最終更新日 2025-06-19

毛馬内秀範

奥羽の境界に生きた智将、毛馬内秀範の実像

序章:戦国期北奥羽の情勢と毛馬内氏

戦国時代の日本列島において、奥羽地方、特にその北部は中央の政治動向から隔絶された独自の権力闘争が繰り広げられていた。陸奥国北部から出羽国にかけての広大な領域は、三戸城を本拠とする南部氏と、出羽檜山城を拠点に勢力を拡大する安東(秋田)氏という二大勢力が直接的に国境を接する、地政学的に極めて緊張の高い地域であった。中でも、現在の秋田県北東部に位置する鹿角郡は、両勢力の利害が真正面から衝突する「草刈り場」と化しており、その領有権を巡る争いは永きにわたり繰り返されていた 1

鹿角郡の戦略的重要性は、単に軍事的な緩衝地帯であることに留まらない。この地は、太平洋側の三戸と日本海側の湊とを結ぶ交通の要衝であり、経済的にも文化交流の観点からも大きな価値を有していた 3 。この係争地を安定的に支配することは、北奥羽における覇権を確立する上で不可欠な要素であった。

このような状況下で、南部氏は広大な領国を維持・統治するため、一族の中でも特に信頼の置ける者を方面軍司令官として戦略的要地に配置する「支城体制」を構築していた 2 。津軽地方の抑えとして石川城に配された石川高信と並び、対安東氏の最前線である鹿角郡に送り込まれたのが、本稿の主題である毛馬内秀範(けまない ひでのり)である。彼がこの極めて重要な拠点に配置されたという事実そのものが、南部宗家から寄せられた期待と信頼の大きさを物語っている 2

本報告書は、この毛馬内秀範という一人の武将の生涯を、現存する史料を基に徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。彼の行動を理解するためには、単なる主家への忠誠という一面的な視点だけでなく、常に敵と国境を接する「境目の領主」としての自律性と、激動の時代を生き抜くための高度な生存戦略という複眼的な視点が不可欠である。謎に満ちた出自から、鹿角郡を巡る攻防戦での武功、そして敵将との「交流」に見られる智将としての一面までを丹念に追うことで、戦国期北奥羽の歴史に埋もれた一人の名将の姿を浮き彫りにする。

第一部:謎多き出自と毛馬内氏の創始

毛馬内秀範の生涯を考察する上で、まず直面するのがその出自に関する記録の混乱である。彼が南部一門の血を引くことは確かであるが、その父親が誰であるかについては、典拠となる史料によって記述が異なり、この謎は彼の人物像と南部氏内部の政治力学を理解する上で重要な鍵となる。

第一章:出自を巡る二つの系譜

毛馬内秀範の父親については、主に二つの説が存在し、それぞれが権威ある系図資料に基づいているため、単純な優劣をつけることは難しい。

説A:南部政康(22代当主)の五男とする説

この説は、『参考諸家系図』や『系胤譜考』といった史料に見られるもので、比較的古い時期の伝承を反映していると考えられる 5。この系譜に従うならば、秀範は南部氏23代当主・南部安信、そして後に南部氏中興の祖と称される南部信直の父である石川高信らと兄弟ということになる 4。つまり、24代当主・南部晴政から見れば叔父、信直から見れば直接の叔父という、極めて血縁の近い関係であったことになる。

説B:南部安信(23代当主)の五男とする説

一方、江戸時代中期に編纂され、幕府に公式に提出された『寛政重修諸家譜』では、秀範は23代当主・南部安信の五男とされている 5。この場合、秀範は南部晴政の弟となり、南部信直にとっては従叔父(いとこおじ)という、A説に比べると一段遠い血縁関係となる。

これら二つの説を比較整理すると、以下の表のようになる。

項目

説A

説B

父親とされる人物

南部政康(22代)

南部安信(23代)

典拠史料

『参考諸家系図』、『系胤譜考』 5

『寛政重修諸家譜』 5

秀範と南部信直の関係

叔父と甥

従叔父と従甥

特徴・備考

盛岡藩初期の伝承を反映している可能性が高い。

江戸幕府への公式記録。後世の政治的意図による改変の可能性が指摘される。

この系譜上の混乱は、単なる記録の誤りや記憶違いとして片付けるべきではない。むしろ、南部氏の家督継承を巡る深刻な内部対立と、その後の歴史編纂における政治的な作為が色濃く反映された結果と見るべきである。『近世こもんじょ館』の解説にもあるように、この問題は「中興の祖とされる信直の出自について晴政との続柄が確定しないなど、疑問が多いことに起因する問題」と深く関連している 7

