戦国時代の歴史を語る上で、比叡山延暦寺の焼き討ちは、織田信長の非情さと旧時代の終焉を象徴する事件として、あまりにも名高い。この未曾有の法難の渦中にいた人物こそ、第166世天台座主、覚恕(かくじょ)である。一般的に、覚恕の名は信長の前に敗れ去った悲劇の宗教指導者として記憶されているかもしれない 1 。しかし、彼の生涯は単なる受難の物語に留まるものではない。彼は後奈良天皇の皇子として生まれ 2 、日本仏教界の頂点に立ち、そして信長という時代の奔流に抗うべく政治の舞台で能動的に立ち回った、極めて多面的な人物であった。
本報告書は、覚恕を単なる焼き討ちの当事者としてではなく、皇族、巨大宗教組織の長、そして政治的アクタ―という三重の顔を持つ存在として捉え直し、その生涯を徹底的に解明することを目的とする。彼の人生の軌跡を追うことは、天皇の権威が変質し、荘園制を基盤とする旧来の寺社勢力が、武力による中央集権化を目指す新興勢力と激突した、戦国という時代の巨大な転換点を浮き彫りにすることに他ならない。覚恕の物語は、信長と仏教という単純な二項対立を超え、旧世界の権威がいかにして新時代の論理の前に瓦解していったかという、より大きな歴史の力学を我々に示してくれるであろう。
和暦(元号) |
西暦 |
覚恕の年齢(数え年) |
出来事 |
関連人物・事項 |
大永元年 |
1521年 |
1歳 |
誕生。父は後奈良天皇 2 。 |
後奈良天皇、正親町天皇(異母兄弟) |
大永5年 |
1525年 |
5歳 |
曼殊院門跡・慈運を師として得度 3 。 |
曼殊院、慈運 |
天文6年 |
1537年 |
17歳 |
師の死に伴い、曼殊院門跡と北野天満宮別当を継承 5 。 |
北野天満宮 |
弘治3年 |
1557年 |
37歳 |
准三宮宣下を受け、「金蓮院准后」と称される 3 。 |
朝廷 |
元亀元年 |
1570年 |
50歳 |
第166世天台座主に就任 3 。 |
比叡山延暦寺 |
元亀2年 |
1571年 |
51歳 |
織田信長による比叡山焼き討ちに遭遇。自身は京にあり難を逃れる 3 。 |
織田信長、浅井長政、朝倉義景 |
元亀3年 |
1572年 |
52歳 |
甲斐国へ亡命し、武田信玄の庇護下に入る。信玄を権僧正に任じる 3 。 |
武田信玄 |
天正元年 |
1573年 |
53歳 |
武田信玄が死去 10 。 |
武田勝頼 |
天正2年 |
1574年 |
54歳 |
1月3日、死去 3 。 |
曼殊院 |
覚恕は、大永元(1521)年、後奈良天皇の皇子として生を受けた 2 。父は第105代天皇であり、彼は紛れもなく皇統に連なる高貴な血筋の生まれであった。しかし、その出自は、彼の将来の道を大きく規定するものでもあった。彼の母は、公卿である壬生雅久の娘・伊予局、あるいは刑部卿和気親就の娘とされ 2 、いずれにせよ摂関家のような最高位の家柄の出身ではなかった。これに対し、後に正親町天皇として即位する兄・方仁親王の母は、左大臣・万里小路賢房の娘であり、その出自には明確な差があった。
この母の身分の差は、皇位継承において決定的な意味を持った。「生まれた時から彼に天皇になる目はなかった」 1 と指摘されるように、覚恕が玉座に就く可能性は初めから絶たれていたのである。実際には、生年から見れば覚恕は正親町天皇の異母兄であったとする説が有力であるが 3 、いずれにせよ皇位継承の序列において彼が傍流であった事実に変わりはない。
