毛利高政は秀吉子飼いの家臣で佐伯藩初代藩主。毛利姓を賜り、武功と吏僚の才で活躍。関ヶ原で西軍も改易免れ、藩政を確立。砲術の大家でもあった。
豊臣秀吉の子飼いの家臣でありながら、関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗北後に改易を免れ、豊後佐伯藩二万石の初代藩主として家名を後世に残した武将、毛利高政。彼の生涯は、戦国から江戸初期という日本史上最大の転換期を、武勇、知略、そして卓越した処世術で生き抜いた稀有な例である 1 。利用者が提示した「豊臣家臣。備中高松城攻めの際に毛利家の人質となり、以後、森姓を毛利姓に改めた。関ヶ原合戦では西軍に属したが、戦後、豊後佐伯2万石を与えられた」という情報は、彼の波乱に満ちた経歴の核心を的確に捉えている。しかし、その情報の背後には、より複雑で多面的な人物像が隠されている。
本報告書は、この簡潔な概要を出発点とし、毛利高政の生涯の全貌を、出自、武功、政治的手腕、藩主としての治績、そして人物像に至るまで、あらゆる角度から徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。
年代 |
出来事 |
永禄2年(1559年) |
尾張国にて誕生 |
天正5年(1577年)頃 |
豊臣(羽柴)秀吉に出仕 |
天正10年(1582年) |
備中高松城の戦いにて毛利方の人質となる |
天正11年(1583年) |
賤ヶ岳の戦いに従軍 |
天正14年(1586年) |
キリスト教の洗礼を受ける |
天正15年(1587年) |
九州平定に従軍(船奉行) |
天正18年(1590年) |
小田原征伐に従軍 |
文禄元年〜慶長3年(1592年〜1598年) |
文禄・慶長の役に従軍(舟奉行、軍目付) |
文禄4年(1595年)頃 |
豊後国日田2万石に入封 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦いに西軍として参加後、東軍に内通 |
慶長6年(1601年) |
豊後国佐伯2万石へ転封、佐伯藩初代藩主となる |
慶長7年(1602年) |
佐伯城の築城を開始 |
慶長19年〜元和元年(1614年〜1615年) |
大坂の陣に徳川方として従軍 |
元和7年(1621年) |
仙台藩主・伊達忠宗らに砲術を指南 |
寛永5年(1628年) |
死去(享年70) |
毛利高政が属した森氏は、その出自を辿ると宇多源氏佐々木氏の支流にあたり、元来は近江国愛知郡鯰江庄を本貫として鯰江姓を称していた一族であった 2 。『寛政重脩諸家譜』などの系図によれば、高政の祖父の兄にあたる定春の代に、尾張国海東郡森村へ移り住んだことから森姓を名乗るようになったとされる 2 。ただし、この出自に関しては異説や不明な点も多く、その詳細が完全に解明されているわけではない 2 。
高政の父は森高次(通称:九郎左衛門)といい、当初は織田信長の家臣、あるいはその陪臣として仕えていた 2 。高政の運命が大きく動くきっかけは、森氏の主筋にあたる蜂須賀正勝が羽柴秀吉に仕えたことにあった。蜂須賀氏の寄子(配下)という立場であった森氏から、天正5年(1577年)頃、若き高政が秀吉の近習として出仕することになったのである 2 。これが、彼のその後の人生を決定づける大きな転機となった。
秀吉の元に出仕した高政は、早くからその才覚を認められ、主君の寵愛を受けた。天正6年(1578年)には、播磨国明石郡松ノ郷において3,000石(一説には6,000石)の所領を与えられている 2 。これにより、高政は単なる陪臣の立場から秀吉直属の家臣、すなわち「子飼い」と呼ばれる譜代衆の一員へと抜擢された 2 。このことは、彼の将来の活躍に向けた強固な基盤を築く上で極めて重要な意味を持った。なお、高政の母が若い頃の秀吉との間に子をなしたという説も存在するが、これはあくまで後世の一説に過ぎない 2 。