南部信直は、伯父である南部晴政の養嗣子となったものの、晴政に実子・晴継が誕生すると疎まれ、その家督継承の過程は極めて不安定で、多くの血が流れるものであった 9 。信直が最終的に家督を掌握した後、彼の権威を正統化し、藩内の支配体制を盤石なものにするため、藩の公式史や系図に「整理」が加えられたことは十分に考えられる。特に、幕府へ提出する『寛政重修諸家譜』においては、信直の継承の正当性を強調し、晴政との対立の根深さを和らげるような記述がなされた可能性がある。信直の父・高信を晴政の弟ではなく叔父とする説(安信弟説)もこの流れと連動しており 4 、信直の血筋を宗家からわずかに遠ざけることで、かえって継承を巡る軋轢を穏便に見せる効果を狙ったのかもしれない。

逆に、より古い史料であるA説(政康の子)が事実であったと仮定すれば、秀範は信直の直接の叔父にあたる。信直の家督継承を強力に後押しした北信愛や八戸政栄ら一門衆と同様に 9 、秀範もまた信直にとって極めて重要な政治的・軍事的な後ろ盾であったことがより明確になる。本報告では、史料の成立時期を考慮し、A説(政康の子)を蓋然性の高いものとして以降の議論を進めるが、この出自の不確定性そのものが、秀範の置かれた立場の複雑さと、南部氏の歴史の暗部を象徴していると言えよう。

第二章:鹿角郡への入部と毛馬内氏の創始

出自の謎はあれど、秀範が南部一門の有力者として、対安東氏の最前線である鹿角郡に派遣されたことは疑いのない事実である。彼は南部宗家から鹿角郡毛馬内(けまない)に2,000石の知行を与えられ、この地の名を姓として「毛馬内靭負佐秀範(けまない ゆきえのすけ ひでのり)」を名乗ることになった 5 。これにより、南部氏の支流である毛馬内氏が創始されたのである 11

彼が当初居城としたのは、毛馬内館、または当麻館(とうまだて)とも呼ばれる城であった 10 。この地は、もともと鎌倉時代以来この地を治めていた成田氏などの国人領主の拠点であり、秀範の入部は、在地勢力を抑えて南部氏の直接支配を確立するという明確な意図を持ったものであった 13

秀範の鹿角入部時期については、ここでも諸説が存在する。『南部史要』などは大永四年(1524年)とするが 2 、『鹿角志』に所載されている「大円寺縁起」は天文五年(1536年)とし、「年二十九歳」であったと具体的な年齢まで記している 7 。しかし、秀範の生年を永正18年/大永元年(1521年)とすると 5 、大永四年の入部ではわずか3歳、天文五年では15歳前後となり、「二十九歳」という記述とはいずれも矛盾が生じる。これは生年、入部年、年齢のいずれかの伝承に誤りがあることを示唆しているが、南部氏が安東氏からの軍事的圧力を受けて鹿角の防衛体制を強化した天文年間(1532年-1555年)に、一門の重鎮として秀範が送り込まれたという大きな歴史的文脈は揺るがない。

毛馬内氏の居城は、秀範の時代から約70年後、大きな転機を迎える。秀範の嫡男・政次の代であった慶長12年(1607年)、あるいは13年(1608年)、領内を巡検した南部藩初代藩主・南部利直(信直の子)が、自ら周辺の地形を検分し、当麻館よりもさらに防御に優れた南方の丘陵地(柏崎)へ城を移すよう命じたのである 12 。これを受けて政次は「柏崎館」を新たに築城し、毛馬内氏の拠点を移した 15

この居城の移転は、単なる城の引っ越し以上の意味を持つ。秀範が拠った当麻館は、まさに戦国時代の「境目の城」であり、彼の半独立的な領主としての性格を象徴するものであった。それに対し、柏崎館への移転は、豊臣政権による奥州仕置や関ヶ原の戦いを経て、南部氏が近世大名「盛岡藩」としての支配体制を確立していく過程で起きた出来事である。藩主・利直が自ら場所を選定し、築城を命じたという事実は 12 、毛馬内氏がもはや自律的な判断で動く国境領主ではなく、藩主の厳格な統制下で藩全体の防衛構想に組み込まれた一重臣へと、その立場を明確に変化させたことを示している。秀範が創始した毛馬内氏は、その居城の変遷を通じて、戦国時代の国人領主から近世大名家の家臣へと、その性格を変容させていった。この城の移転は、北奥羽における戦国という時代の終焉と、近世的な支配秩序の確立を象徴する画期的な出来事であったと言えるだろう。

