最終更新日 2025-06-10

氏家行広

「氏家行広」の画像

氏家行広についての調査報告

一、はじめに

本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、氏家行広(うじいえ ゆきひろ)の生涯と事績について、現存する史料に基づき詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とする。氏家行広は、美濃の有力国人であった氏家氏に生まれ、織田信長、豊臣秀吉に仕え、伊勢桑名城主となった人物である。関ヶ原の戦いでは西軍に与して敗れ、改易の憂き目に遭うも、大坂の陣では豊臣方として奮戦し、その最期を遂げた。本報告書では、彼の出自から最期に至るまでの軌跡を追い、その人物像と歴史的評価について考察を加える。

以下に、氏家行広の生涯を概観するための略年表を掲げる。

表1: 氏家行広 略年表

年号

西暦

出来事

備考

天文15年

1546年

氏家卜全(直元)の子として美濃国に生まれると推定される 1

元亀2年

1571年

父・卜全が伊勢長島攻めで戦死 2 。兄・直昌が家督を継承。

天正11年

1583年

兄・直昌の病死(時期は前後する可能性あり)により家督を相続。美濃国三塚1万5千石を領す 4

羽柴秀吉に仕える。

天正16年

1588年

従五位下・内膳正に叙任される 4

天正18年

1590年

小田原征伐に従軍。戦功により伊勢国桑名2万2千石(または3万石)に加増移封 1

文禄元年

1592年

文禄の役に従軍。朝鮮へ渡海したとされる 7

慶長5年

1600年

関ヶ原の戦い。西軍に与し、伊勢路を防衛するも敗北。戦後、改易され浪人となる 1

当初は中立を試みる。

慶長19年

1614年

大坂冬の陣。荻野道喜と変名し、大坂城に入り豊臣方に加わる 5

徳川家康からの10万石での誘いを断る 1

慶長20年

1615年

大坂夏の陣。大坂城落城に際し、豊臣秀頼に殉じて自刃。享年70 1

元和元年

1615年

子の左近、内記、八丸が京都で捕らえられ自刃。三男のみ天海の弟子となり助命 5

二、氏家行広の出自と家系

氏家行広の生涯を理解する上で、まず彼が属した氏家氏の背景と、父・氏家卜全の存在について触れる必要がある。

美濃における氏家氏の淵源

氏家氏は、下野国の名族である宇都宮氏の庶流を称する家系である 5 。戦国時代には美濃国に根を下ろし、数代にわたって土着の国人領主として勢力を有していた。美濃守護であった土岐氏に仕え、その後、土岐氏に取って代わった斎藤氏の家臣となった 8 。氏家氏に関する古文書は、他の西美濃三人衆の家に比べて現存するものが少ないとされているが 8 、美濃における有力な武家の一つであったことは間違いない。

父・氏家卜全(直元) – 西美濃三人衆として

行広の父は、氏家直元、出家後は卜全(ぼくぜん)と号した人物である 1 。卜全は、同じく美濃の国人領主であった稲葉良通(一鉄)、安藤守就と共に「西美濃三人衆」と並び称された実力者であった 2 。この三人衆は、単に斎藤氏の家臣というだけでなく、西濃地方において共同で独立的な勢力を形成していたとも言われる 8 。中でも氏家卜全は、三人衆の中で最も有力であったとの評価もある 2

卜全は当初、土岐頼芸に仕えていたが、斎藤道三が天文11年(1542年)頃に美濃国を掌握すると、道三の家臣となった 3 。道三の死後、その子・義龍、さらに孫・龍興に仕えた。しかし、永禄10年(1567年)、織田信長が美濃攻略(稲葉山城攻め)を開始すると、卜全は稲葉一鉄、安藤守就と共に信長に内応し、斎藤龍興の滅亡を決定づける役割を果たした 2 。この背景には、斎藤龍興が一部の側近のみを寵愛し、三人衆を疎んじたため、彼らが龍興を見限ったという事情があったとされる 13 。主家を裏切るという大きな決断ではあったが、これは戦国乱世において家名を保ち、さらなる発展を期すための現実的な選択であったと言えよう。

