本報告書は、戦国時代に甲斐武田氏の一門として活動した武田信豊(たけだ のぶとよ、天文18年〈1549年〉生)の生涯、事績、人物像について、現存する史料や研究に基づいて詳細に明らかにすることを目的とする。彼の生きた時代背景、武田家における立場、そしてその最期に至るまでを多角的に検証する。
本報告の対象である甲斐武田氏の信豊とは別に、若狭武田氏にも同姓同名の武田信豊(永正11年〈1514年〉生)が存在する 1 。両者は生没年、出自、活動内容が全く異なるため、混同しないよう細心の注意が必要である。本報告書では、特に断りのない限り、天文18年(1549年)生まれの甲斐武田氏の信豊を指す。両者の主な違いを以下に概説する。
表1:武田信豊(甲斐)と武田信豊(若狭)の比較概要
特徴 |
武田信豊(甲斐武田氏) |
武田信豊(若狭武田氏) |
生年 |
天文18年(1549年) 4 |
永正11年(1514年) 1 |
没年 |
天正10年(1582年) 4 |
天正8年(1580年)頃? 1 |
出自 |
武田信玄の甥、武田信繁(典厩)の次男 2 |
若狭武田氏当主、武田元光の子 1 |
主な活動拠点 |
甲斐国、信濃国など 6 |
若狭国 1 |
官位 |
左馬助、典厩 9 |
伊豆守、治部少輔 1 |
主要な事績 |
甲州征伐にて信濃小諸城で自刃 5 |
若狭国守護、足利義晴に仕える 1 |
この表が示す通り、両者は全くの別人であり、本報告では甲斐武田氏の信豊に焦点を当てる。
本報告の作成にあたり、対象人物の没日として「1582年4月8日」という情報が提示された。しかしながら、甲斐武田氏の信豊の没日として一般的に知られるのは、『信長公記』に見られる天正10年3月16日説 5 や、『恵林寺雑本安見記』などに見られる同3月12日説 4 である。
一方で、若狭武田氏の武田信豊の没年については、天正8年(1580年)4月8日とする説が存在する 1 。この日付の一致(月日のみ)は、甲斐の信豊の没日として「4月8日」が提示された背景に、若狭の信豊との情報の混同があった可能性を示唆している。あるいは、特定の地方史料や家伝など、本調査では確認できなかった情報源に基づく日付である可能性も皆無ではない。本報告では、主要史料に見られる没日を提示しつつ、この「4月8日」という日付についても、その背景や考えられる可能性について慎重に考察を加えることとしたい。
武田信豊は、天文18年(1549年)に生まれた 4 。甲斐武田氏は清和源氏の流れを汲む名門であり 11 、信豊はその親族衆、すなわち武田宗家にとって血縁的に極めて近い一族の一員であった 7 。この出自は、彼の生涯にわたり武田家中で重要な役割を担うことを運命づけるものであった。
信豊の父は、武田信玄の同母弟であり、武田二十四将の一人にも数えられる武田左馬助信繁(たけだ のぶしげ)である 9 。信繁は「典厩(てんきゅう)」の通称で知られ、信玄の片腕として政治・軍事両面で卓越した手腕を発揮し、「まことの武将」と称賛されるなど、家中外で高い評価を得ていた 12 。この偉大な父の存在は、信豊の生涯に大きな影響を与えたと考えられる。
信豊には兄として望月信頼(もちづき のぶより、義勝とも)がいたが、父・信繁が永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで戦死した直後に早世したとされている 7 。これにより、次男であった信豊が父・信繁の跡を継ぐこととなった。若くして名将の父と兄を相次いで失ったことは、信豊にとって大きな悲しみであったと同時に、武田家における自身の役割を強く意識させる出来事であったろう。
信豊の伯父は、戦国時代を代表する武将の一人である武田信玄(晴信)であり 2 、その子である武田勝頼は信豊の従兄弟にあたる 7 。この血縁関係は、信豊が武田宗家と極めて密接な立場にあったことを示しており、信玄存命中からその期待は大きく、勝頼の代には一門衆の重鎮として政権を支える中心人物の一人となっていった。
