毛利勝家は豊臣譜代大名毛利勝永の嫡男。関ヶ原で毛利家が没落後、土佐で不遇な幼少期を過ごす。大坂夏の陣で父と共に豊臣方に参陣し、天王寺口の激戦で奮戦。父の介錯後、自刃し豊臣家に殉じた。享年15。
慶長20年(1615年)5月8日、大坂城は紅蓮の炎に包まれ、天守からは黒煙が立ち上っていた。かつて豊臣秀吉が天下統一の象徴として築き上げた巨城が、その栄華の終わりを告げるかのように灰燼に帰していく。この日本の歴史が大きく転換する瞬間に、父・毛利勝永と共に主君・豊臣秀頼に殉じ、その短い生涯を終えた一人の若武者がいた。その名を毛利勝家(もうり かついえ)という 1 。
勝家の名は、大坂夏の陣において真田信繁(幸村)と双璧をなす武勇を示し、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とまで評された父・勝永の輝かしい戦功の陰に隠れ、歴史の表舞台で語られることは極めて少ない。江戸時代中期の文人、神沢貞幹(かんざわ とこう、号は杜口)がその随筆『翁草』の中で「惜しいかな後世、真田を云いて、毛利を云わず」と嘆じたのは、父・勝永の活躍が正当に評価されていないことへの慨嘆であった 2 。しかし、その父・勝永自身が、燃え盛る戦場で若き息子の奮戦を目の当たりにし、思わず「惜しきものよ」と、その早すぎる死を惜しんだという事実は、さらに知られていない 1 。
本報告書は、この毛利勝家という、わずか15年の生涯を戦国の終焉と共に駆け抜けた若者の実像に迫るものである。彼の出自、運命を決定づけた大坂の陣への参陣、そしてその壮絶な最期までを、現存する史料を丹念に読み解き、歴史の片隅に埋もれたその肖像を鮮やかに描き出すことを目的とする。
毛利勝家の生涯を理解するためには、まず彼がどのような境遇で生を受けたのかを解き明かす必要がある。彼の誕生は、一族が栄光の頂点から転落し、最も不遇であった時期と重なっている。豊臣譜代大名としての誇り、関ヶ原の戦いでの敗北、そして配流という激動の時代背景こそが、彼の運命の序章を形成したのである。
勝家の祖父は毛利勝信(初名は森吉成)、父は毛利勝永(初名は森吉政)という 3 。彼らの一族は、中国地方の覇者である毛利元就の一族とは血縁関係になく、元来は尾張国を本拠とする「森」姓の武士であった 6 。父祖の代から豊臣秀吉に仕えた、豊臣家にとっては数少ない譜代の家臣であり、秀吉の立身出世と共にその地位を高めていった 7 。
天正15年(1587年)、秀吉による九州平定が完了すると、父・勝信は豊前国小倉に6万石(一説には10万石や14万石とも)を与えられ大名となる 3 。この時、嫡男の勝永も父の領地内から1万石(『慶長4年諸侯分限帳』では4万8,000石)を与えられ、若くして大名の列に加わった 3 。この豊前入封に際し、秀吉の指示によって姓を「森」から、西国一の大名である「毛利」の漢字に改めたとされている 3 。これは、秀吉が譜代の家臣の出自を高く見せるための配慮であったと伝わっており、豊臣政権内における彼らの家格と、秀吉からの厚い信任を象徴する出来事であった 7 。
慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、天下の情勢は徳川家康へと傾いていく。慶長5年(1600年)に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、毛利勝信・勝永親子は迷うことなく豊臣家への恩義を貫き、西軍に与した 3 。勝永は西軍の主力として伏見城攻めや安濃津城攻めに参加し、毛利輝元や宇喜多秀家から感状と3,000石の加増を受けるほどの目覚ましい戦功を挙げた 6 。
しかし、9月15日の関ヶ原における本戦で西軍は敗北。豊前小倉にあった勝永の居城は、西軍諸将が戦場へ出払っている隙を突いた黒田如水(孝高)によって攻め落とされてしまう 3 。戦後、西軍に与した毛利家は改易、すなわち大名としての地位と全ての所領を没収された 6 。勝信・勝永父子は、その身柄を肥後の加藤清正、次いで旧知の仲であった土佐の山内一豊に預けられることとなり、配流の身となったのである 3 。