信長に仕えた卜全は、各地の戦いに従軍し、元亀2年(1571年)、伊勢長島一向一揆との戦いにおいて、織田軍撤退の際に殿(しんがり)を務め、奮戦の末に戦死した 2 。この父・卜全の、時勢を見極めて主家を変えるという行動様式は、後の行広の人生にも影響を与えた可能性が考えられる。また、「西美濃三人衆」という有力な家柄の出身であることは、行広が武将としてキャリアを築く上で、無視できない基盤となったであろう。父の功績や築き上げた人脈は、行広が織田家、そして豊臣家で重用される一因となったと推察される。

三、織田信長・豊臣秀吉への仕官と伊勢桑名城主へ

父・卜全の死後、氏家家の家督と行広のキャリアは、戦国末期の激動の中で大きく揺れ動くことになる。

家督相続の経緯

元亀2年(1571年)に父・氏家卜全が戦死した後、家督は行広の兄である氏家直昌(あるいは直道とも)が継承し、引き続き織田信長に仕えた 5 。しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変により信長が横死すると、織田家内部は後継者争いと勢力再編の渦に巻き込まれる。氏家氏は当初、信長の三男・織田信孝に属した 1

しかし、信孝が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立するようになると、氏家氏は秀吉方に味方する。この時期に兄・直昌が病死したとされ、天正11年(1583年)、行広が家督を継承し、美濃国三塚(現在の岐阜県各務原市周辺か)において1万5千石の所領を与えられた 4 。本能寺の変後の混乱期において、より有力な勢力である秀吉に鞍替えしたこの判断は、父・卜全が斎藤氏から織田信長へ内通した戦略的判断と軌を一にするものであり、戦国武家としての生存戦略の一環と理解できる。時流を的確に読み、家名を存続させようとする現実的な判断力が働いた結果であろう。

豊臣秀吉政権下での活動

豊臣秀吉の家臣となった氏家行広は、その政権下で着実に地位を向上させていく。天正16年(1588年)には、従五位下・内膳正(ないぜんのかみ)に叙任された 4 。これは、秀吉政権における彼の立場が公的に認められたことを意味する。

その後も行広は、秀吉が推し進める天下統一事業において軍功を重ねる。特に天正18年(1590年)の小田原征伐では、戦功を挙げたと記録されている 5 。この小田原征伐後、行広は伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)2万2千石に加増移封された 1 。一部資料では3万石ともされる 6 。美濃の一国人の子から、伊勢桑名の大名へと昇進したことは、行広自身の武将としての能力に加え、秀吉からの信頼を得ていたことを物語る。

さらに、文禄元年(1592年)から始まった文禄の役(朝鮮出兵)にも参陣している。具体的な戦功に関する詳細な記述は少ないものの、石田三成や増田長盛らと共に、作戦立案等に関わる参謀のような立場で朝鮮半島へ渡海したとされている 7 。また、豊臣秀吉の直臣として、加藤清正の配下として参戦した可能性も示唆されている 14 。これらの活動は、行広が単なる武勇に優れた武将であるだけでなく、戦略的な思考や政務能力も有していたことをうかがわせる。そうでなければ、秀吉が彼を重要な戦役に加えたり、石高を加増したりすることはなかったであろう。

以下に、氏家行広の知行地の変遷をまとめる。

表2: 氏家行広 知行地の変遷

時期

国・地域

城・所領

石高

備考

天正11年(1583年)頃

美濃国

三塚

1万5千石

家督相続時 4

天正18年(1590年)

伊勢国

桑名

2万2千石

小田原征伐後 1

(3万石説あり)

6

この知行地の変遷は、行広の豊臣政権内における地位の上昇を明確に示している。美濃から伊勢への移封は、彼のキャリアにおける重要な転換点であり、東海道の要衝である桑名を任されたことは、秀吉の彼に対する信頼の厚さを物語っている。

四、関ヶ原の戦いと氏家行広

豊臣秀吉の死後、天下の情勢は再び大きく動き出す。慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、氏家行広の運命を大きく左右することになる。

