその場で殺害された、という説である 4 。この時、通綱の長男であった弥次郎も同時に命を落としたとされる 4

一方で、『寛政重修諸家譜』などには異説も記されている。それによれば、通綱は稲村城での襲撃の際に腕に矢傷を負い、辛くも居城の山之城まで逃れたものの、その傷がもとで死亡した、という 負傷死説 である 4

さらに、古傷が悪化していたために当日は稲村城に登城しておらず、襲撃の報を聞いて山之城へ脱出したが、その際の無理がたたって危篤状態に陥り死亡した、とする 病死説 の伝承も存在する 4

これらの異説は、通綱の最期の劇的な状況を物語るものではあるが、いずれの説を取るにせよ、稲村の変が彼の直接的な死因となったことは間違いない。


表2:稲村の変(天文の内訌) 前後関係年表

年月日

出来事

関連人物

出典・備考

享禄3 (1530)

新蔵寺建立。棟札に「長狭庄代官 平 通綱」の名が記される。

正木通綱

10 通綱の具体的な権力基盤を示す。

天文2 (1533) 3月

北条氏綱が「里見太郎殿(義豊)」宛に鶴岡八幡宮造営に関する書状を送る。

里見義豊、北条氏綱

17 義豊が当主として外交を行っていた証拠。

天文2 (1533) 7月27日

**稲村の変。**里見義豊が叔父・里見実堯と正木通綱を稲村城で誅殺。

里見義豊、里見実堯、正木通綱

4 『快元僧都記』に記録あり。内乱の勃発。

天文2 (1533) 8月

実堯の子・義堯と通綱の子・時茂らが挙兵。義豊軍、正木氏の山之城を攻めるも失敗。

里見義堯、正木時茂、正木時忠

18 義堯は北条氏綱に援軍を要請。

天文2 (1533) 8月21日

北条水軍が妙本寺(鋸南町)で義豊軍と交戦し、これを破る。

山本家次(北条方)

17 東京湾の制海権をめぐる戦い。

天文3 (1534) 4月6日

**犬掛の戦い。**義堯・正木連合軍が犬掛(南房総市)で義豊軍を破り、義豊は敗死。

里見義堯、正木時茂、里見義豊

1 内乱は義堯方の勝利で終結。里見義堯が家督を継承。


第四部:死してなお ― 通綱が遺したもの

正木通綱の死は、一つの悲劇であった。しかし、歴史の皮肉は、彼の死が、彼自身が生前目指したであろう以上の権力と繁栄を、彼の一族にもたらしたことにある。通綱の死という「殉教」は、息子たちに蜂起の大義名分を与え、房総の歴史を新たなステージへと押し上げる原動力となった。そしてその血脈は、数奇な運命をたどり、日本の歴史の中枢にまで繋がっていくのである。

第一章:犬掛の戦い ― 息子たちによる復讐と新体制の確立

父・通綱と長兄・弥次郎を稲村城で殺害された次男の 正木時茂 と三男の 時忠 は、ただちに復讐の兵を挙げた 4 。彼らは、同じく父・実堯を殺された里見義堯を新たな盟主として担ぎ、里見義豊への反旗を鮮明にした 18 。義豊軍はただちに正木氏の本拠地・山之城を攻撃したが、その堅固さを前に攻略は失敗に終わる 18

一方、義堯と正木兄弟は、戦国時代ならではの冷徹で現実的な外交戦略を展開する。義堯は、父・実堯が通じていたという理由で誅殺の口実にされた、里見氏の宿敵であるはずの 小田原北条氏 に、ためらうことなく援軍を要請したのである 18 。父の仇を討つためには、昨日の敵とも手を結ぶ。この決断が、戦局を大きく左右した。

翌天文3年(1534年)4月、北条氏の支援を得た義堯・正木連合軍は、上総から安房へと進軍。これを迎え撃つために北上してきた義豊軍と、犬掛(現在の南房総市富山町)の地で激突した 1 。この