信豊の家族構成について、判明している情報を以下にまとめる。
表2:武田信豊(甲斐)の家族構成
関係 |
名称 |
備考 |
典拠例 |
父 |
武田信繁(典厩) |
信玄の弟、第四次川中島の戦いで戦死 |
9 |
母 |
養周院日藤尼 |
小諸城で信豊と共に自害 |
6 |
兄 |
望月信頼(義勝) |
信繁戦死直後に早世 |
7 |
正室 |
(小幡憲重の娘) |
上野国衆・小幡憲重の娘 |
13 |
嫡男 |
次郎 |
小諸城で父と共に自害 |
6 |
子(説) |
横畠左馬介貞秀 |
土佐へ落ち延び、勝頼の娘・檮姫と婚姻したとの伝承あり |
14 |
娘(説) |
雅楽 |
香宗我部氏室か 14 |
6 |
娘 |
(小幡信氏室の娘) |
|
6 |
母は養周院日藤尼といい 6 、彼女は天正10年(1582年)の甲州征伐の際、信豊が最期を遂げた信濃小諸城において、息子や孫と共に自害したと伝えられている 6 。
正室は、上野国(現在の群馬県)の国衆であった小幡氏の一族、小幡憲重(おばた のりしげ)の娘であった 13 。小幡氏は武田氏の勢力拡大に伴いその支配下に組み込まれた有力な武家であり、この婚姻は武田氏の対上野戦略や、服属した国衆との関係強化策の一環であったと考えられる。戦国時代の婚姻は、家と家とを結びつける重要な政治的・軍事的手段であり、信豊の婚姻もまた、武田家の勢力基盤を固めるための政略的な意味合いが強かったと推察される。
子女については、史料によって記述に差異が見られるものの、嫡男として「次郎」という名の男子がおり、父と共に小諸城で自害したことが確認されている 6 。また、横畠左馬介貞秀(よこばたけ さまのすけ さだひで)という息子が土佐国(現在の高知県)に落ち延び、武田勝頼の娘である檮姫(とうひめ)と結婚したという伝承も存在する 14 。この伝承の真偽についてはさらなる検討が必要であるが、武田氏滅亡後の遺臣や一族の動向を考える上で興味深い。このほか、娘として「雅楽(うた)」という名の女性がおり、土佐の香宗我部(こうそかべ)氏に嫁いだとする説 14 や、同じく娘が小幡信氏(おばた のぶうじ)の室となったとする記録もある 6 。これらの子女の存在は、信豊の家系が様々な形で後世に繋がっていった可能性を示唆している。
武田信豊の幼名については、『甲陽軍鑑』に「長老」であったとの記述が見られるが、他の史料による裏付けはなく、確証は得られていない 13 。諱(いみな、実名)に関しても、『甲陽軍鑑』は当初「信元(のぶもと)」と名乗り、後に「信豊」に改名したとしているが、これもまた他の確実な史料では確認されていない 13 。一般的には、彼の諱は「信豊」として広く知られている。
通称としては、父・信繁が任官していた左馬助(さまのすけ)の唐名(中国風の呼称)である「典厩(てんきゅう)」を継承して用いた 9 。左馬助は律令制における官職の一つで、馬寮(めりょう、天皇の馬や牧場を管理する役所)の次官であり、武門の誉れとされる官職であった。父子二代にわたって「典厩」を称したことは、信繁から信豊へと武田家における重要な立場が引き継がれたことを象徴しているとも考えられる。
父・武田信繁も「典厩」と称され、その武名と功績は広く知られていた。そのため、後世の記録や文書においては、息子の信豊と区別するために、父・信繁を指して「古典厩(こてんきゅう)」と記すことがある 9 。このような区別がなされた背景には、父・信繁の存在感がいかに大きかったか、そしてその評価が後世に至るまで高く維持されていたかという事情がうかがえる。信豊自身も、常に偉大な父と比較される運命にあったのかもしれない。
武田信豊の官位は「左馬助」であったとされている 9 。これは、武田一門としての彼の地位に相応しいものであったと言えよう。官位は、当時の武家社会における格式や影響力を示す指標の一つであり、左馬助という官職は、信豊が武田家中において一定の敬意と権威をもって遇されていたことを示唆している。
