本報告は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、母里友信(もり とものぶ、あるいは、ぼり とものぶ)の生涯、武勲、人物像、そして後世に与えた影響について、現存する資料に基づき詳細かつ包括的に明らかにすることを目的とする。母里友信は、黒田家に仕えた重臣として、特にその勇猛さと名槍「日本号」を巡る逸話で知られている。本報告では、黒田家における彼の役割、主君や同僚との関係、そして彼の名声を不朽のものとした「黒田節」の背景にある人間ドラマにも焦点を当て、その実像に迫る。
母里友信は、一般に「もり とものぶ」と読まれることが多いが、彼が仕えた黒田家中での正式な読みは「ぼり」であったとされ、その本拠地であった福岡県内、例えば福岡市博物館などでは現在でも「ぼり」と読まれることがある 1 。通称は「太兵衛(たへえ)」または「多兵衛(たひょうえ)」で広く知られている 1 。
彼の姓に関しては、特筆すべき点がある。江戸幕府の公文書などにおいて、音が類似している「毛利」と誤記されることがあり、実際に主君である黒田長政の命により、一時期「毛利」姓を名乗ったことがある 1 。このため、「毛利但馬(もうり たじま)」あるいは「毛利太兵衛(もうり たへえ)」といった表記で言及されることも少なくない 1 。
このような呼称や読み方の多様性は、いくつかの側面を示唆している。まず、「もり」と「ぼり」という読みの違いは、中央政府(江戸幕府など)と地方(黒田藩内)、あるいは時代による発音や認識の違いを反映している可能性が考えられる。黒田家中で「ぼり」が正式な読みであったという事実は、藩内における独自の慣習やアイデンティティの保持を物語っていると言えよう。
次に、「毛利」との誤記や一時的な改姓は、当時の社会状況を映し出している。中央政府にとって、遠方の西国大名の有力家臣に関する詳細な情報が、必ずしも正確に把握されていなかった可能性、あるいは単に音の類似性から生じた誤りであった可能性が考えられる。さらに重要なのは、主君・長政の命によって「毛利」と改姓したという事実である 1 。これは、主君の命令を絶対とする当時の武家社会の厳格な規範と、幕府との関係を円滑に保つための現実的な対応、すなわち藩益を優先する実利主義の表れであったと解釈できる。この改姓は、友信個人の意思を超えた、黒田藩としての政治的判断が働いた結果であろう。
これらの姓や呼称の揺れは、戦国時代から江戸時代初期にかけての人物のアイデンティティや記録のあり方が、現代ほど固定的ではなかったことを示している。公的な記録、家中の慣習、そして民間の伝承といった複数の層において、人物像が形成され、伝えられていったのである。
母里友信は、弘治2年(1556年)に播磨国で生まれたと伝えられている 3 。幼名は万助(まんすけ)といった 1 。彼の出自を辿ると、実父は播磨国の国人であった曽我一信(そが かずのぶ)であり、友信自身も元々は曽我姓を名乗っていた 1 。母は母里小兵衛(もり こへえ)の妹であった 5 。
「母里」という姓は、出雲国の有力な戦国大名であった尼子氏に繋がる家系とも、あるいは播磨国加古郡稲美町母里(現在の兵庫県)を本貫地とする国人領主の家系とも言われている 1 。友信が母里姓を名乗るようになった経緯には、黒田家との深い関わりがある。黒田家の記録によれば、青山・土器山の戦いにおいて、母里小兵衛・武兵衛ら母里一族24人が黒田家のために奮戦し、その多くが討死した。この母里家の断絶を惜しんだ黒田孝高(よしたか、後の官兵衛・如水)が、母方が母里氏の血を引く万助(友信)に母里家の名跡を継がせ、「母里太兵衛」と名乗らせたとされる 1 。
この母里姓継承の背景には、孝高の戦略的な意図があったと考えられる。単に血縁者を立てるというだけでなく、戦功のあった家を顕彰し、その忠勇を後世に伝えることで他の家臣への模範を示し、同時に友信自身の黒田家への忠誠心を一層高める狙いがあったと推察される。母里一族の奮戦と犠牲は、黒田家にとって忘れてはならない記憶であり、その名を友信に継がせることは、彼の武勇と母里家の勇名とを結びつけ、さらなる奮起を促す効果も期待されたであろう。これは、武士社会において「家」と「名」を重んじる価値観を巧みに利用した、孝高の人心掌握術の一環と見ることもできる。
母里友信が黒田家に仕えるようになったのは、永禄12年(1569年)、彼が14歳の頃であった 3 。父である曽我一信が、播磨国で勢力を持っていた小寺氏に仕え、黒田孝高の父・職隆(もとたか)の与力的な立場にあったという縁によるものであった 1 。友信が出仕した当時、主君となる黒田孝高もまだ15歳という若さであり、この早期の臣従が、その後の数十年にわたる強固な主従関係の礎となった。