犬掛の戦い で義豊軍は総崩れとなり、当主・義豊は敗走の末に討ち取られた 1 。これにより、里見氏の嫡流は途絶え、約1年にわたる内乱は義堯方の完全勝利で幕を閉じた。正木兄弟は、父の仇を討ち、新たな里見氏の体制をその手で打ち立てたのである。

第二章:房総正木氏 百年の礎

正木通綱の死と、その後の息子たちの勝利は、結果的に正木一族を、里見家中で他の誰にも窺うことのできない、最大の権力を持つ存在へと押し上げた。新当主となった里見義堯にとって、正木時茂・時忠兄弟は、自らを当主の座に就かせた最大の功労者であり、もはや単なる家臣ではなく、運命共同体ともいえるパートナーであった。

この勝利を契機に、正木氏は房総半島各地へと爆発的に勢力を拡大していく。

兄の正木時茂は、父・通綱と同じく大膳亮を名乗り、その武勇から「槍の大膳」と敵味方から恐れられた 11。彼は上総国に進出し、小田喜城(後の大多喜城)を本拠として「

小田喜正木氏 」の祖となり、里見氏の軍事の中核を担った 1

弟の正木時忠は、外房の要港である勝浦に進出し、勝浦城を拠点に水軍を率いる「勝浦正木氏」を興した 1。

通綱が築いた内房の勢力を基盤に、時茂が陸上を、時忠が海上を、それぞれ分担して支配する体制が確立された。通綱の死という悲劇がなければ、正木氏がこれほどまでの飛躍を遂げることはなかったであろう。彼の死は、皮肉にも房総正木氏百年の礎となったのである。

第三章:血脈の奇跡 ― 徳川将軍家へと繋がる流れ

房総の一勢力であった正木氏の物語は、ここで終わらない。通綱から始まった血筋は、数世代を経て、思いもよらない形で日本の歴史の中枢へと繋がっていく。

その鍵を握るのは、通綱の孫、すなわち勝浦正木氏を興した時忠の子・ 正木頼忠 の娘、**お万の方(養珠院)**である 11 。彼女は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の後、関東に入部した徳川家康に見初められ、その側室となった 5

そして、お万の方は家康との間に二人の男子をもうける。後の 紀州徳川家の祖・徳川頼宣 と、 水戸徳川家の祖・徳川頼房 である 6 。これにより、徳川御三家のうち二家は、正木通綱の血を引くことになった。房総の一武将に過ぎなかった正木通綱は、死後約70年を経て、天下人の血脈に連なる「外祖父の父」となったのである。

一族滅亡の危機に瀕したかもしれない稲村の変から始まった物語が、数世代を経て日本の支配者層にその血を繋げるという数奇な運命。これは、一地方の権力闘争が、いかに予測不可能な形で国家史の大きな流れと接続しうるかを示す、戦国時代ならではの壮大な歴史の奇跡と言えるだろう。

結論:再評価されるべき戦国武将、正木通綱

正木通綱の生涯を、伝承のベールを剥がし、史料に基づいて再検証する時、我々の前に現れるのは、従来の「悲劇の忠臣」という一面的なイメージとは大きく異なる、複雑で多面的な人物像である。

彼は、相模からの亡命者ではなく、安房の地に深く根を張り、水軍を掌握し、自らの実力で国主のパートナーにまでのし上がった、したたかな戦略家であった。彼の権力は、里見氏の家臣という従属的な立場ではなく、安房国の統治を分担する独立性の高い同盟者という、特異な地位に支えられていた。

彼の死の舞台となった「稲村の変」は、単なるお家騒動ではなく、里見氏の国家路線をめぐる二大派閥の対立が引き起こした、冷徹な政治的粛清であった。義豊による誅殺は、結果として里見氏の嫡流を滅ぼし、義堯と正木氏が主導する新体制を生み出す契機となった。そして、通綱の死は、皮肉にも彼の一族を房総随一の勢力へと押し上げる礎となり、その血脈は奇跡的に徳川将軍家へと繋がっていった。