高政の抜擢は、単なる縁故によるものではなく、出自よりも実利と能力を重んじる秀吉の人材登用戦略の典型例と見ることができる。織田家中で成り上がった秀吉は、生来の譜代家臣団が脆弱であったため、自身の権力基盤を早急に固める必要があった。そのために彼が用いた戦略の一つが、加藤清正や福島正則に代表されるように、縁戚関係や信頼できる部下の配下から見出した有能な若者を、自らの手元で家族同然に育て上げ、絶対的な忠誠心を持つ側近集団を形成することであった 6 。高政は、秀吉の盟友ともいえる蜂須賀正勝という信頼性の高い供給源から見出され、若くして所領を与えられて直臣となった。この事実は、彼が秀吉から将来性を高く評価されていたことを物語っており、彼のキャリアの始まりは、個人の才能と秀吉の天下統一事業における人材戦略という二つの要因が交差した結果であったと分析できる。
豊臣政権下で、毛利高政は単なる武人としてだけでなく、優れた行政官僚(テクノクラート)としてもその能力を遺憾なく発揮し、秀吉の天下統一事業に多大な貢献を果たした。
高政は、秀吉が関わった主要な合戦の多くに従軍し、武功を立てている。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、自らも負傷するほどの奮戦を見せた 2 。『川角太閤記』によれば、この戦いで捕虜となった敵将・佐久間盛政の検使役を務めたとされ、若くして重要な役目を任されるほどの信頼を得ていたことが窺える 2 。天正15年(1587年)の九州平定では船奉行に任じられ、兵站や輸送の管理、さらには関門海峡の守りの指揮を執った 2 。これは、彼が単なる戦闘員ではなく、海事や兵站を管理する能力も有していたことを示している。天正18年(1590年)の小田原征伐では600名の兵を率いており、この頃には一軍の将として確固たる地位を築いていた 2 。
高政の真価は、戦場での武功のみならず、政権を支える実務能力にもあった。天正11年(1583年)から始まった大坂城の普請や、天正14年(1586年)の方広寺大仏殿建立といった国家的な大事業においては、石材運搬の奉行を務めた 2 。これらの任務は、大規模なプロジェクトを計画・実行する高度な管理能力と行政手腕を必要とするものであった。さらに天正17年(1589年)には、石川貞通と共に山城国の検地奉行に任命されている 2 。太閤検地は豊臣政権の経済的基盤を確立する根幹政策であり、その実行者に選ばれたことは、秀吉からの深い信頼と、高政自身の几帳面さ、そして高い実務能力を証明するものであった。
二度にわたる朝鮮出兵は、高政の多才さをさらに際立たせる舞台となった。文禄の役(1592年)では、兄の重政や弟の吉安らと共に舟奉行として渡海した 2 。慶長の役(1597年)では、諸将の軍功を査定し軍律を監督する重職である軍目付(いくさめつけ)として派遣された 2 。南原城の攻略戦では、得意としていた大筒(大型火器)を駆使して軍功を挙げ、また文禄の役では敵将・元豪を生け捕りにする功績も立てている 2 。さらに、出兵に先立つ天正19年(1591年)には対馬での陣城普請を命じられ、朝鮮半島でも倭城群の築城奉行を務めるなど、技術者としての一面も発揮した 2 。
この朝鮮出兵において、彼の将来を左右する重要な出来事が起きる。慶長の役後、蔚山城追撃戦に関する件で罪に問われた高政は、慶長4年(1599年)に行われた再審議において、藤堂高虎の力強い弁護によって無罪放免となった 2 。この一件で築かれた高虎との強固な信頼関係は、後の関ヶ原の戦いで彼の運命を救う決定的な伏線となる。