若き日の孝高と共に成長し、数々の苦難を乗り越える経験を共有したことが、後の友信の揺るがぬ忠誠心へと繋がった可能性は高い。父の代からの黒田家との繋がりは、友信がごく自然な流れで黒田家に仕える環境を提供し、この時期に形成された主従関係は、後の黒田家の飛躍を支える人材育成の初期段階であったとも評価できる。
母里友信は、黒田孝高に仕えて間もなく、その武才を発揮し始める。天正元年(1573年)の印南野(いなみの)合戦が彼の初陣であったとされ、以来、常に軍の先鋒を務め、勇猛果敢な戦いぶりで知られるようになった 1 。
彼の忠誠心と武勇が際立ったのは、天正6年(1578年)、主君・孝高が荒木村重の謀反によって有岡城(伊丹城)に幽閉された際のことであった。この黒田家にとって最大の危機の一つにおいて、友信は他の家臣たちと共に「留守中連著起請文(るすちゅうれんちゃくきしょうもん)」に名を連ね、孝高への変わらぬ忠誠を誓った。さらに、栗山利安(くりやま としやす)、井上之房(いのうえ ゆきふさ)といった同僚と共に、危険を顧みず有岡城内に潜入し、幽閉されている孝高の安否を確認するという困難な任務を遂行したと伝えられている 1 。この行動は、友信の武勇だけでなく、深い忠誠心と冷静な判断力を示すものであり、孝高からの絶大な信頼を得る決定的な出来事の一つになったと考えられる。単なる武辺者ではなく、知略と胆力を兼ね備えた人物であったことを示唆している。
母里友信は、黒田孝高(如水)及びその子・長政の二代にわたり、黒田軍の中核として数々の合戦で目覚ましい武功を挙げた。孝高に従って中国地方や四国地方を転戦し、その武勇は各地で示された 3 。
特筆すべき戦功としては、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐において、豊前国宇留津城(うるつじょう)攻めで「一番乗り」の功名を果たしたことが挙げられる 1 。この功績により、孝高が豊前国に入国した後、六千石という厚遇をもって遇された。一番乗りは戦国武将にとって最高の栄誉の一つであり、これを達成したことは彼の勇猛さの証左である。
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)においては、黒田長政に従って朝鮮半島へ渡り、ここでも勇戦した。この際、豊臣秀吉から、陪臣(家臣のまた家臣)という身分でありながら、陣中において抜身の槍15本を携帯することを許されるという、異例中の異例とも言える待遇を受けた逸話が残っている 8 。これは、友信の武勇と黒田家内での重要性が、豊臣秀吉のような天下人の耳にまで達し、高く評価されていたことを示している。当時の厳格な身分制度の中では極めて稀なケースであり、彼の武名がいかに高かったかを物語る。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、主戦場には赴かず、九州において父・如水に従い、西軍に与した勢力の鎮圧に尽力した。特に、豊後国で蜂起した自身の義兄にあたる大友義統(おおとも よしむね)を降伏させるなど、黒田家の九州における覇権確立に大きく貢献した 1 。この功績は、単なる武力だけでなく、交渉や戦略的判断にも関与していた可能性を示唆する。
母里友信が生涯で挙げた首級(討ち取った敵の首の数)は七十六にのぼり、これは勇猛な武将が揃った黒田家中でも随一の数であったと記録されている 4 。この数字は、彼が単に勇猛であっただけでなく、戦場において継続的に高い成果を上げ続けた実力の証明と言えるだろう。彼の武功は、単一の戦闘における華々しい活躍に留まらず、長期にわたる遠征や主君の危機を救う行動、さらには敵将を降伏させるなど、多岐にわたっていた。これは、彼が状況に応じて多様な能力を発揮できる、卓越した武将であったことを示している。
母里友信の黒田家における功績と重要性は、彼が「黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)」及び、その中でも特に功績が高かったとされる「黒田八虎(くろだはっこ)」の一人に数えられていることからも明らかである 1 。これらは、後世に黒田家の創業を支えた功臣たちを顕彰するために選ばれた呼称であり、その一員であることは、友信の武功と忠誠が藩内で極めて高く評価されていた証である。