「典厩」という呼称の継承は、単に父の通称を引き継いだという以上に、父・信繁が武田家中で築き上げた信頼や武名、そして「武田の副将」とまで称されたその立場 12 を、信豊が意識的に、あるいは周囲の期待によって背負うことになった可能性を示している。
武田信豊の人生は、若くして大きな転機を迎える。永禄4年(1561年)9月、越後の上杉謙信との間で繰り広げられた第四次川中島の戦いにおいて、父である武田信繁が壮絶な戦死を遂げた 6 。信繁はこの戦いで武田軍本隊の危機を救うべく奮戦し、討ち死にしたと伝えられている。
さらに不幸は続き、父の死の直後、望月家に養子に入っていた信豊の兄、望月信頼(義勝とも)もまた早世してしまった 7 。これにより、信繁家の家督は次男であった信豊が継承することとなった。この時、信豊はまだ12歳か13歳という若年であり、名将として名高い父と、家督を継ぐはずだった兄を相次いで失い、大きな悲しみと重責を同時に背負うことになったのである。
若くして家督を継いだ信豊は、伯父である武田信玄のもとで武将としての経験を積んでいく。
永禄12年(1569年)、武田氏による駿河侵攻が本格化する中で、信豊は重要な戦功を挙げる機会を得る。今川氏の重要拠点であった蒲原城(現在の静岡県静岡市清水区)の攻略戦において、従兄弟にあたる武田勝頼と共に軍功を立てたのである。この時の二人の活躍ぶりについて、信玄は書状の中で「いつもの事だが、勝頼と信豊(信玄の甥)は無謀にも城に攻め上ったが、思いがけず攻略することができた。蒲原城は東海一の堅城で常人には落とせない、また味方の犠牲もなかった」と記し、若い勝頼と信豊の勇猛さと戦果を高く評価している 16 。この評価は、若き信豊にとって大きな自信となり、また家中での彼の評価を高める一助となったであろう。信玄が「いつもの事だが」とやや苦言を呈しつつも、結果として難攻不落の城を落とした甥たちの手腕を認めている様子がうかがえ、信玄の信豊に対する期待の大きさが感じられる。
『新居家所蔵文書』によれば、元亀3年(1572年)、武田信玄が敢行した大規模な西上作戦(京都を目指した進軍)の際には、信豊は信濃国高遠城(現在の長野県伊那市)の在番(城の守備責任者)を務めていた 6 。高遠城は、武田氏にとって信濃支配の重要拠点であり、美濃や尾張方面への進出路を抑える戦略的要衝でもあった。このような重要な城の守備を任されたことは、信玄が信豊の能力を高く評価し、信頼を寄せていたことの証左と言える。この頃、信豊が率いた部隊の軍装は黒色で統一された「黒揃え」であったという伝承も残っており 6 、彼の部隊が精強で特徴的なものであった可能性を示唆している。
天正元年(1573年)、信玄最晩年の軍事行動である三河国長篠城(現在の愛知県新城市)および作手城への侵攻作戦にも、信豊は参加していたことが確認されている 6 。この作戦の途上で信玄は病に倒れ、同年4月12日に死去することになるが、信豊は信玄の最後の軍事作戦にも従軍し、その薫陶を受けていたことになる。
信玄の死後、武田家の家督は従兄弟である武田勝頼が継承した。信豊は、勝頼政権下において、一門衆の重鎮としてますます重要な役割を担うことになる。
『甲陽軍鑑』によれば、武田信豊は武田家臣団において、同じく親族衆の重鎮であった穴山信君(梅雪)と共に、当主である武田勝頼を補佐する筆頭格の立場にあったとされている 6 。歴史学者の服部治則氏による研究においても、勝頼期の一門衆筆頭としての信豊の活動は注目されており、一次史料を中心とした事績の検証や、名乗り、姻戚関係の把握といった基礎的な研究が進められている 17 。これは、信豊が勝頼政権の運営において、単なる血縁者としてではなく、実質的な影響力を持つキーパーソンの一人と見なされていたことを示している。