毛利勝家は、まさにこの一族が没落の淵に沈んでいた慶長5年(1600年)の暮れ、あるいは翌慶長6年(1601年)に、配流先の土佐国で生を受けたと推定されている 1 。母は土佐山内氏の家臣の娘であったと伝わる 1 。彼の人生は、父や祖父が経験した豊臣政権下での栄光を全く知ることなく、敗軍の将の子という不遇な境遇から始まったのである。
毛利一族は、土佐藩主山内家から1千石の封地を与えられ、高知城の北に位置する久万村で蟄居生活を送った 6 。罪人としての扱いではあったが、山内一豊と勝永が旧知の間柄であったことなどから、その処遇は比較的寛大なものであったという 3 。しかし、勝家にとって、父が折に触れて語るであろう失われた故郷・豊前小倉の栄華と、土佐での蟄居という現実との間には、埋めがたい隔たりがあったに違いない。この「失われた栄光」と「不遇な現実」の記憶は、父・勝永が後に豊臣家からの招聘に命を懸ける決断を下す心理的な土壌となり、ひいては勝家自身の運命を決定づける根源的な要因となった。彼のアイデンティティは、生まれながらにして「豊臣家への忠義」と「一族再興の悲願」という、重い宿命と分かちがたく結びついていたのである。
土佐における14年の長きにわたる蟄居生活は、慶長19年(1614年)、大坂で豊臣家と徳川家の間に戦雲が立ち込める中で、劇的な終わりを迎える。この章では、毛利勝家が歴史の表舞台に登場する直接のきっかけとなった、父子の決死の覚悟と、その大胆不敵な脱出劇の全容を詳細に追う。
慶長19年秋、徳川との決戦を覚悟した大坂の豊臣秀頼は、全国に散った豊臣恩顧の浪人たちに大坂城への集結を呼びかけた。勝永の元にも、旧領小倉の商人を名乗る男が訪れる。その正体は豊臣家の家臣・家里伊賀守であり、秀頼からの入城要請を伝える密使であった 7 。
父子二代にわたって豊臣家から受けた大恩に報いる絶好の機会であったが、勝永は即断できなかった。彼が大坂方に与すれば、監視下にある土佐に残される妻子にどのような咎めが及ぶか分からない。そのことを深く憂慮した勝永は、妻子を前にして「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし、自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し、涙を流したと伝わる 3 。
この夫の苦衷を察した妻は、毅然としてこう応えた。「君の御為に働くことは、我が家の名誉です。残る者の心配をなされるのであれば、私どもはこの島の波に身を沈め、一命を絶ちましょう」 3 。この言葉に勝永は迷いを断ち切り、大坂城への入城を決意する。武家の妻としての覚悟を示したこの逸話は、後年、銃後の守りの手本として明治時代の修身書『婦女鑑』にも取り上げられるほどであった 9 。
決意を固めた勝永は、土佐藩を欺くための大胆な計略を巡らせる。その計画の成否を分ける鍵として、当時14歳の嫡男・勝家が極めて重要な役割を担うことになった。
まず勝永は、土佐藩主・山内忠義に対し、「大坂の陣が始まると聞き及んだ。自分も徳川方として参陣し、ご恩に報いたい」と偽りの申し出を行った 3 。その忠誠の証として、嫡男である勝家を人質として久万の屋敷に残し、さらに次男の太郎兵衛(鶴千代)を城に人質として差し出すと約束したのである 2 。一族の跡継ぎである嫡男を差し出すという行為は、山内家に対してこれ以上ない忠誠の証と映った。これは、相手の警戒心を完全に解き、油断させるための、極めて計算された心理的策略であった。勝家は、この一世一代の欺瞞工作において、最も価値ある「駒」として、その運命の舞台に立たされたのである。