軍事における具体的な役割としては、同じく黒田家の重臣である栗山利安と共に、黒田軍の「先手両翼の大将」を務めたとされている 1 。先手の大将は、合戦の口火を切り、戦全体の戦局を左右することもある極めて重要なポジションである。ここに栗山利安と共に任じられたということは、この二人が黒田軍の攻撃力の要であり、戦術遂行能力において絶大な信頼を置かれていたことを意味する。この事実は、友信が黒田家臣団の中でも中枢的な地位を占め、軍の戦闘能力を左右する重責を担っていたことを明確に示している。
母里友信の人物像を語る上で欠かせないのが、黒田家の筆頭家老であった栗山利安(善助)との関係である。二人は、主君・黒田孝高(如水)の意向、あるいは命令によって、若い頃に義兄弟の契りを結んだと伝えられている 1 。
この義兄弟の契りは、単なる個人的な親交に留まらず、黒田家の家臣団統制における戦略的な意味合いを持っていたと考えられる。友信は「猪武者」と評されることもあるほど勇猛果敢な性格であったのに対し 9 、栗山利安は冷静沈着で知略に長けた人物であった。如水は、この異なる個性を持つ二人の有力家臣を結びつけることで、相互補完的な関係を築かせ、軍の統率と安定を図ろうとしたのであろう。また、家臣団の結束を強化し、内部対立を防ぎ、協力体制を強固にするという狙いもあったと推察される。
この義兄弟関係が形式的なものではなく、深い人間的信頼に基づいていたことを示す逸話も残っている。如水が臨終の際、友信と利安を呼び寄せ、かつて二人が交わした義兄弟の誓紙を懐から取り出し、「これはあの時の誓紙だ。本来なら今はお返しすべきだろうが、最後まで約束を守ってくれた頼もしい誓紙だから、冥土まで持って行こうと思っている」と語ったという 1 。このエピソードは、如水自身がこの義兄弟関係を非常に重要視し、二人の忠誠と友情を深く信頼していたことを示しており、主君と家臣の間の強い絆を象徴するものと言える。
戦場以外でも、二人の協力関係は見られる。慶長3年(1598年)には、栗山利安、そして井上之房と共に、宇佐神宮の造営という重要な事業を担当している 1 。これは、彼らが軍事面だけでなく、藩の重要な内政事業においても信頼され、協力して任務を遂行する能力があったことを示している。
関ヶ原の戦いの後、黒田長政が筑前国名島(福岡)に52万石余の大封を得て移封されると、母里友信もその功績によって厚く報いられた。彼は、筑前国鞍手郡の鷹取城(たかとりじょう、現在の福岡県直方市)の城主となり、1万8千石の知行を与えられた 1 。この1万8千石という禄高は、一介の家臣としては破格の待遇であり、彼が実質的に小大名クラスの処遇を受けていたことを示している 15 。
鷹取城は、豊前国との国境に近い戦略的要衝であり、その守りを任されたことは、友信の軍事的能力だけでなく、統治能力も高く評価されていた証左である。黒田藩が筑前国に入国した当初、国境防衛のために整備した「筑前六端城(ちくぜんろくはじょう)」と呼ばれる主要な支城群があったが、鷹取城もこれに準ずる重要な拠点であったと考えられる。
その後、慶長11年(1606年)、同じく黒田家の重臣であった後藤基次(ごとう もとつぐ、又兵衛)が黒田長政との確執から出奔すると、友信はその旧領であった嘉麻郡の益富城(ますとみじょう、現在の福岡県嘉麻市)の城主となった 1 。益富城もまた、交通の要衝に位置する重要な城であった。藩内の重要人物であった後藤基次の欠員を埋める形でこの城を任されたことは、友信の能力と藩内での信頼が依然として高かったことを物語っている。益富城主としては、領内の経営にも尽力したと伝えられており 10 、彼が単なる武人ではなく、民政にも意を用いた一面を持っていた可能性を示唆している。
益富城主となった母里友信は、晩年にかけても黒田藩の重臣として活動を続けた。その一つが、交通インフラの整備である。慶長13年(1608年)より、同僚の桐山信行(きりやま のぶゆき)と共に、長崎街道の難所であった冷水峠(ひやみずとうげ)の整備事業に着手した 1 。これは、九州における主要幹線道路の利便性を高める重要な内政事業であり、友信が領国経営にも積極的に関与し、貢献していたことを示している。
この頃、主君である黒田長政から「但馬守(たじまのかみ)」の官途名(武家官位)を与えられている 1 。これは、彼の功績と藩内での地位を改めて公式に示すものであった。