天正3年(1575年)5月、武田勝頼が織田信長・徳川家康連合軍と激突した長篠の戦いは、武田氏にとって壊滅的な敗北となった。この歴史的な合戦に、信豊も参陣している。一部の資料 18 で「120騎を率いて織田方へ突撃し、つるべ射ちの銃弾を浴び、壮絶な戦死を遂げた」と記されているのは、同合戦で戦死した別の武将、原昌胤に関する記述であり、信豊は長篠で戦死してはいない点に注意が必要である。
信豊の長篠における具体的な動向については、武田軍の左翼部隊として布陣し、彼が率いた「黒備え」と呼ばれる部隊が織田・徳川連合軍の馬防柵に攻め寄せたものの、連合軍の大量の鉄砲による激しい銃撃を受けて持ちこたえられず、退却を余儀なくされたと記録されている 19 。この「黒揃え」あるいは「黒備え」と称される部隊の存在は、信玄時代からの伝承 6 とも符合し、信豊が特徴的な編成の精鋭部隊を率いていた可能性を裏付けている。この敗戦は武田家の衰退を決定づけるものであり、信豊もまた、その苦境の中で奮闘した武将の一人であった。
天正6年(1578年)、越後国で上杉謙信が死去すると、その後継者の座を巡って謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎(北条氏政の実子)の間で激しい内乱、いわゆる御館の乱が勃発した。当初、武田勝頼は、同盟関係にあった北条氏への配慮から景虎を支援する動きを見せていた。
しかし、事態は流動的であった。勝頼の先手を担って越後国境付近に布陣していた武田信豊の陣中に、上杉景勝方からの使者が訪れ、和睦交渉が開始されたのである 20 。この時、信豊は独断で使者を受け入れて対話に応じたが、後に勝頼もこの信豊の判断を追認し、交渉を継続させた 20 。この信豊による初動が、結果的に武田氏の外交方針を大きく転換させるきっかけとなった。
交渉の結果、武田氏は景勝との和睦を成立させ、さらに進んで甲越同盟を締結するに至った。この同盟の条件には、景勝から勝頼へ黄金一万両が贈られること、上杉氏が支配していた東上野(こうずけ)の一部と信濃国飯山領が武田方に割譲されること、そして勝頼の妹である菊姫を景勝に嫁がせることなどが含まれていた 21 。信豊が主導したこの外交交渉は、武田氏にとって一時的にではあるが、北陸方面の安定と領土拡大という実利をもたらした。一方で、この同盟は、それまで同盟関係にあった北条氏との関係を悪化させる結果を招き、武田氏が外交的に孤立を深める一因ともなった。信豊のこの外交判断が、長期的に武田家にどのような影響を与えたのかは、評価が分かれるところであろう。しかし、彼が単なる武勇の将としてだけでなく、外交の舞台でも重要な役割を担いうる人物であったことは、この一件からも明らかである。
信玄から寄せられた信頼と期待は、勝頼の代になっても変わらず、むしろ長篠の敗戦で多くの宿老を失った武田家にあって、信豊のような一門衆の若きリーダーへの期待は一層高まっていたと考えられる。しかし、それは同時に、傾きゆく武田家の命運を双肩に担うという、計り知れない重圧でもあったであろう。
天正10年(1582年)2月、織田信長は満を持して武田領への総攻撃を開始した。これが甲州征伐である。この戦役において、武田氏にとって致命的な打撃となったのが、信濃国木曾谷の領主であり、武田信玄の娘婿でもあった木曾義昌の織田方への寝返りであった 22 。義昌の離反は、織田軍に信濃への主要な侵攻路を開くことになり、武田方の防衛体制に大きな動揺を与えた。
武田信豊は、この木曾義昌の反乱を鎮圧すべく討伐軍の将として木曾谷へ出陣したが、織田軍の支援を受けた木曾勢の抵抗は激しく、信豊軍は敗北を喫した 6 。その後、信豊は武田勝頼の本隊と合流し、武田氏の本拠地である新府城(現在の山梨県韮崎市)へと撤退するが、織田・徳川・北条連合軍の圧倒的な兵力の前に、武田方の戦線は各所で崩壊し、戦況は絶望的な状況へと陥っていった。
追い詰められた武田勝頼は、新府城を放棄し、家臣の小山田信茂の居城である岩殿城(山梨県大月市)を目指して落ち延びることを決意する。天正10年(1582年)3月2日、信豊は勝頼一行と別れ、わずか20騎ほどの手勢を率いて、信濃国小諸城(現在の長野県小諸市)へと向かった 6 。
