慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、豊臣政権下で五大老の一人として君臨した毛利家にとって、まさに天運の岐路であった。西軍の総大将に担がれた当主・毛利輝元は、戦後、徳川家康によって安芸広島を中心とする112万石の広大な領地を没収され、周防・長門の二国、約37万石へと大減封されるという屈辱を味わった 1 。この「防長減封」は、戦国大名としての毛利家の威勢を根底から揺るがし、一族は存亡の危機に立たされた。
このような苦境の最中、慶長7年(1602年)9月3日、一人の男子が産声を上げる。毛利就隆、幼名を百助。父・輝元が関ヶ原の戦後処理のため、いまだ帰国を許されず伏見の屋敷に留め置かれていた時期のことであった 3 。輝元は長く子宝に恵まれず、就隆が生まれたのは43歳の時であり、兄の秀就に次ぐ待望の実子であった 4 。
就隆の生涯は、戦国の動乱を生き抜き、失意のうちに旧領を去った父・輝元の世代とは、根本的に異なる時代背景のもとに始まる。彼の物心がつく頃には、徳川幕府による支配体制、すなわち幕藩体制は盤石となり、大名の役割は領土拡大の武功ではなく、与えられた領国を統治し、幕府への奉公を勤め上げることに変質していた。
毛利家においても、この新たな秩序に適応する必要があった。その中で、本藩(宗家)の安定を図り、一族の血脈を保つために、当主の子弟に領地を分け与えて支藩を創設することは、極めて重要な政治的戦略であった。就隆に与えられた役割は、単なる次男への財産分与という私的な意味合いに留まらない。それは、縮小された毛利家が、徳川の治世下で永続していくための、高度に政治的な意味を帯びたものであった 3 。彼の人生は、戦国武将の価値観を持つ父と、泰平の世に生きる江戸時代の大名である自身との間の、世代間の断絶と葛藤を内包しながら幕を開けるのである。
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
1602年(慶長7年) |
1歳 |
9月3日、伏見にて毛利輝元の次男として誕生。幼名は百助。 |
3 |
1604年(慶長9年) |
3歳 |
生母・清泰院が死去。 |
3 |
1611年(慶長16年) |
10歳 |
駿府城にて大御所・徳川家康に拝謁。 |
3 |
1617年(元和3年) |
16歳 |
兄・毛利秀就より周防国都濃郡などに3万石余を内証分知される。 |
6 |
1621年(元和7年) |
20歳 |
領地替えにより、山間部から海岸部の所領を得る。長府藩主・毛利秀元の娘・松菊子と結婚。 |
5 |
1624年(寛永元年) |
23歳 |
将軍・徳川家光の乗馬の相手を務め、賞賛される。正室・松菊子との最初の離縁騒動が起こる。 |
5 |
1631年(寛永8年) |
30歳 |
周防国下松に陣屋を構える(下松藩)。 |
9 |
1634年(寛永11年) |
33歳 |
幕府より正式に分知を公認され、4万5000石で諸侯に列する。 |
9 |
1643年(寛永19年) |
42歳 |
正室・松菊子と正式に離縁。 |
5 |
1650年(慶安3年) |
49歳 |
藩庁を下松から野上村へ移し、地名を「徳山」と改称。徳山藩が成立する。 |
10 |
1679年(延宝7年) |
78歳 |
8月8日、江戸の三田藩邸にて死去。 |
10 |
毛利就隆は、慶長7年(1602年)9月3日、父・輝元が徳川家への臣従の証として滞在を余儀なくされていた伏見の屋敷で生まれた 3 。母は輝元の側室で、家臣であった児玉元良の娘・清泰院である 5 。しかし、幸福な幼少期は長くは続かなかった。わずか3歳にして生母・清泰院と死別するという悲運に見舞われる 3 。この早すぎる母との別れは、彼の心に深く刻まれたとみえ、後年、母の菩提を弔うために下松に周慶寺を建立するという行動に繋がっている 3 。
