本報告書は、戦国時代末期から江戸時代初期という、日本史の大きな転換点を生きた南部藩の武将、毛馬内政次(けまない まさつぐ)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。通称を権之助(ごんのすけ)と称した政次は、南部宗家の一族として、主君である南部信直・利直父子に忠誠を尽くし、盛岡藩の成立と安定に大きく貢献した人物である。しかし、その名は全国的には無名に近く、その生涯の詳細は断片的な記録の中に埋もれている 1 。本報告では、これらの記録を丹念に繋ぎ合わせ、彼の出自から家系の断絶に至るまでの軌跡を追い、その歴史的意義を再評価する。
本報告書の構成は以下の通りである。第一章では、政次の出自、すなわち毛馬内氏の創始と、南部宗家との血縁関係、そして彼の婚姻関係が持つ政治的意味を明らかにする。第二章では、南部家を揺るがした「九戸政実の乱」や、豊臣・徳川政権下での全国規模の戦役における政次の軍事行動と、その忠誠心を詳述する。第三章では、盛岡藩成立後の政次の役割、特に藩主の命による柏崎館の築城と、藩境防衛の重責を担った彼の立場を分析する。第四章では、政次から三代続いた本家の悲劇的な終焉と、その背景にある江戸幕府の武家統制策の影響を考察する。結論として、これらの分析を通じて、毛馬内政次という一人の武将の生涯から、戦国大名が近世大名へと変貌を遂げる過程で、家臣団が如何なる役割を果たし、また如何なる運命を辿ったのかを浮き彫りにする。
まず、政次の生涯を理解するため、関連する出来事を年表として以下に示す。
【表1:毛馬内政次 関連略年表】
西暦(和暦) |
主な出来事(南部家・日本全体) |
毛馬内政次および一族の動向 |
1521年(大永元年) |
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父・毛馬内秀範、誕生 2 。 |
1582年(天正10年) |
南部晴継が急死し、南部信直が家督を継承 3 。 |
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1585年(天正13年) |
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父・毛馬内秀範、死去(一説) 5 。 |
1591年(天正19年) |
九戸政実の乱。豊臣秀吉の奥州再仕置軍が鎮圧 6 。 |
政次、南部信直に従い九戸陣に従軍 5 。 |
1592年(文禄元年) |
文禄の役(朝鮮出兵)が始まる 3 。 |
政次、肥前名護屋城に従軍 5 。 |
1599年(慶長4年) |
南部信直が死去し、長男の利直が家督を継承 4 。 |
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1607年(慶長12年) |
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南部利直の命により、居城を柏崎館へ移転することが決定 9 。 |
1608年(慶長13年) |
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柏崎館へ移転完了 1 。 |
1614年(慶長19年) |
大坂冬の陣が勃発 8 。 |
政次、騎将として大坂冬の陣に出陣 5 。 |
1642年(寛永19年) |
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嫡男・政氏が死去。政次自身もこの年に死去したとされる 1 。 |
1643年(寛永20年) |
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孫・則氏、藩境警備のため太湯城へ移される 5 。 |
1657年(明暦3年) |
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孫・則氏が江戸で勤番中に18歳で早世。嗣子なく、政次の本家は無嗣断絶となる 5 。 |
