毛利勝永は豊臣譜代の将。関ヶ原で西軍に与し改易されるも、大坂の陣で豊臣方として奮戦。天王寺・岡山で家康本陣に迫る猛攻を見せ、秀頼を介錯後自刃した。
大坂の陣、その終焉を飾る壮絶な戦いにおいて、多くの日本人が想起するのは真田信繁(幸村)の獅子奮迅の活躍であろう。徳川家康の本陣に三度の突撃を敢行し、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と謳われたその英雄譚は、時代を超えて語り継がれてきた。しかし、その同じ戦場で信繁と肩を並べ、あるいはそれ以上の戦果を挙げながら、永く歴史の影に甘んじてきた武将がいた 1 。その名は、毛利勝永。
江戸時代中期の文人、神沢貞幹(かんざわさだみき)は、その随筆『翁草』の中で、勝永の活躍を賞賛しつつ、次のように記している。「惜しいかな後世、真田を云いて、毛利を云わず」 2 。この一文は、勝永の武功が同時代人には驚嘆をもって受け止められていたにもかかわらず、なぜ後世の我々には馴染みが薄いのか、という根源的な問いを投げかける。本報告書は、この「語られざる英雄」の実像に迫ることを目的とする。豊臣家への揺るぎない忠義に生涯を捧げ、関ヶ原での無念を胸に14年の雌伏を経て、最後の戦場でそのすべてを燃焼させた猛将。史料を丹念に読み解き、彼が徳川家康を本気で震え上がらせ 1 、そしてなぜ歴史の表舞台からその姿を消していったのか、その生涯の軌跡を多角的に解明していく。
毛利勝永の生涯を理解する上で、まずその父、毛利勝信の存在を欠かすことはできない。勝信は、本姓を森、名を吉成(よしなり)といい、尾張国あるいは近江国の出身とされる 6 。彼は豊臣秀吉がまだ羽柴姓を名乗り、織田信長の一武将であった頃から仕えた古参の家臣、いわゆる「譜代」の将であった 9 。
その信頼の証として、吉成は秀吉の馬廻衆の中でも特に精鋭を集めた親衛隊「黄母衣衆(きほろしゅう)」の一員に抜擢されている 7 。これは、彼が単なる部将ではなく、秀吉の側近として極めて重要な地位にあったことを示している。天正15年(1587年)、秀吉による九州平定が完了すると、吉成はその戦功、特に肥後国人一揆の鎮圧における働きを評価され、豊前国小倉に6万石(一説には10万石や14万石とも 2 )を与えられ、大名へと立身した 6 。
勝永は天正6年(1578年)、父・吉成の子として生を受けた 1 。父が小倉の大名となった際、勝永もその所領の内から1万石(4万石との説もある 2 )を与えられ、わずか10歳前後という若さで大名としての経歴を開始する 1 。
この時期、父子には二つの重要な変化があった。一つは諱(いみな)、もう一つは姓である。
第一に、勝永の諱について、一次史料で確認できる名は「吉政(よしまさ)」である 2 。今日我々が知る「勝永」という名は、後世の軍記物語などで用いられたものであり、彼自身が署名した文書はすべて「吉政」となっている 16 。この「政」の一字は、正室・安姫の父である肥前の大名、龍造寺政家から偏諱を受けたものとされ、これは彼が単なる大名の子息ではなく、九州における豊臣政権の重要人物と目されていたことを示唆する 11 。
第二に、姓の変更である。秀吉の命により、父子ともに元々の姓である「森(もり)」から、中国地方の大大名・毛利氏と同じ漢字を用いる「毛利(もうり)」へと改姓した 6 。この改姓には、西国の雄である毛利輝元の推薦があったともいわれ、実際に天正16年(1588年)には、勝永が輝元の接待役を務め、能の興行で太鼓を披露するなど、両家には交流があったことが記録されている 7 。