兄の秀就は、関ヶ原の戦い以前から徳川家への人質として江戸にあり、就隆は父・輝元の手元で育てられた唯一の実子であった。輝元の実質的な末子であったことから、彼は甘やかされて育ち、その性格は当初、自由奔放で華美を好むものであったと伝えられている 5 。しかし、その一方で、彼は毛利家の将来を担う一員としての自覚も早くから求められた。慶長16年(1611年)、わずか10歳にして駿府城に赴き、大御所・徳川家康に拝謁している。これは、毛利家の安泰を願い、徳川家への忠誠を形として示すための、父・輝元の強い意向によるものであった 3 。
就隆の人生が大きく転換するのは、元和3年(1617年)のことである。この年、兄であり長州藩(萩藩)の初代藩主となっていた毛利秀就から、周防国都濃郡を中心とする3万石余(慶長検地による石高で3万1473石)の領地を内々に分与された 6 。これが、後の徳山藩の直接的な起源となる「内証分知」である。
しかし、当初与えられた領地は山間部が多く、経済的な価値が高いとは言えなかった。これに不満を抱いた就隆は、本藩に対して粘り強く領地替えを要求し、元和7年(1621年)にこれを実現させる 8 。山間の7村を手放す代わりに、瀬戸内海に面した富田村や福川村、さらには長門国阿武郡の2村などを獲得した 8 。石高こそ約400石減少したものの、海岸部の村々は製塩や海運に適しており、実質的には極めて有利な交換であった 5 。この交渉は、彼が単に与えられたものを受動的に受け入れるだけの人物ではなく、自らの藩の経営基盤をより強固なものにしようとする、能動的で現実的な思考の持ち主であったことを示している。
寛永8年(1631年)、就隆は領地経営の拠点として周防国下松(現在の山口県下松市)に陣屋を構えた 9 。この時点では、彼の藩は「下松藩」と称された 7 。そして、内証分知から17年の歳月を経た寛永11年(1634年)、ついに幕府から分知が正式に公認され、就隆は4万5000石の大名として諸侯の列に加えられた 9 。この立藩に至るまでの長い期間は、支藩の成立が本藩の意向のみならず、幕府の権威を背景とした複雑な政治的調整と、藩主自身の粘り強い交渉の結果であったことを物語っている。彼は若くして、自らの藩の地位を確立するための政治家としての一歩を力強く踏み出したのである。
なお、徳山藩の石高については、幕府の公認や各種の記録において、3万石、4万10石、4万5000石など複数の数値が混在しており、これは検地や内高(実質的な石高)と公称石高の違いなど、江戸時代の藩石高制度の複雑さを反映している 10 。
下松に藩庁を構えた就隆であったが、元和7年(1621年)の領地替えによって、藩の領域は大きく変化していた。その結果、下松は藩領の東端に位置する「僻地」となり、広大な領地を統治するには不便な場所となっていた 8 。藩政を円滑に進め、領国の経済をさらに発展させるためには、より中心的な場所への藩庁移転が不可欠であった。
就隆が新たな拠点として着目したのは、西国街道が通り、瀬戸内海の海上交通路にも面した野上村であった。ここは陸路と海路が交差する交通の要衝であり、政治・経済の中心地として理想的な立地条件を備えていた 8 。この選択は、就隆が藩の将来像を、内陸の農業経済に留めず、交易や商業を重視した海洋国家的なものとして描いていたことを示唆している。
慶安元年(1648年)、就隆は幕府から正式な許可を得て、野上村への藩庁移転に着手する 12 。そして慶安3年(1650年)、ついに藩邸(陣屋)を野上村へ移すと、この地を新たに「徳山」と改称した 7 。この瞬間から、藩の名称も「下松藩」から「徳山藩」へと変わり、新たな歴史が始まったのである。
元和元年(1615年)に発布された「一国一城令」により、大名家が持てる城は原則として一つに制限されていたため、就隆は新たな城を築くことはできなかった。そのため、藩庁として築かれたのは、天守を持たない「陣屋」形式の館であった 8 。しかし、「徳山陣屋」または「徳山城」と呼ばれたこの施設は、単なる政務所ではなく、広大な敷地を有し、土塁や堀を備えた堅固なものであった。その規模は、福井の敦賀陣屋、千葉の飯野陣屋と並び、「日本三大陣屋」の一つに数えられるほど壮大なものであったと伝えられている 17 。