豊臣政権は、朝鮮出兵を契機に、加藤清正に代表される現場での武功を重視する「武断派」と、石田三成に代表される兵站や行政を担う「文治派」の対立が深刻化した 8 。高政の経歴は、このどちらか一方に単純に分類することができない。検地奉行や船奉行といった役職は文治派的な能力を、戦場での軍功は武断派的な実績を示す。彼は、この両方の領域で成果を上げるハイブリッドな能力を持つ武将であった。この多才さこそが、特定の派閥に埋没することなく、秀吉から直接信頼される「技術官僚型武将」としての独自の地位を築かせた源泉であり、彼の価値は、単なる武勇や行政能力ではなく、それらを統合した総合的な問題解決能力にあったと考えられる。
高政の姓が「森」から「毛利」へと変わった経緯は、彼の生涯の中でも特に象徴的な出来事であり、単なる個人の改名に留まらない、高度な政治的意味合いを含んでいた。
天正10年(1582年)、織田信長の家臣であった羽柴秀吉は、中国地方の雄・毛利氏が支配する備中高松城を、世に名高い水攻めによって包囲した 11 。この攻城の最中、京都で本能寺の変が勃発し、主君・信長が横死したとの報が秀吉の元に届く。主君の仇を討つべく、秀吉は毛利氏との戦いを急遽収束させ、京へ軍を返す「中国大返し」を計画した 13 。
この迅速な講和を実現させるため、信頼の証として人質の交換が行われた。この時、羽柴陣営から毛利方へ人質として送られたのが、当時まだ森姓を名乗っていた高政と兄の重政であった 2 。藩の歴史を記した書物によれば、この人質生活の間に、毛利家の当主であった毛利輝元は高政兄弟を大変気に入り、「(森と毛利では)苗字の読み方が同じであるのも不思議な縁だ。よろしければ私の名字を授け、永く兄弟の契りを結びたいものだ」と語ったと伝えられている 2 。
この時に生まれた縁が、後年、具体的な形となる。毛利氏が秀吉に臣従した後、文禄元年(1592年)前後に、輝元から改めて改姓の申し出があった 2 。秀吉の許可を得て、高政の一族は藤原姓の「森氏」から、西国の名門・大江姓「毛利氏」へと改姓するに至ったのである 2 。これにより、彼は「毛利高政」となり、その名は徳川の世になってから用いた諱「高政」と組み合わさって後世に定着した(豊臣時代は主に「友重」を名乗っていた) 2 。
この改姓劇は、単に輝元が一個人を気に入ったという美談としてのみ解釈すべきではない。その背景には、秀吉政権と旧敵・毛利家との新たな主従関係を象徴する、計算された政治的力学が存在した。輝元にとって、秀吉が寵愛する近臣である高政に自らの姓を与えることは、秀吉への恭順の意を最大限に示すための効果的なジェスチャーであった。一方、秀吉にとっては、巨大勢力である毛利家を円滑に統治するための布石であった。自らの子飼いである高政が「毛利」を名乗ることで、豊臣家は毛利家に対する影響力を保持しやすくなり、高政自身は両者の間の「パイプ役」あるいは「楔」としての機能を期待されたのである。高政自身にとっても、比較的に出自の低い森一族から、西国随一の名門である毛利一門という絶大なブランド価値を手に入れることは、豊臣家臣団の中での彼の地位を飛躍的に向上させるものであった。人質交換の逸話が後世の創作である可能性を指摘する説もあるが 16 、仮にそうであったとしても、この改姓が持つ政治的重要性は変わらない。むしろ、それほど重要な政治的行為であったからこそ、その正当性を劇的に演出するための物語が必要とされたとも考えられる。この改姓は、輝元、秀吉、高政の三者それぞれに利益のある、計算された政治的行為であり、高政はこの類稀な経験を通じて、大名間の複雑な関係性を調整する役割を担う特異な存在へと変貌を遂げたのである。