山内家の留守居役であった山内康豊は、この申し出をすっかり信用し、勝永の出立を許可した。そして勝永が出発し、山内家が完全に油断した隙を突いて、毛利家の家老・宮田甚之丞が手勢を率いて久万の屋敷を「襲撃」。人質のはずの勝家を鮮やかに“奪還”し、父子が合流すると、かねてより準備していた船に乗り込み、一路大坂へと脱出した 10 。この脱出劇を知った康豊は激怒したが、後の祭りであった。この計略の巧妙さと大胆さは、勝永が単なる勇将ではなく、優れた智将でもあったことを示している。そして、14歳の勝家が、自覚的であったか否かは定かでないものの、この計画の中心的な役割を果たしたことは、彼が単なる父の追随者ではなく、物語の開始時点からその運命に能動的に関わっていたことを示唆している。
土佐には、勝永の妻、次男の太郎兵衛、そして娘が取り残された。欺かれた山内忠義は激怒し、勝家の監視役であった山内四郎兵衛に切腹を命じ、残された妻子を高知城内に軟禁した 6 。
しかし、この報告を受けた徳川家康は、意外にも「勝永の志は殊勝である。残った妻子の罪を問うてはならない」との指示を山内家に出したと伝わる 10 。これにより、妻子は城内で丁重に扱われることとなった。これは、敵将ながらも豊臣家への忠義を貫く勝永の筋の通った姿勢を家康が評価したためか、あるいは、この時点ではまだ豊臣方との和睦の可能性も探っており、無用な刺激を避けるための政治的判断であった可能性も考えられる。いずれにせよ、この時点では、彼らの命は保証されていた。
苦難の末に大坂城へ入った毛利勝永は、その出自と武名から、真田信繁、後藤基次、長宗我部盛親、明石全登と並び「大坂城五人衆」と称され、豊臣方の中心的な武将として諸将の信望を集めた 2 。この章では、大坂の陣、特に勝家の生涯で唯一にして最大の晴れ舞台となった「天王寺・岡山の戦い」における、父子の獅子奮迅の活躍を戦場の熱気と共に描き出す。
慶長19年(1614年)11月に始まった大坂冬の陣では、豊臣方は大坂城に籠城する策を取った。毛利隊は城の北西方面、今橋付近の守備に就いたが、徳川方が城の堅固さに攻めあぐねたこともあり、この方面では大きな戦闘は発生しなかった 6 。そのため、父子ともに特筆すべき活躍の機会はなく、戦いは和睦という形で一旦終結した。
冬の陣の和睦は偽りであった。徳川方は和睦の条件を拡大解釈し、大坂城の堀を全て埋め立て、城を裸同然にしてしまう 13 。再戦が必至となった慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発する。豊臣方は城外での決戦を決意し、5月7日、天王寺・岡山方面に最後の主力を展開した。この決戦における両軍の布陣は、豊臣方にとって極めて絶望的な状況を示している。
軍団 |
陣営・部隊 |
主要武将 |
兵力(推定) |
典拠史料 |
豊臣軍 |
天王寺口 |
毛利勝永・勝家 |
約4,000名 |
22 |
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真田信繁(幸村) |
約3,500名 |
15 |
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その他諸将 |
約9,300名 |
22 |
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岡山口 |
大野治房 |
約4,600名 |
15 |
徳川軍 |
天王寺口(先鋒) |
本多忠朝 |
約5,500名 |
15 |
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小笠原秀政・忠脩 |
(第二陣の一部) |
6 |
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浅野長重、秋田実季 他 |
(第一陣・第二陣) |
6 |
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天王寺口(本陣) |