就隆の事業は、単に藩庁を移すだけに留まらなかった。彼は徳山陣屋を核として、計画的な城下町の建設に取り組み、藩政の確固たる基礎を築き上げた 15 。現在の周南市文化会館や徳山動物園、周南市美術博物館が広がる一帯が、かつての徳山陣屋と藩の主要な施設があった場所である 8 。
彼は武家屋敷や町人地を整然と区画し、商業の発展を促した。さらに、寛文10年(1670年)には、毛利家の菩提寺となる大成寺を冨田村から城下の東に位置する丘陵地へ移転させるなど 8 、宗教施設も計画的に配置し、新たな藩都としての風格を整えていった。下松からの遷都と徳山の開府は、単なる地理的な移動ではない。それは、就隆の明確な藩経営ビジョンに基づく戦略的な決断であり、農業依存経済から商業・交易を重視する経済への転換を目指した、徳山藩の未来を決定づける画期的な事業だったのである。
若い頃は自由奔放で贅沢を好んだと伝えられる就隆であったが、藩主としての年月を重ねる中で、その意識は大きく変化していった。藩の財政が豊かでなければ、自らの贅沢も、家臣や領民の生活も成り立たない。彼は、藩の財政を圧迫し、その負担を領民に押し付けることを深く恥じるようになり、以後は藩の自立と繁栄を目指して、殖産興業政策に心血を注ぐことになる 5 。この転換は、彼が単なる特権階級の貴公子から、領国の経営に責任を負う真の統治者へと成長を遂げたことを示している。
就隆が藩の財政基盤を確立するために特に力を入れたのが、米・塩・紙の三つの産品の増産であった。これらはその色から「三白(さんぱく)」と称され、彼の経済政策は「三白政策」として知られるようになる 5 。この政策は、本藩である長州藩でも行われていたが、徳山藩においては、小規模な支藩が経済的に自立するための、より切実な戦略であった。
これらの殖産興業政策の成功により、徳山藩の財政は次第に潤い、就隆は藩政の確固たる基礎を築き上げた。彼の治世は62年という長期にわたったが、その間、彼は藩の経済的自立という目標を着実に達成していった 8 。就隆の「三白政策」は、単に本藩の模倣ではなく、支藩という小規模な経済単位が自立するための必然的な選択であった。特に、市場で直接現金収入に繋がる塩と紙という「商品作物」に注力したことは、年貢米に大きく依存する本藩とは異なる、独自のキャッシュフローを生み出すことに成功した。この経済的な力が、後に彼が本藩に対して強気な姿勢を取ることを可能にした、重要な背景となったのである。
就隆が築き上げた徳山藩の経済的自立は、一方で毛利一門における新たな火種を生むことになった。彼は、本藩である萩藩に従属するだけの存在であることを良しとせず、独立した大名としての強い矜持を抱いていた。その姿勢は、宗家との間に深刻な確執をもたらし、彼を毛利一門の中で孤立させていく。
就隆の自立志向が最も顕著に表れたのが、幕府が諸大名に課した手伝普請(公共事業の分担金)を巡る問題であった。本藩である萩藩は、支藩である徳山藩にも応分の負担を求めたが、就隆は自藩の財政難を理由に、兄・秀就からの協力要請をたびたび拒否した 9 。
この行動は、萩藩から見れば、一門としての結束を乱す許しがたい行為であった。藩主個人の視点に立てば、莫大な財政負担となる手伝普請を拒否することは、自藩の領民を守るための合理的な判断とも言える。しかし、この一件は兄弟間の個人的な不和に留まらず、本藩と支藩の間に埋めがたい溝を作った。この時に生まれた不信と対立の構造は、就隆の治世を超えて受け継がれ、後の三代藩主・元次の時代に起こる「万役山事件」、そして徳山藩が一時改易されるという最大の危機を招く、大きな遠因となったのである 5 。
就隆の孤立をさらに深めたのが、正室・松菊子との離縁であった。この結婚は、父・輝元の強い意向により、元和7年(1621年)に成立したものであった。相手は、毛利一門の重鎮であり、長府藩の初代藩主であった毛利秀元の長女・松菊子。毛利一門の結束を固めるための、典型的な政略結婚であった 1 。