豊臣秀吉の死後、天下の趨勢が徳川家康へと傾く中、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発する。秀吉恩顧の大名として、高政は極めて難しい立場に置かれたが、彼はここでも卓越した政治感覚を発揮して生き残りを図った。
高政は当初、石田三成らが率いる西軍に与した 4 。これは、長年にわたり秀吉の子飼いの譜代家臣として仕えてきた彼の立場からすれば、豊臣家への忠誠を重んじるという大義名分の上で、ごく自然な選択であった 2 。具体的な行動としては、細川幽斎が籠城する丹後田辺城(舞鶴城)の攻略軍に参加している 4 。しかし、その一方で高政は東軍への内通も進めており、田辺城攻めの途中から寝返ったとされる 4 。この行動は、豊臣政権内部で深刻化していた武断派と文治派の対立や、家康の圧倒的な実力を冷静に見極めた上での、現実的な判断であった。
戦後、西軍に与した大名の多くが改易または減封という厳しい処分を受ける中、高政は改易を免れ、所領を安堵されるという破格の扱いを受けた 5 。この奇跡的な赦免の裏には、東軍の主力として活躍し、家康から絶大な信頼を得ていた藤堂高虎による強力なとりなしがあった 2 。前述の通り、高政と高虎の関係は、慶長の役後の蔚山城を巡る裁判で高虎が高政を弁護した時点(1599年)で既に強固なものとなっており、この人脈が彼の命運を分けたのである 2 。
高政の関ヶ原における一連の行動は、単なる日和見主義的な裏切りと断じることはできない。むしろそれは、「豊臣家への義理」と「自家の存続」という二つの相反する命題を両立させるための、藤堂高虎と連携した高度な政治的立ち回りの結果であった。高虎は、秀吉の弟・秀長に仕えた後、早くから家康に接近し、関ヶ原では諸大名の調略・内応工作を担う中心人物の一人であった 18 。彼と高政の間には、開戦前から密約が存在した可能性が極めて高い。すなわち、高虎は高政に対し、「表向きは西軍として参陣し、豊臣恩顧としての義理を果たせ。しかし、本戦での直接対決は避け、戦況を見て東軍に味方せよ。さすれば、私が責任を持って家康公にとりなし、家名を存続させる」という筋書きを提示したのではないか。高政はこの筋書きに乗り、直接本戦に参加するのではなく、丹後田辺城攻めという限定的な形で西軍に協力することで、豊臣家への体面を保ちつつ、東軍への内通という形で現実的な生存戦略を確保した。彼の生き残りは単なる幸運ではなく、重要な人脈を築き、それを活かしてリスクを分散させるという、彼の卓越した政治感覚と情報収集能力の賜物であった。彼は、忠義という「建前」と、家の存続という「本音」を両立させるという、乱世の指導者にとって最も困難な課題を見事に解決したのである。
関ヶ原の戦いを乗り越えた毛利高政は、戦国武将としての時代に終止符を打ち、近世大名として新たな道を歩み始める。その舞台となったのが、豊後国佐伯であった。
関ヶ原の戦いに先立ち、高政は朝鮮出兵での功績が認められ、慶長元年(1596年)頃に豊後国日田郡・玖珠郡において2万石を与えられ、隈城を居城としていた 1 。この時、彼は所領に加えて同地域の豊臣家直轄領(蔵入地)の代官も兼務しており、その実質的な支配規模は2万石を大きく上回っていた 2 。関ヶ原の戦後処理の結果、慶長6年(1601年)4月、彼は日田から豊後国海部郡佐伯2万石へ転封となった 1 。これにより、幕末まで続く佐伯藩毛利家が誕生したのである。
佐伯に入部した高政は、初代藩主として藩政の基礎固めに精力的に取り組んだ。