このような状況は、当時の皇室が直面していた構造的な課題を浮き彫りにする。皇室は多くの皇子を抱えながらも、彼らに与えるべき世俗的な領地や役職が著しく減少していた。そのため、皇位継承権のない皇子を、全国に広大な荘園と権威を持つ門跡寺院の住持(門跡)として送り込むことは、皇室にとって極めて合理的な選択であった。これは、皇子の生活を保障し高い社会的地位を与えると同時に、朝廷が宗教界を通じて間接的に権威と影響力を保持するための重要な戦略でもあった。寺院側にとっても、皇族を門跡に迎えることは、武家勢力など外部からの干渉を防ぐための最も強力な「盾」となり、相互の利益が一致していた。したがって、覚恕が幼くして仏門に入ったのは、単なる個人的な信仰の選択というよりも、皇室における「余剰人員」の戦略的配置という、政治的かつ社会的な力学の必然的な帰結であった。彼の人生は、誕生の瞬間から、天台宗の頂点へと至る道が運命づけられていたのである 1 。
皇子としての宿命に従い、覚恕は仏門への道を歩み始める。大永五(1525)年、わずか5歳で比叡山延暦寺の子院(山内寺院)であり、天台宗の名刹である曼殊院に入り、門跡であった慈運を師として得度(出家)した 3 。そして天文六(1537)年、師である慈運が没すると、17歳にしてその後を継ぎ、曼殊院門跡の地位を相続した 5 。
特筆すべきは、彼が曼殊院門跡と同時に、菅原道真を祀る北野天満宮の別当職をも継承したことである 5 。これは、当時の権力構造における神仏習合の実態と、宗教的権威の集中を象徴する出来事であった。仏教寺院である曼殊院と、神道を司る北野天満宮という、それぞれが巨大な信仰圏と経済基盤を持つ二大組織の頂点を、一人の皇族門跡が兼務したのである。これは単なる名誉職ではなく、両組織が有する全国の荘園、財源、そして人的ネットワークを掌握することを意味した。この権力の集中は、覚恕が単なる一介の僧侶ではなく、複数の強力な宗教組織を束ねる大権力者としてキャリアをスタートさせたことを示している。
門跡としての地位を確立する一方で、覚恕は天台宗の僧侶としての研鑽も怠らなかった。天文二十二(1553)年には、常陸国(現在の茨城県)の千妙寺から住持の亮珎を招き、天台密教の一派である台密三昧流の灌頂(かんじょう、密教の奥義を伝授する儀式)を受けている 3 。これは、彼が単に血筋によって地位を得ただけでなく、宗教家としての法脈と学識を着実に深めていたことを物語っている。皇族としての権威と、仏教者としての正統性。この二つを兼ね備えた覚恕は、やがて天台宗全体の頂点へと上り詰めていくことになる。
曼殊院門跡として着実に声望を高めていった覚恕は、元亀元(1570)年、ついに日本天台宗の最高位である第166世天台座主に補任された 3 。天台座主とは、伝教大師最澄が開いた天台宗の法灯を継承する最高指導者であり、同時に比叡山延暦寺という巨大複合体の統治者を意味する、絶大な権威を持つ地位であった 11 。
戦国の動乱期にあって、現職天皇(正親町天皇)の兄弟である覚恕がこの地位に就いたことの政治的・宗教的な意味は極めて大きい。彼の座主就任は、個人的な資質もさることながら、何よりも「皇族であること」が決定的な要因であった。当時、比叡山は守護大名や他の寺社との間で常に利害対立を抱え、その存立は決して安泰ではなかった 12 。このような状況下で、比叡山側もまた、武家勢力に対抗し自らの権益を守るために、朝廷という最高の権威との結びつきを強化する必要に迫られていた。いかなる武将であれ、天皇の兄弟が座主を務める寺院を攻撃するには、相当な政治的覚悟を要するからである 8 。覚恕の座主就任は、比叡山が自らの「聖域」性を最大限に高めようとする防衛戦略の一環であり、比叡山と朝廷との間の、生き残りをかけた戦略的提携の象徴であった。しかし、皮肉なことに、この戦略こそが、天下統一のためには聖域の解体を厭わない織田信長との全面衝突を不可避にする要因ともなっていくのである。