毛馬内政次の生涯を理解する上で、まず彼の一族である毛馬内氏の成り立ちと、南部宗家におけるその位置付けを明らかにすることが不可欠である。毛馬内氏は、政次の父である毛馬内秀範(ひでのり)に始まる 2 。秀範は、南部氏から出羽国鹿角郡毛馬内(現在の秋田県鹿角市)に2,000石の知行を与えられ、その在名(居住地の名)を姓とした 2 。鹿角郡は、北に隣接する安東氏(後の秋田氏)との領地争いが絶えない最前線であり、南部氏にとって極めて重要な戦略拠点であった 5 。このような要衝に一族を配するということは、秀範が宗家から深く信頼されていたことを示唆している。
しかし、その秀範の出自については史料によって記述が異なり、一つの謎となっている。盛岡藩の公式な系図集である『参考諸家系図』や、それに類する『系胤譜考』では、秀範を南部家22代当主・南部政康の五男としている 2 。一方で、江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜集『寛政重修諸家譜』では、23代当主・南部安信の五男として記録されている 2 。
この系図上の混乱は、単なる記録の誤りとは考えにくい。むしろ、当時の南部宗家が直面していた深刻な家督相続問題の反映と見るべきであろう。政次の主君となる南部信直は、24代当主・晴政の養子となりながらも、後に晴政に実子・晴継が誕生するとその立場は微妙なものとなり、両者の間には確執が生まれた 13 。天正10年(1582年)、晴政が没し、その跡を継いだ晴継も同年中に急死するという異常事態が発生する。この後継者不在の危機に際し、信直は九戸政実ら有力な反対派を抑え、重臣の北信愛らの強力な支持を得てようやく家督を継承したのである 3 。信直自身の出自や家督相続の正統性には議論の余地があったため、近世盛岡藩が自らの正史を編纂する過程において、信直体制を支えた一族の系譜に、その正統性を補強するための整理や、場合によっては意図的な改変が加えられた可能性は否定できない 5 。秀範の系譜に見られる曖昧さは、まさにこの南部家が最も揺れ動いた時代の政治的複雑さを物語っている。
いずれの説を取るにせよ、秀範は信直の父である石川高信と兄弟の関係にあり、したがって政次は信直の従弟にあたる 1 。この極めて近い血縁関係こそが、政次が信直、そしてその子・利直の二代にわたって絶大な信頼を得るための、最も強固な基盤となったことは疑いようがない。
毛馬内政次の家族構成、とりわけその婚姻関係は、南部家における彼の政治的立場をより鮮明に描き出す。政次には弟・直次(なおつぐ)がおり、兄弟は共に信直・利直父子に仕えた 1 。後に詳述するが、政次の直系(本家)が断絶した際には、この弟・直次の家系が毛馬内家の名跡を継ぎ、盛岡藩士として家名を後世に伝えていくことになる 1 。
政次の室(正室)は、七戸氏の七戸隼人正直時(しちのへ はやとのしょう なおとき)の娘であったと記録されている 1 。この婚姻は、単なる一族間の縁組に留まらず、当時の南部家中の勢力図を読み解く上で極めて重要な意味を持つ。
天正19年(1591年)に勃発した「九戸政実の乱」は、南部家の存亡を揺るがす最大の内乱であった。この時、南部一族の有力者であった七戸氏の当主・七戸家国(いえくに)は、九戸政実に与し、信直に反旗を翻した 6 。しかし、豊臣政権の介入により乱は鎮圧され、家国は処断、旧来の七戸氏は事実上滅亡した 16 。乱の後、南部信直は、この断絶した名門・七戸氏の名跡を、自派の重臣である南直勝に継承させた。政次の舅にあたる七戸直時は、この信直によって新たに立てられた新生七戸氏の当主であった 18 。
この事実関係を紐解くと、政次の婚姻が持つ戦略的な意味が浮かび上がってくる。これは、単に有力な一門と縁を結んだという話ではない。南部家の分裂と存続の危機であった「九戸の乱」を乗り越えた後、信直政権の中核を担うことになった「信直派」の重臣たちが、その結束をさらに強固にするための政略結婚であったと考えられる。毛馬内氏も、そして信直によって再興された七戸氏も、共に信直の勝利によってその地位を確立し、安堵された、いわば運命共同体であった。この婚姻は、信直体制を盤石にするための、血の結束を象徴する出来事だったのである。