正木通綱の生涯は、彼の死が、彼自身が目指したであろう以上の権力と繁栄を彼の一族にもたらしたという、強烈な逆説に貫かれている。その波乱に満ちた生涯と、ローカルな権力闘争からナショナルな歴史へと繋がる壮大な血脈の行方は、戦国という時代の複雑さとダイナミズムを凝縮して体現している。彼は、今後も多角的な視点から再評価され続けるべき、重要な戦国武将の一人である。

引用文献

  1. 武家家伝_正木氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/masaki_k.html
  2. 正木通綱(まさき みちつな)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E6%9C%A8%E9%80%9A%E7%B6%B1-1109563
  3. 内房正木氏 https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_3shou/k3shou_2/k3shou_2.html
  4. 正木通綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%9C%A8%E9%80%9A%E7%B6%B1
  5. 月イチツアー「正木氏の郷」報告 - また旅倶楽部 http://matatabiclub.com/?p=5161
  6. 安房正木氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%88%BF%E6%AD%A3%E6%9C%A8%E6%B0%8F
  7. wwr2.ucom.ne.jp http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/awa-masaki3.htm
  8. 房総(小田喜)正木氏 - 曹洞宗 冨川山 長安寺 房総里見家ゆかりの寺 http://chouanji.main.jp/?p=23
  9. 稲村・岡本両城跡国史跡指定を祝うつどい - 安房文化遺産フォーラム https://awa-ecom.jp/bunka-isan/page/106/?order=rand%28%29&start=530
  10. 【房日】120412*里見氏研究の棟札初公開 - 館山まるごと博物館 https://awa-ecom.jp/bunka-isan/6502/
  11. 里見氏の時代に安房に正木氏あり。 正木氏登場のなぞ https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/youyaku/3shou/3shou_2/3shou_2min.html
  12. 里見 実堯とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%87%8C%E8%A6%8B+%E5%AE%9F%E5%A0%AF
  13. 山之城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B9%8B%E5%9F%8E
  14. 山之城・とうしろ台城(鴨川市田字東上牧) http://otakeya.in.coocan.jp/info01/yamanojou.htm
  15. 山之城の見所と写真・全国の城好き達による評価(千葉県鴨川市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/4248/
  16. 正木通綱 正木家初代 前編 - 戦国塵芥武将伝 https://ncode.syosetu.com/n6948eh/120/
  17. 里見氏の安房国支配と「天文の内乱」 - 館山まるごと博物館 https://awa-ecom.jp/bunka-isan/section/awa-070-040/
  18. 稲村の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E6%9D%91%E3%81%AE%E5%A4%89
  19. 稲村城の戦い - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/InamuraJou.html
  20. さとみ物語・完全版 2章-4文 https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_2shou/k2shou_4/k2shou_4min.html
  21. 里見氏のパートナーになってきた正木通綱(まさきみちつな)が、里見義豊(よしとよ)によって稲村城に呼び付けられて殺害され、同時に叔父の里見実尭(さねたか)も殺害されるという事件がおこりました。 この事件によって里見家は内乱(ないらん)の状態となりました。8月には北条氏の支援をうけた実尭(さねたか)の子義尭(よしたか)の軍と、義豊軍両者により妙本寺(みょうほんじ・鋸南町)を舞台にしての戦いが起こり https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/youyaku/2shou/2shou_4/2shou_4.html
  22. 正木時忠 Masaki Tokitada - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/masaki-tokitada
  23. 「里見義堯」千葉の房総半島を舞台に北条氏康と激闘を展開! 万年君と称せられた安房国の戦国大名 https://sengoku-his.com/1738
  24. 正木氏の別名。 正木大膳 https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/youyaku/3shou/3shou_2/3shou_2.html
  25. 【里見八賢臣】正木時茂 - - 散文小径 - FC2 http://musuitouzan.blog.fc2.com/blog-entry-105.html
  26. 54.正木頼忠と誕生寺 | 千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト http://www.tanjoh-ji.jp/54.html