覚恕が統べることになった比叡山延暦寺は、今日の我々がイメージするような、静謐な祈りの場とは全く異なる姿をしていた。当時の比叡山は、一つの独立国家とも言うべき強大な権勢を誇る、聖と俗が混淆した巨大複合体だったのである。その権力基盤は、主に四つの側面に集約される。
第一に、全国に広がる広大な荘園を背景とした、日本最大級の地主(不動産業)としての側面である 12 。延暦寺は全国に数多くの荘園を所有し、そこから上がる年貢や地代は莫大な収入となっていた。
第二に、「山門気風の土倉」と呼ばれた高利貸し(金融業)としての側面である 12 。延暦寺は日吉大社などを通じて古くから貸金業を営み、京都の金融業者(土倉)の多くを支配下に置いていたとされる。その取り立ては苛烈を極め、「金を返さなければ仏罰が当たる」と脅すだけでなく、後述する武装力を用いて暴力的に行われることもあった 12 。
第三に、僧兵という名の武装集団(軍事力)を擁していたことである 12 。比叡山は数千の僧兵を抱え、自らの権益を守るためには武力行使も辞さなかった。その力は時に為政者をも脅かし、他の宗派との抗争においては凄惨な焼き討ちや殺戮を引き起こすこともあった。例えば、天文五(1536)年の「天文法華の乱」では、延暦寺の僧兵が京都市中の日蓮宗寺院二十一ヵ寺を焼き払い、信徒を老若男女問わず虐殺したと記録されている 12 。
第四に、商業や物流を支配する経済インフラの管理者としての側面である 12 。京都周辺の交通の要衝に多くの関所を設けて通行税を徴収し、酒や麹といった重要物資の生産・販売の独占権を握るなど、経済活動のあらゆる局面に深く関与していた。
このように、土地、金融、軍事、流通という、国家の根幹をなす要素をすべて自前で備えた比叡山は、治外法権的な特権を享受する「国家内国家」であった。この事実は、織田信長と比叡山の対立が、単なる宗教弾圧ではなく、構造的な必然であったことを示唆している。信長の目指す「天下布武」、すなわち武力による中央集権的で均質な国家の建設は、その論理の内に、比叡山のような独立した多元的な権力体の存在を許容する余地がなかった。比叡山の焼き討ちは、旧来の権力構造を破壊し、一元的な支配体制を確立しようとする「近世化」への過渡期に起きた、避けられない衝突だったのである。覚恕は、この巨大な構造的対立の渦中に、指導者として立たされることになった。
元亀二(1571)年九月、織田信長は三万の軍勢を率いて比叡山を完全に包囲した。この軍事行動の直接的な引き金は、信長と敵対していた浅井長政・朝倉義景の連合軍を、比叡山が公然と山内に匿ったことであった 8 。比叡山は、京都を狙う者にとって交通の要衝であり、数万の兵を収容可能な戦略的拠点でもあったため、信長はこの敵対行為を看過できなかった 8 。
この未曾有の危機に際し、天台座主・覚恕は外交的解決を模索していた形跡がある。焼き討ちが実行されるわずか五日前の九月七日、覚恕は自ら参内し、朝廷に何らかの相談を持ち掛けている 3 。その内容は不明ながら、兄である正親町天皇を通じて、信長との和解の道を探ろうとした可能性が指摘される。しかし、この覚恕の動きは、彼の置かれた苦しい立場を物語っている。山内には浅井・朝倉の受け入れを主張する強硬派が存在し、彼らの意向を無視できなかった一方で、信長の圧倒的な軍事力の脅威も目前に迫っていた。朝廷という最後の権威にすがることで事態を打開しようとしたが、もはや天皇の権威では武家の対立を仲裁できない時代の現実を突きつけられる結果となった。