しかし、二人の夫婦仲は極めて険悪であった。寛永元年(1624年)には、その不仲が三代将軍・徳川家光の耳にまで達するほどの離縁騒動に発展する 5 。本藩の秀就らが必死に仲裁し、一度は事なきを得たものの、両者の関係が改善することはなかった。そして寛永17年(1640年)、ついに松菊子が就隆の屋敷を出て実家に戻り、離縁を強く要求する事態となる。輝元が決めた縁組を守りたい秀就は、懸命に説得を試みたが、松菊子の意志は固く、寛永19年(1643年)に離縁が決定した 5 。
この離縁により、就隆は義父であった長府藩主・毛利秀元との関係をも決定的に悪化させ、萩の本藩のみならず、長府の支藩からも疎まれる存在となった 8 。彼の行動は、当時の価値観からすれば極めて異例であり、一門の和を乱す「問題児」と見なされたであろう。しかし、それは同時に、彼が支藩の当主として、本藩や一門の論理とは異なる独自の論理、すなわち「自藩の利益と安定」を最優先する道を選び取った結果でもあった。この選択は、徳山藩のアイデンティティを確立する上で不可欠な過程であったが、毛利一門全体の結束を揺るがす「諸刃の剣」でもあったのである。
関係 |
氏名(院号) |
生没年/続柄 |
子女(主な続柄・嫁ぎ先) |
出典 |
父 |
毛利輝元 |
1553年 - 1625年 |
- |
1 |
母 |
清泰院 |
不詳 - 1604年 |
児玉元良の娘 |
5 |
兄 |
毛利秀就 |
1595年 - 1651年 |
長州藩初代藩主 |
9 |
正室 |
松菊子 |
不詳 |
長府藩主・毛利秀元の長女。寛永19年(1643年)に離縁。 |
5 |
|
└ 次女 |
千福子 |
1626年 - 1673年。岸和田藩分家・岡部高成室。 |
5 |
継室 |
禅海院(加祢子) |
不詳 - 1681年 |
中川重政の娘。 |
5 |
|
└ 長男 |
千代松丸 |
1663年 - 1668年。早世。 |
5 |
|
└ 次男 |
岩松丸 |
1664年 - 1668年。早世。 |
5 |
|
└ 六女 |
千代春子 |
1665年 - 1700年。下総高岡藩主・井上政蔽正室。 |
5 |
|
└ 四男 |
千寿丸 |
1669年 - 1673年。早世。 |
5 |
|
└ 五男 |
毛利元賢 |
1670年 - 1690年。 徳山藩2代藩主 。 |
5 |
|
└ 七女 |
好春 |
1672年。早世。 |
5 |
側室 |
性雲院(銀子) |
不詳 - 1705年 |
京都の紺屋の娘。 |
5 |
|
└ 三男 |
毛利元次 |
1668年 - 1719年。 徳山藩3代藩主 。 |
5 |
側室 |
永心寺殿 |
不詳 |
家女房。 |
5 |
|
└ 長女 |
伊勢子 |
1625年 - 1670年。 |
5 |
|
└ 三女 |
吉子 |
1639年 - 1711年。大納言・葉室頼孝室。 |
5 |
側室 |
清涼院 |
不詳 |
家女房。 |
5 |
|
└ 四女 |
鍋子 |
不詳 - 1676年。京極高冬室。 |
5 |
|
└ 五女 |
竹子 |
1657年 - 1718年。安房勝山藩主・酒井忠国正室。 |
5 |
政治家、経営者として、時に激しい気性を見せた毛利就隆であるが、その一方で、洗練された教養と深い文化的素養を兼ね備えた人物でもあった。彼の素顔を伝える逸話は、その人物像に複雑な奥行きを与えている。
就隆は、武士としての嗜みである武芸、特に馬術に極めて優れた才能を示した。寛永元年(1624年)10月、彼は江戸城において三代将軍・徳川家光の乗馬の相手を務めるという大役を拝命する。その際の見事な乗りこなしは家光を感嘆させ、褒美として駿馬一匹を下賜されたほどであった 5 。当時、馬術の名手として高名であった諏訪部多宮(幕府の馬術師範)でさえ、就隆の卓越した技量に驚きを隠せなかったと伝えられている 5 。この逸話は、彼が単に馬術が巧みであったというだけでなく、将軍と直接交流できるだけの礼儀作法と品格を身につけていたことを示している。これは、支藩の当主として幕府中枢との関係を築く上で、極めて重要な資質であった。