徳川家康 |
約15,000名 |
13 |
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岡山口 |
前田利常、藤堂高虎、井伊直孝 他 |
約51,100名以上 |
15 |
総兵力で徳川軍約15万に対し、豊臣軍は約5万5千と、3分の1近い兵力差であった 13 。その中で毛利隊は、徳川家康の本陣が置かれた天王寺口の正面、四天王寺南門前に布陣した 6 。これは豊臣方の先陣として、敵の主力を引きつけ、食い止めるという最も過酷な役割を担うことを意味していた。
正午頃、毛利隊の物見に出ていた部隊が、徳川方先鋒の本多忠朝隊に鉄砲を撃ちかけたことをきっかけに、天王寺口の戦端が開かれた 17 。これを合図に、死を覚悟した毛利隊4,000は、徳川軍の先鋒・本多忠朝隊5,500に猛然と突撃を開始する。
毛利隊の凄まじい勢いは本多隊を圧倒し、瞬く間にこれを壊滅させ、大将の本多忠朝を討ち取るという大戦果を挙げた 2 。本多忠朝は、徳川四天王の一人である本多忠勝の次男であり、その死は徳川方に大きな衝撃を与えた。続いて本多隊の救援に駆けつけた小笠原秀政・忠脩父子の部隊も、毛利隊と、それに追随してきた木村重成の残存部隊(木村宗明隊)による側面からの攻撃を受けて混乱 17 。この乱戦の中で子の忠脩は討死し、父の秀政も重傷を負って戦場を離脱した後に死亡した 6 。
この激戦の最中、15歳の若武者・毛利勝家も父の部隊の一員として奮戦していた。彼は自らの手で敵の鎧武者を討ち取り、その首を誇らしげに父・勝永のもとへ見せに行ったと伝わる 10 。初陣の若者としては、これ以上ない武功であった。しかし、百戦錬磨の指揮官である父・勝永の反応は、息子の期待とは全く異なるものであった。勝永は、戦況全体を見据え、冷徹にこう言い放った。「これが最後の戦いだ。敵の首など取ってもしょうがない。捨てておけ」 10 。個人の手柄に固執する時間的余裕はなく、部隊全体の目標である家康本陣への突撃を優先せよ、という指揮官としての合理的な判断であった。
だが、この父の言葉に臆することなく、勝家は再び敵陣に斬り込み、さらに鎧武者を討ち取るという離れ業を演じる 10 。その鬼気迫る息子の姿を目の当たりにした時、指揮官としての冷静な仮面を被っていた勝永の口から、思わず本音が漏れた。「惜しきものよ」 1 。この一言は、単なる賞賛ではない。息子の類稀なる武才と、その才能がこの絶望的な戦で潰えようとしていることへの深い哀惜、そして、死地で輝きを放つ我が子への抑えきれない父親としての愛情が溢れ出た瞬間であった。この逸話は、勝家が単に「父に従った少年」ではなく、絶望的な戦況下で歴戦の父をも感嘆させるほどの武勇を示した、一人の独立した武人であったことを雄弁に物語っている。彼の奮戦こそが、後世に伝わる毛利勝永の人間味あふれる逸話を生み出す触媒となったのである。
毛利隊の獅子奮迅の活躍は、榊原康勝、安藤直次らの部隊を次々と撃破し、一時は徳川家康の本陣にまで肉薄した 6 。しかし、時を同じくして家康本陣への突撃を敢行していた真田信繁の部隊が壊滅し、戦線が崩壊すると、豊臣方の敗北は決定的となった 2 。この章では、燃え盛る大坂城を舞台に、毛利父子が迎えた壮絶な最期と、それに伴う一族の完全な終焉を描く。
四方を徳川勢に囲まれた勝永は、「もはやこれまで」と判断。しかし、その撤退戦も見事なもので、追撃してくる井伊直孝や細川忠興らの攻撃を巧みにかわし、部隊の統率を保ったまま大坂城内へと帰還した 2 。
慶長20年5月8日、大坂城は内通者による放火で炎上し、豊臣家の最後の時が迫っていた。城内の山里曲輪、蘆田矢倉(あしだやぐら)において、父・勝永は主君・豊臣秀頼の自害を介錯したと伝えられている 2 。豊臣譜代の家臣として、主家の滅亡の瞬間を見届けるという、武士として最大の忠義を果たしたのである。