九月十二日、信長軍による総攻撃が開始された。この時、覚恕自身は重陽の節句の行事に参加するため京に滞在しており、直接の難を逃れることができた 3 。しかし、彼の不在の比叡山では、根本中堂をはじめとする山上のあらゆる堂塔伽藍がことごとく火を放たれ、数千人ともいわれる僧侶、学僧、さらには女子供までもが殺戮されたと伝えられる。王城鎮護の霊山として君臨してきた比叡山は、わずか一日にして焦土と化したのである。
この比叡山焼き討ちという大惨事を前にした指導者・覚恕の評価は、後世、大きく二つに分かれている。
一つは、彼を腐敗し堕落した組織の無力な象徴と見なす厳しい評価である。特に、近年の大河ドラマなどで描かれる覚恕像は、世俗的な権力と富に溺れ、仏道を忘れ、危機に際して有効な手を打てなかった指導者という側面が強調されがちである 13 。この見方に立てば、焼き討ちは、そのような比叡山の自業自得の結果であり、覚恕はその責任を免れないということになる。
一方で、彼を悲劇的な状況下で最善を尽くした指導者として評価する見方もある。焼き討ち後、覚恕は速やかに天台座主の辞意を表明しており、これは組織のトップとして全責任を負う姿勢を示したものと解釈できる 7 。また、彼が直面した状況は、一個人のリーダーシップで覆せるようなものではなかった。信長の目的は、比叡山が持つ治外法権的な特権と武装の解除であり 12 、これを比叡山側が受け入れない限り、衝突は不可避であった。覚恕の武器が「皇室の権威」や「宗教の伝統」であったのに対し、信長の武器は「鉄砲」と「経済力」に裏打ちされた圧倒的な「実力」であった。
覚恕のリーダーシップを、現代的な「有能/無能」の二元論で評価することは、歴史の実像を見誤る可能性がある。彼は、中世的な権威システムの中で頂点に立った人物であり、そのシステムの論理に基づいて行動した。彼の「失敗」は、個人的な能力の欠如というよりも、彼がよって立つシステムそのものが、信長の持つ近世的な「実力主義」の論理の前に無力化したことの現れであったと言えよう。覚恕は「旧時代の優れた指導者」であったが、時代のルールそのものを書き換える「新時代の挑戦者」には敵わなかった。彼は悲劇の人物ではあるが、それは無能であったからではなく、時代の転換点に立たされた旧世界の象徴であったからに他ならない。
比叡山という物理的な拠点を失い、事実上、その権威を剥奪された覚恕であったが、彼は信長への抵抗を諦めなかった。焼き討ちの翌年である元亀三(1572)年、覚恕は京を脱出し、甲斐国(現在の山梨県)へと亡命、当時、信長と激しく対立していた戦国大名・武田信玄の庇護下に入った 9 。
信玄が覚恕を保護したことは、単なる人道的な行為や仏教への篤信からだけではない。それは、信長包囲網を完成させるための、極めて高度な政治的・戦略的な一手であった。当時、信玄は将軍・足利義昭からの信長討伐の要請に応じ、西上作戦を開始する直前であった 15 。しかし、彼の軍事行動は、ともすれば天下を狙う私戦と見なされかねない。そこに、信長によって聖地を焼かれた「天皇の兄弟」にして「天台宗のトップ」である覚恕が亡命してきたのである。これは信玄にとって、自らの戦いを単なる領土拡大の野心から、「仏敵・信長を討ち、仏法を守るための聖戦」へと昇華させる、またとない大義名分を手に入れることを意味した。