また、江戸幕府による全国的な大名への賦役であった江戸城の普請(修築工事)にも参加している。友信は天守台の石垣工事を担当し、これを完成させた後、徳川家康から労いとして刀を賜った 1 。この時、家康からの書状の宛名が「母里」ではなく「毛利」と誤って記されていた。これを受け、主君・長政の命により、友信は一時的に「毛利但馬守友信」と名乗ることになったという逸話は、前述の通りである。この江戸城普請への参加は、徳川幕府への奉公の一環であり、黒田藩の代表として重要な任務を担ったことを意味する。家康から直接刀を賜ったことは、その働きが幕府中央にも認められた証と言えるだろう。
これらの晩年の活動は、友信が武勇一辺倒の人物ではなく、土木事業のような技術的・行政的な能力も持ち合わせていたことを示している。戦国時代が終焉を迎え、新たな社会秩序が形成される中で、武士に求められる役割が軍事力だけでなく、統治能力や内政手腕へと変化していったことを反映している可能性がある。戦乱の世で培われた指揮能力や実行力が、平時における社会基盤の整備にも活かされたことを示唆している。
母里友信は、慶長20年(元和元年)6月6日(西暦1615年7月1日)に、益富城内にてその生涯を閉じた 1 。享年は60であった。当時の平均寿命を考えると比較的長命であり、数多の戦場を駆け抜け、黒田藩の礎を築いた功臣としての生涯を全うしたと言える。
法名は麟翁紹仁(りんのうしょうにん)と諡された 1 。彼の墓所は、現在の福岡県嘉麻市大隈にある麟翁寺(りんのうじ)にあり、この寺は友信の菩提寺として知られている 1 。麟翁寺という寺号は、友信の法名「麟翁」に因んで改められたものであり、その山門は、彼が城主を務めた益富城の搦手門(からめてもん、裏門)を移築したものであると伝えられている 10 。これらの事実は、友信がその死後も黒田家や地域の人々によって篤く弔われ、その功績が記憶されていたことを示している。
なお、友信の嫡男であった母里吉太夫(きちだゆう)は、父に先立ち、慶長2年(1597年)、朝鮮出兵の最中に悲劇的な最期を遂げている。主君・黒田長政の嫡男である熊之助(くまのすけ、後の黒田忠之)らと共に、父たちを見舞うため朝鮮半島へ渡航する途中、暴風雨に遭い乗船が沈没、享年16という若さで亡くなった 1 。この嫡男の早世は、友信にとって大きな悲しみであったと想像されるが、それでもなお黒田家への忠勤を続けた彼の精神力の強さがうかがえる。
年代(西暦) |
元号 |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠例 |
1556年 |
弘治2年 |
1歳 |
播磨国にて生まれる(幼名:万助) |
3 |
1569年 |
永禄12年 |
14歳 |
黒田孝高(後の如水)に出仕。母里姓を継ぐ |
1 |
1573年 |
天正元年 |
18歳 |
印南野合戦にて初陣 |
1 |
1578年 |
天正6年 |
23歳 |
荒木村重謀反。黒田孝高有岡城幽閉の際、安否確認のため潜入 |
1 |
1587年 |
天正15年 |
32歳 |
九州征伐に従軍。豊前宇留津城攻めで一番乗り。豊前入国後6千石を賜る |
1 |
1592年~1598年 |
文禄・慶長の役 |
37歳~ |
黒田長政に従い朝鮮出兵。豊臣秀吉より抜身槍15本の陣中携帯を許される |
3 |
1596年頃(諸説あり) |
文禄5年頃 |
41歳頃 |
京都伏見にて福島正則より名槍「日本号」を呑み取る(黒田節の逸話) |
1 |
1597年 |
慶長2年 |
42歳 |
嫡男・母里吉太夫、朝鮮渡航中に海難事故で死去(享年16) |
1 |
1600年 |
慶長5年 |
45歳 |
関ヶ原の戦い。九州にて黒田如水に従い、大友義統を降伏させる。戦後、筑前鷹取城主1万8千石となる |
1 |
1606年 |
慶長11年 |
51歳 |
後藤基次出奔の後、筑前益富城主となる |
1 |
1608年 |
慶長13年 |
53歳 |
桐山信行と共に長崎街道冷水峠の整備を開始 |
1 |
時期不明(慶長年間) |
慶長年間 |
― |
江戸城普請(天守台石垣)を担当。徳川家康より刀を賜る。書状の誤記により一時「毛利但馬守友信」と名乗る |
1 |
1615年7月1日 |
元和元年6月6日 |
60歳 |
益富城内にて死去。法名:麟翁紹仁。墓所:麟翁寺(嘉麻市) |
1 |
母里友信の名を不朽のものとし、その人物像を最も象徴的に伝えるのが、名槍「日本号(にほんごう、または、ひのもとごう)」を巡る逸話と、それをもとに生まれた民謡「黒田節」である。
この逸話の舞台は、文禄・慶長の役の休戦中、あるいは文禄五年(1596年)正月とも伝えられ、場所は京都伏見にあった福島正則の屋敷であった 1 。当時、母里友信は主君・黒田長政の使者として正則のもとを訪れていた。