そして、その大役を終えた勝永は、最後まで共に戦い抜いた嫡男・勝家、そして土佐で山内姓を与えられながらも兄に従って大坂城に入った弟の山内吉近と共に、静かに自刃して果てた 2 。毛利勝家、享年15(数え年で16歳) 1 。彼の生涯は、父が貫いた豊臣家への忠義に始まり、その忠義と共に幕を閉じた。
勝永と勝家が戦場で散った一方で、彼らの決断は土佐に残された家族の運命にも決定的な影響を及ぼした。戦場で敗れ、主君に殉じて自ら命を絶つという勝永・勝家の死は、戦国武士の美学に則った「名誉ある死」であった。しかし、土佐に残された次男・太郎兵衛を待っていたのは、全く異なる冷徹な結末であった。
大坂の陣が終結すると、徳川家康は山内忠義に対し、城内に軟禁されている毛利勝永の母子を京へ護送するよう命じた 2 。そして、当時まだ10歳であった太郎兵衛は、京において斬首されたのである 2 。これは、将来の禍根となりうる存在を、たとえ幼子であっても容赦なく根絶やしにするという、新たに天下の支配者となった徳川幕府の断固たる意志の表れであった。
勝家の死が、父子の絆や主君への忠義といった「物語」としての悲壮美を帯びるのに対し、戦場を知らぬ弟・太郎兵衛の死は、新時代の非情な「政治」そのものであった。この対照的な二人の息子の結末は、戦国乱世の価値観が終焉を迎え、徳川の法と秩序による新しい時代が到来したことを、極めて残酷な形で浮き彫りにしている。毛利勝永の血筋は、助命されて土佐へ戻された妻と娘を除き、ここに完全に途絶えることとなった 2 。
毛利勝家の生涯は、その誕生から最期まで、徹頭徹尾、父・勝永の選択と行動によって規定されていた。しかし、本報告書で詳述したように、彼は単なる受動的な存在ではなかった。歴史の片隅に埋もれた彼の肖像を再評価し、その短い生涯が持つ意味を考察する。
勝家が歴史の記憶から零れ落ちやすいのは、その生涯が父・勝永の壮大な物語に完全に内包され、自己の物語として独立する前に、あまりにも早く終わってしまったからに他ならない。しかし、彼はその短い時間の中で、確かに自らの存在証明を果たした。土佐脱出の計略において、その成否を左右する重要な役割を担い、大坂夏の陣という絶望的な戦場では、百戦錬磨の父が思わず「惜しきものよ」と漏らすほどの気概と武才を示した。彼は、父の期待に見事に応え、あるいはそれを超えるほどの輝きを放ったのである。
公式の記録では、毛利父子は慶長20年5月8日に大坂城で自刃したことになっている。しかし、彼らが蟄居していた高知県の土佐市波介(はげ)地区には、これとは異なる伝承が今なお残されている。それは、大坂城を落ち延びた勝永・勝家親子がこの地に密かに帰還し、隠れ住んだという生存伝説である 21 。
現地には、現在も地域の人々によって手厚く守られている墓所があり、そこには勝永、その妻、そして勝家と、本来は京で斬首されたはずの次男・太郎兵衛のものと伝わる五輪塔が並んで建てられている 21 。この伝説は、史実とは明らかに異なるが、歴史学的に無視できない重要な意味を持っている。これは、毛利父子の壮絶な戦いぶりと悲劇的な最期が、彼らを監視していたはずの土佐の地の人々の心にさえ、いかに深く刻み込まれていたかの証左に他ならない。英雄に悲劇的な最期ではなく、安らかな余生を送ってほしいと願う民衆の強い共感と祈りが、このような「もう一つの物語」を生み出したと考えられるのである。
毛利勝家は、豊臣家という沈みゆく巨船に、父と共に最後まで乗り続けた若き武士であった。彼の15年の生涯は、戦国武将の父を持つ子の宿命、豊臣家への揺るぎない忠義、そして時代の大きな転換点に翻弄された悲劇の象徴と言える。
彼の存在は、父・勝永の物語を語る上で欠かすことができない。勝家の奮戦は、父・勝永の武勇伝に人間的な深みと哀愁を加え、その人物像をより立体的なものにしている。大坂の陣という時代の終焉を、その若き身をもって体現した毛利勝家。その短いながらも鮮烈な煌めきは、豊臣家最後の悲劇をより一層、私たちの胸に深く刻み込むのである。