この改姓は、単なる栄誉の付与に留まらない、秀吉の天下戦略の一端をうかがわせる。出自の低い秀吉は、伝統的な権威を利用しつつも、それを乗り越える新たな支配体制の構築を目指していた。譜代の腹心である森氏と、西国の大勢力である毛利氏を「毛利」という一つの姓で結びつけることにより、秀吉は両者を自身の権威の下で再編成し、新たな主従関係のネットワークを構築しようとした。これは、森氏の家格を向上させると同時に、大大名である毛利氏を豊臣政権の中枢にさらに深く組み込むための、巧みな人事戦略であったと考えられる。勝永が名乗った「毛利」の姓は、彼のアイデンティティの根幹を成すと同時に、豊臣政権そのものの構造的特徴を象徴するものであった。
若き大名・毛利勝永(吉政)は、単なる二世大名ではなかった。慶長2年(1597年)に始まった慶長の役では、20歳の若さで父と共に朝鮮半島へ渡海し、その武才の片鱗を見せつける 1 。
彼の武名を高めたのが、蔚山倭城(うるさんわじょう)の戦いである。この戦いで、加藤清正が守る蔚山城は明・朝鮮連合軍の大軍に包囲され、絶体絶命の危機に陥っていた。勝永は救援軍の一翼を担い、父と共に敵軍を撃退、清正を救出するという大きな武功を挙げた 2 。この功績は、彼が卓越した戦術眼と武勇を兼ね備えた武将であることを早くから証明するものであった。
また、武人としてだけでなく、豊臣政権のエリートとしての側面も持ち合わせていた。天正18年(1590年)、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが再来日し小倉を訪れた際には、勝永が出迎え役を務めている 3 。これは、彼が九州における豊臣政権の外交窓口、すなわち奉行的な役割を担っていたことを示唆している。
慶長3年(1598年)に秀吉が逝去した際には、その形見分けとして「さださね」と銘の入った刀を拝領している 3 。これは、勝永が秀吉本人、そして豊臣政権の中枢から深い信頼と将来への期待を寄せられていたことの何よりの証左であった。
慶長5年(1600年)、豊臣政権内部の対立はついに天下分け目の戦いへと発展する。徳川家康率いる東軍と、石田三成らを中心とする西軍の激突、関ヶ原の戦いである。父の代から秀吉に仕え、その恩顧を深く受けてきた毛利親子にとって、進むべき道は一つしかなかった。彼らは迷うことなく、豊臣家を守護する西軍に与した 1 。これは、二代にわたる豊臣家への恩義を貫く、当然の選択であった。
勝永は、西軍の主力部隊の一翼を担い、関ヶ原の本戦に先立つ前哨戦でその武勇を遺憾なく発揮した。
まず、西軍の初戦である伏見城攻めに参加。徳川方の鳥居元忠が守る伏見城は難攻不落を誇ったが、勝永は凄まじい働きを見せ、城の攻略に大きく貢献した 1 。この功績により、西軍総大将の毛利輝元と宇喜多秀家から感状と3,000石の加増を受けるという、破格の評価を得た 3 。しかし、この激戦で毛利九左衛門(香春岳城主)や毛利勘左衛門といった多くの有能な家臣を失うという、大きな代償も払っている 3 。
続いて伊勢路を転戦し、安濃津城の戦いにも参加。ここでは長束正家や安国寺恵瓊らと共に城下の村々を焼き討ちにするなど、西軍の中核として活動を続けた 3 。
しかし、彼の運命は本戦で暗転する。関ヶ原の本戦当日、勝永の部隊は安国寺恵瓊の指揮下にあり、毛利秀元らと共に南宮山に布陣していた 2 。眼下では東西両軍の激闘が繰り広げられていたが、彼らの前には、東軍に内通していた同族の吉川広家が陣を敷き、頑として動かなかった。広家は「今、弁当を食べている」などと称して毛利本隊の進軍を意図的に妨害し続けた。結果、南宮山に布陣した毛利勢は、ついに一歩も動くことができず、天下分け目の決戦に参加することなく西軍の敗北を迎えるという、武士として最大の屈辱を味わうことになった 1 。