開戦に至る経緯と行広の立場

秀吉死後、五大老筆頭の徳川家康が影響力を強める中、これに反発する石田三成らとの対立が先鋭化する。慶長5年、家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の軍を起こすと、氏家行広も多くの豊臣恩顧の大名と同様に、家康軍に合流するため東へ向かった 5

しかし、その道中、石田三成らが家康に対して挙兵したとの報に接する。この報を受けた行広は、家康に断りを入れた上で、急ぎ本領である伊勢桑名へ帰還した 5 。当初、行広は豊臣秀頼がまだ幼少であることを理由に、家康方(東軍)、三成方(西軍)のいずれにも与せず、中立の立場を取ろうとしたとされている 5 。これは、豊臣家への恩義と、強大な実力を持つ家康との間で板挟みとなり、自領と家名を保とうとした苦渋の選択であったと考えられる。

ところが、桑名をはじめとする伊勢国は、東国と西国を結ぶ戦略的要衝であり、東西両軍にとって極めて重要な地域であった。西軍の勢力が桑名周辺に及んでくると、行広は中立の立場を維持することが困難となる。結局、弟である氏家行継(当時、近江国内に1万5千石を領有 6 )と共に、やむなく西軍に与し、伊勢路の防衛を担当することになった 1 。伊勢という地理的条件、そして弟も西軍に与したという状況が、彼に西軍参加を決断させた大きな要因であったろう。この決断は、彼の主体的な選択というよりも、避けられない状況に流された側面も否定できない。

桑名城を中心とした伊勢路での攻防

西軍に属した氏家行広は、居城である桑名城に拠り、同じく西軍に与した伊勢神戸城主・滝川雄利や亀山城主・岡本宗憲(資料により岡本良勝、重政とも 6 )らと連携し、東軍の進攻に備えた 1

関ヶ原の本戦に先立ち、伊勢方面でも戦闘が開始される。桑名城主の氏家行広は、東軍に属した長島城主・福島正頼(福島正則の弟)と合戦を繰り広げたと記録されている 17 。伊勢路の防衛は西軍にとって重要な任務であり、行広はその最前線に立つこととなった。

しかし、慶長5年9月15日、関ヶ原の本戦において西軍は東軍に大敗を喫する。この本戦での敗北の報は、各地で戦っていた西軍諸将の士気を著しく低下させた。関ヶ原での西軍敗北後、東軍方の山岡道阿弥(景友)、九鬼守隆、池田長幸(当時は長吉か)、寺沢正成(広高)らが桑名城に来襲し、攻撃を開始した 17 。衆寡敵せず、また本戦での大勢が決した状況下で、行広はこれ以上の抵抗は無益と判断し、降伏。桑名城は開城した 17

敗戦と改易

関ヶ原の戦いで西軍の主要な大名として伊勢路の防衛を担い、実際に東軍と干戈を交えた以上、戦後の処置は厳しいものとならざるを得なかった。戦後処理において、氏家行広は徳川家康の命により改易され、桑名2万2千石(または3万石)の所領は没収された 1 。これにより、行広は全ての所領と大名としての地位を失い、浪人としての生活を余儀なくされることとなった。この失意と困窮の経験が、後の大坂の陣における彼の行動、すなわち豊臣家への純粋な忠義に基づく参陣へと繋がった可能性は高い。失うものが何もなくなったからこそ、彼は自らの信じる義を貫く道を選んだのかもしれない。

五、大坂の陣と最期

関ヶ原の戦いで全てを失った氏家行広であったが、彼の武将としての人生はまだ終わらなかった。豊臣家の存亡をかけた最後の大戦、大坂の陣において、彼は再び歴史の表舞台に登場する。

豊臣方への参加と「荻野道喜」

慶長19年(1614年)、豊臣秀頼と徳川家康の対立が頂点に達し、大坂冬の陣が勃発する。この時、氏家行広は「荻野道喜(おぎの どうき)」という変名を用いて大坂城に入城し、豊臣方に与して戦った 5