天正10年(1582年)の南部晴継の急死は、南部家に深刻な亀裂をもたらした。家督を巡り、晴政の娘婿である信直を推す勢力と、南部一族で最大の勢力を誇った九戸政実が推す彼の実弟・九戸実親を支持する勢力が激しく対立した 3 。重臣・北信愛らの画策により家督は信直が継承したものの、九戸政実との間の確執は残り、南部領内は一触即発の緊張状態が続いた。
この緊張は、天正19年(1591年)、ついに爆発する。豊臣秀吉による奥州仕置を背景に、自らの所領安堵に不満を抱いた九戸政実が、信直に対して公然と反旗を翻したのである 6 。この「九戸政実の乱」は、南部家を二分する大規模な内乱へと発展した。政次の本拠地である鹿角郡においても、大湯氏や大里氏といった在地領主が九戸方に与するなど、信直の支配基盤は決して盤石ではなかった 19 。
このような危機的状況下において、毛馬内政次は父・秀範と共に、一貫して主君・信直への忠誠を貫いた。父・秀範は、西から圧力をかける安東愛季の侵攻から鹿角郡を死守し、終始信直を支援したと記録されている 11 。政次もその遺志を継ぎ、信直が豊臣政権の奥州再仕置軍と合流して九戸城を攻めた際には、その軍勢に加わり「九戸陣」に参陣している 5 。
鹿角郡という、反信直勢力に与した国人が少なくない最前線において、信直への忠誠を貫き通したことは、極めて大きな政治的決断であった。これは単なる主従関係という言葉だけでは説明がつかない。信直の従弟という強固な血縁と、自らの家の存続を信直に託すという運命共同体としての強い連帯感に裏打ちされた行動であった。多くの者が日和見をするか、あるいは反旗を翻す中で示されたこの忠誠心こそが、政次が後の利直の代に至るまで、南部家中で揺るぎない信頼と地位を確保する決定的な要因となったのである。彼の忠誠は、逆風の中でこそ、その真価を最大限に発揮したと言える。
毛馬内政次の武功は、南部領内の戦いに留まらない。彼は、天下統一を進める中央政権が引き起こした全国規模の戦役にも、南部家の主要な武将として参陣している。
天正19年(1591年)の九戸の乱が平定された直後、豊臣秀吉は天下の諸大名に朝鮮への出兵を命じた。文禄元年(1592年)に始まったこの「文禄の役」において、南部家もその動員令に応じ、主君・信直は軍勢を率いて九州へ向かった 3 。この時、毛馬内政次も信直に従い、肥前国(現在の佐賀県)名護屋城まで従軍したことが記録されている 5 。これは、南部家が豊臣政権に服属する近世大名として公役を果たしていることを示すものであり、政次がその軍事行動の中核を担う重要な家臣であったことを物語っている。
時代は下り、天下の覇権が豊臣から徳川へと移った後も、政次の軍務は続いた。慶長十九年(1614年)、豊臣家を滅ぼすべく徳川家康が起こした「大坂冬の陣」に際し、盛岡藩主・南部利直も徳川方として出陣した。この時、政次は「騎将として出陣した」と史料に記されている 5 。この「騎将」という記述は、彼が単なる一兵卒ではなく、騎馬武者の一隊を率いる指揮官クラスの立場で参陣したことを強く示唆する。これは、藩主・南部利直からの軍事的な信頼がいかに厚かったかを証明するものである。
九戸政実の乱、文禄の役、そして大坂の陣という、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての三大軍役に全て参陣しているという事実は、政次がその生涯を通じて南部家の軍事的中核を担い続けたことを明確に示している。これらの参陣は、南部家が中央の覇者(豊臣、そして徳川)に対して忠実な大名であることを内外に示すための、極めて重要な政治的パフォーマンスであった。その重要な役割を、藩主の名代として、あるいは主要な指揮官として任されることは、藩内における彼の高い地位を不動のものとしたのである。
慶長4年(1599年)、南部家中興の祖と称される南部信直が死去し、その長男である利直が家督を継承した 4 。藩主が代替わりするこの時期は、家臣団の再編や権力闘争が起こりやすい不安定な時期であるが、毛馬内政次は変わらず重臣として新藩主・利直に忠誠を尽くした 1 。父・信直の代からの功臣であり、かつ藩主の従叔父(信直の従弟であるため、利直からは従叔父にあたる)という血縁者でもある政次は、若き新藩主・利直にとっても、最も頼れる重臣の一人であった。
