武藤友益は若狭の国衆。信長に一度降伏後、反信長勢に呼応し再起図るも敗れ所領を失う。本能寺の変後、明智光秀に加担し再び再起を試みるが、その後の消息は不明。
日本の戦国時代は、下剋上と群雄割拠の時代として知られるが、その歴史は織田信長や豊臣秀吉といった天下人の物語だけで語られるものではない。その背後には、自らの領地と一族の存続をかけて時代の大きなうねりに立ち向かい、そして消えていった無数の地方豪族、すなわち「国衆」の存在があった。本報告書が光を当てる武藤友益(むとう ともます)も、そのような国衆の一人である。
若狭国(現在の福井県南西部)の豪族にして石山城主であった武藤友益は、当初は若狭守護・武田氏の重臣として地域に勢力を誇った。しかし、中央から押し寄せる織田信長の天下布武の波は、彼の運命を大きく揺さぶることになる。信長の若狭侵攻軍に一度は降伏するも、反信長勢力の蜂起に呼応して再起を図り、再び敗れて所領を失う。その生涯は、まさしく戦国乱世の激動を体現するものであった。
本報告書は、現存する史料や研究成果を基に、武藤友益という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げることを目的とする。彼の出自と若狭における勢力基盤、織田信長との対決の経緯、そして本能寺の変後の謎に包まれた最期までを、主家である若狭武田氏の衰退、若狭国内の権力闘争、そして信長による中央集権化という三つの歴史的文脈の中に位置づけ、多角的に分析・解明していく。
武藤友益の動向は、信長の統一事業が地方レベルでどのように展開し、いかなる摩擦や抵抗を生んだかを示す貴重な事例である 1 。彼の選択と行動の軌跡を丹念に追うことは、戦国時代という構造転換期におけるミクロな力学を理解し、天下統一というマクロな歴史の潮流をより深く、立体的に把握するための一助となるであろう。
年代(西暦) |
元号 |
武藤友益の動向 |
若狭・中央の情勢(背景) |
典拠 |
天文7年 (1538) |
天文7年 |
加斗荘の伊崎堯為を攻め降伏させる(伝承)。 |
若狭武田氏の権威が揺らぎ始める。 |
2 |
永禄9年 (1566) |
永禄9年 |
主君・武田義統を支持し、粟屋勝久らの謀反と対立。 |
若狭国内で国衆間の内紛が激化。 |
2 |
元亀元年 (1570) 4月 |
元亀元年 |
織田信長、友益討伐を口実に若狭へ侵攻。 |
信長、朝倉義景討伐を開始(金ヶ崎の戦い)。 |
2 |
〃 4月末 |
〃 |
明智・丹羽軍に降伏。母を人質に出し、石山城を破却される。 |
信長、金ヶ崎から撤退後、背後の安全確保を図る。 |
2 |
〃 10月 |
〃 |
信長に再蜂起。信長方の賀羅岳城を攻略。 |
反信長包囲網が形成される(志賀の陣)。 |
2 |
天正3年 (1575)頃 |
天正3年 |
信長により追放され、所領は逸見昌経に与えられる。 |
信長、越前一向一揆を平定し、若狭支配を固める。 |
2 |
天正10年 (1582) 6月 |
天正10年 |
本能寺の変後、武田元明と共に明智光秀に与し、佐和山城を占拠。 |
信長死去。旧勢力が各地で再起を図る。 |
2 |
〃 6月以降 |
〃 |
山崎の戦い後、追放される(一説に丹羽長秀家臣となる)。 |
羽柴秀吉が台頭し、明智方を粛清。若狭は丹羽長秀の支配下へ。 |
2 |
武藤友益の行動原理を理解するためには、まず彼が若狭国においてどのような立場にあったのか、その勢力基盤を明らかにする必要がある。彼は若狭守護・武田氏の家臣でありながら、同時に自立性の高い地域領主でもあった。
武藤氏の出自は古く、鎌倉時代初期以来の譜代家臣の家柄であったと伝わる 2 。その本拠は若狭国大飯郡佐分利郷の石山(現在の福井県おおい町)にあり、この地を拠点として佐分利郷十七ヶ村を領有していた 2 。この長年にわたる地域支配の実績が、彼の国衆としての強い自立性の源泉となっていた。
その地域における権威の大きさは、彼が「佐分利殿」と称されていたことからも窺い知ることができる 2 。この称号は、単なる地名に由来する通称ではなく、佐分利郷一帯における彼の排他的な支配権を象徴するものであった。
彼の勢力拡大を示す伝承として、天文7年(1538年)に近隣の加斗荘の土豪であった伊崎堯為を攻めて降伏させ、その一族を自らの執事として召し抱えたという話が伝わっている 2 。ただし、この伝承を直接裏付ける一次史料は確認されておらず、史実として確定するには慎重な検討を要するものの 2 、武藤氏が周辺の小領主を従え、勢力を伸張させていった様子を物語る逸話として注目される。