就隆の文化人としての一面を最も象徴するのが、能楽への深い愛情である。彼は幼い頃から能に親しみ、慶長18年(1613年)、わずか12歳(数え年)にして萩城の能舞台で能を演じたという記録が残っている 5 。同年には、自ら謡本『楊貴妃』を書き写しており、現存するその謡本は、表紙に豪華な蜀江錦が用いられ、金砂子や金泥で装飾が施された、非常に美術的価値の高いものである 5 。能楽は、江戸時代の大名にとって必須の教養であり、重要な社交のツールでもあった。就隆の能楽への傾倒は、彼が中央の洗練された文化にも通じた、コスモポリタンな大名であったことを物語っている。
就隆の私生活は、その複雑な家族関係に特徴づけられる。正室・松菊子と離縁した後、継室として中川重政の娘・禅海院を迎えたほか、複数の側室との間に多くの子女をもうけた 5 。跡を継いだのは、継室の子である五男の元賢、そしてその元賢が嗣子なく没した後は、側室の子である三男の元次が藩主となっており、後継者問題にも複雑な事情があったことが窺える 5 。
その一方で、彼の人間的な側面を示す逸話も残されている。幼くして亡くした生母・清泰院の菩提を弔うために周慶寺を建立したこと 3 、そして江戸・上野の寛永寺に石灯篭を寄進し、それが今なお現存していること 5 などは、彼の信仰心の篤さを示している。政治的な対立や藩経営の厳しさの裏で、彼が家族を思い、神仏を敬う一人の人間であったことを、これらの事実は静かに伝えている。
分知から数えれば62年、藩庁を徳山に移してから29年という長きにわたり、藩主として領国を治め、徳山藩の礎を一代で築き上げた毛利就隆。その治世は、延宝7年(1679年)8月8日、江戸の三田藩邸において終わりを告げる。享年78歳。戦国の気風がまだ残る江戸初期にあって、父・輝元(享年73)を超える長寿を全うした 5 。
その亡骸は、彼の第二の故郷ともいえる徳山に運ばれ、自らが城下の東に定めた菩提寺・大成寺に手厚く葬られた。彼の墓所は、後に亡くなった奥方(継室・禅海院か)の廟と仲睦まじく並び、立派な唐破風の本瓦葺きの覆屋に守られて、今も静かにその地にある 8 。
就隆の功績は、彼の死後も徳山の人々によって長く記憶された。彼は、徳山という新たな都市を創設し、その繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖として敬愛され続けた。その敬意の念は、後年、徳山城跡に創建された祐綏(ゆうすい)神社において、幕末の名君として知られる九代藩主・元蕃と共に、祭神として祀られるという形で結実した 5 。藩祖が神として祀られることは、その治績が後世の領民からいかに高く評価されていたかを示す、何よりの証左である。
しかし、毛利就隆という人物を歴史的に評価する時、その姿は単純な「名君」という言葉だけでは捉えきれない。彼の生涯は、光と影、功績と負の遺産が複雑に絡み合った、二面性を持つものであった。
一方には、**「創設者としての功」**がある。彼は何もないに等しい野上村の地に「徳山」という新たな都市を創り出し、計画的な城下町建設を行った 15 。さらに「三白政策」に代表される殖産興業を推進し、小規模な支藩にすぎなかった徳山藩の経済的基盤を確立した 5 。彼が築いたこの礎が、後の徳山の発展、ひいては近代における日本有数の工業都市・周南市の誕生に繋がったことは、紛れもない事実である。
しかし、その裏には**「対立者としての罪」**とも言うべき側面が存在する。彼は徳山藩の自立を追求するあまり、本藩である萩藩や、一門である長府藩との間に深刻な軋轢を生んだ 8 。彼が残したこの対立の構造は、次代、次々代へと持ち越され、徳山藩を改易という最大の危機へと追い込む直接的な原因となった 5 。
総括するならば、毛利就隆とは、単一の評価軸では到底測ることのできない、功罪併せ持つ稀有な人物であったと言える。彼の生涯は、江戸時代初期における支藩が必然的に抱えた「本藩への協調」と「一藩としての自立」という、二つの相克する命題の間で繰り広げられた緊張関係そのものを象徴している。彼は、その矛盾と葛藤を一身に体現し、時には反発し、時には巧みに立ち回りながら、自らの藩を創り上げた。そのダイナミックな生涯は、幕藩体制という時代の構造を理解する上で、極めて示唆に富む、興味深い事例として歴史に刻まれている。