福島正則は、豊臣秀吉子飼いの勇将として知られる一方、大変な酒豪であり、酒癖が悪いことでも有名であった 21 。正則は、同じく酒豪として知られていた母里友信(家中では「フカ」と呼ばれるほどの大酒飲みであったという 13 )に対し、酒を勧めた。しかし友信は、使者としての立場をわきまえ、当初は固辞した 12 。
これに対し、正則は執拗に酒を勧め、「この大盃の酒を飲み干したならば、褒美として望むものを何でも取らせよう」と言い放ち、さらには「黒田家の武士は酒も飲めぬ腰抜け揃いか。長政殿もお気の毒に」などと、友信個人だけでなく黒田家全体を侮辱するような挑発的な言葉を浴びせたとされる 1 。
主家を辱められては武士の名折れと、友信はついにその挑戦を受ける決意をする。差し出されたのは、三升は入るかという巨大な盃であった。友信はこれになみなみと注がれた酒を数杯、一気に飲み干して見せた。そして、約束の褒美として、壁に立てかけてあった見事な槍を指さし、「あの槍を頂戴したい」と所望した。その槍こそ、福島正則がかつて豊臣秀吉から拝領した天下三名槍の一つに数えられる名槍「日本号」だったのである 1 。
「日本号」は、元は皇室の所有物で、正親町天皇から室町幕府第15代将軍・足利義昭に下賜され、その後、織田信長、豊臣秀吉の手を経て福島正則が拝領したという、由緒ある名槍であった 8 。さすがの正則も狼狽したが、「武士に二言はない」として、この家宝とも言うべき名槍を友信に与えた。友信は意気揚々と「日本号」を担いで引き上げたと伝えられる。この名槍「日本号」は、後に母里家から福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館に所蔵されている 3 。
この「日本号呑み取り」の逸話は、単なる酒豪の武勇伝として片付けられるものではない。そこには、当時の武士社会における面子や意地、そして主君と家中の名誉を守るという強い意志が込められている。友信が当初、使者としての立場をわきまえ酒を固辞したことは、彼の思慮深さを示す。しかし、正則の挑発が黒田家全体への侮辱に及んだ時、彼は敢然と立ち向かった。これは、黒田武士としての誇りを守るための行動であった。
大酒を飲み干す豪胆さに加え、褒美として天下の名槍「日本号」を指名する機転と大胆さは、彼が単に酔って暴れたのではなく、冷静に状況を判断し、最大の戦果を得ようとした可能性を示唆している。一方、福島正則が家宝の槍を失ったことは、彼の酒癖の悪さと、一度口にした約束を違えることができないという武士の規範の厳しさを示している 25 。
この逸話が後世に広く語り継がれたのは、武勇、忠誠、機転、豪胆さといった、当時の武士が理想とする要素が凝縮されているためであろう。また、天下の勇将である福島正則が、酒の席での不用意な発言から家宝を失うという人間臭さも、物語に深みを与え、人々の間で娯楽や教訓として伝播しやすかったと考えられる。
母里友信の「日本号」獲得の逸話は、やがて筑前地方の民謡「黒田節」として昇華し、広く全国に知られるようになった 1 。その歌詞は、「酒は呑め呑め 呑むならば 日の本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」と謡い、母里友信の豪快な気風と黒田武士の心意気を高らかに謳い上げている 1 。
「黒田節」は、母里友信個人の逸話を超え、「黒田武士」全体の勇猛さや気概を象徴する歌として定着した。これにより、友信は黒田藩の、そして福岡を代表するアイコン的人物となった。民謡という形で大衆に広まることで、この逸話はより親しみやすく、記憶に残りやすいものとなった。歌詞の内容は、困難な状況でも臆することなく、見事に目的を達成する理想的な武士像を描き出している。
その影響は現代にも及び、JR博多駅前や福岡市西公園内の光雲神社(黒田如水・長政を祀る)には、槍(日本号)と大盃を手にした母里太兵衛の勇壮な銅像が建立されている 1 。これらの銅像は、彼のイメージを視覚的に固定化し、地域における英雄としての地位を不動のものにした。「ミスター福岡」 23 と評されるほど、母里友信の物語は福岡のアイデンティティと深く結びついているのである。
名槍「日本号」の逸話以外にも、母里友信の人物像を伝える興味深いエピソードがいくつか残されている。
母里友信が鷹取城の城主となる際、主君である黒田長政に対し、城の石垣の補強を進言した。しかし長政は、「あの城は長く持ちこたえることを想定したものではないから、人力を費やすのは無用だ」と答えた。これに友信は、「そのような一時しのぎの城の城主となるのはまっぴらだ」と立腹し、席を蹴ってしまったという 1 。