小諸城は、かつて父・武田信繁が領有し善政を敷いたと伝えられる地であり 23 、信豊自身も城主を務めた経験があるなど 4 、武田氏にとって、そして信豊個人にとってもゆかりの深い城であった。信豊がこの地を目指したのは、旧臣らを糾合し、再起を図ろうとしたためと考えられる。
しかし、信豊の最後の望みは、無惨にも打ち砕かれることとなる。小諸城の城代を務めていた下曾根浄喜(しもそね じょうき、名は賢範〈かたのり〉とも伝わる 4 )を頼って入城したものの、この下曾根が織田方に寝返り、信豊を裏切ったのである 5 。
下曾根は二の丸に火を放つなどして信豊らを追い詰め、進退窮まった信豊は、母である養周院日藤尼、嫡男の次郎、そして最後まで付き従った家臣らと共に自刃して果てた 5 。享年34歳であった 4 。父祖伝来の地であり、再起を期したはずの小諸城が、皮肉にも信豊にとって最期の場所となったのである。
下曾根浄喜の裏切りの動機については、史料に明確な記述は少ないものの、武田氏の急速な衰退と織田軍の圧倒的な勢力を目の当たりにし、自らの保身を図った結果である可能性が高い。主家が滅亡の危機に瀕した際、家臣が離反したり裏切ったりする例は戦国時代には枚挙にいとまがなく、下曾根もまた、時勢を読み、生き残りの道を選択した一人であったと考えられる。一説には、下曾根は信豊の首を織田信長に差し出して自身の保身を図ろうとしたが、信長によってその不忠を咎められ、誅殺されたとも伝えられている 8 。この説が事実であれば、裏切りは必ずしも彼自身の安泰には繋がらなかったことになる。
信豊の最期には、母である養周院日藤尼 6 と、嫡男の次郎 6 が運命を共にした。武田家の血筋を引く女性や幼い子供までもが、戦乱の犠牲となった事実は、当時の過酷な状況を物語っている。また、信州筑摩郡内田郷(現在の長野県松本市周辺)の地頭であり、信豊の姪婿(めいのむこ)にあたる桃井将監(もものい しょうげん)も、小諸城において信豊と運命を共にしたと記録されている 24 。
武田信豊の没年は、天正10年(1582年)であることで諸史料は一致している。しかし、その没日については、史料によっていくつかの説が存在する。
これらの日付の差異は、情報源の違いや記録の過程での何らかの事情によるものと考えられる。本報告の冒頭で触れたユーザー指定の「4月8日」という日付については、これらの主要史料とは異なっており、前述の通り、若狭武田氏の同名人物の没日(天正8年4月8日説) 1 との混同、あるいは本調査では確認できなかった特定の伝承や史料に基づく可能性が考えられるが、甲斐武田氏の信豊の没日として広く認知されている日付ではない。
信豊の最期に関して、『当代記』には、彼が小諸城へ向かう際に「関東へ逃れる意図もあった」との記述が見られる 6 。これは、当時関東地方を勢力下に置いていた後北条氏を頼ろうとした可能性を示唆するものである。しかし、他の軍記物などでは、信豊が武田宗家を見限って関東へ逃亡しようとしていた矢先に自害したとする説もあるものの、これを裏付ける確実な一次史料は現存していないとされている 24 。
当時の武田氏と後北条氏の関係は、御館の乱以降、甲越同盟の成立によって悪化していたものの、織田信長という共通の強大な敵を前に、再び連携する可能性も皆無ではなかった。しかし、下曾根浄喜の裏切りによって、信豊がそのような行動を取る機会は完全に失われたと言えるだろう。
武田家の滅亡は、木曾義昌の裏切りに始まり、勝頼を裏切った小山田信茂の行動、そして信豊に対する下曾根浄喜の裏切りなど、まさに裏切りの連鎖であった。これは、武田家の求心力が急速に失墜し、織田信長の圧倒的な軍事力の前に、多くの家臣たちが絶望感を抱いていたことの現れであった。