一方、覚恕にとっても、信玄への亡命は単なる逃避行ではなかった。それは、比叡山を失った彼が、自らの持つ「皇族」「天台座主」という無形の宗教的・政治的資本を、信長に対抗しうる唯一の勢力である武田氏に投下し、再起を図るための戦略的行動であった。覚恕は信玄に保護されるだけの弱い存在ではなく、信玄の軍事行動に最高の「お墨付き」を与えることができる、極めて価値の高い存在だった。二人の関係は、保護者と被保護者というよりも、軍事力と宗教的権威が互いを必要とした、戦略的同盟であったと言える。
甲斐に入った覚恕は、早速その宗教的権威を信玄のために行使する。同年、覚恕の計らいにより、武田信玄は「権僧正(ごんのそうじょう)」という高位の僧位を与えられた 3 。権僧正は、仏教界の最高幹部である僧正に準ずる地位であり、俗人である武将がこれに任じられるのは異例のことであった。
この叙任が持つ意味は大きい。これにより、信玄は公式に仏法のヒエラルキーの中に位置づけられ、その軍事行動は聖別された。信玄は「仏法の守護者」という公的な立場を確立し、対する信長は「仏敵」としてのイメージを決定的にされたのである 9 。これは、戦国時代における巧みな情報戦・プロパガンダ戦争の一環であった。諸国の武将や民衆に対し、「信長につくことは仏に背くことであり、信玄につくことは仏法を守ることである」という、分かりやすい二項対立の構図を提示する効果があった。覚恕は、物理的な力を失った後、自らが体現する「伝統的権威」という象徴的な力を最大限に活用し、信長との戦いを継続したのである。彼は、信長の「革新性(あるいは破壊性)」に対抗する、強力なイデオロギー的戦線を構築した戦略家でもあった。
信玄という強力な庇護者を得た覚恕は、比叡山延暦寺の再興という壮大な計画に着手する。比叡山の三塔執行代(実務を取り仕切る幹部)が武田氏へ再興を要請し、覚恕がその仲介を行った記録が残っている 3 。一説には、信玄は比叡山を甲斐の身延山へ移転させることまで計画していたとも言われる 17 。もし信玄の上洛作戦が成功していれば、信長政権は崩壊し、覚恕の主導のもとで比叡山は旧来の権勢をある程度回復した可能性があった。それは、信長が進めた「政教分離」の流れを大きく後退させる、歴史の転換点となったかもしれない。
しかし、この再興の夢は、あまりにも早く、そして唐突に潰えることとなる。天正元(1573)年四月、西上作戦の途上にあった信玄が、信濃国駒場で病没したのである 10 。最大の庇護者であり、再興計画の唯一の実行者であった信玄の死は、覚恕にとって致命的な打撃であった。彼の死は、覚恕個人の運命だけでなく、旧来の寺社勢力が復権する最後の可能性を断ち切った、決定的な出来事であった。歴史の大きな歯車は、覚恕の望まない方向へと、無慈悲に回転を続けたのである。
最大の希望であった武田信玄の死により、比叡山再興の道は完全に閉ざされた。信長の権勢が続く限り、延暦寺の復興が叶うことはない 1 。絶望の中、覚恕は甲斐を去り、京の曼殊院に戻っていたようである 3 。天正元(1573)年には朝廷の行事に参列した記録が見られるが、それはもはや政治的な影響力を行使する場ではなく、彼の失意を物語るものであったかもしれない。
信玄の死から一年も経たないうちに、覚恕の生命の灯も尽きようとしていた。同年末に病に倒れ、医師・竹田定加の診療も及ばず、年が明けた天正二(1574)年一月三日、波乱の生涯を閉じた 3 。享年53(または54) 4 。信玄の死と覚恕の死がこれほど近接していることは、単なる偶然ではないだろう。それは、彼の気力が、比叡山再興という最後の希望と共に尽き果てたことを強く示唆している。彼の死は、一個人の終焉であると同時に、比叡山を中心とした旧来の宗教的権威が、戦国の武力の前にもはや自立的には存続しえない時代の完全な到来を告げる、象徴的な出来事であった。彼の墓所は、彼が若き日を過ごし、そして最期の時を迎えた曼殊院の寺域内にある曼殊院宮墓地に築かれている 6 。