後に長政は、栗山利安を通じて友信にその真意を伝えた。すなわち、鷹取城はあくまで福岡城本城からの援軍が到着するまでの一時的な籠城用の支城であり、しかも友信ほどの優れた武将であれば、過剰な補強がなくとも堅固に城を守り抜くことができるという、深い信頼の念が込められていたのである。これを聞いた友信は、「遠回しに言う方が悪い。最初からそう言えばよいではないか」と、なおも多少の不満を漏らしつつも、栗山利安の叱責もあり、最終的には納得して鷹取城主の任に就いたと伝えられている 1 。
この逸話は、母里友信の直情的でプライドの高い一面を浮き彫りにすると同時に、一度納得すれば主君の意向に従う忠誠心、そして黒田長政の彼に対する深い信頼関係を示している。長政が直接友信に説明せず、栗山利安を介したのは、友信の短気で誇り高い性格を考慮した上での対応であったか、あるいは家臣間の調整を重視した結果であったかもしれない。いずれにせよ、このエピソードは、主君と家臣の間の人間味あふれるやり取りを今に伝えている。
母里友信が参勤交代の道中、富士山を眺められる場所を通りかかった際、ある供の者が富士山を「なんと高く、美しい、まさに日本一の山だ」と称えた。これを聞いた友信は、「いや、そんなことはない。我が領国にある福智山(ふくちやま)こそ、富士山よりも高く、そして美しい。福智山こそが日本一の名山である」と、故郷の山を自慢し、強く主張したという 1 。
周囲の者たちは、友信が一度言い出したら決して引かない頑固な性格であることをよく知っていたため、その場は皆、友信の主張を認めた。そのため、友信は生涯を通じて福智山が日本一の山であると言い張り続けたと伝えられている 1 。
この逸話は、母里友信の強い郷土愛と、一度言い出したらテコでも動かない頑固な性格を象徴している。客観的な事実よりも自らの信念や故郷への愛着を優先する、ある種の愛すべき偏屈さを示していると言えよう。この頑固さは、戦場で見せた不屈の精神と表裏一体であったのかもしれない。
前述の通り、母里友信は江戸城の石垣普請に参加し、その功績により徳川家康から刀を賜った。その際、家康からの書状の宛名が「母里」ではなく「毛利」と誤記されていた。これを受けて、主君・黒田長政の命令により、友信は一時的に「毛利但馬守友信」と名乗ることになった 1 。
自らの姓が誤記されたにもかかわらず、主君の命令でその誤った姓を名乗るという行為は、当時の武家社会における主命の絶対性と、徳川幕府との関係を優先する現実的な判断を示している。幕府側の不手際とも言える誤記をあえて指摘せず、むしろそれに合わせるという対応は、波風を立てないための配慮であり、藩益を最優先する黒田長政の判断に友信が従った結果であった。これは、個人の名誉よりも藩全体の利益を優先する武士のあり方の一端を示すエピソードである。
数々の武功や逸話を通じて浮かび上がる母里友信の人物像は、多面的で人間味に溢れている。
母里友信は、まず何よりも槍術に優れた剛力の勇将として記憶されている 1 。身長は六尺(約180センチメートル)を超える巨漢で、一丈八尺(約5.4メートル)とも言われる長大な槍を愛用し、一度に二、三人もの敵兵を突き通したと伝えられるほどの豪腕であった 8 。
その武勇は、「其の人となり剛強にして、力量たくましく、たけ高く、鬚多くして、勇猛人にすぐれ」と評され、「其の武功挙げて数えがたく、一生のうち一度も敵に後を見せず、然れども一所も疵を蒙らず」と賞賛されるほどであった 10 。生涯に挙げた首級が七十六というのは、黒田家中でも群を抜く記録であり 4 、その勇猛さは豊臣秀吉が自らの直参に加えたいと望んだほどであったという 9 。
母里友信の武勇は、常に黒田家への深い忠誠心に裏打ちされていた。黒田孝高(如水)・長政の二代にわたり仕え、数々の戦いでその身を危険に晒しながらも、主家のために戦い抜いた 4 。孝高が有岡城に幽閉された際には、危険を顧みずに城内に潜入し、主君の安否を確かめた行動は、その忠義の篤さを示す代表的なエピソードである 1 。
また、関ヶ原の戦いの際には、大坂の黒田屋敷に残されていた孝高と長政の夫人たちを、敵対する西軍の厳重な監視の中、機転を利かせて見事に救出し、無事に本国へ送り届けたという功績も伝えられている 17 。これは、単なる武勇だけでなく、知略と冷静な判断力をも兼ね備えていたことを示している。さらに、栗山利安との義兄弟の誓いを生涯守り通したことからも、彼の義侠心の厚さがうかがえる 1 。
一方で、母里友信は完璧な聖人君子ではなく、人間味あふれる直情的な性格の持ち主でもあった。鷹取城の石垣普請を巡る逸話では、主君・長政の言葉に短気を起こして立腹する姿が見られる 1 。また、福智山を日本一と生涯言い張ったというエピソードは、彼の頑固さと強い郷土愛を物語っている 1 。