小諸城で自刃した武田信豊の首級は、裏切った下曾根浄喜(あるいは織田方)の手によって、武田勝頼、その嫡男・信勝、そして同じく最後まで抵抗し高遠城で討ち死にした仁科盛信(信玄の子、信豊の従兄弟)らの首級と共に、信濃国飯田(現在の長野県飯田市)に進駐していた織田信長のもとへ届けられた 6 。『信長公記』には、天正10年(1582年)3月16日に、信豊の首が信長によって検分されたと記されている 10 。
その後、これらの首級は、信長の家臣である長谷川宗仁によって京都へ輸送され、一条大路の獄門にかけられた 6 。これは、かつて強大な勢力を誇った武田氏の完全な滅亡を天下に知らしめるための、織田信長による示威行為であった。
梟首という辱めを受けた信豊であったが、その遺骸や魂が供養されたと伝える場所がいくつか存在する。
京都で獄門にかけられた後、勝頼、信勝、そして信豊らの首級は、臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺(京都市右京区花園)の僧・南化玄興(なんかげんこう、南化和尚とも)の尽力により同寺に引き取られ、塔頭(たっちゅう、大寺院の敷地内にある小寺院)の一つである玉鳳院(ぎょくほういん)に葬られたと伝えられている 6 。現在も玉鳳院には、武田信玄、勝頼、信勝、そして信豊の供養塔が、奇しくも本能寺の変で倒れた織田信長・信忠父子の供養塔と隣り合うようにして祀られている 26 。
敵将として滅ぼされた武田一族が、なぜ京都の名刹に手厚く葬られたのか、その詳細な経緯は必ずしも明らかではない。南化玄興と武田氏との間に何らかの特別な縁故があったのか、あるいは単に仏教的な慈悲の精神に基づくものであったのか、さらなる研究が待たれるところである。しかし、戦国の世の敵対関係を超えて、死者の冥福を祈るという行為が存在したことを示す興味深い事例と言えるだろう。
もう一つ、信豊の遺骸に関する特異な伝承が残されているのが、長野県下伊那郡阿智村にある大平神社(おおひらじんじゃ)、通称「頭権現(こうべごんげん)」である。この神社の御神体は人間の頭蓋骨であり、これが武田信豊のものであるという説が存在する 6 。
神社の伝承によれば、文禄元年(1592年)、この地を通りかかった山伏(自身を武田の一族であると名乗ったという)が、地元住民とのいさかいの末に殺害されてしまった。その後、村に悪疫が流行し、人々が苦しんだ。ある時、村人の夢枕にその山伏が現れ、自身の遺骨を丁重に祀れば疫病は治まると告げた。お告げに従い、埋められていた山伏の頭蓋骨を掘り出して祀ったところ、疫病はたちどころに終息したという。以来、この祠は「頭権現」として崇められるようになり、特に頭部の病にご利益があると信じられるようになった 27 。神社の定紋幕が武田氏の家紋である「武田菱」であることも 27 、この伝承と武田氏との関連を補強する要素となっている。
この伝承の史実性を直接証明することは困難であるが、武田氏滅亡後も、その一族に対する人々の畏敬や同情の念が各地に根強く残っていたことを示す一つの現れと見ることができる。特に、非業の死を遂げた敗者の死にまつわる伝承は、その人物の悲劇性を語り継ぎ、鎮魂する役割を担うことが多い。
信豊が最期を遂げた信濃小諸における墓所や供養に関する直接的かつ具体的な史料は、現時点での調査では明確には確認されていない。小諸城内で自害したことは複数の史料で一致しているが 5 、その後の遺体の扱いや埋葬場所についての詳細は不明である。
ただし、信豊の父・武田信繁の首塚が、小諸にある布引山釈尊寺(ぬのびきさんしゃくそんじ)に寄託されているという伝承がある 23 。このことから類推すれば、信豊についても最期の地である小諸で何らかの形で供養が行われた可能性は否定できないが、具体的な情報については今後のさらなる調査が待たれる。
武田信豊の血脈がその後どのように繋がっていったのか、いくつかの伝承や記録が残されている。
信豊の嫡男であった「次郎」という名の男子は、天正10年(1582年)3月、父・信豊が信濃小諸城で自害した際に、運命を共にしたとされている 6 。これにより、信豊の家督を継ぐべき嫡流は途絶えたものと考えられる。