第二部:武人としての功績と智将としての側面

毛馬内秀範は、南部一門として対安東氏の最前線を任されたことからもわかるように、まずもって優れた武人であった。しかし、彼の真価は単なる武勇に留まらず、敵対勢力の内部事情を巧みに利用する智将としての一面にこそ見出される。

第一章:永禄の鹿角攻防戦

秀範の武人としての功績が最も顕著に現れたのが、永禄年間(1558年-1570年)に繰り広げられた安東愛季との鹿角郡を巡る一連の攻防戦である。出羽の戦国大名・安東愛季は、鹿角郡を父祖伝来の地としてその領有権を強く主張し、永禄7年(1564年)頃から執拗に南部領への侵攻を開始した 1

愛季の侵攻は軍事力のみならず、巧みな調略を伴うものであった。永禄8年(1565年)には、鹿角郡内にいた南部方の国人である大湯昌俊や大里豊前を味方に引き入れることに成功する 1 。大湯と大里は毛馬内城の南北に位置しており、この調略によって秀範は敵中に孤立し、南北から挟撃されるという絶体絶命の危機に陥った。

しかし、秀範はこの窮地にあっても冷静に防衛戦を展開し、安東軍による最初の猛攻を見事に撃退した 1 。彼の奮戦により、南部宗家は体勢を立て直す時間を稼ぐことができた。危機を知った南部晴政は、石川高信の子であり、後に南部家を継ぐことになる田子信直(南部信直)を総大将とする援軍を鹿角に派遣した 1 。秀範は信直率いる本隊と緊密に連携し、その後も幾度となく繰り返される安東軍の攻撃を退け、ついに鹿角郡を死守することに成功したのである 1

この永禄の鹿角攻防戦は、南部氏にとって鹿角郡の支配を確定させる上で決定的な意味を持つ戦いであった。そして、この戦いにおける秀範の目覚ましい武功は、若き日の南部信直に強烈な印象を与え、後の世まで続く信直からの厚い信頼を勝ち取る盤石な礎となったのである。

第二章:智将としての側面―外交と「内通」の真相

毛馬内秀範の人物像を複雑かつ魅力的なものにしているのは、彼が宿敵であるはずの安東愛季と「交流を持っていた」という記録の存在である 5 。さらに『鹿角人物事典』においては、彼を「安東愛季に内通した智略家」と、より踏み込んだ評価がなされている 3 。この「内通」という言葉は、一見すると主家南部氏への裏切りを想起させるが、当時の北奥羽の複雑な政治力学の中に置いて彼の行動を再検討すると、全く異なる側面が浮かび上がってくる。

秀範の行動を「裏切り」と断じるのは、あまりに短絡的である。彼の置かれた立場と、彼が駆使したであろう戦略を深く考察すると、その行動は国境領主としての生存を賭けた、極めて高度な外交戦略であった可能性が高い。

第一に、秀範は常に戦争の最前線に立つ国境領主であった。彼の第一の責務は、南部家への忠誠は当然のこととして、自らが預かる領地と民、そして毛馬内一族の安寧を守り、存続させることにあった。そのためには、純粋な軍事力だけでなく、情報戦や外交交渉を含むあらゆる手段を駆使する必要があった。

第二に、彼が対峙した「安東氏」は一枚岩の勢力ではなかった。当時の安東氏は、本家筋にあたる檜山城の檜山安東家(当主・安東愛季)と、分家筋である湊城の湊安東家(当主・安東茂季など)との間で、深刻な内紛、いわゆる「湊騒動」を長年にわたり抱えていた 17 。両家は時に激しく対立し、互いの勢力を削ぎあっていたのである。

ここで、ユーザー提供情報にあった「湊騒動では、檜山安東家に協力」という伝承が決定的な意味を持つ。秀範が接触し、「交流」を持ったのは、敵である「安東氏」全体ではなく、その内部の一派閥、すなわち安東愛季が率いる檜山安東家であったと考えられる。湊安東家は、時に南部氏や他の国人と結んで檜山安東家に対抗することもあったため 19 、その関係は非常に流動的であった。秀範の行動は、この敵の内部対立に巧みに介入し、「敵の敵は味方」の論理を応用したものであったと推察される。すなわち、安東氏の宗家である檜山安東家に協力、あるいは情報交換を行うことで、分家である湊安東家を牽制し、結果として安東氏全体の力を削ぎ、南部領への圧力を減らすことを目的とした、高度な地政学的戦略だったのである。