酒豪としての側面も彼の人間性を豊かにしており、名槍「日本号」の逸話は、その豪放磊落な性格を象徴している 23 。彼はまた、主君である黒田長政に対しても臆することなく諫言することも度々あった気骨漢であったとされ 15 、時にはその直言が主君の逆鱗に触れることもあった。長政の嫡子・忠之の袴着の儀式(元服に相当)の際に、友信が「父君(長政)以上の功名を挙げなさい」と祝辞を述べたところ、これを自らへの批判と受け取った長政が激怒し、友信を誅殺しようとしたという逸話も残っている 32 。この一件は、友信のあまりにも率直な物言いと、当時の主君と家臣の間の緊張感に満ちた関係性を示している。
これらのエピソードは、母里友信が単なる勇猛な武将であっただけでなく、喜怒哀楽の感情豊かで、自らの信念に忠実な、魅力的な人物であったことを示している。圧倒的な武勇と剛直な性格を持つ一方で、主君や同僚への深い情愛、郷土への愛着、時には主君をも恐れぬ気骨も持ち合わせていた。これらの要素が複雑に絡み合い、彼の多面的な人間像を形成しているのである。戦場での武勇が最も重視された時代から、統治や普請といった平時の能力も求められる時代への過渡期を生きた友信は、その両面で活躍した。街道整備などの事業への参加は 1 、武士の役割が変化していく中で、彼が新たな期待にも応えようとした証左であり、彼の「テクノクラート」としての一面 17 はこの文脈で理解できる。
母里友信は、黒田藩において極めて高い評価を受けていた。黒田家の創業期を支えた功臣たちを顕彰する「黒田二十四騎」及び、その中でも特に功績の大きかった「黒田八虎」の一人に数えられていること自体が、その証左である 1 。軍事面では、栗山利安と共に先手両翼の大将という重責を担い 1 、知行としては1万8千石という大名級の禄高を与えられた 13 。これは、彼の武功と能力に対する藩主からの絶大な信頼を示すものであった。
後世においては、「黒田武士の代表者、理想の日本男性像」 23 とまで評されることもあり、その勇猛さ、忠誠心、そして「黒田節」で謡われる豪快な気風は、黒田藩の士風を象徴するものとして語り継がれた。
母里友信に関する具体的な記述は、黒田藩の公式な記録である『黒田家譜』をはじめとする各種史料に見られると考えられる。提供された資料の断片からは、その全てを網羅することはできないものの、数々の逸話が記録として残されていること自体が、彼が歴史的に注目すべき人物であったことを示している 1 。
彼の多くの逸話が後世に伝わっているのは、彼が黒田藩にとって重要な人物であり、その行動や言動が記録に値すると考えられたからに他ならない。『黒田家譜』のような藩の正史にその名が記され、詳細なエピソードが収録されていることは、藩からの高い評価を意味する。例えば、名槍「日本号」獲得の経緯や、鷹取城の石垣を巡る長政とのやり取り、さらには「毛利」姓への一時的な改姓といった細かなエピソードまで記録されていることは 1 、彼の生涯が細部に至るまで注目され、記憶されていたことを示唆している。これらの記録は、彼の人物像や功績を後世に伝える上で、かけがえのない価値を持っている。
母里友信の記憶は、史料の中だけに留まらず、様々な形で現代に受け継がれている。
母里友信の勇姿を今に伝える最も象徴的なものが、各地に建立された銅像である。特に有名なのは、JR博多駅前広場と、黒田如水・長政親子を祀る福岡市西公園内の光雲神社にあるもので、いずれも名槍「日本号」と大盃を手にした、「黒田節」に謡われる姿を模している 1 。これらの銅像は、彼の最も有名な姿を視覚的に表現し、人々の記憶に刻み込む役割を果たしている。
彼の墓所である福岡県嘉麻市の麟翁寺は、友信の菩提寺として大切に守られており、その山門はかつて彼が城主を務めた益富城の搦手門が移築されたものと伝えられている 1 。また、福岡城の二の丸跡近くには、かつて天神地区にあった母里友信の屋敷長屋門が移築保存されており、福岡県の指定文化財となっている 1 。そして、彼が福島正則から呑み取った名槍「日本号」の実物は、福岡市博物館に大切に所蔵され、時折公開されている 3 。
これらの史跡や文化財は、母里友信が生きた時代の息吹を現代に伝え、歴史への関心を喚起する貴重な遺産となっている。
母里友信の生涯や逸話は、文学作品や大衆文化の中でも度々取り上げられてきた。NHK大河ドラマにおいては、1973年の『国盗り物語』で高津住男が、また2014年の『軍師官兵衛』では速水もこみちが母里友信役を演じ、その勇猛果敢な姿が描かれた 1 。