利直の時代、南部家は関ヶ原の戦いにおいて東軍に与し、戦後に所領を安堵されたことで、10万石の近世大名としての地位を確立した 8 。利直は本拠地を三戸から移し、盛岡城の築城を開始するなど、盛岡藩の藩政確立に邁進する 8 。政次は、この藩体制が磐石なものとなっていく重要な過渡期を、藩主の側近くで支え続けた中心人物であった。
政次に対する藩主・利直の深い信頼を象徴する出来事が、慶長12年(1607年)の居城移転命令である。この年、領内を巡検していた利直は、政次の本拠地である鹿角郡毛馬内を訪れた。その際、利直は政次の居城であった毛馬内館(当麻館)の地勢に満足せず、自ら周辺の地形を検分し、より防衛に適した南方の柏崎の丘陵地を新たな城地として選定し、政次にそこへ館を移すよう命じたと伝えられている 9 。藩主自らが家臣の城の縄張り(設計)を行ったとされるこの逸話は、異例であり、この築城がいかに重要な意味を持っていたかを示している。政次はこの命令を忠実に実行し、翌慶長13年(1608年)には新たな居城である「柏崎館」へと移った 1 。
柏崎館が築かれた場所は、鹿角盆地を見下ろす丘陵の先端に位置し、西と南が急峻な崖に面した天然の要害であった 23 。城の構造は、本丸、二の丸、三の丸が連なる連郭式で、本丸の規模は東西約200メートル、南北約120メートルにも及んだ 23 。発掘調査や地名からは、大規模な土塁や深い堀を備えていたことも確認されており、単なる領主の居館ではなく、堅固な軍事拠点として設計されていたことがわかる 9 。
この藩主直々の命令による大規模な築城と移転は、単なる居城の変更という個人的な出来事ではなかった。その背後には、盛岡藩が抱える明確な戦略的意図が存在した。鹿角郡は、西に久保田藩(佐竹氏)と境を接しており、江戸時代初期を通じて両藩の間では藩境を巡る争論が絶えなかった 25 。毛馬内古館よりもさらに防衛能力の高い要害の地・柏崎に、最も信頼する一門の重臣である政次を配置すること。それは、利直による対秋田藩の藩境防衛体制を抜本的に強化するための、極めて重要な軍事・政治的配置であった。この移転により、政次は知行二千石の領主であると同時に、盛岡藩の西の国境を守る「藩屏(はんぺい)」、すなわち藩を守る防壁としての重責を公式に託されたのである。この事実は、政次が利直から寄せられていた信頼の厚さを何よりも雄弁に物語っている。彼の役割は、一地方領主から、藩全体の安全保障を担う戦略的な存在へと昇華したと言えよう。
毛馬内政次によって築かれた毛馬内家の本家は、三代にわたって南部藩の重臣としての地位を保った。政次の跡は、嫡男の政氏(まさうじ)が継承した 5 。政氏は、藩主一門である南部政直(利直の弟とされる)の娘を妻に迎えており、これにより毛馬内家と南部宗家との血縁関係はさらに強化され、その家格の高さが維持された 15 。
しかし、この政氏の代に悲劇が訪れる。史料には若干の混乱が見られるものの、『岩手県史』や『近世こもんじょ館』の記述などを総合すると、寛永十九年(1642年)、当主である政氏が47歳で死去し、奇しくもその父である政次も同年に没した可能性が高い 1 。政氏の跡は、その嫡子である靱負則氏(ゆきえ のりうじ)が、まだ幼少のうちに家督を相続することとなった 5 。
【表2:毛馬内氏(政次本家)略系図】
代 |
当主名(通称) |
備考 |
祖 |
毛馬内秀範(靭負佐) |
南部政康の五男(『参考諸家系図』説)。鹿角郡毛馬内を領し、毛馬内氏を称す。 |
初代 |
毛馬内政次(権之助) |
秀範の子。室は七戸直時(信直派の新生七戸氏)の娘。 |
二代 |
毛馬内政氏(左京) |
政次の嫡男。室は南部政直(藩主一門)の娘。寛永19年(1642年)没。 |
三代 |
毛馬内則氏(靱負) |
政氏の嫡男。明暦3年(1657年)に18歳で早世。嗣子なく、本家は無嗣断絶。 |
この系図は、毛馬内本家が二代にわたり南部家の最有力一門と姻戚関係を結ぶことで、その高い家格と政治的重要性を維持していたことを明確に示している。