当初、高政は前領主である佐伯氏の山城・栂牟礼城に入ったが、この城が険峻すぎて平時の統治には不便であると判断した 23 。そこで慶長7年(1602年)、新たに八幡山(現在の城山)の山頂に佐伯城(鶴屋城)の築城を開始した 2 。築城工事は慶長11年(1606年)に概ね完成し、これと並行して城下町の整備も進められ、現在の佐伯市街地の基礎が築かれた 2 。
高政は、藩の財政基盤を固めるため、領内の検地や新田開発を断行した 26 。豊臣政権下で検地奉行を務めた彼の実務経験が、ここでも大いに活かされたと考えられる 13 。佐伯藩はリアス式海岸に面し、米作に大きく依存することが難しい地理的条件にあった。高政はこの地域の最大の強みが、豊後水道の豊かな漁業資源にあることを見抜いていた。当時の佐伯藩は「佐伯の殿様、浦でもつ」とまで言われるほど、漁業に支えられていたのである 28 。
ここで高政は、統治者としての非凡な先見性を示す。彼は、山林の乱伐が土壌の流出を招き、ひいては海の生態系を破壊して漁業資源の枯渇に繋がるという、自然界の連関を深く理解していた。そこで彼は、藩の権力をもって海岸近くの山林の伐採を規制する、日本では最初期にあたる「魚つき林」政策を導入した 30 。これは、森林の栄養分が川を通じて海に供給されることでプランクトンを育て、魚が集まる豊かな漁場を維持・育成することを目的としたものであった 28 。短期的な木材収入よりも、長期的かつ持続可能な漁業資源を優先するというこの政策は、極めて先進的な資源管理思想であり、彼の優れた経営能力の高さを示すものであった。
佐伯藩での一連の藩政は、高政が戦乱の世で培った実務能力(検地、普請など)と、新たな時代の統治者に求められる経営的視点(資源管理、経済振興)とを融合させた集大成であった。彼は、戦国武将としてのキャリアを過去のものとし、近世大名という新しい役割に完全に対応してみせたのである。
毛利高政は、優れた統治者であったと同時に、当代随一の専門技術者であり、教養豊かな文化人でもあった。その多面的な人物像は、彼が激動の時代を生き抜く上で大きな力となった。
高政の名を最も高らしめたのは、彼の卓越した砲術の技量であった。彼は紀州(現在の和歌山県)で津田流砲術を学んだ後、それを発展させ、特に大鉄砲の運用に特化した独自の流派「伊勢守流」を創始した 2 。この流派の名は、彼が後に叙された官名「伊勢守」に由来する 2 。
彼の砲術家としての名声は、数々の実績によって裏付けられている。大坂夏の陣の後、既に落城していた大坂城の天守閣に対し、見事に大筒を命中させたという逸話は、彼の技術力の高さを天下に示すとともに、徳川方への忠誠をアピールする絶好の機会となった 5 。その名声は全国に轟き、仙台藩二代藩主・伊達忠宗や伊予今治藩主・松平定房といった有力大名が、わざわざ高政に入門してその奥義を学んだほどであった 2 。大分県佐伯市の歴史資料館には、彼が用いたと伝わる大鉄砲「閻魔王」などが現存しており、その技術の一端を今に伝えている 25 。
高政は、天正14年(1586年)に洗礼を受けたキリシタン大名でもあった 2 。豊臣秀吉によるバテレン追放令や、江戸幕府による厳しい禁教政策の下で、多くのキリシタン大名が信仰を棄てて迫害者に転じるか、あるいは信仰を貫いて国外追放などの悲劇的な運命を辿った 34 。その中で高政は、積極的に領民を弾圧することはなく、表向きは幕府の方針に従いつつも、静かに信仰から離れていったとみられている 37 。この穏健で現実的な対応は、彼の性格をよく示している。