この関ヶ原での経験は、勝永のその後の人生に決定的な影響を与えた。前哨戦で自らの武才を証明し、戦う気力も能力も十分にありながら、自らの力ではどうにもならない一族内の政治的裏切りによって、その力を発揮する機会を奪われた。この「発揮されるべきだった力が、不本意な形で封じ込められた」という強烈な不完全燃焼の記憶は、彼の心に深い傷と鬱屈を残したに違いない。後に大坂の陣で見せる鬼神の如き戦いぶりは、単なる豊臣家への忠誠心の発露に留まらず、この関ヶ原で果たせなかった武人としての本懐を遂げ、14年間溜め込み続けた鬱憤のすべてを最後の戦場で爆発させるという、極めて個人的な動機に突き動かされたものであったと考えられる 1 。
勝永が本戦で戦えずにいる間、彼の本国である豊前小倉城は、東軍についた智将・黒田如水(官兵衛)の巧みな策略によって攻め落とされていた 3 。西軍の敗北により、毛利親子は改易処分となり、小倉6万石の所領はすべて没収された 14 。
戦後、父子の身柄はまず肥後熊本城主の加藤清正に、次いで土佐国主となった山内一豊に預けられることとなった 2 。豊臣政権下で将来を嘱望された若き大名は、一日にしてすべてを失い、流浪の身となったのである。
関ヶ原の敗将として土佐に送られた毛利親子であったが、その扱いは罪人というには程遠いものであった。預かり主となった土佐藩初代藩主・山内一豊は、旧知の仲であった彼らを厚遇したと伝えられる 2 。勝永は高知城の北に位置する久万村に住居を与えられ、1,000石の扶持米を支給されるなど、手厚い待遇を受けた 16 。この厚遇ぶりは、勝永の弟・吉近が山内姓を与えられ、2,000石取りの家臣として迎えられたことからも明らかである 2 。
しかし、この穏やかながらも先の見えない日々の中で、勝永に悲劇が襲う。慶長15年(1610年)、正室であった安姫(龍造寺政家の娘)がこの世を去り、さらにその翌年の慶長16年(1611年)には、父・勝信も土佐の地で没した 16 。相次いで最愛の家族を失った勝永は、世を儚んだのか、髪を剃って出家し、「一斎」と号した 1 。これは、武士「毛利吉政」が一度この世から消え、世俗との関わりを断った瞬間であり、彼の深い絶望と諦念がうかがえる 1 。
武士としての道を諦め、土佐で静かに生きていた勝永の元に、転機が訪れる。慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の関係が決定的に悪化し、大坂の陣が目前に迫ると、勝永の元に豊臣家からの密使が訪れた。使者は豊臣秀頼からの書状を携え、大坂城への入城を要請したのである 1 。
この時、勝永の胸中には大きな葛藤があった。二代にわたって受けた豊臣家への大恩に報いるため、一命を捧げたいという武士としての情熱。しかし、自分が大坂方につけば、預かり主である山内家との関係は破綻し、土佐に残る家族に多大な迷惑がかかることは必至であった。江戸時代中期の逸話集『常山紀談』には、この時の様子が生き生きと描かれている。勝永が妻子を前に「秀頼公のために一命を捧げたいが、そうなればお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し涙を流したという 3 。
これに対し、妻は毅然として夫を励ました。「君の御為に働くは、我が家の名誉です。残る者のことを心配なさるのであれば、私どもはこの島の波に沈み、一命を絶ちましょう」 2 。この言葉は、勝永の迷いを断ち切るに十分であった。
この「妻の激励」の逸話は、武士の妻の鑑として非常に美しい物語であるが、その史実性については慎重な検討が必要である。『常山紀談』は江戸時代中期に成立した書物であり、当時の支配階級の道徳観であった儒教的な思想が色濃く反映されている。ある研究者は、この逸話が「忠臣は二君に見えず」という後世の価値観に基づいて創作された可能性を指摘している 23 。山内家から受けた厚遇を裏切るという行為を、個人的な恩義を超えた公儀(豊臣家)への忠誠という、より高次の義理を果たすための行動として美化・正当化する物語装置としての側面は否定できない。