しかし、何と言っても彼を最も広く知らしめたのは、民謡「黒田節」であろう 13 。この歌を通じて、母里友信の名とその豪快な逸話は全国的に広まり、親しみやすい形でその功績が語り継がれることとなった。大河ドラマのようなメディアへの露出や、「黒田節」のような大衆芸能は、幅広い層への知名度向上と特定のイメージ形成に大きく貢献している。
これらの銅像や文化財の存在、そして大衆文化における描写は、母里友信のイメージを具体化し、彼が単なる歴史上の人物としてだけでなく、地域の英雄、文化的なアイコンとして現代に生き続けていることを示している。
母里友信の豪胆さ、主君への忠誠心、義侠心、そして人間味あふれる姿は、「黒田武士」の理想像として、また時には「理想の日本男性像」の一つとして、現代においても語られることがある 23 。
彼の物語は、困難な状況に直面しても誇りを失わず、機転を利かせて道を切り開く姿を示しており、これは現代人にとっても示唆に富む。「黒田節」が今もなお多くの人々に愛され、歌い継がれていることは 29 、その物語が持つ魅力が時代を超えて受け入れられている証左である。
また、友信の子孫とされる人々によって、彼が修めたとも伝わる柳生新陰流兵法の奉納演武が行われるなど 1 、単に血縁の継承だけでなく、武の精神や文化的な伝統の継承という側面も見られる。
母里友信と「黒田節」の物語は、福岡の地域アイデンティティを形成する上で重要な要素となっており、観光資源としても活用されている 13 。彼の生き様や「黒田節」に描かれる精神性は、単なる過去の物語として消費されるのではなく、現代社会においても共感を呼び、勇気や誠実さ、困難に立ち向かう姿勢といった普遍的な価値を内包していると言えよう。
母里友信は、戦国時代の動乱期から江戸時代初期の泰平の世へと移行する激動の時代において、黒田家の重臣としてその武勇、忠誠心、そして統率力を遺憾なく発揮し、黒田藩の創設と発展に不可欠な貢献を果たした人物である。彼の生涯は、一人の武将の軌跡であると同時に、主家と共に成長し、数多の困難を乗り越えて新たな時代を築き上げた、黒田家臣団の縮図とも言える。
特に、名槍「日本号」を福島正則から呑み取ったという豪快な逸話は、民謡「黒田節」を通じて広く後世に語り継がれ、母里友信の名を「黒田武士」の理想像、あるいは福岡の英雄として不動のものとした。この逸話は、単なる酒席の出来事を超え、武士の意地、主家への誇り、そして機転の重要性を象徴する物語として、多くの人々に感銘を与え続けている。
彼の人物像は、戦場における圧倒的な強さや剛直さだけでなく、鷹取城や福智山を巡る逸話に見られるような人間的な魅力、時には主君をも諫める気骨、そして晩年に見せた街道整備といった内政手腕など、多岐にわたる側面を持っていた。これらの要素が複合的に絡み合い、母里友信という武将の奥行きのある姿を形作っている。
現代において、母里友信の存在は、銅像や史跡、文化財として物理的な形で残るだけでなく、「黒田節」や様々な創作物を通じて、文化的な記憶として継承されている。彼の生き様は、単なる過去の武勇伝としてではなく、困難に立ち向かう勇気、信義を重んじる誠実さ、そして自らの信念を貫く強さといった、時代を超えて共感を呼ぶ価値観を私たちに示している。母里友信の物語は、歴史の一齣であると同時に、現代に生きる私たちに対しても、多くの示唆と勇気を与え続けるであろう。
関係 |
氏名 |
備考 |
典拠例 |
本人 |
母里友信(太兵衛、多兵衛) |
幼名:万助。本姓:曽我氏。官位:但馬守。 |
1 |
父 |
曽我一信(そが かずのぶ) |
播磨国の国人。小寺氏家臣、黒田職隆の与力。 |
1 |
母 |
母里小兵衛の妹 |
|
3 |
兄弟 |
曽我太郎兵衛(兄) |
|
3 |
|
野村祐勝(のむら すけかつ)(弟) |
黒田二十四騎の一人。子孫は福岡藩士。 |
1 |
妻 |
大友宗麟(義鎮)の娘 |
|
1 |
子(嫡男) |
母里吉太夫(きちだゆう) |
早世。慶長2年(1597年)、朝鮮渡航中に黒田熊之助らと共に海難事故で死去(享年16)。 |
1 |
子 |
母里友生(ともなり/ともき) |
|
1 |
子 |
母里市郎右衛門(いちろうえもん) |
|
1 |
子(娘) |
桐山信行(丹斎)室 |
|
1 |
義兄弟 |
栗山利安(善助) |
黒田孝高(如水)の命により義兄弟の契りを結ぶ。黒田家筆頭家老。 |
1 |
義兄 |
大友義統(おおとも よしむね) |
妻が大友宗麟の娘であるため、義統は義理の兄にあたる。関ヶ原の戦いの際、友信らに降伏。 |
1 |