友益が仕えた主家、若狭守護・武田氏は、安芸武田氏の嫡流であり、室町幕府の命により若狭守護職を得て以来、同地を支配してきた名門であった 11 。しかし、友益が活躍した戦国後期には、度重なる国外出兵や家督を巡る内紛によってその勢力は著しく衰退していた 11 。特に、守護・武田義統の死後、その子である元明が隣国越前の朝倉義景によって一乗谷に連行され、事実上の軟禁状態に置かれるに至っては、守護としての権威は失墜し、若狭国内は権力の空白状態に陥っていた 11 。
このような状況下で台頭したのが、武藤友益をはじめとする有力な国衆であった。友益は、粟屋勝久、内藤重政らと共に「武田四老」の一人に数えられている 3 。この「四老」という呼称は、弱体化した武田家中において、彼ら有力家臣が国政の実権を掌握していた実態を示すものである。永禄9年(1566年)に粟屋勝久や熊谷氏が主君・武田義統に対して謀反を起こした際には、友益は逸見氏や本郷氏と共に義統を支持しており 2 、主家への一定の忠誠心を見せている。しかし、これもまた、自らの権益を守るための政治的判断であった側面が強く、守護権力の形骸化が進む中で、国衆たちは自らの勢力維持を最優先に行動していた。
「武田四老」という呼称は、彼らが一枚岩の家臣団として主家を支えていたことを意味するものではない。むしろ、守護権力の空洞化に乗じて台頭した、互いに競合し合う四つの地域勢力の総称と解釈するのが実態に近い。友益の行動原理は、第一に「佐分利殿」としての自領の維持・拡大であり、主家への忠誠や四老としての連携は、その目的を達成するための手段に過ぎなかった。
その証拠に、友益は同じ武田家臣でありながら、領地が隣接する本郷氏や逸見氏とは常に紛争を繰り返していた 7 。特に本郷氏との対立は深刻であり、本郷氏は友益の侵攻に備えるため、それまでの平地の居館であった高田城を放棄し、新たに山城である達城を築いて本拠を移したと記録されている 15 。これは、両者の緊張関係がいかに激しいものであったかを如実に物語っている。
こうした若狭国内の国衆間の絶え間ない内部対立は、若狭国が統一された権力の下になく、有力な豪族がそれぞれ自立して割拠する「分裂状態」にあったことを示している。そして、この構造的な脆弱性こそが、後に織田信長による介入を容易にし、友益自身の運命をも左右する決定的な要因となったのである。
元亀元年(1570年)、天下布武を掲げる織田信長の勢力が若狭に及ぶと、武藤友益は否応なく歴史の大きな転換点に立たされることになった。彼のその後の行動は、降伏、抵抗、そして没落という、戦国期の地方豪族が辿る典型的な軌跡を描いていく。
元亀元年(1570年)4月、織田信長は3万と号する大軍を率いて京を出陣し、若狭へと侵攻した 4 。この遠征の表向きの名目は「武藤友益の討伐」であった 2 。信長が同年7月に毛利元就へ送った書状によれば、将軍・足利義昭より友益討伐を命じられたが、調査を進めるうちにその背後に越前の朝倉義景がいることが判明したため、目標を朝倉氏に変更して越前敦賀へ軍を進めた、と説明されている 3 。
しかし、これは信長の巧みな戦略であったとする見方が有力である。当時、朝倉義景は信長が発した度重なる上洛命令を無視し続けており、信長にとって討伐すべき明確な敵であった 17 。多くの研究者は、信長が当初から朝倉氏の討伐を真の目的としており、「友益討伐」はそのための大義名分、すなわち朝倉領へ不意に侵攻するための口実として利用されたと考えている 3 。友益自身が実際に信長に対して明確な敵対行動を取っていたか否かは不明であるが 2 、彼は信長のより大きな戦略の駒として、その渦中に巻き込まれた形となった。
信長軍は若狭を通過し、越前へ侵攻するが、同盟者であったはずの近江の浅井長政の裏切りに遭い、窮地に陥る。世に言う「金ヶ崎の退き口」である 4 。命からがら京へ帰還した信長は、背後の安全を確保するため、直ちに手を打った。明智光秀と丹羽長秀を若狭へ派遣し、武藤氏の制圧にあたらせたのである 5 。