しかし一方で、この話が徳川家康の耳に入った際、家康は「丈夫(ますらお)の志のある者は、みな、斯くの如しである。彼の妻子を罰してはならない」と感嘆し、残された家族を保護したという後日談も伝わっている 3 。この逸話の真偽はともかく、それが後世に創作され、受け入れられた背景には、勝永の並々ならぬ覚悟を要する決断を理解し、共感しようとする人々の心情があったことは間違いない。
妻の言葉に背中を押された勝永は、一計を案じる。土佐藩主・山内忠義に対し、「大坂の陣に参陣される藩軍に、私も微力ながら助力したい」と申し出て許しを得ると、嫡男の勝家と共に巧みに監視の目を潜り抜け、海路で土佐を脱出。ついに大坂城への入城を果たしたのである 2 。14年間の雌伏の時は、終わりを告げた。
大坂城に入った毛利勝永は、元豊前小倉6万石の大名というその出自と、これまでの武功、そして沈着冷静な人柄から、城内に集った牢人衆や諸将からたちまち深い信望を得た 1 。彼は、真田信繁、後藤基次、長宗我部盛親、明石全登といった錚々たる顔ぶれと共に「大坂五人衆」と称され、豊臣軍の中核を担う存在となった 13 。
氏名 |
出自・背景 |
大坂の陣での主な役割・戦い |
最期 |
特記事項 |
毛利勝永 |
元豊前小倉大名、豊臣譜代 |
天王寺口の主力。徳川軍先鋒を壊滅させる。 |
豊臣秀頼を介錯後、自刃 17 。 |
攻守に優れた指揮官。父は秀吉の黄母衣衆。 |
真田信繁 |
信濃の豪族、元秀吉近習 |
茶臼山に布陣。徳川家康本陣への決死の突撃。 |
安居神社にて討死 25 。 |
「日本一の兵」。九度山での蟄居生活が有名。 |
後藤基次 |
元黒田家家臣、牢人 |
道明寺の戦いで先鋒。寡兵で大軍相手に奮戦。 |
道明寺にて討死 25 。 |
勇猛果敢な戦いぶりで知られる。 |
長宗我部盛親 |
元土佐大名 |
八尾・若江の戦いで藤堂高虎隊を撃破。 |
戦後捕縛され六条河原で斬首 25 。 |
大名家の再興を夢見て参戦。 |
明石全登 |
元宇喜多秀家家老、キリシタン |
決死隊を率い家康本陣を狙う。 |
戦場を離脱後、行方不明 25 。 |
熱心なキリシタン武将として知られる。 |
この比較からも、勝永が単なる一介の牢人ではなく、元大名という高い家格を持ち、豊臣家譜代の将として、城内でも極めて重要な立場にあったことがわかる。
慶長19年(1614年)に始まった大坂冬の陣は、豊臣方が大坂城に籠城し、徳川方がそれを包囲する形で展開した。この戦いで勝永は、城の二の丸西方や今橋口といった、城の北西方面の守備を担当した 9 。しかし、戦いは徳川方による砲撃が主体となり、大規模な野戦は発生しなかった。そのため、勝永がその卓越した武勇を本格的に発揮する場面はほとんどなく、和議の成立を迎えることとなった 2 。
冬の陣の和議は偽りであった。徳川方は和議の条件を拡大解釈し、大坂城の堀をすべて埋め立ててしまう。これにより、天下の名城と謳われた大坂城は、もはやただの「裸城」と化した。豊臣方は城外での決戦を余儀なくされる。
慶長20年(1615年)5月6日、豊臣方は大和方面から進軍してくる徳川軍を迎撃するため、道明寺方面へ部隊を派遣した。この道明寺の戦いで、勝永は真田信繁らと共に後詰部隊として出陣した。しかし、夜明けからの深い濃霧によって進軍が大幅に遅れ、先行した後藤基次隊が徳川軍の大軍に包囲され、孤立奮闘の末に壊滅するのを防ぐことができなかった 3 。