彼の正室は、木曾義昌の娘・昌子であった 2 。木曾義昌の正室は武田信玄の三女・真理姫であるため 38 、高政は婚姻を通じて信濃の名族・木曾氏、ひいては甲斐の名門・武田氏とも縁戚関係を結んでいたことになる。これは、彼の家格を高める上で重要な要素であった。家督は次男の高成が継いだが、その際には初代藩主の弟・吉安が異を唱えるなど、相続を巡る一悶着もあった 5 。
高政は武芸百般に通じるのみならず、琵琶の名手でもあったと伝えられており 2 、文武両道の教養を備えた人物であったことが窺える。また、聚楽第行幸の際に、秀吉の急な要求に応じて沿道に竹を飾って見せたという逸話は 2 、彼の機転の速さと美的センスを物語っている。
戦国時代が終わり泰平の世が訪れると、大名に求められる資質も変化した。高政は、砲術という最先端の軍事技術を最高レベルまで高め、それを他大名に伝授することで、自らを「教えを請うべき権威」として位置づけた。これにより、彼は2万石という石高以上の影響力と尊敬を勝ち得た。彼の「ブランド」は、領地の広さではなく、この他に替えの効かない専門知識にあったのである。砲術という合理的な「理」の世界に精通する一方で、キリスト教という「信」の世界、琵琶という「芸」の世界にも通じたこの多面性が、彼を単なる武人ではない奥行きのある人物として周囲に認識させ、藤堂高虎や毛利輝元といったキーパーソンとの良好な関係構築にも繋がったと考えられる。
毛利高政が、戦国から江戸初期にかけての激動の時代を乗り越え、藩祖として家名を確立できた要因は、以下の四点に集約される。
第一に、 多才な実務能力 である。彼は戦場での武功に加え、奉行職を的確にこなす行政能力、そして砲術や築城といった高度な専門技術を兼ね備えていた。
第二に、 卓越した人間関係構築能力 である。豊臣秀吉、毛利輝元、そして何よりも藤堂高虎といった、各時代の権力の中枢にいるキーパーソンと深い信頼関係を築き、それを自らの危機回避と地位向上のために最大限に活用した。
第三に、 時流を読む現実主義 である。豊臣家への忠義という「義」を重んじつつも、徳川の世という新しい時代の到来を冷静に見極め、自家の存続という「利」を確保するための現実的な判断を的確に下すことができた。
第四に、 統治者としての先見性 である。佐伯藩主として、地域の特性を活かした「魚つき林」のような長期的・持続可能な政策を打ち出すなど、近世の経営者として優れた感覚を持っていた。
毛利高政は、加藤清正や福島正則のように、派手な武勇伝で歴史に名を残すタイプの武将ではない。しかし、彼は時代の変化に柔軟に対応し、自らの持つ多様なスキルと人脈を駆使して、着実に地位を築き、幾度もの危機を乗り越えた、優れた「サバイバー(生存者)」であり、有能な「マネージャー(経営者)」であった。彼の生涯は、戦国乱世の終焉と近世幕藩体制の成立という、日本史の大きな転換点において、一個人がいかにして自らの家と運命を切り拓いていったかを示す、示唆に富んだ好例として再評価されるべきである。彼が築いた佐伯藩は、その後も幕末まで存続し、その功績の確かさを証明している。
代 |
藩主名 |
読み |
初代 |
毛利高政 |
もうり たかまさ |
2代 |
毛利高成 |
もうり たかなり |
3代 |
毛利高直 |
もうり たかなお |
4代 |
毛利高重 |
もうり たかしげ |
5代 |
毛利高久 |
もうり たかひさ |
6代 |
毛利高慶 |
もうり たかやす |
7代 |
毛利高丘 |
もうり たかおか |
8代 |
毛利高標 |
もうり たかすえ |
9代 |
毛利高誠 |
もうり たかのぶ |
10代 |
毛利高翰 |
もうり たかなか |
11代 |
毛利高泰 |
もうり たかやす |
12代 |
毛利高謙 |
もうり たかあき |
(出典: 14 )