この軍勢を前に、友益は抵抗することなく降伏した。その条件は過酷なもので、居城である石山城は破却され、さらに母を人質として差し出すことを余儀なくされた 2 。これは、敵対勢力に対してその拠点と権威の象徴を破壊し、人質によって忠誠を強いるという、信長が常用した支配手法であった。一族の存続を図るためには、これを受け入れざるを得ない、苦渋の決断であった。
しかし、友益の抵抗の意志が完全に潰えたわけではなかった。同年9月、摂津の石山本願寺が反信長を掲げて蜂起すると、それに呼応して浅井・朝倉連合軍も再び活動を活発化させ、信長は四方を敵に囲まれる最大の危機に陥った(志賀の陣) 7 。この千載一遇の好機を捉え、友益は信長への反旗を翻す。彼は、同じく反信長に転じた武田信方や粟屋右京亮といった若狭の国衆と連携し、信長方の山県孫三郎が守る賀羅岳城を攻め落としたのである 2 。この行動は、単なる無謀な挑戦ではなく、中央の政治情勢を的確に読み、信長支配からの脱却と失地回復を賭けた、地方豪族としての合理的な生存戦略であった。
友益の賭けは、しかし、長くは続かなかった。信長は巧みな外交と軍事行動で包囲網を切り抜け、年末には朝倉・浅井軍と和睦する。これにより、友益は強力な後ろ盾を失い、若狭国内で政治的に完全に孤立してしまった 7 。
信長にとって、一度降伏しながら再び裏切った友益の存在は許しがたいものであった。天正3年(1575年)の越前一向一揆平定後、信長が若狭の支配体制を再編する過程で、友益は追放されたと見られている 2 。彼の旧領である石山3,000石は、若狭侵攻以来一貫して信長方として行動したライバル、逸見昌経に加増という形で与えられた 7 。
これは、信長による「信賞必罰」の徹底を示すと同時に、若狭の国衆の内部対立を巧みに利用して支配を確立する、彼の統治術の表れでもあった。友益の運命は、彼自身の力だけでは抗うことのできない、より大きな権力闘争の力学によって決定づけられたのである。
織田信長によって追放され、歴史の表舞台から姿を消したかに見えた武藤友益。しかし、天正10年(1582年)に起きた本能寺の変は、彼に最後の再起の機会を与えることになった。だが、その後の彼の足跡は錯綜した情報の中に埋もれ、今なお謎に包まれている。
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が京都・本能寺で横死すると、信長によって抑圧されていた各地の勢力は一斉に動き出した。信長の死後、若狭への帰国を果たした旧主・武田元明は、明智光秀に与することを決断する。信長によって追放されて以来、その消息が不明であった友益もこの時、突如として歴史の表舞台に再登場し、元明に従い他の若狭衆と共に光秀方についた 2 。これは、信長によって奪われた旧領と権威を回復するための、彼にとって最後の大きな賭けであった。
友益ら若狭衆は、明智方の拠点として近江の佐和山城を占拠する 2 。しかし、彼らの期待も束の間、山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に討たれると、この再起の試みもわずか十数日で水泡に帰した。
山崎の戦いの後、主君であった武田元明は秀吉の命により自害させられた。では、彼に従った武藤友益はどのような運命を辿ったのだろうか。ここから、彼の消息に関する記録は分岐し、明確な定説を見ていない。
追放説
最も一般的な見解は、友益が再び追放されたというものである。『信長公記』の著者である太田牛一が記したとされる史料などを根拠に、明智方に与した「逆賊の味方」として、その地位を完全に失い、歴史の闇に消えていったとする説である 2。
丹羽長秀家臣説
その一方で、全く異なる運命を記す史料も存在する。「すぐに赦免され、丹羽長秀の家臣になった」という記録である 9。山崎の戦いの後、若狭国は秀吉の宿老である丹羽長秀の所領となった。長秀が若狭の安定統治のため、旧領主である友益ら若狭衆を懐柔し、自らの家臣団に組み込んだ可能性は十分に考えられる。これは、旧敵対勢力を取り込むことで支配を安定させようとした、秀吉政権の現実的な統治政策の一環と見なすこともできる。
「武藤景久」との関係
この家臣説を巡っては、さらに専門的な論争が存在する。丹羽家の記録である『丹羽歴代年譜付録』には、「武藤景久(かげひさ)」という人物が若狭衆として記載されている 2。研究者の谷口克広氏はこの「景久」を友益と同一人物と比定し、友益が名を変えて丹羽家臣として生き延びた可能性を指摘している 2。しかし、これに対して河村昭一氏らは、別人であるとして慎重な見方を示しており、学術的な見解は一致していない 2。