遅れて戦場に到着した信繁は、盟友・後藤基次を救えなかったことを深く恥じ、「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(基次)らを死なせてしまった。豊臣家の御運も尽きたやもしれぬ」と嘆き、この場で討死しようと覚悟した。これに対し、勝永は激情に駆られる信繁を冷静に諭したと伝えられる。「ここで死んでも何の益もない。願わくは、明日の決戦で秀頼公の御馬前で華々しく死のうではないか」 3 。この逸話は、情熱的な信繁と、常に冷静沈着な勝永という、二人の英雄の対照的な性格と、死地を前にした深い信頼関係を物語っている。
5月7日、大坂夏の陣、最後の決戦の火蓋が切られた。豊臣方は、決戦場を天王寺・岡山周辺に定め、天王寺口に毛利勝永隊、茶臼山に真田信繁隊を布陣させた 27 。
正午頃、戦端は勝永隊によって開かれた。勝永は配下の部隊に命じ、対峙する徳川方先鋒・本多忠朝の陣へ一斉射撃を敢行 27 。これを合図に、死を覚悟した毛利隊は徳川軍へと猛然と突撃した。本多忠朝は、徳川四天王と謳われた本多忠勝の次男であり勇将として知られたが、毛利隊の凄まじい勢いの前に為す術なく、奮戦の末に討ち取られた 9 。先鋒の本多隊は壊滅した。
勢いに乗る毛利隊の進撃は止まらない。本多隊の敗走で混乱する徳川軍の二番手・小笠原秀政隊、三番手・榊原康勝隊、四番手・酒井家次隊をも次々と撃破していった 27 。これにより、徳川家康の本陣を守る部隊は一掃され、家康の旗本衆がむき出しの状態となった。勝永の部隊は、ついに家康本陣に肉薄する。予期せぬ猛攻に家康の本陣は大混乱に陥り、家康自身も一時は自害を覚悟したと伝えられるほどであった 1 。
この勝永の奮戦ぶりは、敵方からも賞賛された。かつて勝永の父子と豊前で隣り合わせであった黒田長政は、この戦いを遠望し、僚友の加藤嘉明に「金の輪抜きの旗指物をつけて力戦しているあの将は誰か」と尋ねた。嘉明が「毛利壱岐守(勝信)の子である」と答えると、長政は「ついこの間まで幼い者と思っていたが、今や武略に練達した大将となったものよ」と深く感嘆したという逸話が残っている 3 。
ここで、勝永と信繁、二人の英雄の戦い方を比較すると、興味深い違いが見えてくる。信繁の突撃は、兵力の劣勢を覆すため、敵の組織を無視して一点集中で家康の首のみを狙う「斬り込み」であった。これは極めて奇策であり、そのドラマ性から後世の物語で大きく取り上げられた。一方、勝永の戦い方は、正面にいる敵部隊を順番に、かつ確実に撃滅していく「正面突破」であった。先鋒、二番手、三番手と、徳川軍の組織を系統立てて破壊していく、より正攻法に近い戦術である。信繁の突撃が「点」の攻撃であるならば、勝永のそれは「線」から「面」へと制圧範囲を拡大していく戦いであった。信繁の活躍が「日本一の兵」という個人の武勇伝として語り継がれやすいのに対し、勝永の功績は「優れた指揮官」としての戦術的勝利であり、その専門性の高さゆえに、大衆向けの物語としては伝わりにくかった可能性がある。これもまた、「真田を云いて、毛利を云わず」という現象を生んだ一因かもしれない。
勝永と信繁の猛攻により、徳川軍は一時崩壊状態に陥ったが、圧倒的な兵力差はいかんともしがたかった。信繁隊が奮戦の末に壊滅し、豊臣方の戦線が崩壊し始めると、勝永隊も四方から集中攻撃を受けることとなった。勝永は最後まで戦線を維持し奮戦したが、衆寡敵せず、ついに城内へと撤退した 3 。
慶長20年(1615年)5月8日、徳川軍が城内になだれ込み、大坂城は炎上。もはやこれまでと覚悟を決めた豊臣秀頼は、城内の山里曲輪(やまざとくるわ)で自刃の途を選んだ。その際、勝永が秀頼の介錯を務めたという説が、複数の史料や軍記物で伝えられており、最も有力視されている 2 。
主君の最期を見届けた勝永は、嫡男の勝家と共に静かに自らの腹を切り、38年の壮絶な生涯に幕を閉じた 17 。その自刃の場所は、現在の大阪城公園内、刻印石広場の東側にひっそりと立つ「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」の碑の近くとされている 30 。