一方で、信豊の子(一説には嫡子とされる)横畠左馬介貞秀(よこばたけ さまのすけ さだひで)が、武田氏滅亡の混乱を生き延び、遠く土佐国(現在の高知県)に落ち延びたという伝承が比較的詳細に残されている 14 。
この伝承によれば、貞秀は土佐で、同じく甲斐を逃れてきたとされる武田勝頼の娘・檮姫(とうひめ)と巡り合い、結婚したという 14 。貞秀は土佐で山本姓を名乗り、現地の有力大名であった長宗我部氏に仕えたとも伝えられている 14 。『長宗我部地検帳』には、勝頼(変名:大崎玄蕃)と左馬助貞秀の共同名義で土地を所有していた記録があるともされ 14 、この伝承の信憑性を高める要素となっている。
しかし、檮姫は病弱であったとされ、文禄2年(1593年)に24歳という若さで亡くなったと伝えられている 14 。貞秀と檮姫の間に子供がいたかなど、その後の詳細な系譜は必ずしも明らかではないが、この系統の子孫が土佐の横畠氏として続き、武田氏ゆかりの家紋である武田菱を用いたとも言われている 14 。
この土佐落人伝説は、中央の歴史記録からはこぼれ落ちがちな、敗れた一族のその後の動向や、地方に残る記憶のあり方を示す興味深い事例である。ただし、伝承の史実性については、さらなる史料の発見や比較検討を通じた慎重な検証が求められる。
武田信豊の子供として、「雅楽(うた)」という名の娘がいたとする情報がある 6 。一部の資料解釈によれば、この雅楽は土佐の有力国衆であった香宗我部親秀(こうそかべ ちかひで)の室(正室)となり、後に長宗我部氏の重臣として活躍する香宗我部親泰(ちかやす)を産んだとされている 14 。
もしこの伝承が事実であれば、武田信豊の血脈は女系を通じて土佐の有力武家に繋がり、西国で存続した可能性が出てくる。これは、戦国時代の武家の婚姻戦略や、家名を維持するための一つの形態を示すものと言えるだろう。香宗我部氏の出自については史料 31 もあるが、雅楽との具体的な関連を直接示すものではない。この雅楽に関する情報の典拠や詳細については、さらなる検証が必要である。
武田信豊には、上野国(現在の群馬県)の武田氏配下の国衆であった小幡信氏(おばた のぶうじ、信貞〈のぶさだ〉とも)の室となった娘がいたことも記録されている 6 。
この娘の具体的な名前や、武田氏滅亡後の彼女の消息、そしてその子孫に関する情報は、現時点での調査では不明である。小幡氏は武田氏滅亡後、後北条氏に仕え、小田原合戦後は真田氏を頼ったとも伝えられている 32 。信豊の娘が嫁いでいた場合、彼女の運命もまた、夫家である小幡氏の動向と共に大きく変転した可能性が高いが、その具体的な足跡を辿ることは現存史料からは困難である。
武田信豊がどのような人物であったか、その能力や逸話、そして武田家中における評価については、断片的ながらもいくつかの史料からうかがい知ることができる。
江戸時代初期に成立したとされる軍学書『甲陽軍鑑』は、武田氏三代(信虎、信玄、勝頼)の事績や家臣団について詳述しており、武田氏研究における基本史料の一つとされている。ただし、その成立過程や記述の信憑性については、後世の加筆や脚色が含まれる可能性も指摘されており、史料批判的な視点からの検討が不可欠である 33 。
『甲陽軍鑑』によれば、武田信豊は200騎を指揮する武将であったとされ 6 、親族衆の重鎮である穴山信君(梅雪)と共に、当主である武田勝頼を補佐する筆頭格の立場にあったと記されている 6 。これは、勝頼政権において信豊が軍事的にも政治的にも重要な役割を期待されていたことを示唆している。
一方で、『甲陽軍鑑』の品第十七「甲州信玄家、大身小身共、人数大積(つもり)の事巻第八」には、武田家の御親類衆として「武田典厩」(父・信繁を指すと考えられる)の名と二百騎という兵力は記されているものの、「武田信豊」個人の名前や、「小諸にて武田信豊生害の事」といった直接的な記述は見当たらないとする資料解釈もある 36 。この情報の齟齬については、参照した『甲陽軍鑑』の底本や校訂版の違い、あるいは参照箇所の違いによる可能性も考えられるため、慎重な扱いが求められる。