幼くして家督を継いだ則氏であったが、毛馬内家が担う藩境防衛の重責は変わらなかった。寛永二十年(1643年)、久保田藩との藩境論争が再び緊迫する中、則氏は警備強化のため、後方の拠点である太湯城(おおゆじょう)へ移されている 5 。これは、幼い当主であっても、毛馬内家が依然として藩の防衛計画において重要な役割を担っていたことを示している。
しかし、則氏の運命は戦場ではなく、泰平の世の江戸で尽きることになる。則氏は、幕府が大名とその家臣に課した「江戸証人番」の役務のため江戸に勤番していた。この江戸詰めの最中、明暦三年(1657年)、則氏は18歳という若さで病死したと伝えられる 5 。彼にはまだ嗣子(跡継ぎ)がいなかった。
当時の武家社会では、大名の改易や減封を狙う幕府の方針もあり、当主の死に際して後継者がいない場合、その場しのぎの養子縁組(末期養子)は厳しく制限されていた。嗣子なき当主の死は、すなわち家の断絶を意味した。この厳格な法の下、毛馬内政次から三代続いた知行二千石の毛馬内本家は、則氏の夭折をもって取り潰しとなり、その家禄は藩に没収されたのである 5 。
毛馬内本家の断絶は、戦乱による敗北ではなく、江戸幕府が確立した泰平の世の統治システムによってもたらされたものであった。証人番制度は、諸大名とその有力家臣を人質同然に江戸に常駐させることで、謀反の意志を削ぎ、幕府への絶対的な忠誠を強制する制度である。則氏の江戸での客死は、この幕府の統制システムが、地方の有力家臣団の運命にまで直接的な影響を及ぼした象徴的な出来事であった。戦国の動乱を武功と忠誠で生き抜いた一族が、平和な時代の厳格な法と制度の下で、一人の若者の不運な早世によってあっけなくその歴史に幕を閉じたことは、時代の大きな価値観の変化を物語っている。
政次の直系である本家は悲劇的な終焉を迎えたが、毛馬内家の名跡そのものが南部藩から消えたわけではなかった。幸いにも、政次の弟である直次の家系が分家として存続しており、本家の断絶後も盛岡藩士として毛馬内家の名を後世に伝えた 1 。この分家は、本家から知行の一部(800石)を分与されて成立していた 15 。
この直次の系統からは、後に将軍徳川吉宗および家重に謁見(拝謁)する栄誉を得た毛馬内直道のような人物も輩出しており、藩内である程度の家格と地位を保ち続けたことが窺える 11 。政次が築いた忠勤と信頼の礎は、本家の断絶という悲劇を乗り越え、分家を通じて盛岡藩の歴史の中に受け継がれていったのである。
毛馬内政次は、南部氏が戦国大名から近世大名へと脱皮を遂げる、最も困難で重要な時期に、藩主を支え続けた比類なき忠臣であった。彼の生涯と一族の軌跡は、単なる一武将の伝記に留まらず、時代の転換期を生きた武家の姿を多角的に映し出している。
第一に、彼は**「忠節の武将」**であった。南部家が家督相続問題と九戸政実の乱という最大の内部危機に直面した際、多くの国人が離反・日和見する中で、一貫して主君・信直への忠誠を貫いた。この逆境における決断こそが、彼の評価を決定づけるものであり、二代にわたる藩主からの絶大な信頼の源泉となった。
第二に、彼は**「藩屏の重臣」**であった。その功績は戦場だけに留まらない。藩主・利直から直々に命じられ、対秋田藩の最前線である柏崎に新たな城を築き、藩境防衛の重責を担ったことは、彼が軍事的にも政治的にも藩の中核をなす存在であったことを示している。彼はまさに、盛岡藩の安寧を守る「藩屏(防壁)」そのものであった。
第三に、彼の家系の物語は**「時代の象徴」**である。政次の生涯は、戦国の動乱を武功と忠誠によって駆け抜けた武将の成功譚と言える。しかし、その直系の結末は、泰平の世がもたらした悲劇でもあった。武功によって築かれた家が、当主の早世という一個人の不運と、幕府の厳格な法制度によって断絶に至る様は、近世武家社会の栄光と無常を映し出す鏡像に他ならない。
毛馬内政次の物語は、歴史の表舞台に立つ華々しい英雄たちの影で、藩の礎を築き、支え、そして時代の波に翻弄された数多の武士たちの姿を我々に伝えている。彼の生涯を丹念に追うことは、一地方武将の記録を掘り起こすに留まらず、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムそのものを理解する上で、極めて貴重な示唆を与えてくれるのである。