政治的悲劇の主人公として語られることの多い覚恕であるが、彼は同時に、当代随一の文化人としての一面も持っていた。中世の貴族や高僧にとって、書や和歌などの教養は、単なる趣味や慰めではなく、自らの身分と権威を可視化するための重要なツールであった。
覚恕は、当時の書道の主流の一つであった青蓮院流の書をよくし、その筆跡は高く評価されていた。「真如堂供養弥陀表白」や「金曼表白」といった作品が現代に伝わっている 3 。また、和歌や連歌を好み、「覚恕百首」と題された歌集も残されている 3 。彼の文化活動は、宮中でも重んじられていた。永禄年間には、正親町天皇の皇子であり、次代の天皇となる誠仁親王の手習い(習字)の師範役を務めている 3 。これは、彼が朝廷内において、次代を担う皇族の教育係という極めて重要な文化的役割を担っていたことを示している。彼の卓越した文化的能力は、彼の政治的・宗教的権威と不可分に結びつき、その権威を内側から支える力の源泉となっていたのである。
覚恕の死が戦国末期の宗教界に残した影響は、極めて甚大であった。その最も象徴的な現れが、天台座主の地位が、彼の死後、十年間以上にわたって空位となったことである 3 。後任の第167世座主・尊朝法親王が就任したのは、信長が本能寺で斃れた後の天正十二(1584)年のことであった 14 。
この長期にわたる権力の空白は、信長による比叡山への攻撃が、単なる物理的な破壊(焼き討ち)に留まらなかったことを雄弁に物語っている。それは、比叡山の指導者を生み出すシステム、すなわち皇族や摂関家の子弟が入室し、修行を積んで座主に就任するという伝統そのものを、機能不全に陥らせるほどの構造的な打撃であった。信長の存命中は、誰もがこの危険な地位に就くことをためらい、また信長自身もそれを許さなかった。覚恕の死は、一つの時代の終わりだけでなく、権力構造の転換が完了するまで続く、長い「空白の時代」の始まりを印したのである。
比叡山の本格的な復興は、信長の死を待ち、天下人となった豊臣秀吉や徳川家康の時代になってから、ようやく緒に就くこととなる 1 。彼らは信長とは異なる形で寺社勢力との関係を再構築し、その存在を認める一方で、厳格な統制下に置いた。覚恕の時代に起きた断絶は、日本の宗教と政治の関係性を不可逆的に変えた、決定的な出来事だったのである。
皇子として生まれ、仏門に入り、日本仏教界の頂点である天台座主にまで上り詰めた覚恕。彼の生涯は、高貴な出自、絶大な宗教的権威、そして戦国という時代の激流という、三つの大きな要素が交錯する、壮大かつ悲劇的な物語であった。
彼は、中世的な権威システムの中で頂点に立った、旧世界の支配者であった。彼が拠り所としたのは、皇室の血筋、仏法の神秘性、そして長きにわたる伝統であった。しかし、彼が生きた時代は、それらの旧来の権威が、鉄砲に代表される純粋な武力と、それを支える経済力の前に、次々と無力化されていく時代の大きな転換期であった。
織田信長との対立と比叡山焼き討ち、そして武田信玄との連携と再興の夢の頓挫。その激動の後半生は、旧世界の論理が新世界の論理に敗北していく過程そのものであった。覚恕は、その旧世界の象徴として生き、そして時代の奔流に飲み込まれる形で散っていった。彼の悲劇は、一個人の能力や資質の限界に起因するものではなく、彼が体現していた一つの時代そのものの悲劇であったと言えるだろう。彼の生涯を辿ることは、戦国という時代が、単なる武将たちの覇権争いだけでなく、社会の根幹をなす権力構造そのものの、地殻変動の時代であったことを我々に教えてくれるのである。