公式の記録では大坂城で自刃したとされる勝永だが、その一方で、彼は生き延びてかつての配流地であった土佐へ逃れたという伝説が、高知県土佐市波介(はげ)地区に根強く残っている 31 。
この地には、勝永本人とその妻、そして嫡男・勝家と次男・太郎兵衛のものと伝えられる墓が、今も地元の人々によって守られている 32 。さらに、この地域には現在も「森」姓(毛利氏の旧姓)を名乗る家が数十世帯存在し、勝永の子孫であると信じられている 31 。
歴史上の英雄、特に悲劇的な最期を遂げた人物には生存伝説がつきものであるが、勝永の伝説が、彼が14年間を過ごした土佐の地に残っていることは示唆に富む。これは、彼が土佐の人々にとって単なる「預かり人」ではなく、深く記憶に残る存在であったことを物語っている。彼の卓越した武勇伝や、藩を離れてまで旧主への忠義に殉じたその壮絶な生き様が、地元で同情や尊敬を集め、語り継がれる中で伝説として昇華したと考えられる。この生存伝説は、史実ではないとしても、毛利勝永という人物が地域社会に与えた影響の大きさと、その悲劇的な運命に対する民衆の共感を雄弁に物語る「歴史的記憶」の産物として、非常に価値がある。
なぜ、これほどの活躍を見せた毛利勝永が、真田信繁ほど後世に語り継がれなかったのか。その理由は複合的であるが、主に以下の三点が考えられる。
第一に、 史料の偏り である。真田家には『真田三代記』をはじめとする軍記物語が多く存在し、それらが江戸時代の講談や、明治以降の立川文庫などを通じて大衆的な人気を博した。一方、勝永に関するまとまった記録は、彼を預かっていた土佐山内家に伝来した『毛利豊前守殿一巻』など、極めて限定的であった 3 。これにより、物語として広く流布する機会そのものが少なかった。
第二に、 物語性の違い である。信繁の九度山での14年間の蟄居生活(真田紐を作って生計を立てたという逸話 33 など)や、家康本陣への三度の突撃という劇的なクライマックスは、物語として非常に魅力的である。対して、勝永の物語は、武士としての内面的な葛藤や、組織的な戦闘指揮といった側面が強く、大衆受けする派手さや分かりやすさに欠けていた可能性がある。
第三に、 勝者である徳川幕府の歴史観 の影響である。江戸幕府の治世下において、幕府を最も苦しめた「反逆者」である真田信繁を、ある種の畏敬の念を込めて物語化することは許容されたかもしれない。しかし、豊臣譜代の忠臣として、組織的な戦闘によって幕府軍の主力を正面から打ち破った勝永の存在は、幕府の権威を揺るがしかねないため、積極的に語られることが憚られたという側面も考えられる。彼の戦功を称えることは、徳川方の将たちの不甲斐なさを認めることにも繋がりかねなかったのである。
毛利勝永の生涯は、豊臣秀吉によって見出され、豊臣政権下で栄達し、そして豊臣家の滅亡と共にその命を散らした、「豊臣譜代」としての矜持を貫いた武士の典型であった。関ヶ原での不完全燃焼、土佐での14年間の雌伏という長い助走期間を経て、彼の類稀なる軍事的才能は、大坂夏の陣という最後の、そして最大の悲劇の舞台においてのみ、完全に開花した。
「惜しいかな後世、真田を云いて、毛利を云わず」。この言葉は、単に勝永の不遇を嘆くものではない。それは、歴史の表舞台からこぼれ落ちた無数の「真の強者」の存在を我々に教え、勝者によって語られる歴史の裏側に光を当てることの重要性を示唆している。毛利勝永という一人の武士の生涯を再評価することは、戦国という時代の終焉を、より深く、より多層的に理解することに他ならない。彼の生き様は、名声や知名度だけでは測れない、武士としての確かな矜持と輝きを、今なお我々に伝えている。