織田信長の一代記である『信長公記』は、信豊の最期に関して、彼の首級が信濃飯田の信長のもとに届けられた日付(天正10年3月16日)や、その後の京都での梟首といった事実を、比較的客観的な筆致で記録している 6 。これは織田側の記録であり、一次史料に近い価値を持つ情報として重要である。
武田信豊の父・信繁は、「武田の副将」とまで称され 9 、信玄からも深く信頼された名将であった。その息子である信豊に対しても、父同様の活躍を期待する声が家中には大きかったことは想像に難くない。血縁的にも武田宗家に極めて近く、一門衆の筆頭格として、軍事・政治の両面にわたり武田家を支えるという重責を担っていた。
特に、武田勝頼の時代になると、信玄時代からの経験豊富な宿老たちが長篠の戦いなどで多く失われた後であり、信豊のような若い世代の一門衆にかかる期待と責任は、ますます大きなものとなっていたはずである。彼は、傾きゆく武田家の運命の中で、最後までその期待に応えようと奮闘した武将の一人であったと言えるだろう。
偉大な父・信繁の存在は、信豊にとって誇りであると同時に、常に比較されるというプレッシャーでもあったかもしれない。また、穴山信君と共に勝頼を補佐したという評価 6 は、彼が単に血縁者というだけでなく、実力も伴った武将であったことを示唆する。しかし、その勝頼政権自体が最終的に崩壊したという結果から見れば、彼の補佐が十分であったのか、あるいは時代の大きな流れには抗しきれなかったのか、その評価は多角的な視点からなされるべきであろう。
本報告書は、甲斐武田氏の一門として戦国時代を生きた武田信豊(天文18年〈1549年〉生、天正10年〈1582年〉没)の生涯と事績について、現存する史料や研究に基づいて検証を試みた。
信豊は、武田信玄の甥であり、名将と謳われた武田信繁の子として、武田家にとって極めて重要な血縁的背景を持って生まれた。若くして父と兄を失い家督を継承し、伯父・信玄、従兄弟・勝頼の二代にわたり武田家に仕えた。信玄時代には蒲原城攻略などで武功を挙げ、西上作戦では高遠城の守備を任されるなど、その将来を嘱望された。勝頼の代には一門衆の筆頭格として、長篠の戦いへの参陣や御館の乱における外交交渉など、軍事・政治の両面で武田家を支える重責を担った。
しかし、天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐という時代の大きな渦に巻き込まれ、再起を期して入った信濃小諸城において、城代・下曾根浄喜の裏切りに遭い、母・養周院、嫡男・次郎らと共に自刃するという悲劇的な最期を遂げた。享年34歳であった。
武田信豊の生涯は、戦国時代末期における有力大名・武田氏の栄光と、その急速な衰亡を象徴する一つの事例と言えるだろう。彼の活動や最期は、武田家の内部事情、外交戦略の変遷、そして滅亡に至る過程を理解する上で、重要な示唆を与えてくれる。
また、信豊に関する様々な伝承、例えば土佐の横畠氏への血脈の繋がりや、長野県阿智村の大平神社(頭権現)における頭蓋骨信仰などは、中央の歴史記録からは見えにくい、地方における歴史の記憶や、敗者に対する人々の想いのあり方を示すものとして興味深い。これらの伝承は、史実性の検証という課題は残るものの、歴史の多層性を理解する上で貴重な手がかりとなる。
本報告の作成にあたっては、同姓同名である若狭武田氏の武田信豊との混同を避けることに細心の注意を払った。歴史上の人物を正確に理解し、その実像を後世に伝えていくことの重要性を改めて認識させられる。武田信豊(甲斐武田氏)という一人の武将の生涯を通じて、戦国という激動の時代の一断面を垣間見ることができたと言えよう。彼の短いながらも濃密な生涯は、今後も歴史研究の対象として、さらなる光が当てられることを期待したい。