この「荻野道喜」という変名を用いた理由は、徳川方の監視の目を逃れるためであったとも考えられる。また、「道喜」という名は、彼の法名であった可能性が指摘されている 1 。もしそうであれば、関ヶ原の戦いの後に一度出家し、世俗を離れていた身であったことを示唆する。そのような人物が再び武器を取り、滅亡の危機に瀕した豊臣家のために馳せ参じたという事実は、彼の豊臣家への並々ならぬ恩義と忠誠心の深さを物語っている。一度は俗世を捨てた身として、純粋に豊臣家への恩に報いようとした心情がそこにはあったのかもしれない。

徳川家康からの誘い

大坂の陣において、徳川家康は氏家行広の器量を高く評価し、彼を味方に引き入れようと試みた。伝えられるところによれば、家康は行広に対し、10万石という破格の条件を提示して仕官を呼びかけたという 1

かつて敵対し、自らを改易した相手である家康からのこの申し出は、行広の武将としての能力がいかに優れていたかを如実に示している。しかし、行広はこの家康の誘いを毅然として断った。この行動は、彼が単に時流に乗って有利な側に付こうとする武将ではなく、義理や恩義、そして忠誠を何よりも重んじる人物であったことを強く印象づける。関ヶ原での敗北とそれに続く浪人生活を経て、彼の価値観はより純化され、損得勘定を超えた豊臣家への忠義を貫くことを選んだのであろう。あるいは、一度裏切った(と見なされる可能性のある)家康に仕えることへの武士としての矜持が許さなかったのかもしれない。

大坂夏の陣と壮絶な自刃

慶長19年(1614年)の冬の陣は和議によって一旦終結するが、翌慶長20年(1615年)には再び戦端が開かれ、大坂夏の陣が勃発する。豊臣方の諸将は奮戦するも、徳川方の圧倒的な兵力の前に次々と打ち破られ、大坂城はついに落城の時を迎える。

氏家行広は、この大坂城落城の際に、豊臣秀頼に殉じて自刃を遂げたと伝えられている 1 。時に慶長20年5月8日、享年70であった 1 。70歳という高齢でありながら、最後まで豊臣家と運命を共にし、武士としての名誉ある最期を選んだその姿は、彼の固い意志と豊臣家への忠誠を貫き通した生き様を象徴している。

子孫の運命

氏家行広の殉死は、彼の直系の子孫にも過酷な運命をもたらした。行広には4人の男子がいたとされる 5 。長男・左近、次男・内記、そして四男・八丸(名前不詳とも)の3人は、大坂城落城後、京の都へ逃れた。しかし、彼らは京都所司代の配下に捕らえられ、同年7月、京都の妙覚寺において自刃に追い込まれた 5

一方、三男(名前不詳)のみは、当時絶大な影響力を有していた天台宗の僧侶、南光坊天海の弟子となっていたため、助命されたと伝えられている 5 。天海は徳川家康の側近中の側近であり、その庇護があったために死を免れたと考えられる。行広の殉死と息子たちの自刃により、彼の直系は事実上断絶に近い状態となったが、仏門に入った三男によって辛うじて血脈が繋がったことは、戦国敗者の厳しい現実と、宗教的権威の下で命脈を保つという一つの様相を示している。

興味深いことに、行広の弟である氏家行継の家系は、異なる運命を辿った。行継も関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易されたが、後に許され、6千石の旗本として徳川家に仕え、家名を存続させたとされる 14 。兄・行広の家系が悲劇的な結末を迎えたのに対し、弟の家系が旗本として続いたことは、同じ氏家一族内でも関ヶ原の戦い後の対応や、その後の大坂の陣への関与の有無によって運命が大きく分かれたことを示しており、戦国末期から江戸初期にかけての武家の処世術や、徳川政権による個別の対応のあり方を示す一例と言えるだろう。

六、氏家行広の人物像と評価

氏家行広の生涯を追う中で、彼の人物像と歴史的評価について考察を深めたい。

諸史料から伺える性格と能力

氏家行広は、敵将であった徳川家康からもその器量を惜しまれ、10万石という高禄で誘われたほどの武将であった 1 。この事実は、彼が単に勇猛なだけでなく、軍勢を率いる統率力や戦況を判断する戦略眼をも兼ね備えていたことを示唆している。