武藤友益の最期に関する情報の錯綜は、本能寺の変直後の政治的混乱と、歴史記録における「敗者」の扱いの困難さを象徴している。彼が再び追放され流浪の内に生涯を終えたのか、それとも名を変えて巧みに生き延びたのか。この確定できない「謎」こそが、武藤友益という武将の生涯の結末であり、史料の限界が示す歴史の深淵でもある。
武藤友益の権力と生活の基盤であった石山城。その遺構と発掘調査の結果は、彼が単なる一介の武人ではなく、一地域を統治する領主であったことを雄弁に物語っている。
石山城は、若狭国大飯郡を流れる佐分利川流域を一望できる、標高約190メートルの山頂に築かれた山城である 5 。その縄張りは、山頂から北へ伸びる尾根筋に主郭をはじめとする複数の曲輪を直線的に配置し、そこから四方に伸びる支尾根を巨大な堀切で遮断するという、戦国期山城の典型的な構造を示している 7 。
舞鶴若狭自動車道の建設によって城域の北端部などが失われたものの 7 、現在も曲輪、土塁、そして尾根を断ち切る堀切などの遺構が良好な状態で残されている。近年の調査では、斜面からの敵の侵入を防ぐための畝状竪堀群も検出されており 7 、城の防御に対する高い意識が窺える。この城は、佐分利郷という自らの領地を防衛・統治するための、まさに軍事拠点であった。
石山城の特筆すべき点は、その機能が軍事的なものに留まらなかったことである。一般的に山城は戦の際に立てこもる臨時の砦というイメージが強いが、石山城は平時から城主が生活を営んでいた可能性が高いと指摘されている 5 。
その根拠となるのが、城内で行われた発掘調査の成果である。調査では、恒久的な建物があったことを示す礎石建物跡が発見されたほか、中国から輸入された青磁碗や白磁皿といった、当時の高級な陶磁器が多数出土している 10 。これらの遺物は、城主である友益が、この山城の中で日常的な政務を執り、一定の文化的レベルを維持した格式ある生活を送っていたことを物理的に証明するものである。
石山城は、友益にとって軍事拠点であると同時に、彼の権威の象徴であり、政治と生活の中心地である「館」としての機能も併せ持っていた。この多機能的な空間こそが、戦国期の国衆の拠点の実像であった。したがって、元亀元年に信長が命じた石山城の「破却」 5 は、単に軍事施設を無力化するという意味に留まらない。それは、友益の領主としての権威そのものを破壊し、彼の生活基盤と地域の支配者としての存在意義を根こそぎ奪い去るという、極めて象徴的かつ実質的な意味を持つ行為だったのである。
武藤友益の生涯は、若狭国の自立した国衆として地域に勢力を築き、織田信長という巨大な外部権力との接触によってその運命を翻弄され、抵抗と順応を繰り返しながらも、最終的に時代の大きなうねりの中に消えていった一人の武将の物語であった。
彼の軌跡は、戦国時代における地方豪族の典型的な肖像を映し出している。すなわち、弱体化した守護大名の下で自立性を高め、周辺豪族と相争いながら勢力を維持し、中央から進出してきた新興権力に対しては、時に従い、時に反発するという、ぎりぎりの選択を迫られ続けた姿である。彼の二度にわたる信長への反旗は、単なる無謀や気まぐれではなく、反信長包囲網という国際情勢を的確に捉えた上での、一族の存続と権益の回復を賭けた合理的な生存戦略であった。しかし、その運命は、彼自身が制御できない大名間の力関係の変化によって、最終的に決定づけられた。
本能寺の変後の動向と最期を巡る記録の錯綜は、歴史の敗者となった人物の末路が、勝者の側の都合や記録の散逸によっていかに不確かなものになるかを示している。また、彼の居城・石山城の遺構と出土品は、彼が単なる武人ではなく、政治・経済・文化の中心を担う地域領主であったことを物語っており、信長による城の破却が、彼の存在そのものを抹消しようとする強い意志の表れであったことを示唆している。
武藤友益は、天下統一の物語における「敗者」かもしれない。しかし、彼の生き様は、中央集権化の過程で地方の自立性が失われていく歴史の必然性と、その流れに最後まで抗おうとした人々の確かな存在を我々に教えてくれる。友益のような無数の国衆たちの視点から歴史を見つめ直すことによって初めて、我々は戦国という時代を、より立体的かつ多層的に理解することができるのである。彼の生涯の探求は、華々しい英雄譚の陰に隠れた、もう一つの戦国時代の真実に光を当てる作業に他ならない。