この戦略は、南部氏全体の利益にも完全に合致する。したがって、後世に「内通」と記録された彼の行動の実態は、主家への裏切りなどではなく、国境領主としての裁量権を最大限に活用した巧みな外交交渉であった可能性が極めて高い。彼は南部氏の忠実な家臣でありながら、同時に自らの判断で外交を展開できる独立性を備えた、まさに「智略家」であった。その冷静な現実主義と戦略眼こそが、毛馬内秀範を単なる武人ではない、戦国期北奥羽を代表する名将の一人たらしめているのである。

第三部:一族の行く末と後世への遺産

毛馬内秀範の功績は彼一代に留まらず、その子孫へと受け継がれ、毛馬内氏は盛岡藩において重要な地位を占めることとなる。秀範が築いた礎の上に、一族は激動の時代を生き抜き、その名を後世に伝えた。

第一章:秀範亡き後の毛馬内家

毛馬内秀範は、天正13年(1585年)に65歳でその生涯を閉じた 5 。その墓所は南部家の菩提寺である三戸の聖寿寺にあるとされ、彼が南部一門としていかに高い格式で遇されていたかを物語っている 5 。彼の死後、毛馬内家の家督と遺志は二人の息子によって引き継がれた。

嫡男・毛馬内政次(まさつぐ)

通称を権之助といい、父・秀範の跡を継いで毛馬内城主となり、2,000石の知行を相続した 7。彼は父に劣らぬ武人であり、南部信直・利直父子に仕え、盛岡藩初期の主要な戦役で活躍した。天正19年(1591年)の九戸政実の乱、文禄元年(1592年)に豊臣秀吉の命により行われた肥前名護屋への出兵、そして慶長19年(1614年)の大坂冬の陣にも騎将として参陣している 7。また、前述の通り、藩主・利直の直接の命を受けて柏崎館を築城したのもこの政次であり、藩の防衛体制構築において重要な役割を担った 15。

次男・毛馬内直次(なおつぐ)

通称を九左衛門、あるいは三左衛門といい、兄・政次とは別に分家を立てた 22。当初200石を与えられたが、数々の功績によって加増を重ね、最終的には800石を知行する大身となった 21。彼は兄と同様に九戸の乱や名護屋出兵、大坂の陣に参加したほか、慶長6年(1601年)の岩崎一揆鎮圧では武者奉行として軍功を挙げている。その才覚は軍事面に留まらず、遠野郡代や藩の家老職を歴任するなど、藩政の中枢で重きをなした 22。

毛馬内氏の宗家、すなわち政次の家系(本家)は、政次の孫である則氏が明暦3年(1657年)に嗣子なく18歳で早世したため、残念ながら断絶してしまう 7 。しかし、次男・直次の家系は分家としてその後も存続し、盛岡藩の家老職を輩出するなど、藩内で名家としての地位を保ち続けた。江戸時代中期には、直次の子孫である毛馬内直道が将軍徳川吉宗・家重に謁見を許されるなど、その家名は幕末まで続いた 7

第二章:歴史的評価

毛馬内秀範の生涯を総括すると、彼は単に主命に忠実なだけの武将ではなかったことが明らかになる。彼は南部一門としての強い自負と責任感を持ちながらも、国境地帯の厳しい現実を生き抜くために、軍事、外交、調略の全てを駆使する冷徹なリアリストであった。その生涯は、主家への忠誠と、自領の安寧・存続という二つの要請の間で常に緊張を強いられながらも、巧みなバランス感覚で立ち回った戦国時代の「境目の領主」の典型的な姿を示している。

南部氏の歴史全体から見ても、秀範の果たした役割は極めて大きい。軍事的には、執拗な安東氏の侵攻から戦略的要衝である鹿角郡を死守し、南部氏の版図を確定させた最大の功労者の一人である。政治的には、その智略と外交手腕によって敵対勢力の内部対立を巧みに利用し、南部氏の安定に間接的ながら多大な貢献をした。そして、彼が創始した毛馬内氏は、本家こそ断絶したものの、分家が江戸時代を通じて盛岡藩の重臣家として存続し、南部家中に確固たる地位を築いた。これもまた、初代当主である秀範が築き上げた功績と信頼の賜物と言えるだろう。

結論として、毛馬内秀範は、勇猛果敢な「武人」の顔と、冷静沈着な「智将」の顔を併せ持つ、戦国時代の北奥羽が生んだ稀有な名将として再評価されるべきである。彼の武功と智略なくして、南部信直による領国統一と、その後の盛岡藩の安定は、より困難な道を辿ったに違いない。彼の名は、華々しい表舞台の武将たちの影に隠れがちであるが、北奥羽の歴史を語る上で決して忘れてはならない重要な存在である。

引用文献

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