また、豊臣家への忠義を最後まで貫いたその生き様は、彼が義理堅く、恩義を重んじる人物であったことを物語る。関ヶ原の戦いにおいて、当初中立を試みたことは、必ずしも猪突猛進型の武将ではなく、状況を冷静に分析し、現実的な判断を下そうとする側面も持ち合わせていたことを示している。しかし、一度信義を捧げた豊臣家に対しては、たとえそれが滅びゆく運命にあったとしても、最後まで忠誠を尽くすという、戦国武将としての美学を貫いた。

歴史的評価

氏家行広は、豊臣恩顧の大名の一人として、豊臣家の滅亡に殉じた悲劇の武将として記憶される。父・氏家卜全が「西美濃三人衆」の一角として戦国史に名を残し、その武勇や戦略眼が高く評価されているのに対し、行広自身の知名度は父ほどではないかもしれない。しかし、彼の生涯は、戦国乱世の終焉と泰平の世への移行という激動の時代を生きた一人の武将が、いかに自らの信じる「義」と向き合い、それを貫こうとしたかを示す貴重な事例である。

父・卜全は斎藤氏から織田氏へ、そして行広自身も初期には織田信孝から豊臣秀吉へと、より有力な主君へと帰属を変えている。これは戦国時代においては、家の存続と発展のための合理的な選択であり、必ずしも不忠とは言えない。しかし、一度豊臣秀吉に仕えて以降、特に秀吉の死後は、行広の豊臣家に対する忠誠心は際立っているように見える。関ヶ原での苦渋の選択を経て、最終的に大坂の陣で豊臣家に殉じたその行動は、秀吉個人から受けた恩義が、豊臣「家」そのものへの揺るぎない忠誠へと昇華した結果と解釈できる。あるいは、徳川家康によって築かれようとしていた新たな支配体制に対する、旧恩に生きる武士としての矜持の現れであったのかもしれない。

七、おわりに

氏家行広の生涯は、天文15年(1546年)の生誕から慶長20年(1615年)の自刃に至るまで、まさに戦国乱世の終焉と江戸幕府による泰平の世の到来という、日本史における一大転換期と重なっている。美濃の有力国人の子として生まれ、父祖伝来の武勇と、時勢を読む戦略眼をもって織田信長、豊臣秀吉に仕え、伊勢桑名に2万石を超える大名にまでなった。

しかし、関ヶ原の戦いでの西軍への参加は、彼の運命を暗転させる。改易され浪人となった後も、豊臣家への恩義を忘れることなく、大坂の陣では老齢にもかかわらず馳せ参じ、徳川家康からの破格の誘いを蹴って最後まで豊臣方として戦い抜き、大坂城と運命を共にした。その生き様は、戦国乱世から泰平の世へと移行する時代の大きな波に翻弄されつつも、自らの信じる「義」に殉じた武将の姿を我々に示している。

氏家行広の墓所や供養塔に関する具体的な情報は、今回の調査で参照した資料からは残念ながら明確には確認できなかった 18 。大坂の陣で豊臣方に与して戦死した多くの武将たちと同様に、その最期の地や埋葬場所については、必ずしも明らかになっていない場合が多い。

氏家行広は、大坂の陣で華々しい活躍が伝えられる真田信繁(幸村)や後藤基次(又兵衛)といった武将たちほどには、その名が広く知られているわけではないかもしれない。しかし、徳川家康からの誘いを断り、70歳という高齢で豊臣家に殉じた彼の忠義と生き様は、戦国武将の多様なあり方と、時代の変革期における個人の選択の重さを我々に教えてくれる。彼の存在は、勝者だけでなく敗者の視点からも歴史を見つめ直すことの重要性を示唆しており、豊臣恩顧の大名たちの様々な運命と、武士の忠義のあり方を考える上で、再評価されるべき人物の一人と言えるであろう。

引用文献

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